カレカノ #19
〜彼と彼女の事情〜
K A R E × K A N O
Written by:きたずみ
#19
「ねぇ〜、もうちょっと。お願い、あと一杯だけぇ〜」
「ダメですってば。そんなこと言って、もう半分も飲んじゃってるじゃないですか」
「だぁって美味しいんだもぉん」
甘えるような口調で言いながら、ミサトは身を乗り出してイモ焼酎の壜を取り上げようとしていたユカに腕を絡みつかせた。幼さを色濃く残した顔とは対照的に、十四歳とはとても思えないほど発育したその躯をそっと引き寄せ、彼女の弱点のひとつである耳の後ろに、ふっと軽く息を吹きかける。
「あ、ちょ、……ぁ、ダメ、そんな……ぁんっ」
「んっふふ〜、ユカちゃんの弱いトコはみ〜んな知ってるのよぉ」
「……ぅんっ」
アルコールでとろんと潤んだ妖しげな瞳を同居人の少女に向けたミサトは、リビングにレイとトウジがいることなどすっかり忘れて、敏感なその躰の上に軽く指先を滑らせてやった。思わず艶かしい声をあげたユカに瞳を細め、愉しげな含み笑いを洩らす。
「ユカちゃんてば、相変わらず感度いいわよねぇ〜」
「……っもう! どこ触ってるんですか!」
ミサトの手を振り払ったユカは、焼酎の壜を抱き締めたままミサトから距離を取った。顔を真っ赤にして、捲り上げられたスカートを片手で直す仕種が色っぽい。
「だぁって、あれからユカちゃんてばつれないんだもぉん」
「あ、あれは、だって……」
誘ったのは一体どちらだったのか、というのは良く覚えていない。二人でお風呂に入ったり、一緒に寝たりしているうちに、好きな人の話になって何となく……という感じだ。
やはり初めてとなると怖かったし、実際、ミサトやリツコに教わったことというのは、トウジとの関係においてかなり役に立っているわけで、それはそれで感謝はしているのだが、ユカとしてはあれは一種の授業のようなものと認識しており、いまさらその関係を続けるつもりはなかった。
無論、ミサトとしてもトウジとユカの関係を壊してまで割り込もうとは思わない。ただ、一から仕込んだ可愛い仔猫をトウジに横取りされて、少しばかり寂しい気分はあった。
だから、少しばかり意地悪してやろう、という気分になったのである。
「ひどいわユカちゃん。散々あたしを弄んで、飽きたらゴミのように捨てるのねぇっ」
「人聞きの悪いこと言わないで下さいっ!」
わざとらしい台詞を吐きながら、わっとテーブルに伏せて泣き崩れる真似をするミサト。いつものことながら、こういうどうでもいいようなところの芸は妙に細かい。
やれやれと呆れながらも、ユカはリビングのトウジにちらりと瞳を走らせ、小さく溜息を吐いた。
彼には具体的なことは話していないが、今のやりとりで何となく解ったんじゃないかと思う。別に隠していたわけではないが、やはり少しばかり後ろめたい思いはあった。
(やっぱし、浮気になっちゃうのかなぁ……)
突っ込んでくれるまで引っ込みがつかないのか、しつこく嘘泣きを続けているミサトを見やって、ユカは再び小さく息をついた。
ユカとミサトの悩ましいやりとりを、トウジはお茶を啜りながら眺めていた。
声もそうだが、何せグラマラスな躯つきの二人である。おまけにミサトはもとより、ユカも昼間着ていたワンピースから、短めのTシャツとミニスカートという動きやすい格好に着替えているからたまらない。揉み合ううちにスカートが捲れ返ったりして、ともすれば太腿やお腹が露わになったりする。
見ている方としては素直に喜んで良いのか、それともここはやはり瞳を逸らすべきなのか、非常に迷う状況だった。
己の欲望に素直な彼の親友なら、「男なら涙を流して喜ぶべき状況だね、コレは!」とか言って、滅多に拝めないこの光景を問答無用でカメラに収めていたことだろう。
無論、えろえろじゃーじまんとしても、物凄く嬉しい状況であることに変わりはない。
(……めっちゃ揺れとるなぁ……)
