てんし【天使】
(1)ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などで,神の使者として神と人との仲介をつとめるもの。エンジェル。
(2)やさしい心で,人をいたわる人。「白衣の―」  (新辞林 三省堂)

Angel Song

4.

 食事を終え、重い心を抱えながら手塚は自室に向かった。
 不二の顔をまともに見る自信が無かった。
 自分がもともと、人間……不二周助なのだと、不二はそれを認めなかった。
 ……認めたくないのかもしれない、と手塚はふと思った。
 それが事実だから、だろうか。

 無言でドアを開けると、部屋の内部は暗かった。
 手塚は首を捻った。
 急いでいたので、手塚は明かりをつけたまま階下に下りた。そしてそのまま食事に向かった。だから明かりはついたままだと思っていた。
 そもそも、誰もいないはずの部屋に明かりが点いているのは不自然なので、不二がいるときでも自分が部屋を出て行く際には手塚は必ず電気を消していた。不二もそれに文句は言わなかった。
 不二がわざわざ気を遣って、明かりを消したのだろうか。

「……不二?」

 小さな声で名前を呼ぶ。だが返事はなかった。
 不思議に思いながら電灯のスイッチを入れる。
 ちかちかと何度か煌いて電灯が点った時、部屋の中に想像していた人物は居なかった。

「……?」

 どういうわけか、自室に不二の姿は無かった。
 手塚は少しだけ安心した。今の気持ちのまま不二に会うのは正直辛かったからだ。不二と顔を合わせなくてすむと思うとほっとした。

 しかし、あることに気付いて、すぐに不安が押し寄せてきた。
 自分が不二の正体に感づいたから、不二は姿を消したのではないかと。
 過去を知るのは、何か、大きな問題だったのではないかと。
 部屋の窓が大きく開いていた。ここから出て行ったに違いなかった。

「…………!」

 慌てて窓の外に顔を出して周囲を見回したが、晩秋の夜の冷たい空気が肌を刺すだけだった。
 外に変わった様子はない。結局何の手がかりもなかった。

「……不二……」

 手塚は左手を握り締めた。爪の跡がつくほど、強く。
 大きく開かれたままの窓から、風が室内に吹き込んできた。

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「話ってなんですか、先輩」

 手塚家のちょうど真上の空中に不二はいた。手を後ろ手にして直立不動している。
 手塚が電話のために階下に下りていってしばらくした後、いきなり緊急呼び出しをくらったのである。
 相手は天界において、天使としての自分の先輩に当たる人物だった。不二の目の前に浮いている。全身白の服装は不二とよく似ていたが、不二に比べると全然似合っていなかった。
 不二としてはかなり不愉快だった。先輩は天使としてはベテランらしいがどうも掴み所が無くて飄々としていてとりつくしまが無い。はっきり言って苦手なタイプだった。
 先輩は困ったような口調でこう言った。

「いけませんねえ、不二君」
「……何の、ことですか」

 ぎくり、と身体を強張らせた。
 先輩に問い詰められるようなことなら、不二には思い当たる節がたくさんあった。とくに今日のことなど。
 だが、問われたのは不二の予想外のことだった。

「……もう一ヶ月半ぐらい、ターゲットのところにご厄介になっているでしょう?」

 意表をついた言葉に、不二は少し戸惑った。
 確かに、不二はもうそれぐらい、手塚家に居候している。それを知ってるのは手塚だけとはいえ。

「それ、は……」
「ま、願い事がなかなか見つからない、っていうのは良くあるパターンですから。仕方ないとは思うんですが……」

 先輩はそう言った後、ピンと右手の人差し指を立てて不二の方を見た。

「でもそうですね、こちらも忙しいので、ぼちぼち期限を設けましょう」
「え……」

 不二は目を見開いた。

 期限だって?
 そんな話、聞いていなかった。
 少なくとも今までの仕事ではなかった。
 なのに今更、どうして。

「……そうですね、クリスマスまでにしましょう。それまでに仕事は何とか終えてくださいね」
「で、でも……手塚、全然願い事なんか……神頼みなんてするわけ……」
「……不二君」

 先輩は、ふっと眼鏡の奥の瞳を優しく細めた。

「……神は全てを見守ってらっしゃいます。ターゲット……手塚君にも願い事が必要となる瞬間があるはずです。だから神は君を手塚君のもとに送ったのです」
「………………?」

