てんし【天使】 Angel Song 4. 食事を終え、重い心を抱えながら手塚は自室に向かった。 無言でドアを開けると、部屋の内部は暗かった。 「……不二?」 小さな声で名前を呼ぶ。だが返事はなかった。 「……?」 どういうわけか、自室に不二の姿は無かった。 しかし、あることに気付いて、すぐに不安が押し寄せてきた。 「…………!」 慌てて窓の外に顔を出して周囲を見回したが、晩秋の夜の冷たい空気が肌を刺すだけだった。 「……不二……」 手塚は左手を握り締めた。爪の跡がつくほど、強く。 :*:・。,☆゚'・:*:・。,★,。・:*:・゚'☆,。・:*: 「話ってなんですか、先輩」 手塚家のちょうど真上の空中に不二はいた。手を後ろ手にして直立不動している。 「いけませんねえ、不二君」 ぎくり、と身体を強張らせた。 「……もう一ヶ月半ぐらい、ターゲットのところにご厄介になっているでしょう?」 意表をついた言葉に、不二は少し戸惑った。 「それ、は……」 先輩はそう言った後、ピンと右手の人差し指を立てて不二の方を見た。 「でもそうですね、こちらも忙しいので、ぼちぼち期限を設けましょう」 不二は目を見開いた。 期限だって? 「……そうですね、クリスマスまでにしましょう。それまでに仕事は何とか終えてくださいね」 先輩は、ふっと眼鏡の奥の瞳を優しく細めた。 「……神は全てを見守ってらっしゃいます。ターゲット……手塚君にも願い事が必要となる瞬間があるはずです。だから神は君を手塚君のもとに送ったのです」 訝しげな顔で不二は先輩の様子をうかがった。 「人間ではどうしようもないことをなんとかするために少しだけ、手を貸してあげるのが天使の仕事です」 不二は何も言えず頭を下げた。 「じゃ、ま、期限まであと一ヶ月ちょっと。なんとか、頑張ってくださいね。この仕事を終えたら年末年始休暇ですから」 それだけ告げると、夜空に白い羽根をきらめかせて先輩は去っていった。 不二は足元にある手塚家を見下ろした。 :*:・。,☆゚'・:*:・。,★,。・:*:・゚'☆,。・:*: 明け方の頃、手塚が何かこそばゆいものを感じてふと目を覚ますと、布団の中に不二の姿があった。 (何にしろ……こいつが言いたくないなら、聞かないほうが良いのかもしれない) 不二が本当に不二周助なのか、ただの自分の予想だけで確証はない。 (……もしも、そうだったら) だが、仮定の話をしても今は仕方ない。手塚は頭を振ってその考えを打ち消した。それはただの逃げだ。重圧から逃げているだけだ、と気を引き締めなした。 ――みんな、お前のこと、頼りにしてるよ。 大石に言われた言葉が思い出される。そして尊敬する元部長の顔も。 ――君には青学の柱になってもらいます。 (……大和部長) その期待に答えなくてはならない、と、気持ちだけが焦る。 負けるわけにはいかないのだ、自分は。 握り締めた拳に汗が滲んでいるのを感じて、手塚ははっと目を見開いた。 不二は、ひょっとしたら過去のことなど知らないのかもしれない。隠しておきたいだけかもしれない。……思い出したくないのかもしれない。 だが、今のままでいれるのだろうか。 天使の不二がここに来たのは、自分の願い事を叶えるためだ。 ……なかったのだ、今までは。 「……大丈夫だ」 小さく声に出して、自分に言い聞かせる。 「大丈夫だ」 もう一度、自分自身に語りかける。 :*:・。,☆゚'・:*:・。,★,。・:*:・゚'☆,。・:*: 手塚がもう一度眠りについたのを見計らって、不二はぱちりと目を覚ました。 「……手塚」 手塚はいつもたいてい鈍感なくせに、ときどき重要なことだけは妙に鋭い。物事の本質に対する直感は確かなものだ。もう少しそれが普段から使えるようになればいいのだと思うが。 「……ごめんね」 不二は小さくそう謝った。 「……遠くから見てただけだけどね、昨日の君、やっぱり凄かったよ」 「大丈夫だ」と、先ほど手塚が言っていた言葉が不二の耳に残っていた。 「……大丈夫だよね、君は。僕なんかに頼らなくても」 それだけ薄く微笑んで告げると、不二は手塚の腕の中に潜り込んだ。 :*:・。,☆゚'・:*:・。,★,。・:*:・゚'☆,。・:*: それから、数日経った頃だった。 「どうも、こんにちわです〜」 スポーツドリンクの入った袋を抱えてやってきたのは、元部長・大和だった。 「大和部長! お久しぶりです!!」 大和の差し出したスポーツドリンクを受け取った菊丸が答える。