夏の終わり 1 - 5


(1)
あと二日で8月が終わる。
暦の上では8月の上旬に立秋を迎えているのだから、間違いなく秋だけれど、そんな気配は微塵もない。
今日は進藤が遊びにくることになっている。
勿論、いつものように碁を打ちにくるんだ。
僕は、どこで打とうかと朝から思案していた。
父は、午前中から後援会の会長たちと出かけているので、普段研究会に使っている広い和室を使ってもいいのだが、できたら風通しのいい部屋で、クーラーをつけずに対局したいと考えていた。
なぜなら、先日棋院で会ったとき、進藤が体がだるいと言っていたからだ。
夏場のイベントに頻繁に狩り出される彼は、クーラーの効きすぎた会場で対局とは違う神経を使っていると本当に消耗すると、散々ぼやいていた。
「もう駆け出しの新人じゃないんだから、少し仕事をセーブしたほうがいいんじゃないか」と僕が忠告すると、進藤は照れたような笑みを浮かべて、
「ちょっとまとまった金が要るんだ」と、オーバーワークの説明をしてくれた。
「車でも買うのか」と尋ねたら「秘密」と返されて、少しだけ腹が立った。
普段、よく言えば物事に頓着しない、悪く言えば無神経な進藤だが、最近は僕の感情の変化を敏感に察知し、ご機嫌をとるようになってきた。
それはそれで嬉しいことなんだけど、彼が僕の鼻先にちらつかせる餌が、「対局」だから嫌になる。
今日の約束は、そのときの餌だ。
何が嫌って、僕にとってその「対局」は、拒むことの出来ない魅力的な餌だということだ。


(2)
毎年、3名の新人がプロとして名乗りを挙げる訳だけど、やはり進藤以上に僕を魅了する打ち手は現れない。
ただ知らないだけで、いずれ僕たちを脅かす存在が、いまもどこかで石を並べているかもしれないし、たった今生まれて初めて碁と出会っているかもしれないし、いま正にこの時刻産声を上げているかもしれない。
それでも、僕にとって進藤ヒカルは特別な存在なんだ。
常勝なんて有り得ない。
有り得ないから、連勝が記録になる。
伊角さんや門脇さんは安定した実力の持ち主だし、越知は相変わらず探求心に富み勝つことに執念を燃やしている。だからといって怖いと思った事もなければ、侮ることもない。
僕も進藤も、勝率7割をキープしていて、それは素晴らしい数字だと持ち上げられる。
でもそれは、10回打てば3回は負けるということだ。
結局、勝つことよりも、負けることのほうが、難しいのかもしれない。
そんなことを考えながら、中庭に面した縁側に出ると、気持のいい風が吹き込んできた。
夏の庭は、滴るような緑で溢れていた。
僕は足を止め、猛々しい生命力を内に秘めた緑陰に目を留める。
涼しげなワンピースをまとった母が、ホースで水をやっていた。
勢いよく迸る水飛沫が、夏の陽射しのなか銀色に輝き、小さな虹を芝生の上に描いていた。
「アキラさん」
僕に気づいた母が、話しかけてくる。
「進藤君は何時ごろいらっしゃるの?」


