カレカノ #18
〜彼と彼女の事情〜
K A R E × K A N O
Written by:きたずみ
#18
「ただいまぁ〜」
がさがさとポリ袋を鳴らしながらユカがドアを開けると、水中生活に特化した翼を羽搏かせながらペンペンがぱたぱたと玄関まで走って迎えに出てきた。
「クエッ。クエェ〜」
ユカの足下をとたとたと走り回りながら、ばたばた翼を忙しく動かし、しきりに喜びの声をあげている。こんなことは今までなかった。なんだかすごい歓迎ぶりだ。
「ど、どうしたの? ペンペン」
「クゥ〜」
ユカの足下に擦り寄るようにして、ペンペンは上目遣いにユカを見上げながらねだるように鳴いた。その仕種をぼんやりと見つめていたユカだが、ややあって、自分が重大な忘れ物をしていたことにようやく思い至る。
「……ああっ! ペンペンのご飯忘れてたっ!」
「クエェェェェェ〜……」
そうですそうなんですよ解ってくれましたか、とでも言うかのようにこくこくと頭を振りながら鳴くペンペンに、ユカは済まなさそうな瞳を向けた。
「じゃあ、ミサトさんにご飯貰っちゃったんだ……」
「……グェッ」
「ちょっと……『貰っちゃった』ってぇのはなんなのよ……まるであたしが悪いことしたみたいじゃない」
「ごめんねぇ、ペンペン……辛い想いさせて……」
ペンペンを抱き締めながら、ユカははらはらと涙を零して呟いた。ユカの胸の中で、クァ、とペンペンが悲しげに鳴く。両者とも悲しみに打ちひしがれていて、背後で誰かがぼそりと呟いたことにも気付かない。
人間と鳥類、種族は違えど、このペンギンと少女は共にまともな味覚を持っているが故に、ある苦しみを背負っていた。この家に住んでいる以上、家主の料理を食べさせられる危険と、常に背中合わせにあるということである。だが、約一名、それを理解していない人物がいた――
「……それは、一体どういう意味なのかしら?」
「どうって、ミサトさんの料理は食べ物というより毒ぶ……はっ!」
思わず素直に答えかけたユカが慌てて顔を上げると、そこには手にしたエビちゅの缶をべきゅっと握り潰したミサトが、こめかみにびきびき青筋浮き立たせた、さながら般若のごとき形相に無理矢理笑みを浮かべて立っていた。その凶悪な表情に、戸口に突っ立っていたトウジが抱えていたポリ袋を思わず取り落とす。
「ミっ、ミサトさん……っ」
タンクトップにホットパンツという格好で腕組みをして仁王立ちしているミサトの姿に、ユカとペンペンは思わず抱き合って震え上がった。
「た、ただいま……」
「……おかえりなさい」
こめかみをぴくぴくと痙攣させながら、ミサトは同居人の少女を見下ろした。最近になってようやく解ってきたのだが、このユカという少女、親しい人が相手だと結構口に遠慮がない。いくら自分が料理が上手いからって、人の料理をつかまえてマズイだ何だと言いたい放題だ。その挙句に、言うに事欠いて毒物とは何事か。
(そりゃあね、確かに万人受けする味じゃあないかもしれないけどさぁ)
と、ミサトは危険な勘違いの度合いを深めていく。そう思っているのは世界で彼女ただ一人である。万人受けしないのは、まず疑いようのないところだが。
(ちょっとした好みの違いだけで、そこまで言わなくってもイイじゃないのよ)
一応、自分の味覚が他人とほんの少しだけ違うかもしれないという自覚は持っているらしいが、彼女にとってはそれも『ちょっとした違い』でしかないようだ。まあ、紙の裏と表も、距離的には物凄く近いと言えなくもない。
「どうしてあたしの料理を食べると、ペンペンが辛い思いをするのよ?」
「――え?」
不愉快、というよりはむしろ不思議そうな口調で尋ねたミサトを、ユカは驚きの眼差しで見やった。どうやら彼女は、自分の料理(果たしてそう呼んでよいのものかどうか疑問だが)がどれほど危険な代物であるか、まるで理解していないらしい。それも無理はない――彼女は何を食べても「美味しい」のだから。
だが、地球上に存在する普通の生物にとっては、ミサトの料理は毒物以外の何物でもないのだ。NERVの誇るマ○ド――もとい、才媛・赤木リツコ博士に『解析不可能』とまで言わしめた代物である。
