夢の魚 6 - 10
(6)
明るい水の中で、瑠璃色の魚は群れをなしていた。
「これがルリイロスズメダイ?」
「うーん」
進藤は、眉間にしわを寄せ、口を尖らせて唸っている。
「俺が、昔行った水族館では、こいつのことルリイロスズメダイっていっいてたんだけどな。
でもこれ見ると…」
進藤は水槽のガラスに貼ってあるシール状の説明書きを指でさしてから、あとを続けた。
「…ルリスズメダイってのが本当の名前みたいだな」
僕は、緒方さんにあらかじめ聞いてあった知識を、いま口にする気にはなれなかった。
そんな賢しら口は、いまの気分を台無しにするような気がしたんだ。
「コバルトスズメとも言うんだね?」
僕は、進藤の指差す解説文に目を走らせた。
「なんか…俺の知らない魚みてぇ……」
「名前が違うと?」
「うん、まあな」
そう言って、拗ねたように口をへの字にする進藤が子供っぽくて思わず噴出してしまいました。
「なんだよ、笑うなよ。こんなガキンチョの頃から、ルリイロスズメダイって信じてきたんだかんな。
それをいきなり間違ってたって言われてもな。気持がね、ついてかなねぇよ」
進藤はため息まじりに小さく笑った。
その笑みに、僕は笑った事を後悔していた。
だって……、それは最近進藤がよく見せる寂しそうに表情だったから。
「進藤…、すまない……」
僕が居たたまれない思いで謝ると、進藤は慌てて言い募った。
「な、なんだよ。なに謝ってんだよ。相変わらず、わけわかんねーな。それより!
それより、こいつら、綺麗だとおもわねえ?」
僕はその言葉に大きくうなずいて見せた。
名前がどうであろうと、青い魚は美しかった。
進藤はこの魚が、僕に似てると言っていた。
僕とどこが似ているのか問いただしたかった。そのつもりだった。
だけど、なんと切り出せばいいのかわからない。
それに確かめるのが、少しだけ怖かった。
(7)
進藤がルリイロスズメダイと長年呼んでいた魚は、本当に綺麗な青い色をしていた。
空や海を思わせる青じゃない。
それは宝石の青だ。
母の宝石箱にある青い石はなんといっただろう。エメラルド? サファイア? ルビーは確か赤い石だったと思う。
水槽の中で、珊瑚の枝を縫うようにして泳ぎ回る青い魚が、泳ぐ宝石のように思えた。
空のように、海のように、透明ではない。
もっとはっきりとした色、でも水の流れや光線の加減で、微妙に色見が変わる。
生きている青だ。息衝く青だ。
瑠璃の魚は、群れで動くのが習性らしい。
白とピンクの珊瑚の影に隠れている。でもなにかの弾みで、一遍に200前後がさあっと動き出す。
一瞬水槽の中が、青く染まったように思えるが、すぐにまた珊瑚の向こうに姿を隠す。
「綺麗だろ?」
「ああ」
「俺の一番好きな魚なんだ」
その言葉になにか特別な含みがあるようで、僕はなんと答えていいのかわからず、そっと進藤を盗み見た。が、すぐに視線を戻した。
なぜなら、進藤が見ていたのは、僕だったからだ。
胸が騒いだ。
落ち着かない。ひどく落ち着かない。
なにか言わなければと思うけど、なにを言えばいいのかわからない。
そんな僕を助けてくれたのは、一匹の魚だ。
「進藤、これはなんて言うのかな?」
「これ? どれ?」
「この魚、この黄色と黒の……」
「ええっと。これは、クマノミ……だね」
「これ……」
「いいよ、言わなくてもわかるよ。俺に似てんだろ?」
不貞腐れたような進藤の言葉に、僕は笑った。
クマノミは、金と黒の縞模様。進藤の髪のようだ。
(8)
「金色の魚だ」
僕は囁いた。
「うん?」進藤が聞き返したけれど、僕はなんでも無いと笑って頭を横に振った。
言葉にしてしまうと、つまらなくなる。
違うな。
どんなに言葉を費やしても、伝わらないものが、この世には存在するんだ。
僕は去年、進藤にsaiの面影を見た。
僕にとって、進藤は進藤でしかない。でも、それと同じぐらい強い確信がある。
僕がネットで対局したsaiは、進藤なんだ。
初めてであった頃の進藤なんだ。
いまの進藤は……、進藤であり、saiでもある。