何気なく見ているようで、しっかり鼻の下を伸ばしているトウジだった。彼の視線は、薄い布地の下でゆさゆさと重たげに、しかし柔らかそうに波打ちながら弾む四つの膨らみに釘付けである。
こういう時、布地にあまり余裕のないジーンズは結構ツラい。やはりジャージの方が楽でええなぁ、と思ったりする。
そういうわけで、ミサトの発言はあまり気に留めていないトウジだった。
「スキありっ」
「あーっ! ……もぉっ!」
「へへーんっ! 油断大敵無用心って言うのよっ!」
ミサトの嘘泣きに騙されて近づいたユカが壜を奪取されたところで、トウジは湯飲みのお茶を飲み干すと、のそりと立ち上がった。ペンペンと一緒にTVを眺めながら、時折ミサトとユカのやりとりに瞳を走らせていたレイが、その動きにぴくりと反応する。
窺うような視線をこちらに送ってくる彼女は、どうやらここに居座るハラのようだ。だが、対抗して自分も、というわけにはいかない。何しろここは女所帯なのだ。
「ほなワシ、そろそろ帰るわ」
「あ……うん」
そう声をかけた瞬間、ユカが一瞬浮かべた残念そうな表情に思わず胸がちくりと痛むが、あえて心を鬼にしてその誘惑を振り払う。
だが、彼を誘惑しようとするぴんくの悪魔は、彼の心の中ではなく現実の世界にいた。
「せっかくだから泊まってけばぁ? 痩せ我慢しなくてもいいのよん」
「な、なにゆうとるんですか、ミサトさんっ」
「なに? イヤなの?」
「い、イヤっちゅうワケや……」
「じゃ、泊まってく? うち、壁薄いけど」
にまぁっと悪戯っぽい笑みを浮かべるミサトに詰め寄られて、トウジは顔を赤らめた。無論、イヤなわけはないのだが、なんといってもやりたい盛りの青少年、昨夜に続けて今夜もとなると、さすがに我慢が続きそうになかった。
「ミサトさん、いい加減にしてよ。トウジ、困ってるじゃない」
「え〜? そんなこと言って、ユカちゃんだってホントは泊まってって欲しいんじゃないのぉ?」
「え……っと、それは――」
ミサトの台詞に、一瞬トウジを上目遣いにちらりと見たユカは、そのまま真っ赤な顔で俯いて口ごもった。その仕種にトウジの決意はぐらぐらと激しく揺らぐ。
が、天秤が大きく傾きを変えるより先に、パッと顔を上げたユカが勢い良く彼の腕にしがみついた。
「いこっ、トウジ。そこまで送るよ」
「……お、おう」
何となく残念な気分で、トウジは頷いた。
「ほな、ミサトさん、失礼します」
「気をつけてね。……あ、念の為に言っとくけど、ちゃんと帰ってくんのよぉ〜」
にんまりと笑いながら、連れ立って出て行く二人の背中にそう声をかけたミサトに、戸口で振り返ったユカが、かぅっ、と噛み付くような素振りをする。
「はいはい、行ってらっさい」
軽く肩をすくめて、ミサトは小さく手を振った。そのまま、後を追おうと立ち上がりかけたレイの襟首をむんずと掴んで引き止める。
「レ〜イ〜、ヤボはダメよん」
「……」
無言のままながら、何処となく不満げに振り返るレイに、ミサトはにんまりと笑った。物を知らないこの少女に、まずは人生の楽しみ方というものを教えてやらずばなるまい。
「いい? レイ。こおゆうのはね、邪魔しないよーにこっそり覗くのがスジってもんなのよ?」
外はもう、すっかり暗くなっていた。
虫の鳴き声と、時折外を通り過ぎる車のタイヤの音だけが、ふと憶い出したように沈黙を破る。その唐突さが、何だかやけに心地いい。
久し振りに二人きりになれた気分だった。二人きりで過ごした遊園地での初デートが、なんだかすごい昔の事のように思える。
まだ歩き慣れたとは言い難いマンションの廊下に、二人の靴音が反響していた。
ただ黙って歩いているだけなのに、こうして二人きりでいられるというそれだけでひどく心が落ち着いていくのを、トウジは自覚していた。
ミサトやレイといる時のユカと、今こうして自分の隣にいるユカ。
ミサトやレイに対し、母性にも似た優しさを見せるユカと、彼と二人きりでいる時の、無制限に甘えてくる幼子のようなユカ。
