羽化 21 - 22


(21)
芦原は縁側に座ってぼうっと庭を見ていた。
すると視界の端に何か動くものがあった。近寄って見てみて、驚いた。
それは、まだ羽も伸び切っていない、羽化したての黒い蝶だった。鉢台の脚に彼が脱ぎ捨てた
さなぎの殻を、芦原は見つけた。鉢台の縁に掴まり、重力のままに羽が伸びていくのを、蝶は
身じろぎもせずに待っている。
芦原の見守る中で、ゆっくりと、だが確実にその羽は伸び、ひらいていく。そして羽が伸び切った
とき、蝶は身体を震わせ、涙のような水滴をぽろぽろとこぼした。
そして重そうなその羽を背負いながら蝶はよろよろと動きだした。薄く青紫を帯びた黒い大きな
羽を震えながら広げ、羽ばたこうとするが、上手くいかず、よろけてバランスを失いそうになる。
芦原が手をそっと差し出すと、蝶はその指先につかまってよろけながら歩いた。
顔を手に近づけ、間近に蝶を観察する。羽化したばかりの蝶を見るのも初めてだったが、こん
な間近に、逃げもしない蝶を見るのも、やはり初めてだった。あまり虫に詳しくもない芦原には、
種類まではわからない。芦原の手の上で、蝶はゆっくりと羽を動かす。すると、濃い青紫色の
燐粉が微かに煌く。そんな様子を、芦原は貴重な宝物を見るように、息をひそめて見守ってい
た。と、ゆっくりと慎重に動いていた蝶が、ふわりと羽をひらめかせて芦原の手元から飛びあが
り、けれどそれより高く浮かび上がる事ができず、すぐ横の地面に舞い降りた。
そして2、3歩地面を歩いた後に羽を大きく動かして浮かび上がり、庭の低木の枝先にとまった。
そしてもう一度羽をひらめかせると、蝶は空高く舞い上がり、芦原はその姿を目で追った。
木漏れ日を縫うように黒い揚羽蝶が優雅に大きな羽をひらめかせて、舞う。芦原がその姿に見
惚れていると、どこからともなく、黒い蝶より一回り小さい黄色と黒の揚羽蝶が飛んできた。
黒い蝶と黄色い蝶は争うように、競うように、または戯れるように、木漏れ日の下を互いに追い
合いながらひらひらと舞った。7月の陽光が見上げる芦原の目を刺し、芦原は思わず目を細め、
手をかざして日の光を遮った。


(22)
なぜあの言葉があんなにも信じられなかったのかが、突然、腑に落ちた。
そしてあの言葉が、あれが夢ではなかったのだとしたら、告白の言葉であると同時に決別の言
葉でもあったのではないか。そんな気がした。
それともそんな事を考えるのはオレがアキラから逃げたいだけなのか。
いや、違う。
今、おまえの心を占めているのが誰なのか、オレは知っている。おまえを変えたのが、おまえの
中に眠っていた激情を表に引きずり出したのが誰だか、オレは知っている。だからおまえの言葉
が信じられなかった。
以前は―自分が気付かぬ間、自分を見ていたかもしれない視線は、今は別の奴を見ている。
蝶は飛んでいってしまった。
飛ぶ事に慣れない、羽が開くまでの一瞬の間、自分の手の中にいた。けれど飛んでいってしまっ
た蝶は、二度ともう、捕まえることは出来ない。
きっとアキラは振り返らない。
追い抜いていかれる日が遠からずやってくる事はわかっていた。それとも本当はとっくに追い抜
かれていて、昨夜、彼は最後にそれを振り返っただけだったのかもしれない。
もう、手が届かない。
そんな苦い思いがじわじわと広がってくるのを感じながら、芦原は明るい午前の光がこぼれる庭
から目を背け、足元の地面を見つめた。そして目を横にやると、先程蝶が脱ぎ捨てていったさなぎ
の殻が目に入った。
顔を上げてもう一度空を見上げると、先程そこで戯れていた二羽の揚羽蝶はもうどこかへ飛んで
いってしまって、そこにはただ、太陽の光がキラキラと輝くばかりだった。

― 完 ―



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