 訝しげな顔で不二は先輩の様子をうかがった。
 あの手塚が、神頼みを必要とする機会なんて、想像できなかった。

「人間ではどうしようもないことをなんとかするために少しだけ、手を貸してあげるのが天使の仕事です」
「……………」

 不二は何も言えず頭を下げた。
 手塚が自分の手を借りる機会なんて想像できなかった。
 先輩は踵を返すと、背中の羽根を何回かはためかせた。

「じゃ、ま、期限まであと一ヶ月ちょっと。なんとか、頑張ってくださいね。この仕事を終えたら年末年始休暇ですから」

 それだけ告げると、夜空に白い羽根をきらめかせて先輩は去っていった。

 不二は足元にある手塚家を見下ろした。
 手塚の部屋の窓から電灯の明かりが漏れていた。不二は電気を消して部屋から出てきた。明かりが点いている、ということは手塚が戻ってきたと言うことになる。
 だが、どうしてもすぐにその部屋に戻る気にはなれなかった。

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 明け方の頃、手塚が何かこそばゆいものを感じてふと目を覚ますと、布団の中に不二の姿があった。
 気持ちよさそうに眠っている。
 少し安心した手塚は、ほっと息をついた。消えたわけでは無いらしい。
 不二が何時帰ってくるか解らなかったので窓の鍵を開けておいた。帰ってこない可能性はあったがそれでも何かしておきたかった。
 手塚の顔にかかっていたのは、不二の髪の毛だったようだ。
 その髪を指で何本か救い上げる。
 日本人にしては色素の薄いその髪は、試合の時にあった不二裕太のものと同じように見えた。

(何にしろ……こいつが言いたくないなら、聞かないほうが良いのかもしれない)

 不二が本当に不二周助なのか、ただの自分の予想だけで確証はない。
 だが、自分の中にはあの天使が不二周助だという奇妙な確信がある。
 もしも、噂の天才小学生が事故死していなくて。
 そしてもしも、青学に入学していれば。
 間違いなくすぐにレギュラーになっていただろう。

(……もしも、そうだったら)

 だが、仮定の話をしても今は仕方ない。手塚は頭を振ってその考えを打ち消した。それはただの逃げだ。重圧から逃げているだけだ、と気を引き締めなした。

 ――みんな、お前のこと、頼りにしてるよ。

 大石に言われた言葉が思い出される。そして尊敬する元部長の顔も。

 ――君には青学の柱になってもらいます。

(……大和部長)

 その期待に答えなくてはならない、と、気持ちだけが焦る。

 負けるわけにはいかないのだ、自分は。
 決して、誰にも。
 ここで負けてしまってはならないのだ。

 握り締めた拳に汗が滲んでいるのを感じて、手塚ははっと目を見開いた。
 身体を揺らしたせいで不二にも振動を与えたのか、不二が少し嫌そうに唸り声をあげた。
 それを見て、手塚はそっと横になっている不二の肩を左手で抱いて引き寄せた。
 熱のない奇妙な身体の感覚が、どこか心地よかった。
 ふんわりと甘い香りがした。

 不二は、ひょっとしたら過去のことなど知らないのかもしれない。隠しておきたいだけかもしれない。……思い出したくないのかもしれない。
 どちらにしろ、不二周助のことは不二の前では言わない方がよいのではないか、と、手塚はそう考えていた。
 今のままでいたいなら、下手に画策しない方が無難だろう。

 だが、今のままでいれるのだろうか。
 そんな疑問が頭の片隅によぎった。
 この関係は、ほんの偶然が生んだ一時的なものに過ぎないのだ。
 いつまでも維持できるものではない。