「だって……、食べちゃいけないもの食べたら、普通躰壊しません?」
「……つまり、あたしの料理は食べちゃいけないものと言いたいわけ?」
「ていうか、食べて平気な方が不思議なんだけど……今までよく無事だったねぇ、ペンペン」
「……クァ」
思わず口を滑らせたのか、それとも本人は聞こえていないと思っているのか、ミサトの台詞にユカが小声でいちいち反論を加えるたび、ミサトのこめかみにびきびきと青筋が浮き立っていくのだが、ユカはそれに気付かない。
「言っときますけどねぇ、あなたが来るまでは、ペンペンの世話はあたしがしてたのよ?」
「……いったいナニ食べさせられてたんだか……」
はあ、と溜息を吐いてユカがペンペンの頭を撫でると、慰められたペンペンは理解者を得た喜びも露わに、切なげに一声鳴いて身を摺り寄せた。
ユカが引っ越してくるまでの彼の食生活たるや、悲惨の二字に尽きた。レトルトや干物がそのまま出てきた時はまだマシで、下手に奮発しようものなら、うっかり生死の境目を漂ったりなんかしちゃったもんである。飼い主の方は、自分が美味しいと思っているものを与えれば喜ぶと思っていたようだが……。
そもそも、ペットに人間と同じ味付けをしたものを与えてはいけない。カレーを食わせるなど言語道断である。ましてやミサトの味付けなど、死ねといっているようなものだ。
……が、そんな彼の態度がミサトの怒りに油を注いだ。そりゃもう、見事なぐらいどっぶわぁっと一気に。
「ユ〜カ〜ちゃぁぁぁぁぁん?」
「は、はひっ」
地の底から響いてくるようなおどろおどろしい声音に、ユカの顔がひきっと凍りつく。怒りのあまり、ユカの背後に立ち尽くしたまま硬直しているトウジとレイに、ミサトはまだ気付いていない。
「あなたとは、いっぺんヒザかち割ってお話したほうがいいようねぇ」
「……あの……わたし、ヒザはあんまり割りたくないんですけど……」
「あら? 指をツメるの間違いだっけ?」
「それもイヤですぅ……」
「ん〜? 割るのは頭? それとも腹だったかしら。それじゃハラキリよねぇ……って、ンなこたぁどうでもいいのよ! ハラだろうがツボだろうが、この際どっちも似たようなものだわっ!」
「全然違うんですけど……」
「ん……そう、かな」
一瞬、首を捻って考え込んでしまって、何を怒っていたのかつい忘れてしまったミサトは、顔を引き攣らせたまま乾いた笑みを浮かべるユカから視線を外し、彼女の胸元で震えながらいやいやをするように首を振っているもう一人(?)の同居人を見やった。
「だいたいね、あんたがいけないのよ、ペンペン! あんたがお腹空かしてたみたいだったから、人がせっかく気合入れて作ってやったってのに、一口食べただけでぶっ倒れるなんて失礼じゃない? い〜い、全部食べるまで許さないからね!」
「ギャワッ!」
逃げ出そうとするかのように羽根をばたつかせるペンギンを抱き締めて、ユカは哀願するような瞳でミサトを見上げた。
「ミサトさん……それじゃペンペンが死んじゃうよぉ……」
「あんですってぇっ!? ……って、あ、あら?」
あまりにも正直なユカの台詞に思わず我を失いかけて、きっ、とユカを睨みつけたミサトは、戸口で硬直したままのトウジと、相変わらず何を考えているのかよく解らない瞳でこちらを見つめているレイにようやく気付いた。
「い、いらっしゃい」
ミサトは慌てて笑顔で取り繕ったが、ここまでの一部始終を見た後では既に手遅れである。精一杯にこやかな微笑みを向けてみても、トウジの顔は相変わらず泣きそうに引き攣ったままだった。
まずったか、とミサトは小さく舌打ちをする。もう少し頼れる美人のお姉さんを気取っていたかったのに、などと思うミサトは、そんな少年の幻想なんぞ最早カケラも残っていないことなど知る由もない。
「どうぞ、上がって?」
「お、おじゃまします……」
まだ先刻の恐怖が脳裏に灼きついているのか、ここへ来る前の意気込みは何処へやら、すっかり怯えたような視線をミサトに向けながら、ユカに促され、トウジは覚悟を決めて靴を脱いだ。レイがそれに続く。
(……あら?)
