〜彼と彼女の事情〜
K A R E × K A N O
Written by:きたずみ
#14
湯上がりの女の子の躯というのは、どうしてこんなにいい匂いがするんだろう。
腕を絡めたユカのうなじから匂い立つ色香にくらくらとなりながら、大いなる期待を胸に、トウジは部屋の扉を開けた。
そして、そこで彼は凍りついた。
自分たちが風呂に入っている間に、客室には既に二組の布団がぴったりと寄り添うように並んで敷かれており、……そして、その上には制服姿の少女がちょこんと座っていた。血色の双眸を、無言のままに二人に向けて。
「…………え?」
一瞬、状況が理解できなかったトウジとユカだが、茫然自失の状態から先に立ち直ったのはユカの方だった。
「レイ……? どうしてここに?」
「また明日、と言ったから……」
だから逢わなければいけない、と律義に考えたのか、それとも単に逢いたかっただけなのか、その口調からは判然としない。
「――あ、そー……」
あまり抑揚のない声音で淡々と答えながら、それでいてレイはちらちらとユカの方を見ていた。母親に怒られるのではないかと、心配している子供のようだ。その仕種が可愛くて、そもそもレイを怒る気などないユカは、困ったような笑みを浮かべた。
(そりゃ確かに言ったけど、あれは月曜日って意味で、っていうかあの状況で「また今度」とか言いにくかったし……って、ああもぉっ!)
一見冷静なようでいて、内心はかなりパニクっているユカだった。まさかレイがここにいるなど、予想だにしていなかった。ハッキリ言って、部屋に入ってくるまではトウジと二人っきりで思いっきりいちゃいちゃすることしか考えていなかったのだから。
「え〜っと、どうやってここに来たの?」
「碇司令が連れて来てくれたの」
(……やっぱり)
(あの髭ぇ〜〜っ! ワザとか? ワザとなんやな!?)
溜息を吐いて顔を手で覆うユカと、がっくりとその場に膝を突いて心で滝のような涙をだりだり流すトウジを、レイは相変わらず不思議そうな瞳でぼんやりと眺めていた。
ともあれ、これで二人きりの熱い夜はなくなった。
本音を言えばちょっとがっかりではあるのだが、レイがせっかく自発的に行動を起こしたというのに、むげに追い返すわけにはいかない。
そっと息を吐いて、ユカとトウジは諦めたような、淡い笑み混じりの視線を交わした。
「しょうがないなぁ。じゃ、一緒に寝よっか?」
ユカの問いかけに、レイはこくんと頷いた。
「……といっても、その格好じゃ……あ、ここの人、レイの分も浴衣用意してくれたんだ」
「ゆかた?」
きょとんとしたように首を傾げるレイに、ユカは自分が着ているものを示した。枕元にはレイのために用意してくれたらしい浴衣が置かれている。
「これこれ。トウジったら、わたしが浴衣着ると目の色変わっちゃうんだもんな〜」
「し、しゃあないやんか! その、めっちゃ色っぽかったし」
「そお? じゃ、帰ったらまた着て見せてあげるね。前に仕立てたやつ、おばさんが荷物と一緒に送ってくれたから」
「そ、そら楽しみやなぁ」
浴衣の袖を掴んでくるっと廻ってみせながら、ユカはトウジに流し目をくれた。思わずごくりと生唾を飲んでから、いまいち何を考えているのか解らないレイの視線にあって、どう反応していいか解らなくなるトウジだった。
「前と、同じ」
「――は?」
唐突なレイの言葉に、ユカとトウジは意味が解らず、きょとんとして顔を見合わせた。それを見て、レイは重ねて口を開いた。
「目の色。前と同じ」
「ああ、そういう意味じゃなくて……う〜ん、要するに、男の子は女の子の浴衣姿にムラムラしちゃうってこと、かな?」
「……またそおゆう極端なことを……」
