彼女事情
K A R E × K A N O

Written by:きたずみ

#15
 ポツンと浮かんだ雲の白さを際立たせるかの如く、空は何処までも青く、突き抜けるように晴れ渡っていた。
 視界の彼方には、天を衝くほど巨大な積乱雲が悠然と聳え立っている。そして空の真ん中に鎮座しているのは、ぎらつく無慈悲な太陽だった。
 ぢーわぢわぢわぢわ。
 ぢーぢーぢー。
 うだるような陽射しに、アスファルトすらもがとろけてぐにゃりと歪む。そんな殺人的な陽射しにもめげずに元気なのは、ただひたすらに喧しく鳴いている蝉たちぐらいのものだった。まあ、ヤケクソで鳴き喚いているように聞こえないこともないが。
「っだぁぁぁっ! じゃかぁしぃっ!」
 っぢぢぢぢぢぢ……
 いい加減耐えかねて怒声を上げたトウジに驚いたのかどうか、慌てて電柱から飛び去った蝉をぼんやりと目で追いながら、ユカは倖せそうにはにゃ〜んと緩んだ表情でかき氷を口に運んだ。
「はぁ〜……やっぱ暑い時はこれだよねぇ〜……」
 練乳のたっぷりかかった小豆を抹茶色の氷と混ぜてスプーンにのせ、倖せいっぱいの顔で口に運ぶ。きーんとこめかみを走る衝撃すら愉しそうに味わうユカをボーっと見つめながら、レイは真似をしてスプーンを口に運んだ。
「……う」
 スプーンを咥えたまま情けない顔でこめかみを押さえるレイを見て、ユカがにははと笑った。それを横目で見やりながら、トウジは残り少ないレモン氷をがしゃがしゃとスプーンでかき回した。そんな彼に、ユカがちらりと瞳を向ける。
 簾越しに射し込んだ陽射しが、微妙な陰影をその頬に落とす。生成りのTシャツとジーンズというシンプルな格好の所為か、浅黒く日に灼けた肌と、しっかりした躯つきが一層映える。
 ユカが見ていることに、彼はまるで気付かない。
 彼はきっと知らない。時々、こうやって彼女が自分を見つめていることを。その横顔に男らしさを感じて、ユカがひとりドキドキしていることを。
 優しい光を湛えたその黒い瞳が好き。耳許で重く響く低い声も、髪をそっと撫でる大きな掌も、少し乾いた唇も、全てがいとおしい。息苦しいぐらいに力強く、それでいて壊れ物を扱うようにそっと抱き締めてくれるその腕に包まれていると、ホッとする。どうしようもないぐらいに自分は彼が好きなのだと気付くのは、こんな時だ。
 ちょっとだらしないところとか、細かいことにいちいちこだわらない大雑把なところも、つい格好いいとか思ってしまう。クラスの娘たちには「それは変。すっごく変」とかツッコまれるが、ユカは気にしない。
 恋は盲目、とはよくいったものだ。
(……こっちむかないかな)
 スプーンを咥えたままぼーっと彼の横顔を見つめながら、ユカはそんな思いをそっと視線に込めた。
 トウジが不意に振り返ったのは、ちょうどその瞬間だった。
 そうなればいいなとは思ったが、自分でもまさか振り向くとは思っていなかったから、トウジがくるりと首を巡らせた時、妙に狼狽えてしまって、ユカは思わず顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「どないする? これから」
 そんな彼女の反応には気付かなかったのか、のんびりした声音でトウジは訊いた。
「えっ? ……あ、う、うん。そだね、どーしよっか」
 濡れたような黒髪を纏わせた白い首筋まで真っ赤にしながら、ユカは上目遣いにそっとトウジを見つめ返した。
「ホンマ言うたら、家帰って寝たいとこやねんけどな」
 そんな彼女の様子に気付いたのかどうか、トウジは一瞬怪訝そうな表情を浮かべながら、優しい笑みをはらんだ瞳で彼女を見つめた。その瞬間、ユカはぼんっ! と目に見えて解るくらいに真っ赤になった。
(……なんやろなぁ)
 相変わらず、ユカの反応はトウジにはよく解らない。そもそも女の子の心理など理解できる筈もない彼にとって、ユカの考えていることというのはほとんど謎に近かった。
