彼女事情
K A R E × K A N O

Written by:きたずみ

#9
「ふぁぁ〜〜〜……」
 口許を押さえながら大きな欠伸を洩らしたユカを、教師は教壇越しにじろりと睨んだ。が、すぐに目を逸らす。
 この街でNERVに睨まれたら生きていけない。わざわざ藪をつつくことはない。そういう判断があるのかどうかは解らないが、学校サイドはユカやレイが無断で学校を休んだり遅刻しても、別に何も言わなかった。
 NERVの用事だと言ってしまえば大抵のことはそれで済んでしまう。
 便利なものだとは思いつつ、もともと転校してきてまだこちらのペースに追いついていないユカは、おいそれと休むわけにはいかなかった。だから、ヤシマ作戦の翌日も、こうして眠いのを我慢して学校に来ているのである。
 ……というのはタテマエで、要はトウジと一緒にいたいからだった。
 が、何しろ撤収作業が完了したのが午前三時。普段、遅くても十一時過ぎにはベッドに入るユカにしてみれば、もうほとんど人外魔境である。半分眠ったような状態でシャワーを浴びて、いつ家に帰ったのかも明瞭り覚えていない。
 それでも習性で五時半には目を覚ましてしまうものだから、とにかく眠い。睡魔の猛攻に必死で耐えながらも、教師の話はろくに耳に入っていないし、画面は歪んでいて何が書いてあるか解らない。既に脳の六〇パーセントが眠っている。それでも二時限目までは何とか耐え切ったのだが、三時限目の根府川先生の昔話で陥落した。
 レイはというと、こちらも一応ちゃんと来てはいたのだが、彼女の方は登校早々机に突っ伏して、今や完全に爆睡状態である。
「どうせ寝るんやったら、学校休んだらええのになぁ」
「なに言ってんだよ、嬉しいくせにさ。良かったじゃないか、カノジョが無事で」
「……まあ、な」
 レイとユカの寝顔をカメラに収めることで忙しいケンスケの言葉に苦笑しながら、とにかく二人とも無事だったことにホッとするトウジだった。ケンスケの話では、相当危険な作戦だったらしく、零号機が大破したとのことだった。
「にしても、似てるなぁ」
 フレームを覗きながら、不意にケンスケが呟いた。徹底して無表情なレイと、対照的にころころと表情の変わるユカではあまりに印象が違いすぎるため、普段は気付かないのだが、こうして二人の寝顔を見比べてみると、驚くほどに顔立ちが似ているのが解る。
「……なんやて?」
「見てみろよ」
 そう言って、ケンスケはトウジの端末に静止画を転送し、並べて表示してみせた。こうして並べてみると、余計に明瞭りする。目鼻立ちや口許が特にそっくりだ。髪と瞳の色が同じなら、姉妹と言っても通るだろう。
「案外、生き別れの姉妹だったりしてな」
「アホ。無責任なこと言うな」
「冗談だよ。言ってみただけさ。――でも、実際解らないぜ。もしかしたらホントに血が繋がってるのかも」
「……そんなこと、ユカには言うなよ」
「ああ、解ってるよ」
 釘をさす友人に軽く頷いて、ケンスケは撮影を再開した。セカンドインパクトの時、根府川に住んでいたという老教師の昔話はまだ続いているが、誰も聞いていない。寝たり、本を読んだり、早弁をしたり、みんな好き勝手にしている。ケンスケのように趣味と実益に励むものも珍しくはない。
 軽く息を吐いて、トウジはモニターに目をやった。そこでは、ユカとレイが組んだ腕に頬を預けた同じ姿勢で、無邪気な寝顔を浮かべている。普段無表情なレイも、眠っている時の表情は柔らかかった。
(生き別れの姉妹、か――)
 あり得ない話だと否定できるほど、トウジはユカの両親について知らない。父のことは何も覚えておらず、むしろ嫌っている様子なので訊かなかったし、母親が早くに亡くなっているのはこちらも同じなので触れなかった。
 正直、親の話は自分もあまりしたくない。別に険悪な関係ではないし、むしろ一般的には良好なのだろうが、母が亡くなってからというもの、父も祖父も狂ったように仕事に打ち込んで、滅多に家にいたためしがない。そのため、ユキノに寂しい思いをさせていることが腹立たしいのだった。
