〜彼と彼女の事情〜
K A R E × K A N O
Written by:きたずみ
#13
薄汚れた剥き出しのコンクリート。
窓から射し込む銀光を浴びて、冷蔵庫の上のビーカーに満たされた水が微妙な陰影を天井に投げかける。窓の外には、丸い月が冴え冴えと輝いていた。
僅かに欠けたとはいえ、その怜悧な美しさは変わらない。なのに、二子山で見た時とは、何処か違うように感じる。美しさよりも冷たさが先に立って、何故かひどく寂しい感じ。見ていると、キュッと胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
あの時と違うもの。
――隣に、ユカがいない。あの温もりが傍にいない。
それだけで、こんなにも心が乱される。
制服姿でベッドに寝転がりながら、レイは先刻から文字を目で追っているのにまるで頭に入ってこない本を、ぽすん、と傍らに放り出した。
何だかつまらない。何もすることがない、ということがこんなにも退屈だとは思わなかった。
レイはこれまで、退屈だなどと思ったことはなかった。それは、彼女の周りの世界があまりにも稀薄だったからだ。
向こうから関わってくることもなければ、こちらから干渉しようとも思わなかった。彼女の世界は閉じて、完結していた。
けれど、彼女と出逢って、少しずつ世界が変わっていくのを感じた。これまで心地好いと思っていた世界が、ひどく無機質で冷たい感じのするものに思えてきた。たとえばこの部屋のように。ここには、彼女に感じるような温もりが存在しない。
たとえば食事。これまで、単なる栄養補給として行ってきた行為が、いかに味気ないものだったか。ユカのお弁当も、一緒に食べたラーメンも、すごく美味しかった。そうしたことを、自分は知らずにいた。知ろうともしなかった。彼女といれば、自分はどんどん変わっていける、そんな気がした。そしてそれは心地好い感覚だった。
「また、明日……」
ぽつりとレイは呟いた。
それはささやかな約束。再会を互いに願いあう言葉。
だが、明日は学校はない。そんなことをユカが忘れていたのだとは知らないレイは、どうやったら逢えるのか、真剣に悩み始めた。
そうするうちに、眠ってしまったらしい。いつ眠ったのか解らない。色々と夢らしいものを見たような気もするが、覚えていない。目が覚めると、もう昼過ぎだった。といっても、この部屋に時計などないので正確な時刻は解らないが、レイの体内時計は外れたためしがない。
締め切った室内に、熱気を孕んだ空気が重苦しく澱んでいる。躯が汗でべとつくのが不快で、レイはシャワーを浴びるために服を脱ぎ捨てた。
裸足にスリッパを履いて、シャワールームに向かう。蛇口を捻ると、炎天下で温められた生温い水がノズルから噴き出した。
構わず汗を流しているうちに、だんだんと水が冷たくなってくる。迸る水流を掌で受けながら、レイは心地好さにゆっくりと深く、長く微かな吐息を漏らすと、首を上に向けた。弾ける水飛沫が彼女の顔を叩く。
その心地好さは、ユカに抱き締められている時の感覚に似ている。水流が膚を叩き、汗を流して滑り落ちていく感触は好きだった。本と同じように、誰にいわれるでもなく自分で選んできたことだ。そういうことが自分には物凄く少ないのだということに、今更のように気付く。
もっとも、それは無理もないことなのかもしれない。己の生い立ちを考えれば、当然のことなのかもしれない。自分を育てた人々は、彼女を「人間」として見ていないのだから。常識や心地好さや欲しいもの、そんなものは彼女には必要ないものとして排除されてきたのだ。何故なら、自分はヒトですらないのだから。
でも、とレイは思う。たとえ自分がヒトにあらざる存在だとしても、彼女といたいというこの想いは、このココロは、決して偽りのものではない筈だ、と。
