彼女事情
K A R E × K A N O

Written by:きたずみ

#12
 土曜の昼前だというのに、電車はやけに混んでいた。
 最初は結構空いていたのに、途中からどっと人が乗り込んできて、ユカは次の停車駅まで開かないドアに押し付けられてしまった。
(く、くるしいよぉ……トウジぃ、どこぉ……?)
 いつの間にかトウジとはぐれてしまったようで、慌ててあたりを見回すが、黒山の人だかりで見つけられない。周りからぎゅうぎゅうと押され、ユカは麦藁帽子を胸元に抱えたまま、噎せ返るような人いきれに息が詰まる思いだった。
 ユカの周りは、男ばかりだった。電車が大きく揺れるたびに、周りから汗臭い躯をぐいぐい押し付けられるのが気持ち悪い。
(ううう〜〜〜っ、もうやだぁっ)
 逃れるように躯を捩るが、押し寄せてくる人波はびくともしない。
 と、その時、ユカは背筋にゾワリと悪寒が走るのを覚えた。誰かの掌が、ワンピースのスカート越しにお尻を撫でている。
「……っ!」
 ユカは息を飲んだ。この感覚は、初めてではない。こちらに来る前は、バスや電車を利用するたびに痴漢に遭ってきた。それが嫌で、自転車通学をしていたのだ。
(やだっ、痴漢……)
 躯が強張って動かない。気持ち悪いのに声すら出ない。それをいいことに、手はさらに大胆に這いまわり、ぐっとお尻を掴んできた。
「ひっ」
 思わず息を飲むユカに、手は一瞬だけ動きを止める。が、それ以上声を出さないと解ると、安心したように再びモゾモゾと動き始めた。お尻の感触をじっくり味わうかのように時折揉みながら撫で回されて、ユカの全身を悪寒が駆け抜ける。
 トウジに触られるのとは大違いだった。全然気持ち良くなんかない。ただ、ひたすら気持ち悪いだけだ。なのに、逃れようにも身動きは取れないし、咽喉が引き攣ったかのように声を出せない。ぎゅっと目を瞑って、その侵略に耐えるしかなかった。
(どおしよおっ……声、出さなきゃ……やめてって、言わないと)
 でも、怖い。恥ずかしい……声が出ない……。
 お尻に何か硬いものが押し付けられる感触。首筋にかかる生暖かい吐息が気持ち悪い。緊張で強張った躯を必死に動かし、逃れようとするのだが、相手は揺れに合わせて執拗に躯を密着させてくる。匂いを嗅ぐような音がして、全身に鳥肌が立った。
(たすけてぇっ…! こんなの、やだよぉ……トウジぃ……)
 トウジ以外の男になんか触られたくない。こんなところ、もう一分だっていたくない。だが無情にも、この電車は特急である。次の停車駅はまだ四つも先だった。
 スカートを手繰り寄せられ、掌がそっと中に潜り込んでくる。生暖かく湿った掌に太腿を撫でられて、ユカはびくりと躯を硬直させた。揺れる車内でしっかり踏ん張っているため、容易には動かせないのをいいことに、男の手は擦るように撫で回していく。
 そのままゆっくりと太腿を辿り、上へ上へと移動してくるその指が、ユカにはまるで奇怪な軟体生物のように思えて気持ち悪かった。
 ショーツの縁に指先が辿り着く感触に、ビクンと躯を震わせる。ゴムによって締め付けられ、むっちりと肌がはちきれそうになった太腿の付け根部分を、指先がまるで舐めるようにゆっくりとなぞっていく。
(やだっ! こんなの、いやぁぁぁ……っ!)