(十年近く放ったらかしにしといて、いきなり呼びつけた思うたらまた他人任せか。……いったい、どんな親父やねん)
 まだ見ぬ碇ゲンドウという男に不信感を募らせつつ、トウジはユカの安らかな寝顔に見入った。滅多に帰ってこないとはいうものの、帰ってきた時には父も祖父もユキノをすごく可愛がる。普段逢えない分、余計に可愛くて仕方がないらしい。
(……娘を嫌う父親なんて、おるわけないやないか)
 一度、どうにかして逢ってみなければならないと思いながら、その困難さに改めて溜息を洩らすトウジだった。
 なにしろ、相手はNERVの総司令官である。一介の中学生でしかない自分が逢いたいといった所で、逢ってくれるわけがない。そもそも、娘である筈のユカですら、ここに来てからまだ一度しか逢っていないらしいのだ。
 もっとも、彼女としては逢いたくもないらしいのだが……、本当に逢いたくないわけがない、とトウジは睨んでいた。娘を嫌う父親がいないように、父親を嫌ったり忘れたり出来る娘も、また存在しない筈だ。良くも悪くも、それが父娘というものなのだから。そう、自分がどうしても母親のことを忘れることが出来ないのと同じように……。
(おかあちゃん、か。……忘れた思うたら、ひょっこり夢に見たりしよるしな。もうあんまり顔、解れへんけど……)
 祖父の話では、ユキノは小さい頃の母にそっくりだそうだ。ふとした時の仕種や表情が、驚くほど似ているらしい。セカンドインパクトのどさくさで写真の類は全て散逸してしまっているから事の真偽は解らないが、自分でも時折そう感じることがある。
 そして、同じような温もりをユカに感じている自分。自分は母親の代わりにユカを求め、ユカは愛してくれない父の代わりに自分に甘える。
 つくづく奇妙な関係だと苦笑しながら、トウジはユカの寝顔から目を離すことが出来なかった。こうして彼女を見つめているだけで、心がほんのりと温かくなる。単にユカの肉体に惹かれているのではないと解って、少しホッとするトウジだった。
 無論、ユカの躯に興味がないとは言わない。思春期の少年にとっては、セックスに忌避感や抵抗がなく、むしろ積極的でさえあるユカという少女は、まさに都合がいい存在と言えた。その上にあの容姿とスタイルだ。体力が続く限りやりたいとさえ思うし、もしトウジがそれを望むなら、ユカは拒まないようにも思う。
 けれど、それは違う気がする。躯だけで繋がる関係では、心は離れていく一方だ。心も躯もユカにもっと近づきたい、というのがトウジの偽らざる本心だった。彼女の支えになりたい。彼女が苦しんでいる時、側にいて抱き締めてやるだけの強さが欲しい。
 強くなりたい、と少年は願った。己の心の中に棲みついた、可憐な少女の笑顔を守るために。彼女とともに、これからも生きていくために。
 だが、そのために自分に何が出来るのか。それはまだ、彼には皆目解らないのだった。
(……将来、か。考えたことあれへんかったわ)
 勉強が出来るわけではない。いつもジャージを着ている所為で運動が得意に思われがちだが、特別運動能力に秀でているわけでもない。趣味に生きる友人のように、特殊な技能を持っているわけでもない。レイやユカのようにエヴァを動かせるわけでもない。
(なんや、情けのうなってきたな……)
 何も出来ない。ただ見ていることしか出来ない。それが情けない。彼女のために出来ることがないというのが、悔しい。
 何をしたらいいのかすら解らないのが、なおさら苛立たしかった。
 
 昼休みになって、ユカはようやく目を覚ました。
「む〜……」
 真っ赤に跡が残ったほっぺたを擦りつつあたりを見回し、自分を見ているトウジに気付いて嬉しそうに笑う。
 その微笑みに思わず紅くなるトウジに抱きついてキスしたくなるのを堪えながら、ユカは視線を窓際に移した。そこでは、レイが未だに眠りこけていた。周りの音が気になるのか、時折きゅっと眉根を寄せたりするのが可愛らしい。