ユカの真似をしたのか、玄関で屈みこんでサンダルをきちんと揃えなおすレイの仕種に、ミサトはおやっと目を向けた。よく見ればいつもの制服姿ではなく、可愛いワンピースに身を包んでいる。
レイの私服姿など、見たのはこれが初めてである。昨日はあのまま酔っ払って(廊下で)寝てしまったし(おまけに放置されたままだった)、今日は今日で散々溜め込んだ仕事を片づけるのに忙しかったから、ユカたちの様子をモニターしているヒマはあまりなかった。少し目を離していた間に、レイの雰囲気が随分柔らかくなっている気がする。
「レイ、どうしたの? その格好」
「……ユカさんが」
「ユカちゃんに買ってもらったの? へぇ〜、可愛いじゃない」
言って、ミサトはレイの姿を頭のてっぺんから爪先までざっと見回し、にへら、と顔を緩めた。基本的に可愛いものが大好きな彼女である。その反応はむしろ当然といえたが、今までミサトはレイに対してそんな感情を抱いたことはなかった。
部下とはいえ、そもそもレイはゲンドウとリツコの管理下にある。彼女とミサトの接点は、使徒再来以前には殆ど皆無に等しく、なにぶん相手が異常に無口ということもあって、こちらから話し掛けてもリアクションが薄いので、どう接したらいいか解らなかったのだ。正直言って、レイがこんな可愛い服を身につけることがあるとは思っていなかった。
人間らしいものを全て何処かに置き忘れてきたようなこの少女が、最近は妙に可愛い。これもユカの功績か、とミサトは思う。彼女は、周囲の人間を少しだけ優しい気分にさせる。
「似合ってるわよ、レイ」
「……」
ミサトのその言葉に、レイは微かに頬を染めて俯いた。何故だか解らないが、胸の奥がくすぐったい。同じようなことはユカからも言われたが、その時に感じたものに似ている。体温が僅かに上がっているのを感じて、レイは戸惑った。自分の躯の反応が、彼女には理解できない。
「あれぇ〜? レイってば、もしかして照れてるぅ?」
そんなレイの仕種が可愛くて、ミサトはついはしゃいだ声をあげた。顔を覗き込もうとすると、レイはさらに俯いてしまう。その反応に、ミサトの顔はますますてれん、とだらしなく際限なく緩んでいった。
レイの前に屈み込んだミサトは、心からの柔らかな笑みを口許に湛え、紅い瞳の少女を見つめて言った。
「よかったわね、レイ」
心の奥を温かく包み込んでくれるようなその微笑みに、レイは少し驚いたように目を見開いた。数瞬後、その瞳がわずかに柔らかくなり、口許がふわりと花開くように笑みを零す。
「……はい」
その笑顔に、ミサトは思わず見惚れていた。
こんなに可愛い顔も出来るんだ、という驚きをこめて。
「……にしても、また随分たくさん買い込んできたわねぇ」
ユカの前に置かれた大量の食材の袋を見て、ミサトは溜息を吐いた。先に冷蔵庫に入れておかねばならない魚などの生鮮食品を選り分けながら、ユカは嬉しそうに笑う。
「だって、今夜は大人数だから。トウジは一杯食べるし……」
「あらぁ、やけに嬉しそうねぇ、ユカちゃん。鈴原くんがいるからかなぁ?」
「えー? そんなことないですよぉ。いつもどおりですってばぁ」
言いながら、つい鼻歌が零れたりしているあたり、見るからに上機嫌である。食材を見つめる瞳までもがなんだか愛おしげで、全身かららぶらぶのオーラを放っているように視えた。さしものミサトも、勝手にやってちょうだい、という気になる。
「んで、今夜の献立はナニ? なんか色々あるけど」
「天ぷらです。レイがお肉食べられないって言うから。野菜なら大丈夫だし、お魚も挑戦してみようかなって」
「あらぁ、いいわねぇ。んじゃ、先に始めるとしますか」
「あ、ミサトさん」
冷蔵庫を覗き込もうとするミサトを、ユカは呼び止めた。
「いいものあるんですよ」
笑みを浮かべながら、ユカは袋の中からあるものを取り出してみせた。茶色っぽいガラスの小壜である。馴染みの酒屋に寄って買ってきたものだ。
「なに? あら、イモ焼酎じゃないの。どうしたの? これ」
「えと、サービスです」