あまりにも大雑把に過ぎるユカの説明に、思わず顔を押さえてしまうトウジだった。まあ、あながち間違いでもない気はするのだが……。
「むらむら?」
「嬉しいってこと」
「……そう。嬉しいのね」
案の定、レイは解ったのか解らないのか判然としない顔でトウジを一瞥してから、それでも一応納得したように頷いた。どういう思考経路を経て如何なる結論に至ったのかは、考えるとなんとなく恐ろしい気がするので考えないことにする。
なまじまともな常識を持ち合わせていないらしいぶん、余計タチが悪い。どうもユカに教育を任せていると、レイがとんでもない女の子になりそうで怖いトウジだった。
今までほとんど口をきいたことがなかったので解らなかったが、どうやらレイには一般常識や基本的な知識といったものが根本的に欠落しているようだ。誰も彼女にそういうことを教え込んだりしなかったらしい。
昨日レイと一緒にいて、そのあたりのことはトウジにも何となく解った。ただ、NERVの大人たちが何故そんな育て方をしていたかまでは、知るよしもなかったが……
いずれにしても、これまで外界の事象に関心を持たなかった彼女が、ユカには反応している。誰かに自分からすすんで逢いにくるなど、これまでの彼女には考えられないことだ。その変化自体は、好ましいことだと思う。
トウジとしては、レイにユカを奪られるような気分もあっていささか複雑ではあるのだが……その反面、何だかレイのことを妹のように思ってしまう自分に、戸惑ってもいた。同級生に対してそんな風に感じるというのは、何だかおかしな気分だが。
……だがまあ、それはそれとして。
(このまま寝ろっちゅうんかい)
予想外のレイの登場に吃驚して萎えてしまったとはいえ、浴衣の下でトランクスを押し上げて自己主張していたものの名残を感じながら、トウジは溜息を吐いた。
「せっかく来たんだし、ついでに温泉入る?」
そんなトウジの気も知らず、ユカはレイに優しく声をかけている。まあ、レイがいるのだからしょうがないとはいえ、ちょっと寂しい気もする。
追い返せとまでは言わないが、もう少し構ってくれてもいいのに、とか思ったりして、その考えに自分で愕然とした。自分をおいてレイにばかり構うユカに嫉妬するとは。
これでは、本当にただの子供だ。
「温泉……」
「お風呂よ、お風呂。今まで何してたか知らないけど、汗かいたでしょ? 入ってきたら? さっぱりするよ」
「……」
ユカのその言葉に、レイは黙って彼女を見つめ返した。まだ見ぬ温泉なるものには興味があったが、ユカから離れるのは嫌だった。
「……ん、解った」
縋るようなその視線に、ユカは一瞬戸惑ったが、ややあって小さく頷くと、未使用の浴衣とバスタオルをレイに押し付けた。自分のタオルや着替えを小脇に抱えて、彼女の手を掴む。きょとんとした顔で自分を見上げるレイに、ユカはにこりと微笑んで見せた。
「いこ」
先刻あがったばかりだが、これも仕方がないと諦める。そのまま部屋を出ようとして、戸口で振り返ってトウジに声をかけた。
「ごめん、トウジ。わたしもっかいお風呂行ってくるね。レイ一人じゃ心配だし」
「お、おお……」
頷くトウジに手を振って、ユカは部屋を出て行った。彼女に手を引かれながら、出掛けにレイがちらりと自分を見たのに気づいて、トウジはちょっと眉をひそめた。だが、トウジがその視線の意味を考えるより先に、二人はドアの向こうに消えてしまった。
「……まあ、しゃあない、か……」
溜息混じりに呟いて、トウジは敷かれた布団の上に腰を下ろした。リモコンを探してTVを点ける。賑やかなバラエティ番組を映し出すモニターをぼんやりと眺めながら、トウジはもう一度、小さく溜息を吐いた。
「それはそれとして……、どないすんねん、これ……」
