カレカノ #17
〜彼と彼女の事情〜
K A R E × K A N O
Written by:きたずみ
#17
まだ顔が熱い。きっと真っ赤になってるだろうなと思いながら、病室を脱け出したユカはそっと息を吐いた。
トウジがまだ戻ってきていないのは不幸中の幸いというべきか。彼と二人だったら、到底この程度では見逃してもらえなかっただろう。まあ、二人揃ったところでまた改めて仕掛けてくるつもりなのかもしれないが……。
(あれさえなかったらいい子なんだけどなぁ……)
どうやら、ユカの事を未来のお義姉さんとか、お嫁さんだとか言って揶揄うのが楽しいらしい。そう思って、ユカはふうっと溜息を吐いた。
ユキノにしてみれば、面白いように反応する二人を眺めて楽しむというのは、退屈極まりない入院生活を潤してくれるかけがえのない娯楽ではあるのだが、それとは別に言ってることは結構マジなのである。が、楽しまれる方はたまったものではない。
(そりゃ、トウジのお嫁さんならわたしも……って、ちがうーっ)
通りがかった人々は、真っ赤な顔でいきなりぶるんぶるんと頭を振り始めた美少女にアヤしいものを見るような視線を送った。まあ、無理もない。
それに気付いて、ユカは小さくなって俯いた。
(恥ずかしー……ナニやってんだろ、わたし……)
羞恥に頬を染めながらユカが顔を上げると、廊下の向こうからこちらに歩いてくるトウジの姿が見えた。ぼんやりと窓の外を眺めながらのったり歩いているトウジは、まだユカには気付いていない。その場に足を止めて、ユカはトウジを見つめた。せっかく妄想を振り払ったのに、ユキノの言葉を思い出すとまた頬が火照ってくる。
いつもむさ苦しいジャージ姿をしている所為でわりと気付かないのだが、トウジはそんなに見た目は悪くない。確かに、決して美形と呼べる顔立ちではないのだが、それなりに整った味のある顔つきをしているし、小柄な生徒の多いクラスの中では結構背の高い方である。こうして普通の格好をしていれば、それなりに見栄えはするのだ。
(……まー、正体はえろえろじゃーじまんだけどさ)
そんなことを思いながらそっと口許に笑みを刻んで、ユカはポットを手に提げたまま、彼が自分に気付いてくれるのを待った。
「……なんや、そこにおったんか」
窓の外を眺めながら欠伸を噛み殺して、ふとユカに気付いたトウジは、ふっと口許に柔らかい笑みを浮かべた。ちょっと甘えるような優しい笑顔。その顔がユカは一番好きだった。けれど、誰にでもそんな表情を見せるわけではない。
ユカがそれに気付いたのは、つい最近だ。
ケンスケと一緒になってバカな事をやっていた所為か、ちょっと前まで2バカ呼ばわりされていたトウジだが、クラスの女子の中には彼の事を怖いという子もいる。
トウジは決して口数が多いわけではないし、それほど愛想のいい方でもない。加えて女の子とそう親しく口を利けるタイプでもないから、余計にそういう印象を受けるのだろう。それに怯まなかったのは、ヒカリとユカだけだった。
ヒカリは、自分よりずっと前からトウジの優しさに気づいていたに違いない。彼女の想いがトウジに向いているのは、傍目にはバレバレだった。気付いていないのは肝心のトウジ本人だけだったが、そんな彼も、いつかは彼女の気持ちに気付いていたに違いない。そして、二人は似合いのカップルになっていただろう――自分が割り込みさえしなければ。
ヒカリの気持ちには、ユカもすぐに気付いた。けれど、その時には既に、ユカはトウジに惹かれていたのだ。
ユカがトウジに初めて逢ったのは、第四使徒シャムシエル襲来の日だった。
だからだろう、最初は怖い人だと思っていた。けれど、回収された初号機から保安諜報部の人たちに連れて行かれた時、別れ際にこちらを振り返っていたトウジのあの瞳が気になって、ユキノのお見舞いに行った時に、彼女に訊いたのだ。お兄ちゃんってどんな人、と。