 天使の不二がここに来たのは、自分の願い事を叶えるためだ。
 だが、手塚には神頼みしたいような願い事はなかった。

 ……なかったのだ、今までは。

「……大丈夫だ」

 小さく声に出して、自分に言い聞かせる。
 一時的なものに過ぎないのだ、これだって。
 だから、天使に願い事などしなくても、ちゃんと解決することはできるはずだ。

「大丈夫だ」

 もう一度、自分自身に語りかける。
 まだ夜明けまで時間があった。
 不二の寝顔を見ているうちに、何時の間にか、手塚は再び眠りについていた。

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 手塚がもう一度眠りについたのを見計らって、不二はぱちりと目を覚ました。
 帰ってきたのは深夜を回ってからのことだった。手塚の部屋の電気が消えているのを確認してからこっそり入ってきた。壁抜けもできるが、窓の鍵をあけておいてくれた手塚の好意に甘えた。
 その後手塚の寝ているベッドに入ったが、眠りが浅かったせいか、肩を抱かれて目が覚めた。
 だが、起きていることは言えなかった。
 手塚の腕が震えているのが感じられたためだった。

「……手塚」

 手塚はいつもたいてい鈍感なくせに、ときどき重要なことだけは妙に鋭い。物事の本質に対する直感は確かなものだ。もう少しそれが普段から使えるようになればいいのだと思うが。
 しかし手塚が何に気付いているにせよ、不二は自分から本当のことを言うことは出来ない。

「……ごめんね」

 不二は小さくそう謝った。
 正直に話せばお互いに楽になるかもしれないが、それは出来なかった。
 自分には結局見てるだけしか出来ないのだから。
 クリスマスまであと一ヶ月と少し、その間だけ黙っていればいいだけの話だ。
 それが終われば、どうせ、離れ離れになる。
 今更深く知らない方が、お互いのためだ。

「……遠くから見てただけだけどね、昨日の君、やっぱり凄かったよ」

 「大丈夫だ」と、先ほど手塚が言っていた言葉が不二の耳に残っていた。
 手塚が何に対してそう言ったのか解らないが、確かに手塚の強さがあれば、神や天使に頼る必要なんてないだろう。
 彼は一人で未来を切り開いて行くことが出来る。

「……大丈夫だよね、君は。僕なんかに頼らなくても」

 それだけ薄く微笑んで告げると、不二は手塚の腕の中に潜り込んだ。

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 それから、数日経った頃だった。
 青学テニス部には学生服姿の一人の客が訪れていた。

「どうも、こんにちわです〜」

 スポーツドリンクの入った袋を抱えてやってきたのは、元部長・大和だった。
 部室にいたレギュラーの面々、とくに一年生の頃に世話になった二年生の面々は直立不動して一礼した。

「大和部長! お久しぶりです!!」
「今は部長じゃないですってば。ちょっとスミレちゃんに呼ばれて様子見に来たんですが……ところで手塚君は?」
「今日は大石と備品の買い物に出てるよん。一時間ぐらいしたら戻ってくるって言ってたけど」

 大和の差し出したスポーツドリンクを受け取った菊丸が答える。大和は困ったように首を傾げた。
 今日はあまり長居していられないのだ。直接会うことは難しそうだった。

「ああ……そうなんですか」
「手塚に、用事があったんですか?」
「まあ……とりあえず、この前の試合のことでも聞こうかな、と」

 乾に問われたが、適当に濁して大和は答えた。竜崎から直々に手塚の様子についてそれとなく探るよう頼まれたのは少し言いにくい。
 今の青学テニス部にとって部長としての手塚の存在は間違いなく精神的支柱になっている。そして多分、そのことが責任感の並外れて強い手塚にとっては一つのプレッシャーになっているだろうと想像される。本人はプレッシャーだとは考えていなくとも。
 ここで自分と竜崎が動いていることを明かすのは部内にとっても、そして手塚にとっても得策ではないだろう、と考えた。

「……皆さん秋季大会、ご苦労様でした」
「あ、きーてきーて大和部長!! 俺、おーいしと、ダブルスで……」
「それはもうスミレちゃんから聞いてますよ。菊丸君、随分伸びましたねえ。シングルスも順調で安心してます。……ところで、乾君」
「? なんですか?」
「……秋季大会のビデオとか、ありませんか?」

 乾は何の疑いも持たずに、首を縦に振った。

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「手塚さん!? 手塚さん、ですよね!」

 一方、近所の大型スポーツショップで買い物中の手塚のもとには、茶色の髪の少年が駆け寄ってきていた。大石とは別行動をしている最中だった。
 秋季大会で出会った少年、不二裕太だとすぐに解った。

