〜彼と彼女の事情〜
K A R E × K A N O
Written by:きたずみ
#7
「……奇跡ね」
目の前に並べられた豪華な料理の数々を眺めやって、リツコは思わず感嘆の吐息を洩らした。味覚異常のミサトに夕食をお呼ばれされたことでず〜んと沈んでいた気持ちが、一気に明るくなってくる。
「これ、もちろんユカちゃんが作ったのよね」
「あ、これね〜、あたしが作ったの」
「はい。気に入っていただけるといいんですけど」
「ねぇ、リツコ聞いてる? これこれ。あたしが作ったの〜」
「もちろんよ。ミサトの料理でなければ何でもいいわ。まだ死にたくないもの」
「……どぼじで」
「あ、ダメだよペンペン。それは食べ物じゃないよ。危ないから、ね?」
「ユカちゃんまで、ひどい」
「だって、ペンペンが死んじゃったら嫌でしょ?」
「……」
急に薄暗くなった部屋の隅に座り込んで、「どうせあたしは嫁き遅れよ」とか、「三十路前だからってどいつもこいつも焦りやがって」とか、「何でエビちゅが値上げすんのよあたしのたった一つの生き甲斐なのに」とか、関係ないことまでぶつぶつ呟いているミサトは放っておいて(酷)、二人と一匹は舌鼓を打った。
「ペンペン、ミサトさんにこれ渡してきて」
「クエ」
完全に餌付けされているらしく、ペンペンはユカの言うことに大人しく従う。羽根でユカの差し出したエビちゅを器用に持ち、とてとてと歩いていくペンペンを見送って、久し振りに家庭料理を堪能したリツコは、上機嫌でグラスのビールを咽喉に流し込んだ。
「ユカちゃんがいなかったら葛城家は三日で破綻するわね。ほんと、主婦の鑑だわ。ユカちゃん、あなたいいお嫁さんになれるわよ」
「そんな、お嫁さんだなんて……」
頬を赤らめて何を想像しているかは、一目瞭然である。そんなモエモエに反応して復活したミサトは、エビちゅを片手ににんまりと笑った。
「鈴原くんのお嫁さんになりた〜いってかぁ? ホント、単純でいいわぁ」
「ミサトと同じね」
容赦ないリツコの突っ込みに、ぐっ、と詰まるミサト。
「そうそう、忘れないうちに渡しておかないと」
思い出したように言って、リツコはバッグからカードを取り出すと、ユカに渡した。
「綾波レイの更新カード。再起動実験の準備に取り紛れて、渡すの忘れちゃった。明日、NERVに来る前に、レイのところへ行って届けてきてくれない?」
「あ……はい」
そう言うリツコの優しい瞳に、ユカはそれが彼女の気遣いなのだと解ったので、ペこんと頭を下げた。
「リッちゃんってば、可愛い女の子にはやっさし〜い。れず? ねぇ、れず?」
「バカね。違うって言ってるでしょ」
微かに頬を染めて目を逸らすリツコと、それを揶揄う酔っ払いの二人を、ユカは羨ましそうに見やってから、掌の中のカードに目を落とした。その様子に気付いて、ミサトとリツコはじゃれるのをやめる。
「レイのこと、気になるの?」
「えっ」
レイの写真を見つめて何やら物思いに耽っていたユカは、リツコの声にハッと我に返った。見ると、二人がじっと彼女を見ていた。
「……あ、はい」
考えていたのはそんなことではない。前々から感じていたことだった。綾波レイ。ここに来て初めて逢った筈の彼女に、奇妙な懐かしさを覚えるのだ。小さい頃に逢ったきりの顔も覚えていない親戚に、十年ぶりに逢ったような――
(誰かに似てる気がする……それとも、前に逢ったことがある? まさかね)
ユカは、ユイの顔をぼんやりとしか覚えていない。おまけにゲンドウがユイに関するもの、彼女を思い出させるものを何もかも処分してしまったので、今となっては彼女に母の顔を知る術はないのだった。だから、レイがユイに良く似ていることなど、彼女は知らない。無論、自分自身もそうだということも。
「話、殆どしたことないから……だからわたし、綾波さんのこと、全然解らなくて」
「いい娘よ、とても」
ユカの横顔を見つめながら、リツコは言った。
全てを知った時、彼女が自分にどんな瞳を向けるかと思うと、胸が軋む。
「あなたのお父さんに似て、とても不器用だけど」
「不器用って、何がですか?」