「あらー。そんな、気を使わなくてもいいのに〜」
そう言いながらも、焼酎の壜を手にした時、ミサトは既にぐにゃりと相好を崩していた。そんな彼女を見て、ユカはちょっと言いにくそうに眉をひそめてから、思い切って口を開いた。
「その代わり、今日からビールなしですからね」
「ええええーっ!?」
「だってミサトさん、飲みすぎなんですもん。それ一本で最低三日は保たせてくださいね。言っときますけど、エビちゅは冷蔵庫に入ってるのがラストですから、大事に飲んでくださいよ。当分買いませんから」
「しょんなぁぁ〜、出来るわけないわよぉ〜。あたしからエビちゅをとったら何が残るのよぉ〜〜」
「あ、一応自覚はあるんだ」
よよ、と泣き伏す真似をするミサトを見やって、ユカはぼそりと呟いた。
「そんなことないとか言いなさいよっ!」
「あはは、無理ですよそんなの〜」
「朗らかに笑って言うなぁっ! 他人事だと思ってぇっ!」
「他人事じゃないですよ? ミサトさんの酒代、家計をすっごく圧迫してるんですから。見ます? 真っ赤っ赤の家計簿」
「え、遠慮しとく……」
にこやかな笑みを浮かべながらも、ユカの瞳はまるで笑っていない。最初はサービスのつもりだったのだが、彼女が家を空けているこの二日間にミサトが飲んだエビちゅの空き缶の山を見て、固い決意をした。帰ってきた時でさえ、ミサトは既に二、三本空けていたのだ。
引き攣った笑みを浮かべ、これまで奪われてはたまらないとばかりに焼酎の壜を抱き締めるミサトを見やって、ユカはさらに爆弾を追加した。
「それにミサトさん、ビール主食にしてると太りますよ?」
「んぐっ」
「最近、ふっくらしてきたって言われません?」
「そ、……そう、かも……」
レトルト中心の食生活を送っていた頃は、ミサトの食べる量はそれほどではなかった。だが、ユカが来てからというもの、まともな食事を摂るようになった彼女である。
しかし、げに習慣とは恐ろしいもので、食事の前にまずビール、食事の最中にビール、食事の後にまたビール、風呂上りにまたまたビール、寝る前にもう一本、というパターンは変わることがなく、家でちゃんと食事を摂る回数が増えた所為だろう、酒量は減るどころか逆に増えていた。ましてミサトの場合、職場でも堂々と飲んでいるから始末が悪い。
脂肪のつきにくい油を使うとか、牛乳も低脂肪のものを選ぶとか、砂糖の代わりにローファットの甘味料を使うとか、ユカはミサトのために色々と健康に気をつかっていたのだが、根本的な原因、即ちミサトの酒量が変わらないのではどうしようもない。結果的にミサトのカロリー摂取量は増大の一途を辿り、対照的に運動量は殆ど変化していないので、必然的に余剰分は脂肪として蓄積され……ああっ、恐ろしくてこれ以上はとても言えないっ。
(……そういえば、お気にのスカートとか、最近ちょっちキツい、かも……)
何気なくタンクトップの下のお腹をつまんだミサトは、その瞬間、見事なぐらい一気に青褪めた。見た目はそれほどでもないのだが、指先に伝わってきたのは骨でも皮でも筋肉でもなく、疑いようもなく脂肪以外の何ものでもない、ぷにょぷにょした柔らかな感触だったのである。そりゃあもう、しっかりつまめたりしたわけだった。
(なんてこと。コトは急を要するわっ)
「……ユカちゃん」
「はい?」
「あたし、晩御飯要らないから」
「ダメですよぉ」
固い表情で言ったミサトに、ユカはにこりと微笑んでみせた。
「そんな半端なダイエットじゃ太るだけです。ちゃんと食べて、その分しっかり運動して下さい。やるなら一発で決めちゃわないと、リバウンドで逆に太っちゃいますよ?」
「こ、怖いこといわないでよ……」
「リツコさんに頼んで、ちゃんとしたダイエットメニュー組んでもらいますからね」
「ふぁ〜い……」
悄然として項垂れるミサトを見やって、ユカは少し可哀想かなと思わないでもなかった。ミサトのダイエットにかこつけて、自分もついでにちょっとダイエットしようかな、と思っていたからである。
(でも、もう重いなんて言わせないんだからっ)
