カレカノ #16
〜彼と彼女の事情〜
K A R E × K A N O
Written by:きたずみ
#16
鈴原ユキノは、いま倖せの絶頂にあった。
何故なら、彼女の目の前には、お腹一杯食べても到底食べきれないぐらい大量のお菓子が、「さあどうぞ」と言わんばかりに並んでいたからだ。
とにかく食い意地の張った鈴原家の遺伝子がそうさせるのだろうか、彼女も食べ物には目がなかった。殊に甘いもの、とりわけケーキにはトコトン弱く、それが名店と誉れの高い『すずらん』のシュークリームや『シュレーゼ』のアップルパイ、『プシュケー』のチーズケーキといった看板商品ばかりとなればなおさらだ。
「いっただっきま〜すっ!」
この際、スプーンやフォークなんてまどろっこしい。両手に手掴みでケーキを掴んで、ユキノは虫歯のひとつもない健康な白い歯の並んだ口を、あ〜んと思い切り大きく開いた。さあ、今こそ口の中に広がる芳醇で馥郁とした味わいを楽しむ至福の瞬間が訪れるのだと思った瞬間――
彼女の躰は、ふわりと宙を舞っていた。
といっても、人の身で重力の軛から解き放たれたのかと思えたのはごく一瞬で、彼女が寝惚け眼をぱかーっと間抜けに開いた口と同時にぼんやりと開くのと、冷たいリノリウム張りの床が眼前に迫ってくるのを視認したのは、ほとんど同時だった。
……ぼてっ。
淡いクリーム色のパジャマに包まれた躰は、下半身にシーツを巻きつけたまま床にべたりと落下した。そして、視界一杯のお菓子の山も消え去ってしまった。
(なんや、夢かぁ……)
冷たい床に頬を貼り付けて、ユキノは先刻までの倖せは何だったのだろうと思いながら溜息を吐いた。なんだか起き上がるのも億劫なので、そのままころんと躯を捻って天井を見上げる。
味気ない、白く無機質な天井。シミのひとつでもあれば、それが人の顔に見えたり、昔この病院で繰り広げられた忌まわしい惨劇の痕跡ではないか、などと色々想像をたくましくすることも出来ようが、彼女の入院している第1総合病院には、そんな可愛げなんぞこれっぽちもありはしなかった。つまらん。
「……お腹すいたなぁ……」
なまじあんな夢を見てしまったものだから、余計にお腹がすいてくる。なにしろ入院して以来、お腹一杯になるまで食べたという記憶がない。
ころん。ころころ。ぽてっ。
塵ひとつ落ちていない、まるで鏡のように磨きこまれた床の上をごろごろ転がるうちに、パジャマのお腹のあたりがめくれて可愛いおへそが覗いたりしているのだが、ユキノはまるで頓着しない。ぼーっとした顔で天井を眺めている。
とにかく入院生活というのは退屈だ。長年の主婦生活ですっかり早寝早起きが身に染み付いているため、勝手に目が覚めてしまうのはいいが、起きたところですることもない。本もTVももう飽きたし、持ってきてもらったゲームはみんなやり尽くしてしまった。なんといっても、ベッドでじっとしていなければいけない、というのが最悪だ。
もともと、大人しくしているのは彼女の性に合わない。が、だからといって下手にうろうろすると看護婦さんに文句を言われるし、朝ご飯は遅い上に少ないし、おまけに味が薄くてあまり美味しくない。
とはいえ、このところ続いている猛暑に耐えかねて、長年伸ばしてきた髪をばっさり切ってしまった所為か、やたらと頭が軽くなってユキノはご機嫌だった。以前なら、朝起きるとまず髪を何とかしないといけないので、結構大変だったのだ。短いなりの苦労というものもあるにはあるが、長かった頃よりはずっと楽である。
今は、起きてもすることがない。身繕いを手早く済ませ、朝ご飯とお弁当の支度をすることから彼女の一日は始まっていたのだが、入院して以来、朝寝の習慣がついてしまった。朝ゆっくり微睡んでいられるのは嬉しい反面、これでは退院してからが辛いだろうなと思う。
