齋藤美奈子



21世紀文学の創造4 脱文学と超文学』【編】
 (岩波書店
 2002年4月刊)

●高いか安いか


 「21世紀文学の創造」というシリーズの1冊として編まれたもの。このシリーズ自体の意図するところが、巻末の「第一線で活躍する文学者,芸術家,研究者が最も切実なテーマから執筆.」という説明文を見ても今ひとつよくわからないが、まあ、テーマ別に区切った文学論叢だと思っておけばいいか。いずれにしても、このシリーズの他の本は持っていないし、今のところ買い足すつもりもないのでどちらでもいい。
 この本はたしか、けっこう前にamazonで買ったんだったと思う。石原千秋先生の著作を検索していて、これが出てきたのだ。編集は斎藤美奈子氏だが、石原先生も執筆者として名を連ねている。んで、特に内容を確認することもなく、買った。
 2300円という価格が内容に見合ったものか、というのはけっこう微妙かも、と思うが、まあ、どう転んでも文庫にはならないだろうから、買ったこと自体は別に間違いではなかったはずだ。ちなみに僕の考える適正価格は1800円。そんなにかわんないか?

 収録されている文章と執筆者を列記しておく。ちなみに掲載順・敬称略。
 斎藤美奈子「-編者から読者へ- 「文学史」を蹴っとばせ」/岡田幸四郎「「矢沢永吉」と「ヘンタイよいこ」 -一九八〇年代をめぐる覚え書き-」/富岡幸一郎「「政治の季節」とは何だったのか -一九七〇年以後への視点-」/稲川方人「ざわめく書物 -装釘と同時代文学-」/坂本忠雄(談)「文芸誌とは何か、何だったのか」/大月隆寛「思いっきりおおざっぱな「ラブコメ」・試論 -あるいは、「豊かさ」の申し子の少年たちは、なぜ、少女マンガに向かったのか、についての覚書-」/佐藤良明「Jとポップの文学史」/藤本憲一「黄声濁声 -「キャ〜」と「ダミ」をめぐるケータイ空間-」/石原千秋「入試国語のルールを暴く」。

●『成りあがり』と糸井重里


 特筆すべきは岡田幸四郎氏の「「矢沢永吉」と「ヘンタイよいこ」」で、矢沢永吉氏の伝説的インタビュー『成りあがり』をテクストに、そこにインタビュアー・構成者として参加していた糸井重里氏の思惑が絡んでいたことを読みとる、といった内容。
 『成りあがり』に活字として印刷された言葉は実際に矢沢永吉氏がインタビューの場で語ったものには違いないだろう。にしても、そこに誘導尋問とまでは言わないけれども糸井氏が「でも本当にそれだけだったのかな、エーちゃん」と口を挟むことで流れをコントロールした部分はあったのではないか。そして「矢沢永吉に擬態した糸井重里」による、落ちこぼれたちの自己表現への欲望を駆りたてるこの試みは、同時期に糸井氏がこれまた伝説の雑誌「ビックリハウス」で仕掛けていた「ヘンタイよいこ新聞」での、特権性のない「フツー」の若者に雑誌を落書き掲示板のようにして活用させることで、「個々人」の欲望や欲求を顕現させるという試みとシンクロする。
 僕自身は年代がちょっとずれているために、『成りあがり』とか「ビックリハウス」からTV番組「YOU」にいたる流れとか、あるいはそこからちょっと離れたところで中森明夫氏とかがやってたこととか、そういうのを実感としては理解できない。10年ぐらいずれてるんだよなぁ。
 このへんの流れについては大塚英志氏の『「おたく」の精神史』で読んでかじったくらいで、ぜんぜん自分の中で相関関係とか年代史的な位置づけとかができていない。また大塚氏の本は非常に面白いけれども、とても教科書的とは言えないわけでしょう。自分が抱えている問題の系が核にあって、それを中心に相関関係を配列しているから、一般的な認識とはズレが生じているわけで。

 ただ、糸井重里という人の果たした役割というのは、もういちど誰かがちゃんと精算するべきだと思う。
 なんというか、裏方というか、当時的な言い方をすれば「時代の仕掛人」という部分が大きかったせいか、あんまりはっきりと目に見えないところが大きいわけだけれども、後に続く時代を用意するうえで非常に重要な役割を果たしたことはたぶん間違いない。
 その領野が広かったということもあって、ちゃんとした位置づけのできる人というのが少ないというのはあると思うけれども、それは文化史研究の上では危惧すべきことだろう。おそらくこのあとの時代について語る際、ジャンル横断的な整理の仕方というのはもっと重要な意味を持つようになる。
 そうしたジャンルを横断するクリエイティブな動き自体は、吉本隆明氏とか、60年代あたりからすでにあったと思うけれども、作家とか芸術家とか、そうした大文字の文化人でないところがメインストリームになって、クロスメディア的に時代を作っていく、その嚆矢となったのはたぶん糸井重里氏あたりなんじゃないだろうか。まあ、いまだに精力的にものづくりはしている人だから、ちゃんと学問的に評価をしていくというのはとても難しいことだとは思うけれども。

 ちなみに岡田幸四郎氏は、作家重松清氏の変名だそうで、ファンの間では有名らしい。
 重松清氏という作家は、個人的にはあんまり興味のある存在ではなかったんだけれども、これを読んでちょっと考えを改めた次第。
 この評論で書かれている内容は、たとえば『成りあがり』のどの部分に糸井氏の思惑が働いているのか、といったキーになる部分で、インタビューのテープか何かを聴かない限り実証的な裏付けがとれないわけで、その意味でこれは学問的な論文ではもちろんない。だけれども、中上健次氏の『成りあがり』のインタビュアーに対する言及などを引用しつつ、ちゃんと学問的な道筋に繋がることができるような、正統性みたいなものを確保している。それはこの人の物書きとしての「後につながるものを書く」という心性のあらわれだろうと僕は思ったし、その意味でこの筆者には敬意を払うべきだと感じた。
 ちなみのちなみだが、本書の購入動機となった石原千秋先生は、『小説入門のための高校入試国語』で、重松清氏を「いま、これだけ現代の少年の心の機微が書き込めて、かつ小説としての空白(中略)を残せる作家は他にそうはいない」と語っている。そのため、今(発行年の2002年現在)、中学高校の入試国語で小説問題に採用される率では重松氏がトップなんだそうだ。