 ユカはトウジに目配せをすると、足音を立てないようにそっとレイに近づいた。
 一体何をする気なのかと、弁当を開け始めたクラスの生徒たちが興味津々に見守る中、ユカはレイの前の席に座り、彼女の寝顔をそっと覗きこんだ。
 自分の髪の毛を束ね、毛先で鼻をくすぐり始める。
「――くちゅんっ」
 くしゃみというのは反射行動だから、眠っていても関係ない。鼻先をくすぐられ、小鼻をむずむずさせていたレイは、可愛らしいくしゃみをして、ぼんやりと目を開けた。まだ頭が明瞭りしないのか、ぼんやりとした瞳であたりを見回す。何故自分が注目を受けているのか、まるで解っていない様子だ。
「おはよ、レイ」
 目の前でにこりと笑うユカを、不思議そうに見つめるレイ。だがその次の瞬間、クラスは水を打ったように静まり返った。
 ユカの微笑みに応えて、レイが口許を綻ばせたからである。
「笑った……綾波さんが……」
「綾波さんでも、笑ったりするんだ……」
「か、可愛い……」
 誰もレイが微笑うと思っていなかったため、その微笑みに思わず見惚れた。そして、改めてその可愛さを認識したのである。
「……なに」
 だが、その笑みはすぐに消え、いつものように抑揚のない声でレイは訊いた。けれどユカは気にせずににこりと微笑うと、
「お昼ご飯、一緒に食べよ?」
 と言った。
 クラスの生徒たちがさらに驚いたのは、その言葉にレイがこくんと頷いたことだった。どよめくクラスをよそに、ユカはレイの手を掴んで立ち上がった。
「決〜まりっ。トウジ、屋上いこー」
「よっしゃー、メシやメシや。行くでケンスケ。……おい、何しとんねん?」
「……」
 トウジの声に、しかしケンスケはボーっとしたまま反応しなかった。彼はカメラを構えることも忘れ、息を詰めてぼんやりとレイを見つめていた。
「おい、ケンスケ? だいじょぶかぁ? お〜い」
 軽く何度か肩を揺すると、ケンスケはようやく目を覚ましたように目をぱちくりさせた。うっすらと頬を染め、寝ぼけたようにポツリと呟く。
「なんて……美しいんだ……」
「はん?」
 眉をひそめて、トウジはケンスケの視線を追ってみた。
 ディバッグから弁当箱を取り出しているユカの後ろに、レイが所在なげに立っている。どう反応していいか解らないような、微妙な表情である。
「お、俺としたことが、あんな素晴らしい表情を撮り逃すなんて……!」
 頭を抱え、身をくねらせて苦悩する少年を見やって、トウジは小さく溜息を吐いた。
「こらあかんわ。完全にイッてもとる」
「おまたせっ。……どしたのこれ?」
 つん、と指先でつついてみたりするユカに、トウジは肩を竦めてみせた。
「何や知らんけど、壊れたみたいやな。ほっときゃそのうち治るやろ」
「ふ〜ん? ま、いいや。いこっ」
 トウジの手に大きな弁当箱の包みを渡すと、ユカはレイの手を引いて教室を出て行った。
 唖然としているクラスメートと、妄想の世界に旅立ったままの友人をあっさり捨て置いて、トウジがその後を追う。
 それを見送って、誰かがポツリと呟いた。
「……何だったんだ、あれは……?」
 その数秒後、2−Aは蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
 
 三人は、風通しの良い給水塔脇の日陰に座った。
 こう天気がいいと、さすがに直射日光が厳しいので、屋上に人影は少なかった。しかし、給水頭の陰は涼しいし、見晴らしもいい。第3新東京市が一望できる。
「今日はね〜、レイに食べてもらおうと思って、頑張ったんだ〜」
 そう言って、ユカは四つ重ねて包まれていたタッパーウェアを開けた。一つ目にはご飯、二つ目と三つ目にはおかず、四つ目にはデザートが入っている。それと一緒に取り皿と箸が三人分入っていた。
「レイが何好きか解んなかったから、とりあえず適当に入れてみたんだけど。何か駄目なものある?」
