夢の魚 8 - 10
(8)
「金色の魚だ」
僕は囁いた。
「うん?」進藤が聞き返したけれど、僕はなんでも無いと笑って頭を横に振った。
言葉にしてしまうと、つまらなくなる。
違うな。
どんなに言葉を費やしても、伝わらないものが、この世には存在するんだ。
僕は去年、進藤にsaiの面影を見た。
僕にとって、進藤は進藤でしかない。でも、それと同じぐらい強い確信がある。
僕がネットで対局したsaiは、進藤なんだ。
初めてであった頃の進藤なんだ。
いまの進藤は……、進藤であり、saiでもある。
本当に、言葉にすれば陳腐だ。訳がわからない。
誰に説明したところで、わかっては貰えない。でも間違いないんだ。
理由を言えといわれても、言えない。
だって、理屈じゃないんだ。知っているんだ。
長い間、進藤とsaiを追い求めた僕だから、わかる。
意思の疎通の為に、人間は言葉を得たはずだ。
だが、どんなに言葉を尽くしても、伝えられない想いはある。
「や……塔矢?」
名前を呼ばれて、振り向いた。
薄青い光が、進藤の輪郭を淡く染めている。
僕は夢から覚めたような気がした。
ううん、夢を見ているのかもしれない。
頬の辺りを淡く彩る水色は、あの雨の日の傘のなかを思わせる。
「進藤…?」
(9)
「つまんない?」
「え? なんで?」
「なんでって、おまえがぼんやりしてるからだろう? さっきから話しかけても、上の空だしさ」
気分を害したのだろう。進藤がすっと顔を背ける。
「あ、違う。つまんなくない。ただ、ちょっと考え事して」
「考え事?」
僕はいつになく必死になっていた。
せっかく、進藤が誘ってくれたのに、たとえ短い間でも、他の事に気を取られていたなんて。
それは、誘ってくれた進藤に失礼だ。
「うん、傘のなかで見た魚のこと……」
進藤の肩がぴくっと揺れ、ゆっくりと振りかえる。
彼の瞠いた瞳に、僕は自分の失着を知る。
言うつもりのなかったことを、僕は焦りのあまり言葉にしていたんだ。
こんな、説明したって理解してもらえないようなことを―――。
顔を背けるのは、今度は僕のほうだった。
「塔矢」
進藤が僕の手首を掴んだ。
「俺、ここでボーっとするのが好きなんだ」
そう言いながら、僕の腕を引っ張るようにして、進藤は先を急いだ。
「こっちこっち」
僕たちは水槽の中にいた。…………というのは、勿論、一瞬の錯覚。
始めて目にする形状の、水槽だった。
ドーナツ型と言えばわかってもらえるだろうか。
そのドーナツの真中の空洞に僕たちは立っていた。
青白い光のグラデーションが薄暗い水槽の中に、柔らかく溶け込んでいるようだった。
細かな気泡が、下から上へ帯のように連なってあがっていく。
金と青の魚が遊んでいた水槽が夏の海だとしたら、いま目の前にある海は冬を連想させる。
劇的な変化にとどめを差したのは、銀鱗を煌かせて泳ぐ魚群。
(10)
「マグロの回遊だよ」
進藤が呟いた。
馴染みの食材の鮮紅色が浮かんだが、目の前の銀の魚とどうしても結びつかない。
進藤に手首を引かれて、僕は水槽に近づいた。
水を切り裂くようにして、銀の魚が目の前を通りすぎていく。
「凄い」
僕は囁いていた。
「凄い迫力だろ?」
進藤が僕の感想を言い当てる。
ああ、彼も初めて目にしたとき、そう思ったんだ。
そう考えると、僕は嬉しかった。
言葉にしなくても、伝わる想いはある。
そう信じられる。
「これって世界で初めてなんだって。
マグロってさ、泳ぎつづけてないと死んじゃうんだ」
「死ぬ?」
「そう、泳ぎを止めると呼吸ができなくなるんだったかな、こっち上がって」
進藤は僕の手首を離すと、中央にしつらえた階段状の部分を上がっていく。
そこには腰を下ろせるようにベンチが並んでいた。そのベンチの前にはモニターが設置してある。
進藤はモニターの前に座ると、
「知りたいことがあったら、このタッチパネルから項目探して。俺の下手な説明より、そっちのがずっといいよ」と、肩を竦めて笑った。
「いいよ、正しい説明より、君の話のほうが気になる」
僕がそう答えると、進藤の笑顔がとても静かなものに取って代わった。
僕は、……進藤のその表情に、見蕩れていた。
いつも目にしていたと思う、あの夏の陽射しのような笑顔じゃない。
もっと静かで、もっと穏やかな、大人びた、そんな表情。
今まで、こんな進藤を目にしたことがあったろうか。
「俺も……」
そこで進藤は溜息をついた。
「……あの傘の中で、魚を見たよ」
|