 大体、自分みたいな男を好きになるという時点でよく解らないのだが、時々自分を見つめているようなことがあって、目があうと今のように真っ赤になって俯いたりする。そんな時、彼は無性に彼女を抱き締めたくなってしまうのだった。つまりはそれぐらいユカが可愛くて仕方がないのだが、家で二人きりの時ならまだしも、隣にレイがいるようなこの状況では、さすがにそんな真似は出来ない。
 仮にも硬派の看板を背負っていたわけで、いくら可愛い彼女が出来たからといって、そんな軟派な真似は彼の美意識が許さない。――というか、美意識云々以前に恥ずかしくて出来るわけがない。最初の頃は、手をつなぐことにすらかなり抵抗があったのだ。
「あ、あのさ。お買い物にいくっての、駄目かな?」
「――買い物?」
「うん」
 サクサクと音を立てて氷の山を崩しながら、ユカはさらさらの黒髪を揺らして頷いた。火照りが消えて白さを取り戻したその首筋に、自分がつけた薄紫色の痕が未だ消えずに残っているのを見つけて、トウジは浅黒い頬を微かに紅潮させた。
 考えてみれば、一緒に寝て何もしなかったのは初めてだ。まあ、正確に言えば出来なかったのだが。何しろ、レイが一緒に寝ていたのだから。
(なんせ、川の字どころやあれへんかったからなぁ……)
 今朝の惨状を思い出して、トウジは薄く笑った。
 なんだか妙に暑いと思って目覚めると、ひとつの布団に三人が包まっていて、二人に挟まれたユカはすっかりのぼせてしまっていたのである。おかげで朝から結構慌しくて、のんびり朝食をとる暇もなかった。
 いつもなら、日曜は昼過ぎまで惰眠を貪り、軽い食事をとった後、ケンスケと遊びにいくというのがトウジの生活パターンである。ユカと付き合いだしてからも、それはあまり変わっていない。考えてみれば、日曜にユカと過ごした覚えはなかった。学校では大抵一緒にいたから気付かなかったが……。
「買い物て、なに買うねん?」
 幸いというべきか――ユカは複雑そうな表情をしていたが――、ゲンドウが宿の支払いを済ませていってくれたお陰で、懐にはまだ余裕がある。そんなに高くないものならねだられても大丈夫かと思いながら、トウジは訊いた。
「ひっどぉい、もう忘れてるぅ」
 半分以上溶けてしまった氷をがーっと口に流し込みながら言ったトウジに、ユカは不満たらたらといった様子で可愛く頬を膨らませた。
「? なんや約束しとったか?」
「一緒にお洋服買いに行こうねって言ったっ」
「あ? せやったか?」
 可愛らしく自分を睨みつけているユカを見返しながら、トウジはスプーンを咥えて宙を睨んだ。首をひねりながら、朧気な記憶を手繰ってみる。
 そういえばそんなことを言われた気もする。
「……ああ、そういやそんなこと言うとったな」
 そもそもファッション感覚の欠如著しい彼は、衣服というものに機能性以外の価値を求めない傾向にある。だからこそジャージを愛用してきたのであって、彼の数少ない私服の大半は、それを見かねたユキノが買ってきたものだった。たまに自分で買ったりすると大失敗するのが常なのである。
「ワシは今のまんまでええねんけど……」
 さすがに遊園地デートにジャージはあんまりかとは思うが、正直、出かけるためにあれこれ服を選ばねばならないなどうんざりする。つくづくファッションセンスがないのが自分でもよく解っているだけに、なおさら苦痛だった。
「うん、そうだよね」
 そんな彼の気分を察したのか、ユカは意外にあっさりと頷いた。それから、視線を傍らで黙々とスプーンを口に運んでいるレイに向ける。
「トウジはまあ、それでもいいんだけどさ。でも、レイはちょっとあんまりだと思うんだ」
 その言葉に、トウジは思わずなるほどと頷いた。他人のことは言えないことを棚に上げて、休みの日でも制服を着ているとは変わった趣味だと思ったが、どうやら制服以外に服らしい服を持っていないためらしい。
「それに、久し振りのお休みだし……もーちょっと遊びたいなぁ」
「せ、せやな……」
 もう少しトウジと一緒にいたいのだという本音を言外に匂わせて、ユカは上目遣いにトウジを見やった。潤んだようなその瞳に、トウジは弱い。