 指がそろそろと股間の真下へと動いていく。揺れに合わせて踏ん張ってバランスを取るため、両脚を閉じることが出来ないのをいいことに、男は膝を屈ませてふっくらと膨らんだ股間に指先を這わせた。柔らかく弾力のある中心を何度か突いてから、ゴムの間に指先が侵入してこようとする。
「いやぁっ!」
 とうとう我慢できなくなって、ユカは悲鳴を上げた。拒否反応に耐えかねてぼろぼろ涙を零し始めた彼女の様子に、周囲がざわめく。
「オッサン! 何しとんじゃコラァ!」
 その時、人込みを無理矢理掻き分けてきたトウジが、ユカのスカートの中から慌てて引き抜いた男の手首をぐっと掴んだ。そのまま捻り上げ、相手を睨みつける。怒りと殺意を滲ませたその表情に、スーツ姿のその中年男は顔を引き攣らせた。
「何しとったんじゃ、コラ。このまま折ったろか、ああ!?」
「わ、私は別に……」
「なめとんのか、ワレ」
 ぎしぎしと軋むぐらいの力を入れて手首を捻り上げるトウジに、男は恐怖に歪んだ顔に脂汗を滲ませた。すでに顔面は蒼白になっている。
「ええトシこいて、なに他人の女に手ェ出しとるんじゃ。殺すぞコラ」
「ぶえっ」
 圧し殺したような声で言って、トウジは男の顔面に頭突きをかました。ぐしゃ、と嫌な音がして、男は鼻血を流しながら顔を押さえる。が、それでもトウジの怒りは収まらず、狭い車内で男の胸倉を掴むとそのまま何度も顔面に頭突きを食らわせた。
 湿った音が響くたび、あたりに血が飛び散る。男は既に白目を剥いて意識を失っていたが、トウジは攻撃の手を緩めない。完全にキレているようだ。
「と、トウジ、もう、いいから……」
「ええことあるかい! こいつはワシがぶち殺したるんじゃ!」
「いいから、もうやめてっ!」
 叫んで、ユカはトウジにしがみついた。その肩が小刻みに震えている。その躯の震えが伝わってくると共に、トウジは躯の中で荒れ狂っていたどす黒い殺意がゆっくりと引いていくのを感じた。ゆっくりと胸倉を掴んだ手を解く。
 それと同時に、男の躯は支えを失ってだらんと頽れた。寄りかかられた周囲の人物は迷惑そうな顔をしたが、ユカが痴漢に触られていたのを気付いていながら、何もせずに黙って眺めていたのだから自業自得である。
 ドア脇のコーナーでユカの躯を守るようにぎゅっと抱き締めながら、トウジは泣きじゃくる彼女に慰めの言葉をかけ続けた。
「大丈夫や、もう大丈夫やからな」
 ひっくひっくとしゃくりあげながら、こくこくと何度も頷くユカ。やっとのことで電車がホームに滑り込み、ドアが開くのを待って、トウジはユカを抱えるように外に連れ出した。意識を失ったままホームに投げ出された痴漢を蹴り飛ばし、彼女をホームのベンチに座らせる。安心して気が抜けたのか、ユカはなかなか泣きやまない。
「すまんかったな。うっかりはぐれてもて」
「トウジぃ……」
 ぽんぽんと頭を撫でられて、ユカは涙を一杯に溜めた瞳でトウジを見上げた。彼女を胸元に抱き寄せ、そっと背中を撫でてやる。
「怖い思いさせたな。今度からは気ィ付ける。もう離れへんから」
 胸の中で声を上げて泣くユカを抱きしめながら、トウジはそう囁いた。
 
 せっかくの初デートにしては散々な始まり方ではあったが、次にやってきた電車はがら空きだったので、二人は邪魔されずに目的地へと辿り着くことが出来た。
 無論、これがゲンドウの厳命下によって行動した諜報部によるものだとは知らない。
「こんなことなら、一本あければよかったねぇ」
 既に吹っ切ったように笑いながら言って、ユカはトウジにそっとしがみついた。その躯がまだ微かに震えているのが解って、トウジは彼女をぐっと抱き寄せた。
「ごめんな」
「……ん。いいよ、もう。忘れちゃった」
「そっか」
 気丈に笑う彼女を見つめるトウジの胸に、不甲斐ない己への怒りと重苦しい悔悟が押し寄せてくる。二度とこんな目には遭わせないと心に誓いながら、トウジはユカの手を握り締めた。驚いたようにトウジを見つめてから、ユカは甘えるような微笑みを向けた。
「ほな、今日は目一杯楽しもか」
「うんっ!」