「肉は嫌い……」
「……あらら」
 何といっても普段トウジの好みにあわせて作っていることもあって、おかずは肉料理がメインだった。が、肉だけでは栄養が偏るから、野菜料理も入れてある。ご飯は豆ご飯だった。
 一つ一つレイに大丈夫かどうか確かめてから取り分け、箸と一緒に差し出すと、レイは困ったようにユカの顔を見た。にこりと微笑んで、ユカはトウジの分と自分の分も取り分ける。
 そして手を合わせ、レイの方を見ながら「いただきます」と言った。その言葉に、トウジが手を合わせて「いただきます」と言って食べ始めるのを見て、レイも真似をしてみる。ぎこちなく手を合わせ、小さく「いただきます」と言うと、ユカはにこりと微笑んだ。
「どうぞ、召し上がれ」
 そんなユカをチラリと横目で見てから、レイは豆ご飯を口に運んだ。よく味わうように、ゆっくりと噛み締める。仄かな豆の甘味と、微かな塩味のバランスが丁度良かった。
「どう?」
「……おいしい……」
「そう? よかったぁ。いっぱい食べてね」
 微かに頬を染めながら呟くように答えたレイに、ユカはホッとしたように微笑むと、安心して自分も食べ始めた。その合間にも、猛然と食べているトウジに甲斐甲斐しくポットのお茶を注いであげたりなんかしている。
「はい、ほうじ茶。熱いから気をつけてね」
「あ、ありがとう……」
 渡された紙コップを受け取ると、ふわりといい香りが立ち昇った。
「ほら、トウジ。ご飯粒ついてる」
「お、すまん」
 口の端についたご飯粒をひょいと口に運ぶユカと、その仕種に頬を赤らめるトウジを不思議そうに眺めながら、レイは胸の奥がほんのりと暖かくなってくるのを感じていた。
 食事がこんなに楽しいものだとは、知らなかった。彼女にとって、食事は肉体的欲求を満たすための行為でしかなかった。彼女とて生きている以上お腹は空くが、空腹さえ満たしてくれれば味は関係なかった。
 ただ、肉だけはどうしても駄目だった。肉の焼けるあの匂いが気持ち悪い。脂の感触が嫌だ。血の味がして飲み込めない――理由は幾つもあるが、そのどれも正確ではない。とにかく生理的に嫌なのだ。こればかりはどうしようもない。
 もっとも、克服しようという努力すらしたことはないけれど。それを強要する人間も、周りにはいなかった。彼女の周りの大人たちは、レイがきちんと栄養補給をしていれば何も言わなかったのである。たとえそれが栄養剤であろうとも。
 病は気からといい、食事は健康の基本である。美味しく食事することで心は健全な状態を取り戻し、安眠をもたらす。それは健康に繋がるのである。栄養剤によるビタミン補給など家畜と同じだ。そんなものは人間の暮らしではない。レイの場合、そういう根本的なところが構築されていないのである。
「……レイ、お箸の持ち方違うよ」
「え?」
 箸を掴んで食べ物をかき込むように食べていたレイは、ユカのその言葉に顔を上げた。ほっぺたにご飯粒がついているのをとってあげて、ユカはにこりと微笑む。膝立ちになって後ろからレイの手を取り、箸の使い方を教えてやる。
「いい? 鉛筆を持つようにやってみて。で、もう一本を中指の下に入れるの……ほら、下の方は動かないでしょ? そう、上手……ね、食べやすいでしょ?」
 教えられた通りに箸を持って、レイは皿の上の筑前煮をつまんでみた。何度か箸先が滑ったが、慣れるとつまんだ方が食べやすいことが解る。
「これから、毎日練習しようね」
 にこりと微笑うユカから目を逸らしたレイは、つまんだ人参を口に入れた。出汁がよく沁みた人参はとても美味しくて、自然と口許が綻んでくるのが解った。
「……なんや、そうしとると姉妹みたいやな、おまえら」
 ほうじ茶を啜りながら、トウジはそんな二人を見て思わず呟くように言っていた。一瞬まずかったかと思ったが、レイが微かに頬を染め、ユカが嬉しそうに微笑ったので、まあいいかと思い直す。二人とも満更ではないらしい。