彼女と一緒にいると心地好い。心が温かくなる。けれど、彼女は自分のものにはならない。彼女はあの人と共に在ることを望んでいる。でも、それでも自分といることも望んでくれる。それならそれでいい。
……けれど、あの人はイヤかもしれない。
かつての自分が彼女に抱いていたように、自分の大切な人を奪われるのではという恐怖を、自分は彼に味わわせているのかもしれない。
彼――鈴原トウジ。ユカの大切な人。ユカを大切に思っている人。
彼は優しい。自分を嫌ったり、憎んだりしない。対等に見てくれる。ユカと同じように、優しくしてくれる。それが心地好い。彼女があの人を選んだのも、解る気がする。
でも、本当はイヤなのかもしれない。
本当は彼女を独り占めしたいのかもしれない――自分と同じように。
蛇口を閉め、髪からぽたぽたと水滴を垂らしながら、レイは薄汚れたタイルを見詰めた。体温で温められた生温い水流が、首筋や背中を流れ落ちていく。
彼に訊いてみた方がいいのだろうか。自分は邪魔ではないのか、と。
解らない。こういう時、どうすればいいのか解らない。
こういう場合、誰かに尋ねてみるというのが一番確かな解決法ではないか、と判断したレイは、手近な所に引っ掛けておいたバスタオルで髪を拭きながら外に出た。
着替えると言っても、いつもと同じ制服である。他に服らしい服をレイは持っていない。汚れたシャツと下着はタオルと一緒に洗濯機の中に放り込んで、生乾きの髪のままレイは部屋を出た。いつものように、鍵などかけない。
移動を開始すると同時に、自分を囲むようにして幾つかの気配が動き出すのを感覚の片隅で感じながら、レイが向かったのはジオフロントだった。
レイの場合、何かを相談するなり質問したり出来る相手というのは――したことがあるかどうかは別として――かなり限られていた。ユカを除けば、赤木リツコ、碇ゲンドウ、そして葛城ミサトの3人である。
そして、彼らに会うには、NERV本部に向かうのがもっとも効率的なのだ。
本部に着いて、彼女が真っ先に向かったのはリツコの研究室だった。ある意味、彼女がもっとも通い慣れた場所である。
だが、自宅には入りきらなくなった猫の置物が至る所に飾られ、書類や飲みかけのコーヒーの入ったマグカップがあちこちに散乱し、煙草の吸い殻で形成された山が灰皿の上で崩落し、無惨な様相を呈したリツコの研究室には、予想に反して誰もいなかった。
リツコの場合、ミサトと違って、家事や整理整頓の能力が根本的に欠落しているわけではない。単に、忙しすぎて片付けている暇がなくなるだけのことだ。普段はマヤの手によって整理整頓が行き届いているのだが、彼女も忙しいので、仕事が立てこんでくるとすぐこういう状態になる。カフェイン中毒でチェーンスモーカーだから余計に悲惨である。
次の使徒が来るまで、NERVのスタッフにはやることが山ほどある。何しろ迎撃設備はまだ完全に稼動していないし、システムだってまだ仮組みの状態である。大破した零号機の改修に加え、直上に転がった使徒の残骸の後始末もしなければいけないのだが、肝心の追加予算がまだおりない。このクソ忙しい時にフラフラ遊んでいるのは、すちゃらか作戦本部長と何処かの髭親父くらいのものだろう。
もっとも、その髭親父にしても、ストーカー行為の合間に一応仕事というか陰謀というか根回しというか、その辺のお得意のアレコレはちゃんとしているわけで、結局のところ、給料泥棒は酔いどれ酒徒ただ一人だったりする。
NERV本部で俗に「腐海」と呼ばれている一角が、葛城一尉に与えられている士官用の執務室である。何故その名がついたかは言うまでもない。ここに運び込まれた書類は二度と出てこないとまで言われ、まともな神経の人間なら進んで足を向けようとは絶対に思わない禁断領域。それが領域を拡大せず、不定期に狭まったりするのは、とある潔癖症の女性と副官のメガネ君の功績だったりする。