 入園ゲートで一日フリーパスの役目を果たすリストバンドを着けてもらって、ユカとトウジは園内へと足を踏み入れた。
 今日は土曜日ということもあって、さすがに家族連れの姿は少ない。代わりに目に付いたのは、トウジたちと同じように学校が休みの中学生や高校生で、中には小学生くらいのグループの姿もあった。家族連れが少ないのには、トウジ自身がホッとした。
 ユカもそうだが、家族で何処かに遊びに行くといった経験は、トウジ自身も殆どなかった。祖父も父も仕事が忙しく、まだユキノが小さかった頃に何度か連れてきてやったのを覚えている。記憶の中では随分大きかったように思えるのに、今になってこうして来てみると、公園に毛の生えたような広さしかない。
(ていうより、ワシが大きなっただけか)
 そんな感慨を覚えながら、トウジはきらきらと目を輝かせてあちこちを珍しそうに見回している傍らのユカを見下ろし、そっと微笑んだ。
「取敢えず、何から乗る?」
「当然、ジェットコースター!」
「やっぱしな……」
 ユキノもそうだったことを思い出して、トウジはがっくりと項垂れた。何で女の子はこう絶叫モノが好きなんだろうと思いつつ、ユカと二人で乗るそれが昔乗った時ほど怖い代物ではなくなっていて、むしろ楽しいと感じられることに驚いていた。
 ユカと一緒に思い切り声を上げていると、嫌なことなどみんな忘れてしまうような気がする。つられるままに二周も乗ってしまって、頭がフラフラした。
「面白かったー。なんか、いっぱい叫んだら咽喉渇いちゃった。何がいい?」
「あ、ワシコーラな」
「じゃ、わたしもそれ。あと、これも」
 売店でコーラとアイスを二つ注文して、ユカとトウジは空いている席に座った。椅子の上にディバッグを置いて、練乳のかかったみぞれに小豆とフルーツののったかき氷を嬉しそうに食べ始めるユカを、コーラを啜りながらトウジは黙って見つめる。
 自分の家で二人っきりでいるのもいいが、こうして二人で遊ぶことがこんなにも楽しいものだとは思ってもみなかった。コーラもアイスも別に珍しいものではないのに、なんだか普段よりずっと美味しく感じられるから不思議である。こんなことならもっと早くにしておけばよかったと思いながら、つくづく自分たちは普通とは違うのだと思った。
 普通のカップルというのは、きっとこんなふうにデートを重ねて、仲の良い友達から恋人へとクラスアップして、それからキスを経てえっちに至るものなんだろう、と思う。が、自分たちの場合、恋人同士になったのは初体験と同時だった。
 それを異常だとは思わない。そういう付き合い方があってもいいと思う。むしろ、彼女に誘わせてしまったのは自分が不甲斐ない所為だとトウジは思っている。
 本当はもっと早くにデートに誘うべきだったのだ、自分から。それをしなかったから、彼女が自分を挑発して、ああなった。それを後悔はしていない。だが、普通の恋人としての付き合いは全然足りないのだと、改めて実感するのだった。
「食べないの? じゃ、サクランボちょーだい」
「あーっ! 最後に喰お思てとっといたのにーっ!」
「怒らない怒らない。パイナップルあげるから」
「ワシのサクランボ返せぇっ」
「もー、ココロが狭いなぁ、サクランボひとつで大騒ぎしてぇ」
「なんやとぉ?」
「種でよかったらあげるよん」
「いらんわいっ」
 そんなくだらないことを言い合いながらも、それが楽しくて仕方がない二人は、気付くと満面の笑みを浮かべていた。
「次、何に乗ろっか」
「メリーゴーランドかゴーカートかっちゅうとこか? お子様には丁度ええやろ」
「誰がお子様だよぉ」
「ヒトのサクランボ横取りする奴はお子様じゃ」
「サクランボとられたぐらいでそーゆーこという奴はお子様じゃないわけ?」
「……」
「……」
 睨みあっても長続きしない。互いにぷっと吹き出して、そのまま仲直りしてしまう。結局、間を取って空中ブランコになった。どの辺が間だったかはよく解らないが。
