座敷牢中夢地獄 50 - 53
(50)
手紙は日付順に開封していった。
親子ほども年の違う子供――しかも男の――を追い回し、あるまじき悪戯を仕掛けた挙句
自殺までするような人物の手紙とは一体どのようなものかと思っていたが、
最初に開けた数通の内容は拍子抜けするほど健全なものだった。
以前見た葉書と同じ端正な文字で、アキラの体調や仕事のことを気遣ったり
自分の趣味や日常の出来事を紹介したり、先日の何々戦での誰それの棋譜はどうだった、
この間アキラが好きだと言っていた本を読んでみたらどうだったというような
他愛もない話が、延々と書き綴られている。
日記のように細々と書かれた近況報告には時折、男が色鉛筆で自筆したのだろう
少し稚拙な小さな挿絵が付されていて、そんな男の手紙から先生は無邪気で微笑ましい
印象すら受けたという。
「例えるなら小学生くらいの子供が家に帰るなり母親にまとわりついて、一日の間に
あった出来事を嬉しげに報告するような――そんな印象と言えば分かってもらえる
だろうか」
だが消印の日付が進むにつれ、その無邪気さの中に不協和音が混じり始める。
毎晩のように電話で話せた頃とは違い、手紙ではアキラの反応がわからない。
自分と会っていない間アキラが誰といて、何をしているのかもわからない。
そのことが男の精神を急速に不安定にしていったようだった。
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アキラと会っていない間の自分の生活と思考の全てを写し取ろうとするかのように
手紙は回を追うごとに異様な長さとなっていき、これを毎日自筆するだけでも
日常生活に支障が出ていたのではないかと思われるほどだった。
それと同時にあれほど達者で端正だった筆跡が乱れを見せ、文章の内容もアキラと
会えないことへの不安やアキラもまた自分に会いたがっているという妄想に傾いていく。
「・・・一人の人間が崩壊していく過程とは、こういうものかと思ったよ」
男の手紙が変調をきたし始めた時期と、アキラの帰宅が遅くなったり明子夫人が
アキラの体に痣を見たりした時期とはちょうど重なっていた。
消印の最後の日付は、アキラが最後に指導碁に出向いた日の前日のものだった。
その頃になるともう手紙の内容は目を覆うばかりで、これを事前に読んでいたら
絶対にアキラをそれ以上男に会わせになど遣らなかっただろうと、便箋を持つ先生の手が
震えてくるほどのものだった。
最後のページはそれまでのどのページとも趣が違っていた。
それまでは文章が主体で時折それに小さく挿絵が添えられている体裁だったのが、
最後の一通の最終ページだけは真ん中に大きく一人の男の絵が描かれていた。
絵の男はよく見るとナイフで自分の胸を裂き、ハート型の心臓を取り出してこちらに
向かって差し出している。絵が稚拙なせいもあるが、男の表情は苦しんでいるとも
微笑んでいるとも、どちらとも取れる。
付された説明文によればそれは男の自画像であり、自分の気持ちはこの絵の通りだと云う。
アキラに自分の全てを捧げる。
死ぬほど愛している。
アキラと会える時だけが自分の生きている時間で、それ以外はたとえ心臓が動いて
呼吸していても、自分にとっては死んでいるのと同義なのだと。
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それらの手紙は確かに、人格者と呼ばれた男の内部に潜む狂気を感じさせるものだった。
だがその中に、消えない純情がある。
アキラの父親として、男のした行為は決して許せるものではないが、アキラを想う
あまりに男が精神の安定を失い破滅への道を転がり落ちて行ったと思うと不憫でもあった。
と同時に、男を自殺にまで追い込んだ責任の一端は自分たち親子にもあると感じた。
もしかしたら脅されたりしていたのかも知れないとは言え、アキラが男の誘いに応じて
指導碁に通い続けたこと。
親の側もそれを不審に思いながら、止められなかったこと――
男の内に潜んでいた暗い資質に加え、自分たち親子のそうした対応のまずさもまた、
男の狂気を深めこの事態を招いた一因ではあったのだ。
「逡巡した末、私はその手紙を今一度アキラに返すことにした」
アキラの部屋を訪れて文箱を置き、一通り目を通すだけでいいから読んでおくようにと
先生は言い渡した。
一連の事件によって心身に深い傷を負ったであろうアキラにそれらを読ませるのは
酷かとも思ったが、たとえ子供であっても自分がしたことの責任の重さはきちんと把握
させるべきだというのが先生の考えだった。何しろ、人一人死んでいるのである。
それに、おかしな話だが――と前置いて先生は、私はその時、男に同情する気持ちにすら
なっていたのだよ、と言った。
男が人生の残り時間を削って毎日書き続けた手紙を、アキラは一通も、封を切ってすら
やらなかった。
心臓を取り出してアキラに捧げるほどの情熱も、たまたま先生が開封しなければ
誰の目にも触れず闇へと葬り去られるところだった。
アキラに顧みられることのなかった手紙の束が憐れで、それをアキラに読ませてやる
ことは男の供養にも繋がるのではないかと先生は思ったのだという。
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翌朝アキラはもう一度文箱を父親に渡して、全部読みました、とだけ言った。
それだけでいいと先生は思った。
手紙は発端となった葉書も含め、全て塔矢家の庭で火にくべた。
男の想いが天へ昇っていったか地に還ったか、それは知らない。
「そんなことが・・・あったんですか」
うむ、と先生が重々しく頷いた。
「ですが、それは――それはその男だって気の毒かもしれませんが、一番被害を受けた
のは、やっぱりアキラくんだ。男は自業自得でしょう」
「そう思うかね」
「当然でしょう。アキラくんはまだ中学生だ。年端もいかない子供に熱を上げて、
関係を強要するなんて――相手のほうが悪いに決まっている。同情の余地などない」
自分の口から出る言葉が全て自分に跳ね返ってくるのを感じながらも、俺は言葉を止める
ことが出来なかった。
アキラがそんな風に他の人間に危害を加えられたと知ったら、俺なら電話で縁切りを
宣告するだけでは収まらない。
その足でその人間を探しに行き、二度とアキラに近づこうなどと思わなくなるくらい
痛めつけずにはおかないだろう。
「強要――ではなかった」
「え?」
「男が、アキラに強要したのではなかったのだよ。つまりその、・・・関係をだ」
「合意だったとでも?アキラくんはそんな――」
「・・・手紙を燃やしてしまってからは、禍々しい出来事は全て終わり元通りの日常が戻って
きたかに見えた。だが、何一つ終わってなどいなかったのだ。・・・私が事件を忘れかけて
いたある日のこと」
先生は言葉を切って、深く深く反響する声で言った。
「我が家で、門下の棋士が一人刺された」
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