ユカとトウジのらぶらぶな会話にあてられ、一時期向こう側を彷徨っていたミサトとリツコは、片付けても片付けても全然片付いてるようには思えない部屋の中をちょこまかと動き回っている二人によって廊下に追いやられて、今や完全に復帰を果たしていた。
廊下にヤンキー座りしてエビちゅを啜りながら、抱えたモニターを覗き込んでいる作戦本部長と、友人のように大股開きではないものの、廊下に座り込んで煙草をふかしながらモニターを見つめている金髪の女性の姿は、遠目に見てもとにかく浮きまくっていた。やはり類は友を呼ぶというべきなのか、長年の付き合いによる影響と弁護すべきか。
「初々しいわねぇ〜。あたしにもこんな頃があったわぁ〜」
「嘘おっしゃい」
「あんでよ」
一体何処で調達したのやら、傍らに大量のエビちゅの空き缶を積み上げ、ほろ酔い気分のミサトは、既に仕事中であることも忘れてとろんとした瞳を親友に向けた。
「あんたたちのデートといえば、大抵安い酒場巡りだったじゃないの」
上手い酒が飲めるだの、地ビールの直販だの、ビ−ル飲み放題の店だの……それも、主にミサトがつき合わせていて、最後にはゲロ吐いてつぶれるというのがオチだった。そのあたり、相手の男はそこそこ要領よく心得ていたのだが。
「んぁ〜、そういうこともあったかもね〜」
「ったく……仕事中だってこと完全に忘れてるわね」
「しごとぉ? あらしのぉ、しごろは……んぁ〜んらっけぇ?」
「この酔っ払いがっ!」
何しろ昨夜からまともに寝ていない(べつに仕事をしていたわけでもないのに)うえ、昨夜から飲み続けである。寝不足状態の脳にアルコールは良く廻る。一見ほろ酔い状態に見えて、その実ミサトはぐでんぐでんに酔っ払っていた。
「……まったく」
きりきり痛むこめかみを押さえて、リツコはモニターを抱えたまま廊下でいびきをかき始めたミサトを見下ろし、溜息を吐いた。
ほんとに、良くこれで馘にならないものだと思う。だが、彼女の常識に囚われない自由な発想や、思い切った行動力には誰もが一目を置いていた。それがなければただの酔っ払いなのだが。
「やれやれだわ……ん?」
ふと気配に気付いて振り向くと、すぐ後ろにレイが立っていた。
「レイ? どうしたの、今日は何の予定もない筈よ」
眉をひそめながら問うが、どうも様子がおかしい。彼女の瞳はじっとある一点に注がれている。ミサトの抱えたモニターだ。その中では、ユカとトウジが楽しそうに笑みを交わして食事している。
と、不意にレイがリツコを見た。赤い瞳が、真っ直ぐに彼女を見る。その瞳の中に明確な『意思』の輝きを認めて、リツコは軽く息を飲んだ。彼女の知る『綾波レイ』は、決してこのような反応を見せる存在ではなかった。何故なら、彼女はヒトではないのだから。だがこの反応は、まるで――
(まるで、人間のようだわ)
思わずそう考えて、己のその思考にリツコは自嘲の笑みを口許に刻んだ。彼女を人形としてしか扱ってこなかったのは、自分たちなのだ。
何が彼女を変えたのだろう。この数日の間に何があったのだろう?
(……考えるまでもないわね)
原因は解らないが、レイにこうした反応を呼び起こしうる存在といえば、一人だけだ。碇ユカ――彼女しかいない。彼女が、レイを変えたのだ。……変えてしまった。ヒトではないものに、意思を与えてしまった。最早、彼女は人形ではないのだ。
(……迂闊ね。予想しうる事態だったわ……こんなに早いとは思わなかったけれど)
今更、時計の針は元には戻せない。一度意思に目覚めたものが、再び人形へと戻ることはない。だが、……今なら修正はきくだろうか?