 身長と胸の大きさはともかくとして、ユカは極めて平均的な女子中学生である。とりたてて学力や運動能力に秀でているわけでもなければ、普通の女の子に比べて格段に反射神経がいいわけでもない。これまで専門的な訓練を一切受けていない彼女がEVAに乗って戦うためには――そして彼女が生き延びるためには、学ばねばならないこと、身につけなければならないことは山ほどあった。
 その上、EVAそのものがまだまだ仮運用の段階である。現時点で稼動する機体は僅か三体、うち一体は未だにドイツ支部が移譲を渋っている。おまけにEVAを起動できる適格者の絶対数が少ないものだから、運用データの蓄積が根本的に足りていないのが現状だった。
 そんなわけで、たとえ使徒が来なくても、彼女たちは定期的にNERV本部に顔を出すことになっている。休日は大抵、NERVで講習や訓練、テストなどで潰れてしまう。完全なオフというのは貴重なのである――とりわけ、トウジといつも一緒にいたいユカにとっては。
 トウジがこれまでユカとまともにデートしたことがなかったのは、彼にも少なからず責任はあるが、最大の理由は二人の休みがあわないという点にあった。
 まあそういうわけで、トウジにしてみれば余計なおまけがついてきてはいるものの、初めて二人一緒に過ごす日曜日である。その所為か、旅館を出てからのユカはいつになくはしゃいでいた。うだるような暑さなどまるで気にしていない。すっかり観光気分で駅までの田舎道を歩きながら、へんぽんと翻る『氷』の暖簾を見つけて、真っ先にこの茶店に二人を引きずり込んだのも彼女だった。
「ね、レイもまだいいよね?」
 満面の笑みを浮かべたままのユカに期待のこもった瞳を向けられて、黙々とスプーンを口に運びながら、レイは小さくこくんと頷いた。
「ほら、いいって。ねー、いーでしょ、トウジ」
「……しゃあないやっちゃなぁ」
 そう言いながらも、嬉しそうなユカの笑顔を見るとどうしても口許が緩んでしまうのをどうすることも出来ずに、トウジは舌を真っ黄色に染めた合成着色料を温くなった番茶で洗い流した。口直しの塩昆布をつまんで口に運びながら、頬杖をついて傍らを見やる。
 時折眉をひそめながらも、いつもの無表情で淡々とスプーンを口に運ぶレイに、同じように口とスプーンを動かしながら、ユカはレイにあれこれと話し掛け、明るい笑顔と笑声を弾けさせていた。彼女の笑顔につられて、レイが微かに目元や口許を緩ませる。
 そんな二人を、トウジは頬杖をついたままぼんやりと眺めていた。我知らず口許には笑みが浮かび、瞳には優しい光が宿っている。
 いつものユカは、楽しそうにしていても何処かに翳があるように感じていた。しかし今は、それがない。肩から力がスッと抜けて、年齢相応の無邪気な笑顔を見せている。それがトウジは嬉しかった。彼女のこんな笑顔を見られるのなら、どんなことでもしてやりたいと思う。
 だが一方で、その笑顔があるのは、ユカの隣に彼女がいるからなのだと思うと、いささか複雑な気分になる。自分では、ユカにあんな表情はさせてやれなかった。
 ユカと、レイ。この二人の間には、自分には到底割り込むことの出来ない、絆のようなものを感じる。
 決して何者をも受け入れようとしなかったレイの心が、ユカには反応する。そして、トウジといても消すことの出来なかったユカの心の翳りが、レイといることで消えていく。
 そこには余人にははかり知れない繋がりがあるように思う。それが何かは解らないが、きっと、二人はこうして出逢うためにこれまで生きてきたのだという気がする。
 これまでの時はただ、こうして二人が出逢うために。トウジの未だ知らぬユカの過去も、そしてあれほどまでに頑なに心を閉ざすに至ったレイのこれまでも、こうして二人が出逢い、ともに手を携えて生きていくことに意味があったのだとしたら……