ユキノから色々な話を聞いた。自分の知らない、トウジの昔のこと。家でのだらしない姿のこと。口ではクソミソにけなしていたけれど、それでもユキノにとっては頼れるお兄ちゃんなんだと、ユキノの口ぶりで解った。不思議なことに、怖いとばかり思っていた彼が、いつの間にか可愛く思えてきていた。
一週間の謹慎期間中、ずっと学校を休んで病院に来ていた彼女は、学校帰りに病院に来るトウジと逢うことはなかったのだが、ミサトから彼がわざわざ逢いに来てくれた事を聞かされた。トウジに逢いたい、と初めて思ったのはその時である。
ちなみに、最初の出逢いの時から常に一緒にいたもう一人の少年のことは、初めから眼中になかった(ついでにいうと、ミサトも彼のことはすっかり忘れていた)。
それからは、気がつくと彼の事ばかり考えていた。
どうして彼がわざわざ自分に逢いに来てくれたのか、それを知りたかった。
そして、あの日。病室でいつもより遅くまで待っていたユカは、久し振りにトウジの顔を見た。その時は、すごく嬉しかった。やっと逢えたと思った。
けれど、その喜びはすぐにしぼんだ。部屋に入ってきたトウジはムスッと押し黙っていて、だから自分のことをまだ怒っていて、好きでも何でもないんだと思った。勝手に浮かれてドキドキしていた自分が馬鹿みたいに思えて、涙が出た。でも彼は謝ってくれて、自分の名前も知らないんだと解ったけれど、それでも嫌われているわけではないと知って、ユカは嬉しかった。
謹慎が解け、久し振りに学校に行った日。真っ先にしたのは、トウジに「おはよう」と声をかけることだった。まわりはびっくりしただろう――それまでの自分は、下手に目立たないよう、教室の片隅でじっと息をひそめていたのだから。トウジへの想いを自覚すると共に、ユカはそれまで圧し殺していた自分を表に出せるようになった。それまで誰とも口をきかなかった彼女の変身ぶりに、クラスメートたちは少なからず戸惑ったようだが、やがて打ち解けていった。
ヒカリが自分の事を見つめているのには気づいたし、同じ人を見つめていて何度か目があったから、彼女の想い人もすぐに解った。けれど、これだけはどうしても譲るわけにはいかなかった。放課後、毎日一緒に病院に行くうちに、どんどん彼のことが好きになった。不器用な彼の優しさに、心が癒されるのを感じた。
だから、彼女に遠慮するのはやめようと思った。何かの口実がなければ声もかけられず、大抵は遠くから見つめているだけだったヒカリとは対照的に、ユカは積極的にトウジに近寄っていった。
トウジが恥ずかしがるのにもめげずに彼にくっついていったし、ユキノが入院した所為で彼がいつもお昼をパンで済ませていると知って、毎日お弁当も作った。当然のことながら、お昼を一緒にしているもう一人の少年のことはまるっきり眼中になかったが、今思うとちょっと可哀想かなと思わないでもない。だがそれより、ヒカリのことがいつも気にかかっていた。
ユカがトウジとお喋りをしている時。恥ずかしいと嫌がるトウジに構わず、無理矢理抱きついていった時。あるいは、ユカがトウジを見つめている時。そんな時はいつも、ヒカリが遠くからこちらを見ていた。切なげな瞳で。
ユカがトウジに弁当を作ってくるようになってからというもの、ヒカリがトウジに話しかける機会は極端に減っていた。
解っていた。彼女が自分のようには出来ないだろうということは。
そのうち、ヒカリと仲のいい女の子たちに呼び出されるんじゃないかと思ったが、そんなことにならなかったのは、きっと彼女が止めていてくれたんだと思う。
(ずるい、よね……やっぱ)
他の娘には見せない顔をトウジが自分に向けてくれるのが嬉しい反面、そのことが常に、ユカの心に引っ掛かっていた。