「……赤木博士」
「なに?」
ユカやミサトに知れたら間違いなく軽蔑されるだろうと思いながら、そんな思考を巡らせるリツコに、レイはいつものような抑揚のない声音で声をかけた。
考えてみれば、彼女に呼びかけられるのは初めてのような気がする。いつもは彼らの方が一方的に命令したり、指示したりするだけで、レイがそれに対して異を唱えるといったことは今までなかったのだから。
「ここ、何処ですか」
「ここ? 箱根スカイランドのこと? 電車で行けばすぐだけど……何するつもり?」
「らんにゅうするのれぇ〜?」
「……あんた寝たんじゃなかったの」
むくりと起き上がったミサトを見て、リツコは顔をしかめた。見るからに酔っ払っていて呂律があやしいのに、彼女の顔はこの上なく愉しそうに弛んでいるのだ。
三度のメシ――というかエビちゅ――と同じくらい彼女が好きなもの、色恋沙汰のごたごたの気配を敏感に察知したのだろう。相変わらず悪趣味なことだ、とリツコは思ったが、彼女とて他人のことは言えないという事実に、リツコはまだ気付いていない。
「いいわねぇ〜、三角関係って萌えるわはぁ〜〜っ。よっしゃ、レイ、おねいさんに任せなさいっ! やっぱ、これぐらいのひと波ふた波ないと面白くないわよねぇ〜っ!」
「……いい」
顔を近づけられ、酒臭い息を吐きかけられて微かに顔をしかめたレイは、ミサトの反応に不穏なものを感じたのか、きっぱりと言い捨てて背を向けた。
「レイ。やめなさい」
歩み去ろうとしたレイに、白衣に両手を突っ込んだ姿勢でリツコが言った。いつものように命令口調で。レイの歩みが止まる。僅かにリツコを振り向いた。が、
「……どうしてですか」
ミサトにとっては大した事はないかもしれないが、リツコにとっては衝撃だった。彼女は、レイが逆らったり意義を唱えたりするのを見たことがなかったのだ。それは彼女にとって『有り得ないこと』だった。
リツコはその衝撃が過ぎ去るまでの間、じっと息を詰めてレイを見つめていたが、ややあって、そっと息を吐いた。
「せっかく二人で楽しんれるのに、邪魔ふるのは野暮っていいたいんれしょぉ〜、かたいんらから、リツコはぁ〜。れも、らめよっ。今楽しまならくて、いつ楽しむのよっ」
「……いいから寝てなさい、あんたは」
ぐぎゅ、と拳を握って力説しながらも、立ち上がることも出来ずに胡座をかいたまま上半身をふらふらさせているミサトに言って、リツコはこめかみを押さえた。
「私……邪魔、なんですか」
「そうよ」
自分のその答えに、レイの表情が目に見えて強張るのを、リツコは初めて見た。そして一瞬、これで取り戻せるかもしれない、と淡い期待を抱く。
だが、次の瞬間、レイはきゅっ、と唇を結んだ。
「……直接訊いてきます」
「無駄よ。やめなさい、レイ」
レイの背中にそう呼びかける。だが、リツコの声に一瞬肩を震わせたものの、レイは振り向かなかった。硬い足音だけが、反響しながら遠ざかっていく。
「レイ……」
リツコは白衣のポケットの中で、ぐっと手を握り締めた。最早レイは自分の制御を離れた。自分にはもう、どうすることも出来ない。ヒトの躯に、リリスの魂を込めたモノ――あれが『意思』を持ってしまったら、人間にはもうあれを止める術はないというのに。
(……もう、駄目か)
重苦しい敗北感に打ちのめされながら、リツコは項垂れた。壁に凭れて大いびきをかいている友人が、リツコはちょっと羨ましかった。
彼女には、逃げ込む先があるのだから。たとえかりそめでしかなくとも。
そう思いながら、何故か気分は晴れやかだった。肩の荷が下りたというのか、自身をがんじがらめに縛っていたものから解放されたような気がする。
