夏の終わり 6 - 10
(6)
―――――――――塔矢も……、俺のこと好きになってよ
今更、そんな言葉を口にする進藤を、僕はなによりも愛しく思う。
先に君を求めたのは、僕なんだ。
それは恋ではなかったけれど、間違いなく僕が、僕の人生に、君という存在を必要としたんだ。
その事実に、なぜ君は気づかないんだろう。
もっと自惚れていいのに……。
「アキラさん」
「はい…?」
僕は少し上の空だった。だから、母の口から零れ落ちた「シンドウ」という名前に、過剰に反応していた。
「えっ!」
「いやだわ、なぜそんな大きな声を出すの? そこの進藤君の鬼灯、こっちに頂戴」
「あ、ああ。はい」
先日、進藤が母に買ってきた鬼灯は「進藤君の鬼灯」と呼ばれ、鉢物のなかでは一番大切にされていた。
「さすがに……花は終わりね」
母の白い手が、よく熟れた朱色の実を摘み取っていく。
「アキラさん、爪楊枝持ってきて」
母はよく揉んだ鬼灯の実から、爪楊枝を使って器用に種を取り除く。
「アキラさん、覚えてる? 鬼灯笛」
手渡された実を指の先で揉み解す。
「勿論、覚えてるよ」
つるつるとした皮を破らないように、気をつけて爪楊枝を使い中味を掻き出していると、きゅぷぎゅぷっという、どこか間の抜けた音が隣でする。
母が得意そうに鬼灯を鳴らしている。
僕は、なんだかおかしくてたまらなかった。
―――――ぎゅぷっぎゅぷっ
母が軽く吹き出すと、僕も釣られて笑っていた。
涼しい風のなか、母とふたり縁側に座り、鬼灯で遊んでいるのが、不思議と楽しかった。
(7)
言葉は要らない。
それでも行き交うなにかが、ある。
ぎゅぷっ
鬼灯の音の向こうでからりと乾いた音がした。
続けて、砂利石を踏みしだく音。
「進藤君じゃない?」
母が口の中から、鬼灯を取り出すとはしゃいだ声で言った。
「進藤君!」
パタパタとサンダルが軽やかな音を立てる。
「進藤君、こっち、こっちよ。お庭に回って」
表と庭の仕切り戸のところで、手を振る母の後姿を眺めながら、僕は鬼灯の皮を舌に乗せた。
「お邪魔します」と、会釈しながら西瓜片手に進藤が仕切り戸をくぐり、夏の庭に姿を現した。。
「まあ、こんな気を使わなくてもいいのに。あら冷えてるのね」
「えへへ、自分が食べたくって。よく冷えてるのを買ってきました」
「いま切ってくるわね。少し早いけど、お三時にしましょう」
母は西瓜を受け取ると、表に回る。それと入れ替わるように、進藤が縁側にやってくる。
「よお」
片手を挙げて満面に笑みを浮かべた進藤は、夏の陽射しそのものだ。
僕も笑顔で応じる。
―――ぎゅぷっ
「塔矢…?」
「ぎゅぷっ」
「…………なんの音?」
「ぎゅぷっ」
「塔矢?」
僕は、舌先に鬼灯を乗せ、ぺろりと見せてやった。
「なに、それ?」
「鬼灯だよ」
「鬼灯って食えるの?」
思わず声をあげて笑っていた。進藤の問いがあまりに彼らしくて。
「知らない? 鬼灯笛」
「知らないよ。なんだよ、それ」
どさっと重い音を立てて、進藤が僕の隣に腰を下ろす。
「よく熟れた鬼灯をね。こういう風に揉んで……、そう、柔らかくなった?柔らかくなったら……、この爪楊枝で、ここから中味を掻き出して……。
あ、ダメだよ。力任せにしたらすぐ破けるから……気をつけて。そう……そんな感じ」
なぜか、僕たちは鬼灯に夢中になっていた。
(8)
「あなたたち、私の鬼灯を丸裸にしないでちょうだいね」
西瓜の載ったお盆を手に、台所のほうからやってきた母が、至極真面目な顔で言うから、僕はまた噴出してしまった。
「"進藤君の鬼灯"じゃなかった?」
「それはこの子の名前。一度いただいたんですもの。これは"私の鬼灯"よ」
言い募る様子が子供じみている。
進藤がくると、母は少女を通り越して子供になってしまうようだ。
彼の中の澄んだ部分が、人を無邪気にするのかもしれない。
「あ!」
進藤が声をあげる。鬼灯の実を爪楊枝で破いてしまったんだ。
「ああ、言ってる傍から。進藤君、コツがあるのよ。しつこいぐらい揉むの。
焦らないでね。皮が梳けてくるくらい揉むの。それからヘタをくるくる回すと、ね、
わかるかしら? なかで種が踊っているでしょ? この状態まで我慢して。
それからそぉーっと下手を引き抜くのよ。ね、この口の部分に少しでも傷ができたら、鳴らないの」
母は、小さな子供と話しているように、とても優しい口調でお手本を見せてくれた。
今度は進藤もうまく種を掻き出し、鬼灯を完全な形で空にすることができた。