「……不二君、だったな」
「名前まで覚えていてもらって恐縮です! 今日はどうされたんですか?」
「部活の備品の買い物だ」
「あ、俺も同じッス。つっても俺はパシリみたいなもんですけどね」

 不二裕太は明らかに感激した様子だった。両手をまっすぐに伸ばして脇を引き締め、背筋をピンと伸ばしている。
 先日のやり取りはまだ記憶に新しい。不二周助のことを知る手がかりとなったのだから当然覚えている。

 そこで、ふっと、裕太の言葉を思い出した。

 ――兄貴が、手塚さんのこと、凄く誉めてて……。

 手塚は少し呆然とした。
 迂闊にも気付かなかった。
 不二裕太の言う「兄貴」とは、不二周助のことで間違いないだろう。
 だとすると、手塚は不二周助のことは知らなかったが、不二周助の方は、自分のことを知っていたと言うのか。

 だから思わず口に出して聞いてしまった。

「……ところで、君の、兄、というのは……」

 言ってからしまった、と思った。事故死した兄の話題をいきなり持ちかけられたら普通は不快に思うのではないか。軽率だった。
 だが、手塚の予想に反して、裕太は少し目を丸くして驚いていた。

「……手塚さん、兄貴のこと……周助のこと、知ってたんですか!?」
「……少しだが。君の名前を聞いて気になってな」

 つい最近、しかもテニス以外のことがきっかけで知る羽目になったということは、この際黙っておいた。

「そうだったんですか!? え、じゃあ、……ひょっとして、事故のことも?」
「……ああ」
「そう、ですか……」

 裕太の目線が下を向いた。やはりあまり好ましい話題ではないのだろう。

「でも、手塚さんが兄貴のこと覚えててくれたんなら、兄貴、すげー喜びますよ」
「…………喜ぶ?」
「兄貴、手塚さんのことべた褒めしてましたから。手塚さんが青学志望だって言う話聞いて、 兄貴も青学に行きたいって言ってましたし」

 裕太は顔を上げると、何か吹っ切れたように笑った。
 手塚は少し混乱していた。写真の中の不二周助の顔と天使の不二の顔がダブって浮かぶ。
 ……不二周助は青学を志望していたという。
 しかも自分のために。

 裕太の声は弾んでいた。兄のことを覚えていてくれた人がいるのが嬉しかったらしい。あまり長話するのは悪いと遠慮がちにしている様子はあったが、口から出る言葉は止められないようだった。

「兄貴、すげープライド高くて、絶対他人の事誉めたりしなかったんですよ」
「…………」

 それは自分の知っている天使もそうだったので、無言で納得した。

「それが初めて手塚さんの試合見た時は凄い釘付けになってて。あとでべた褒めするし。あんなに兄貴が他人に興味持ったの初めてだったんすよ」

 手塚は黙り込んだままそれを聞いていた。何を言えばいいか解らなかった。

「……だから俺、手塚さんに嫉妬してたことすらあるんですよ。俺、やっぱり兄貴に憧れてたから、そんな兄貴が誉めるなんて……って」

 恥ずかしいのか、裕太は少し照れ笑いで誤魔化した。

「でも自分で手塚さんのプレイ見て兄貴の言ってた意味が解りました。同じ左利きってこともあるんですけどね、なんか全身鳥肌立っちゃったっていうか。やっぱり手塚さんは凄いです。兄貴が憧れていた気持ちも解るんです。あ、すみません、一人でべらべら喋っちゃってて」
「いや……構わん」

 それが手塚の素直な気持ちだった。弟の口から語られることで不二周助の姿が少しずつ浮かび上がってくる。生前は全く知らなかった人間だと言うのに。
 不二周助と天使が重なるから、尚更だった。

「でも、兄貴、手塚さんと戦えるの、ほんと楽しみにしてたんですよ。手塚さんが小六の時のジュニア大会、兄貴も予選通ってて。決勝トーナメントで手塚さんと戦えるってかなり浮かれてましたから。……なのに、あんなことになっちゃって。あ、でもだから、手塚さんが周助のこと覚えててくれたんなら、絶対兄貴喜びますよ!」
「……そうか……」

 裕太は無邪気に笑った。その笑みを見て手塚は軽く罪悪感を覚えた。
 不二周助のことを昔から知っていたわけではないからだ。本当のことを言えば喜んでもらえるとは思えなかった。
 何か重い気持ちだけが心に残っている。