一体、どちらが本当の彼女なのだろう。そして、自分はどちらをより好ましいと感じているのだろう。
どちらも碇ユカという少女が持つ一面には違いない。だが、あえてその両方を受け止めろというのは、まだ十三歳の少年には少々酷な注文かもしれなかった。
「……ゴメンね」
トウジの腕にしがみついたまま、ユカがポツリと言った。まるで縋りつくように不安げなその声の響きに、トウジはつい彼女を抱き締めたくなる。
「ごめんて、なにが?」
「ん……色々。嫌な思いさせちゃったかなぁって、思って」
「アホ」
優しい響きを伴った低い声が、頭の上から降ってくる。つい、とユカが見上げると、トウジは正面を見据えたまま、浅黒い顔をほんのりと朱に染めていた。
「そんなん、いちいち気にすんな。ホンマにイヤやったら、そう言うとるわい」
「……うん」
トウジの言葉に頷いて、ユカはトウジの腕をぎゅっと抱き締めた。剥き出しの二の腕に頬をそっと摺り寄せ、その温もりに瞳を細める。肘に押し付けられる膨らみの柔らかな感触に、トウジの手が微かに震えた。
「温泉、また行こうね」
「せやな。今度は、邪魔が入らんようにしたいな」
「レイのこと、邪魔だった?」
「……ちょっとな」
瞳を上げて問うユカに、トウジは苦笑混じりに頷いた。
「ほっとくとユカのこと、綾波に奪られそうやからなぁ。ワシ心配でかなんわ」
「……ばか」
冗談めかして言うトウジに、ユカがそっと躰を預けてくる。
ゆっくり歩いている筈なのに、マンションの廊下は何故かひどく短くて、あっという間にエレベーターについてしまった。
ボタンを押してエレベーターが来るまでの間、二人は寄り添って佇んだまま、ずっと黙っていた。言葉は要らなかった。ただ、触れ合う肌から伝わってくる相手の躯の熱さが、心を和ませてくれる。
エレベーターの扉が開くと、ユカはすっと腕を解いた。先にケージに乗り込む彼女の背中を目で追うトウジの鼻孔を、花の香に似たユカの髪の匂いがふわりとくすぐる。自分の衝動が抑えきれなくなりかけているのを自覚しながら、トウジはケージに乗り込んだ。コンソールに手を伸ばすユカを横目で見つめていると、頭の芯が痺れてくるような感覚に襲われる。躯の奥底から湧き起こってくる、抑えきれない衝動に胸が高鳴る。
かすかに汗ばんだうなじ、ほっそりとした腰、剥き出しの白い二の腕。そっと髪を掻き上げる何気ない仕種。それら全てが、トウジの鼓動を高める助けとなる。
「――なに?」
トウジの視線に気付いてふと顔を上げたユカの瞳を、正面から見つめた瞬間。それは、何処からともなく突然やってきた。
後ろから硬いものでがつんと頭を殴られたような、そんな衝撃。
その瞬間、トウジは目の前にいる少女に、再び恋していた。そして、強烈な独占欲が続けて湧き起こってくる。彼女に触れたい。抱き締めたい。キスしたい。彼女が欲しい。そんな思いが頭の中を駆け巡り、じんじんという痺れにも似た感覚が拡がっていって……
「あっ……」
気付くと、トウジはユカの手を掴んで抱き寄せていた。腕の中に飛び込んできた柔らかくて暖かな躯を、いとおしむように大切に、そして決して手離さないとでもいうかのように力強く抱き締める。抱き締めると、ユカの頭はちょうどトウジの胸あたりになる。滑らかな肌と柔らかな産毛の感触を楽しみながら、トウジは項にそっと指を這わせ、抱き締めたユカの髪に鼻先を埋めた。
「やっ、だめ……汗くさい、から……っ」
「平気や」
そう言って、トウジは目を細めた。髪と汗の匂いに混じって、仄かにごま油の香りがする。
「なんや、天ぷらの匂いがする……」
「あ、あたりまえでしょ……」
恥ずかしそうに頬を染めるユカ。身をよじりながらも、決してトウジのことを拒んではいない。そっと抱き寄せられるがままになっている。
「ユカ……」
「……は、はいっ」
頭の上から聴こえてくる低い声と、包み込むように抱き締めてくる力強い腕にドキドキしながら、トウジの胸元にそっと頬を押し付けていたユカは、思わず焦ったような声を上げた。トウジがこんなに積極的になるなんて、思ってもみなかった。