●蛇足とゆうか


 他の評論について触れる気力がなくなってしまったが、富岡氏「「政治の季節」とは何だったのか」や佐藤氏「「Jとポップの文学史」」もかなり面白かった、てなことを最後に付言して終わる。
 目当てだった石原先生のは、まあ、入試国語がらみの著作を『秘伝 中学入試国語読解法』『小説入門のための高校入試国語法』『教養としての大学受験国語』と3冊も読んでいるから、どうしてもそこと内容がかぶってくるよな、という感じ。特にうしろ2冊はこの本のあとで刊行されたものなので、それに対する準備稿といったとらえ方をしたほうがいいのかもしれない。。
 ちなみにこの本、論文によって扱うテーマがぜんぜん違うので、何本も続けて読むと、アタマが前の論文の内容を引きずったままになってしまって、次の論文の中身を十分に咀嚼できないおそれがある、というか僕はそうだった。僕の頭が悪いだけかもしれんけど。一本読み終わったら、少し時間をおいて次に進んだ方がいいんじゃないかと思う。
(2006.1.19)


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『妊娠小説』
 (ちくま文庫
 1997年6月刊
 原著刊行1994年)

●斎藤美奈子≒文芸評論家


 たまに斎藤美奈子氏を「文芸評論家」と紹介しているのに出会うと違和感を感じてしまう。
 確かに、そうには違いないような気もするのだが、なんだか本質的に文芸評論家と呼ばれるものではないような気がする。
 より正確を期して言うなら、従来、文芸評論として草されていたものとは、斎藤氏の著作は異質なのだ。
 たとえば、「望まれない妊娠」をテーマとした小説ジャンル、というくくりで森鴎外から辻仁成までをとりあげたこの『妊娠小説』を読んでも、これを文芸批評と呼ぶのはちょっと違いやしないかと思えてしまう。斎藤氏の仕事の中では、かなりテーマが文芸よりのものだと思うのだが。
 誤解してほしくないのだが、「こんなものは文芸評論ではないッ!」とイチャモンをつけているわけではない。確かに、これも文芸評論の一種には違いないのだが、本質的な部分でズレがある、と思うのだ。

 もったいつけたってしょうがないのでズバリ言ってしまうと、この人はきっと、関心の焦点が小説そのものではなく、その背後にある社会の構造とか、そっちの方に合っているんだろうと感じられる。「社会の構造とか」には、もちろん、ジェンダーとかのフェミニズム的関心の領域も含まれるが、この人の場合はそれだけではない。無理に言葉にしようとすると集合意識とか共同幻想とか、やたら抽象的な語に頼らざるをえなくなってしまうが、要するにカルチュラル・スタディーズ的な方法論でもって小説を読んでいるのだと思う。しかし「カルチュラル・スタディーズ」という言葉の便利なことよのう。
 本書の場合は、それが非常に顕著に出ている。というか、処女評論なので、まだそうした傾向を韜晦するだけの手練手管がなくって生なだけなのかもしれないが、それはそれでまた面白いことである。

●あゆみちゃん・しくみちゃん・なかみちゃん


 妊娠小説とはすなわち、「望まない妊娠」をその中に含む小説ジャンルのこと、と斎藤氏は定義する。ちなみに、その定義の中で述べられる「望む妊娠は、一般に『妊娠』などと即物的には呼ばれません。あえて漢語を用いるのなら『懐妊』でしょう。」という言葉は、本書の主眼からは外れるが、面白い指摘だ。
 この定義の上に立って、「妊娠小説のあゆみ」「妊娠小説のしくみ」「妊娠小説のなかみ」が語られることになる。ちなみに、あんまり意味のある指摘じゃないせいか誰も言わないが、この3つの章のタイトルは「あゆみ」「しくみ」「なかみ」で脚韻を踏んでいて、こういう言い方が許されるならお茶目である。いや、細かい芸だけれども、こういう遊びを忘れないところが読みやすさにつながっているのだとは思うのよ。

 さて、堅い文芸評論書の体裁を仮装しつつ、実際の妊娠小説はどんなもんなのかが語られるのが本書のなかみであるわけだが、それを逐次的に追っていってもしょうがない。しょうがないという言い方は失礼かもしれないが、本書について何か感想を述べるときに、本書の内容を真っ正面から受け止めて四角四面に解説するというのは、あるかないかで言えば絶対に「ない」やり方だと思う。
 と言って、妊娠小説という枠組みでとらえなおすことによって従来的な小説の読み方や序列を崩し…、てな言わずもがなのことを書くのも、なんだかちょっと違う気がする。そりゃそうに違いないけどもさ。しかしそれって、言っててなんか恥ずかしくならないか。

●本書の成立過程についての妄想


 多分、この本は、日本の近代文学には「妊娠小説」と呼ぶべき物語の型があるぞ、という、そのことの発見のよろこびみたいなものが本質にある。その発見そのものが本書の眼目なのだ。
 で、その発見を整理していく作業の中で、このジャンルが書かれ続ける背景みたいなものが見えてきて、斎藤氏の興味はそちらに移っていったのではあるまいか。なんだかとっても無責任な分析だが、僕にはそう思える。
 と、書いてしまったからにはそう思える理由というのを説明せねばならないのだが、このへんは僕も自信がないので話半分で読んでほしい。
 つまりそれは、「妊娠小説のあゆみ」でもって、日本における中絶関連の制度について、けっこう丁寧に調べてあるからに他ならない。

