夢の魚 1 - 5


(1)
僕は、目を閉じることさえ思いつかなかった。
だから、その瞬間僕が見ていたのは、金色の前髪の奥で幽かに震えている長い睫だった。



「あら、アキラさん、そのお洋服で出かけるの?」
玄関の鏡の前で襟を直していると、母が声をかけてきた。
「おかしいかな?」
「おかしくはないけれど、少しラフ過ぎるんじゃないかしら?」
ああ、と僕は微笑んだ。
「今日は、友達に誘われて水族館に行くんです」
「水族館? それならそうと言ってくれれば、お弁当ぐらい準備したのに」
僕は慌てて手を振った。さすがにね、この年になって母親の手弁当を持って出かけるっていうのは、気恥ずかしい。
「レストランがあるから、そこで食べようって。だから、気にしないで」
「あら」
母が肩を竦めて笑う。
「本当かしら?」
「え?」
「本当は、誰かさんがお弁当作ってくれることになってるんじゃないかしら?」
母の言葉に、僕は一瞬おにぎりを握っている進藤の姿を想像してしまった。
それは興味深い光景だったが、それよりも母の含むところを理解し、手を振って否定した。
「違うよ、一緒に行くのは進藤」
「シンドウ? あ、進藤ヒカル君? 棋士の……」
「そう。彼が僕のためにお弁当を作ってくれるとは思えないな」
「それは、そうね。でも、あなたたちそんなに仲が良かったかしら?
市河さんの話だと、お父様の碁会所でもしょっちゅう口喧嘩してるんでしょ」
「口喧嘩は、囲碁に関することで。それ以外は……」


(2)
それ以外はどうなんだろう?
思えば、囲碁を抜きにして進藤と会うのは、これが初めての経験だった。
何度か、進藤の学校まで会いに行ったこともあるけれど、それはやっぱり囲碁がらみの用件だった。
そう思うと、僕は改めて緊張を覚えた。
純粋にプライベートで進藤と会うのはこれが初めてなんだ。
「でも、お友達と出かけるっていうのは良い事だわ。
アキラさんはせっかくのお休みも家で碁盤に向かっているか、研究会に行くぐらいですものね。
たまには高校生らしく、遊びに行くのも大切なことだわ。
お夕食はどうするの?」
「あ、どうするんだろう。後で電話します」
「わかったわ、楽しんでいらっしゃいね」


待ち合わせは飯田橋の改札。
僕は約束の時間より少し早めに到着したのに、進藤はもうきていた。
「よお」
軽く手を上げて笑いかけてくる。
僕は足を速めた。
「待たせたかな?」
「まだ約束の時間にもなってないよ」
朗らかにそう言う進藤は、棋院で見るのとは少し雰囲気が違う。
いつもの張り詰めた空気がない。
穏やか…違う。なんだか、日向でまどろむ猫のような、リラックスした感じだ。
僕は少しだけ懐かしく思った。
初めて会った頃の、彼の姿が思い出される。
同じ6年生じゃないかと、互い戦を申しこんできたときの、あの屈託のない無邪気な進藤をだ。
僕は、彼の素顔を垣間見たようで、余計に嬉しく感じた。


(3)
「誕生日、おめでとう」
僕がそう言うと、進藤は笑顔でありがとうと言ってくれた。
「あの、これ」
僕は、デイバックの中から箱を取り出した。
「えぇ?」
進藤が少し大袈裟なぐらいに驚いて見せたことに、僕のほうが戸惑った。
「だって、おまえ一昨日……」
彼のいわんとすることは理解できた。
「あれは、この前、傘に入れてもらったお礼だから!」
進藤が、あの大きな瞳で僕をじっと見る。
僕は、思わず目を逸らしてしまった。
碁盤を挟んで向き合うのなら、僕はいつだって彼の瞳を正面から受け止めるだろう。
だけど、こんなイレギュラーな場面では、それができなかった。
だって、僕は嘘をついている。
あの水色の傘は、進藤の誕生日のプレゼントとして買ったものだ。
それを素直に言葉にできなかった。
小さな嘘だ。
だけど、どんな気持ちが僕に嘘をつかせたのだろう。
それがいまだにわからないから、僕は進藤の瞳の前で、ひどく無防備になってしまう。
鎧うものがない。拠って立つものがない。
だから、目を逸らす。