 もしそうなら、自分はもう要らないのかもしれない、とトウジはふと思った。そして、自分でもそんなことを思ってしまったことに驚きを覚えた。自分がユカからもう要らないと言われることなど考えたこともなかったし、考えたくもない。
 無論、ユカがそんなことを言う筈がないとは思う。だが、未来の保証など誰にも出来ないのだ。たとえユカからそう言われたとしても、自分は彼女から離れるつもりなど毛頭ないが、一度心に生じた『捨てられるかもしれない』という恐怖は、心の隙間に染み込んで、容易に拭い去ることが出来ない。
 その恐怖に触発され、どす黒い独占欲が心の奥底から不意に湧き起こってくる。どんよりと重苦しく澱むものを胸の奥に感じ、トウジは軽く頭を振った。
 嫉妬に駆られ、レイすら憎みかねない自分がいることなど、今まで知りもしなかった。こんな醜い自分は、知られたくない。
 レイといることでユカが心の安寧を得るのなら、それでいいと思う。また、ユカといることでレイが変わってゆくのなら、それは喜ばしいことだ、とトウジは自分にそう言い聞かせた。そうでもしないと、本当にレイを憎んでしまいそうだったから。
 今はまだ、レイの微笑みを向けられるのはユカだけだ。だが、このままユカと付き合うことで彼女の世界が少しずつ広がっていけば、いずれは彼女にも友達が出来るだろう。そのための支えにユカがなろうとしているのなら、その手助けをしてやりたい。嫉妬や独占欲に駆られているよりは、ずっといい。彼女の倖せを考えないような狭量な男にはなりたくなかった。
 最初は、少女の明るく無邪気な笑顔に惹かれた。
 だが、その瞳を時折過ぎる翳りに気付いた時、彼は彼女のことをもっと知りたいと思った。
 そして、いつか彼女が心から笑ったところを見たいと願うようになった。それを向けられるような男になりたい、と。その願いは、いつか叶うのだろうか。
「……ほな、今日は思い切り遊ぼか」
 普段遊べない分、せめて今日だけでも何も考えずにパーッと遊びたいというユカの気持ちが解ったから、トウジは微笑みながら言った。
「ほんと?」
「おお、トコトン付き合うたるわい」
「やたっ!」
 嬉しそうに笑って、ユカは目の前のかき氷との格闘を再開した。

 第3新東京市は、使徒迎撃戦用の要塞都市である。
 そのため、都市の基本構造からして他の大都市とは一線を画している。この街の全ては、使徒と戦うことを第一義として設計されている。大型店やショッピングセンター、病院などの施設の大半は、市の中心部からややはずれた所にあった。
 といっても、それは単に地図上の中心ではないという意味であって、そこが人の流れの中心地であることに変わりはない。休日ということも手伝って、メインストリートは家族連れやカップルで賑わっていた。
 その人混みを縫うようにして、彼女たちは歩いていく。
 純白のワンピースを着た黒髪の少女と、蒼銀の髪と真紅の瞳を持つ制服姿の少女が、まるでじゃれあう仔犬のように仲良く手を繋いでそぞろ歩く姿は、自然と衆目を集めた。
 くるくるとよく変わる表情、ふわりと舞う黒髪、ほっそりした剥き出しの肩、歩くたびに大きく弾む豊かな胸。ただでさえ人目を惹くユカだが、まるで対照的なレイが隣にいることで彼女の可愛さが一層引き立ち、一方でレイもユカが隣にいることで、ある種近寄り難い神秘的なそのイメージをより際立たせていた。
 初めて見る人混みに困惑しているレイの手をとって歩きながら、ユカは時折、後ろを歩くトウジを振り返って弾けるような笑みを向ける。そのたびに周囲からやっかみ混じりの視線が向けられるのを感じながら、トウジは口許にうっすらと笑みを浮かべた。
 何であんな奴が、と思われるのは当然だ。これだけの人間がいても、あの二人の姿を見失うことはない。彼女たちは特別だ。何処にいても一目で解るぐらい、際立った存在感を放っている。自分とではまるで釣り合いが取れていないのも解る。だが、だからといって、この位置を誰かに譲ってやる気はない。