 そんなに大きな遊園地ではないし、それほど目新しいアトラクションがあるワケでもないが、二人には全く気にならなかった。馬鹿にしていたメリーゴーランドにも二人して乗ったし、ゴーカートでは小学生に混じって暴れまわった。
 ちょっと羽目を外しすぎて、係員に文句を言われた所でお昼になった。座れるところは何処も一杯だったので、芝生を見つけて腰を下ろす。
 そして、二人してユカの作った弁当を食べた。
 いつも学校で食べている筈なのに、こういう所で食べるとまた格別である。食事の後、一緒に芝生に寝そべってお昼寝を始める二人を、保安諜報部は悔し涙を噛み締めながら温かく見守っていた。
 お昼寝の後、二人は遊園地巡りを再開した。
 定番のお化け屋敷ではここぞとばかりにユカがトウジにくっついて、逆に驚かすお化け役の方があてられて虚しくなるといった一幕もあった。
 ゲーセンでは対戦に萌えまくり、ペンギンのぬいぐるみをユカにねだられたトウジが頑張った挙げ句、カッパのぬいぐるみになってしまうといった定番ハプニングもあった。つまり、周りが恥ずかしくなるぐらい初々しいデート風景だったのである。
 ちなみに、ゲンドウの絶対命令を受けた諜報部は、ペンギンのぬいぐるみをゲットするために交代で三時間を費やしたという。何やってんだか。
 まあ、そんなこんなであっという間に陽は傾いて、絶好のタイミングでユカはトウジを観覧車に誘った。ゆっくりと動く観覧車の中で、黙ったままそっと寄り添う二人。窓からは、夕陽に染まる第3新東京市が一望できた。
「……きれいだね」
「ああ……」
 そう言いながら、トウジはうっとりしたように茜色の街並みを見つめているユカの横顔に見惚れていた。ユカの方が綺麗だなどとは、恥ずかしすぎてとても言えなかったが、代わりにそっと彼女の肩を抱き寄せた。
「楽しかったね」
「ああ」
「またこようね」
「せやな」
 囁くような声で呟く彼女に、気のきいた言葉のひとつも言えない自分が情けないが、今があまりにも心地好くて、トウジは彼女から目を離せなかった。
「……今度はユキノちゃんも一緒に、ね」
「……ああ」
「早く、元気になるといいね」
「せやな……」
 頷いてそっと髪を撫でるトウジを、ユカは濡れたような瞳を上げて見つめた。
 夕陽を背に、二つの影がひとつに重なった。
 
 帰り道。
 がら空きの電車に揺られながら、二人は並んで座っていた。
 手は未だにしっかりと握られたままだが、二人の間に会話はなかった。降車駅が近づくに連れて、このまま別れたくないという思いが募る。
 無論、明日だっていつだって逢えるのに、別れるといってもちょっとの間だけなのに、それが何だか無性に寂しい。このまま電車が止まらなければいいのにと思う。が、電車は無情にも何事もなく降車駅に着いて、ドアを開いた。
 だが、二人とも動けない。
「……降りなきゃ」
 ポツリとユカが呟く。
「ああ」
 前を向いたまま、トウジが答える。
 二人が降りるのを待つように、電車はなかなか動き出さない。が、やがてしびれを切らしたようにドアが閉じて、ゆっくりと動き出した。
「乗り過ごしちゃったね」
「ええやん、このまま、どっかに行こ」
「……いいね。ホントに、そうできたらいいのに」
 言って、ユカはトウジの肩に頭を凭せ掛けた。窓の向こうでは、街の灯りが飛ぶように流れていく。ガラスに映っているのは、自分とトウジだけ。
 このままずっと、誰も知らないところまで連れて行ってくれたらいいのに。
 そんなことを、つい思ってしまう。そんなことはありっこないと解っているだけに、それがなおさら辛い。全てを捨てて逃げ出すなど、出来るわけがない。
「でも……」
 そっと瞳を閉じて、ユカは呟くように言った。
「今日だけは、帰りたくないな」
 二人が乗っているのは環状線だ。このまま乗っていても、結局は元の場所へと戻ってしまう。まるで逃げ出すことなど出来はしないのだと告げるように。
「温泉行こか」
 不意に、トウジが言った。
「え?」
「このまま乗ってったら温泉町の方に出るやろ。安いとこやったら一泊するくらいの金あるし、温泉入ってのんびりしようや」
「で、でも、今から行って大丈夫かなぁ?」