大和は困ったように首を傾げた。 「ああ……そうなんですか」 乾に問われたが、適当に濁して大和は答えた。竜崎から直々に手塚の様子についてそれとなく探るよう頼まれたのは少し言いにくい。 「……皆さん秋季大会、ご苦労様でした」 乾は何の疑いも持たずに、首を縦に振った。 :*:・。,☆゚'・:*:・。,★,。・:*:・゚'☆,。・:*: 「手塚さん!? 手塚さん、ですよね!」 一方、近所の大型スポーツショップで買い物中の手塚のもとには、茶色の髪の少年が駆け寄ってきていた。大石とは別行動をしている最中だった。 「……不二君、だったな」 不二裕太は明らかに感激した様子だった。両手をまっすぐに伸ばして脇を引き締め、背筋をピンと伸ばしている。 そこで、ふっと、裕太の言葉を思い出した。 ――兄貴が、手塚さんのこと、凄く誉めてて……。 手塚は少し呆然とした。 だから思わず口に出して聞いてしまった。 「……ところで、君の、兄、というのは……」 言ってからしまった、と思った。事故死した兄の話題をいきなり持ちかけられたら普通は不快に思うのではないか。軽率だった。 「……手塚さん、兄貴のこと……周助のこと、知ってたんですか!?」 つい最近、しかもテニス以外のことがきっかけで知る羽目になったということは、この際黙っておいた。 「そうだったんですか!? え、じゃあ、……ひょっとして、事故のことも?」 裕太の目線が下を向いた。やはりあまり好ましい話題ではないのだろう。 「でも、手塚さんが兄貴のこと覚えててくれたんなら、兄貴、すげー喜びますよ」 裕太は顔を上げると、何か吹っ切れたように笑った。 裕太の声は弾んでいた。兄のことを覚えていてくれた人がいるのが嬉しかったらしい。あまり長話するのは悪いと遠慮がちにしている様子はあったが、口から出る言葉は止められないようだった。 「兄貴、すげープライド高くて、絶対他人の事誉めたりしなかったんですよ」 それは自分の知っている天使もそうだったので、無言で納得した。 「それが初めて手塚さんの試合見た時は凄い釘付けになってて。あとでべた褒めするし。あんなに兄貴が他人に興味持ったの初めてだったんすよ」 手塚は黙り込んだままそれを聞いていた。何を言えばいいか解らなかった。 「……だから俺、手塚さんに嫉妬してたことすらあるんですよ。俺、やっぱり兄貴に憧れてたから、そんな兄貴が誉めるなんて……って」 恥ずかしいのか、裕太は少し照れ笑いで誤魔化した。 「でも自分で手塚さんのプレイ見て兄貴の言ってた意味が解りました。同じ左利きってこともあるんですけどね、なんか全身鳥肌立っちゃったっていうか。やっぱり手塚さんは凄いです。兄貴が憧れていた気持ちも解るんです。あ、すみません、一人でべらべら喋っちゃってて」 それが手塚の素直な気持ちだった。弟の口から語られることで不二周助の姿が少しずつ浮かび上がってくる。生前は全く知らなかった人間だと言うのに。 「でも、兄貴、手塚さんと戦えるの、ほんと楽しみにしてたんですよ。手塚さんが小六の時のジュニア大会、兄貴も予選通ってて。決勝トーナメントで手塚さんと戦えるってかなり浮かれてましたから。……なのに、あんなことになっちゃって。あ、でもだから、手塚さんが周助のこと覚えててくれたんなら、絶対兄貴喜びますよ!」 裕太は無邪気に笑った。その笑みを見て手塚は軽く罪悪感を覚えた。 「手塚、見つかったか?」 大石が棚の陰からひょいと顔を出した。手塚はそれで我に返った。 「……すみません、お邪魔しちゃって……でも、兄貴のこと話せて、嬉しかったです」 正直なところ、もう少し不二周助の話を聞きたいところだった。 「それじゃあ……」 と、去っていこうとする裕太を見て、はっと手塚の頭に何か閃いた。 「す、すまん……君の家に、伺いたいのだが……その、君の兄のことで、もう少し知りたいことが……」 裕太は一瞬きょとんと目を大きく見開いたが、やがて満面の笑みになった。 「も、もちろん大歓迎ッス! 俺、寮だから……実家に伝えとくっす。家の住所は……」 そう言って鞄からノートとペンを取り出すと、一番後ろのページに住所と電話番号、最寄のバス停を書いて渡してくれた。 :*:・。,☆゚'・:*:・。,★,。・:*:・゚'☆,。・:*: 不二家の仏壇には位牌と奇麗な花、そしてサボテンの鉢植えが置かれていた。花が活き活きしていることからすると、ここ数日中に変えたものだろう。 手塚は今、不二家を訪問している。