もっとも、いつ退院できるかはまるで解らない。とりあえず、怪我をしていると自分で解るのはギブスで固められた左足と、転んだ時に捻ったのか、少し動きがぎこちない右手首ぐらいだ。
お腹の中や頭の中のことまでは解るはずもないが、入院するほどの怪我ではないような気がする。
とはいえ、家族が心配してくれるのは嬉しいし、日頃の家事から解放されてのんびり出来ると思えば、たまにはいいかと思う。なんとも年寄りくさい小学2年生もあったものだが、彼女にも悩みがないわけではない。なにしろ鈴原家の男どもは、父に息子に孫の三人が揃いも揃って全員家事をまともに出来ないので、内心、家のことが心配だった。
帰った時にどんな苦労が待っているかと思うと、心労のあまり、体力をつけねばと、マズイ病院食もぺろりと召し上がったりしてしまったりする。彼女の場合、どんな悩みがあろうが食べ物が咽喉が通らないなんてことは基本的に有り得ないのだった。
家の事を――というか、退院後の自分の苦労を思い煩って、げっそりと痩せ細っていた(つもりになっていた)ユキノだが、最近はその悩みも解消され、おまけに美味しいものを食べられるというおまけもついた、歓迎すべきことがひとつある。
あの甲斐性なしの兄の何処がいいのか解らないが、とにかくアレがいいという奇特な趣味の少女の到来である。
奇特だろうがなんだろうが、あの兄を引き取ってくれる相手なら誰でも構わなかったのだが、その少女、碇ユカはユキノから見て満点に近かった。とにかく可愛いし、おまけに胸が大きくて性格もいいという、スケベな兄のモロ好みのタイプである。
何より有り難いのは、ユキノがいない間の家の面倒をみてくれていることだった。とにかく、鈴原家の男どもに任せておいたら、ユキノが退院するより先に居住不能になるのは目に見えているのだ。現に、彼女が家に訪れた時、真っ先にしたのは家の片づけだったという。ユキノが入院して一月あまりの間にどれほど散らかっていたのか、想像するだに恐ろしい。
ユカはエヴァとかいうネルフの巨大ロボットのパイロットもしているらしい。使徒とかいう怪獣もどきを相手に戦っているらしいのだが、その初戦の最中にユキノを怪我させてしまったことを、未だに気に病んでいるようだった。こうしてお見舞いに来るのも、半分は自分が怪我をさせてしまったという罪悪感からなのだろう。もう半分は、兄と一緒にいたいからに決まっているが。
(ホンマ、変わった趣味しとるわ)
ユカのらぶらぶぶりには、時々呆れてしまう。トウジが自分から手をつないだだけでメロメロになってしまうあたりが実に可愛くて、自分が男だったら兄には絶対渡さないのにとか思うのだが、まあ、将来兄と結婚したら自分の義姉になるわけだし、それならああいう人の方がいい。それまで兄に愛想をつかされなければの話だが。
あの兄の何処がそんなにいいのか、正直言ってユキノには良く解らないのだが、取敢えず上手くいっているようなので、あとはあのスカポンタンがユカに愛想をつかされるような真似をしでかさないよう、しっかりと釘を刺しておかねばならないだろう――この先、ユキノが青春を謳歌するためにも。
(よっしゃ、がんばろ)
心の中で気合を入れて、ユキノはむくりと上体を起こした。
軽い食事の後、花束を買ってユカが向かった先は第1総合病院だった。
トウジにとっては通い慣れた道である。妹の世話のために毎日顔を出していたし、ユカと付き合い始めてからは、二人で学校帰りに寄っていた。
昨日も本当はデートの後で顔を出すつもりだったのだが、温泉に泊まることになったので、一応連絡は入れておいた。兄の恋を激励してくれるのは嬉しいが、旅館にひと晩泊まっても何もなかったというのはいささか情けない。