(3)
僕は奥の和室を覗き込み、柱時計で時間を確認した。
「二時過ぎにやってくる約束ですから、あと30分ぐらいできますよ」
「あら、30分しかないの? お通しするお部屋にクーラーは入れておいた? 今から入れても、すぐには涼しくならないのよ」
どうしようか一瞬迷ったが、僕の選択に間違いはないと思い、母に答えた。
「今日は風がいいから、縁側で打とうと思うんだけど……」
母が手元で水を止め、振りかえる。
「そうね、それがいいわ。体が冷えすぎるのねよくないものね。進藤君のお夕飯は?」
これは、言外に食べていくようにと促しているのだ。
僕は内心の苦笑を気取られないよう気をつけながら、夜は二人で出かけるつもりだと話した。
「つまらないわ」
母は、水撒きのホースをくるくるとまとめながら、可愛らしい文句を口にした。
「アキラさん、進藤君を一人占めしてずるいわ。お父さんは遅くなる予定だし、あなたたちまで外で食事するとなったら、私は一人っきりよ。こんなことなら、あと二人ぐらい、子供を産んでおくんだったわ」
母は、時たまこうして拗ねて見せる。普段のおっとりした口調が幸いして、なんだか微笑ましくなる。
「わかりました。進藤がきたら、聞いてみる」
「本当? 言ってみるものね」
おどけて笑う姿は、どこか少女めいている。
「進藤君が呼ばれてくれるなら、今日は奮発しましょうね。いいお肉をいただいたのよ。すき焼きなんて暑気払いにどうかしら」
「お母さん、献立は進藤がOKしてから考えてくださいね」
「ハイハイ、わかりました。アキラさん、あなたお父さんより口うるさいわ」
ホースの始末をすると、母は縁側に腰を下ろした。
「ねえ、アキラさん。あそこに咲いている白い花、わかる?」
僕も、母の隣に腰を下ろし、白く細い指が指し示す方向に目を凝らした。
「夾竹桃の隣、白い花が二つ咲いているでしょう」
「ああ、ええ、咲いてますね」
「あれね、何年も咲かなかったのに、ことし久しぶりに蕾をつけたのよ」
「なんていう名前ですか?」
「娑羅双樹。夏椿ともいうわね」
濃い緑の中に浮かぶ二つの白い花は、清楚で涼しげに見えた。


(4)
「あの花にはね。少しだけ因縁があるの。聞く?」
「伺いましょう」
僕がふざけた口調で頷くと、母は目を細めて笑った。
「先月、本因坊戦のあった旅館、わかるわよね。庭園で蛍の鑑賞ができる」
僕は、母の一言に心臓をざわめかせていた。
どうして忘れることができるだろう。
あの庭園で、僕は消えることのない炎を見つけたんだ。
「この娑羅双樹は、最初あのお庭にあったのよ」
「え……」
思い出す。
夜目にも艶やかな白い花を揺らして、僕の前に唐突に姿を現した進藤のことを。
「お父さんが、はじめてタイトルホルダーになった対局も、あの旅館だったのよ。
その記念にと、旅館の方からいただいたの」
「なぜ、あの木を?」
母は、含み笑いのあとでゆっくりと口を開いた。
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理を表す」
「平家物語ですね。おごれる人も久しからず。唯春の夜の夢のごとし。
……お父さんらしいな」
僕は少しばかり自分を恥じた。
父が、娑羅双樹に奢ることなかれと自分を戒めたのに、この不肖の息子は………、まったく違う心映えで眺めていたんだ。
「でしょう、お父さんらしいでしょう。ちょっと気障よね。でも、改めて素敵な人だと思ったわ。
そんな思い出のある場所で、あなたがタイトルを手にしたことが、とても嬉しかったよ。
あなたからの電話を切ったあとで、お父さんとそんなことを話して……、そう言えばと思って娑羅双樹を見たら、花が咲いてるじゃない。
ただの偶然かもしれないけれど、ちょっと……感動してしまったわ。」
母は、時々手放しで惚気てくれる。
息子としては、辟易することも多々あるのだが、仲がいいにこした事はない。


(5)
「アキラさんは、好きな方、いるの?」
僕は即座に答えられなかった。
「最近……、アキラさん辺りが柔らかくなったから、もしかして恋でもしてるのかなって」
「よくわかりません」
僕はそう答えるしかなかった。

―――――塔矢も……、俺のこと好きになってよ

進藤はそう言った。
僕もはっきりとした言葉で応えたことはないが、気持は同じだ。
でも、言えない。
母のように惚気ることは、僕たちには許されていない。
「そう……、いまは碁のことで頭がいっぱい…ね。それはそれで素敵なことだと思うわ。
人生を賭けて打ちこめる何かに出会えるなんて、そうはないんですもの。
恋もね、同じ。人を好きになることもね。そうはないのよ。だから……」
「だから?」
「誰かを好きになったら、その気持を大事になさいね」
風が渡る。
梢が揺れる。
涼しげな葉擦れの音は、耳に優しい夏の歌だ。
一陣の風にやんだ蝉時雨が、すぐに息を吹き返し、夏が短いことを嘆くように、また盛大に求愛の歌を歌う。
母は、気づいているのかもしれない。
僕の気持を。進藤の気持を。僕たちの恋を。
だが、不思議と心は凪いでいた。
同性であるという一点で、誰に知られてもいけない想いだ。
だから、僕は言葉にすることを躊躇っている。



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