会話がないのはユカとヒカリの間についても同じだったが、彼女の場合、NERVでの訓練や使徒迎撃やらでこのところ色々と忙しかったため、ちゃんと顔をあわせることすらないというのが正直なところだ。それはむしろ有難いことで、正直、ヒカリと顔を合わせても何を話せばいいか解らない。
それはお互い様らしく、向こうからも近づいてくる気配はないが、ユカがトウジと仲良くしているのを見ると辛そうな顔をするのが解るから、やはり少し心苦しかった。
(やっぱり、まだ好きなんだろうな……)
トウジとのことは別にして、彼女と仲良く出来たらいいとは思いながら、どうしたらいいかまるで解らない。そんなことは結局、自分のエゴでしかないとも思うのだ。
「お湯。もらってこようと思って」
千々に乱れる想いを無理矢理心の奥に押し込めて、ユカは微笑いながら手に提げたポットを軽く持ち上げてみせた。
「ほな、それワシが持つわ」
彼女の顔をしばし無言で見詰めていたトウジは、小さく溜息を吐くと、そう言ってその手からポットを取りあげた。
「給湯室やろ」
「うん。ありがと」
顔を過ぎる影をそっと振り払うようにして微笑う彼女を無言で見つめながら歩き出したトウジは、隣を歩くユカに合わせ、歩調を緩めた。
しばらく無言で歩いていたが、僅かに肩が触れると、俯き加減に歩いていたユカが瞳をあげた。ずっと自分を見つめていたトウジの視線に初めて気付いたのか、その瞳が一瞬、大きく見開かれる。
「な、なに?」
「なんか悩み事でもあるんか? 浮かん顔やな」
「えっ? そ、そんなこと、ないよ」
「うそつけ」
一言であっさり切り捨てて、トウジはユカをじっと見つめた。真っ向から自分を見据えるその視線に耐え切れず、思わずユカは瞳を逸らす。
「ワシには言われへんことなんか?」
「そうじゃないけど……」
「じゃあ、なんやねん」
「……ヒカリちゃんのこと、考えてたの」
「!」
トウジは思わず息を飲んだ。ここでその名前が出るとは思わなかった。
「ヒカリちゃん、まだトウジのこと好きなんだろうなって、思ったの。でも、何て話し掛けたらいいか解らないし、わたしだったら話し掛けられるの、同情かけられてるみたいで嫌だなって思うし……それにね」
給湯室に入ったユカは、笛吹きケトルに水を入れて電磁コンロにかけながらそう言うと、トウジの手からそっとポットをとった。蓋を外して中を洗いながら、横目でそっとトウジを見やって、ゆっくりと口を開く。
「トウジとヒカリちゃんの間に割り込んだのはわたしだから……」
「割り込むもなにも、委員長とワシは――」
「違うの……」
ひどく弱々しい声に、トウジは続く言葉を飲み込んだ。
「トウジが気付いてなかっただけなの。わたし、知ってたの……ヒカリちゃんがトウジのこと好きなの、知ってた。でも、トウジのこと諦めたくなくて、それで……」
「ユカ……」
軽く息を吸い込んだトウジは、きゅっと唇を引き結ぶと、微かに肩を震わせている彼女の背中を、胸の中にそっと包み込んだ。そんな風に自分を責めている彼女を見るのは辛かった。
「怖いの……ヒカリちゃんがやっぱりまだ好きって言ってきたら、わたし、負けちゃうんじゃないかって……」
「……アホ。そないにワシのことが信じられへんのか」
耳許で囁いたその声に、ユカはすっと息を吸い込んだ。痛いぐらいに強く、それでいて優しく包み込むようにそっと、彼の腕はユカの躯を、心と共に抱き締めてくれている。温もりとともに、彼の気持ちまで伝わってくるようだ。後ろから彼女の躯を抱き締めてくれている温かくて逞しい腕に身を委ね、ユカはそっと瞳を伏せた。彼の息づかいを聞いていると、心が落ち着いてくる。
「信じても、いいの?」
「ワシが好きなんはユカだけや」
「……いいの? 本気にしちゃうよ?」
「かまへん。思い切り本気にしとれ。そのうち、ワシが安心させたる」
「トウジ……」
「ワシがユカのことどんなに好きか、まだ解ってないみたいやな」