「今はシーズンやないし、大丈夫やろ。な、そうしよ」
「……トウジ……」
 泣き出しそうになるのを堪えて、ユカはトウジの肩に顔を埋めた。そのまま電車が停まるまで、二人はじっと寄り添ったままだった。
 
 駅前の蕎麦屋で軽く夕食をとってから、二人は観光ガイドに載っていた中で一番安い温泉宿に入った。旅館の人は若い二人に怪訝そうな顔をしたが、ユカがNERVのロゴの入ったカードを見せると、何も言わずに二人を通した。
 改めてNERVの力を思い知らされながら、二人は小ぢんまりとした日本庭園に面した部屋に入って、一息吐いた。
 取敢えず荷物を下ろして、お茶を煎れる。旅館につきものの安っぽい和菓子を齧りながら、ぼんやりとテレビを眺めてお茶を啜った。こうしていると、なんだかすごいことをしているという気がしてくる。
「ここの人、変な顔してたね」
「ワシらみたいな子供が二人連れで来たら、そら怪しまれるわな」
「愛の逃避行? 二人で心中するとか心配してたりして」
「別に反対されてへんやん。何で逃げなあかんねん」
 乾いた笑い声を上げるトウジに凭れかかって、ユカはポツリと呟いた。
「……あの人は、反対するかもしれない」
「あの人て……親父さんか? なんか言われたんか?」
「言うわけないよ。ここに来た時に一度逢ったきりだもん」
「そっか……」
(未だに『お父さん』とは思われへんか……無理ないけど)
 自分が思っている以上に、この父娘の阻隔は大きいのかもしれない。だが、ずっとこうして父親を疎み続けるのは不幸だと思う。
「取敢えず、風呂入ろか。せっかく来たんやし」
 何か言葉をかけてやりたいと思いながら、結局出てきたのはこんな科白だった。だが、その言葉に、ユカは救われたような笑みを浮かべて頷いた。
「いっしょに?」
「あ、あほ。混浴ちゃうやろ、ここ」
「な〜んだ、残念っ」
 そう言って、ユカは元気よく立ち上がった。部屋には普通のタオルだけでなく、厚手のバスタオルまで用意されていたので、浴衣と一緒にそれを持って、二人は露天風呂に向かった。
「じゃ、またあとでね」
 手を振って女湯の暖簾をくぐるユカを見送って、トウジは男湯の方に歩き出した。本音を言えば、混浴というのも捨てがたいなとか思ったりはしたのだが、残念ながら混浴にはなっていなかったのだ。
 檜の香りが鼻をくすぐる脱衣所に入ると、トウジは中をさっさと服を脱いだ。ここへ来る途中にも思ったが、自分たちの他に客の姿を見かけない。もしかしたら、今ここに泊まっているのは自分たちだけなのかもしれない。そんなことを思いながら引き戸を開けると、硫化水素の匂いがぷんと鼻をついた。
 脱衣所の脇には小さな洗い場があって、その向こうに外縁をゴツゴツした自然石で囲われた露天風呂の湯船が見えた。透明ではなく、少し白く濁った湯が満たされている。湯を手桶で何度か躯にかけると、膝丈ほどまである湯船にトウジはゆったりと躯を沈めた。
 思っていたよりずっと広い。ちょっとしたプールぐらいの広さはあるだろう。中央に青竹の仕切りが張られていて、男湯と女湯を隔てていた。
 元は混浴だったのを無理矢理分けたような感じで、湯の中は繋がっているらしい。ケンスケがいたら「これぞ男のロマンだ!」とか言って覗きにいこうとするだろう。何しろ、その気になれば、仕切りの隙間から向こうに行くことだって出来るのだ。
 湯船の周りは鬱蒼とした木々に囲まれていて、時折、山から吹きおろす風がさやさやと梢を揺らす。それが火照った肌に触れて心地好い。
「あー……、気持ちええなぁ……」
 誰もいない湯船の中で思い切り躯を伸ばしてぽっかり浮かびながら、トウジは空を見上げて息を吐いた。雲ひとつない夜空はどこまで見澄み渡っていて、少しだけ欠けた大きな月が、消え入りそうな星々の光を圧して輝いている。
 お湯の温度は熱からず温からず、ちょうど良い具合だ。ふーっと全身から緊張の糸が解けていく。こうやって湯に浮かんでいると、すごく倖せな気分になった。それでいて、何処か切なく、懐かしい。母親の胎内にいた頃というのはこんな感じなのかもしれない。トウジはぼんやりとそんなことを思った。