「キスしたい」
「えっ……」
ユカが顔を上げた時には、もうトウジの顔は目の前にあって、真剣な眼差しにぼーっとしている隙に唇をふさがれていた。
「……っ」
一瞬、驚きに見開かれていたユカの双眸が、ゆっくりと潤みながら閉じられていく。
「――ん……」
甘い鼻息が頬をくすぐる。舌先が口の中を這い回り、伸ばした舌を甘噛みされるたび、ユカの全身に甘やかな痺れが拡がっていく。
狭いエレベーター内に、くちゅくちゅという水音と鼻息が響いていた。誰にも邪魔されない、二人だけの時間。互いに今が永遠に続く事を願いながらも、それは叶わぬと知っている。だからこそ、二人の気持ちは一層盛り上がっていく。
「っ……ふぅんっ」
「……っん……」
かすかな震動とともに、エレベーターが止まった。けれど、ユカもトウジも動かない。互いに離れ難く抱きしめあいながら、名残を惜しむように舌先を伸ばしあう。耳朶をくすぐるユカの切なげな吐息と噎せ返るような甘い体臭に、トウジの下半身はすっかり熱く硬直していた。
「――あ……」
ドアが開いていることに今更のように気付いて、ユカはとろんと潤んだ瞳を上げてトウジを見つめた。その瞳をそっと見つめ返しながら、トウジは彼女の舌を吸う。
「ふっ……んぅっ……」
甘えるような彼女の吐息に、このまま彼女をここで抱きたいという欲求はさらに激しさを増していく。だが、それを強引にねじ伏せて、トウジはそっと唇を離した。つうっ、と銀の糸が二人の唇の間に橋を架ける。
「ここでええわ。おやすみ」
そう言って、最後にユカのおでこにそっとキスしてから、トウジはエレベーターを降りた。ユカは未だ、赤い顔でぼーっとトウジを見つめている。
「また明日な」
「あ……う、うん。迎えにいくね」
「おお。ほなな」
「おやすみ……」
懸命に笑顔を浮かべながら手を振って、ユカはトウジの背中を寂しげに見送った。彼の姿が見えなくなってから、ユカはエレベーターの壁に背中を預ける。
「……びっくりした……」
しばらくして、扉が勝手に閉まった。低い唸りを上げてモーターが動き出し、勝手に上がっていくケージの中で、ユカはそっと指先で唇をなぞった。彼の唇に触れられた所が、未だに熱く火照っている。
トウジの事を想いながら、ユカはそっと瞳を伏せ、自分をぎゅっと抱き締めた。
「ずっと一緒にいたいなんて……わがままかなぁ……」
ポツリと呟いて、ユカはそっと息を吐いた。
粒子の粗い画面の中で、少年と少女は抱き合っていた。
今まで二人きりになれなかった分を取り戻そうとするかのように、互いの躯を強く掻き抱き、激しく舌を絡める少年と少女。
すでに周りのことなどまるで目に入っていない。回線の都合で音声までは入っていないが、その荒い息づかいや布擦れの音まで聞こえてきそうだ。
「おおー、鈴原くんてば結構やっるぅ」
グラス片手に瞳を細めてモニターを見ていたミサトは、そんな呟きを洩らしながら、傍らでモニターに見入っている蒼銀の髪の少女の横顔をそっと窺った。
ミサトがあえて彼女にコレを見せたのは、レイの反応が見たかったからだ。
いつも無表情で、ひょっとすると感情などないのではないかと思っていた彼女が、ヤシマ作戦以降、時折感情を露わにするようになった。その時は大抵、ユカが関わっている。
感情はシンクロ率やエヴァのオペレーションに強く関係する。未だ改修中とはいえ、そのうち彼女の乗る零号機も戦列に加わることになるのだ。彼女たちを指揮するミサトとしては、彼女の事を知っておくにはいい機会だった。――という口実はとりあえず存在していればいいわけで、本音の部分は無論、純然たる趣味である。
白磁のようなレイの横顔は、こうして間近に見るとかなりの美少女であることが解る。だが、惜しむべきか、その可憐さを損なっているのは、まるで人形のようなその無表情だった。しかし、今は違う。今の彼女を人形と呼ぶ者は、まずいないだろう。