股間は未だに自己主張していた。このままの状態で湯上がりの女の子二人と一緒の部屋で寝るなど、最早拷問に近い。
はあ、と溜息を吐いて、トウジはモニターを見やった。
火照った肌が、夜風に吹かれて気持ちいい。
硫化水素の匂いと、シャワーとはまるで違うお湯の感触に戸惑いながら、レイは無言でユカを見詰めていた。
湯船の縁に座って月を見上げるユカの足下で、ちゃぷん、とお湯が跳ねる。身動ぎするたびにゆさりと弾む胸元に、自然と目が吸い寄せられていく。他の女の子の裸をこうしてじっくり見るのは初めてだった。今までは関心すらなかったのだが。
「……なに?」
レイの視線に気付いて、ユカはちょっと首を傾げた。レイはユカの顔をちょっと見てから、再び彼女の乳房に目をやり、そして自分の胸元に目を落とす。
「……大きさが違う……どうして?」
「いや、どうしてって言われても……」
ユカは答えに窮して苦笑した。確かに、膨らみ始めた頃は大きくなるのが嬉しくて自分でも良く触っていたが、さすがにそんなことはちょっと言いにくい。それに、レイの口調は羨んでいるというより、素朴な疑問といった感じだ。
「レイはおっきい方がいい?」
「大きいと、何かいいことがあるの?」
「えー? あるかなぁ……肩は凝るし、痴漢には遭うし、男の子にはやらしい目で見られるし、可愛い服は着れないし、足下がよく見えないから何もないトコでしょっちゅうコケるし……。う〜、なんかあんまりいいことないなぁ……」
そう言いながら、あんまり嫌でもなさそうな口調でユカは幾つか例を挙げていった。肩が凝るのは仕方がないとして、胸が邪魔で真下は死角だし、蒸れると汗疹が出来たりして大変だし、可愛いデザインの服は大抵胸がきつくて諦めなければならないことの方が多い。中でも最悪なのがプラグスーツである。胸が締め付けられて苦しいのが嫌だった。
「でも、男の子は喜ぶよね。トウジもそうだし。わたしも、トウジに触ってもらうのは倖せな感じがして好きかな……他の人だったら絶対やだけど」
「……そう。触ると大きくなるのね」
「なるんじゃない? おっきくしたいなら、中学までだって言うし。今からならまだ間に合うかも。でも、わたしはもうこれ以上大きくなんなくていいなぁ……」
でもトウジおっぱい好きだし、まだおっきくなっちゃうかなぁ、とか思ったりもする。この胸のお陰でだぼっとした服しか着れないのは哀しいが、ユカ自身は自分の躯をそれなりに結構気に入っていた。あとはもうちょっと背があればな、と思う。
栄養がみんな胸にいっちゃったんじゃないの、とか陰口を言われたこともあるが、ユカはあまり背が高くない。身長は一四三センチしかないのに胸は九四センチを越えていて、その所為で胸が余計に目立つ体型である。おまけに、未だに小学生に間違われることがあるくらい子供っぽい顔と声をしているものだから、違和感バリバリだ。
ユカにしてみれば、すらりとして背の高いレイの方が、バランスがとれていて綺麗だと思う。顔立ちはいいのだから、ちゃんと髪をセットしておしゃれをすれば、もっと可愛くなるだろう。飾りの少ないシンプルな服の方が似合いそうだ。
どんな服を着せたら似合うかなぁ、とか考えながらレイを見つめるユカを、レイの方も別の考えをもって見つめていた。
(……柔らかかった)
ユカがレイの部屋に来た時。彼女の上に倒れ込んで、豊かな胸元に顔を埋めた時の感覚を思い出したレイは、それが何なのかを確かめようとして立ち上がった。
「……ふみ?」
ぼんやり考え事をしていて反応が遅れたユカは、いきなり自分に抱きついて胸元に顔を埋めたレイに困惑の眼差しを向けた。が、レイがそのまま動こうとしないので、躯から力を抜いてしたいようにさせてやる。