まさか風呂でゲンドウに会うとは思わなかったし、レイが来るなど誰も予想だにしていないだろう。本来なら、小学二年のユキノにはとても報告出来ない熱い夜を過ごす筈だったのに、恐らくゲンドウの差し金によるものと思われるレイの介入によって、別な意味でちょっと報告出来ないような暑い夜になってしまった。
もちろん、旅館に泊まることなど一言も言っていないが、何かにつけて察しのいい妹のことだから、二人が既にそういう関係にあることも、もしかしたら気付いているかもしれない。といってもまだ小学生だから、具体的なことは知らない筈だ。……頼むからまだ知らないでいてくれ、と兄としてはちょっと思う。
それはともかく、ユカがユキノのお見舞いに行くつもりだったとは思わなかったトウジは、驚いて傍らの彼女を振り返った。そんな彼に、ちょっと含羞むような笑みを浮かべて顔を伏せるユカを、トウジは苦い思いを胸に抱きながら見つめた。
彼女が妹のことをちゃんと考えていてくれるのが解って嬉しい反面、まだユキノを怪我させたことを気に病んでいるのかと思うと、やりきれない。
あの時、怒りに任せて彼女に酷いことを言ってしまったことを、今更ながらに後悔する。訓練された軍人ならばともかく、彼女は当時、何の訓練も受けていないごく普通の中学生だったのだ。そんな彼女が恐怖に駆られたからといって、一体誰が責められるだろう。
だが現実に、自分はそれをしたのだ。知らなかったとはいえ、自分の言葉が彼女の心を深く傷つけ、未だに消えることがないのも確かなのだった。
「ユカ……ユキノのことは、ホンマに気にせんでええから……」
「……うん」
トウジの言葉に、ユカは髪を揺らして頷いた。花束をそっと抱え込んで俯くその横顔は、肩にかかった髪に遮られて良く見えない。トウジは無性に彼女を抱き締めてやりたい衝動に駆られたが、彼の両腕は大量の荷物でふさがれているため、それもままならない。トウジは荷物を片手に抱え込むと、空いた手を伸ばしてユカの小さな手をそっと握った。
「トウジ……」
ちょっと驚いたような顔で、ユカは包み込むような温もりの主の顔を見上げた。彼女よりも頭ひとつ分ほど高い位置にあるトウジの浅黒い顔は真っ赤に染まっていて、照れ臭そうにあさっての方を向いているあたりが彼らしい。同様に頬を赤らめながら、ユカは零れるような笑みを浮かべた。彼の手の温もりに縋りつくように、そっと傍らを歩く少年に寄り添う。
「……」
まだほんのりと温かいケーキの箱を抱えてユカの隣を歩いていたレイは、そんな二人を黙って眺めていた。
トウジに寄り添うようにしているユカを見ていると、胸の奥がきゅっと締め付けられるような息苦しさを覚える。ユカの意識の全てが自分ではなく、トウジに向かっている時は特にそうだった。
どうやっても二人の間に割り込めないと思い知らされる瞬間。自分にとって彼女は最早存在の全てに近いのに、彼女にとって自分はそうではないのだと解ってしまう。
蒼銀の髪を揺らして俯いた先で、レイの視線が止まった。
透けるような白い膚に良く映える、鮮やかな空色のミュール。己の躯を包んでいる濃緑色のワンピースと同じく、ユカが自分のために選んでくれたもの。
鏡の中に立ってこちらを見つめていたのは、自分の知らない少女だった。それを見た時、胸の奥から湧き起こった、不思議と浮き立つような気持ち。
(ハジメテの感じ。でも、イヤじゃなかった)
そっとレイの髪を梳いてくれた彼女の指先の感触は、まだ明瞭りと思い出せる。似合うと言ってくれたユカの笑顔は、心に強く焼きついている。それを思い出したレイの口許が、不意に緩んだ。そっと目を上げて隣を見る。ふと顔を上げたユカと目があった。照れたようにそっと微笑む彼女に、レイもつられて笑みを返す。すると、心が温かくなった。