「――生きることが」
小さく息を吐きながら自嘲気味に目を逸らして、リツコは言った。
第3新東京市、旧市街。
解体作業の槌音が幾重にも反響する巨大なマンションの群れの中に、人の姿はなかった。残っている棟も、取り壊されるのをただ待つのみの存在だ。
その一角に、綾波レイの住居はあった。
ゴミがあちこちに打ち捨てられたままの薄汚れた建物を見て、ユカは思わず溜息を吐いた。蛍光灯も切れたままで、メンテなどここ何年も入っていないと一目で解る。
薄暗く、人の気配や温もりといったものが完全に欠如したその空間は、殆ど廃墟と言っていいだろう。人の住む場所、という感じは全くしなかった。ハッキリ言って、こんな所に好んで住む人間の気が知れない。
「……こんな所に、本当に住んでるの……?」
リツコに貰った地図を片手にマンションの部屋番号を見上げたユカは、表札に「綾波」と記されているのを確めて、ブザーを押した。
だが、壊れているのか、何度押しても音がしない。どうしようか迷いながらドアノブに手を伸ばすと、鍵はかかっておらず、ドアは軋みながら開いた。玄関に靴はない。土足のまま上がっているらしく、汚れた床には幾つも足跡が残っていた。
「――なにこれ……」
その凄まじいまでの汚さに、ユカは初めてミサトの部屋に入った時を思い出す。あの時は機能的かつ人間的な生活空間を構築するまでに三日を要したが、これはもはや「片付ける」というレベルではない。気乗りはしないながらも、ユカはそっと玄関に上がりこんだ。
「ごめんくださ〜い」
本当にこんな所に人間がいるんだろうかと不安になりながら、ユカは奥に向かって声をかけた。
「綾波さん? いないの?」
返事はない。リツコさんにかつがれたのかなぁ、とか思いつつ、ユカは中を覗いてみることにした。もしかしたらまだ寝てるのかもしれない。
靴を脱ごうかどうしようか迷ったが、そもそも靴なんか置いてない。土足のまま上がりこんでいると一目で解る。一瞬躊躇ってから、ユカはそのまま上がり込んだ。そして、薄暗いリビングを見渡すと、思わず溜息を吐いた。
「うっわ〜……」
人の生活臭というものがまるで考えられない空間。床も壁も地肌剥き出しで、家具といえばチェストとベッド、あとは小さな冷蔵庫ぐらいしか見当たらない。
「……ほんとにこんなとこで暮らしてるの?」
予想もしなかった状況に、ユカはやや混乱しながらそう呟いてあたりを見回した。冷蔵庫の脇に無造作に置かれたダンボール箱はゴミ箱の代わりなのか、中には血まみれの包帯が乱雑に突っ込まれていて、上には水の入ったビーカーと、何かの薬の袋が置かれている。
「怪我、もういいのかな……」
零号機の起動実験で彼女が怪我したというのを思い出し、包帯まみれになっていたレイの姿を脳裏に浮かべて、ユカは呟いた。
その時、アコーディオンカーテンを開けて、レイが髪を拭きながら出てきた。無論、その躯を覆っているのは大き目のバスタオルのみである。誰もいない筈の自分の部屋に他人の存在を認めて、その血色の双眸が見開かれた。レイの動きが止まる。
カーテンの開く音にハッと振り返ったユカも、そのまま凍り付いていた。彼女の紅い双眸が、驚いたように自分を見つめている。
「――あ」
息を吸い込んで、ユカは口を開いた。
「あの、お邪魔してます。ベル押したんだけど鳴らなかったし、声かけても返事なかったから。……ごめんね、靴のまま上がっちゃって」
「そう」
素っ気ない口調で言うレイだが、その心中は決して穏やかではない。
自分の目の前にいる少女から目を離せない。自分を見つめてくる漆黒に瞳や、くるくると良く変わる表情に、自然と瞳が吸い寄せられていく。
ちくり、と胸の奥に鈍い痛みが走る。
(サードチルドレン……碇司令の子供)
レイの脳裏を過ぎる見知らぬ光景。
(この人が来たから、私はあの人に捨てられる。そう思っていた。――なのに……)
眼下にはジオフロントが広がっている。
(なのに何故、懐かしいと感じるの)
同い年ぐらいの少女と一緒にいる、蒼銀の髪の少女。
(逢ったことないのに。知らない人なのに)
――アレハダレ?
