てんし【天使】 Angel Song 6. 11月も終わりに差し迫った、ある土曜日の午後だった。 「あれ? 手塚と大石は?」 体育用具室に備品を片付けに行って帰ってきた乾は、すでに部室に部長と副部長の姿が無いことに疑問を抱いた。 「大石は今日は用事があるんだってさ……手塚と」 顔を上げずに言う。やや拗ねた口調だった。黄金ペアの片割れとして大石を手塚に取られたようで悔しいらしい。 「……で、二人に見捨てられたという訳か」 菊丸は猛烈に反発した。 「……それに、大石、最近ちょっとやつれてたから……」 乾は冷静に肯定した。言われてみれば、最近の大石には時々挙動不審なところがある。 「大石もさー、そーゆーのだったら、俺より、手塚の方が話しやすいんじゃないかなーって……」 あまりにもあっさり乾が認めたので、菊丸はがくっと肩から力が抜けた。 「……そこはさー、嘘でも否定するところじゃねーの?」 なんだか負に落ちない気分を抱えながら菊丸は立ち上がった。 「しかしだな、大石にとってお前と手塚じゃ位置付けも違うんじゃないか?」 菊丸はまだすっきりしないようだった。 「……それに、だな」 乾はそこで一度言葉を切った。 「……もしかしたら、逆かもしれないぞ」 菊丸が首を傾げる。解っていないらしい。 「いや、なんでもない。忘れてくれ」 追いすがってくる菊丸を無視する形で乾は部室を出て歩き出した。 :*:・。,☆゚'・:*:・。,★,。・:*:・゚'☆,。・:*: 「……大丈夫だったの」 同日の夕暮れ、問題の手塚の自室では、居候の天使が帰宅したばかりの部屋の主に詰め寄っていた。 「何のことだ」 学生服を脱いで片付けながら、手塚は普段通りの無愛想で不二に答えた。 「病院だったんでしょ、今日。副部長の親戚とか言う……」 肯定なのか否定なのか、どっちとも取れない返事だった。 「……はっきり聞くよ。左腕、どうだったの? 何か……異常があったの」 手塚が左腕の異変を不二の前で認めたのは、数日前のことだった。 時折、腕が思い通りに動かせなくなるのだと。 ここ一ヶ月、自主練を続けていたのはそのためだった。 「……とくに問題があるわけではない、と言われた。極度の疲労がたたっただけだ」 不二だってもともと経験者だ。その恐さは良く知っている。 「君、入学直後になんか左肘に古傷作ったんだって?」 手塚は何も答えなかった。 「ちょっとね、話、立ち聞きしちゃってさ……」 この数日間、竜崎や大和、大石の周囲を探って情報収集に務めていた不二だった。だがそこまでは言わなかった。 「そんな爆弾抱えてるのに、違和感があるならどうしてもっと早く言わなかったんだよ」 手塚がいたって冷静なのに、不二は込み上げて来る怒りを抑えきれなかった。 「……いい加減にしなよ」 そしてそのままベッドに押し倒す。 「それでなくても君の存在はテニス部の支えになってるんだ。だから君のことで顧問や先輩まで巻き込んで一騒動になってるんだろ? その辺、ちゃんと解ってるの?」 手塚の顔に動揺が見えた。肩を抑え上から全体重をかけてのしかかりながら、畳み掛けるように不二は続けた。 「ああ、支えになってるって知ってるから逆に何も言い出せなかったんだね? みんなに遠慮して? でもさ、下手に増やしてたら余計悪化するってことわかってなかったの? 手遅れになってからじゃ遅いんだよ?」 思わず不二は手塚の唇に噛み付いた。 「君からテニス取って、何が残るって言うんだよ」 左肩を押さえつけていた不二の左手が下に伸びてきて、股間をズボンの上から弄った。 「っ……何を!!」 ジッパーを下ろした指が下着の隙間から、直接素肌に触れてきた。いつもの口淫の時とは違う、一気に身体を高めようとする荒々しい手つきで。 「……っ止め……!」 手塚が左手の指先を握り締める様子が不二の視界の端に見えた。 「……止めろ、こんな……!!」 指先が睾丸の付け根をなぞってさらに下に下りていった。 「く……」 不二の言う通りだった。 握り締めていた拳をほどいて左手を少し浮かした。不二の脇腹に指先が触れる。 「……手塚」 その時、ドア越しに手塚を呼ぶ声がした。 「国光、夕飯よー」 彩菜の声で気が殺がれて力の抜けた不二の身体を、手塚は右肩を起こすようにして押しのけた。 