ぎゅっ、と抱き締めるトウジの腕に力がこもる。やかんから漏れる蒸気の音と、出しっ放しの蛇口から流れ出る水が立てる水音が単調に響く中、二人はじっと動かなかった。
「ホンマのこと教えたるわ」
トウジの唇がそっと首筋に埋められ、ゆっくりと滑りながら耳まで這い上がってくる。ユカの耳朶を優しく甘噛みしながら、トウジはそっと囁いた。
「ワシな、ユカのこと、誰にも渡したないんやで」
その言葉に、ユカは腰砕けになった。
ぴーっ、と笛吹きケトルがけたたましい音を立てる。けれど、ユカは身動きひとつ出来なかった。ユカの顔はこれ以上ないくらい真っ赤っ赤に染まっていて、頭からふしゅ〜っと湯気が立ち昇っていたからである。
仲良く手をつないで病室に入ってきた二人を出迎えたのは、一見無表情なレイの紅い瞳と、ユキノのこの上なく楽しそうな笑顔だった。
「えらいごゆっくりやったやんか? 二人で何しとったん? ヤラしいわぁ」
「やらしいって、そんな……わたしたち、なにも……」
「あ、あ、アホなこと言うな! なんもしてへんわい!」
「ホンマかぁ〜〜? そんなふうにムキになるとこが余計に怪しいな。ユカ姉は真っ赤っ赤やし。信憑性はめちゃめちゃ薄いで」
そう言って、ユキノは手にしたアップルパイの最後のひと口をぽいっと口に放り込んだ。それを見たトウジは、慌ててサイドテーブルに置かれている箱を覗き込んだが、時すでに遅し。箱はものの見事に空になっていた。
「あ〜! ない〜〜!」
「え〜、全部食べちゃったのぉ?」
お茶を入れる手を止めて、ユカは思わず抗議の声をあげた。彼女はまだ一度も食べたことがないのだ。せっかく並んで買ってきたのに、それはちょっとあんまりではないのか。
「ひっど〜い!」
「あははっ、ウソやウソ。ちゃんと残してあるがな」
「ほ、ホンマか!?」
「ユカ姉の分はな」
「ワシのはっ」
「あるかいな、そんなもん。あんたは塩せんべでもかじっとり」
「なんやとぉっ!!」
怒鳴りながらもユキノが放って寄越した塩煎餅の袋を早速開け始めているあたり、悲しい性というかなんというか。
「はい」
「あ、ありがとう」
ベッドの脇に座っていたレイに手渡されたアップルパイを受け取りながら、ユカは物欲しそうにその行方を目で追っているトウジを見やって、やや引き攣った笑みを浮かべた。手にしたアップルパイを、そっと差し出す。
「……食べる?」
「うっ……い、いや、それはあかん。それはユカの分やないか」
ユカの言葉に一瞬、嬉しそうに顔を輝かせたトウジだが、慌てて首を振って欲望を払い除けた。
「いいよ、食べて」
また買えばいいんだし、と笑うユカの顔と、その掌の中のアップルパイを見比べて、トウジはごきゅりと音を立てて唾を飲んだ。如何とも抗し難いその誘惑に、彼の意思はなす術もなく陥落していく。そこへユキノが口を挟んだ。
「あかんがな、ユカ姉。お兄のこと甘やかしすぎやわ」
「え? そ、そう、かな……」
震えながらこっそり伸ばされた指先が届く寸前、ユカはすっと手を引いた。がーん、とショックを受けて固まるトウジの見ている前で、ユカは可愛い口を開け、白い粒真珠のような歯並びを覗かせながらアップルパイを齧る。さくっ、という軽やかな音が病室に響いた。皮を破った中から、たっぷりのシロップとともにリンゴが溢れ出す。皮の食感と、シナモンを利かせたリンゴの確かな歯応えが極上のハーモニーを奏でた。上にのせられたホイップクリームがまたたまらない。
「な? 美味いやろ〜」
「ほんと……びっくりしちゃった」
満面の笑みを浮かべて訊いたユキノに、ユカは驚きを隠せない表情で頷いた。アップルパイ自体は彼女も何度か焼いたことがあるのだが、それとはまるで次元が違う。パイ生地がすごくしっかりしているのに、リンゴがそれに負けていない。どうやったらこんな風に作れるのか、見当もつかなかった。