トウジに言われたことを、しっかり気にしているユカだった。
なんのことはない、ミサトは被害者と言えなくもないのだが、酒代が家計を圧迫しているのも、彼女の健康が心配なのも事実である。完全に禁酒させることは出来ないにしても、このまま放置すれば、遠からず糖尿病か重度のアルコール依存症になるのは目に見えていた。
それでなくても、生活習慣病患者の予備軍に片足はおろか両足突っ込んでいるミサトである。食卓を預かる身として、自分がしっかりしなくては、と思うユカだった。
ソファに胡座をかいたトウジの目の前には、少し異様な光景が現出していた。
テレビの正面に落ち着いて新聞をばさりと広げているペンギンと、その傍らにぺたりと座り込んでTVを見ている蒼銀の髪の少女。なんというか、実に――
(……シュールや)
器用にリモコンを操作してチャンネルを変えるのはペンギンで、少女の方は食い入るように画面を見つめている。時折、ペンペンがお尻を振ったり羽根を軽く羽搏かせたりする他は、両者に動きはない。
と、不意に、レイが手を伸ばした。一瞬、ペンペンが頭を動かす。が、次の瞬間、彼の躯はすっぽりとレイの腕の中に抱え込まれていた。
「クァァッ!?」
予想もしていなかったレイの動きに戸惑いながらも、ぎゅっと抱き締める以外に何もされないと解ると、ペンペンは藻掻くのをやめて躰から力を抜いた。彼の知る他の人間とは違い、次にどんな行動に出るかまるで予想がつかないだけに、咄嗟に対応のしようがないが、敵意はまるで感じない。
「……クァァ〜〜〜……」
膝の上にお尻をのせて、抱き締めたペンペンの躯をゆったりと揺すぶるレイの姿は、赤ん坊をあやしている母親のようにも見えて、何気なく見ていたトウジは少しどきりとした。
ゆったりと揺られて心地良くなったのか、ペンペンは嘴を半開きにまま、目をとろんとさせていた。そんな彼をレイは静かに見つめている。これといった感情は表れていないのだが、レイの表情はやけに安らいでいるように見えた。
そして、それを眺めているトウジも、不思議と穏やかな気分になっていくのを感じていた。
のだ、が――
そんな穏やかな時間は、いともあっさりとぶち壊された。
「すずはらくぅ〜ん」
「わひゃあっ」
いきなり背中にのしかかられて、トウジは思わず素っ頓狂な声をあげて飛び上がった。ずしりと重くて暖かな、そして柔らかい感触が背中に伝わってきて硬直する。汗に混じって、微かな香水の匂いが鼻をくすぐった。ユカとは違う熟れた女の色香をそこに感じてしまって、トウジは躯を硬くする。
「な、なな、なにしはるんですか、ミサトさんっ」
「聞いてよぉ〜、ユカちゃんたらヒドイのよぉ〜。あたしにお酒やめろって言うのぉ〜」
「もう、別にやめろなんて言ってないじゃないですか……」
わざとらしいミサトの泣き声に苦笑しながらキッチンから顔を覗かせたユカは、トウジに抱きついているミサトの姿を見て、瞬時に表情を凍りつかせた。
「だっ、ダメぇ〜っ!」
「なうっ」
半分泣きそうな表情でミサトを引き剥がしたユカは、びたっとトウジにくっつくと、そのままミサトを睨みつけた。ミサトに続いてユカに抱き締められ、トウジの顔はもう真っ赤だ。
「なんてことするんですかぁ〜」
「ただのジョークじゃないのよん。やぁねぇ、ユカちゃんてばヤキモチ妬いちゃってぇ」
カーペットの上で胡座をかきながらユカを見上げたミサトは、胸元にぎゅうぎゅうと顔を押し付けられて耳まで真っ赤になっているトウジの姿に、にんまりと相好を崩した。
「それより彼、嬉しそ……じゃない、苦しそうだけど?」
「えぁっ!?」
トウジの顔を抱き締めていた自分に気付き、ユカは慌てて彼を解放する。が、トウジはすっかりのぼせてしまって、そのままフラフラと背凭れに身を沈めた。
「トウジ、大丈夫?」
「だ、だいじょぶやぁ〜……」
「あらら、結構純情なのねぇ。ユカちゃんとあんなコトやそんなコトもしてるくせにぃ」
「ミサトさんっ」
「ところでお鍋、大丈夫?」
「大丈夫ですっ」