 しばらくそうしていると、仕切りの向こうでカラリ、と引き戸を開ける音がした。ひたひたと足音が近づいてくる。かけ湯をする音が二、三度して、ちゃぽんとお湯に浸かる音が聞こえた。
 そのまま、ちゃぷちゃぷと水音が近づいてくる。
「トウジ? いるー?」
「な、なんやぁ」
 ユカの声に、トウジは慌てて躯を起こした。見える筈はないとは言っても、やはりこの体勢はかなり恥ずかしい。
「どないしてん?」
「ううん。そっちと繋がってるみたいだったから、いるのかなぁって思って」
「おるに決まっとるやないか。ワシはユカを置いてどっかに行ったりせんわい」
「うん、そうだよね……よかった」
 最後の方は呟くような口調で安心したように言って、ユカは湯船の底に腰を下ろし、思い切り足を伸ばした。そのまま仕切りに背中を預ける。白い乳房がお湯の上にぷかんと浮かんで、躯の動きに合わせて静かに揺れていた。
 女湯にも誰もいない。お湯の温かさに気持ちよくなって瞳を閉じたその時、ギシッと仕切りが軋んだ。向こう側から、背中を預けてくる感じがする。
「トウジ?」
「ああ」
 そっと声をかけると、短い返事が返ってきた。
「気持ちいいねぇ」
「ああ。来て良かったわ。星も綺麗やしな」
「ホントだねぇ」
 言って、ユカは空を見上げた。この辺りになると、街の灯りもさほどではない所為か、星がちゃんと見える。二子山でレイと一緒に見た時よりわずかに欠けている月が、静かに二人を見下ろしていた。
「ねぇ、そっち、誰もいない?」
「……おらへんみたいやな。なんでや?」
「ううん。こっちも誰もいないの。もしかしてわたしたちだけなのかな、泊まってるの」
「かもしれんなぁ」
 観光シーズンにはまだちょっと早い。とはいっても、元々観光地の箱根に建設された第3新東京市だから、休みに入ればどっと人が押し寄せてくるかもしれない。――使徒がこのままこなければ、の話だが。
「ね、そっち行っていい?」
「なっ」
 ずるべしゃ、と水音が響いた。
「ななな、ナニ言うてんねん、おまえ」
「なに狼狽えてんの? あ、解った。またえっちいこと考えてるんだ。や〜らし〜」
「……」
 別にユカと一緒にお風呂に入るのは、これが初めてではない。今朝などは風呂場でえっちしたばかりだ。だが。こういう場所だとまた雰囲気が違うし、いつ誰が入ってくるか解らないというスリルがあって、ヘンに昂奮してしまう。
 図星をつかれて黙ってしまったトウジに、ユカはくすりと笑った。仕切り越しに彼の背中にそっと躯を預けて、静かに囁く。
「そっち、行きたいな。ダメ?」
「あ、あほ、誰が入ってくるか解れへんやないか」
「だいじょーぶだよ、誰もいないみたいだし。ね、そこから行けるみたい。今行くから、待ってて」
「あ、お、おい、待てっちゅうねん!」
 ざぷりと立ち上がる音にトウジが怒鳴ったその時、咳払いの音がして、二人はそのまま硬直した。まさか他に人がいるとは思っていなかった。
 トウジが辺りを見回すと、湯煙の向こうの岩陰に人影があった。
「うそ、人いたんだ」
 慌てて湯に躯を沈めたユカが、仕切りから離れていく気配がする。人がいたと知らされたことで、急に恥ずかしさが込み上げてきたらしい。
「す、すんまへん、お騒がせしまして」
 トウジは人影の方にそう言って頭を下げた。風がゆっくりと湯煙を吹き払い、岩に凭れるようにして湯に浸かっていた中年の男の姿を露にする。髭面のその男はじろりとトウジを睨むように見てから、ニヤリと口許を歪めた。
「……問題ない」
 ナニがやねん、と一瞬思ったが、取敢えず気にしないことにした。変なおっさんやなぁと思いつつ、無視するのもアレかなと声をかけてみる。
「あのー……お一人ですか?」
「ああ。妻と死に別れてね」
「あ、そうでっか。すんまへん、失礼なこと訊いて」
「いや、いい。それより、向こうのお嬢さんは君の彼女かね」
「え、あ、は、はい。その……そう、です」
 男の問いに赤くなって、しどろもどろになりながらそう答えるトウジを、男はじっと見つめていた。
