てんし【天使】
(1)ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などで,神の使者として神と人との仲介をつとめるもの。エンジェル。
(2)やさしい心で,人をいたわる人。「白衣の―」  (新辞林 三省堂)

Angel Song

6.

 11月も終わりに差し迫った、ある土曜日の午後だった。

「あれ? 手塚と大石は?」

 体育用具室に備品を片付けに行って帰ってきた乾は、すでに部室に部長と副部長の姿が無いことに疑問を抱いた。
 それに答えたのは椅子に腰掛けて靴紐を結んでいた菊丸だった。

「大石は今日は用事があるんだってさ……手塚と」

 顔を上げずに言う。やや拗ねた口調だった。黄金ペアの片割れとして大石を手塚に取られたようで悔しいらしい。

「……で、二人に見捨てられたという訳か」
「そーじゃない!! 今日だけなの!!」

 菊丸は猛烈に反発した。
 だが、すぐに声の調子が下がる。

「……それに、大石、最近ちょっとやつれてたから……」
「……ん?」
「なんかー、心配事、あるみたいだったし。ほら大石って自分で溜め込むタイプだから」
「……そうだな」

 乾は冷静に肯定した。言われてみれば、最近の大石には時々挙動不審なところがある。

「大石もさー、そーゆーのだったら、俺より、手塚の方が話しやすいんじゃないかなーって……」
「それは確かだな」

 あまりにもあっさり乾が認めたので、菊丸はがくっと肩から力が抜けた。
 半眼で乾を睨みつける。

「……そこはさー、嘘でも否定するところじゃねーの?」
「そうか。悪かった」
「……いやまあいいけどさー」

 なんだか負に落ちない気分を抱えながら菊丸は立ち上がった。
 怒らせたか、と思った乾は慌ててフォローに務めた。

「しかしだな、大石にとってお前と手塚じゃ位置付けも違うんじゃないか?」
「まあ……そんなの解ってるけどー……」

 菊丸はまだすっきりしないようだった。

「……それに、だな」

 乾はそこで一度言葉を切った。
 まだ確実なデータはない。推論の域でしかないので確信はもてない。だいたい、もしもこんな事態があったとしたら間違いなく青学テニス部最重要機密だ。
 だから自分も迂闊なことは言えない、が。
 言葉にしないと、圧し掛かってくる不安で押し潰されそうだった。

「……もしかしたら、逆かもしれないぞ」
「……え? 逆?」

 菊丸が首を傾げる。解っていないらしい。
 最近の大石の不調と大和の行動。二人に関わってくるキーワードが手塚である確率は高い。
 だが、乾は頭に浮かんだ嫌な考えを追い払うために首を振った。そんなことが、あるはずがない。
 それにまだデータのそろっていない事を口にするのは、自分のポリシーに反する。
 今度は乾が菊丸から目を反らして帰り支度を始めた。

「いや、なんでもない。忘れてくれ」
「え、ちょっとそう言われると余計気になるんだけど……」
「気にするな。じゃあな」
「え、乾ってばー!?」

 追いすがってくる菊丸を無視する形で乾は部室を出て歩き出した。
 秋も終わりに近づいたが、午後の陽光はかなり暖かい。
 校内の銀杏並木から黄葉した葉がひらひらと舞い落ちている。
 何の問題も無い、穏やかな秋の一日のはずだった。

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「……大丈夫だったの」

 同日の夕暮れ、問題の手塚の自室では、居候の天使が帰宅したばかりの部屋の主に詰め寄っていた。

「何のことだ」

 学生服を脱いで片付けながら、手塚は普段通りの無愛想で不二に答えた。

「病院だったんでしょ、今日。副部長の親戚とか言う……」
「……大石の叔父さんに当たる人だ。腕は確かだ」
「……だから、大丈夫だったのか聞いてるんだけど」
「ああ」

 肯定なのか否定なのか、どっちとも取れない返事だった。
 帰ってきてから未だに目を合わせない手塚の顔面に不二は回りこんだ。
 間近で睨みつける。

「……はっきり聞くよ。左腕、どうだったの? 何か……異常があったの」

 手塚が左腕の異変を不二の前で認めたのは、数日前のことだった。
 大石と大和に問い詰められて、手塚は素直に白状した。

 時折、腕が思い通りに動かせなくなるのだと。

 ここ一ヶ月、自主練を続けていたのはそのためだった。
 痛みがさほどあるわけではなく、ただの練習不足からくるものだと考えていたからだ。それでなくても秋先は生徒会選挙や何やらでまともな練習があまり出来なかったという自覚があった。
 それが原因だと、信じたかっただけかもしれない。
 とにかく一度検査してもらおう、ということになって、大石の叔父だという医者のもとに極秘で連れて行かれることになった。
 それが今日の午後のことだった。