「どうしたの……?」
そっと髪を撫でてやりながら尋ねると、レイは甘えるような鼻息を洩らした。そんな彼女がたまらなく可愛く思えて、ユカは優しい笑みを口許に浮かべながら、そっと囁いた。
「レイの躯、あったかいね……」
「あたたかい……私が?」
「そうだよ。ほら、解る? 私とレイの心臓の音、シンクロしてる」
とくん、とくんと肌越しに伝わってくる、重なり合う二つの鼓動。血管の内側で弾ける生命の音。ごろごろというその響きが耳の奥で鳴っていて、無性に心が安らいでいく。
今なら言えるような気がして、レイは口を開いた。
「……私、邪魔?」
「え?」
胸に頬をピッタリ押し付けたまま訊いたレイの顔を、ユカは吃驚して見やった。が、彼女から見えるのは自分の豊満な乳房と、お湯に濡れて少し青みがきつくなった、レイの蒼銀の髪だけだ。レイがどんな顔をしているのかは、ユカには解らなかった。ただ、自分に抱きついた彼女の躯が小刻みに震えているのは感じ取れた。
「邪魔って、レイが?」
小さく頷く。
何があったのかは解らない。ただ、レイが強い不安感に襲われているらしいのは解った。そして、それから逃れるために自分を求めてくれたということも。
それは、ユカにとってはひどく嬉しいことだった。
「そんなこと、ないよ。絶対」
レイの髪の中に鼻先をそっと埋め、きらきらと月光を受けて煌めく蒼銀の糸を掌で撫で梳きながら、ユカは囁くように言った。
「ごめんね。一人で寂しかったんだよね」
「さび、しい……?」
ユカの言葉を反芻しながら、レイは微かに首を傾げる。ちょっと首を捻ってユカを見上げると、慈愛の光を湛えた黒瞳が優しくレイを見ていた。その瞳を見ていると、心の中でするりと何かが緩んでいくのが解る。
「……さびしいって、なに?」
「ん〜……なんだろう。……誰かにこうして欲しいって思っちゃうこと、かな」
小さく微笑いながらそう言って、ユカはレイの躯をぎゅっと抱き締めた。その感触に、レイの胸の奥に温かくて柔らかなものが湧き起こってくる。じんわりと包み込んで、凍てついていることすら気付かなかったレイの心をそっと解かしていくような、やさしい感覚。
(さびしい……私は、さびしかった……?)
遠ざかっていく二人の背中を見送った時のことを思い出す。
胸の内から湧き上がる、感じたことのない感覚。痛いような、寒いような……躯の中にぽっかりと穴が開いたような感覚。
誰もいない無機質な部屋に一人でいた時に、胸に押し寄せてきたわけの解らない感情。胸の奥の、微かな痛み。
それが寂しさと呼ばれるものなのだろうか、と思う。
今は、それを感じない。こうしてぎゅっと抱きついて、その肌の温もりを感じ、心臓の鼓動を聴いていると、不思議と心が安らいでくる。
(……そう、かもしれない)
自分はずっと、寂しかったのかもしれない。ただ、それは彼女にとっては当たり前のもので、温もりなど知らなかった彼女にとっては覚える筈のない感情で、だから、今まで気づかなかっただけで。自分はずっと、こうされたいと願っていたのかもしれない。
「……私、来てはいけなかった?」
「そんなこと、ないよ」
髪を撫でられるがままになりながら問うたレイに、ユカは優しく笑みを浮かべて応えた。確かに吃驚したが、別にレイのことを邪魔だと感じたりはしなかった。こうして逢いに来てくれたことに、喜びすら覚える。
「逢えて嬉しい。ちょっとビックリしたけどね」
くすくすと笑みを含んだユカの声が耳許で弾けるのを、レイはぼんやりと聞いていた。耳の奥で緩やかなビートを刻む二つの鼓動の音に身を任せていると何だか心地好くて、躯中が温かなものに包まれてふわふわする。なんだか頭がぼうっとする……。