ヒトのカタチをしたモノだ、と思い込もうとしても、それが人の姿をして、生きて動いている以上、そして稀薄ながら感情らしきものを有する以上、実験体として扱うことには少なからず抵抗がある。リツコにしても、それは同じだった。だが、それを彼女は強引に抑え込んできたのだ。レイを単なる人形に過ぎないと思い込もうとして、そうやって心を守ってきた。
それが、レイの『意思』に触れたことによって、崩れてしまった。リツコはレイがヒトではないと知っている。けれど、もはや人形でもないと解ってもいる。次はどんな詭弁を自分に用意してやればいいのか、リツコには解らなかった。
(今のレイは、まるで人間のようだわ。……あの人は、どうするのかしら)
戸惑うだろうか。喜ぶだろうか。それとも、失敗作だと切り捨てるだろうか。解らない。碇ゲンドウという男の思考は、リツコにとっても未だ深い霧の中だ。
大体において冷酷で、なのに時折優しかったりする。実の娘に対して冷酷に接しておきながら、その実彼女のことが気になってしょうがないという、小心な一面も有る。解ったと思っても、まだその先がある。一体、幾つ仮面を剥いだら素顔に辿り着くのだろう。
リツコは項垂れたまま、そっと溜息を吐くと、フィルター近くまで燃えた煙草を灰皿に放り込み、続けざまに新しいのを咥えて火を点けた。
「ヒトでないものがヒトになる――まるでおとぎ話ね」
呟いて、ゆったりと紫煙を吐き出したリツコは、渦を巻きながら天井に上がっていく煙をぼんやりと見つめながら思った。
そうしたおとぎ話の結末は、概してハッピーエンドにはならない、と。
ヒトなど、望んでなるほどいいものではないのだから――
自分は一体何をしているのだろう。
一体どうしてしまったのだろう。
あてどなく本部の廊下を彷徨い歩きながら、レイはそんな自問を繰り返していた。
これまでなら考えもしなかったことを、してしまった。リツコの命令に背くなど、あってはならないことの筈だった。
今更のように頭が混乱する。けれど、後悔はしていない。
これまでのレイなら、命令されれば大人しく従っていただろう。それは、なにもかもが等しく無価値だったからだ。
己の存在も、それを取り巻く空疎な世界も。その、全てが。
初めから道具として創られ、道具として使われてきた自分。ただ死にゆくのを待つだけの存在。そんな自分には、誰よりも彼女自身が関心を抱くことがなかった。
けれど、そんな彼女に、真っ直ぐに目を向けてくるものがあった。自分自身すら見捨てた彼女の生きる姿勢を叱咤した。剥き出しの感情の奔流でレイを飲み込んで、それでいて温かく、優しく抱き締めてくれた。
自分を対等に見てくれるヒトに出逢ったのは初めてだった。彼女は閉じ篭っていたレイの心を、外界へと引っ張り出してくれた。外の世界に怯えるレイの手を引いて、温かな気持ちで包みながら、色んな事を教えてくれた。自分が何も知らなかったことに気付かせてくれた。そして、自分に変わるチャンスをくれた。
ユカの傍にいると気持ちいい。抱き締められると温かくて、別に不安だったわけではない筈なのに、何故かすごく安心する。
彼女と一緒にいたい。
……けれど。
行く先も解らないまま闇雲に歩いていたレイの足が、不意に前へ進むのをやめた。
邪魔、の一言が脳裏に響く。実際にユカにそう言われたわけではないのに、それを思うと急に足が重くなったような気がした。
胸の奥に何かが詰まった感じがして、息苦しい。心拍数も上がっているし、空調は良く効いている筈なのにじっとりと汗が滲んでくる。廊下に立ち尽くしたまま胸を押さえて、レイは奇妙なこの『症状』に首を傾げた。
いつか感じたものに似ている。まだ彼女と出逢う前。碇司令の娘がもうじきここへやって来ると聞かされた時、感じたものに。
(……こわい。これが恐怖という感情?)
