夢の魚 2 - 4
(2)
それ以外はどうなんだろう?
思えば、囲碁を抜きにして進藤と会うのは、これが初めての経験だった。
何度か、進藤の学校まで会いに行ったこともあるけれど、それはやっぱり囲碁がらみの用件だった。
そう思うと、僕は改めて緊張を覚えた。
純粋にプライベートで進藤と会うのはこれが初めてなんだ。
「でも、お友達と出かけるっていうのは良い事だわ。
アキラさんはせっかくのお休みも家で碁盤に向かっているか、研究会に行くぐらいですものね。
たまには高校生らしく、遊びに行くのも大切なことだわ。
お夕食はどうするの?」
「あ、どうするんだろう。後で電話します」
「わかったわ、楽しんでいらっしゃいね」
待ち合わせは飯田橋の改札。
僕は約束の時間より少し早めに到着したのに、進藤はもうきていた。
「よお」
軽く手を上げて笑いかけてくる。
僕は足を速めた。
「待たせたかな?」
「まだ約束の時間にもなってないよ」
朗らかにそう言う進藤は、棋院で見るのとは少し雰囲気が違う。
いつもの張り詰めた空気がない。
穏やか…違う。なんだか、日向でまどろむ猫のような、リラックスした感じだ。
僕は少しだけ懐かしく思った。
初めて会った頃の、彼の姿が思い出される。
同じ6年生じゃないかと、互い戦を申しこんできたときの、あの屈託のない無邪気な進藤をだ。
僕は、彼の素顔を垣間見たようで、余計に嬉しく感じた。
(3)
「誕生日、おめでとう」
僕がそう言うと、進藤は笑顔でありがとうと言ってくれた。
「あの、これ」
僕は、デイバックの中から箱を取り出した。
「えぇ?」
進藤が少し大袈裟なぐらいに驚いて見せたことに、僕のほうが戸惑った。
「だって、おまえ一昨日……」
彼のいわんとすることは理解できた。
「あれは、この前、傘に入れてもらったお礼だから!」
進藤が、あの大きな瞳で僕をじっと見る。
僕は、思わず目を逸らしてしまった。
碁盤を挟んで向き合うのなら、僕はいつだって彼の瞳を正面から受け止めるだろう。
だけど、こんなイレギュラーな場面では、それができなかった。
だって、僕は嘘をついている。
あの水色の傘は、進藤の誕生日のプレゼントとして買ったものだ。
それを素直に言葉にできなかった。
小さな嘘だ。
だけど、どんな気持ちが僕に嘘をつかせたのだろう。
それがいまだにわからないから、僕は進藤の瞳の前で、ひどく無防備になってしまう。
鎧うものがない。拠って立つものがない。
だから、目を逸らす。
(4)
「貰うよ」
進藤が言った。その声が不思議なほど優しく聞こえて、僕は視線を戻すことができた。
進藤の瞳は、僕の視線を待っていた。
今日の空のように明るく笑っているのに、進藤の瞳だけは怖いぐらいにまっすぐだ。
まっすぐな瞳が、僕を見つめている。
「開けていい?」
傘を渡したときと同じように、進藤は一言断ってから、バリバリと包装紙を破っていく。
桐の箱が現れる。
進藤はなんだろうと小首を傾げながら、ふたを開けた。
香木が仄かに薫ゆる。
「いい匂い……」
進藤が呟いた。
いつからかは覚えていないけれど、進藤は対局の時、扇子を手にするようになっていた。
座間先生のように要の辺りを齧る癖はまだないようだけど、心無い人が座間先生の真似をしてると嘲笑っていたっけ。
『扇子持ったからって、座間先生になれるとでも思ってんのかね』
進藤が連勝を続けていることに対するやっかみなのは、誰に教えてもらうこともない。
もし、扇子を持つことで、座間先生のようになれるなら、進藤のことを笑っていた人間こそ、一日も早く扇子を持つがいいだろう。
そんなくだらないことにばかり気を回しているから、進藤に勝てないんだ。と、僕はその人物に言ってやりたかった。
勿論、僕は進藤ではないから、彼がどんな理由から扇子を常時手にするようになったかはわからない。
だが、間違いなくその理由が、座間先生にあやかろうとしてではないと、僕は断言できる。
彼が目指す高みは、誰かに成り代わることではない。
誰もまだ見ぬ地平を目指す。
それが神の一手を極めるということだ。
いつ渡せる宛てもなかったし、実際渡すかどうかも決め兼ねていたけれど、僕はお父さんのお供で行った和装小物の店で、この扇子を買った。
骨に香木を使っているが、白檀のように甘ったるい匂いじゃないところが気に入ったんだ。
楓の種類なんですよ。と、お店の人は説明してくれたが、深い森を思わせる静かな薫が慕わしくて、僕はその場で買っていた。
今日、改めて誕生日のプレゼントとして渡せることができて、少しほっとする。
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