「……やっぱり、本当に……」 下を向いたまま、不二が独り言のように呟く。 「……お前が、心配することじゃ、ない」 だが、不二の顔を見ながらそう言うことは、出来なかった。 :*:・。,☆゚'・:*:・。,★,。・:*:・゚'☆,。・:*: 部屋から出て行く手塚を、不二は呆然と眺めていた。 大丈夫、だって? 左手を使って拒むことを躊躇ったクセに。 (だいたい、嘘が下手なんだよ……君は) 倒れこむように不二はベッドに横になった。 左手の故障は選手生命に関わることだ。早めに対処できるならそれに越したことはないはずだ。 ……言い出せなかったのだ。きっと。 手塚の存在はテニス部の柱だ。そこにヒビが入ったと言う噂は、青学の部員たちはもちろん全国レベルで広まるだろう。これからの部活に差し障ることは確かだ。それを恐れていたのだろう。 (もともと、責任感の塊みたいなもんだからな……) 才色兼備のためか、なんでも自分一人でなんとかなると思い込んでいるところがある。他人に頼る、という考えがなかなか出てこないらしい。テニスに至ってはなまじ自分の腕前が突出しているだけにその傾向は強い。 そう考えて、不二の脳裏に、ある仮定が閃いた。 だが、そんな仮定の話をしても仕方がない。不二はその考えを頭から消した。 ふと、右手の指の隙間から白い天井を伺った。染み一つない、真っ白な天井だった。 手塚の左肘を確実に治す方法はある。 (……最低だ) それは結局、自分のエゴだ。 (どうせ、あと一ヶ月もないのに) 期限はクリスマス。 (……結局僕だって、都合のいい解釈に頼りたいだけだ) 手塚の左肘がすぐに完治して、あとに引かないたぐいのものであればわざわざその方法を使わなくてもよいのだ。ならばギリギリまでここにいることが出来る。それに縋りつきたいだけだ。 (解ってるよ……) 解っていても、しかし。 顔にかざしていた手を天井に向けて伸ばした。 :*:・。,☆゚'・:*:・。,★,。・:*:・゚'☆,。・:*: それから数週間、とくに何事も目立った問題は起こらなかった。 手塚に直接腕の状態を尋ねる事が出来なかった不二は、その後も大石達の動向を伺って調査を続けていた。通院している病院に潜り込んでカルテも確認した。 :*:・。,☆゚'・:*:・。,★,。・:*:・゚'☆,。・:*: そんなある日の、放課後のことだった。 スローモーションのように進むその光景に、奇妙な胸騒ぎがあった。 (まさか……) 慌てて、彩菜の乗ったタクシーの跡を追いかけた。 :*:・。,☆゚'・:*:・。,★,。・:*:・゚'☆,。・:*: タクシーが到着したのは案の定、手塚の通院している病院だった。 病院のある角を曲がると、一つの病室の前に竜崎と大石がいた。 「息子、は……」 竜崎の答えに力が抜けたのか、彩菜はその場に崩れ落ちそうになった。その身体を横から竜崎は支えた。別方向から大石もそれを助けた。 「申し訳ない、急いでお呼びしてしまって。何分急だったもので……」 二人に伴われて、彩菜は病室に入った。それに引き続いて不二も後を追った。 「……練習が終わって、片付けの最中に、急に左腕を痛がりだしたんです。皆が帰るまで我慢していたみたいですが、そのあと急に顔色が変わって倒れて……」 彩菜は二人に対して深々と頭を下げた。 「それで……肘の方は……」 大石がぐっと唇を噛んだのが、不二には見えた。 :*:・。,☆゚'・:*:・。,★,。・:*:・゚'☆,。・:*: 大石の叔父だという医者は、竜崎と彩菜を診断室に通して、手塚の肘のカルテを見せながらこう言った。 ――基本的には極度の疲労です。無理な練習さえしなければ悪化することはなかった。 ――ですが、手塚君の場合、もともとその場所に古傷があったのがよくなかった。すっかり完治した傷だと思っていました。面目ない。 ――ここまで痛みを伴うとなると……下手すると、肘そのものが使い物にならなくなるかもしれない。 その後も医者の説明は延々続いていた。だが、不二は途中で切り上げて診断室を出た。それ以上聞いていられなかった。 いったんこちらへ戻ってきた叔父に呼ばれて、大石がふと立ち上がって何処かへ行った。 