「……レイ?」
くたり、とレイの躯から力が抜けたことに気付いて、ユカは慌てた。見ると顔が真っ赤で、声をかけても返事がない。完全にのぼせてしまったようだ。普段シャワーしか浴びていないということもあって、温泉初体験のレイには長湯はちょっとだけハードだったようだ。ユカもその辺を失念していたので、いきなりレイが気を失ったので慌ててしまう。
「ちょっ……レイ!? ねぇ、大丈夫?」
全身真っ赤になっているレイの躯を取敢えず湯船から引っ張り上げたユカは、脱衣所までの長い距離を見やって軽く息を吐いてから、腕を肩に回して躯を支え上げると、ゆっくりと歩き始めた。お互い重いプラグスーツを着ていない分、ヤシマ作戦の時よりは楽だったが、それでも脱衣所に辿り着いた頃には、ぐったりと疲れてしまっていた。
「迂闊だった〜……まさかのぼせるなんてなぁ……」
一緒についてきて良かった、と思いながら、ユカは全身汗だくで息を吐いた。これではいったい何のためにお風呂に入ったのか解らない。
とにかくレイの躯を拭き、下着と浴衣を着せ掛けてから、マッサージチェアに座らせて洗い場に戻ると、ユカはシャワーで汗を軽く流した。それから再び脱衣所に戻って着替え、部屋までトウジを呼びにいく。
これでトウジが寝てたらアウトだ〜、と思いながら扉をあけると、トウジはアダルト番組を流しているTVのモニターにかぶりついていた。
……かぶりついて何をしていたかは、取敢えず伏せておこう。ささやかなる彼の名誉のために。
凍りついた室内に、AV女優の喘ぎ声が虚しく響いていた。
「ト・ウ・ジ?」
「………………ハイ」
ぎぎぎ、と首を軋ませて振り返るトウジに、ユカはこの上なく優しそうな笑顔を浮かべて見せた。が、こめかみにはこっそり青筋が浮いていたりなんかする。
「イヤ、あの、これはやな……」
「それについては、言いたいことはたっっっっくさんっっ! あるけどっ!」
そこまで言って、ユカはトウジの手を掴んで歩き出した。訳が解らないまま、広げっ放しになっていた浴衣の前を片手で直しつつ、トウジが後に続く。
「なんや、どないしてん。綾波は?」
「なんかね、のぼせちゃったみたい。で、一人じゃ運べないからトウジを呼びに行ったのに、ナニやってんだよばかぁ〜」
「し、しゃあないやろ、若いねんから」
「トウジのスケベ。女の子なら誰でもいいんだっ」
「んなワケないやろ。ただ、ちょっとやな、あのままではおさまりがつかんかったっちゅうか、その……すまん」
セックスとオナニーは違うのだと言おうとして、トウジは頭を下げた。こんな誰が聞いてるか解らない廊下でしたい会話ではない。とにかくこの恥ずかしい話を早く終わらせたくて謝るトウジを、ユカはぎろんと睨め付ける。
「……いいよ、もう。でも、もうしないで。他の女の人でトウジが気持ちよくなっちゃうのって、なんかやだ。すっごく、嫌」
そう言いながら、ユカは彼の手を引いてずんずん歩いていく。彼女の後をついて歩きながら、トウジは真っ赤になったユカのうなじを見つめた。濡れ髪の間に覗く耳までが赤く染まっている。彼女が嫉妬しているのだと気付いて、トウジは嬉しかった。繋いだ手に力を込めると、ハッとしたようにユカの歩みがゆっくりになった。
「……ごめんな」
囁くような声でそう言うと、ユカは真っ赤な顔で俯いたまま、こくんと頷いた。そんな彼女が、トウジは無性にいとおしかった。
急いでいた筈の脱衣所への歩みが、微妙にゆっくりになった。
マッサージチェアに座ったまま眠っているレイを、トウジはおんぶして部屋まで戻った。
その道中、背中にその控えめな膨らみが当たったりしたが、不思議と変な気分にはならなかった。むしろ、隣で心配そうにレイの顔を覗き込んでいるユカの方が気になった。