 斎藤氏によれば、「望まない妊娠関係の法律がどうにかなると、必ずその直後(だいたい三年後)に、ちょっとした『妊娠小説ブーム』がおこる」という。これを斎藤氏は「三年目の妊娠小説化現象」と、冗談だとすればさして笑えない名前で呼んでいる。
 冗談のセンスとしてはともかくだが、この中絶関連の法整備と小説との追いかけっこが、けっこう丁寧に追いかけられているのである。
 文学史の上での妊娠小説の変遷、と言うことが興味の中心なら、制度との関わりなんてのは、そんなに大した問題ではない。別に法律の動きが、その次にヒットする妊娠小説の上に密接に関わり合っているわけではないし、せいぜい、作家が着想をどこから拾ってくるか、というていどの関わりしかないように本書では読める。
 それでも法整備と妊娠小説のヒットとが入れかわりでやって来るぞ、と指摘したかったのは、つまり、法を整備しようという社会の動きと、それなりに進歩はあるにせよ一定のクリシェとして存在し続ける妊娠小説が生まれてくる土壌とが不可分ではない、と斎藤氏が考えたからだろう。
 つまり、焦点はこの時点では、すでにその小説群の土壌、という部分に移っていると言える。
 だけど、その発想が最初からあったんなら、「妊娠小説のあゆみ」に続けて「しくみ」「なかみ」を構想する必要はない。そのまま、その土壌の部分を追いかければ、小説の構造を見るよりもはっきりしたことが言えるだろうし。
 なので、僕自身はここで、「あゆみ(初稿)→しくみ・なかみ→あゆみ(制度の変遷を盛り込んだ改訂稿)」という本書の成立過程を夢想してみたいのであった。

 ちなみに、本書のテーマからは逸脱するが、「村上春樹や三田誠広が登場して以降の一人称語りによる小説群は、それまでの私小説とは全く違うものなんだから、さっさと呼び方を考えるべきだ。この際だからここでは『僕小説』と呼ぶ」というあたりは、非常に男気にあふれていていい。拍手。
(2005.1.28)


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『男性誌探訪』
 (朝日新聞社
 2003年12月刊)

●100人に聞きました。「男性誌」と言えば


 「男性誌」と言われてどんな雑誌を思い浮かべるのかは人それぞれだと思うが、僕がまず思い浮かべたのは「週刊ポスト」とか「週刊朝日」などのオッサン雑誌だった。
 といって、僕がいつもそれらの雑誌を読んでいるかというとそうではない。銀行の待合室とか喫茶店でどうしても読むものがなければしょうがなしに読む、といった程度で、プライオリティとしてはかなり低いところに位置している雑誌だ。
 ただ、総合誌ということもあって、「男性誌」という漠然としたくくりの中では、思い浮かべる人が多い雑誌でもあるのではないかと思う。
 一方で「週刊プレイボーイ」「ホットドッグプレス」「週刊SPA!」あたりのヤングアダルト層向け総合誌が浮かんだ人もいるかもしれない。僕がこれらの雑誌を思い浮かべなかったのは、そもそも「ポスト」以上に読むことがないからだ。この手のヤングアダルト向け総合雑誌は、あんまり銀行の待合室や喫茶店では見かけない(置いてあるところもあるだろうけどさ)。
 本書では「男性誌」=「男性を主購買層とする雑誌」という定義があるので、たとえば「丸」(戦艦・戦闘機)や「月刊へら」(へらぶな釣り)、「Number」(スポーツ)といった雑誌も取り上げられているが、ここいらがまず最初に頭に浮かぶという人は、さすがにもうちょっと視野を広めに持った方がいい。話題が少ないって言われませんか?

●雑誌は誰に向けて発行されているか


 たとえば「週刊ポスト」の購読層というのはどのへんなのだろうと思っても、ちょっとすぐには思い浮かばないところがある。
 おじさんなんだろうなとは漠然と思うにせよ、いまいち具体的な像を結ばない。そもそも、このへんの雑誌の愛読者で毎号欠かさず定期購読しています、という人は、あまりいないんじゃないかという気がする。これは「週刊SPA!」でも同じだ。
 ここはたぶん男女別で差があるところで、たとえば「オレンジページ」や「クロワッサン」「主婦の友」を毎号買ってます、という主婦ならそれなりの数がいると思うし、女性誌版「週刊ポスト」という感のある「女性セブン」なんかでも、毎号買ってる人も中にはいるだろうね、と思える。僕の偏見だったら申し訳ないが。
 というのはつまり、女性の方が、ひとたびある雑誌を買い始めたら定期的に購読しやすいのではないかというイメージがあるわけだ。実際に身の回りで、男性よりも女性に定期購読誌があるという人が多かった、という個人的な経験からそういうイメージを持っているのかもしれないけれども、まぁ、何となくそう思う。(裏付けになるようなアンケート結果でもないものかと検索してみたけど、なかった。無念)
 で、これはジェンダーとかの問題ではなくて、そもそも総合誌の分野では、女性誌の方がうまくできているからではないかという気もするのだが、そうした原因の追及というのはひとまず措こう。