 そう思っていたら、高校生ぐらいだろうか、二人連れの少年が器用に人混みを擦り抜けながら近寄ってきた。ニット帽をかぶった金髪ピアスと、バンダナを巻いた今時ロンゲの少年である。顔立ちはそこそこ見れる程度に整っていたが、対照的に中身は一目でスカスカと見て取れるぐらい、いかにも軽薄そうな印象を受ける。二人はやや離れて歩いていたトウジを無視して、早速声をかけてきた。
「うっわ、マジかわいいじゃん。ね、君たちさぁ、今ヒマ?」
「どっか遊びにいこうよ。いいとこ知ってるんだー」
 言いながら、二人は見事な連携プレイでさりげなくユカとレイを通路の端、水着姿のマネキンが立ち並ぶショーウィンドーの前まで追い詰めていく。
(……あーもぉ、めんどくさいなぁ)
 無表情に男たちを観察しているレイをかばうようにしながら、ユカはそっと溜息を吐いた。ここしばらくナンパされることが減っていると思ったが、それは単に外を出歩かなくなっていたからで、第3新東京市に来る前は、友人と街を出歩くたびに声をかけられて随分と鬱陶しい思いをしたものだ。
 いちいち相手にするのも面倒くさいし、下手についていったら何されるか解らないので、ついていったことは一度もない。基本的に、ユカは軽薄な男が嫌いなのだ。
「こーいう人たちは相手にしなくていーからね」
 珍しい動物を見るような瞳で二人のナンパ男を観察していたレイにそう言って、ユカはレイの手を引いて歩き出そうとした。が、その行く手を金髪ピアスが素早く塞ぐ。
「そんなこと言わないでさ。行こうよ」
 にこやかな笑いを口許に貼り付けながら、二人がにじり寄ってくる。いい加減鬱陶しいと思いながら、ユカはあたりを見回した。その顔がぱっと明るくなると同時に、馴れ馴れしく肩に手をかけてユカに話しかけていたロンゲが、後ろからぐっと肩を掴まれる。何事かと振り向いたロンゲの肩を掴んだ手にぐっと力を込めながら、トウジはにいっと歯を剥き出しにして笑った。
「すまんな。そいつら、ワシのツレやねん」
 そう言いながらも、手の力はまったく緩めず、顔は笑っていても瞳はまるで笑っていない。今にも噛み付きそうなトウジの雰囲気に圧倒されたのか、文句を言いかけた男たちは、小声でぼそぼそと悪態をつきながらすごすごと退散した。
 その後ろ姿を忌々しげに見送って、トウジは小さく息を吐いた。
「いっつもこんな感じなんか?」
 そう言いながら振り向いて、トウジはユカが瞳をきらきらと輝かせて自分を見つめているのに気付いた。実は、こういう風に男の子に助けてもらうのが彼女の長年の夢だったとは知らない。
「な、なんやねん」
「ん〜ん。なんでもな〜い」
 そう言いながら、ユカは嬉しそうにトウジに抱きついた。
 いきなり抱きつかれて面食らったトウジは耳まで紅くなったが、ユカを振り払おうとはしない。恥ずかしくなって目を逸らした先で、こちらを見ていた紅い双眸とぶつかった。
 紅玉のようなその瞳は、まるで凍てついた湖のように凛と澄み切っていて、如何なる感情も読み取ることは出来ない。だが、彼女はまっすぐにトウジを見つめていた。
「……え?」
 その次の瞬間、レイはユカの空いた腕に自らの腕を絡ませていた。まるでトウジには渡さないとでも言うかのようにまっすぐ彼を見据えながら、呆気にとられているユカの腕をぎゅうっと抱き締める。
(なんやしらんけど、めっちゃムカつくな)
 何故だかよく解らないが、レイのその態度に妙な苛立ちを覚えつつ、トウジは真紅の瞳を見据えたまま、対抗するようにユカの腰をそっと抱き寄せた。
「な、なに?」
 いつになく積極的なトウジにドキドキしながら、ユカはレイとトウジの顔を交互に見やった。トウジがユカの腰をぐっと抱き寄せると、レイも負けじと腕を引っ張る手に力を込める。お互いに対抗意識を剥き出しにしている二人に、ユカは目を丸くした。
(痛いって言って、手を離した方が本当のお母さんかなぁ……)
 どうやら彼女も混乱しているらしく、わけの解らないことを思ったりする。どうやってこの場をおさめようかと一瞬考えてから、ユカはひとつ頷くと、お互いに視線を外さないトウジとレイの手をとって、キュッと握った。