「……とくに問題があるわけではない、と言われた。極度の疲労がたたっただけだ」
「そういうのが一番恐いんだよ。テニス肘もあるわけだし……」

 不二だってもともと経験者だ。その恐さは良く知っている。
 それに、と不二は更に付け加えた。

「君、入学直後になんか左肘に古傷作ったんだって?」
「…………」

 手塚は何も答えなかった。
 だが、その沈黙そのものが肯定と同じだった。

「ちょっとね、話、立ち聞きしちゃってさ……」

 この数日間、竜崎や大和、大石の周囲を探って情報収集に務めていた不二だった。だがそこまでは言わなかった。
 その過程で、手塚が入学直後、才能を妬んだ先輩から腕をラケットでぶたれたことを知った。
 大石と大和が左肘の異変に慌てていたのはこのことを知っていたからに違いなかった。

「そんな爆弾抱えてるのに、違和感があるならどうしてもっと早く言わなかったんだよ」
「あの古傷とは関係ないと判断しただけだ。病院でもそのことには触れられなかった」
「……実際さ、関係なかったとしても、疑ってしかるべきだろう? ただの怠慢だよ、それは」
「……確かにな」

 手塚がいたって冷静なのに、不二は込み上げて来る怒りを抑えきれなかった。
 思わず胸倉を掴み上げた。

「……いい加減にしなよ」

 そしてそのままベッドに押し倒す。
 突然のことに、手塚は目を見開いた。

「それでなくても君の存在はテニス部の支えになってるんだ。だから君のことで顧問や先輩まで巻き込んで一騒動になってるんだろ? その辺、ちゃんと解ってるの?」
「……それは……」

 手塚の顔に動揺が見えた。肩を抑え上から全体重をかけてのしかかりながら、畳み掛けるように不二は続けた。

「ああ、支えになってるって知ってるから逆に何も言い出せなかったんだね? みんなに遠慮して? でもさ、下手に増やしてたら余計悪化するってことわかってなかったの? 手遅れになってからじゃ遅いんだよ?」
「言われずとも、解っている……」
「解ってないよ……全然解ってないって、君」

 思わず不二は手塚の唇に噛み付いた。

「君からテニス取って、何が残るって言うんだよ」
「……!」

 左肩を押さえつけていた不二の左手が下に伸びてきて、股間をズボンの上から弄った。

「っ……何を!!」
「何って? 君が教えてくれないから、身体に聞こうと思ってさ」

 ジッパーを下ろした指が下着の隙間から、直接素肌に触れてきた。いつもの口淫の時とは違う、一気に身体を高めようとする荒々しい手つきで。
 そもそも、部屋には明かりも点いている。まだ夕暮れ時、夕食の前だ。
 痛みを感じて手塚はぐっと目を閉じた。

「……っ止め……!」
「嫌なら抵抗しなよ。その左手でね。そもそも君のほうが腕力も体格もいいんだから片手があいてるんだったらなんとかなるだろう?」
「……お前……!!」

 手塚が左手の指先を握り締める様子が不二の視界の端に見えた。
 だが行為はそのまま続けた。
 指を更に奥まで差し込んで、指先で睾丸を弄ぶ。手のひらで押し付けるようにしながら全体を刺激すると、どんどん熱が溜まっていった。
 息が荒くなってきた手塚は、首を横に向けて歯を食いしばっていた。

「……止めろ、こんな……!!」
「どうしたの? 言ってるだけじゃ駄目だよ。左手に何の不安も無いんだったら僕のことなんか突き飛ばせばいいじゃん。じゃないと前だけじゃすまないかもよ?」

 指先が睾丸の付け根をなぞってさらに下に下りていった。
 そして、後ろの穴の付近を緩やかに撫でまわす。
 前との刺激と合わせて、今まで味わった事のない感覚に全身が総毛だった。

「く……」

 不二の言う通りだった。
 左手があいているのだから、それで不二の身体を払いのければいいだけの話だ。それだけだ。

 握り締めていた拳をほどいて左手を少し浮かした。不二の脇腹に指先が触れる。
 それで不二の体が一瞬強張った。
 だが、手塚の抵抗はそこまでだった。
 手塚を見つめていた不二の瞳が悲しげに細められた。