 問題は、そうした購読層がはっきりしていない雑誌であっても、誌面構成の基本として、仮想の読者像というのはあるていど描かれているはずだ、という点にある。
 これが趣味の雑誌であれば仮装読者像の想定には何の問題もない。「鉄道ジャーナル」は鉄ちゃんしか買わないし、「丸」をゴルフ好きが買うわけもない。しかし、「週刊ポスト」や「ホットドッグプレス」でも仮装読者像が想定されているならば、そしてまた事実、精度に差はあるにせよ想定されているのだと思うが、その仮装読者像は、その時点での最大公約数的読者像になってこざるを得ない。
 「ポスト」の購読層がよくわからないという原因はここにある。
 世の中に、頭のてっぺんから足のつま先まで「週刊ポスト」的な人間というのはいない。ただし、たいていの男性は、どっかしらに「週刊ポスト」的な嗜好を一部分であっても持っている。そのデータの集積と微分の結果として、「ポスト」の仮装読者像ができあがる。
 したがって、世の男性(特に中高年層)の最大公約数的な好奇心のあり方の反映として、「週刊ポスト」は読まれることができる。他の雑誌でもこの間の事情は同様で、従って雑誌を観察することはその雑誌の読者を観察することでもある、と言える。
 持って回った言い方をやめるなら、次のように言うことが出来るだろう。
 「男性誌」のウオッチングを標榜した本書だが、実は本書はそれぞれの雑誌の読者論でもあるのだと。

●仮想読者の願望


 この本は雑誌ウオッチングであると同時に各雑誌の読者論でもある。これは、実は本書をちゃんと読んでいればわかる。そもそもカバーにも「雑誌で読みとく日本男児の麗しき生態」というコピーが書かれてるし。
 ただ、注意したいのは、しばしば本文中でも指摘されるように、雑誌の記事を本当に役立てられる人が雑誌の購読者であるとは限らないケースもままあるということだ。「日経おとなのOFF」が「小金を持っている中年男性のための、不倫で出向く先ガイド」であったとしても、実際にこれを買っている人が不倫しているかというとそうでもなく「失楽園」願望があるだけのオッサンであることの方が多いがごとく、「デキる男」気取りの「メンズクラブ」の読者が実際にはデキる男とは限らないがごとく。
 つまり、雑誌の誌面構成が反映するのはあくまで仮想読者像の「嗜好」であって、その中には必然的に「こうありたい」という願望も含まれますぜ、ということ。
 これってどっかで見た構図だな、と思ったら、先に読んだ斎藤氏の『モダンガール論』で、昭和初期の貧しい女工さんが理想の生活を当時の女性雑誌の中に求めて読んでいた、というのと同工異曲なのだった。雑誌というのは昔からそういうものなのかもしれませんですな。

●個人技


 しかし雑誌を読んで、どこまでが読者の「現実」を反映し、どこからが「願望」を反映している、と腑分けするのは、よく考えなくても恣意性の強い作業である。
 もちろん、雑誌のアンケート集計結果をはじめ、統計的な資料を参照すれば、あるていどまでその精度を高めていくことは可能だろうけれど、雑誌にとってはアンケートの集計結果は大事なマーケティング資料だ。そうそう社外に公開できるものではない。
 となると、その腑分けの判断は斎藤美奈子氏個人の眼力に委ねられる部分が必然的に大きくなる。
 本書に弱みがあるとすれば、多分ここなのだろう。正確さを期待するには、あまりに個人の裁量に頼りすぎている。また斎藤氏自身も、あまり統計的に正確な記述を目指そうとはしていない気配がある。
 もっとも、それを弱みととるかどうかは意見が分かれるところだとは思う。例によって「『文藝春秋』は嫌な奴だけど出世する、というどこの会社にも1人はいるようなタイプ」、「『週刊新潮』はちょっと高めの読者年齢を考慮したご隠居の花見酒風」といった見立ての芸、それに雑誌の特色をスッキリとまとめる交通整理のうまさは冴え渡っているので、ひたすらその俎上で繰り広げられる爽快な斎藤氏の立ち回りを楽しみたいというなら、統計的な正確さなど無用、ということになるかもしれない。
 僕も主として出先での空き時間にページをめくったが、そういう気軽な読み物としては、この方がいいのかなと思う。
(2004.6.4)


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『モダンガール論』
 (文春文庫
 2003年12月刊
 原著刊行2000年12月)

●カルチュラル・スタディーズとしての近現代女性論


 けっこうサクサクッと読めるんだけれども、あとから思い返して中身について考えてみようとすると、なかなか難しい。斎藤美奈子氏の本というのはそういうのが多いが、これもそんな1冊。
 非常に交通整理がいきとどいているので、実のところ読者はなーんにも考えなくても、楽しく読める。ガイド役としての斎藤氏の力量の確かさがよく示されていると思う。が、こういう本は同時に、書評を書くときに困るのである。お前ごときが何をしゃしゃり出てきて語ろうというのか、と言われれば汗顔のいたりであり、まぁ、事実そのとおりで返す言葉もない。

 以前にも述べたことがあるが、斎藤美奈子氏というのは、実にこの交通整理の仕方がうまい。これは名人芸だと言っていいと思う。錯綜しているものごとから過不足なく筋道を抜き出して、その構造をズバリと指摘してみせる。
 本書は『モダンガール論』と銘打たれているが、いわゆる狭義でのモダンガール、つまり大正末あたり以降に世の注目を集めた「モガ」のみを扱っているわけではない。明治期の「新しい女」にはじまって、モガや国防婦人会の時代をへて、最終的には80年代末のアグネス論争にいたるまでの、女性の生き方、出世の仕方をめぐる概説書だ。基本的にあまり著者自身の価値判断を差し挟んでいないという意味で、評論書ではないと思う。
 だからこれ、実は「近現代女性論」というタイトルでもいいと思うのだろうけれども、まぁ、それじゃ売れないでしょうなあ。

