雷鳴 6 - 10
(6)
別荘の内部は、複雑に入り組んでいた。
「迷路のようでしょう? ここは以前旅館だったんですよ」
二つ角を曲がったところで、依頼主はヒカルを振り返り教えてくれた。
「だから、こんなに広いんですね。なんだか……、迷子になりそうだ」
ヒカルが苦笑まじりにそう言うと、依頼主は「その心配はありませんよ」と、微かに笑った。
その言葉が疑わしく思えた頃、依頼主はようやく足を止めた。
「あちらの蔵で碁会をする予定です」
渡り廊下を前に、依頼主がそう告げる。
「この別荘で一番静かな部屋でしてね」
渡り廊下とはいっても、厚いガラスで守られたそれは、外の雪景色とは隔絶された温かい空間だった。
その突き当たりに、蔵がある。
「碁会まで時間がありますが、少しご覧になりますか?」
「そうですね、ご迷惑でなければ」
「そう言っていただけると思っていましたよ」
依頼主は、嬉しそうな声をあげ、渡り廊下を先に行く。
後に続いたヒカルは、左右に広がる白い景色に、思わず目を見開いていた。
まぶしいほど光があるわけでもなかったが、薄暗がりに慣れた目には、いささか刺激が強すぎる。
ぱちぱちと瞬きをしていると、耳障りな音があたりに響いた。
音のした方向に目をやれば、観音開きの蔵の戸が大きく開け放たれていた。
(7)
幼い頃から、祖父の家の蔵を遊び場にしていたヒカルである。
いま自分の前で扉を開くこの蔵が、大胆に改造されていることは一目で理解できた。
二階部分を取り払ったそこは、天井まで吹き抜けになった広い空間だった。
祖父の蔵は土間と簡単な板張りの床だったが、この蔵の床は市松格子の絨毯で敷き詰められていた。
「チェス盤の上に立っているみたいですね」
ヒカルが素直な感想を口にすると、依頼主は小さく笑った。
「すると、進藤先生も、私も、ゲームの駒というわけですね」
「え? あ、ああ…そうですね」
依頼主の答えが唐突に思えて、ヒカルは口篭もってしまった。
「どうぞ、お入りになってください。進藤先生」
促されるままスリッパを脱いで足を進めると、板敷きの廊下とは根本的に違う暖かさが足裏に感じられた。
暖房が効いていても、足元はなかなか暖まらない。
ヒカルは、この部屋に足を踏み入れたことで、かえって体の芯が冷えていたことに気がついたのだった。
「暖かい部屋ですね」
「床暖房なんですよ。それに床材にコルクを使いました。こちらの寒さは底冷えしますからね」
どこか自慢気な説明に、ヒカルは鷹揚に頷いてみせた。
ヒカルには興味のない話題ではあったが、聞いていてつまらない話でもない。
コルク材の上に敷き詰められた絨毯は、フロアマットという代物で、20センチ四方のマットを置いていること。
そのフロアマットが耐水性、耐火性に優れ、軽い汚れなら拭き取れること、ひどく汚したとしても、
そこだけ張りかえれば済む優れものだということも、依頼主の説明で知った。
たしかに、依頼主が自慢するだけあって、モダンな内装と蔵本来の柱や梁が不思議な調和を見せる居心地のいい空間ではあった。
(8)
長い歳月にくすんだ柱に手を置いて、屋根の部分に切ってある天窓を見上げていたヒカルに、依頼主が「進藤先生」と声をかけてきた。
「はい、なんでしょう」と振り向くと、壮年の紳士はヒカルのすぐ近くに立っていた。
「昼の支度が整うまで、一局打っていただけますか?」
「勿論です。そのために伺ったんですから」
「それでは、今すぐ碁盤を運んできますから、しばらくこちらでお待ちいただけますか?」
拒む理由など、あるはずがなかった。
依頼主の言うまま、手にしていたコートと着替えの入ったバックを渡し、ヒカルは蔵の戸がゆっくり閉ざされていく一部始終を、その瞳に写していたのだった。
ガチリと、扉が音を立てて閉まる刹那、ヒカルは再び雪を見た。
ひらりと視界を過った雪片は、網膜に刻みこまれたかのように、印象的に思えた。
――――どこかで見たことがある。
白い幻影に思いを馳せるなか、進藤ヒカルは囚われた。
だが、――――本人がその事実に気づくまで、今しばらくの時間が必要だった。
(9)
依頼主がなかなか戻ってこないことに、ヒカルが不安を覚えたのは、30分も過ぎた頃だったろうか。
もっとも、携帯を持つようになってから時計を外してしまったヒカルに正確な時間がわかったわけではない。
身に染みついた感覚からの判断だ。
忘れられてたりして…と、自分のつまらない冗談に苦笑を漏らしていたヒカルも、一時間ぱ確実に過ぎた頃、初めて蔵の戸に手をかけて、愕然とした。
戸が開かないのだ。
背中を這いあがる嫌な予感を極力無視して、戸を開こうと足掻いた。
ガタガタと音はしたが、一寸たりとも動く気配はない。
昔、悪戯が過ぎると祖父の蔵に閉じ込められた日の事が思い出された。
外から閂をかけ錠をおろした戸を、中から開けることなどできないのは、経験から知っていた。
――――なぜ?
疑問は恐慌とともに訪れた。
なぜ、こんな場所に自分は閉じ込められてしまったのか?
ヒカルは、大声を張り上げ、碁盤と石を運んでくると言って、自分を置いていった依頼主の名を繰り返し、蔵の戸を叩いた。
しばらくそうして、叫んでいたが、人のやってくる気配はなかった。
疲れを覚えたヒカルは、その場にしゃがみこんでしまった。
異常な状況であるとはわかっていたが、まだ監禁されたという認識はなかった。
いまには、依頼主が慌てて飛んでくるような気がして、ヒカルは扉の前から離れる事ができなかった。
しかし、たった一つ時間の経緯を客観的に教えてくれる天窓が、夜の到来を静かに示し始めた時、ヒカルは狂ったように蔵の戸を叩き続けていた。
柔らかい皮膚が破け血を流そうとも、叩くことをやめられなかった。
恐ろしかったのだ。――――静寂が。
自分以外の気配のないことが、恐ろしかったのだ。
(10)
拳を打ちつければ、鉄板を打ち付けた戸は、ガンガンと耳障りな音を立てる。拳には振動が返ってくる。
それは、いま間違いなくヒカルの感じることのできる、反応だった。
夕刻から開かれる碁会のために、自分は招かれた事実を思い出した時、ヒカルは悪意の存在をようやく認めていた。
泣き喚き、渾身の力で拳を叩きつけ、残る力の全てで体当たりをするヒカルは、既に極限にまで追い詰められていた。
それが無駄な努力だと、冷静に考える余裕など、完全に失われていた。
蔵である。
堅牢な作りの蔵の戸が、少年の涙ぐましい努力に、報いることはなかった。
力尽き、涙で汚れた頬を拭う気力もなくしたヒカルが、戸に背中を預けた姿勢で、その場に頽れた時だった。
そのタイミングを見計らっていたように、蔵の中の照明が唐突に消えた。
それは、絶望と希望の狭間で、頼りなく揺れていた少年の精神を、奈落に突き落とすも同然だった。
完全な闇。
瞼を開けているのかも閉じているのかも、すぐには理解できない闇の中、ヒカルの中でなにかがぷつりと音を立てて、切れた。
しんしんと降る雪は、少年の絶望に満ちた悲鳴を、ただ静かに吸い取るのだった。
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