裕太と会ったその次の週の日曜の午後にアポを取っておいた。練習を終えて学生服姿で不二家に向かった手塚を、不二周助と裕太の母である不二淑子が出迎えてくれた。不二家は周助が抜けて現在父・母・姉・弟の四人家族だが、父親は海外に単身赴任中、兄弟の姉は日曜でもあるのに仕事中らしい。裕太は聖ルドルフの寮に入っている。家にいるのは母親の淑子一人きりだった。 焼香を終えた後、珍しそうに仏壇を見ている手塚に、紅茶を載せた盆を持ってきた淑子が答えた。 「サボテンは周助が好きだったから。花は毎日変えてあげてるの」 少し驚いた。それほどまで頻繁に変えているというのか。 「……そうやって、ちゃんと毎日かまってやらないと、あの子が可哀想だから……」 そこまで言って、不二の母親は少し視線を落とした。 「……ううん、私の方があの子を忘れてしまいそうで恐いのかしら。あら、ごめんなさいね、辛気臭い話で」 手塚は幼稚園の時に死んだ自分の祖母を思い出していた。ともに暮らしていた家族の突然の死は家庭全体の大きな穴を生む。もう祖母はこの世にいない人物だと理解した時、どうしようもなく恐かったことは鮮明に覚えている。……自分より先に死ぬのが普通であるはずの祖母の死ですらそれほどの衝撃だったのだ。自分の息子を亡くした欠落感はどれほどのものだというのか。 「あの子のことを覚えていてくれた人がいて、本当に嬉しいわ」 不二淑子は朗らかに微笑んだ。その笑みに不二の顔が重なった。裕太とは全体的な雰囲気だけが似ていると感じたが、母親の顔には明らかに周助との血のつながりが感じられた。 「……すみません、突然押し掛けてしまって」 手塚は少し緊張していた。裕太の時に感じたものと同じ種類の罪悪感が胸にあった。 「……あの子ね、テニスじゃずっと天才だって言われつづけていて、ほとんど負けたことなかったから。同年代の子じゃ全然相手にならなかったし。年長の子でもよっぽどのことがない限り負けなかったわ」 青いファイルの資料にあった不二の成績を思い出した。確かに年上の選手相手にも余裕のスコア差で勝利を収めていた。天才の称号は伊達ではなかったらしい。 「……だからね、手塚君とは、本当に戦いたかったんだと思ってるの。初めて同い年の子とまともな試合が出来るって思ったんでしょうね」 手塚は重い口調でそれだけを答えた。 「周助が青春学園を希望していたのも手塚君に惹かれてだったみたいだし。……裕太もはじめ、青学希望だったんですけどね、『兄貴の代わりに手塚さんと戦いたい』って結局別の学校にしたのよ。今は聖ルドルフだけど」 裕太も同じことを言っていた。 「実を言うと、……不二君のことは、ほんの噂でしか知りませんでした」 何か言わなくてはけない気持ちが押し寄せてきて、手塚は口を開いた。さすがに天使のことは言えなかったが。 「試合を見たことや……直接出会ったことはありません。当然話したことも。秋季大会で裕太君に会って同学年に不二という選手がいたことを思い出しました。気になって知人に調べてもらったところ、事故の話を知って……」 ふと、ことさらに明るい口調で、淑子はこう提案した。 「そうだ、試合のビデオなんかもまだあるのよ。見てみる? 手塚君、あの子の試合見たことないんでしょう?」 その提案に、手塚は少しうろたえた。 「……しかし、そこまでご厄介になる訳には……」 切実な様子に、手塚は首を縦に振って答えた。せっかくだし好意に甘えることにした。あれだけの成績を誇った噂の天才小学生がどれだけのプレイを見せていたのか興味もあった。 仏間を出て、居間に通された。少しすると淑子は何本かのビデオテープを持ってやってきた。そのタイトルには試合名と日付が書いてあった。 何も言わず、二人でビデオを見つづけて、一時間程度経過した。 「す、すみません……すっかり見入ってしまっって」 そういう目に涙が薄く滲んでいた。 荷物を抱えると、手塚は淑子に見送られて玄関に向かった。 「では、失礼します」 微笑む不二淑子に深くお辞儀をして、手塚は不二家を後にした。 夕暮れに浮かぶ不二家を振り返った。 不二家に仏壇があるかどうかは激しく微妙ですな。天才様の家はどっちかっていうかキリスト教徒っぽいですが。 こういうこと言うとなんだか感情移入しすぎなんですが裕太や淑子さんの言葉は自分でも書いててちょっと辛かったですよ。 「先輩」については言い訳しませんが謝らせてください……すみません……趣味です……Y部長とは全くの別人です……。 |