夏の終わり 11 - 15


(11)
鼓動が跳ねる。
僕は髪の生え際に噴出した汗を拭いたがったが、進藤の瞳に囚われて、腕を動かすこともままならなかった。
疼きが血を呼び集める。
―――――見ないで欲しい!
強く思った。
彼の視線が、いつだって僕をおかしくするんだ。
幽かな変化の兆しに、気が遠くなる。
僕は目を瞑った。進藤の瞳からほんの少しの間でいい、逃れたかった。
僕は舌先で鬼灯に触れた。
今のいままで、それは鬼灯でしかなかったのに、目を閉じて振れるそれは、進藤の舌のように思えた。
「ぎゅぷっ」
滑稽な音が大きく響く。
「塔矢、上手だな」
感心したような、進藤の声。
「なあ、これでいい?」
僕は目を開けざるをえなかった。
信じられないほど近くに進藤の顔があった。
いまにも鼻と鼻がくっつきそうだ。
「見てて」
進藤の言葉は、僕を縛る呪文だ。
僕は動けない。
進藤の唇と舌が、鬼灯を弄ぶ図に、僕の頭の芯は熔けていきそうだ。
舌が引きこまれ、鬼灯が口のなかに消える。
淡い色の唇が目の前にある。
僕は知っている。
この唇の感触を。
この唇が、僕に触れる感触を。
進藤の口元から、ぎゅぷっという音が漏れたのと、母が声をかけてきたのはほとんど同時だった。
「アキラさん!」
僕たちは、慌てて体を離した。


(12)
「いま、お父さんから電話で、忘れ物を届けに行くことになったの」
さっきと同じワンピースだったが、首もとに涼しげな水色のスカーフを垂らしただけで、母は既に外出の装いだった。
「出たついでに、お父さんと食事してくるから、後は任せていいかしら?」
どうして嫌だと言えるだろう。
「わかりました」
「進藤君、ごめんなさいね。なんのお構いもできなくて、ゆっくりしてらしてね」
門扉のほうから、車のクラクションが聞こえてきた。
「あら、車、もうきたみたい。アキラさん、おかしくないかしら?」
母は、つば広の帽子をかぶり、僕に尋ねる。
「おばさん、キレイ」
短い感想は進藤のものだった。
母は、嬉しそうに笑うと、「お上手ね」とまんざらではない口調を聞かせ、小さな包みと白いハンドバックを手に、パタパタと忙しない足音を残して出かけていった。
そのつむじ風のような顛末に、僕と進藤は、思わず顔を見合わせていた。
進藤に向かって、僕は苦笑を零していた。
だが、進藤はそれに応えてはくれなかった。
前にもまして真剣な瞳が、僕を見つめている。
「破けた」
彼が吐き出した鬼灯は、確かに大きく裂けていた。
「塔矢の貸して」
「え?」
進藤は、僕の肩を両手でつかみ、顔を近づけてきた。
思いがけない事の展開に、ただ呆然としている僕の唇に、進藤のそれが重なる。
「え」と呟いた形で開いていた唇に舌が侵入する。
それは強引に歯列をこじ開け、奥まで入りこむと、すぐに去っていった。
僕と進藤は目を閉じることさえ忘れていた。
進藤の瞳が遠ざかる。
彼は僕の肩に手を置いたまま、少し顔を離すと、ふっと小さく笑った。
濡れた唇が開かれ、僕から奪い取った鬼灯が、顔を覗かせる。
それをまた、口のなかに含み、進藤は言った。
「塔矢の……甘い………」


(13)

――――――ぎゅぷっ

鬼灯が鳴った。
鬼灯を奪われた僕は、こくりと喉を鳴らし、湧き出す唾液を飲みこんでいた。
「好きだよ」
囁きと共に、進藤の口のなかの僕の鬼灯が、目に入る。
肩をつかむ進藤の手に力がこもる。
僕はその熱とわずかな痛みに、我を忘れて口走る。
「僕も……、好きだ」
言ってしまった。
今日まで躊躇っていた言葉を、遂に口にしてしまった。
後悔はなかった。だが、大切に秘密を、大切な宝物を、曝してしまった事に一抹の寂しさを覚えた。
その寂しさを慰撫するように、進藤がまたくちづけてきた。