「彼女のことが好きかね?」
「はい」
「彼女を守っていけるかね?」
「そう思ってます」
 じっと瞳を見ながら問う男をまっすぐ見つめ返しながら、トウジは胸を張って言った。自分でもなんでこんな知らないおっさんにこんなことを言っているのか解らないが、それだけは照れずに断言できる。
 彼女が必要だから傍にいて欲しいのではない。好きだから、守りたいから、共に生きていきたいから、だから傍にいて欲しいのだ。これからも、ずっと。
 自分に出来る全てで、彼女を守りたいと思う。
「……そうか」
 小さく息を吐いて、ゲンドウはそっとトウジから目を外した。そのまま立ち上がり、あちこちに古傷の残った躯を晒す。
「あの……」
「なんだ」
 声をかけたトウジに男が振り返った時、女湯の方からユカの声がした。
「トウジ、私先あがるねー」
「お、おお」
 そう答えた時、男の姿は既になかった。からりと引き戸を開けて、脱衣所の方に向かっていくのが見える。
 それを見送ってから、トウジは両手で湯をすくって顔を洗うと、勢い良く立ち上がった。
 天井の扇風機が、湿った空気をゆっくりとかき混ぜている。濡れたタオルを洗面台に置いて、トウジはバスタオルで髪と躯を拭った。
 先刻の男は、腰にタオルを巻いたままの格好で脱衣所の隅のマッサージ機に座って目を閉じている。それを横目で一瞥して、トウジは浴衣に袖を通した。糊のきいた木綿のパリっとした肌触りが心地好い。
 タオルを絞り、バスタオルを肩にかけて脱いだ服をまとめたトウジは、男に「お先に」と声をかけて外に出た。
 先に出た筈のユカは、まだ出てこない。女の子は支度に色々と時間がかかるのだということをこれまでの経験で学んだトウジは、壁に凭れてユカが出てくるのを待った。が、ふと脇に目をやって、レトロゲームの筐体が幾つか並んでいるのを見つけ、ニヤリと笑った。ズボンのポケットを探って小銭入れを取り出し、筐体に歩み寄る。
 レトロ専門のゲーセンならともかく、こんな温泉旅館に未だに置いてあるようなものだから、初めから期待はしていない。五十円硬貨を落としてゲーム開始。
 何しろセカンドインパクト前の代物だから、散々使い込まれてヘタっている所為で、スティックとボタンのレスポンスは極めて悪い。だがそれでも、色数の少ない画面を睨み、音色の少ない音源で頑張って鳴らしているちゃちいBGMを聞いていると、不思議と時間の経つのを忘れてしまう。
「あー、やっぱりここにいた」
 ぺたぺたとスリッパを鳴らして近づいてきたユカに振り向いて、トウジはそのまま硬直した。画面の中で自機が撃墜されてSEが鳴り響いたが、そんなことは何処かに行ってしまっていた。
 トウジの目にはただ、湯上がりの濡れ髪をまとめた浴衣姿のユカしか映っていなかった。白いうなじを剥き出しにして、微かに頬を火照らせながら自分を見つめるユカに、トウジはひたすら見惚れていた。ぽかんと口を半開きにしたまま、じっと自分を見つめているトウジに、ユカの方が恥ずかしくなって目を逸らす。
「やだ、そんなに見ないでよ……恥ずかしいじゃない」
「す、すまん。そ、その……綺麗や。めっちゃ似合うとるで」
「え……あ、ありがと……」
 まさかトウジにそんなことを言ってもらえるとは思わなかったのか、ユカは真っ赤になって俯いた。そんな仕種もまた艶かしい。
「へ、部屋、行こか」
「え、あ…う、うん。ゲーム、いいの?」
「どうせ暇つぶしや。構へん」
 言って、トウジは傍らに置いた服を持って立ち上がった。その彼にきゅっと腕を絡めて、ユカが恥ずかしそうに頬を染めながらそっと見上げる。
 その時、からりと引き戸を開け、先刻の男が暖簾をくぐってきた。
 まさかまだいるとは思っていなかったのか、そこにユカの姿を見つけて、眼鏡の奥の瞳が一瞬大きく見開かれる。
 初めから逢うつもりはなかった。ただ、トウジと直接話がしてみたかっただけだった。――自分がヒトでいられるうちに。娘を預けることになる男に、ただ逢ってみたかっただけだった。父親として。