「えへへ……わたしねぇ、ず〜っと妹が欲しかったんだ〜。レイって、なんか他人って感じがしないんだよね。ホントに姉妹だったりして」
 その言葉に、トウジが息を飲む。レイも食べる手を留め、息を詰めるようにユカを見ていた。その視線に、ユカはきょとんとして首を傾げる。
「なに? 冗談だよ、冗談」
「そ、そやな、あははは……」
 乾いた笑いを浮かべたトウジは、話題を逸らそうと咄嗟に口を開いた。
「そういや、こないだまで『綾波』言うとったんが、なんでまたいきなり『レイ』になっとんねん? おまえら、いつの間にそない仲ようなったんや?」
「昨夜、ずっと二人でいたから。色々話してて、それでお互い名前で呼ぼうって、わたしが言い出したの。なんか、『綾波さん』って呼び方、他人行儀な感じがして」
「そっか……大変やってんなぁ、二人とも」
 トウジの台詞に、ユカは身を乗り出して続けた。
「大変だったのはその後だよぉ。うちに帰ったのなんか四時前だよ? それでもいつも通りに目、覚めちゃうんだよねぇ。一時間も寝てないんだよ? それでも一度目が覚めちゃったら寝直せないから、開き直ってご馳走一杯作ったの」
「そのおかげで、ワシはご相伴に預かれるっちゅうわけやな。ありがたいこっちゃ」
「喜んでくれた?」
「もちろんや。こんな美味いユカの手料理を毎日食えるんやさかい、ワシは世界一の倖せもんやで、ホンマ」
「なにいってんだか。……でも、なんか嬉しいな」
「ほ、ホンマやって」
 冗談めかしたトウジの台詞に、ユカは頬を染めて呟いた。その反応に、言った当の本人も照れてしまう。互いに耳まで真っ赤になりながらそっと目を逸らす二人を、程よく温くなったほうじ茶を啜りながら、レイはじっと眺めていた。
「なに?」
 その視線に気付いて、ユカはレイを見やった。
「あなたは、その人のことが好きなのね」
「ええ、そうよ」
 真紅の瞳を正面から見つめて、ユカは微笑みながら頷いた。
「トウジはわたしの大切なひと。この人がいるから、わたしはわたしでいられる。EVAにだって乗れる。ここにいてもいいんだって思えるの。トウジが、わたしを必要としてくれるから。トウジが好きだから、そばにいたいの」
 その言葉に、トウジは真っ赤になっていた。
「――そう」
 レイは俯いた。胸を張ってそう言える彼女を綺麗だと思った。その強さが羨ましかった。自分はそんなふうに誰かを思ったことすらない。
 極力、他人には関わらないように生きてきた自分。他に語るべきものを持たない。守るべきものもない。ただ命じられるがままに生き、自分で考え、行動するということを殆どしなかった。真面目に生きようとはしていなかった、とも言える。
 ただ死を待つのみの存在。それが自分。周りの人間は自分を道具として扱い、自分もそうだと思っていた。全ての事象は心の表層を滑り落ちていくだけで、心の壁を乗り越えて入り込むようなものは殆どなかった。
 その例外はたった二人。碇ゲンドウと、その娘のユカである。
 ゲンドウには、父親を感じていたように思う。雛が親鳥の後を追うように、初めて見た他人の後を、ただ尾いて廻っていただけだった。
 ユカには、どこか懐かしいものを感じる。自分に近い存在だと思える。そして何より、彼女は自分を「対等」に見てくれる。道具としてではなく。
 そしてそれを、自分は嬉しいと感じている――……
 今まで誰も与えてくれなかったものを、彼女は与えてくれる。彼女のそばにいると、自分が変わっていくのを感じる。そしてそれは不快ではない。喜びすら覚える。
 知らない筈なのに、何故か知っている彼女。
 答えはまだ出てこない。だが、悩むのはやめた。ただ、彼女のそばにいられるのなら、答えなどもうどうでもよかった。
「ごっそさん。旨かったで」
「おそまつさまでした」
 立ち上がって伸びをするトウジに言って、ユカは綺麗に空になった食器とタッパーウェアを重ね始めた。それに気づいて、レイがそれを手伝う。
「ほな、ケンスケの様子でも見にいったるかな」