本当に、言葉にすれば陳腐だ。訳がわからない。
誰に説明したところで、わかっては貰えない。でも間違いないんだ。
理由を言えといわれても、言えない。
だって、理屈じゃないんだ。知っているんだ。
長い間、進藤とsaiを追い求めた僕だから、わかる。
意思の疎通の為に、人間は言葉を得たはずだ。
だが、どんなに言葉を尽くしても、伝えられない想いはある。
「や……塔矢?」
名前を呼ばれて、振り向いた。
薄青い光が、進藤の輪郭を淡く染めている。
僕は夢から覚めたような気がした。
ううん、夢を見ているのかもしれない。
頬の辺りを淡く彩る水色は、あの雨の日の傘のなかを思わせる。
「進藤…?」
(9)
「つまんない?」
「え? なんで?」
「なんでって、おまえがぼんやりしてるからだろう? さっきから話しかけても、上の空だしさ」
気分を害したのだろう。進藤がすっと顔を背ける。
「あ、違う。つまんなくない。ただ、ちょっと考え事して」
「考え事?」
僕はいつになく必死になっていた。
せっかく、進藤が誘ってくれたのに、たとえ短い間でも、他の事に気を取られていたなんて。
それは、誘ってくれた進藤に失礼だ。
「うん、傘のなかで見た魚のこと……」
進藤の肩がぴくっと揺れ、ゆっくりと振りかえる。
彼の瞠いた瞳に、僕は自分の失着を知る。
言うつもりのなかったことを、僕は焦りのあまり言葉にしていたんだ。
こんな、説明したって理解してもらえないようなことを―――。
顔を背けるのは、今度は僕のほうだった。
「塔矢」
進藤が僕の手首を掴んだ。
「俺、ここでボーっとするのが好きなんだ」
そう言いながら、僕の腕を引っ張るようにして、進藤は先を急いだ。
「こっちこっち」
僕たちは水槽の中にいた。…………というのは、勿論、一瞬の錯覚。
始めて目にする形状の、水槽だった。
ドーナツ型と言えばわかってもらえるだろうか。
そのドーナツの真中の空洞に僕たちは立っていた。
青白い光のグラデーションが薄暗い水槽の中に、柔らかく溶け込んでいるようだった。
細かな気泡が、下から上へ帯のように連なってあがっていく。
金と青の魚が遊んでいた水槽が夏の海だとしたら、いま目の前にある海は冬を連想させる。
劇的な変化にとどめを差したのは、銀鱗を煌かせて泳ぐ魚群。
(10)
「マグロの回遊だよ」
進藤が呟いた。
馴染みの食材の鮮紅色が浮かんだが、目の前の銀の魚とどうしても結びつかない。
進藤に手首を引かれて、僕は水槽に近づいた。
水を切り裂くようにして、銀の魚が目の前を通りすぎていく。
「凄い」
僕は囁いていた。
「凄い迫力だろ?」
進藤が僕の感想を言い当てる。
ああ、彼も初めて目にしたとき、そう思ったんだ。
そう考えると、僕は嬉しかった。
言葉にしなくても、伝わる想いはある。
そう信じられる。
「これって世界で初めてなんだって。
マグロってさ、泳ぎつづけてないと死んじゃうんだ」
「死ぬ?」
「そう、泳ぎを止めると呼吸ができなくなるんだったかな、こっち上がって」
進藤は僕の手首を離すと、中央にしつらえた階段状の部分を上がっていく。
そこには腰を下ろせるようにベンチが並んでいた。そのベンチの前にはモニターが設置してある。
進藤はモニターの前に座ると、
「知りたいことがあったら、このタッチパネルから項目探して。俺の下手な説明より、そっちのがずっといいよ」と、肩を竦めて笑った。
「いいよ、正しい説明より、君の話のほうが気になる」
僕がそう答えると、進藤の笑顔がとても静かなものに取って代わった。
僕は、……進藤のその表情に、見蕩れていた。
いつも目にしていたと思う、あの夏の陽射しのような笑顔じゃない。
もっと静かで、もっと穏やかな、大人びた、そんな表情。
今まで、こんな進藤を目にしたことがあったろうか。
「俺も……」
そこで進藤は溜息をついた。
「……あの傘の中で、魚を見たよ」
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