自分を拒絶されるのではないかという不安。もう要らないと言われるのではないのか、捨てられるのではないのかという恐怖。盲いていた頃よりも、世界に目を開いてしまった今の方が、その感覚はより激しく、強い。
今は、他の誰よりも、ユカに拒絶されるのが、怖い。そう思うと、誰かに遊園地の場所を尋ねてでも彼女に逢いに行こうとした気持ちが急速に萎えていく。
けれど、それでも逢いたい、傍にいたいという気持ちは、消えない。それどころか、より激しさを増して、レイの心を強く揺さぶる。こんな時どうすればいいのか、レイはまだ知らない。あまりにも幼すぎるレイの心は、己の感情を持て余していた。
重い足を引きずるようにして休憩コーナーに辿り着いたレイは、そのままベンチに座り込んだ。逢いたい。でも、逢うのが怖い。
ユカの傍にいるとホッとする。でも、自分から離れていく彼女の背中を見ると、気持ちがひどく沈んでいく。自分にはユカしかいない。でも、彼女の世界はレイだけで形作られているわけではない。そう思い知らされる感じがして、何だか嫌な気分になる。
(……きらわれたくない)
その思いがレイの心と躯を縛る。踏み出すべき一歩を躊躇う。心に生じた迷いは思考をループさせ、思いは袋小路に迷い込む。
「レイちゃんじゃないか」
その声に、レイはぼんやりと顔を上げた。見ると、髪の長い男の人がこちらを見て、軽く手を振っていた。相手が誰だか解らず、レイは微かに首を傾げる。
何となく見たことがあるような気もする。でも、NERVの士官用の制服を着ているのだから、何処かで見かけたことぐらいはあるかもしれない、ぐらいにしか思わない。レイの記憶の中に、青葉シゲルという人物のデータは存在しなかった。
青葉シゲル、二十六歳。NERV本部作戦司令部付オペレーター。通信、および情報分析を担当する。かなり目立ちそうな風貌のクセしてどういうわけか影の薄い彼が叫ぶ時というのは、結構本気でピンチだということもレイは知らない。
まあ、よくあることである。髪が薄いのはある程度何とかなっても、影が薄いのはもうどうにもならないらしい。彼のささやかな名誉のために付け加えておくが、レイの中には日向マコトや伊吹マヤ、さらにはクラスメートであるはずの相田ケンスケのデータも入っていない。
「だれ?」
その言葉に、青葉はしかしすっかり慣れっこなのか、何処か諦念に満ちた笑みをうっすらと口許に浮かべただけだった。別に今に始まったことではない。影が薄いのは昔からだ。年季が入っている。なにしろ、直属の上司にすら時々名前を忘れられたりするのだ。
ミサトなどは、下手をすると名前も覚えていないかもしれない。答えを聞くのが怖くて本人に確かめたことはないが、名前を呼んでもらった覚えは一度もない。ミサトにいいように使われているとはいえ、ちゃんと名前で呼んでもらえる同僚がちょっぴり羨ましかったりする青葉君だった。
「青葉です、青葉シゲル。何度か会ってる筈なんだけどね……まあいいや。それよりどうしたんだい? 今日はテストの予定はないだろう?」
そう言いながら、青葉は自販機のボタンを二度押した。支払いはカードを介して口座から自動的に引き落とされる。
「はい」
レイの好みが解らなかったので、取敢えず烏龍茶にした。差し出されたカップをレイは不思議そうに見つめ、それから青葉の顔を見上げて、再びカップに目を落とした。
「おごりだよ。どうぞ」
「……」
小さく頷いて、レイはカップを受け取った。別に礼も言われなかったが、始めからそんなものは微塵も期待していないので、青葉はまったく気にしない。むしろ、レイがちゃんと反応したことの方が驚きだった。
少し間を空けてベンチに腰を下ろし、コーラを飲みながら、青葉は両手でカップを持ってボーっとしているレイを横目に見やった。
直接逢ったことは数えるほどしかないが、オペレーターとしてかなり長い間レイと接してきているので、青葉にもレイに何らかの変化があったのは解った。何処がといわれると説明に困るが、以前のレイは、もうちょっと近寄り難い雰囲気があったように思う。
明確な拒絶ではなく、他人に話し掛けられればそれなりに反応はするが、何処か虚ろで、心の外側をただ滑り落ちていくだけのような、そんな感じだった。
まるでその一瞬しか、自分がレイの目の前に存在していないような気分にさせられたことを覚えている。正直、MAGIとの対話の方がまだ面白いと思ったものだ。それが、今は微妙に違う。なんとなく、傍に人がいるという感じがする。