「いってらっしゃい」
 膝立ちになって食器を重ねているユカの後ろ姿を見ていたトウジは、思わず生唾を飲み込んだ。どういうわけか、彼女を抱き締めたくてたまらない。
「……どしたの?」
「え? や、べ、別に、何でもない」
 慌てて誤魔化して、トウジは目を逸らした。が、行きがけにさっと身を屈めると、軽くユカの頬に唇を寄せた。
 頬を押さえて茫然とするユカに背を向け、屋上から逃げ出すように去っていくトウジ。びっくりしたようにその背中を目で追いながら、ユカは頬に残る暖かい感触に口許を緩めた。片づけを再開しながら、自然と鼻歌が零れる。
 そんなユカを、レイはただ黙って見つめていた。
 
 茜色に染まるアスファルトに、三人の影が長く延びていた。
 ユカとトウジ、そしてレイの三人である。ラーメン屋に寄り道した帰りだった。ケンスケも誘ったのだが、用事があるといって来なかった。
「どうしたんだろね、ケンスケの奴」
「あいつもよう解らんとこあるからなぁ。なんや、やたらと綾波のこと気にしとったけど」
「レイがどうかしたの?」
 言いながら、ユカは隣を歩くレイの横顔を見やった。ニンニクラーメンチャーシュー抜きの大盛りを食べた所為で、かなり匂う。食が細いように見えて、結構食べるのには驚いた。今までまともな食事をした事がなかった所為で、解らなかったらしい。
「綾波が笑ろたん見て一目惚れでもしたんちゃうか? あいつ女に免疫ないからなぁ」
「そうなのぉ? いつも女の子の写真とか撮ってるじゃない。わたしも一杯撮られたよ。えっちいのとか。こないだなんか着替え中の写真撮ろうとしたんだよ、あいつ。屋上に無人カメラ仕掛けて」
 それが発覚して2年の女子合同でタコ殴りにされたことは、最早周知の事実である。具体的に何をされたかは黙して語らなかったが、あれ以来、友人の女性不信に拍車がかかっていた。自業自得とはいえ、女性による集団の暴力も結構エグいものがある。
「遠くから見るだけや、あいつの場合な。写真は裏切らんからなぁ」
 ユカの台詞に、トウジは首を振った。
「ケンスケの奴、まだ一度もちゃんと告白したことないねん。ま、あいつが女に惚れたんはこれで二度目みたいやけどな」
「へー。意外だぁ。もっと一杯口説きまくってるのかと思った」
「ほんでフラれまくっとるてか? 逆や。いっぺんこっぴどくフラれて、それ以来女によう声かけよらんねん。怖いんやろな。告白してフラれてもたら、なんぼ仲ようしとった奴でも気まずうなってまうからなぁ」
「……そうだね」
 告白は賭けみたいなものだ。全てを失うぐらいの覚悟が要る。それまで気づき上げてきた関係が一瞬で崩れさってしまうかもしれないという怖さは、よく解る。
「でも、なんで今頃? 去年からずっと一緒だったんじゃないの?」
「綾波が他の奴と口きいとんのなんか見たことなかったからなぁ。正直、何考えとんのか解らん奴や思うとったし。ケンスケもたまに写真撮るぐらいやったわ。顔は綺麗やけど、被写体以上には思えんて言うとったな」
「なにそれ。なんかすっごくムカつくっ」
「いい。本当のことだから」
 淡々とした口調で言うレイを、ユカとトウジは何も言えずに見やった。気を取り直したように、ユカがトウジを見上げて尋ねる。
「――で、ケンスケがレイに一目惚れしたっていうの?」
「いや、そうやないかなぁ、て」
「な〜んだ。ガセネタかぁ」
「ガセとか言うな」
 身も蓋もないユカの反応に、トウジは顔をしかめた。
「ホンマに嫌いやったら写真なんか撮らんやろ。そら、単に商売で頼まれて撮ることはあっても、あいつが自分からフレーム覗くんは結構珍しいんやで」
「随分とお詳しいことで」
「そら、昔は一緒によう……って、イヤ、ちゃうて。ワシは売るの手伝っとっただけや。カメラには触らしてもくれへんねん。ホンマや」
 ユカに思い切り睨まれて、トウジは慌てた。
「トウジのえっち」
「えっちて……そんなん、しゃあないやないか。友達やねんから」