「……手塚」
「…………ッ」

 その時、ドア越しに手塚を呼ぶ声がした。

「国光、夕飯よー」
「……!」

 彩菜の声で気が殺がれて力の抜けた不二の身体を、手塚は右肩を起こすようにして押しのけた。
 やはり左手は使わなかった。
 荒い息を落ち着け、服の身だしなみを調えなおす。
 不二は呆然とした様子で、ベッドに座り込んでいた。

「……やっぱり、本当に……」

 下を向いたまま、不二が独り言のように呟く。
 手塚はその様子を、黙って見た。
 部屋を出て行くとき、不二に背中を向けた状態で、これだけ告げた。

「……お前が、心配することじゃ、ない」
「手塚」
「……大丈夫だ、俺は」

 だが、不二の顔を見ながらそう言うことは、出来なかった。

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 部屋から出て行く手塚を、不二は呆然と眺めていた。
 頭の中で先ほどの会話を反芻する。

 大丈夫、だって?
 何が大丈夫だというのだろう。

 左手を使って拒むことを躊躇ったクセに。
 あれが異変の証拠じゃなくて、何だと言うのだろう。

(だいたい、嘘が下手なんだよ……君は)

 倒れこむように不二はベッドに横になった。
 自分が手塚を押し倒した時の人肌のぬくもりが、まだ布団の上に残っている。
 仰向けになって、右手で顔を覆った。

 左手の故障は選手生命に関わることだ。早めに対処できるならそれに越したことはないはずだ。
 それに一度検査して異常が発見されれば、一生それがついてまわる。完治したといっても何時それが再発するかわからない恐怖との中で試合を続けなくてはならない。
 なのに手塚は左肘の異変を誰にも言い出さなかった。

 ……言い出せなかったのだ。きっと。

 手塚の存在はテニス部の柱だ。そこにヒビが入ったと言う噂は、青学の部員たちはもちろん全国レベルで広まるだろう。これからの部活に差し障ることは確かだ。それを恐れていたのだろう。
 だが、それで取り返しのつかない事態に陥ったら、それこそ最悪だと言うのに。
 人は往々にして、自分に都合のいい解釈を選んでしまうことが多い。
 あの手塚でも、都合のいい想像に縋って現実が見えなくなっていたのだろうか。
 それとも最悪の事態に思い至らないぐらいのプレッシャーだったのだろうか。

(もともと、責任感の塊みたいなもんだからな……)

 才色兼備のためか、なんでも自分一人でなんとかなると思い込んでいるところがある。他人に頼る、という考えがなかなか出てこないらしい。テニスに至ってはなまじ自分の腕前が突出しているだけにその傾向は強い。

 そう考えて、不二の脳裏に、ある仮定が閃いた。
(……もしも、僕がいたら)
 テニスの腕で、少しでも手塚の支えに成れただろうか。

 だが、そんな仮定の話をしても仕方がない。不二はその考えを頭から消した。

 ふと、右手の指の隙間から白い天井を伺った。染み一つない、真っ白な天井だった。
 目を細めると、その天井がぐにゃりと歪んだ。
 妙に近くに天井が迫っているように見えた。

 手塚の左肘を確実に治す方法はある。
 自分でもわかっている。
 それさえ使えば、手塚には何の不安もなくなる。再発に怯えることもない。
 間違いなくそれが最善の方法だと自分は知っている。だいたい、そのために自分はここに来たのだから。
 左肘の完治を、手塚の願いごとにする。
 それがお互いにとって最善だ。
 なのに、自分からそれを提案することは躊躇われた。
 どうしてだろう、と自問する。
 答えはわかりきっていたけれども。

(……最低だ)

 それは結局、自分のエゴだ。
 今その方法を持ち出せば、手塚とはこれでお別れになる。
 そう解っているから自分からは言い出せなかった。

(どうせ、あと一ヶ月もないのに)

 期限はクリスマス。
 未だそのことすらも言い出せていない。
 言わなければならない、とずっと思っていたのだが、何せここ数日は手塚の左肘のことで忙しかったのだ。
 だがそれも言い訳に過ぎない、と、自嘲の笑みが顔に浮かんだ。

(……結局僕だって、都合のいい解釈に頼りたいだけだ)