倖せそうなユカの顔を見ていると、なぜか嬉しかった。たとえ、その笑顔が自分に向けられたものではなかったとしても。彼女さえ倖せならそれでいいと、思ってしまう。たとえ、自分はそれを傍らで見ていることしか出来なくても。
そんな自分に、レイは新鮮な驚きを覚えていた。
「あ、ユカ姉。いらっしゃ〜い」
担当医のところに向かうトウジと別れ、レイを連れて病室に入ってきたユカの姿を認めると、ユキノは嬉しそうに歯を見せて笑った。その屈託のない明るい笑顔に、ユカはいつも救われる思いがする。
父――碇ゲンドウによって、第3新東京市に呼ばれたあの日。
何もかもが混乱と恐怖に彩られたあの日のことは、よく覚えていない。――否、思い出したくもないというべきかも知れない。
初めて会った父親は優しい言葉のひとつもかけてくれなかったが、それは別に構わなかった。手紙を寄越したことすらない見知らぬ父には、初めから期待などしていなかったのだから。
問題は、彼女の気持ちなどお構いなしにエヴァに乗せようとした周りの大人たちだった。ユカが初号機に乗ったのは、自分が搭乗を拒めば、代わりに満身創痍のレイが乗せられると解ったからだ。そして、やっぱり乗らなければよかったと思った。
使徒の攻撃に曝されて訳が解らなくなってから、病室のベッドで目醒めるまでの間に何があったのか、よく覚えていない。ただひたすらに怖かったし、痛かったし、嫌でたまらなかった。
こんな所にはいたくなかったが、そのまま「帰る」とも言い出せずにずるずると第3新東京市に残る羽目になり、トウジに怒鳴られるまでは仕方なくエヴァに乗っていた。レイはまだ怪我をしていたし、他に乗れる人がいない、君が乗らなければ人類が滅びると言われれば、いつまでも拒みきれるものではなかったからだ。
だが、ユカの『世界』に深刻な亀裂が生じたのは、それまで自分の『家』だった場所に電話した時だった。
家族の声を聞けば少しは気も紛れるかと思っただけだ。けれど、受話器の向こうから聞こえてきたのは当然家にいる筈の叔母ではなく、管財人を名乗る見知らぬ女の声だった。叔父夫婦の名を告げても、そんな人はいない、聞いたこともないと言われるばかり。その家は、三年前からずっと空き屋になっていたという。
では、自分がこれまで住んできたのは、何処だったのか。
家の周りの空き地で仔犬を見つけたこと。近所にある小さな駄菓子屋に寄り道するのが楽しみだったこと。駅前の商店街にあるお肉屋さんのコロッケが美味しかったこと。週に一回、チェロを習いに通った先生のこと。
今でも明瞭りと憶い出せるそれらの記憶は、夢だったとでもいうのか。
父に会うため、第3新東京市に旅立つ朝。三人揃って朝ご飯を食べて、叔母に見送られながら叔父と一緒に家を出た。なのに、その数日後にはもう、叔父夫婦とは連絡が取れなくなっていた。
前の学校の友達にも覚えている限り片っ端に電話したが、繋がらなかったり、知らない人が出たりした。彼女の事を覚えている人は一人もいなかった。まるで、そこに碇ユカという人物は初めから存在していなかったかのように。
混乱が彼女を襲った。何がどうなっているのか、まるで訳が解らなかった。そして、彼女には叔父たちがどうなったのかを調べる術もなかった。ただひとつ確実なのは、ユカの帰る場所が失われたということ。ここを飛び出したとしても、叔父たちは彼女を迎えてはくれない。ユカの居場所は、もうここにしかないのだ。
このことは、トウジにもまだ言っていない。いったん言葉にしてしまうと、本当に叔父たちと二度と逢えなくなるような気がして怖かった。それに、本当に自分は碇ユカなのかどうかさえ、解らなくなりそうだったから。