(4)
「貰うよ」
進藤が言った。その声が不思議なほど優しく聞こえて、僕は視線を戻すことができた。
進藤の瞳は、僕の視線を待っていた。
今日の空のように明るく笑っているのに、進藤の瞳だけは怖いぐらいにまっすぐだ。
まっすぐな瞳が、僕を見つめている。
「開けていい?」
傘を渡したときと同じように、進藤は一言断ってから、バリバリと包装紙を破っていく。
桐の箱が現れる。
進藤はなんだろうと小首を傾げながら、ふたを開けた。
香木が仄かに薫ゆる。
「いい匂い……」
進藤が呟いた。
いつからかは覚えていないけれど、進藤は対局の時、扇子を手にするようになっていた。
座間先生のように要の辺りを齧る癖はまだないようだけど、心無い人が座間先生の真似をしてると嘲笑っていたっけ。
『扇子持ったからって、座間先生になれるとでも思ってんのかね』
進藤が連勝を続けていることに対するやっかみなのは、誰に教えてもらうこともない。
もし、扇子を持つことで、座間先生のようになれるなら、進藤のことを笑っていた人間こそ、一日も早く扇子を持つがいいだろう。
そんなくだらないことにばかり気を回しているから、進藤に勝てないんだ。と、僕はその人物に言ってやりたかった。
勿論、僕は進藤ではないから、彼がどんな理由から扇子を常時手にするようになったかはわからない。
だが、間違いなくその理由が、座間先生にあやかろうとしてではないと、僕は断言できる。
彼が目指す高みは、誰かに成り代わることではない。
誰もまだ見ぬ地平を目指す。
それが神の一手を極めるということだ。
いつ渡せる宛てもなかったし、実際渡すかどうかも決め兼ねていたけれど、僕はお父さんのお供で行った和装小物の店で、この扇子を買った。
骨に香木を使っているが、白檀のように甘ったるい匂いじゃないところが気に入ったんだ。
楓の種類なんですよ。と、お店の人は説明してくれたが、深い森を思わせる静かな薫が慕わしくて、僕はその場で買っていた。
今日、改めて誕生日のプレゼントとして渡せることができて、少しほっとする。


(5)
「こんな立派なもの……、本当に貰っちゃっていいのか?」
「よかったら、使って欲しい」
僕が重ねて言うと、進藤ももう一度、ありがとうと言ってくれた。
そして、彼はくるりと僕に背を向けた。
「いつまでもこんなところで立ち話もなんだから、とにかく移動しよう」
「ああ、そうだね」
そのとき、進藤が少し早口で囁いた。
「塔矢には……、俺がいまどんなに嬉しいか、きっとわからないよ」
僕は進藤の背中を見つめ、戸惑った。
彼はいまの言葉を僕に聞かせたかったのだろうか?
わざわざ背中を向けて、囁かれた言葉。
照れている?
いや……、違う。照れてるんじゃない。進藤の少し落とした肩に、僕は思わず手を伸ばしていた。
「進藤!」
進藤が振りかえる。彼の表情に、僕は安堵する。
僕はなぜ、進藤が泣いていと、思ったんだろう。
「なに?」
僕は慌てて進藤の肩から手を外すと、苦笑いで言った。
「ところで、どこの水族館に行くのか、僕はまだ聞いていないんだけど」
「そうだったっけ?」
「そうだよ」
「でも、東京に水族館なんてそんなに何個もないだろう?」
進藤が悪戯を見つかった子供のように、瞳を輝かせる。
ああ、よかった。
進藤だ。進藤のこんな顔が僕は嫌いじゃない。
「品川にもあるし、池袋にもあるし……」
「ブッブ――――、どれもハズレです」
進藤は僕の手首を掴むと、地下鉄の入り口へと歩き出す。
「海の見えるとこだよ」

地下鉄を乗り継いで、僕と進藤が降り立った駅は、「葛西臨海公園」だった。



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