「こんなん、お兄に食べさすんはもったいないわ。腹さえふくれたらええんやから」
「ユキノちゃん」
「……ういっす」
少しばかりきつい口調とともにユカに軽く睨まれると、ユキノは口を閉じて敬礼の真似をしてみせた。なんだか解らないが、ユカに叱られると逆らえない。
「はい、トウジ」
だらだらと涎を垂らしながら見つめていたトウジの前に、すっと白い手が差し出された。その上には、半分食べかけのアップルパイがのっている。
「……ええんか?」
「うん。食べかけだけど」
「お、おおきに」
「お〜、間接ちゅうやな」
「間接ちゅうって、なに?」
「それはやな――」
「ユキノちゃんっっ」
したり顔でレイに解説しようとしたユキノを、ユカは真っ赤な顔で阻止した。その隙に、同じように真っ赤になりながら、トウジは半分食べてもまだ掌に余るぐらいの大きなパイを口に運ぶ。一口食べてその美味さに驚いた彼は、残りを一気に口の中に放り込んだ。さすがは兄妹、食べ方もそっくりである。
「……うまかった」
「でしょ」
未練がましく指先を舐めているトウジに湯飲みを差し出しながら、ユカはにこりと微笑んだ。なんだか仲睦まじい二人をレイとユキノはお茶を啜りながら見ていたが、ややあって、ユキノが思い出したように口を開いた。
「ああ、そうや。お兄らが来るちょっと前な、お父ちゃんが来たんや」
「らしいな。先生から聞いたわ」
「あんまし仕事が忙しいから、若いもんに押しつけて逃げてきたゆうとったで」
「……ほんまにやりそうやからなぁ」
思わず苦笑しながら、トウジは溜息を吐いた。冗談に決まっているのだが、普段の父を見ていると、何となくそういうことをしてもおかしくないかな、とも思う。見た目は研究者という職業が持つ繊細そうなイメージとはほど遠いが、現実なんて大概そんなものだ。誰もが白衣を着て研究室にこもっているわけではない。
「ほんでな、お父ちゃんがな……」
しかし、ユキノにとってはでっかい兄であると同時に、頼れる父でもある。仕事が忙しい所為で滅多に逢えない父と逢えたのがよほど嬉しかったのだろう、ユキノは昂奮に頬を染めて言葉を紡ぐ。
「そうか、よかったなぁ」
物心つく頃から大人に囲まれて育った所為か、いつも大人びたふりをしているユキノが年齢相応の無邪気な表情を見せているのはやはり嬉しくて、思わず目を細めてユキノの話を聞いてやりながら、トウジはそっと傍らのユカを見やった。彼女と彼女の父は、そんな風に楽しくお喋りを楽しめるような関係にはない。それを知っているから、余計に彼女のことが気にかかる。
けれど、ユカは楽しそうに話し続けるユキノを、優しげな、そして羨ましそうな顔で見つめていて、その横顔に、思わずトウジは見惚れた。彼女は一体どういう気持ちでユキノの話を聞いているのだろう、と思いながら。
「……お兄?」
生返事を返しながらぼんやりとユカの横顔を見つめている兄を、ユキノはちょっと眉をひそめて可愛く睨んだ。が、すぐに悪戯っぽい笑みが口許に浮かぶ。
「ああ、そや。お父ちゃんな、お兄の彼女に逢いたがっとったで」
「あ? なんや、お前、喋ってもたんか」
兄のことだから、きっと慌てるかするに違いないと思っていたのだが、トウジは微かに眉をひそめながらユキノを見やると、しょうがないなとでも言うように苦笑を浮かべただけだった。小さく息を吐きながら髪を掻き上げたりなんかしていて、慌てる素振りなど微塵も見せない。
「言うたらあかんかったん? まさか、隠しておきたかったなんて言わへんやろな」
期待していたのとは異なるトウジの反応に、ユキノはいささか不機嫌になった。ずずっとお茶を啜りながらそう言い捨てて、ユキノはじろりとトウジを睨む。
「どうなん? 返答次第では血ィ見るで」