あの二人は、本当に叔父夫婦だったのだろうか。死んだ母の実家について、ユカは何も知らない。母に兄弟がいたのかどうかすらも。昔のことは濃密な靄の彼方に霞んでいて、夢で垣間見たかと思えば忘れてしまう。明瞭り覚えているのは、あの街で過ごした数年のことだけなのだ。なのに、それすら不確かなものに変わってしまった。
星を眺めるのが好きな叔父。
控えめで物静かで、料理の上手な叔母。
何をして生計を立てていたのかも、よく解らない。休みの日も家族で何処かに出かけるようなことはなく、家の中には穏やかで何もない時間がただ流れていた。
それまでずっと『家族』だと思っていた人たちについて、自分は驚くほど何も知らない。印象に残っているのは、彼女が友達と旅行したいと言った時、やけに激しく反対されたことぐらいだ。それ以外では滅多に声を荒げることもない、物静かな人たちだった。
――あれは、一体誰だったのだろう。
考えれば考えるほど嫌な方向へと向かっていく思考を、ユカは無理矢理に封じ込めた。何も考えないようにした。何も考えたくなかった。
トウジが久し振りに学校に出てきたのは、そんな時だった。
彼の言葉は衝撃的だった。誰もそんなことは教えてくれなかったし、自分の所為で誰かが傷ついたりしているとは思いもしなかったからだ。
そして、再び出撃命令が出た。正直、もうエヴァに乗るのはイヤだったが、自分がエヴァを上手く扱えない所為で、また傷つく人が出るのはもっとイヤだった。だから、怖かったし、痛かったけれど、精一杯頑張った。
もしかするとトウジに認めて欲しかったのかもしれない。妹が怪我したことであれほど怒っていた彼が、何か言ってくれるのを待っていたのかも知れない。だが、何か言いたげな瞳だけをユカの心に残して、彼は何も言うことなく保安部の人たちによって連行されてしまった。
ユカを待っていたのは、ミサトの叱責と処分だった。処分自体はそれほど厳しいものではなかったが、上官命令を無視した部下をそのままにしては組織が立ち行かなくなる。そのための、やむをえない措置だった。
トウジとケンスケを初号機に乗せた翌日。ミサトによって一週間の自宅謹慎を言い渡されたユカは、誰もいない部屋でじっとしていることに耐えられなくなって、外に出た。
頭の中にあったのは、もの言いたげな瞳をこちらに向けたまま、体格のいい大人たちに両腕を掴まれて連行されるトウジの姿と、暴走した初号機の巻き添えを食って怪我をしたというトウジの妹のことだった。
鈴原という姓を頼りに、第3新東京市中の病院に片っ端から電話をかけて入院先を突き止め、お見舞いに行った。
もしかしたらトウジに会うかもしれないとも思ったし、トウジとのことがあるから、罵倒されるかもしれないと思って内心はビクビクものだった。だが、それよりもこの状況の方が耐え難かった。
ここにいる理由はない。けれど、帰る場所もない今、行くアテもないのに逃げ出す勇気はなかった。だから、トウジに――あるいはその妹本人に罵倒されれば、踏ん切りがつくかもしれない……そう思っていた。
そんな身勝手な自分に、ユキノは微笑んでくれた。その笑顔に、ユカがどれだけ救われたか解らない。
――ここから逃げ出すわけにはいかない。
そんな決意がユカの心に生まれたのは、その瞬間だった。
その時は、まさかトウジとこんな関係になるとは思ってもいなかったが……。
「お邪魔じゃなかった?」
「ううん、そんなことあれへんよ。ちょうど退屈しとってん」
ベッドに腰かけ、包帯を巻いた裸足の足をぷらぷらさせながら、クリーム色のパジャマ姿のユキノはユカに笑いかけた。だが、その笑みを消した彼女は、無表情な紅い瞳で二人を眺めているレイをちらりと一瞥すると、慎重に口を開いた。