「……誰かいるのでしょう? そこに」 一体誰に話し掛けているのか不思議に思ったが、辺りに人はいない。その言葉が自分にかけられたものであることはどうやら間違い無さそうだった。 「少し前から手塚君の近くにいるモノでしょう? 悪い存在じゃなさそうですが……守護霊ってとこですかね。」 そうじゃない、と不二は口にしてみたが、大和には声のようなものが聞こえるだけみたいで、会話を交わすことは出来ないようだった。 「僕のせいなんです。手塚君をあそこまで追い詰めたのは」 大和はそこで言葉に詰まった。だから多くは語らなかった。 「……自分でも、おこがましい言い方だと思いますよ。こう吐き出したところで、現実が変わるわけじゃない。楽になるのは僕の心だけで手塚君に何をしてやれる訳じゃない。僕は非力です。だから」 不二がいるはずの方向を、大和は向いた。 「……もしも、君がそういう力のある存在なら、助けてあげてください。手塚君を」 :*:・。,☆゚'・:*:・。,★,。・:*:・゚'☆,。・:*: 結局その日の夜、手塚は病院に泊まることになった。 二人が出て行った後、入れ替わりに不二は手塚の枕もとにやってきた。 不二はぐっと唇を噛んだ。もう、これ以上、見ていられなかった。 「治してあげるよ、左肘。古傷ももう関係ない。僕なら確実に治せる」 不二の言葉に、手塚はわけがわからないといった顔をした。 「まさかまた忘れてた、ってわけじゃないよね? 僕は君の願い事を叶えに来たんだ。だから」 手塚は黙り込んで少し俯いた。 「僕の力で、治してあげる。君の腕を。それが願い事だってことにしよう」 不二はそう言いきった。 「……もしも、願い事を叶えたら、お前は、いなくなるのか」 手塚の問い掛けに、不二はぐっと口を噤んだ。 「……そうだよ。もともとさ、君のところに初めて来た時にさっさと願い事決めてくれれば、一緒に暮らす羽目になんかならなかったわけだし。でもちょっと待っててよかったね。だってこんな事になるなんて思ってなかったから」 説得を続ける不二に、手塚は沈黙を保ったままだった。 「これが一番いい方法なんだよ……」 ゆっくりと、手塚は重みのある言葉で不二の話を遮った。 「それで、お前はいいのか」 不二は手塚の方を見たまま、首を傾げた。 「……腕を治して、俺の前からいなくなって……お前はそれで満足なのか?」 手塚の真意がわからなくて、不二は怪訝そうに顔をしかめた。 「君の願い事を叶えるのが僕の仕事だよ。僕はちゃんと仕事を達成できるし、君だってテニスを続けられる。お互い、これが一番いい方法じゃん」 だが、そう認めた手塚も、まだ何か引っかかっているような口調だった。 「……はっきり言っておくとね、今だって、君のところに長居し過ぎだって注意受けてるんだ。それに生前のことばれちゃったし。あんまりね、お互いに親しくなりすぎちゃうと良くないんだ。」 手塚ははっと目を見開いた。 「す……すまない……」 手塚は頭を下げた。 「……もう済んだ事だしいいよ。もともと、生前の知り合いってわけじゃなかったんだからそんなにお咎めは受けてないんだ。……でも何にしろ、これ以上君と一緒に居るのはお互いのためによくないと思う」 淡々とした不二の言葉を、手塚は重い気持ちで聞いていた。 「……そうか」 何かを反論しようとしたが、手塚は言葉が出てこなかった。 「……お前は、本当に、それでいいのか」 先ほどと同じ言葉を、手塚はもう一度繰り返した。 「何度同じ事言わすんだよ。それで何も問題ないはず……」 苛ついている不二の語尾が小さくなって消える前に、手塚はつぶやいた。 「違う……」 手塚は顔に手を当てた。 不二がそれでいいのか、悪いのか、それが問題なのではないのだ。 「俺が……それだとよくないんだ」 不二がはっと顔を上げた。 「え……?」 不二は不可解だと言わんばかりに手塚の顔を覗き込んだ。 「……それでお前が居なくなるのは、いやだ」 驚いたような不二の顔を、手塚はまともに見てはいなかった。 「手塚……」 不二はそれ以上、何も言わなかった。 少しは原作に合わせてみた。結局設定自体が大間違いなんですが……。 塚不二払拭の為に久々に男らしい天才様に挑戦してみて挫折しました。 |