モニターを食い入るように見つめるレイの顔は、今にも泣き出しそうだった。
しかし、泣くことを知らない彼女は、胸中に溢れ返った感情の奔流を処理できず、ただただ唇を噛み締めることしか出来ない。膝の上で、硬く握りしめられた拳が小刻みに震えている。
いったいどんな感情がその胸の中で渦巻いているのだろう、とミサトは思った。
画面の中にいるユカは、恐らくレイの知るユカではないだろう。まるで親の腕に抱かれた幼子のように、安心しきった表情。何も恐れるものなどないのだと盲信しているかのように、その表情に恐怖や不安の影は微塵もない。
ミサトとて、彼女にあんな表情をしてもらったことはない。全てを投げ出して甘えるようなユカの表情は、現時点では鈴原トウジというひとりの少年にのみ向けられている。それはつまり、自分たちは彼女にとって甘えられるような存在ではないのだと思い知らされるようで、名目上の保護者であるミサトにとっては忸怩たる思いがするのだった。
ましてや、レイにとっては……その思いは、ミサトが察するに余りあるだろう。
彼女のユカに対する感情というのは、喩えて言えば、親犬に対する仔犬のそれに似ているのではないか、とミサトは推測する。その意味では、これは残酷ではあったかもしれない。
だが、今のうちにちゃんと解らせておかないと、いつか何処かで綻びが生じるのではないだろうか。
ユカとトウジの間にも、そしてユカとレイの間にも。
人間、余裕のある時ばかりではないのだから。
ただ息を詰めて目を見張り続けるレイを見つめながら、ミサトはそんな事を、思った。遠からず彼女たちから余裕を奪っていくに違いない己の業を自覚しつつ。
「……レイ?」
モニターを消したミサトに、レイはのろのろと顔を上げた。
「あのユカちゃんを見て、どう思う?」
「……」
レイは答えない。どう答えればいいか解らないかのように、ぼんやりとこちらを見ている。
「ユカちゃんのこと、嫌いになった?」
その問いに、レイは髪を乱すほどに激しく頭を振った。照明の光を浴びてきらきらと輝きながら、蒼銀の髪が宙を踊る。
「ユカちゃんにとっての鈴原くんは、あなたにとってのユカちゃんみたいなものなのよね、きっと」
言いながら、ミサトは手を伸ばして乱れたレイの髪をそっと整えた。レイは、じっとミサトの瞳を見詰めたまま、大人しくされるがままになっている。
「誰にだって、そういう人が必要なのよ。無条件に安心させてくれる人が」
そう言うミサトの瞳は優しくて、けれど何処かに自嘲の色も含んでいた。かつてその心地好さから逃げ出した彼女にとっては、今でも出来るならそこへ還りたいと思っている自分がいじましくもあり、また疎ましくも思えるのだ。
「だからさ、ユカちゃんが帰ってきたら、今度はレイが一杯甘えちゃいなさい」
そう言って、ミサトはレイの髪をくしゃくしゃと掻き混ぜた。
「ただいまぁ〜……」
少しばかり重い足取りで帰ってきたユカは、ぱたぱたという足音に顔を上げた。見ると、レイがこちらに向かって走ってくる。どうしたのだろうと思っているユカをよそに、レイは何も言わずに抱きついてきた。
「……ど、どうしたの?」
尋ねても、レイは何も言わない。ただ、ぎゅっとユカに抱きついたまま、微かに首を振っている。
わけが解らないながらも、その仕種が何だか可愛くて、ユカはそっと息をついた。置いてけぼりにされて寂しかったのかな、と納得する。
「ミサトさんは?」
「おかえりなふぁ〜い」
半ばレイを引きずるようにしてリビングを覗くと、案の定、ミサトはすっかり出来上がっていて、テーブルには空になった酒瓶が転がっていた。
「……ったくも〜……」
寝そべってTVを見ながら、時折けひゃけひゃ笑っているミサトに溜息を吐いて、ユカは何故だか自分にピッタリくっついているレイに少し困惑したような視線を送った。
これからキッチンの後片付けをしなくてはならないのだが……