「はい、これでよし」
 右手はトウジの、左手はレイの手をそれぞれしっかりと握り締めて、ユカは自分の両脇でぽかんとした表情をしている二人に笑顔を向けた。これで文句はないだろう、といわんばかりの自信たっぷりな表情に、つい反論する気力も失せる。
「……ほんま敵わんわ、ユカには……」
 苦笑混じりの降参の溜息を洩らして、トウジはちらりとレイを見やった。彼女の方も、何処か気の抜けたような雰囲気を瞳に漂わせながらトウジを見上げる。
 停戦協定のつもりで口許に薄い笑みを浮かべたトウジに、レイもそっと口許を緩めた。

 十五年前のセカンドインパクトによって、この国から季節の移り変わりというものが失われて久しい。だが、所詮口実は存在すればいいわけで、結局なんやかやと理由をつけて客寄せのバーゲンは行われていた。
 色鮮やかな垂れ幕がたなびくフロアは、異様な熱気が立ち込めていた。セールワゴンに黒山の人だかりが群がっているのを見ると主婦の血が騒いだが、取敢えずそれはこの際、強引に押さえ込む。近隣で一番の品揃えを誇るこのデパートにやって来たのはバーゲンのためではなく、レイの服を揃えるためなのだから。
 かなり特殊な体型の所為で着れる服に色々と制約の多いユカは、決して衣装持ちとはいえないのだが、それでも世間一般の女の子並みには持っている。トウジやレイとは比べるべくもない。
 トウジはまだいいとして、レイは制服以外に私服らしいものをほとんど持っていないようだった。彼女が外出するのは大抵、学校に行くかNERVに行くかのどちらかなので、私服の必要性があまりないということらしい。
 だが、そんな理由で納得するユカではない。自分には着れない服が多い所為か、代わりにレイに色々と可愛い服を着せてみたかった、というのが本音かもしれない。
 そういうわけで、ユカはなんだか張り切っていた。
「……なんやワシ、めっちゃ場違いな気ィする……」
 困惑した顔で、トウジは居心地悪そうに呟いた。何しろ周りはおばさんや若い女の子ばかりで、自分はとにかくやたらと浮きまくっている。女の子の可愛い服に囲まれた中で男一人、ポツンと突っ立っているという状況は、硬派を自認する彼にとっては耐えがたいものがあった。
 婦人服売り場などほとんど来たことはない。精々がユキノの荷物持ちに何度か駆り出されたぐらいで、本音を言えばそれも嫌で仕方なかった。
 フロア全体を見回してみると、男性の姿はそれほど少なくないのが解る。結構慣れた感じにしている者もいれば、自分と同じように居心地悪そうにしている者もいる。が、同類がいたからといって、居心地の悪さが解消されるわけでもなければ、恥ずかしいのがなくなるわけでもない。多少の気休めにはなるが。
「さ〜て、まずはこの辺から攻めてみよっかな」
 腕まくりでもしそうな勢いで、ユカは言った。こんな所には来るのも初めてのレイは、何をどうすればいいのかも解らず、まったく手持ち無沙汰といった様子でユカの後をただついて廻っている。だが、それ以上にやることがないのがトウジである。
「なあ、ワシよそ廻っとってええか?」
「ダメだよ?」
 さも当然のようにユカは言った。
「見せる人がいなかったらつまんないでしょ」
「……ワシは観客かい」
「そ。あ、あとでトウジの服も選んであげるからね」
「ワシは――」
「あ、これ可愛い〜。レイ、ちょっと来て。……ん、似合う似合う〜。んじゃこれキープね。はい」
 ワシはええ、と言おうとして、トウジはそのまま口をパクパクさせた。ユカは服選びに夢中で、まるっきり人の話を聞いていない。レイの物静かで自己主張の稀薄な雰囲気に合わせ、あまり派手な色合いでなく、着回しの利きそうなものを上下取り合わせて幾つか選び出していく。
「…………人の話を聞けっちゅうねん」
 ごく自然に渡されてどんどん増えていく服の山を両手で抱えながら、トウジは心の中で滂沱の涙を流すのだった。
 かくして、さながら視えない首輪と引き綱がつけられているかのごとく、レイはユカの後をちょこまかとついて廻り、トウジは単なる荷物持ちと化した。よくあることである。