部屋に運んでも、レイは目を覚まさなかった。どうやら完全に眠っているらしく、微かな寝息を立てている。顔からはもう赤みが引いていた。レイを布団に寝かせて、その髪をそっと撫でていたユカと、傍らに座っていたトウジはそっと視線を絡めた。
「レイ、寝ちゃったね」
「そ、そやな……」
何かを求めるようなユカの視線に、トウジは思わず目を逸らす。頬を赤黒く染めながら、窓の外に目をやった。銀光に照らされた庭から、虫の声が聞こえてくる。
「わたしたちも、もう寝よっか」
「え……」
ユカのその言葉に思わず頷きかけて、トウジは気付いた。ユカが何故か頬を染めて俯き加減にしていることと、その視線の先には、たった一つの布団しかないことに。
もともと二人部屋だからか、レイの分の浴衣は用意してくれても、布団までは用意してくれなかったらしい。もうひとつの布団は既にレイが占領してしまっている。そして、ユカの視線の意味は、トウジにも明瞭りと解った。
「一緒で、いいよね……」
「えええ、や……、そ、それは……」
上目遣いに自分を見つめながら呟くように言うユカに、トウジは耳まで赤くなった。この状況でなければ喜んでそうするが、今はちょっと精神的に危険だった。ただでさえお預けを食っているのに、この上ユカとひとつの布団で寝るなど、出来るわけがない。布団の中で密着されたら、自分を抑えていられる自信はなかった。
「それは、まずいやろ……」
「どうして?」
鼻の頭を掻きながら目を逸らして言うトウジを、ユカは悲しげに見つめた。それを目の端に認めて、トウジは慌てて言葉を継ぎ足す。
「一緒に寝たら、その……ワシ、我慢でけんかも知れへんで」
「いいよ、我慢しなくても……」
「せやかて、その……綾波がおるやないか」
言って、チラリとレイの寝顔に目をやるトウジに、ユカは頬をうっすらと桜色に染めながら含羞むように笑った。
「いいよ……トウジになら、何されたって……」
「あ、あかんて。やっとる最中に綾波が目ェ覚ましたら、どないすんねん。あかん。それはあかん。子供に見せるもんやない」
腕組みをして首を振るトウジを見て、ユカは小さく溜息を吐いた。レイに見られるのは恥ずかしいけど、別に悪いことをしてるわけじゃないんだから、とは思うのだが、彼のことだから多分そう言うのではないかと思っていた。
確かに、トウジの言うことにも一理ある。レイの一般常識に関する知識の欠如振りから考えれば、性行為というものを頭では理解していても、それがどういうものなのかは解っていない可能性が高い。実際にユカとトウジが同衾しているところをレイが見たら、どんな反応を示すか解らない。
今のレイの状態では、無用なショックを与えるのは避けるべきだろう。本来、レイに好きな人が出来たときに教えてやればいいことなのだ。ミサトが自分にしてくれたように。……まあ、彼女の場合、多少やりすぎだったんじゃないかとは思うけれど。
(レイのこと、ミサトさんに任せてみた方がいいのかなぁ)
物騒なことを考えながら、ユカは小さく頷いた。
「じゃ、トウジはそっちね。わたし、レイと一緒に寝るから」
「そ、そやな。それがええわ、うん」
自分で言っておきながら、何故かがっかりしたような顔をするトウジを見やってくすっと微笑いながら、ユカは寝息を立てているレイの隣に潜り込んだ。
「トウジ、電気消して」
「おう」
胡座をかいてぼんやりとユカの方を眺めていたトウジは、彼女のその言葉に立ち上がると、灯りを消した。網戸になっている窓からは、涼しい山風とともに明るい月光も入ってくる。
布団からちょこんと顔を覗かせながらトウジを見ていたユカは、彼が布団に潜り込もうと身を屈めた時、手を伸ばしてくいくいっと浴衣の裾を引っ張った。