「……お兄と一緒やったんとちゃうの?」
花束を抱えたユカから、ケーキの箱を手にして傍らに佇むレイに視線を移して、ユキノは不思議そうに首を傾げた。兄は色々と誤魔化そうとしていたようだが、あの様子では二人は確実に外泊しているはずなのだ。
「あ〜……まあ、一緒は一緒なんだけど、色々あって。でも、遊園地には行ったよ。色々乗ったし。ユキノちゃんも治ったら一緒に行こうね」
「ええのぉ? ホンマはお兄と二人っきりがええんとちゃう?」
「えっ……でも、そんな……わたしは、その……」
悪戯っぽい笑みを浮かべてユキノが言うと、ユカは頬を染めて俯いた。口の中で何やらもごもご言っているが、さすがにアホらしいので聞いていられない。
相変わらずトウジにらぶらぶらしいユカの反応に、ユキノはすっと肩から力を抜いた。隣の少女はどうやら、あの甲斐性無しの兄の所に来てくれる未来のお嫁さんのライバル、というわけではなさそうだ。
まあ、そもそもあの兄がそんなに女の子にモテるわけがないのだが。そんなことがあったら、自分は世をはかなんで尼になるかもしれないとちょっとだけ思う。もっとも、どうやったら尼になれるのかはよく知らないし、尼になったら何をするのかも解らないが。実態を知ったら、そんなことは冗談でも思わないだろう。
「お兄は?」
「ん、先生のとこ」
「……ほな、そっちの人は?」
花瓶の花を取り替えようとしていたユカは、ユキノの視線を追って小さく頷いた。
「綾波レイ。クラスメートなんだ」
どう説明しようか迷ったが、レイが自分と同じくエヴァのパイロットだということは伏せておいた方が良いような気がした。
今まで、エヴァの事を話題にしたことは一度しかない。ユキノも訊かなかったし、ユカも話さなかった。パイロットであるユカには守秘義務があったし、そもそも、どう言葉を飾ったところで到底楽しい話題にはなりようがなかったから。
「……ふ〜ん」
ユカの台詞に頷いて、ユキノは不躾なぐらいにしげしげとレイを見やった。が、レイはまるで気にした風もなく、相変わらずの無表情のまま、無言で紅い双眸をユキノに向ける。
齢の離れた二人の少女はそのまましばし見詰め合ったが、ややあって、ユキノは感心したように溜息を吐いた。
「はぁ〜……えらいべっぴんさんやなぁ……肌も白いし、なんやその髪もよう似合うとる。瞳も宝石みたいでキレイやわ」
「キレイ? ……私が?」
目元にかかる前髪をさらりと揺らして、レイは微かに首を傾げた。言葉の意味は知っているが、それが自分に対して用いられているというのが良く解らない。
「そうや。言われたことない?」
「……ないわ」
何が嬉しいのか、にこにこと微笑いながら瞳を輝かせてレイの顔を見つめるユキノの反応に、レイは微かに眉をひそめた。自分の容姿について他人に何か言われた記憶はほとんどないし、興味もなかったのだ。
「ま、ユカ姉の友達やったらいつでも歓迎やで。ええお土産も持ってきてくれたみたいやしな」
そう言いながら額にかかった前髪を無造作に掻き上げ、ユキノは上体を揺らして無事な方の膝を抱え込んだ。少女をのせたベッドが、その動きで微かに軋む。
「さっきっから気になっとってん、それ」
言って、ユキノは瞳を輝かせながらレイが抱えている箱を指差した。兄と同じく、彼女も食べ物には目がない。もっとも、量より質を重視するあたりが兄とは意間を異にしているが。
「それってシュレーゼのケーキちゃうん?」
箱についた小さなマークだけでそれを言い当てたユキノは、形の良い小さな鼻をくんくんと蠢かせ、満面の笑みを浮かべて元気よくガッツポーズをした。
(正夢やぁぁぁぁぁぁっ!)