「ま、いっか」
軽く肩を竦めながらそう呟いて、ユカはキッチンに向かった。
エプロンを纏って洗いものを始めるユカの傍で、レイは何をしていいか解らない様子で突っ立っている。そんな彼女に、ユカは一瞬考えてから、乾いた布巾を手渡し、洗い終えた食器を指差した。
「そこにあるお皿、拭いて戸棚にしまってくれる?」
こくんと頷いて、レイは布巾を受け取った。
慣れない手つきで食器を拭き始めるレイに、ユカはそっと笑みを浮かべる。
いつの間にか、心の中から寂しさが消えていた。
「さて、と。ミサトさーん」
レイが手伝ってくれたお陰で早々と洗いものを済ませたユカは、エプロンを外しながら、リビングですっかり寛いでいるミサトに声をかけた。
「ん〜? なに〜?」
寝そべってポリポリと尻を掻きながら、顔はTVに向けたまま声だけで返事をするミサト。ホントにこれが嫁入り前の女性の姿なんだろうかと、ユカは少々不安になる。
「レイ、着替えとか持ってないんで、ちょっと取りに行ってきますね」
「今日買ってきたんじゃないの〜?」
「あれは私服ですってば。んーと、パジャマとかはわたしのを貸せばいいとして、下着とかはちょっとサイズが合わないし、あと学校の準備とか――」
「……ちょ、ちょっと待って」
ユカの言葉に、ミサトはむくりと躯を起こした。
「ユカちゃん、もしかしてレイをここに泊めるつもり?」
「ダメなんですか?」
きょとんとした顔で訊き返すユカに、ミサトは首を傾げた。
「えっと……いや、ダメってことはないんだけど……いいのかしら」
「別にいいんじゃないんですか?」
「……ま、そうよねぇ」
レイがここに泊まったからといって、NERVとして困るようなことなど何もない筈だ。ただ、レイの監督権限はリツコにあるので、あとで何か言われるかもしれないが。
「じゃ、行ってきますね」
「あ、うん――って、ちょっと待ちなさい!」
「はい?」
「こんな時間に、女の子二人で夜道は歩かせらんないわよ!」
「大丈夫でしょ? 保安部の人たちがついてるんだから」
「馬鹿言わないでよ。あんな連中にうちの女の子たちを任せてらんないわ」
顔をしかめながら言って、ミサトはそのへんに放り出してあった上着を羽織った。ポケットを探ってルノーのキーを取り出す。
「車出したげるから、少し待ってなさい」
「え、でも――」
「なに?」
「……いえ。ありがとうございます」
「いーのいーの。酔いざましにちょーどいいわ」
「…………い、いーのか、な?」
酔いなど微塵も感じさせないしっかりした足取りで出て行くミサトの背中を目で追いながら、彼女の最後の台詞に、ユカは引き攣った笑みを浮かべた。
これからお風呂に入って寝ようとしていたペンペンに留守番を頼んで、ユカとレイはコンフォート17の玄関で待っていた。
しばらくすると、多少近所迷惑かなというほど景気のいい爆音をあたりに響かせながら、鮮やかなブルーのアルピーヌが正面に滑り込んでくる。
第参使徒襲来時にn2地雷の爆風をもろに食らってスクラップ寸前に追い込まれたハイブリッド仕様が、どうやら修理から返ってきたらしい。ミサトはどうやら電気駆動よりレシプロエンジンを搭載したタイプの方が好みのようで、所有するもう一台もハイブリッド仕様になっていた。
「はーい、お待たせ〜」
運転席から身を乗り出して、ミサトは軽く手を振った。
「ほら、とっとと乗っちゃって」
「あの……ミサトさん、お酒飲んでるのに運転なんかして大丈夫なんですか?」
「気にしない、気にしない。コレぐらいいつものことなんだから、全然オッケーよん」
「……そ、そうだったんだ……」
その言葉に、何度か乗せられたことのあるミサトの威勢のいい運転を思い出して、ユカはちょっと青褪めた。あれはつまり、そういうことだったようだ。考えてみれば、素面のミサトなどほとんど見た覚えがない。