 曰く「女の子には出世の道が二つある」。それは社長になるか社長夫人になるかのふたつだ、というわけで、本書では徹底して、その時代に女性にとっての栄達というのがどういうものであったかが問題となる。
 栄達と言ってしまうと漠然としすぎるけど、要するに双六で言うところの「アガリ」であり、どういうふうになったら「あの人は幸せだ」あるいは「羨ましい」ということになったかだと思えばいい。著者みずから「欲望史観」を標榜しているので、後者の「羨望の対象」という考え方のほうが近いだろうか。著者はそれを「望ましい生き方のビジョン」(p.11「はじめに モダンガールの野望について」)という言葉でまとめている。
 「望ましい生き方」なんて人によって違うでしょうと言われるかもしれない。しかしここでは、その社会的な価値基準のコンセンサスが問題とされている。要するに一般的に見てこうなったら「アガリ」、という基準値だ。
 目端の利く人ならこのへんで気がつくかもしれない。お恥ずかしいことに僕は本書を読み終えてしばらくのあいだ気がつかなかったが、これはつまりカルチュラル・スタディーズの本なのだ。おそらく斎藤氏ご本人はそうしたジャンル分けをあまり好まないだろうなとは思うのだが、便宜上、やはりそういうジャンル分けした認識を持っておくとなにかと都合がいいだろう。

●理想はあまりに遠すぎて -上昇と下降-


 そう思って見れば、たとえば昔の婦人雑誌やなんかから記事を引いて、そこにあらわれている当時の女性の憧れを見いだす、といった手法なども、なるほどカルスタではおなじみの手順だ(ただし、カルチュラル・スタディーズというのはこういうものだという、僕自身の思いこみが多分に入っていることは否定しない)。
 そうした手法でもって、その時々での「望ましい生き方のビジョン」あるいは「羨望の対象」が発見されていく。
 女学校に通うハイカラ女学生から職業婦人、あるいは20世紀になって初めてあらわれた新しい主婦の像である「良妻賢母」。そこからずーっと時代が下って高度成長期のOLと三種の神器、80年代のキャリアウーマン、マルチミセスまで。
 ただ、それと平行してずーっと共通して描かれているのは、理想像にはそんな簡単に到達できるもんじゃないんだ、ほとんどの女性はその時こんなに悲惨だったんだ、という現実である。
 これが理想です。でも大多数はそうはなれなかった。働くと言っても大多数は悲惨なもので、「女工哀史」の生活はこんな。でも女工ならまだマシで、女中さんはもっとひどい。それじゃお嫁さんになる道を選ぼうといっても、もとが貧乏では農村で貧乏農家に嫁ぐくらいしかない。ところがそこでの生活はさらに悲惨。
 そりゃま、こうした「出世」が「羨望の対象」であったということは、とりもなおさずそこまで到達できない人が大部分だったということを意味してもいる。しかし、戦前の女工や農村での貧乏農家のお嫁さんをそのピークとする人々の様子というのは、読んでて憂鬱になってくるものがある。
 下層から上層へと描いていってその最終到達形に理想を置くんじゃなくて、まず理想をぶちあげて、そこから現実はこうだったんですよー、と降りていくからなおさらだ。下降志向的な構造がとられているのである。

 多分これ、戦略的にやっている。
 「頑張れば報われる!」というのが、たとえば福沢諭吉の『学問ノススメ』、あるいは中村正直が訳した『西国立志編』の要旨である。封建時代が終わって、頑張れば出自に関係なくちゃんと出世できる世の中になりました。だからおまえら頑張れよ。
 明治期の啓蒙主義というのは、そうやって青雲の志をあおり立て、日本を背負っていこう、という若者を大量生産したわけだ。上昇志向なのである。
 実際、頑張って偉くなった人もいて、三島由紀夫の家系などというのはそれにあたる。鴎外・漱石などもその系統だろう。少数の成功者が実際にいることによって、この煽りはリアリティを持つのだ。
 だが、もちろんそうはなれない人もいた。というかその方が圧倒的に多数だった。ここまでの構造は、女性のほうでも同じである。
 男性の場合、どうやら自分では頑張ってもそこまで偉くなれそうにはないぞ、ということに気がついてしまったらそこで夢物語は終わる。あとは粛々と現実に従うしかない。
 その時点で理想はしょせん絵に描いたモチでしかなくなるのであり、「俺には関係ないや、ケッ」と吐き捨てられる存在へと失墜する。
 というのは、いくら福沢諭吉が啓蒙主義であおりたてようと、男性社会というのは、江戸封建期からの社会制度の延長線上にあるからだ。システムとして出世のコースがあるていど完成されている。そして単線である。一度コケてしまうと、「結婚で玉の輿」に代表されるような、別の線路に乗り換えての一発逆転はほぼありえない。

 ところが女性の場合、女性の社会進出がはじまったばかりで、システム的に未完成な時代が20世紀いっぱいまで続いたこと。加えて「社長になるか社長夫人になるか」という一発逆転の路線乗り換えがありえるということで、理想は簡単には理想から転落しないのである。
 ちなみにこれは、社会のシステムがそうだったというだけの話で、だから女はずるいとかいう話ではない。ひがんだってしょうがない。「『いいよなあ、君らは。仕事がいやになったら、結婚しちゃえばいいんだから』。そうさ、うらやましいか、である。なんならあんたも二つの道の間で悩んでみればいーじゃない」(p.11 「はじめに モダンガールの野望について」)という斎藤氏の言葉は的確だ。

 話がずれたが、そんなわけで、当時の女性にとって、理想は自分の境遇とは無関係に理想であり続ける。
 少なくとも女性の場合、そのピラミッドの頂点にある理想像、「望ましい生き方のビジョン」に対して最も憧れを抱いていたのは、最下層の人々だった。「考えてみれば当たり前の話で」と斎藤氏は言う。自分の生活が苦しいから、夢くらいは自由に見させてもらう。女工さんや女中さんはそんな気分で、そのころ流行した女性雑誌を通して、そうした理想を支持した。つまり理想が理想であり続けることを支えたのだと。
 出世への夢はあるんだけれども実際には出世できない。この欲望の鬱屈が、時代が変わると新たな理想像を作りだし、そこに向かって走り出す原動力になる。時代を動かしたのはこの最下層の人々ではなかったかもしれないが、動いた後に時代が転がる方向は、この人たちが決めたのである。
 そうした考え方が、この構成の裏側にはあるような気がする。