(何故――)
思考が迷走する。頭の芯がチリチリする。知る筈のないことを知っている自分、自分ではない誰かの感情や記憶が、頭の奥から溢れ出してきそうになる。
記憶の蓋が開きそうになる。
それに耐え切れずに、先に目を逸らしたのはレイだった。
「なに」
彼女にしては揺らいだ声で、しかし慣れぬ者には淡々として聞こえる声音で、レイは訊いた。そのまま答えを待つでなく、ベッドに放り出した着替えを身につけていく。
「リツコさんに更新カードを届けてくれって言われて――」
そう喋りながら、間が持たずにあたりを見回していたユカは、チェストの上に置かれた眼鏡に気付いた。明らかに男物と解る、熱で変形してレンズの割れた眼鏡――
「――これは?」
何気なくそれに手を伸ばしたユカは、その言葉に振り返った、いきなりレイがすごい勢いでこちらに歩み寄ってきたので驚いた。ユカは反射的に後退るが、レイは構わずに彼女の掌の中にある大切なものを奪い返そうと動く。
「きゃっ!」
その瞬間、スリッパを履いたレイの足下が滑り、二人の少女は絡み合うようにして倒れこんでしまった。ショーツだけを身につけたレイが、眼鏡を握ったままユカの胸元に顔を埋めるような体勢になる。
他人に体重を預け切る感覚。柔らかいものに包まれているような感じ。彼女の胸の中に見知らぬ感情が湧き起こる。だが、彼女はそれに恐怖した。慌てて身を起こし、恐ろしいものを見るような瞳で倒れたままのユカを見やると、レイはそのまま背をむけた。
何事もなかったかのように淡々と着替えを済ませ、眼鏡を大切そうにケースにしまうレイの姿を、ユカは上体を起こしながらぼんやりと見つめていたが、ややあって、
「ごめんなさい。それが綾波さんの大事なものだったなんて気付かなくて。無神経でごめんなさい」
そう言って頭を下げるユカを、レイは戸惑ったように見つめた。このように自分に接してくる人間を、彼女は他に知らなかった。
心に垣根がない。超えてゆくものがない、ただ、在るがままに受け入れてくれる。
それを、心地好いと感じてしまう。
そんな自分の心が解らなくて、だからレイは、そのまま逃げ出すように、後も見ずに部屋を出た。背後でドアが硬質な音を立てて閉じる。
ややあって、後を追うように再びドアが開き、そして閉じた。足音が追ってくる。
「綾波さん、待って」
やや息を乱しながら、隣にユカが並んだ。彼女をチラリと見やって、再びレイは何事もなかったかのように前方に目を移す。
「なに」
「一緒にいこ? どうせ同じとこ行くんだし」
「……どうして?」
「ん〜……綾波さんと一緒にいたいから、かな」
素っ気ない自分の態度に、しかし彼女は全く気にも留めずに普段と同じように微笑った。まるで、昔からの友人に対するように。
その微笑みが、不意に誰かのものとだぶる。
「……」
胸のざわめきに戸惑いながら、レイは再び前を向いた。
NERV本部へ向かうリニアの中でも、ユカとレイは並んで座っていた。二人の間に会話はない。だが、何故か落ち着く感じがする。
ゲートの前でカードスリットにカードを通すレイ。しかし、当然のことながら認証されない。もう一度スリットさせるレイの前に、ユカがカードを差し出した。彼女の方を見るレイに、ユカはにこりと微笑んでみせる。
「はい、綾波さんの更新カード。渡そうと思ったのに、一人で行っちゃうんだもん」
「……」
無言でそれを奪い取るようにしてゲートを開け、一人でさっさと先に行くレイ。それを見送って小さく溜息を吐いたユカは、ともすれば挫けそうな心を励ますように大きく息を吸い込んだ。