ユキノの心の中ではファンファーレが鳴り響き、色とりどりの紙吹雪が舞っていた。
「っしゃあ! 焼き立てのアップルパイやな! さすがやユカ姉っ!」
ユキノは小さいのにしっかりしていて、時々、自分よりも大人だなぁと思う時がある。ユカでさえつい最近教えてもらったばかりのケーキ屋の看板商品まで知っているとは、最近の小学生もなかなか侮れない。
「ね、ねえユキノちゃん、そんなに暴れて大丈夫? 寝てなくて平気?」
心配そうに尋ねたユカに、ユキノはにかっと歯を見せて笑った。三つ編みにしていた頃と変わらない無邪気なその笑顔には、短い髪が良く似合う。
「大丈夫や。全然たいしたことあれへんねん。もともと入院するほどの怪我やないねんけど、先生がまだ退院したらあかん言うんよ。ウチがおらな、うちの男どもは家のこと何もようせえへんのになぁ」
そこまで言ってから、ユキノはにんまりとした笑みを口許に湛えてユカに視線を走らせた。その悪戯っぽい笑みに何となく嫌な予感を覚えたユカは、背筋を走るうすら寒い戦慄とともに、それを何処で見たのかを思い出す。
(ミサトさんだ……)
自分を揶揄う時のミサトが、ちょうどあんな顔をしている。まるでこの世で最上の愉しみを見つけたチェシャ猫のような笑み。
「まぁ、ユカ姉が早いとこうちにお嫁に来てくれたら、ウチもラク出来んねんけど?」
「お、お、お嫁さんだなんて、そんなっ」
ぼむっと一気に真っ赤になって、ユカは慌てて話題を変えようとした。しどろもどろになりながら、ベッド脇のテーブルに置いてある電気ポットに駆け寄る。
「……あ、あの、わ、わたし、お茶淹れるねっ」
「あ、ちょうど良かったわ。お湯ないねん。ユカ姉、もろてきてくれへん?」
「う、うん、わかった」
抱えていた花束をサイドテーブルに置くと、ユカはポットを持ってそそくさと部屋から出て行った。
それを愉しげに見送りながら、ユキノはこの世の倖せを体現したような笑顔を浮かべて、レイから受け取ったケーキの箱を開けにかかった。
ドアが閉じるのを待って、ケーキの箱から顔を上げたユキノは、先刻からずっと突っ立ったままのレイを見やった。
「まあ、そんなとこで立ったまんまもなんやし、どうぞ」
そう言ってベッドの脇に置かれている丸椅子を勧めると、レイは何も言わずに頷いて腰を下ろした。だが、別に口を開くわけではないし、落ち着かない様子でもない。何を考えているのか解らない瞳で、ぼんやりとドアの方を見つめている。
否、ユカの出ていった方をだ。彼女の瞳は先刻からユカに向けられていた。ユキノに向けられたのはほんの一瞬。それも、敵なのかどうかを確めるような、素っ気ない視線だった。感情らしいものが垣間見られたのは、ユキノが彼女を「キレイだ」と言った時と、出て行くユカの背中を見つめていた時だけだ。
なんだか親の帰りを待つ仔犬みたいだ、とユキノは思った。置いていかれることの心細さ、寂しさ、不安。彼女の紅い瞳は、そんな色を湛えていた。見た目はとても大人に見えるのに、案外そうでもないのかも知れない、とちらりと思う。
「……食べる?」
とりあえず、食べ物を勧めてみる。獣を馴らすときの常套手段である。
小さな掌にのせてそっと差し出された茶褐色のそれ――甘やかな芳香を放つ、大人の拳より大きなまん丸いアップルパイ。
ちょっぴり酸味を効かせて甘く煮た一個分のリンゴをぎっしり中に詰め込んで、刻んだパンプキンシードを散らしたホイップクリームを上にトッピングしたそれは、ユキノの今年一番のお気に入りだ。
ユキノの掌には余る大きさのそれを、レイはじっと見つめた。ややあって、ちらりとユキノを見やってから、おずおずと手を伸ばす。その仕種はまるで、見知らぬ人から初めて餌を貰う野良猫のようだ。
「めっちゃ美味しいねんで〜、ここの」
掌の中でほんのりと温もりを保っているそれを、レイはじっと見つめている。それを横目で見やってから、ユキノは自分の分も箱から取り出し、残り数を勘定した。ユキノが二つ食べると見越してか、ちゃんと五つ入っている。さすがやなぁ、と思いながら、ユキノは自分を見つめているレイににこりと微笑いかけると、両手で持ったアップルパイにあ〜んと大口を開けてかぶりついた。とろりと甘酸っぱいシロップが口の中にじゅわーっと溢れ出してくる快感に、思わず目を細める。
(ああ〜〜〜、しあわせやぁ〜〜……)
至福の瞬間を堪能しつつ、口の端についたシロップを舐めとりながらレイを見ると、ユキノの真似をして、大口開けてかぶりつこうとしていた。が、なかなか上手くいかない。
鈴原家の人間は、普通の人とはちょっと顎の構造が違うのかもしれない。なにしろ、拳がタテですっぽり入るのだから。
「まあ、素人は無理せん方がええわなぁ」
無理も何も、どう頑張ったところで出来ないものは出来ないのだが、ユキノは何故か自慢げにそう言うと、再び大口を開けて残り半分を口の中一杯に押し込んだ。もぎゅもぎゅと口を動かしながら、『美味しいときのダンス』を上半身で踊る。ちなみにこのダンス、ユキノに言わせると幾つかのパターンがあるらしいのだが、本人以外にはいまいち違いがよく解らない。
奇妙なダンスを踊っているユキノをよそに、レイはとうとう真似をするのを諦め、普通に齧っていた。が、そのままもくもくもくもくと牛の如く噛み続け、全部口の中に押し込んでしまう。
(〜〜〜〜〜っっ!!!)