●女性版啓蒙主義の終焉


 「一億総中流」などと言われたのはずいぶん昔のことになる。が、ひとまずこれが達成され、望むならスーパーエグゼクティブになるコースも、あるいはカルチャースクールに通って「すてきな奥さん」になるコースもあり、となった80年代末の時点で、女性版啓蒙主義はほぼその終焉を迎えたと言っていい。
 啓蒙主義というのは、本当に下層に暮らす人というのがいなくなって(あるいは極小になって)、ボトムアップが完了すると、次に何を目指させるか、つまり絵に描いたモチがなくなるので、結果として行き場がなくなるのだ。
 斎藤氏はその啓蒙主義の終わりを「なんでも達成されてみればあっけないもの。それがわかっただけでも、この一〇〇年はけっして無駄ではなかったのです。」と意味づけ、「出世という近代の規格ではない、もっと別のモチベーション(動機)からくる仕事の選択、生き方の創出、そっち方面の多様性に」目を向けろと文庫版のあとがき(p.315「文庫版のためのちょっとした補足 -ポストモダンガールの時代を生き抜くために-」)で言っている。
 そりゃまあそうには違いないだろうが、やっぱりちょっと苦しいかなというか、場当たり的に指標のベクトルを示しただけという気がしないではない。そこで宮台真司氏じゃないけど「終わりなき日常を生きろ」的な展開を見せられると釈然としないというか。
 くっきりとした輪郭を持った「理想像」がなくなった以上、なにがしかオリジナルな自分なりの指標を持って生きてってください、としか言いようがないのはわかるけど、やっぱりもう一歩踏み込んで、「たとえばこう!」と提言するような仕事というのも、今の斎藤氏には求められている気がする。
 ともあれ、めでたしめでたしでは必ずしもないだろうが、20世紀の100年間をかけた「女性の理想の生き方」を追いかける形での啓蒙主義というのは、そろそろ終焉を迎えている。男性の方が袋小路でもがいているのと同じ轍は踏んでいただきたくないものだなー、などと老婆心ながらに呟いて、無責任なレビューを終わる。
(2004.5.22-24)


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『読者は踊る』
 (文春文庫
 2001年12月刊
 原著刊行1998年)

●見立て芸


 出張中に読んだ1冊。
 旅のお供には文庫本が欠かせないが、カバンに入れておくと、端の方が折れ曲がったり、カバーの一部が破れそうになったりしがちなもの。その点、文春文庫はカバーがしっかりしていてよろしい。そんな頑丈さをたたえられても文藝春秋社も困るかしら。
 さて、本書を読んでいて気がつくのは、斎藤美奈子というひとは、ものごとを別のものごとに例えて表現するのがうまい、ということである。
 たとえばかの『猿岩石日記』について語った次のような箇所。

 彼らの旅を、熱湯に入らされたり、炎天下のマラソンを走らされたりする「いじめられ芸」の一種と解釈する向きも多かったが、私はむしろ、同じ日本テレビの「はじめてのおつかい」に近いと思う。三〜四歳の幼児が生まれてはじめて一人で出かけるハラハラドキドキ体験を隠しカメラで追ったこのシリーズは、視聴者もハラハラドキドキしつつ見守る点で猿岩石の企画によく似ている。
(P.103「会社を辞めた若者たちが西へビンボー旅行に出る理由」)

 猿岩石のユーラシア大陸ヒッチハイクと「はじめてのおつかい」との類似性を指摘し、その類似性の中から、本質、あるいは本質だと斎藤氏自身が考えたもの(当人のハラハラドキドキ体験を視聴者が追体験すること)を引っ張り出してくる。
 最初に類似性を見いだすところでピントがぼけていると、「なぜそれと比較する?」といったことにもなりそうなものだが、比較対象を見聞きし、調べたものごとの中から的確に選び取って並べる手つきが実に鮮やかだ。多分、これは一種の芸だと思う。
 ちょうどアレだ、松本人志氏が「一人ごっつ」でやっていた「写真で一言」に近い。

●信じるな、楽しむんだ


 本書は1995年から98年あたりまで雑誌「鳩よ!」で連載されていたコーナーを、再編集して収録したものだ。一応、書評ということになるだろうが、「『現代用語の基礎知識』『イミダス』『知恵蔵』はどんなところが違うか」など、その連載当時の出版界の潮流を踏まえて、横断的な読みをしているのが異色だ。なぜこんな類の本が売れているのか、こういう手合いの本がこの時期に何冊も出たのはなぜか、その同工異曲の本にどんな違いがあるのか。1冊の本の出来不出来よりも、むしろそうした疑問に答えるようにテーマが取り上げられている。
 出版界のトレンドを追いかけているわけだから必然的に扱う範囲は広い。
 聖書から複雑系まで、薬害エイズ訴訟からウルトラセブンのアンヌ隊員懐古本まで。
 それらについて、それぞれ、前述のような手際でもって「なぜこれが受けるのか?」といった疑問についての解答を提出する。
 近ごろこんな本が流行している。本屋に行けば他にもこんな本もこんな本もある。読んでみるとこんな感じだ。なーんだ、これってアレみたいなもんじゃん。そうするとこの本が受けるのはこんな理由なのだろう。その点で同種のこの本にはこんな特徴が、この本にはこんな特徴があるのだと言える。せめて読むならこっちだろう。
 そんな調子である。
 全共闘の25周年記念本は同窓会報のようなもの。女子高生ルポは生写真ならぬ生言説の感覚で消費されている。唐沢寿明の「ふたり」は私小説だ。
 鮮やかな見立てとともに、流行がなますに刻まれていくのは爽快感がある。
 しかしこれ、言うのも読むのも簡単ではあるが、実際にやろうと思ったら、なまじ範囲が広いだけに大変である。よく調べてるなぁ、と思わされる。興味がないからこの流行は取り上げません、では連載は5回と続かない。そう都合良く自分に興味のある本が流行するわけではないからだ。カトリック系とプロテスタント系の聖書がどう違うか、なんて、ちゃんと調べてないと日本人にはさっぱりわからないのではないか。
 プロの仕事である。