「よし!」
気合を入れてゲートを開け、レイの後を追う。ジオフロントへのロングエスカレーターの上で、ユカはレイに追いついた。
「綾波さん」
返事はない。レイの背中が己を拒絶しているように思えて一瞬怯むが、構わずにユカは続けた。彼女の心を読むことなど、ユカには出来ない。だから、とにかく攻めて攻めて攻めまくるしかなかった。
「今日、これから再起動実験なんでしょ?」
やはりレイは黙っている。どうやら完璧に無視を決め込むつもりのようだ。
「綾波さんは怖くないの? もう一度零号機に乗るのが」
「どうして?」
「え?」
前を向いたまま問うレイに、ユカは顔を上げた。
「あなた、碇司令の子供でしょ」
「……たぶん」
「信じられないの? お父さんの仕事が」
「信じるほど、あの人のこと知らないから。ここに来て初めて逢った人だし」
「―――」
軽く息を吸い込む音がした。驚いたように目を見開いて、レイは振り向いてユカを見つめる。そんな彼女に、ユカは寂しそうに微笑った。
「わたしのこと、娘だって思ってないんだよ、あの人は」
その言葉に、レイはキッと彼女を睨みつけた。その眼光の鋭さにハッとなるユカ。彼女にしては珍しく怒りの表情を浮かべて、レイはユカの頬を張った。
頬を押さえたまま、茫然とレイを見つめ返すユカ。
「――なにするのよ」
圧し殺したような低い声で言って、ユカはレイを睨んだ。レイは応えない。ただ、無言でユカを見据えたままだ。
パンッ!
レイの頬が鳴った。白い頬を紅く染めて、レイが顔を背ける。
「おかえし」
自分を睨む赤い瞳をまっすぐに見据えて、ユカは言った。
そのまま、二人は言葉を交わすことも、視線を合わせることもなく別れた。
NERV本部、ケイジ。
制御室にはゲンドウや冬月をはじめ、大勢のスタッフが詰めていた。モニタリングシステムが、プラグ内のレイの状態を逐一チェックしている。
「レイ、聞こえるか。これより再起動実験を行う」
ゲンドウのその一言によって、再起動実験が開始された。リツコ麾下の技術者や研究者、オペレーターたちの動きが次第に活発になっていく。目には視えない緊張の糸が、ピンと張り巡らされていく。それを、ユカはミサトと一緒に控え室の窓から眺めていた。
「第一次接続、開始」
リツコの命令が下った。
さまざまな光が踊るエントリープラグ内では、レイが目の前のフックにかけた眼鏡を見つめて心を静めている。
「初期コンタクト、全て問題なし」
「双方向回線、開きます」
「第二次接続」
「主電源接続。第二次コンタクトに入ります」
前回越えることが出来なかった絶対境界線を突破し、レイは零号機の起動に成功する。前回の恐怖を思い出したか、安堵の表情を浮かべる制御室のスタッフ。
「引き続き、連動試験に入ります」
彼らの安堵や昂奮など気にも留めず、淡々とした口調でレイは言った。ゆっくりと顔を上げる零号機の視界の隅に、控え室の窓からこちらを見つめているユカの姿が映る。レイは彼女を一瞥しただけで目を逸らした。
その時、ケイジ内に警報が鳴り響いた。
MAGIが接近してくる使徒の姿をサブモニターに回す。ピラミッドを上下に貼り合わせたような無機質な感じの物体が、空の蒼を表面に弾きながら、まるで宙を滑るようにこちらへ向かってくる。
「実験中止。総員、第一種戦闘配置。初号機をただちに発進させろ」
「零号機はこのまま使わんのか?」