にまにま笑いながらのミサトの一言にかぅっと噛み付き返してから、ユカは心配そうにトウジを見やってからキッチンに戻った。下ごしらえの途中なので、まだ天ぷら鍋に火は入っていない。
「……ごめんねぇ。ちょっち、悪ノリしちゃった」
かなり怒っているらしいユカの背中を見送ってから、ミサトはトウジに目をやった。
「ユカちゃんって、結構ヤキモチ妬きよねぇ」
「……解っててやったんですか」
「ん〜……軽い冗談、のつもりだったんだけどね。ちょっちびっくり」
「ほんま、かんにんしてください」
のそりと身を起こしながら、トウジはまだかなり赤い顔で言った。
「ユカにヤキモチ妬かれたら、ワシどないしたらええか解れへん」
ちらりとミサトを見やってから、ぼそりとそう呟いて、トウジはキッチンの方に顔を向ける。その目線を追ったミサトは、先刻までペンペンを抱いていた筈のレイがユカの傍にいるのを見つけて、目尻を下げた。ペンペンはカーペットの上で気持ちよさそうに眠っている。
「でも、少し嬉しかったりしたんじゃない?」
「……まあ、それは……。けど、ホンマ困るんです」
自分の方がずっとヤキモチ妬きだと思うから、ユカが自分に嫉妬してくれるのは嬉しいのだが、それはそれで、そうなるとどうしたらいいか解らない。どうすれば彼女を安心させてやれるのだろう。
「解ったわ。もうやらない」
そう言うと、ミサトはトウジを見つめて軽く頷いた。ユカの泣き出しそうな表情に驚いたのは、むしろ彼女の方だった。軽い冗談のつもりだったのだが、結果的に、自分はまだ彼女の事を解ってやれずにいると再確認させられただけだった。
「温泉、行ってきたんですって?」
ソファの背凭れに腰をおろしながら、ミサトは言った。出来るだけさりげなく話を切り出す。まさかずっと監視がついていたとはいえない。
「レイ、行ったでしょ?」
「……来ましたけど」
「あらぁ? お邪魔しちゃったかしらぁ? 二人っきりで何するつもりだったのよん、中学生の癖にィ」
少しばかり憮然とした表情を浮かべたトウジに、ミサトは会心の笑みを浮かべた。だらしなく緩む口許を抑えながら、瞳を笑わせる。トウジはというと、ミサトの言葉に耳まで真っ赤になって俯いていたが、ややあって、恥ずかしいのをぐっと堪えて顔を上げた。
「やりたいだけやったら、家に連れてってます。あん時は、なんやユカのこと、あのまま帰したのうて。もうちょっと二人でおりたかっただけなんです」
「そっか。……初めてのデートだったんだもんねぇ」
胸の奥で微かに疼く甘い痛みを覚えつつ、ミサトはグラスを傾けた。若い恋人たちからデートの時間を奪ってきたのは自分たちだ。そして、これからも奪い続けるのだろう――使徒が現れる限りは。
あれの存在を、自分は許すことが出来ないから。
「ごめんねぇ……出来るだけ休みはとらせてあげたいんだけど……。ユカちゃんは素人だから、やることがたくさんあんのよねぇ。素人戦わせてるあたしが言うのもアレだけどさ」
「そう思うんやったら――」
言いかけて、トウジはミサトの厳しい横顔に続く言葉を飲み込んだ。
「……ごめんね。でも、あたしじゃたぶん、ダメなのよ。結局、あたしはユカちゃんの支えにはなれないから」
父を殺した、使徒への復讐。ミサトの心の奥底で燻り続けるその思いは、消えることも薄れることもなく、未だに彼女の心を縛っている。ユカのことを家族のように思う自分がいる反面、部下として、使徒と戦うための駒として冷徹に見ている自分も、また間違いなく存在するのだ。
その自分がともすれば表に顔を出して、結局はユカを傷つける。その度に思う――自分はどうしようもなく弱い、と。素面ではユカの監視も出来ないぐらいに。
こんな自分が家族面して、彼女の支えになりたいなど、笑わせる。
「鈴原くん。……ユカちゃんのこと、お願いね」
「解ってます」
そんなことは、改めて言われるまでもない。だが、ミサトの言葉に感じた重みは、トウジの胸にずしりと響いた。
(ったく、なんだよトウジのかばぁっ! デレデレしちゃってさぁっ!)