      鬼灯が
           渡される。

もう自分の気持を偽ることができない。
僕たちは、鬼灯を間にはさみ、舌の交歓を続けた。
耳の後ろでごとんという音を聞き、自分が縁側に押し倒されたことを知った。
ひさしは逆光に黒い影となり、その向こうに目に染みるような夏の青空が広がっていた。
「進藤……」
息継ぎの為に唇が離れたとき、僕は囁いた。
「進藤じゃない」
進藤は少しきつい口調で言うと、鬼灯の残骸を勢いよく吐き出してから、冷たく見えるほど真剣な面持ちで、僕に命じた。
「ヒカルって、呼べよ」


(14)
金色の前髪がまた降りてきた。
僕は言われたとおり、彼の名前を呼ぼうとしたが、それは声となる前に、進藤の唇に奪われた。
呼吸を重ね、吐息を交わし、唾液を啜りあう。
進藤は性急な動きで、僕のシャツの裾を引き摺りだし、その隙間から手をさし入れてくる。
わき腹を撫で上げられて、体が震えた。
「ダメ。ここじゃ……しんど……」
「ヒカルだろ?」
彼は少し体を離して、にやりと笑う。
「言って」
「ヒカル……」
「そう、ここじゃダメって、どこなら良いの?」
下腹部に集まっていた血液が、一度に上昇したように、僕の頬や耳が燃えあがる。
「アキラ……」
進藤が耳元で囁き、熱い舌で耳朶を舐る。
「どこならいい?」
僕は、進藤の首に腕を回していた。
もう、認めてしまったんだ。今更逃げられない。
逃げられないなら、正面から迎え入れるしかないじゃないか。
僕は、夏の空に目で別れを告げると、進藤の耳に直接聞かせた。
「僕の部屋」
進藤は、スニーカーを脱ぎ捨てると、僕を軽々と抱きあげた。
まだ、人の目を欺かなくてはいけないけれど、自分の気持には正直でありたい。
「降ろせよ」
進藤の強い視線が僕を捕らえて話さない。
「自分で歩ける」
流されるのではなく、自分の意思で抱かれたい。
声は少し震えていたけれど、気持はちゃんと伝わったみたいだった。
なぜなら、進藤が嬉しそうに笑ってくれたから。


(15)
キスを繰り返しながら進藤は悪戦苦闘のなか、僕のシャツのボタンを一つ一つ外してくれた。
重ねる唇からは、どちらのもの特別のできない、熱い吐息が漏れる。
ボタンを外し終えると、進藤は僕の素肌に触れてきた。
その指先が腰骨を掠めた瞬間、僕が感じたものは、たまらない疼きだった。
危険な熱を孕んだ進藤の右手が辿りついたのは、僕の背中。僕のすべてを支えるように進藤の掌が押し当てられる。
その熱に、僕は軽く瞼を閉じ、幽かな吐息を漏らした。
畳の上に僕の体を横たえながら、進藤はオープンシャツとタンクトップを乱暴に脱ぎ捨てていく。
その間ですら、僕のわずかな表情も見逃すまいと言うように、鋭い視線が僕に注がれていた。
全裸になった進藤が、赤ん坊の世話でもするように、僕の腕からシャツの袖を抜いていく。
「自分で……できる」
僕は上擦る声を隠さずそう言った。しかし、進藤は答えようともせずに、僕を生まれたままの姿にしていく。裸の背中に、畳はひんやりと冷たく感じた。
「アキラ」
僕が顔を上げる。
「9月になったら、また会えなくなる」
進藤は全裸だ。恥じらうことなくすべてを曝し、静かに言葉を重ねる。
「会いたいときにいつでも会えるわけじゃない。もしかしたら、これからが苦しいかもしれない」
僕は頷いた。来月から春先まで、本因坊戦のリーグが始まる。
「ヒカル?」
「棋院とかで会えても……ろくに話せないかもしれない。それでも、俺の気持だけは疑わないでくれるか?」
 僕はゆっくり身体を起こすと、口を開いた。
「ヒカル……、今更だよ。僕は、君が思うより君のことが好きなんだ。
ただ言葉にするのが怖かった。認めてしまうのが怖かった。
でも、もう自分の気持を偽れない。それぐらい、君のことが好きなんだ」
「俺……、おまえに抱かれたいし、おまえを抱きたいよ」
僕は、いま目の前にで正直に欲望を口にする人間が、なによりも愛しかった。
誰よりも愛しかった。



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