「まだ実戦には耐えん。レイ、聞いての通りだ。上がれ」
「――はい」
電源が落とされる零号機。モニターなどの光が消え、予備電源による仄かな薄灯りの中でシートに凭れるレイ。その口許から零れた気泡が、こぽりと上がっていく。
彼女が外に出た時、ユカを乗せた初号機がリフトへと運ばれていくところだった。
「発進!」
発令所にミサトの号令が響く。リニアで射出される初号機。
その時、青葉が叫んだ。
「目標内部に高エネルギー反応!」
「なんですって!?」
「円周部を加速! 集束していきます!」
「――まさか」
ハッと顔をあげるリツコ。ミサトは、初号機を出す前に敵の能力を確かめておかなかった己の迂闊さを呪った。
「だめ、避けて!」
「え?」
カッ、と使徒が光を放ったその瞬間、射出されたリフトの前にあった高層ビルが眩く輝いた。加速された荷電粒子の奔流はビルを瞬時に貫通し、依然リフトに固定されたまま身動きの取れない初号機を直撃する。
集束された荷電粒子は巨大な熱転換エネルギーを持つため、それに曝された物体は分子レベルで過熱・融解する。それは初号機とて例外ではない。ATフィールドを展開する暇すらなく、瞬時に胸部装甲が融解していく。
「きゃあああああああああ―――!」
煮えたぎるLCLの中で、ユカは絶叫した。
「ユカちゃん!」
スピーカーから響くユカの絶叫に、ミサトは唇を噛んだ。
「戻してっ、早く!」
収容される初号機。使徒の陽電子ビームは執拗にそれを追って動き、射出口を破壊した。初号機が地下に姿を消すとともに砲撃が熄む。と同時に、目の前のビルが飴のようにドロリと熔け崩れていった。
「目標、緘黙」
「初号機回収、第7ケイジへ」
「ユカちゃんは?」
「生きてます!」
沸騰するLCLの中で、ユカは気を失ったままぐったりしている。
「ケイジへ行くわ。あとよろしく」
リフトで降りて行くミサトを横目で見送って、リツコはユカの身体状況を素早くチェックした。その様子を、いつものポーズで見つめているゲンドウ。だが、その拳が微かに戦慄いているのを、傍らにいた冬月は見逃さなかった。
「パイロット、脳波乱れています。心音微弱」
日向が呻くように言った。
「生命維持システム最大。心臓マッサージ!」
プラグスーツに包まれたユカの躰がビクンと震える。続いてもう一度。
「パルス確認!」
「プラグを強制排出、急いで! LCL、緊急排水!」
引き抜かれたプラグからLCLが勢いよく噴き出していく。
「構わないわ、ハッチ開けて!」
ケイジに駆けつけたミサトが指示を飛ばした。開かれたハッチからインテリアごとクレーンで引き上げられるユカ。既に意識はなく、ぐったりしている。
「ユカちゃん!」
圧し殺したようなミサトの悲鳴を、レイは遠くで見つめながら聞いていた。
ストレッチャーに乗せられて搬送されるユカに付き添いながら、ミサトは唇をぎゅっと噛み締めた。苦い悔悟が胸に押し寄せる。
目の前で閉ざされるICUの扉。その上に点った『緊急処理』のランプを、ミサトは祈るような気持ちで見上げた。このまま彼女が失われることを思うと、胸の奥に冷たいものが澱んでくる。恐怖という名の感情が。
だが、それは家族を失うことを恐れた故か、貴重な駒を失うことを恐れてのものなのか、ミサトには解らなかった。
今回の事態は全てミサトが招いたといってもいい。いくら汎用性が高く、適応力に優れているとはいっても、エヴァは本来、決戦兵器である。敵の能力を探りながら戦うようには出来ていない。エヴァを出す前に目標の有する能力を予め評定しておくのは、作戦課の役目だった。