「できたら、空気を入れて膨らまして、……あら、電話だわ。あとはアキラさんに聞いてね」
静まりかえった家の中に、旧式の電話の猛々しい呼び出し音が響く。
黒いダイヤル式の電話を初めて見たとき、進藤は目を丸くして驚いていた。
『俺、この手の電話、実物見るの初めて』
まだ使われているとは思わなかったと言われた時は、さすがに苦笑が零れた。
進藤は、『試していい?』と断ってから、ふたりの知人に電話をかけていた。
その横で、僕も少し面白がっていたのだが、かけた相手が和谷君と幼馴染の藤崎さんだったことに、苛立った。
あの時は、なぜ自分が苛立つのか、まだ理解していなかった。
今なら、わかる。あれは嫉妬だったんだ。
(9)
『いま塔矢の家、電話がさ、黒いダイヤルのヤツで、珍しいからかけてみた。
…………うん、うん。そう、用なんてないよ。どうせ和谷ヒマじゃん。
今日対局も指導碁もなかったろ?』
和谷君のスケジュールを把握している進藤に腹を立て、和谷君に嫉妬した。
あれは最初の北斗杯のあった年だから、もう3年前になる。
僕が、自分の気持に気づいた頃だ。
進藤は本当に好奇心が旺盛で、なんでも知りたがる。
でも、知りたがるだけで、覚えようとはしないし、初期衝動が満たされると途端に興味を失う。
僕がなかなか自分の気持を言葉にできないのも、そこに理由の一端がある。
進藤の言葉や気持を疑うわけじゃないけれど、でも心の片隅に不安があるんだ。
同性愛という物珍しさに夢中になっているだけで、すぐに飽きてしまい興味を失ってしまうんじゃないか。
僕そのものを欲しているのではなく、同性との恋愛というあまり日常的でないシチュエーションに、気持を掻き立てられているんじゃないか。
そんな事はないと自分の不安を打ち消したいが、いま嬉々として鬼灯と格闘している進藤を見ていると、むしろ不安の根拠を見せつけられたようで、ますます落ち込んでしまう。
もう、二度も体を繋げながら、いまだにこんなことで悩んでいる僕は、ただのつまらない小心者だ。
「塔矢、なにボーっとしてんだよ」
軽く頬を突つかれて、僕はまた自分か物思いに耽っていたことを気づかされる。
「あ……、ごめん」
「もしかして、疲れてる?」
「そんなことないよ。ごめん」
「謝るなよ。な、それより、これをどうするんだ?」
進藤の指先が軽く摘んでいるのは、空気を送り込まれて、丸い形を取り戻した鬼灯だった。
「あ、上出来、上出来」
僕も急いで自分の鬼灯を膨らますと、潰さないように細心の注意で摘んで見せた。
「このヘタのあったほう、穴の開いているほうをね、舌の上に乗せるんだ」
僕を真似て、進藤が舌を覗かせる。
「そうしたら、口のなかで…舌を使って押すんだ。こう」
――――ぎゅぷっ
僕の口のなかで鬼灯がおかしな音を立てる。
(10)
「フン?」と鼻を鳴らしたあとで進藤の頬が動いた。が、ブチュっという小さな音が聞こえただけだった。
「あれ、失敗?」
「失敗だね」
「おかしいな」と首を傾げながら、進藤はもう一度鬼灯を膨らました。
「こっち側を下にするんだよな?」
進藤が尋ねるので、僕は少し顔を近づけて、彼の口元を覗きこんだ。
ふっくらした唇が開き、濃い桜色の舌が差し出される。
いつもはモノクロの碁石を摘んでいる指が、今日はあざやかな朱色の実を摘み、舌に近づく。
鬼灯を乗せた舌が、すっと口の中に消える。
その瞬間、僕の下腹部にずきりとした痛みのようなものが走った。
僕は思い出していた。
進藤の桜色の舌の感触を。
少しだけ開いた唇から、またブチュっという音が聞こえる。
「おかしいなぁ、言われたとおりやってるつもりだけど」
潰れてしまった鬼灯を、進藤が指で取り出す。
鬼灯も指先も、濡れて光っている。
動悸が早くなる。
下腹部の痛みが疼きに変わる。
僕はおかしい。僕はおかしい。一体何を考えているんだ。
「塔矢、もう一度お手本見せて」
「え、あ、ああ、うん」
縁側に片手をつき、進藤が体をひねるようにして、上半身を僕の前に持ってくると、下から覗き込むように、僕の口元に視線を据える。
その視線に何もかも見透かされそうで、できることなら逃げ出したかった。
でも、今更逃げ出せるはずもなく、僕はため息で騒ぐ心臓を落ち着かせると、一連の動作を繰り返した。
「塔矢って、唇薄いよね」
僕の努力を嘲笑うように、進藤が何気なくそんな言葉を口にする。
「きれいなピンク……」
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