「ん……なんや?」
振り返ったトウジは、ユカがそっと目を閉じてキスを待っているのに気付いて、首筋まで真っ赤になった。
「お、おおお、おまえなぁ……」
「はやくっ☆」
桜色のふっくらした唇が誘うように動くのを見ていると、頭の芯がジーンと痺れてくる。ごくりと生唾を飲み込んでから、トウジはことさらに気を静め、そっと唇を触れさせた。柔らかな感触に理性が飛びそうになるのを抑えて、すっと離れる。
「……む〜〜……」
そんな軽いキスに、ユカは目を開けて不満そうに彼を睨んだが、構わずにさっさと布団の中に潜り込む。そんな彼の態度に、背後で溜息が聞こえた。
「おやすみのキスぐらい、ちゃんとしてくれてもいいのに」
ぼそっと呟くユカを無視して、トウジはごろんと二人に背を向けた。目を閉じて雑念を振り払い、何とかして眠ってしまおうとする。そうでもしなければ、二人の美少女の寝息を聞きながら、一晩中悶々として過ごさなければならなくなるのだ。
「トウジ」
そんな彼の背中越しに、ユカの声が聞こえた。
「おやすみなさい」
「……お、おやすみ」
ユカの声に張り詰めていた気がふっと抜けたのを感じて、トウジは小さく息を吐くと、虫の声を聞きながらもう一度目を閉じた。やはり疲れていたのだろう、そのまま彼は眠りの淵へと引きずり込まれていった。
それから、どれぐらいの時間が経っただろう。
薄闇の中でユカはぱちりと目を開けた。耳許からは、レイの規則的な寝息が聞こえてくる。そして、少し離れたところからトウジのいびきが聞こえてきた。
それを確認して、ユカは移動を開始した。布団の中でモゾモゾと躯を動かし、お隣の領土に侵攻する。眠っているトウジを起こさないよう気を使いながら、ユカはそっと布団の中に潜り込んだ。微かな汗の匂いが鼻腔をくすぐる。
「えへへ……トウジのにおいだぁ……」
へにゃ〜っと頬を緩ませながら、ユカはトウジにそっと抱きついた。胸元に頭を預けるようにしてくっつくと、寝ぼけたのか無意識の動きか、ごろんと寝返りを打ったトウジが、彼女の躯をぐっと引き寄せた。その力強さにドキドキする。起きている時には、こんな強引さはあまり見せてくれない。
(きゃ〜〜〜っ☆)
まるで抱き枕のように抱きかかえられた格好で、ユカは耳まで真っ赤に染めながらも、満面の笑みを浮かべる。このままもっとくっついちゃえ、とさらに抱きついた。
体がくっついて汗ばむ感じとか、布団の中にこもった熱気とか、躯にかかる重みとかも、今のユカには心地好い。ちょっと暑いけれど、そんなものはこの倖せな気分の前には霞んでしまう。にへら〜と笑いながら、ユカは目を閉じた。
そのまま、ユカの意識は倖せな眠りの中に沈んでいった。
室内に射し込んできた一筋の陽光が、白い顔を照らした。
眩しさで目を覚ましたレイは、ぼんやりと目を開けた。真っ先に飛び込んできたのは、古びた木の天井だ。見知らぬ天井。
自分の部屋ではない、と解った瞬間に、レイの頭は明瞭りと目覚めた。
布団を跳ね上げて上体を起こし、寝乱れてぼさぼさの髪をそのままに、辺りを見回す。と、その耳朶を叩いたのは「くー」という仔犬の鳴き声のような可愛い寝息だった。
朝の光の中で、その黒髪の少女は世界で一番安心できる場所にいた。
大好きな人の腕の中に包まれて幸せそうに眠る少女と、まるでそうしていないと彼女が何処かに行ってしまうとでもいうかのようにぎゅっと彼女を抱き締めながら、ちょっぴり寝苦しそうに眉を寄せて眠っている少年。
ひとつの布団の中で、二人はまるでひとつの生き物のように同じ吐息を重ねていた。それを見つめるレイの瞳に、一瞬影が過ぎる。微かに眉根が寄せられた。
むかっ。
(……むか?)