敵の戦力を調べるのは戦術のABCである。第三、第四使徒ともに、結果的には初号機単機で退けているというユカの実績が、ミサトを油断させていたのかもしれない。
「……あたしの所為だ。あたしがもっとしっかりしてたら……」
リノリウムの床を見つめてそう独白したミサトは、ややあってきゅっと唇を引き結ぶと、靴音を響かせてその場を後にした。
(悔やむのは後でいい。今は、あたしに出来ることを精一杯やるしかない。償いは存分にさせてもらうわ――生き残れたらね)
それからしばらくして、無人となったメディカルセンターの廊下に、白い影が現れる。プラグスーツ姿のままのレイだ。手にはゲンドウの眼鏡が握られている。彼女は赤いランプを見上げながら、その場に立ち尽くしていた。
第3新東京市の中心部上空に陣取った第五使徒は、その下部からシールド状のものを突出させて穿孔を開始した。ジオフロントへ直接侵攻を果たすつもりらしい。
ミサト麾下の作戦課は使徒の能力を測定するため、1/1スケールのバルーン・ダミーや独12式自走臼砲などを使って使徒へ攻撃を仕掛けた。そのいずれも使徒の加粒子砲によって呆気なく破壊され、砲撃は使徒のATフィールドに阻まれて傷一つつけられない。
「――なるほどね」
だが、それで目標の大体の能力は把握出来た。
「目標は、一定レンジ内に侵攻してきた外敵を自動的に排除する特性を持っていると思われます」
「エリア侵入と同時に、加粒子砲で百パーセント狙い撃ち。エヴァによる接近戦は、危険すぎますね」
作戦課員の報告に、参謀副官である日向がコメントを加えた。暗に、後先考えずにユカを出撃させたミサトを批判しているように聞こえるが、彼自身にはそのつもりはない。だが、彼の言葉はミサトの心に深く突き刺さった。
「ATフィールドは?」
「依然として健在。位相空間が肉眼で確認できるほど強力なものです」
「誘導、火砲、爆撃などの生半可な攻撃では泣きを見るだけですね」
「攻守ともにほぼパーペキ。まさに空中要塞ね。で、問題のシールドは?」
「目標は現在、我々の直上、ゼロエリアに侵攻、直径17.5メートルの巨大シールドがジオフロント内、NERV本部に向かって穿孔中です」
「敵はここへ直接攻撃を仕掛けるつもりですね」
「しゃらくさい。到達予想時刻は?」
「明朝午前零時六分五四秒。その時刻には、すべての装甲防御を貫通してジオフロントに到達します」
「あと十時間足らずか――」
敵シールドが第1装甲板に接触したことを告げるアナウンスを聞きながら、ミサトはケイジに回線をつないだ。ケイジでは、赤木リツコ、伊吹マヤ両名が初号機の破損個所の修復作業の指揮を執っている。取り外された胸部装甲板はドロドロに融解している。
「初号機の状況は?」
「胸部第3装甲板まで見事に融解。機能中枢をやられなかったのは不幸中の幸いね。これなら装甲を替えるだけで済むわ」
「あと三秒照射されてたらアウトでしたけど」
「三時間後には換装作業、終了予定です」
作業班の報告にミサトは頷いた。
「了解。零号機は?」
「再起動自体には問題ありませんでしたが――」
データを見ながらマヤが応える。
「最終微調整にまだちょっと時間がかかりますね」
「実戦は、まだ無理か……」
まともな報告が上がってこないことに苛立ちながら、ミサトは続けた。もとはといえば、自分が蒔いた種なのだ。
「初号機専属パイロットの容態は?」