「……解るけど、なんかすごくやだ」
 言って、ユカはぷい、と顔を背けた。
「ユカぁ〜」
「だって、わたしの写真とかも売ってたんでしょ。他の人がわたしの写真持ってても、トウジは平気なんだ」
「そんなわけないやろ! おまえの写真は全部ネガから差し押さえてあるわい」
「……ほんと?」
「あたりまえじゃ。他の男になんか誰が見せるかい」
 胸を張って言うトウジを、ユカは悪戯っぽい笑みを浮かべて見上げた。
「じゃ、トウジ一人で使ってるんだ」
「つ、つつ、使ってるとか、女がそおゆうこと言うな!」
「わたしがあげた下着、大事に使ってくれてるんだ?」
「……」
「――今穿いてる奴、あげよっか」
 真っ赤な顔で俯いていたトウジは、ユカのその言葉にガバッと顔を上げ、そしてユカの満足げな笑顔にハメられたと気付いた。
「欲しい?」
「い、いらんわい、そんなん」
「あ、可愛くない台詞。いいのかなぁ〜? 脱ぎたてのホヤホヤだよん」
「お、おまえ、どこでそおゆう下品なことを……」
「いらないんだぁ?」
 ぐっ、と詰まるトウジ。
「下さいって言ったらあげるけど?」
「……く、ください……」
「なにを? ちゃんと主語とか述語とか言わないと、わかんなぁい」
「くっ……」
「く?」
 なんだか楽しそうな顔で、耳まで赤黒くなっているトウジを問いつめるユカ。往来で恥ずかしいことを話している二人を、レイは不思議そうに見つめている。彼女には、二人の会話が具体的には理解できていない。
「可愛いユカちゃんの脱ぎたての下着が欲しいですって、言って?」
「い、言えるかいそんな恥ずかしいことっ」
「な〜んだ。言ってくれたらサービスしてあげても良かったのに」
「ななな、なんやねん、サービスて」
 ごきゅりと生唾を飲むトウジの耳許に、ユカは口を寄せて囁いた。
「ユカちゃんがお口で一回、さ・あ・び・す☆」
「可愛いユカちゃんの脱ぎたての下着が欲しいですっ」
 即答だった。思わず言ってしまってから慌ててあたりを見回し、レイと自分たち以外には誰もいないのを確かめて、ホッと息を吐くトウジ。これではまるで自分は変態だと宣言したみたいではないか。……というか、きっぱり宣言したのだが。
「何故、下着が欲しいの?」
 淡々とした口調で問うレイに、ユカはくすりと微笑って言った。
「それは、それが男の子の習性だから」
「……習性?」
「そお。好きな女の子の下着に心惹かれるのは男の子の本能なのよって、リツコさんが言ってた。だから、時々こーやってサービスしてあげると喜ぶんだって」
「……おまえは一体何を教えとんねん……ていうか、そもそもリツコさんて一体何もんやねん」
 屈辱と敗北感にまみれながらしっかり突っ込むトウジだったが、悲しいかな、彼は股間を押さえて前屈みになっていた。そう、ジャージはとにかく目立つのである……イロイロと。
「赤木リツコさん。ミサトさんのお友達なんだって」
 ユカのその一言によって、トウジの中の、赤木リツコというまだ見ぬ女性に対するイメージは確立された。ミサトと同類項でくくられたと聞いたら、当の本人はさぞやショックを受けることだろうが……。
「ねぇ、リツコさんって躯に触りたがらない?」
「そう? 解らない」
「あ、そうなんだ。なんかテストだとかいって良く抱きついてきたりするんだけどなぁ。あれってやっぱセクハラだよねぇ。そういうの、されたことない?」
「ないわ」
 レイの答えは簡潔だった。別に嘘は言っていない。リツコにとって、レイはそういう欲望の対象にならないだけのことだ。普段からメンテナンスをしているという関わりがあるからだろうか、レイを見るリツコの瞳には、まるで機械かなにかを見るような光がある。彼女にとっては、機械もレイも同じようなものなのかもしれない。
「ま、いっか。ミサトさんと違って迫られるわけじゃないし」
「……せ、迫ってくるんか?」
「酔っ払うと、時々……ビールから水割りに切り替えたあたりが危ないかな」
「……」