 手塚の左肘がすぐに完治して、あとに引かないたぐいのものであればわざわざその方法を使わなくてもよいのだ。ならばギリギリまでここにいることが出来る。それに縋りつきたいだけだ。

(解ってるよ……)

 解っていても、しかし。

 顔にかざしていた手を天井に向けて伸ばした。
 間近に見えたはずなのに、天井に触れることなどやはり叶わなかった。

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 それから数週間、とくに何事も目立った問題は起こらなかった。
 手塚は部員には内緒で定期的な通院を続けていた。わずかに練習量も減らしていた。とはいっても左手にかかる負担を出来るだけ避けるようにしただけで、基礎トレーニングなどはむしろその分増加している傾向にあった。部長と副部長の二人が練習メニューを組んでいるのだから、うまく手塚の実践練習を減らす事は可能だった。幸い、疑いを持っている乾の目もなんとか誤魔化すことが出来たし、乾の目さえなんとかなれば後の部員の目を反らすのは容易かった。。
 放課後の自主練はもちろん禁止だった。それは不二が監視していた。部活が終わっても手塚が一人居残らないように普段より早く迎えに行く事を心がけた。事情を知っている大石や竜崎達も手塚が無茶をしないように人一倍気を配っていた。

 手塚に直接腕の状態を尋ねる事が出来なかった不二は、その後も大石達の動向を伺って調査を続けていた。通院している病院に潜り込んでカルテも確認した。
 今のところ無理さえしなければ、とりたてて問題はないようだった。
 だから不二も無茶をさせないように気を配りながらも、結局、何時の間にか日常となっていた生活に戻っていた。
 期限のことは、未だ、言い出せなかった。

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 そんなある日の、放課後のことだった。
 12月も中旬に入りはじめ、冬の寒さも本格的になりつつあった頃。
 その日も不二は学校に向かおうとしていた。練習が終わった手塚を迎えに行くためだ。
 だが、自分が手塚家を出たのとほぼ同時に、家の前にタクシーがやってきた。
 そのタクシーに夕食の準備中だったはずの彩菜が飛び乗るのが見えた。そして妙に大きなエンジン音で発車した。

 スローモーションのように進むその光景に、奇妙な胸騒ぎがあった。
 嫌な予感がする。

(まさか……)

 慌てて、彩菜の乗ったタクシーの跡を追いかけた。

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 タクシーが到着したのは案の定、手塚の通院している病院だった。
 車を降りて早足で中に向かう彩菜を更に不二は追った。他人には見えない身体をしているのはこういう時に都合がよかった。

 病院のある角を曲がると、一つの病室の前に竜崎と大石がいた。

「息子、は……」
「安心してください、決して危険な状態ではないんです」
「……ああ……」

 竜崎の答えに力が抜けたのか、彩菜はその場に崩れ落ちそうになった。その身体を横から竜崎は支えた。別方向から大石もそれを助けた。

「申し訳ない、急いでお呼びしてしまって。何分急だったもので……」
「いえ……ありがとうございます。それで、国光は……」
「麻酔を打ってもらってね、ぐっすり寝てますよ」

 二人に伴われて、彩菜は病室に入った。それに引き続いて不二も後を追った。
 ベッドの中で健やかな寝息をたてている息子の顔を見て、ようやく一安心したようだった。
 大石が青い顔で、それでも必死に冷静さを保ちながら、その時の様子を説明した。

「……練習が終わって、片付けの最中に、急に左腕を痛がりだしたんです。皆が帰るまで我慢していたみたいですが、そのあと急に顔色が変わって倒れて……」
「少し前から、左肘に違和感があったことは聞いていたんですよ。だから、とにかく様子を見るよりまず病院に担ぎ込んだんですよ」
「そうですか……ありがとうございます」

 彩菜は二人に対して深々と頭を下げた。

「それで……肘の方は……」
「そのことは……息子さんが寝ているうちに、先生から先に親御さんの方にお話しておきたいことがあるそうです」

 大石がぐっと唇を噛んだのが、不二には見えた。

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 大石の叔父だという医者は、竜崎と彩菜を診断室に通して、手塚の肘のカルテを見せながらこう言った。