「身体的には何も異常はありません。神経パルスが若干乱れていますが、許容範囲内です。今は薬で眠っています」
淡々とした日向の答えに、ミサトはやや眉をひそめながらモニターに目をやった。生命維持カプセルの中で、全裸のユカが酸素マスクやケーブルに繋がれて眠っている。その傍らには、眼鏡を握り締めたレイの姿があった。ミサトは内心、ホッと溜息を吐きながら、
「――状況は芳しくないわね」
「白旗でも揚げますか」
日向の言葉に、ミサトはにヤリと微笑った。
「その前に、チョッチやってみたいことあんのよ」
無意味にだだっ広いNERV総司令官公務室でゲンドウや冬月と向かい合いながら、ミサトは高エネルギー集中帯による目標のレンジ外、超長距離からの直接射撃を進言した。ATフィールドを中和することなく、コアへの一点突破を狙う作戦である。
「MAGIはどう言ってる?」
「S.C.MAGIによる回答は、賛成2、条件付き賛成が1でした」
「勝算は8.7パーセントか」
「最も高い数字です」
「反対する理由はない。やりたまえ、葛城一尉」
「はい」
だが、技術部からの反応は芳しくなかった。EVA用ポジトロンライフル(円環加速式試作20型)ではそんな大出力には耐えられないのだ。
そのため、ミサトは戦自研が試作していた自走陽電子砲のプロトタイプを徴発する。そして、目標のATフィールドを貫くために必要な1億8千万キロワットの大電力を、日本中から集めると言い出したのだった。
こうして、『ヤシマ作戦』と呼称される作戦はスタートした。
――作戦の要であるサードチルドレン、碇ユカを置き去りにして。
その頃、鈴原邸内では、トウジがケンスケとネットゲームをしていた。
その画面に大停電を告げる臨時ニュースが割り込んでくる。唐突で一方的なその知らせに、二人は顔を見合わせた。
「やっぱNERVがらみか?」
「決まってるさ。こんな派手なことをするのはNERVぐらいのもんだよ、きっと大規模な作戦があるんだ。待ってろ、パパのデータをちょろまかしてみるから」
嬉しそうに言って鞄の中から携帯型ターミナルを取り出した友人を見やって、トウジは溜息を吐いた。今日は突然の休校で、ユカやレイとは逢っていない。大規模な作戦となれば、二人が怪我したり、下手をすれば死ぬこともあるだろう。
(無事でおれよ、ユカ……)
だが、ただの民間人でしかないトウジには何も出来ない。傍にいて彼女を支えてやることも、彼女を守ってやることも。何も出来ない自分にもどかしさと苛立ちを覚えながら、トウジはただひたすらに彼女の無事を祈った。
「敵シールド、第7装甲板を突破」
「エネルギーシステムは?」
ミサトの硬い声音に、日向が疲れも見せずに答えた。
「予定より3パーセントほど遅れていますが、許容範囲内です」
「ポジトロンライフルは?」
「技術開発部三課の意地に賭けても、残り3時間で形にしてみせますよ」
「防禦手段は?」
「これはもう、楯で防ぐしかないわね。原始的だけど、この場合は有効な防禦手段だわ」
そう答えるリツコの目の前には、SSTOの機体底部を流用した急造の楯がでんと置かれている。
「SSTOのお下がり。こう見えても超電磁コーティングされてる機体だし、あの砲撃にも17秒は保つわ。二課の保証書つきよ」
「結構。狙撃地点は?」
その言葉に、日向は地形図を表示する。
「目標との距離、手頃な変電設備を考えると、やはりここですね」