部署が違うのでヤシマ作戦の時は二子山に同行しなかったから、あの時何があったかは解らない。けれど、後で聞いた話だと、レイとユカは何だか仲が良くなっていたという話だった。今のレイを見れば、それも納得できる。
「あ、もしかしてユカちゃんに逢いにきたとか?」
その言葉に、レイはぴくりと肩を震わせた。手に持ったカップの中身に細波が立つ。それはまるでレイの心象風景のようだった。
「でもユカちゃんも休みだろ? 待ち合わせでもしたのかい?」
その言葉に、レイは微かに首を振る。こりゃ本物だ、と青葉は思った。レイは確実に変わりつつある。そして、そうさせたのは間違いなくユカだ。誰にも開かなかったレイの心を、ユカはあっさり開いてしまった。何がそうさせたのだろう、と青葉は思う。
「……遊園地」
「え?」
「遊園地に、行ったの。あの人と一緒に」
「……えーっと、誰が?」
主語を飛ばされて、さすがに意味を捉えかねた青葉は、ちょっと眉をひそめて聞き返した。何せ、彼女と会話らしい会話をしたのは初めてなのだから仕方ない。
「ユカさん」
「ああ、なるほど。で、あの人って?」
「ユカさんの、好きな人」
その言葉に、青葉は軽く目を見開いた。サードチルドレンが早々と彼氏を見つけてラブラブ状態だという話は、NERV本部では最早周知の事実なのだが、彼にはあまり友達がいないので、そういう世間話には疎いのだった。
「ええっ、もう彼氏がいるのかぁ……ちっ」
「ちっ?」
「……あ、いや、こっちのこと。で?」
「逢いに行こうとしたら、駄目って言うの」
「誰が?」
「赤木博士」
「あー……そりゃ、言うよなぁ」
溜息を吐いて、青葉はうっすらと笑った。髪を金色に染めたりして型破りなフリをしているが、彼女が極めて常識的な思考の持ち主だということを彼は知っている。むしろ、一見真面目そうに見える日向の方がそうした抵抗は少なく、平気で常識破りな行動に出たりする。
彼女がミサトと親友として付き合っているのも、案外ミサトの奔放な所に惹かれているのかもしれない。
カップの中の氷を口の中に放り込んでがりごりと噛み砕きながら、ちょっと考えて、青葉は顔にかかった前髪をざっと掻き上げた。
「つまり二人はデートしてるわけだろう? そんな所に割り込んだら、やっぱ迷惑じゃないか。そういう意味じゃないの?」
「……迷惑?」
「そりゃそうだろ? 邪魔しちゃ悪いよ」
「私、邪魔なの? 要らないの? いない方がいいの?」
「えぇ? いや、そういう意味じゃなくて……」
そこまで言いかけて、青葉はどう反応していいか解らなくなった。
レイが、今にも泣き出しそうに見えたからだ。
といって、実際に表情が歪んだわけではない。声音も大して変わりはなかったし、瞳に僅かな震えはあったものの、涙が溢れそうな感じはない。
目が見開かれ、唇が微かに戦慄いていただけだ。
が、それは彼女が普通の女の子だった場合である。普段から徹底して無表情だった以前の彼女を知るものにとっては、それぐらいの変化でも充分衝撃的だった。
「そうだ、それなら今度二人で遊びに行けばいいじゃないか。女の子同士でさ」
そう言ってみるが、レイからは何の反応も返ってこない。青葉を見つめていた目を再びカップの中に落とし、そのまま微動だにしない。
レイのその様子に、青葉は溜息を吐いた。もともと他人との付き合いは上手い方ではないから、こうした場合、どう処理すればいいか解らない。そのまま黙り込んで、青葉はぼんやりと天井を眺めた。遠くから誰かの呼び出しのアナウンスが聞こえてくる。
「逢いたいなら、逢ってみればいいんじゃないのかな」
しばらく黙っていた青葉が急にそんなことを言ったので、レイはのろのろと顔を上げて彼を見た。青葉は天井を見上げたまま、視線も合わせずに続ける。
「逢いたかったから逢いにきた。そう言ってみればいいんじゃないのかな。それで迷惑がられるんだったら、仕方がないじゃないか。嫌われるのは辛いけど、それでも好きなんだからしょうがないよ」
誰のことを言っているのだろう。何処か疲れたような無機質な瞳で天井を見つめたままそれだけ言って、青葉はむくりと上体を起こし、立ち上がった。
「じゃ、オレもう行くから」
軽く手を振って、青葉はレイに背を向けた。
その背中を見送って、レイは彼の言葉を反芻する。
逢いたいなら、逢えばいい――