 しかし、ものごとの類似性から本質を引っ張り出すという作業は、言うまでもなく恣意性の高い作業である。
 議論の時に例え話を使うな、とよく言われるのは、例え話を始めると、例えるもの次第でどうにでも本質がすり替えられるからだ。
 ここでこの商品の開発をやめるなんてスペースシャトルが出来ているのに発射台を作らないようなものですよ、といったところで、商品開発の中止とスペースシャトルの打ち上げは違うものなんだから意味がないのである。スペースシャトルは新たなる科学的知見を人類にもたらすかもしれないが、商品が無事に発売されたら、会社は余剰在庫を大量に抱え込んで倒産するかもしれない。
 同種の詐術がこの本にもある、と言いたいわけではない。
 だがうまい例え話は、実は本質がつかめていないのに、本質を理解した気にさせることくらいは、簡単にできるものだ。ということくらいは、頭の隅に置いておいた方がいいかもしれない。例え話が怖いのは、例え話を聴いている方だけでなく、それを話している方まで、ころっと騙されている場合があることだ。
 本書にしても、あくまでもひとつのもののとらえかたとして読んでいる限りは、面白い上に役に立つだろう。しかし、他のどんなものの見方もそうであるように、それを盲信するべきではない。
(2004.1.26)


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『紅一点論』
 (ちくま文庫
 2001年9月刊
 原著刊行1998年)

●これはサブカル系の評論ではない


 さて、斎藤美奈子『紅一点論』。
 内容は…、まぁ、1998年の原著刊行当時、ずいぶんと話題にもなった本だから、説明は省略してしまっていいと思う。強いて言えば「アニメ・特撮・伝記のヒロイン像」というサブタイトルが示すとおりのフェミニズム評論ですよ、ってところ。今ではちくま文庫に入って読みやすくなった。
 斎藤美奈子の名前はこの本で一般的に認知され、その後の「文章読本さん江」などで、文芸評論家としてすっかり定着したというふうに考えていいと思う。
 が、この本が出た当時は、「アニメ・特撮のヒロイン像をあつかったフェミニズム評論」として取り上げられすぎた。
 「伝記」の部分はそっちのけにされ、対象がアニメと特撮に限定されているような紹介のされ方をしたおかげで、「サブカル系の評論」という印象ばかりが世間に認知されてしまった。正直、僕もそう思っていた。
 けど、違うのだ。
 そのあたりについては、永井朗の『批評の事情』などでも「『紅一点論』が出て、斎藤美奈子を「サブカルにも詳しい女性評論家」だと誤解した人がゴマンと現われた。(中略)ところが斎藤自身はべつに特撮やアニメにはなんの思い入れもない(それは彼女の本を読めば明らかだろう)。『紅一点論』ではわざわざ執筆のために、ビデオを見たり資料を読んだりしたのである。彼女はいわゆる元サブカル少女とは違う。」と書かれていて、そんな誤解をしたのが僕だけではないことを知ることができる。
 しかし実際、「アニメや特撮に関しての評論だ」と思って読むと、この本にはいろいろと穴がある。それはこの本の主眼が、アニメや特撮、伝記について語ることそのものではなく、その中のヒロイン像をとっかかりとして、フィクションの中のヒロイン像の形成のされ方を暴こうとすることにあるからだ。
 アニメや特撮のヒロインたちは、あくまで考察の対象事例であって、考察の目的ではない、と言ってもいい。

 穴があるというのは、どこらへんなのだ、という疑問はあってしかるべきだろう。
 オタク的な視点から見ると、細かい指摘はいろいろとあると思うが、枝葉末節をいちいちあげつらったところでしょうがない(そもそも、それをやるなら、僕よりももっと適任な人は世の中に何千人といるだろうし)。一点だけ、大きなところをあげるなら、「男の子向けアニメ」に関して、「ガンダム前後」と「エヴァンゲリオン」の間、並びにエヴァ後がほとんど全くと言っていいほど扱われていない点である。
 「女の子向けアニメ」として、「リボンの騎士」「魔法使いサリー」「ひみつのアッコちゃん」「キューティーハニー」から「クリーミィマミ」などを経て90年代の「セーラームーン」「りりかSOS」「ウォディングピーチ」、さらには「少女革命ウテナ」まで、かなり時系列的に隙のないラインナップについて触れているのに比べて、男の子向けアニメに関しては、これがいささか杜撰というか、穴がある。
 「マジンガーZ」「コンバトラーV」などのスーパーロボット、「ガッチャマン」のチーム編成と「宇宙戦艦ヤマト」乗務員の構成、そこから「ウルトラマン」や「ゴレンジャー」などの特撮に触れつつ、次に出てくるのはいきなり「ガンダム」。そしてそこからいきなり「エヴァンゲリオン」。
 その後の時代のものとして「ナデシコ」にも触れてはいるが、「マジンガーZ」から「ナデシコ」までを流れとしてたどるという意味では、それちょっと無理があるぞ、とオタクなら思う…んじゃないだろうか。僕は少なくともそう思った。
 確かに、代表例としては適当だと思う。また、「ヤマト」「ガンダム」「エヴァ」は、組織の中での女性の数と役割の変化、というコンテクストの中で出てくるのだが、「男の子向けアニメ」では、その3作品の間に位置する作品で、ヒロインの役割の変化にエポックがなかった(=それだけ役割分担が固定化していた=意識が軽かった)という言い方はできる。
 しかし、そのコンテクストの中で言うなら、野明は単純にヒロイン像の延長線上でとらえられるにせよ、南雲隊長・香貫花・おタケさんを描いた「パトレイバー」はいれとかなくちゃいけないんじゃないの?