「手塚、見つかったか?」

 大石が棚の陰からひょいと顔を出した。手塚はそれで我に返った。
 裕太もながいこと立ち話をしていたことに気がついたのが、手塚に対して一礼した。

「……すみません、お邪魔しちゃって……でも、兄貴のこと話せて、嬉しかったです」
「いや、こっちも、貴重な話が聞けてよかった」

 正直なところ、もう少し不二周助の話を聞きたいところだった。
 だが、今はお互いに長居できる状況ではなかった。

「それじゃあ……」

 と、去っていこうとする裕太を見て、はっと手塚の頭に何か閃いた。

「す、すまん……君の家に、伺いたいのだが……その、君の兄のことで、もう少し知りたいことが……」

 裕太は一瞬きょとんと目を大きく見開いたが、やがて満面の笑みになった。

「も、もちろん大歓迎ッス! 俺、寮だから……実家に伝えとくっす。家の住所は……」

 そう言って鞄からノートとペンを取り出すと、一番後ろのページに住所と電話番号、最寄のバス停を書いて渡してくれた。

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 不二家の仏壇には位牌と奇麗な花、そしてサボテンの鉢植えが置かれていた。花が活き活きしていることからすると、ここ数日中に変えたものだろう。

 手塚は今、不二家を訪問している。裕太と会ったその次の週の日曜の午後にアポを取っておいた。練習を終えて学生服姿で不二家に向かった手塚を、不二周助と裕太の母である不二淑子が出迎えてくれた。不二家は周助が抜けて現在父・母・姉・弟の四人家族だが、父親は海外に単身赴任中、兄弟の姉は日曜でもあるのに仕事中らしい。裕太は聖ルドルフの寮に入っている。家にいるのは母親の淑子一人きりだった。

 焼香を終えた後、珍しそうに仏壇を見ている手塚に、紅茶を載せた盆を持ってきた淑子が答えた。
 手塚は頭を下げて、勧められるままに机の方に移動した。。

「サボテンは周助が好きだったから。花は毎日変えてあげてるの」
「……毎日、ですか」

 少し驚いた。それほどまで頻繁に変えているというのか。

「……そうやって、ちゃんと毎日かまってやらないと、あの子が可哀想だから……」

 そこまで言って、不二の母親は少し視線を落とした。

「……ううん、私の方があの子を忘れてしまいそうで恐いのかしら。あら、ごめんなさいね、辛気臭い話で」
「い、いえ……気持ちは、解ります」

 手塚は幼稚園の時に死んだ自分の祖母を思い出していた。ともに暮らしていた家族の突然の死は家庭全体の大きな穴を生む。もう祖母はこの世にいない人物だと理解した時、どうしようもなく恐かったことは鮮明に覚えている。……自分より先に死ぬのが普通であるはずの祖母の死ですらそれほどの衝撃だったのだ。自分の息子を亡くした欠落感はどれほどのものだというのか。

「あの子のことを覚えていてくれた人がいて、本当に嬉しいわ」

 不二淑子は朗らかに微笑んだ。その笑みに不二の顔が重なった。裕太とは全体的な雰囲気だけが似ていると感じたが、母親の顔には明らかに周助との血のつながりが感じられた。

「……すみません、突然押し掛けてしまって」
「謝らなくてもいいわ。周助のことで尋ねてきてくれるなんて感謝してるの。手塚君の名前は噂で聞いているわ。中学テニスじゃかなり有名なんですってね」
「いえ……それほどでも」
「謙遜しなくても。裕太からいろいろと話は聞いたわ。周助が気にしていた選手って言うだけでかなり珍しいもの。しかも同学年で」

 手塚は少し緊張していた。裕太の時に感じたものと同じ種類の罪悪感が胸にあった。

「……あの子ね、テニスじゃずっと天才だって言われつづけていて、ほとんど負けたことなかったから。同年代の子じゃ全然相手にならなかったし。年長の子でもよっぽどのことがない限り負けなかったわ」