 ――基本的には極度の疲労です。無理な練習さえしなければ悪化することはなかった。

 ――ですが、手塚君の場合、もともとその場所に古傷があったのがよくなかった。すっかり完治した傷だと思っていました。面目ない。

 ――ここまで痛みを伴うとなると……下手すると、肘そのものが使い物にならなくなるかもしれない。

 その後も医者の説明は延々続いていた。だが、不二は途中で切り上げて診断室を出た。それ以上聞いていられなかった。
 手塚の部屋の前に戻ると、大石とそして、もう一人がいた。大和だった。やはり気配を感じるのか、こちらをわずかに伺った。だが、今まで見せていた軽いノリとは違い、かなり項垂れていた。大石から手塚のことに関する様々な経過は聞いたようだった。

 いったんこちらへ戻ってきた叔父に呼ばれて、大石がふと立ち上がって何処かへ行った。
 手塚の病室の前にいるのは、大和だけになった。
 近寄ることも出来なくて、不二はしばしそこに止まっていた。
 先に声をかけたのは大和の方だった。

「……誰かいるのでしょう? そこに」

 一体誰に話し掛けているのか不思議に思ったが、辺りに人はいない。その言葉が自分にかけられたものであることはどうやら間違い無さそうだった。

「少し前から手塚君の近くにいるモノでしょう? 悪い存在じゃなさそうですが……守護霊ってとこですかね。」

 そうじゃない、と不二は口にしてみたが、大和には声のようなものが聞こえるだけみたいで、会話を交わすことは出来ないようだった。
 だが、大和の方が誰かに何か話していないと耐え切れないようだった。
 懺悔のように言葉を続ける。

「僕のせいなんです。手塚君をあそこまで追い詰めたのは」

 大和はそこで言葉に詰まった。だから多くは語らなかった。
 だが、それは違うのではないか、と不二は他人事ながら思った。少なくとも手塚自身は彼のことを心の底から尊敬しているのだ。そんなふうに責任を押し付けることはないだろう。そもそも、手塚にそれだけの影響を与えたと自負している時点で、うぬぼれも甚だしい。
 だが、大和は更に続けた。

「……自分でも、おこがましい言い方だと思いますよ。こう吐き出したところで、現実が変わるわけじゃない。楽になるのは僕の心だけで手塚君に何をしてやれる訳じゃない。僕は非力です。だから」

 不二がいるはずの方向を、大和は向いた。

「……もしも、君がそういう力のある存在なら、助けてあげてください。手塚君を」
「…………」
「お願いします……どうか」

          :*:・。,☆゚'・:*:・。,★,。・:*:・゚'☆,。・:*:

 結局その日の夜、手塚は病院に泊まることになった。
 手塚が目を覚ましたのはだいぶ遅かったので、病院に残っていたのは母親である彩菜と医者だけであった。
 肘の状態を医者は率直に伝えた。手塚はあまり動じなかった。覚悟は出来ていたのかもしれない。
 リハビリなどの問題は後日まわしにして、今日はゆっくりと休むように、そう言われた。

 二人が出て行った後、入れ替わりに不二は手塚の枕もとにやってきた。
 手塚は視線だけを動かして、不二の方を見た。
 まだ麻酔が残っているのか、表情が気だるい。

 不二はぐっと唇を噛んだ。もう、これ以上、見ていられなかった。

「治してあげるよ、左肘。古傷ももう関係ない。僕なら確実に治せる」

 不二の言葉に、手塚はわけがわからないといった顔をした。

「まさかまた忘れてた、ってわけじゃないよね? 僕は君の願い事を叶えに来たんだ。だから」
「…………」

 手塚は黙り込んで少し俯いた。
 彼自身がその方法のことに気付いていたのか、気付いていなかったのか、不二にはよく解らなかった。
 だから、自分から言い出すしかなかった。

「僕の力で、治してあげる。君の腕を。それが願い事だってことにしよう」

 不二はそう言いきった。
 室内に明かりはない。だから、不二の身体だけがほのかに発光しているように手塚には見える。
 彼は天使で、そのために自分の元にやってきたのだと、最初から了解しているはずだった。

「……もしも、願い事を叶えたら、お前は、いなくなるのか」

 手塚の問い掛けに、不二はぐっと口を噤んだ。
 だが少したって、開き直ったかのように捲し立てた。

「……そうだよ。もともとさ、君のところに初めて来た時にさっさと願い事決めてくれれば、一緒に暮らす羽目になんかならなかったわけだし。でもちょっと待っててよかったね。だってこんな事になるなんて思ってなかったから」
「…………そうか」
「そうだよ。君の左肘を完治することを願い事にしよう。それが一番いいよ、そうしよう」