口の端に生クリームをべったりつけたまま、ぱんぱんに頬っぺたを膨らませてもぎゅもぎゅと口を動かしている美少女の姿は、本人がなまじ真剣な表情をしているだけに死ぬほど可笑しかった。
「……んぶっ!!!! んむぅ〜〜〜っっ!!!!」
口の中のものを思いっきり吹き出しそうになるところを必死で堪えて、ユキノはとにかく頑張った。頑張って口の中のものを飲み込んでから、このまま窒息して死ぬかもしれないと思うぐらい大笑いする。攣りそうになる腹筋を押さえて笑うユキノを、レイは口を動かしながらぼーっと見ていて、それがまたユキノの笑いを誘うのだった。
「し、死ぬかと思た……」
ぜいぜいと息を吐きながら、ユキノはちょちょ切れた涙を拭った。笑いすぎて腹筋が痛い。おまけに呼吸困難だった所為か、半ば酸欠状態で頭がぼうっとする。
一方、笑われているレイもこの食べ方は苦しかったのか、ずっと鼻で息をしていた所為で顔を紅くしながら、微かに息を荒げていた。
「と、とりあえず、顔拭き」
ひくひくと頬を引き攣らせつつ、ユキノはティッシュの箱をレイに差し出した。無言でそれを受け取り、顔にべったり付いた生クリームを拭うレイを眺めながら、ユキノは自分より遥かに上に見えるこの少女が何だか可愛く思えて、そんな自分がちょっと可笑しかった。
「あんた、その食べ方はやめた方がええわ。正月の年寄りやあるまいし、ケーキ咽喉つまらせて死んだら洒落んならんで」
自分でも今の食べ方は危険だと思ったのか、レイはこくりと頷いた。おまけにこれではちゃんと味わうことも出来ない。美味しかったとは思うけれど、苦しいのが先に立って、味はいまいちよく解らなかった。
二個目をゆっくり味わおうとしている自分の手元をじっと見詰めるレイに、ユキノは開きかけた口を閉じた。なんだか、そんな風に見られていると食べにくい。
「……もいっこ食べる?」
ホントは兄の分なのだが、まあどうせ味なんか解りゃしないんだし、塩せんべでも食べさせておけばいいだろうと、ユキノはユカの分を残してアップルパイをレイに渡した。無表情な筈のレイの顔が、何だか嬉しそうに見える。一見、人形のようなこの少女にもちゃんと感情があるんだと解って、ユキノはレイと仲良くなれそうな、そんな予感を覚えていた。
つづく
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あとがき
意外に好評だった「はむレイ」の回です。
はむレイ(=はむすたーなレイ)は夢で見ました。
はじめは書くつもりがなかったのに、何故か頭から離れなくて結局書いてしまったお話です。
仮にも本編系と銘打っておきながら、本編系とは口が裂けてもいえない状態になってます(^^; 早いとこアスカを出したいと思ってるんですが、レイのお話がまだなので。ま、そんな大した話じゃないんですけどね。
ご意見、ご感想、ご要望など、ありましたらどうぞお寄せください。特に感想などいただければ、単純なきたずみは小躍りして喜びますので、よろしくです(^^)
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