妹に睨まれて、トウジは僅かに顔をしかめた。確かに、今の会話の流れでは、自分がユカと付き合っていることを親には隠したがっているようにも聞こえる。軽く息を吐きながら一拍おいて、トウジは口を開いた。
「隠す必要なんかあるかい。ワシはユカのこと、ちゃんと紹介したかっただけや。せやけど、おとんもあれで結構忙しいみたいやし、こっちも色々と、その、言うタイミングとかがやな……」
最後の方はなにやらもごもごと言いながら、トウジは横目でちらちらとユカの方を気にしつつ、浅黒い顔を赤らめた。
「……ふ〜ん。一応、真面目に考えとるんやな。ない頭絞って」
「やかましい。ない頭は余計じゃ。そおゆうお前かて、勉強はワシと大して変わらへんやないか」
「ウチは勉強は好きや!」
ユキノの言葉に、トウジは少し意地の悪い笑みを浮かべて腕組みをした。
「ほお、それで?」
「……なんぼ努力しても、結果がともなわへんことが人生にはたまにあるんや」
「ものは言いようやな。勉強がでけんことに変わりはないやないか」
「それは主観の相違っちゅうやつや!」
「……おまえ、ようそんなムズカシイ言葉知っとるなぁ」
「ウチ、国語は好きやもん」
「ほな、算数は?」
「……とりあえず九九さえ言えたらええねん。お買い物には困らん」
「そうゆう考え方もあるか……」
漫才じみた会話を交わしながら、しらじらと見詰め合う鈴原兄妹。先に目を逸らしたのはユキノの方だった。
「ま、まあ、そうゆうことやったらええわ」
「逃げたな」
軽く咳払いをして無理矢理話を終わらせると、ユキノはちらりとユカの方を見やった。先刻から妙に静かだと思ったら、紅くなった頬を押さえてぽーっとしている。
(……解りやすすぎや、ユカ姉)
呆れるやら微笑ましいやらで、ユキノは思わず苦笑した。実物に逢ったら、一体どういう反応をするだろうと思いながら。
帰り道は茜色に染まっていて、三人の影がずっと後ろに長く延びている。
病院を出てからずっと、ユカはなにやら考え込んでいる様子で、トウジもレイも声をかけることが出来ず、三人は自然と黙ったまま並んで歩いていた。
沈黙自体は、別に気まずいものではない。ただ、ユカが何を考えているのかを思うと、言葉をかけづらかった。ふと見やると、レイも心配そうにユカを見つめている。それに気付いて、トウジはふっと口許を緩めた。
「……ねぇ」
不意にユカが口を開いたのは、電車を降りて、駅前の商店街を歩いている最中だった。何処からともなくお惣菜のいい匂いが漂ってきて、トウジの空腹中枢を刺激する。踵を鳴らしてくるりと振り返ったユカは、満面に笑みを浮かべて訊いた。
「晩御飯、なんにしよっか」
「――はぁ?」
意表をつかれたというのか、拍子抜けした顔で間の抜けた返答をするトウジに、ユカは照れたような笑みを浮かべた。
「なんかお腹すいたなぁって思ったら、何考えてたのか忘れちゃった」
「……そおゆうたら、ワシも腹減ったなぁ」
荷物を抱えたまま、情けない顔で空腹を訴え始めている腹を撫でて言ったトウジに、ユカはにっこりと微笑いかけた。
「ねぇ、どうせならうちで晩御飯食べてかない? ミサトさんももう帰ってる頃だろうし。黙って外泊しちゃったから、お詫びにご馳走しなきゃ」
「……ミサトさんに怒られるんか?」
「ん〜、わかんないけど、遅くなる時とかはちゃんと連絡しなさいって言われてるし。一応、わたしの保護者だからね」
軽く首を傾げて答えるユカを見つめたまま、トウジはすっと顔を引き締めた。もともと温泉に行こうと言い出したのは自分だ。その所為でユカが怒られるのを黙って見過ごすわけにはいかない。
「せやったら、ワシが謝るわ。連れまわしたんはワシやねんから」
「い、いいよそんな、気にしなくても」
「いや、それではワシの気がすまん。これは男のケジメや」
「そんな大げさな……」
ぐぎゅ、と拳を握って言うトウジに、はは、と乾いた笑みを浮かべて、ユカは傍らに佇む少女に微笑いかけた。