殻を剥いた芝海老の背ワタを取りながら、ユカは可愛らしく頬を膨らませていた。
少し前まで、トウジがミサトに憧れていたことはユカも知っている。それだけに、ミサトに抱きつかれて赤くなっていたトウジが許せなかった。無論、ミサトがふざけただけだというのも解ってはいるのだが、どうにもならない。
長年の経験ゆえか、たとえ怒っていようが手元が狂うことは滅多にないのだが、多少雑になるのは否めない。
トウジに怒るのは筋違いだと、自分でも解ってる。こんなにヤキモチ妬きだと、トウジに嫌われるかもしれない。そう思うと、それまで流れるように動いていたユカの手が自然と止まった。 もしトウジに嫌われたら――そんなこと考えたくもないし、もしそうなってしまったら、どうしていいのか解らない。
(やだなぁ。なんでわたし、こんなにヤキモチ妬きなんだろ)
手で芝海老を半分にちぎりながら自己嫌悪に沈んでいたユカは、ふと傍らに人の気配を感じて振り向いた。リビングでペンペンと一緒にいた筈のレイが、すぐ傍に立っている。わずかに首をかしげて、ユカはレイを見やった。
「レイ? どうしたの?」
レイは、ユカの手元をじっと見つめている。
「……やってみる?」
試しにそう訊いてみると、レイは蒼銀の髪を揺らして頷いた。
「じゃあね、ここをこうして……」
一通りやって見せてから、ユカはレイに後を任せてキスとイカの下ごしらえに取り掛かった。レイのことだから、これまで包丁など触ったこともないに違いない。そんな人間には、包丁を使った作業は危なくてとてもさせられない。誰が危ないというより、何より見ている人間の方が怖い。このあたり、免許とりたてのドライバーの運転する車に乗る感覚にちょっと似ている。
横目で様子を窺うと、恐る恐るといった様子で、レイはユカに教わったとおりに海老の殻を剥き、背わたを取り除いて半分にちぎっていた。その表情は真剣そのもので、それでも何処となく楽しげに見えたので、ユカは嬉しかった。
実際、レイは初めての作業を楽しんでいた。指先から伝わるその感触は、彼女が今までに感じたことのない類のものだ。それは、他の生き物の生命を奪って生きるという、生物の業を実感させられる作業ではあるのだが、決して不快ではない。何故なら、それは生きるために必要な行為なのだから。
そうしなければ死んでしまう。仕方がないのではない。まだ生きていたいから、そうするのだ。それを罪だというなら、甘んじて受けよう。
――もう少しだけ、生きていたい。
そう、レイは思う。己の隣にいる、K髪の少女と共に。
「出来ましたよ〜」
リビングにユカの声が響くと、それまで眠っていたペンペンがばたっと飛び起き、ミサトやトウジとともに先を争うようにして食卓に駆け込んできた。
何もそんなに慌てなくても、とユカは笑う。
テーブルの上に盛り付けられた天ぷらを見て、ミサトとトウジは思わず歓声を洩らした。見事な出来栄えだ。ペンペンはというと、皿に盛られた新鮮な鰯を前に、悦びを全身で表現していた。残りはミサトのつまみになっている。
「めっちゃ美味そ〜やなぁ」
「おお〜、すごいじゃないのぉ。ね、レイが作ったのはどれ?」
「あ、これと、これです」
「へぇ〜、どれどれ?」
「ダメですっ」
キスの天ぷらに伸ばしかけたミサトの手を、ユカが素早くはたいた。
「ちぇ〜」
子供のように頬を膨らませるミサトの前に、ユカは氷の入ったグラスを置いた。それを見て、ミサトは大人しく席につく。
「「「「いただきます」」」」
「クァァ〜」
四人と一匹は席につくと、一斉に食べ始めた。
つづく
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あとがき
このあたりは苦しみましたねぇ……全然思い通りに書けなくて。
……今もだけどさ(--;)
えっちはメインで書くつもりはなくて、刺身のツマというか……、普通の恋人同士ならやって当たり前だろう、というような流れに従うつもりですが、どうもね。
らぶらぶなシーンは書いててカユいッス(^^;
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