 説得を続ける不二に、手塚は沈黙を保ったままだった。

「これが一番いい方法なんだよ……」
「……それで」
「え?」

 ゆっくりと、手塚は重みのある言葉で不二の話を遮った。
 不二の腕を掴んで視線を合わせる。

「それで、お前はいいのか」
「……何が?」

 不二は手塚の方を見たまま、首を傾げた。

「……腕を治して、俺の前からいなくなって……お前はそれで満足なのか?」
「何言ってるの? 当たり前だよ。そんなの。そのために来たんだから」

 手塚の真意がわからなくて、不二は怪訝そうに顔をしかめた。
 自分が覚悟を決めたのに、今更、手塚の方が何を言っているのだ。

「君の願い事を叶えるのが僕の仕事だよ。僕はちゃんと仕事を達成できるし、君だってテニスを続けられる。お互い、これが一番いい方法じゃん」
「ああ……そうだな」

 だが、そう認めた手塚も、まだ何か引っかかっているような口調だった。
 不二は内心、苛つき始めていた。
 どうして、手塚が素直に自分の申し出を受け入れてくれないのか。
 これ以上の好条件はないはずなのに。

「……はっきり言っておくとね、今だって、君のところに長居し過ぎだって注意受けてるんだ。それに生前のことばれちゃったし。あんまりね、お互いに親しくなりすぎちゃうと良くないんだ。」

 手塚ははっと目を見開いた。
 生前の不二の正体を暴いたのは手塚のほうだ。不二は知らないフリをしてひたすら隠そうとしていたのに。
 もしかして、そのことは、不二の仕事ににとっては負担になっていたのか。

「す……すまない……」

 手塚は頭を下げた。

「……もう済んだ事だしいいよ。もともと、生前の知り合いってわけじゃなかったんだからそんなにお咎めは受けてないんだ。……でも何にしろ、これ以上君と一緒に居るのはお互いのためによくないと思う」

 淡々とした不二の言葉を、手塚は重い気持ちで聞いていた。

「……そうか」
「だからちょうどいいんだよ、これで。手塚の腕をちゃんと治してあげるよ。それで、何も問題ないでしょう?」
「……だが」

 何かを反論しようとしたが、手塚は言葉が出てこなかった。
 不二の言う通りだった。
 手塚の左腕を治して、不二は初仕事を終える。
 お互いに、何も問題ないはずだ。
 なのに、どうして。
 ここまで、引っかかるものがあるのだろうか。

「……お前は、本当に、それでいいのか」

 先ほどと同じ言葉を、手塚はもう一度繰り返した。
 不二は不機嫌そうに目を細めた。
 唇を噛み締めて下を向く。

「何度同じ事言わすんだよ。それで何も問題ないはず……」

 苛ついている不二の語尾が小さくなって消える前に、手塚はつぶやいた。

「違う……」

 手塚は顔に手を当てた。
 麻酔でぼんやりとする頭を必死で回転させる。
 ようやく、あることに気付いた。

 不二がそれでいいのか、悪いのか、それが問題なのではないのだ。
 だから不二に質問したって意味がないのだ。
 自分が言いたいのは、そんなことではない。
 本当の問題は。

「俺が……それだとよくないんだ」

 不二がはっと顔を上げた。

「え……?」
「お前の問題じゃない、俺の問題だ」
「なに……言ってるの?」

 不二は不可解だと言わんばかりに手塚の顔を覗き込んだ。
 手塚は不二の顔を見ずに、ぼんやりと夢うつつのような口調で言った。
 まるで独り言のように。

「……それでお前が居なくなるのは、いやだ」
「……手塚」

 驚いたような不二の顔を、手塚はまともに見てはいなかった。
 自分でもおかしな事を言っているのは解っていた。
 だが、それが自分の正直な気持ちなのは確かだった。

「手塚……」

 不二はそれ以上、何も言わなかった。
 何を言っていいのか、解らなかった。
 嬉しいのか悲しいのか。
 愛しいのか哀れなのか。
 それすらも解らなかった。


少しは原作に合わせてみた。結局設定自体が大間違いなんですが……。
天才様、塚にテニスの腕前だけは認められてると思うのですよ。その点だけでは頼りにされてると言うか。
乾辺りは左肘、気付いていそうな気もするんですが、原作読む限り知ってたの大石と天才様だけみたいなんだよね……。

塚不二払拭の為に久々に男らしい天才様に挑戦してみて挫折しました。
次でラスト予定……。

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