 青いファイルの資料にあった不二の成績を思い出した。確かに年上の選手相手にも余裕のスコア差で勝利を収めていた。天才の称号は伊達ではなかったらしい。

「……だからね、手塚君とは、本当に戦いたかったんだと思ってるの。初めて同い年の子とまともな試合が出来るって思ったんでしょうね」
「……そう、だったんですか」

 手塚は重い口調でそれだけを答えた。

「周助が青春学園を希望していたのも手塚君に惹かれてだったみたいだし。……裕太もはじめ、青学希望だったんですけどね、『兄貴の代わりに手塚さんと戦いたい』って結局別の学校にしたのよ。今は聖ルドルフだけど」
「…………」

 裕太も同じことを言っていた。
 不二周助は自分との試合を楽しみにしていた。そして青学への入学を希望していた。
 それなのに事故で死んだ。
 その無念がどれほどのものだったか。
 汗ばんだ左手をぐっと握りしめる。

「実を言うと、……不二君のことは、ほんの噂でしか知りませんでした」

 何か言わなくてはけない気持ちが押し寄せてきて、手塚は口を開いた。さすがに天使のことは言えなかったが。

「試合を見たことや……直接出会ったことはありません。当然話したことも。秋季大会で裕太君に会って同学年に不二という選手がいたことを思い出しました。気になって知人に調べてもらったところ、事故の話を知って……」
「……そうだったの」
「……申し訳ありません」
「どうして謝るの? きっと、こうして来てくれただけで周助は喜んでいるわ」

 ふと、ことさらに明るい口調で、淑子はこう提案した。

「そうだ、試合のビデオなんかもまだあるのよ。見てみる? 手塚君、あの子の試合見たことないんでしょう?」

 その提案に、手塚は少しうろたえた。

「……しかし、そこまでご厄介になる訳には……」
「厄介なんかじゃ全然ないわ。……あの子のためにも、手塚君に見てやって欲しいの」

 切実な様子に、手塚は首を縦に振って答えた。せっかくだし好意に甘えることにした。あれだけの成績を誇った噂の天才小学生がどれだけのプレイを見せていたのか興味もあった。

 仏間を出て、居間に通された。少しすると淑子は何本かのビデオテープを持ってやってきた。そのタイトルには試合名と日付が書いてあった。
 ビデオをセットして再生をはじめる。家庭用ビデオで撮影したものなので画像は鮮明とはいえない。ブレも雑音も多い。それでも、画面のほぼ真中にいる小柄な少年だけをずっと追いつづけていた。
 手塚は思わず見入っていた。
 まだ小学生だと言うのが信じられない技巧の高さだった。身長や体力のハンデもあれだけずば抜けたセンスがあれば無効化できただろう。試合ごとに動きの良さに差があるが、それは努力で身につけたものよりも天性の才能に多くを頼っている証拠とも考えられる。
 これだけの選手が中学でテニスを続けていれば、どれほどの戦力になっただろうか。
 対峙できれば、どれほどよい試合が出来ただろうか。
 ……だが、それらは全て、仮定の話でしかないのだ。

 何も言わず、二人でビデオを見つづけて、一時間程度経過した。
 時計を見るともうそろそろ夕方に差し迫っていた。
 見入っていた手塚は慌てて立ち上がった。

「す、すみません……すっかり見入ってしまっって」
「あ、あら……いいのよ、私も懐かしかったし」

 そういう目に涙が薄く滲んでいた。

 荷物を抱えると、手塚は淑子に見送られて玄関に向かった。

「では、失礼します」
「ええ、今日は本当にありがとうね」
「こちらこそ、ご厄介になりました。ありがとうございます」

 微笑む不二淑子に深くお辞儀をして、手塚は不二家を後にした。

 夕暮れに浮かぶ不二家を振り返った。
 ……天使の不二が何者であるにせよ、不二周助は、もう、あの場所にはいないのだ。
 その事実がどうしてか酷く胸に重くのしかかっていた。


不二家に仏壇があるかどうかは激しく微妙ですな。天才様の家はどっちかっていうかキリスト教徒っぽいですが。

こういうこと言うとなんだか感情移入しすぎなんですが裕太や淑子さんの言葉は自分でも書いててちょっと辛かったですよ。
死にネタは難しいなあ……。

「先輩」については言い訳しませんが謝らせてください……すみません……趣味です……Y部長とは全くの別人です……。

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