「お……とう、さん……」
 とさり、とユカの手からタオルが落ちた。
 つい先刻までの倖せな気分が、一瞬で萎んだ。口の中がカラカラになる。躯が硬直し、咽喉の奥が引き攣る。言葉が出てこない。
 一分の隙もなく漆黒の軍服で身を包み、白手袋をはめた手でそっと眼鏡を押し上げながら、男――碇ゲンドウは、そんな娘から目を逸らした。ユイを想い起こさせるその顔で、その瞳で、怯えたように自分を見られるのが辛かった。
「――どうして……」
「躯を休めに来ただけだ。他に意味などない」
 だが、そんな胸中の思いなど微塵も感じさせないほど冷ややかな声音で言って、ゲンドウは最後にチラリと視線をトウジに投げかけると、そのまま背を向けた。
 遠ざかっていくその背中を、ユカはトウジにしがみつくようにして、そしてトウジはそんな彼女とゲンドウの擦れ違う思いを痛いほどに感じながら、黙って見送っていた。自分でも驚いたことに、殆ど動揺はなかった。
 何となく、彼がユカの父親だと気付いていたのかもしれない。ユカは否定するだろうが、眼鏡を外した彼の顔は、何処かユカと似ていたのである。
 顔立ちがどうとかいうのではなく、雰囲気が少しだけそっくりのような気がした。
 だから、彼がユカの父だと解った時、トウジがの脳裏を過ぎったのは「やっぱり」という思いだった。そして、彼はユカではなく、自分に逢いに来たのだと肌で悟った。
 ――何故か、そんな気がした。
 自分が傍にいると、ユカを傷つけるだけだと、彼は知っている。そして、彼が何よりも恐れているのは、ユカに拒絶されることなのだ。
 だから近づけない。傷つく痛みに耐えられないから、だからユカを遠ざける。そうすることしか出来ない、不器用な男なのだ。
「あの人、ユカの親父さんやってんな」
 トウジの腕にしがみつきながら、ユカはこくんと頷いた。
「なんや、そうやないかと思うたわ」
「どうして……?」
 消え入りそうな声で、ユカは訊いた。
「やっぱ、どっか似とるんやろなぁ。父娘やねんから、当たり前やけど」
「……」
 その言葉に、ユカは俯いた。青褪めたまま、ゆっくりと表情を失くしていく彼女の横顔を見つめながら、トウジは続けた。
「あの人な。……多分、ワシに逢いにきたんやと思うねん」
 トウジの言葉に、しかしユカはぴくりと肩を震わせただけだった。
「自分の娘が何処の誰とも解らん男と付き合うとったら、どんな父親でも気になるに決まっとる。NERVやったら、ワシらが何処で何してるかぐらい、簡単に調べつくやろ。ワシのこともな。それでもな、やっぱ直接確かめにきたんやと思うねん。ワシを」
 のろのろと、ユカが顔を上げた。縋るような眼差しをトウジに向けてくる彼女に、トウジはそっと微笑んだ。
「風呂ん中でな。ワシ、ユカのこと好きかて、訊かれた。ユカのこと守っていけるかて、訊かれた。せやから多分、そういうことやと思うねん」
「え……?」
「なんや、おまえのこと頼むて、言われたような気ィしてなぁ」
 そう言って、照れたように鼻の頭を掻いてから、トウジはチラリとユカを見た。ユカは、信じられないといった顔で彼を見つめていた。
「部屋戻ろか。ワシ、咽喉カラカラや」
「……わたしも……」
 苦笑いを浮かべて見詰め合った二人は、寄り添ったまま部屋へと戻っていった。
つづく



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  あとがき

 む〜〜。なんかすごく失敗した感じだ。難しいなぁ……
 ギャグってるゲンちゃんは楽しいけど、シリアスな碇司令はちょっと辛いですねぇ。
 なんか思い通りに書けなくてもどかしい。
 せっかくの初デートがなんだかすごく重くなってしまったなぁ。
 前回までのちょっとキレた感じのテンションが何処かへいってしまった。
 でも、ここらで逢わせておかないと、もうチャンスはそうないし……。
 いやはや、うまくいかないもんだ。


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