聞かなきゃ良かったと思いつつ、ユカはレイの手を引いて後部座席に乗り込んだ。基本的に人を乗せることのないナビシートは、すっかりミサトの荷物置き場と化している。あの中にはNERVの重要書類とかもきっとあるんだろうなぁ、と思いつつ、ミサトの部屋を片づけても三日と保たずに復旧する事を考えると、とても片づける気にはなれない。
日向がミサトが持っているはずの書類の行方を知らないかと何度かユカに訊いたことがあるが、あそこになければ腐海にあるのだろう。そうなると発見は困難を極めるものと推測される。
ただ、自分の部屋はどんなに汚くても平気なミサトだが、車はさすがに気になると見えて、それなりに掃除や洗車はしているらしい。といってもそれなりに多忙な彼女のことだから、そう滅多には出来ないようだ。ミサトとて、いつも酒をかっくらって他人の私生活を覗いているわけではない。
「ねぇ」
「はい?」
「ユカちゃん、何気にそっち座ってるんだけどさ」
「……はぁ」
いつまで経っても動き出さないルノーの運転席から、ミサトがミラー越しにユカにジト目を送っていた。ちょこんと首を傾げるユカの隣で、レイが真似をして首を傾げる。
(……は、反則的に可愛いわね)
そんな事を思いつつ、ミサトは溜息混じりに口を開いた。
「道、わかんない」
レイの家は、何故かMAGIのナビゲーション・マップに記載されていなかった。
だが、考えてみれば当然かもしれない。なにしろ取り壊されることが決まっている無人のマンモス団地である。住んでいる人間がいないのに、マップに載っているわけがない。
もっとも、保安上の理由が別にあるのかもしれないが、ミサトもユカも、さすがにそこまでは考えなかった。
徒歩で行ったことがあるといっても、ユカは正確には場所を覚えていなかったし、おまけに夜なので余計に解りにくい。
素人によるうろ覚えのナビゲーションと、獣の本能と女のカンに頼った酔っ払いの運転によって散々迷った挙句、ルノーは再開発予定地区の巨大な団地群になんとか辿り着いた。
そこは、廃墟だと言われた方が納得できそうなぐらい、寂れた場所だった。誰もいない、深夜のゴーストタウン。辺りはほとんど真っ暗で、所々に生き残っている街灯が時折瞬く様子が一層寂しさを誘う。
ステアリングを握ったまま辺りを見回して、その光景にミサトは唖然とした。
「ねぇ……ホントにここ?」
「……たぶん」
ミサトの問いに頷くユカの表情は、かなり厳しかった。
昼間でもかなり寂しい場所だと感じていたが、こうして夜になってきてみると、想像以上に心の冷える光景であると感じる。
こんな所で、レイは今まで暮らしていたのだ。
否、それは暮らしと呼べるものではなかったのかもしれない。
レイが自ら望んでここにいたのか、それとも父が――碇ゲンドウが彼女をここに住まわせているのか。
事の真偽は解らないが、いずれにしても、こんな所に一人でいて心が育つ筈もない。
それは、ミサトも同感のようだった。
「なんてこと……」
ぼそりとミサトが呟くのを聞きながら、ユカはきゅっと唇を噛み締めた。
「ミサトさん。お願いがあるんですけど」
「――言ってみて」
ステアリングに顎をのせたまま答えるミサトを一瞥して、ユカは傍らのレイに目をやった。一見、彼女の横顔からは何の感情も読み取れないように見える。が、ユカの服の裾を掴んだその手は、小刻みに震えていた。
「レイを家に連れてっていいですか?」
その言葉を、ミサトは予想していた。それは彼女の思いと同一であったから。
だが、同時にそれは、碇ゲンドウに対し、綾波レイの転居を申請しなければならないということでもある。正直、あの男が何を考えているのか、まるで解らない。どう出るか、予想しづらい相手だった。
「あたしの一存じゃあ決めらんないわね、それは」
「どうしてですか?」
「だって、レイの保護責任者は――」
「責任者なら尚更、こんなトコに住まわせておくなんてもっての他じゃないですか!」
「……そうね」
凭れたシートがギシッと軋む。軽く目を閉じて、ミサトは息を吐いた。
「レイ」