 えーと、枝葉末節にこだわってもしょうがないと言いつつ、このまま続けてくとなんか細かい話になりそうなので、早々に切り上げるが、要するに、「エヴァ」は革命的な作品ではあったが、別に突然変異種じゃない、ということなのだ。
 「エヴァ」という作品が生まれ、ネルフ上層部とパイロット陣が女性ばっかりになるのは、そこに至るまでに「勇者シリーズ」「パトレイバー」あたりのロボットアニメの流れがあり、と同時に男の子向けのアニメや漫画の世界に、「うる星やつら」「タッチ」に始まるラブコメという流れが入ってきて、ごっちゃまぜになって発展していった結果なのである。
 で、それをなぜここで言っているのか、というと、斎藤美奈子は、別にオタクではないので、アニメの時系列に沿っての発展の系譜、というオタクなら気になるであろう点が、ここでは閑却されてるんだ、ということが言いたいわけだ。
 それが何を意味するのか。それは冒頭にも述べたように、この本の興味はあくまで、アニメとか特撮とか伝記を素材に使って、そこでのヒロイン像がどのように形作られているかを考える、というところに焦点があるということを指し示している。
 それともう一つ、本書の持っている構造的な欠陥をも指し示しているが、それは後述するとしよう。

●長所・短所はいずれもそれがオタク的視点で書かれてないところに初源する


 「こんなヒロインの描き方でいいのか、これで現実の世界に目覚めはじめた女の子が喜ぶか、これで子どもがどんな女性観を持つか」と、糾弾されるにはされるが、別に本書は、アニメやら特撮やらの糾弾そのものが目的ってわけじゃないんだろうな、と思う。
 伝記はともかく、ビジネスとして、エンターテイメントとして作られているアニメや特撮で、子どもの教育にかなう、などという言葉は企画書の中にしか存在しない。子どもの教育にいい、というものを作るよりは、子どもが面白いと思うもの、さらに出来ればスタッフにとっても自分たちが面白いと思えるものを作ることが全てだ、と言っていいだろう。その上で、子どもの教育にもよければ、言うことはないかもしれないが、別に良くなくたって、スポンサーがダメだと言わなければ構いはしないわけである。
 ものづくりというのはえてしてそんなもんだし、それで問題はない。
 重要なのは、「子どもが面白いと思うもの」を作っていると、それが本書で糾弾されるようなヒロイン像をはらむ結果になっていきがちだ、ということである。それは、子どもがアニメを見るようになる年齢に達する前に、どこかでそうした文化的なすり込みが発生していることを意味する。
 もひとつ重要なのは、それが「子どもの教育にいい」ものを指向しているはずの伝記の描くヒロイン像と、重なってくるところが多い、という指摘である。
 まぁ、それがエンターテイメント性の宿命ではあるとはいえ、伝記等々によって形成された(もちろん、その前段階として、日本で言えば江戸期よりの儒教的家父長制というバックボーンがあるが)理想的ヒロイン像が、そのまま世間的に耳当たりが良いという理由でアニメにも転用されているという構造が、そこには見えてくる。

 ただし、先程も述べたように、本書には構造的な欠陥というのが存在する。
 それはつまり、斎藤美奈子が、特にアニメにも特撮にも伝記にも愛情を注いでいるということがないという、まさにそれだからこそ先に述べたような指摘が発見できたのであろう原因と、まったく同じところから生まれてきた欠陥だと言っていい。
 オタクではない、という単純な事実は、スタッフがこの作品とこの作品で共通だとか、この作品がこの作品に影響を与えているとか、そうした系譜的な面、アニメ史・特撮史的なコンテクストが閑却されがちである、という結果を引き起こしている。
 そうなると何が起きるか。そのジャンル内の系譜的なコンテクストを半ばまで無視して、事例を引っ張り出して解釈することが可能になるわけだから、事例の引き方、およびその解釈の仕方が、恣意的になってくる危険性が、そこに胚胎されると言っていいだろう。
 「エヴァ」について、本書では「『エヴァンゲリオン』という作品は、男の子の国のチームに対する批評=パロディとして見たときに、はじめて価値を持つのである」とまで言ってしまうが、これなどもその一例と言っていいと思う。
 「魔法少女は理想の娘である」「紅の戦士(※望月注:戦隊物でいうピンク)には女の友達がいない」といった歯切れの良さが痛快な本書だが、いくらなんでも「パロディとして初めて価値を持つ」ってのは言い過ぎってもんだ。「エヴァ」については、当時、「これは○○を踏まえて見ていかないと本当の意味がわからないんだよ!」という素人解説が山のように書かれ、そして捨てられていったが、別に世に出た作品である以上、どう意味や価値を読んだって構わないわけで、斎藤美奈子の言葉も含め、そうした言辞自体、意味を持たない。
 ちなみに、「パトレイバー」の特車二課が本書に登場しないのも、恣意的・偶然を問わず、見落としが発生した一例と言ってもいいだろう。
 あるいは「男の子向け」と、あえて児童向け作品にターゲットを絞った時点で、パトレイバーも滑り落ちたのかもしれないが、しかし、「エヴァ」が入ってるんだから、それはないかな。
 もしくは、大メジャーというには弱いので、見落とされているのかもしれないが、ややマイナーな作品であっても、「トップをねらえ!」などのように後につながっている作品は多いわけで、そうした姿勢も、正確を期するなら問題はあるだろう。
 それがあまり問題にならずに論が成立してしまっているのは、本書にとって、アニメや特撮、伝記などの、各事例そのものについての分析よりも、むしろ総体としての傾向からひとつの流れを浮かび上がらせていくことの方が重要だったせいなのだろうが、しかし、いかんせん、勢いがあって面白い反面、論として荒いという印象はぬぐえないところがある。
(2003.5.24)


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齋藤美奈子

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