自分の心の動きを理解できぬまま、レイはそっと手を伸ばした。さらさらの黒髪が指の下を滑る。昨夜ユカがしてくれたようにそっと頭を撫でていると、不思議と心が和んだ。
「んぅ〜……」
くすぐったそうに鼻の頭に皺を寄せて身をよじるユカの様子を見つめながら、レイは口許にうっすらと笑みを浮かべた。それはとても優しく、美しい笑顔だったのだが、それを見たものはこの場には存在しなかった。無論、本人もそれには気付いていない。
ふと好奇心に駆られて、レイは白い指先をユカの頬に伸ばした。指先に伝わるぷにぷにした柔らかな感触。つんとつつくと、ふに、と指先が沈み込み、ふよん、と弾力をもって押し返してくる。そして、ユカはトウジの腕の中で可愛らしく身をよじるのだった。
(……ぷにぷに)
本人はまるで気付いていないが、ユカの柔らかい頬っぺたを指先でつつくレイの顔は、この上なく楽しそうだった。
「んぅ〜……にゃっ」
何度も頬っぺたをつつかれて、むずかるような声を洩らしたユカは、ごろんと寝返りを打ってトウジの胸元に顔を埋めた。いつもは寝起きのいい彼女だが、さすがに昨夜は疲れたのか、それとも単に時間が早すぎるだけなのか、いっかな目を覚まそうとはしない。まるで日向の猫のように丸くなっている。
(……)
そんなユカの姿を見ていたレイの胸に言い知れぬ情動が湧き起こったが、それが何なのかとか、どうしたらいいかというのは、レイにはまだ解らない。胸の中でモヤモヤと蠢くものを持て余して、レイはちょっと眉をひそめた。
ただ、無性にユカを抱き締めたくなって、レイはそれを実行に移した。トウジに抱きついているユカの隣に潜り込み、そっと抱きついたのである。
(……あたたかい)
どちらかというと暑苦しいくらいなのだが、レイは二人に挟まれてじっとりと汗ばんでいるユカのうなじに鼻先を埋めた。
鼻先をくすぐるミルクっぽいような、何処か花の香りにも似た甘ったるい体臭と、布越しに伝わる躯の温もりと柔らかさに、レイは喩えようのない安心感を覚えている自分を自覚しながら、目を閉じる。ややあって、レイは再び寝息を立て始めた。
「う〜〜〜……」
寝苦しそうに呻いて、ユカは真っ赤な顔でハァハァと息を吐きながら目を開けた。何だかよく解らないが、やたらと暑い。まわりはもう明るかった。
最初に目に飛び込んできたのはトウジの腕だった。ちょっと上に目を向けると、何の悩みもなさそうなトウジの寝顔が見える。そこで、トウジにぎゅっと抱き締められるような体勢で眠りに就いたことを思い出して頬を染めたユカは、はたと首を傾げた。
年中夏なのだから、陽が昇れば暑いのは当たり前で、くっついて寝たら余計に暑いのも当然ではある。が、この暑さは尋常ではない。だりだりと汗が首筋を伝っている。
「……ふにゃ?」
背中に柔らかいものが当たる感触に、ユカは暑さと眠気でぼんやりとした目を動かした。視界の隅を青みがかった銀色の光が過ぎる。
「…………なんだこれ」
トウジに抱きついている分には、まあいい。が、背中からレイに抱き締められているのは一体どうしたわけだ。
まあ、それ自体は別に嫌ではないのだが、それにしても……
「あつぅいいいいいい……」
取敢えず藻掻いてみるが、前からはトウジにぎゅっと抱き寄せられているし、背後からはレイがべったり張り付いていて身動きが取れない。真っ赤な顔で汗だくになりながら、ユカはぼんやりと意識が遠のいていくのを感じた。
(三人でくっついて寝るのは……ちょっち危険、かも……)
最後にユカの頭に浮かんだのは、そんな思考だった。
つづく
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あとがき
なんか全っ然進まない(泣)。
こんなペースでちんたら書いてたらいつまで経っても終わらんぞ、まぢで。
うああああ、どおしよお。