「……ハイ」
か細い声がミサトの呼びかけに答える。
「あなたはどうしたい? ここにいる? それとも、家に来る?」
「私は――」
そこまで言って、レイは不意に言い澱んだ。
俯いたまま、ユカの服の裾をぎゅっと握り締めている。
ユカの傍にいたい。ここにはもう帰りたくない。それはハッキリしている。けれど、その言葉がどうしても出てこない。
言っていいのだろうか。それを求めてしまって、いいのだろうか。
どんなに求めても得られなくて、いつの間にか求めていたことさえ忘れてしまった温もりを、再び望んでいいのだろうか。
逡巡するレイを、ミサトとユカは黙って見つめている。これは、レイが自ら望み、自分で決めねばならないことなのだ。
それから、どれくらいの時が経ったろう。一分もしなかったかもしれない。けれど、ミサトはまるで数十分の時が経ったように感じていた。
「ここには……もう、いたくない、です」
ゆっくりと顔を上げたレイは、途切れ途切れに言った。
コンソールの灯りに照らされた薄闇の中に、二つの吐息が漏れた。安堵の吐息だ。全身から力を抜いて、ミサトはシートに躯を預けた。
「解ったわ。明日、申請してみる。今夜はうちに泊まりなさい」
「良かったね、レイ」
ミラーの中で、黒髪の少女が溢れんばかりの笑顔をレイに向けている。それを目にした蒼銀の髪の少女がふわりと花のように微笑むのを、ミサトは見た。
(……こりゃあ、何が何でもやるっきゃないわねぇ)
既に報酬はもらってしまった。髭との対決は最早必至である。ま、しょうがないかなぁ、とか思いつつ、頬がだらしなく緩んでいくミサトだった。
――夜。
闇と静寂。そして、その向こうにあるもの。
それまで、彼女の世界には存在しなかったもの。
遠くから微かに聞こえてくる音。闇の中で響く時計の針の音や、窓の向こうから聞こえてくるタイヤの音、家電製品の呟き。
やわらかな、ぬくもり。
日なたの匂いのするふかふかのふとんと、微かに石鹸の香りのするパジャマがレイの躯を包んでいる。そして、その躯は石鹸とリンスの香りがした。
ペンペンやミサトと一緒に入ったお風呂は、ユカと入った温泉とは違った楽しさがあった。ミサトの躰は温かかくて柔らかかったし、くしゃくしゃと髪を掻き混ぜられると、くすぐったいような不思議な感じがした。
そして、今。レイと一緒に寝ようとするミサトの魔手からユカによって救出されたレイは、自分がいかに危険な状態にあったかを理解しないまま、広いとはいえないユカのベッドで、互いに躯をくっつけあうようにして横になっていた。
薄闇の中には、何処か優しい、甘い花のような香りが漂っている。
香り。それまで、レイの世界には存在しなかったか、あったとしてもさして意味のなかったもの。少なくとも、彼女はそう教えられてきた。だから重要視してこなかった。
それがいまは、とても重要なものに感じられる。手を伸ばせばそこにいると解る。その香りに包まれていると、不思議と心が安らいでいく。
耳朶を優しくくすぐる、自分以外の人の吐息。やわらかさ。重さ。熱。
何もない筈の闇の中には、花のような香りと共に、色んなものが満ちていた。
それらの源は、今、静かに寝息を立てている。よほど疲れていたのか、ふとんに潜り込んで瞳を閉じたと思ったら、彼女はもう寝息を立てていた。
闇の中にぼんやりと白い肌が浮き上がっている。
薄闇の中でゆったりと繰り返されるそのリズムに身を委ねながら、レイは瞳を閉じた。
――この夜、綾波レイは生まれて初めて夢を見た。
つづく
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あとがき
アスカ襲来(笑)前にレイを葛城家に住まわせておくための理由。
欲しかったのはそれだけなんですが……うーむ。イマイチ成功したとも言えず。無念。
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