「――確かに、いけるわね。狙撃地点は二子山山頂。作戦開始時刻は明朝午前零時。以後、本作戦を『ヤシマ作戦』と呼称します」
「了解」
取敢えず作戦の目処がついたことで、ミサトは小さく息を吐いた。だが、彼女にはまだ一仕事残っている。一番大事で、そして難しい仕事。
(あとはパイロットの問題、か――)
ミサトは苦い顔で俯いた。
「初号機パイロットの意識が戻りました。検査数値に異常なし」
「そう。では、作戦は予定通りに」
「了解」
「あとは、彼女が乗ってくれるかどうかね。どうするの?」
「……なるようになるわよ」
リツコの冷ややかな言葉に、ミサトはいつもの笑みを浮かべた。
その数分前――
ユカは、夢を見ていた。
すぐにそれが夢と解ったのは、視点が幼児のそれだったためだ。五歳ぐらいの子供の視点から、ユカは物凄く広い施設の中を眺めていた。
見知らぬ場所ではない。NERV本部だ。だが、彼女にはそんな記憶はない。五歳といえば、母が死んで、叔父夫婦のもとに引き取られた後のことである。第一、彼女がここに来たのは、第三使徒襲来の日が初めての筈なのである。
見たこともないほど広い施設内を、好奇心を一杯にして歩き回っていたユカは、いつしか誰もいない所に迷い込んでいた。
どこをどう歩いたかは覚えていない。帰り道も皆目解らない。不安になって泣き出しそうになるのをこらえながら、薄暗い通路をひたすら歩いていくユカの目の前に、不意に白い影が現れた。
「ひゃぁっ」
驚いて尻餅をつくユカを、その人影は不思議なものを見るような瞳で見ている。人影というより、同い年くらいの少女だ。白い貫頭衣のようなものを纏った、蒼銀の髪に紅い瞳の少女――
(――綾波さん!?)
夢を見ていることを認識しているユカは驚愕する。
一方、五歳のユカは、きょとんとしてその少女を見上げていた。
「なにしてるの」
抑揚のない声で、その少女は問うた。
「みちにまよったの」
えへへ、と照れ笑いを浮かべながらユカは答えた。それに小さく頷いて、少女は背中を向けた。
「こっちよ」
そして歩き出そうとして、不意に手を掴まれたことに気付き、人肌の温もりに狼狽する。だがそんなことにはお構いなしに、心細さを埋めようと、ユカは掴んだ手をさらにぎゅっと握り締めてくる。諦めて、少女は小さく息を吐いた。
そのまま、どれぐらい歩いただろうか。見覚えのある大きな通路に出た時、ユカはそこに、白衣を纏った眼鏡の男が立っているのを見つけた。
「あ! おとうさーん!」
五歳のユカが無邪気に叫ぶ。だが、ゲンドウは駆け寄って足下に抱きつくユカには目もくれず、厳しい目を赤い瞳の少女に向けた。
「レイ。ここで何をしている」
少女は答えない。
「戻れ」
「……はい」
言われるまま瀬を向け、自分がいたところへ戻っていくレイ。
「ありがとー! またねぇ〜」
ゲンドウの服の裾を掴んだまま、ユカはその背中に向かって手を振った。それをチラリと振り返るレイ。彼女の瞳に、無邪気な少女の弾けるような笑顔が焼きついた。
つづく
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あとがき
お待たせしました。いよいよレイの登場です。
レイのキャラがなかなか掴めなくて、かなり苦労しました。
ちょっと設定をいじって、一人目がユカと逢っていたということにしました。まあ、その辺はおいおいバラしていくことになるでしょう。
時間的にちょっと無理があるかな、と思わないではないが……
まあ、そのうちなんとかなるだろう(笑)。