「ん〜……ま、こんなもんかな。レイ、試着してみて」
 ユカの言葉に頷いて、レイは服を抱えて試着室に入った。無論、ユカもいっしょである。
「うん、やっぱレイって色白いからこーいうの着ると映えるよね〜。でも、下着も全部白じゃ味気ないかぁ……これ、サイズは合ってるの? なんかきつい感じするんだけど」
「……っ、……ぁ……っ」
「ちゃんと計った方が良くない? 今から締め付けるとおっきくなんないよ?」
「あ、……くすぐったい……」
「あれ〜、レイってばもしかして感度いい?」
「……ぁ…っ」
(なにをしとるんや、なにを……)
 かさかさという布擦れの音と、カーテンの向こうで行われている二人の笑み混じりの微かな会話をボーっと聞いているトウジは、全身に視線がざくざくと突き刺さってくるような気がして、ひたすら居心地の悪い思いを味わっていた。この悪夢が早く終わることを祈りながら、トウジはじっと足下を眺めている。
 だが、彼はまだ知らない。この後、真の悪夢が下着コーナーで彼を襲うことになることを。
「ト・ウ・ジ」
 後ろ手にカーテンを閉めながら、ユカがトウジを呼んだ。その声に彼が顔を上げると、彼女は満面に笑みを浮かべながら、笑みを含んだ声で愉しそうに言った。
「びっくりしないでね?」
 何を言うとるんや、という言葉を、トウジは飲み込んだ。ユカが勢い良くカーテンを開き、その向こうから濃緑色のワンピースに身を包んだレイが現れたからだ。
 予想もしなかった美が、そこには在った。
 無個性な制服姿しか見たことがなかった所為か、レイの整った顔立ちにはまるで関心を払ってこなかったトウジだが、さすがに驚きを隠せない。
 可愛いというよりはむしろ、美しいと評するべきだろう。
 こういう服に身を包むと、生来のスタイルの良さと怜悧な美貌が際立って、普段ならとっつきにくく感じさせる無表情なところさえ格好よく映るから不思議である。
「……なんちゅうか……馬子にも衣装やな」
 たかが服ひとつでこうも印象が変わってしまうものなのかと今更ながらに驚いたトウジは、半ば呆然とレイを見つめたまま、溜息混じりにそう呟いた。
「びっくりしたわ。えらい雰囲気変わってもたやないか。ケンスケがおったら大変やで」
「そうだね」
 トウジの言葉にふふっと小さく微笑って、ユカは鏡の中の己の姿を無言で見つめているレイに歩み寄った。
「どう? 気に入ってくれた?」
 その声に首を巡らせてユカを見たレイは、視線を鏡に戻しながらこくんと頷いた。これまで自分の格好など気にしたことのなかった彼女だが、実際に制服やプラグスーツ以外の服を身に纏う楽しさを覚えた今では、奇妙に気分が弾むのを抑えられない。表情にはこれといって目立った変化はないのだが、目元が微かに赤らんでいる。
「よく似合うよ、レイ」
 レイの肩に手をかけて鏡を覗き込んだユカは、手櫛でそっと髪を撫でつけて、満足げな笑みを浮かべた。値段もお手頃だったのでさらにご機嫌だ。
「んじゃ、次いってみよお」

「ほんで? 次は一体何なんやぁ……?」
 げんなりした顔でのったりのったり歩きながら、トウジは溜息混じりの疲れた声音で訊いた。両手には山のような荷物が抱えられている。
 当座しのぎの分だけだとは言え、かなりの分量である。かといって、女の子に荷物を持たせて手ぶらで歩くわけにもいかないから、文句も言えない。とはいえ、これ以上荷物が増えるような事態は避けたかった。度重なる精神的ダメージもさることながら、肉体的にも結構つらいものがある。
「大丈夫だよ。あとはケーキとお花だけだから」
 そう言って、ユカは微笑いながら一軒の店を指差した。どうやらドイツ菓子の専門店らしい。風に乗って漂ってきた甘ったるい香りが鼻腔をくすぐり、トウジは唐突に猛烈な空腹感を覚えた。時計を見ると、もうじきお昼時である。朝からばたばたしていたので、満足に朝食をとることも出来なかった。しかも荷物持ちをさせられているおかげで、とにかくやたらと腹が空いている。先刻から腹の虫が鳴りっ放しだった。