とん、と背中を押されたような気がした。
すっかり氷が溶けて温くなった烏龍茶を一息に飲み干して、レイは立ち上がった。そして、重大なことに気付いた。
遊園地の場所を、訊くのを忘れていたのである。
どうしたらいいのだろう。
思案顔で、レイは再びその場に立ち尽くした。
最後の書類にサインをして、ゲンドウは背後に佇む男を振り返った。
「終わったぞ。これで文句はあるまい」
「取敢えず、今日までの分はな。それに、お前の仕事は書類の決裁だけではあるまい。こんなお遊びをいつまでも続けていては、老人たちが黙っていないぞ」
「……解っている」
そう答えながら、広かった筈の公務室を埋め尽くした決済待ち書類の山を見回して、ゲンドウは溜息を吐いた。
「だが、これでは邪魔をしているようにしか思えん」
「MAGIの嫌がらせだな。わざわざプリントアウトしてある。ご苦労なことだ……資源の無駄使いだな」
「……」
冬月の皮肉を、ゲンドウは沈黙をもって受け流した。メガネをつい、と押し上げ、受話器に手を伸ばす。監視モニターは、職務の効率化を図るため、冬月によって封印されてしまっている。ユカたちが今何処でどうしているかを知る術は、今の彼にはない。
「……私だ。あれは今どうしている? ……なに?」
急に声のトーンが上がったのに気付いて、老眼鏡をかけてゲンドウのサインが入った書類のチェックをしていた冬月は軽く眉を上げた。
「宿を押さえろ、大至急だ。……そうだ、二人をそこへ誘導しろ。私もすぐそちらに向かう」
「……宿?」
場違いのように聞こえる単語に、眉をひそめる冬月。それには構わず、受話器を置いてゲンドウは立ち上がった。
「では、後を頼む」
「それは構わんが……宿とはどういうことだ」
「聞いた通りの意味だ。温泉に行く」
「……温泉だと?」
作業の手を止めて顔を上げる冬月をチラリと一瞥して、ゲンドウはメガネを押し上げた。口許をニヤリと歪めながら、メガネをきらんと光らせる。
「冬月先生、後を頼みます」
「ずるいぞ碇、自分だけ」
「ユイ、もうすぐだよ」
「ワケの解らんこと言って誤魔化すな碇。俺も連れてけ」
子供みたいなことを言う冬月を無視して、ゲンドウは執務室を後にした。冬月はかなりしつこい性格をしているので、根に持たれると相当鬱陶しいが、この際細かいことは言っていられない。ユカが温泉で待っているのだ(←待ってません)。
用意させたVTOLのもとに向かう途中で、ゲンドウは不意に足を止めた。所在なげに廊下に佇むレイの姿を見つけたのである。
「レイ。ここで何をしている」
その声に、レイはゆっくりと振り返った。困惑の色を湛えたその血色の双眸に、ゲンドウは軽く息を飲む。そこには確かに『意思』の煌めきがあった。
「レイ?」
もう一度尋ねると、レイは一瞬口を開きかけてから、躊躇うように再び口を噤んだ。そのまま俯くようにして視線を逸らす。これまでのレイには見られなかった仕種である。当然だ――そのように仕向けてきたのだから。
ヤシマ作戦の前後に、ユカがレイと頻繁に接触しているのは知っていた。だが、リツコと同様、ゲンドウもそれでレイが変わるとは思っていなかったのだ。この変化は予定外だ。だが、今更手の出しようがない。となれば、別の手段を使うしかない。レイにはまだ役に立ってもらわなくてはならない。レイを懐柔する必要があった。
「どうした」
「……ユカさんに、逢いたいんです」
長い沈黙があった。ややあって、ゲンドウは口を開いた。
「――そうか」
そう言って、ゲンドウは再び歩き出した。レイが顔を上げて自分を見つめているのが解って、ゲンドウは歩みを止め、振り返った。
「何をしている。ついて来い」
その言葉に、レイは微かに眉をひそめるような仕種をした。その反応にニヤリと口許を歪めて、ゲンドウはメガネを押し上げ、前を向いた。
「連れて行ってやる」
微かに息を飲むような音がした。それには構わず歩き出すと、もうひとつの靴音がついてくるのが解った。
ゲンドウは、再び口許に笑みを浮かべた。
つづく
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あとがき
考えてみると、使徒ってちゃんと出したの、まだラミエルだけなんですよね……
本編系とは思えぬ状況でけっこう楽しいです(^^ゞ
あ、ちなみに青葉君出してみました(笑)。
コレが最後かもしれないけど。