 最早言葉もないトウジだった。いつの間にか、友人の話はどこかに行ってしまっている。何となくげんなりして歩いていると、分かれ道に出た。
「じゃ、さよなら」
 二人から離れながらそう言ったレイを、ユカが呼び止めた。
「レイ。こういう時は、『また明日』って言うんだよ」
「……また明日……再会を約束する言葉?」
「そう。また明日逢おうねっていう約束」
「……」
 明日の約束など出来る筈もない。明日逢えるかどうかも解らない。そんな約束に意味はない――そう思ったが、それを口にする前に、レイは微笑んでいた。共に再会を願いあう気持ちが互いを引き合わせるのだという考えが、心地好かったからだった。
「また、明日」
「うん。また明日ね、レイ」
「ほなな〜」
 彼女に手を振って、残照の中を寄り添うようにして歩いていく二人を、レイはいつまでも見送っていた。
 ユカとトウジの笑顔と声が、いつまでも頭の中でグルグル廻っていた。
 
 二人きりになると、ユカは口数が少なくなった。
 トウジとそっと手を繋いで、その温もりに縋るような表情を見せる。最近になって、彼女がトウジによく見せるようになった表情だ。
 ユカに頼られていると実感できて、トウジにとっては嬉しいのだが、そんな表情をするということは、彼女が倖せではないのだろうと思ってしまう。頼られないのは寂しいが、こうして甘えられるのも、それはそれでなかなかに複雑なのだった。
「今日、うちに泊まってかへんか?」
「……ごめん。今日、ミサトさん帰ってくるから」
「そっか……ほな、しゃあないな」
「ごめんね」
「ええて。うち、寄ってくやろ?」
「……うん」
 ぎゅっと彼女の手を握ってやると、握り返してくる感じが好きだ。肌越しに伝わる彼女の暖かさとその柔らかさが、トウジを切なくさせる。
「トウジ、なに食べたい?」
「せやなぁ……」
 いつものスーパーへ寄りながら、そんな会話をする穏やかな時間がとてもいとおしい。肩の上でさらりと揺れる黒髪や、ちょっとした拍子にちらりと覗く白いうなじにドキドキする。
 何度となく抱き合っても、まるで初めての時のようにドキドキしながら彼女を見つめている。好きという気持ちには、限界がないのだろうか、こんなにも好きになって大丈夫なのだろうか。破裂したりしないだろうか。
 いつの間にこんなにも好きになっていたのだろう。知らない間に気持ちはどんどん膨らんでいる。逢えないでいる時は、特に。
 時々、不安になる。
 もし彼女を喪ったら、自分はどうなってしまうのだろうか、と。
 ――耐えられない。間違いなく。
 それだけは解る。そして、また不安になる。
 どうして彼女は自分を選んだのだろうか、と。
 本当にこんな自分でいいのかと、いつも不安になる。いつか彼女に「他に好きな人が出来た」と言われるんじゃないかと思うと、怖くてたまらない。
 ――そんなことは、させない。絶対に。
 嫌われても、避けられても、彼女を手離す気はない。絶対に。
 そんなどす黒い独占欲が、時折心の中に湧き起こる。こんな自分を知られたら嫌われるんじゃないかとさえ思うほどに醜い自分が、いる。
 彼女と手を繋いで薄暗い道を並んで歩きながら、トウジはそんなことを、思った。
つづく



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  あとがき

 今回もえっちなし(笑)
 相変わらずレイのキャラを掴むのが難しくて、梃子摺りましたね。
 書いても書いても気に入らなくて、散々のた打ち回りましたが、結局この程度です。
 結局、予定の半分も消化出来んかったなぁ。
 この頃からかかったスランプがかなり長引いて、ちょこちょこ書き溜めていた「真夏」を書く余裕もなくなったわけです。
 実はいまだに後を引いてるんですが……
 まあ、そのうち、ね。


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