「なぁ〜、先に飯にせぇへんか?」
「後でね。先に買っちゃいたいから」
「ケーキなんか後でもええやないか。ワシ腹減ったわ」
「後じゃダメなんだってば。いい子だからちょっと待ってて」
 一日に三回焼きあがるアップルパイ。それがその店の目玉商品らしく、ユカは焼き立てを手に入れるタイミングを窺っていたようだ。冷めても美味しいが、焼き立てならばなお美味しい。味にうるさいコーヒー通のリツコのために、いつも茶菓子を用意しているマヤご推薦の店である。並んでもなかなか手に入らない逸品とのことだった。
「あー、重かった」
 レイとトウジを置いてさっさと行列に加わるユカの背中を見送って、トウジは溜息混じりに抱えていた荷物を置いた。首や腰をコキコキ鳴らしながら、吐息を漏らしつつ強張っていた筋肉を伸ばしていく。
「――ちょお待て。花やて?」
 ややあってはたと気付いたトウジは、腰に手をあてた姿勢で軽く首を捻った。ケーキはいいとして、花など何にするのだろう。まさか食うわけではないだろうが。
「……。ま、ええか」
 腹が減っていると脳まで充分に血が行き渡らないのか、どうも考えがまとまらない。諦めて、トウジはその場にしゃがみ込んだ。きゅるきゅる鳴いている空きっ腹を押さえ、ぐるりと首を巡らせる。と、その瞳が傍らの壁に凭れて立っているレイの横顔に吸い寄せられた。
(……確かに、キレイではあるわなぁ)
 諸々の感情を抜きにしてみれば、美しいとしか言いようのない造形である。まるでよく出来た人形のように、その横顔は怖いくらいに整っている。白磁の如き滑らかな肌、朱を刷いたような紅い唇、ともすれば吸い込まれそうな印象を与える真紅の双眸。細い銀糸のような髪はふわりと風にそよぐたびに降り注ぐ陽光を受けて煌めき、光の粒子を辺りに撒き散らす。
 その造形の何もかもが人間離れしているのに、そのことで違和感を覚えない。存在そのものが特別と感じる所為だろうか、それらを素直に受け入れられる。
 だが、それよりも彼の胸を衝くのは、こうして見ると、レイとユカが似ていると改めて感じてしまうことだった。
 何処となく顔立ちが似ているとはいえ、客観的に見ればよく似た他人という程度でしかない。ユカの方が背が低いし、表情の無邪気さの所為か年下に見える。受ける印象などは正反対と言ってもいい。
 なのに何故か双子のように見えてしまうのは、二人が纏う雰囲気が不思議と似通っている所為かも知れない。
 今日半日付き合って解ったことだが、とにかく、この二人は人目を惹く。特に、ぼんやりとユカを見つめているレイの姿などは何処か物憂げにさえ映り、思わずハッとするような雰囲気を湛えていた。カップルの男の方が思わず見惚れたりして、女の方が怒り出してしまうあたりはご愁傷様だ。
(……ケンスケがおったら、絶対大騒ぎしとるな)
 そう思ってそっと口許に笑みを浮かべたトウジは、何となく嫌な感覚を覚えてふと後ろを振り返った。
(…………なんでおるねん)
 カメラを首から下げた眼鏡の少年が、滂沱と涙を流しながらトウジを指差して固まっているのを見つけて、トウジは力ない笑みを口の端に浮かべた。
「う、うらぎりも〜ん」
 そう叫んで走り去る少年の背中を見送って、トウジはそっと溜息を吐いた。
つづく



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  あとがき

 このあたりからでしょうね。ちゃんと本編系を書かなくちゃいかんかなぁ、と思い始めたのは。
 で、これまでその場の勢いと電波にまかせて行き当たりばったりに書いてた所為で色々と問題が発生したりして、その修正やら構成やらに四苦八苦して……
 結局、もうどうにもなんないので、こーなったらなるようになれと諦めた次第です(爆)。
 人間、向きと不向きがあるのよ。

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