「レイも、いいよね?」
「……ええ」
蒼銀の髪の少女はいつものように淡々と頷く。だが何故か、その横顔はホッとしているようにも見えた。
「じゃあ、なに食べたい?」
「天ぷら食いたいなぁ」
「天ぷらかぁ……レイ、お魚とかは大丈夫なんだっけ?」
「……わからない」
レイは首を振った。食べたことがないのに解るわけがない。
「う〜ん、そっかー。じゃあ、挑戦してみよ。お魚だけじゃなくて、お野菜とかも揚げるから大丈夫!」
途端にウキウキとはしゃぎ始めたユカは、手始めに八百屋に向かった。
第3新東京市の郊外にあるこのあたりには、昔ながらの商店街がまだ残っている。普段はスーパーを利用するが、商店街の方が安かったり品がいいことも多いので、たまに寄ることがあるのだ。
「おっ! いらっしゃい。彼氏とデートかい?」
「あ、わかる〜?」
「わかるさぁ〜。いつも可愛いけど、今日は一段と可愛いからねぇ」
「やだ、おじさんてば」
顔なじみのオヤジとそんなお喋りをしながら、ユカは品物を選んでいく。
「今夜の献立はなんだい?」
「天ぷらにしようかなと思って。茄子と、サツマイモと……玉ねぎはまだあったから……、おじさん、アスパラある?」
「あいよ」
「あ、あと大葉と、大根もね」
「へい毎度」
ユカの言葉に、オヤジは手際よく野菜をビニールに包んでいく。
「新ショウガはどうだい? いいの入ってるよ」
「ん〜……じゃ、ちょっと買っとこうかな」
「へい毎度。荷物持ちの彼氏がいると楽だねぇ」
「ダメだよ、もういっぱい持たせちゃってるもん。お買い物してきたから」
「ありゃ、ほんとだ。隣の可愛いお嬢ちゃんは、友達かい?」
ひょいっと身をかがめると、道端で手持ち無沙汰に突っ立っているレイと、荷物を抱えているトウジが見える。
「おうおう、べっぴんさん二人にはさまれて、こりゃあ両手に花だねぇ」
「なにいってんだか。あ、トマトおまけして。きゅうりも貰うから」
「ユカちゃんにはかなわないなぁ。しょうがない、こいつももってけ」
真っ赤なトマト二個と柚子をおまけにつけて、オヤジは天井からぶら下がっているカードリーダーに手を伸ばした。ユカが差し出したカードをさっと読み取らせる。
「へい、136万円のお釣りね」
「また言ってる」
微笑いながらカードを受け取って、ユカはずしりと重い買い物袋を手に店を出た。背後から威勢のいいオヤジの掛け声が聞こえる。
「おまたせ〜。あとお魚ね」
「それ、ワシが持とか?」
「え、いいよ、もういっぱい持たせちゃってるし」
「ええから」
言って、トウジはユカの手から野菜のぎっしり詰まったビニール袋を受け取った。ビニールが指にぐっと食い込んでくるのを感じつつ、片手に抱えていた衣類やら靴やらの袋を半分、ユカに押し付ける。
「代わりにこっち持ってな」
「はいはい」
苦笑しつつ受け取ろうとした袋を、傍らからのびた白い手がさっと取り上げた。見ると、レイが袋の山を両手で抱えていた。
「……レイ?」
「大丈夫」
「そう? じゃ、お願いね」
こくり、とレイが頷くのを見て、ユカとトウジはそっと笑みを交わした。
つづく
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あとがき
う〜ん、どうでもいいような話がだらだら続いてますねぇ……
口が裂けても本編系でございとはいえないこの状況が、私的には何となく好きだったりする(笑)。最初から本編のスキマ系を目指してるわけだし、カレカノは基本的に18禁ラブ米だしね。
……とかゆっておいて、最近えっちシーン全然書いてないんですがー……``r(^^;)
アスカ来日まであと少し。きたずみは果たして農協ろぼを出せるのか?
それは私も知らない(笑)
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