彼女事情
K A R E × K A N O

Written by:きたずみ

#20
 トウジが家に帰ると、玄関の灯りが点いていた。ここ数ヶ月、絶えてなかったことだ。
 居間からはTVの音が賑々しく聞こえてくる。どうやら野球中継のようだ。賑やかな歓声やラッパの音に書き消されないよう、アナウンサーが必死で声を張り上げている。
 この手の娯楽というのは、厳しい時代にこそ求められるのかもしれない。野球にしても競馬にしても、セカンドインパクトでしばらく中断されていたが、十年程前に再開されて以来、使徒再来後も変わらず行われている。
「なんや、帰ってきとったんか」
「おう、お帰り。遅かったやないか」
 湯上りらしく、綿シャツにジャージのズボンという格好で、扇風機の前に陣取って缶ビールを呷っていたごま塩頭のマッチョマン――鈴原シュウジは、研究者らしくなく浅黒く日焼けした顔に満面の笑みを浮かべた。久し振りに会う息子の顔は一瞥しただけで、視線はすぐにTVに向かう。
「頼むで有村、ここらで一発かましたってや〜!」
 やっぱりというか何というか、シュウジのご贔屓のチームは白黒タテジマのユニフォームを着ていた。セカンドインパクトの前に一度優勝したとかいう話だが、絶対嘘だとトウジは思っている。
 旧東京の大部分と同じく、セカンドインパクト後の海水位上昇によって水没した筈の大阪からの生中継である。どういうわけか、大阪ドームは見事に潰れたのに老朽化がひどくなるばかりの甲子園球場は奇跡的に無傷で、路線距離の短い球団の親会社もひたすら元気だったりする。
 セカンドインパクトで世界が危機に瀕しようが、使徒と呼称される正体不明の物体が現れようが、あいも変わらず「優勝」の二文字とはとことん縁のない球団であった。その所為か、一部では「優勝したらサードインパクトもの」などと、かなりシャレにならないことを言われているらしい。
「仕事、終わったんか?」
「ンな簡単に終わるかい。あのバケモンが来るようなってからこっち、ワシらずっと貧乏ヒマなしや。ワシはまだええけど、うちの若い衆なんかはホンマ可哀想やで。彼女作りとうてもデートするヒマはないし、おまけに相手もおらん薄暗いとこで、きっちゃないカッコして働いとるわ」
 そこまで言って、シュウジはクソボールを思い切り空振りした選手に顔をしかめた。
「なにしとんねや、アホ〜。絶好のチャンス無駄にしよってからに」
「何がチャンスやねん」
 野球にあまり興味のないトウジは、画面に向かって罵り声を上げながらぐいっとビールを呷る父に背を向け、台所に入っていった。冷蔵庫から麦茶を取り出し、ペットボトルにそのまま口をつけてラッパ飲みしながら居間に戻る。そんな彼に、シュウジは目も向けずに尋ねた。
「おい、お前メシは?」
「食うてきた」
「さよか」
 それだけで興味を失くしたような口調で言って、シュウジは空になった缶をテーブルの上に置くと、がさごそとポリ袋を鳴らしてコンビニ弁当を取り出した。
 久し振りに見る父は、少し痩せて見えた。忙しさにかまけてまともに食事を摂っていないのか、自慢の筋肉も少しばかり衰えているように感じる。いつもそうしているのだろう、慣れた手つきでラップを剥がした弁当を温めもせずにそのままパクつき始めた父を横目で眺めながら、トウジは口を開いた。
「今日、ユキノんとこ行ってきたんやて?」
「おお、ちょっと時間があいたもんでな。先生ももうじき退院できるやろ言うとったわ。なんや、毎日寄ってくれとるんやて? すまんなぁ」
「……仕事、忙しいんか」
「ま、色々とな。ゆうても、ワシもおじんも研究所勤めやからなぁ。たまにでも家に帰れるだけ、後方支援の連中よりマシやろ」
 言って、シュウジは溜息を吐いた。人工着色料たっぷりのどぎつい色をした漬物をポリポリ齧りながら、ずずっと音を立ててビールを啜る。
「あいつら、ここんとこロクに寝てへんらしいで。ワケ解らんバケモンは来るし、街中でどえらいもんぶっ放したり、がりごり穴掘ったりするもんやから、その後片付けもせんならんし。なにしろでっかい図体しとるからなぁ、あれ」
 その言葉に、トウジは街中にでーんと居座っている使徒の残骸を脳裏に描いた。撤去作業をしているのかいないのか、周囲は立ち入り禁止になっているものの、まるで片付く気配がない。何しろ街のど真ん中だから、邪魔な上にとにかく目立つのだった。
「あれ、まだ片付かへんのか?」
「あ? 無理やわ、そら」
 あっさり言って、シュウジはサラダの中から大嫌いなスイートコーンを選り分け始めた。でかい図体とヤクザじみた風貌に似合わず、妙な所で細かい男である。
「なんでや?」
「あんな、掃除ちゅうんはとにかく金かかるねん。それも、どっちかゆうたらあんまし意味のない金や。ただでさえ予算が足らんさかいにヒイヒイいうてんのにやな、あんな何の役にもたたんガラクタの後片付けに回せるような金なんぞあるかい。邪魔やけど、まあ当分はしゃあないやろ」
「当分て?」
「あのバケモンが来んようになるまでや」
「……」
 つまり、ユカたちの頑張り次第、と言うわけだ。おまけに、使徒がいつかこなくなるのかどうかも解らない。なにしろ、あれが何なのかすら公表されてはいないのだから。このままずっと使徒が現れ続けるのだとしたら……それに対抗する唯一の手段――エヴァを動かせるのは、ユカとレイだけだ。彼女たちは、いつまでエヴァに乗って戦わなければいけないのだろう。
 今までは勝てたが、これからも勝てるとは限らない。考えたくもないが、いつか、ユカを喪ったと唐突に知らされる日が来るのかもしれない。そう考えると、トウジの気持ちはずんと沈んだ。そうなったとしても、自分には何も出来ないのだ。――母が死んだと聞かされた、あの時と同じように。
「ほんなら、いっそ観光名所にしたらええんや」
 吐き捨てるような口調で呟いたトウジの言葉に、シュウジは含み笑いを洩らした。
「そらええなぁ。なんや、戦自やら民間企業やらが見してくれて騒いどるらしいしな。上も、けちくさいこと言わんと見したったらええんや。ついでに金とったら予算も少しは助かるかもしれんで。うちのラボの冷蔵庫、壊れかけとんねんけどなぁ。新しいの、そろそろ買うてくれへんかなぁ」
 妙にみみっちいレベルで国連組織の予算配分を語る父に、トウジは溜息を吐いた。これで国際公務員だと言われても、にわかには信じられない。
「おお、そないゆうたらお前、彼女できたんやて?」
「なんやねん、いきなり」
「いや、訊くタイミングはかっとってんけど」
「つい待ちきれんと訊いてもたわけやな」
「そうとも言う」
 にまぁ、と笑うごま塩頭のむさ苦しいオヤジの顔に、トウジは顔をしかめた。
「どんな娘や? ユキノはめっちゃべっぴんさんや言うとったけど。乳でかいんやて? 昔っからお前、乳でかい女好きやったもんなぁ。覚えとるか? 幼稚園の時のお前のお気に入りのナナコ先生」
「…いつの話やねん……」
 嬉しそうなシュウジを尻目に、トウジは掌で顔を覆って溜息を吐いた。
(ユキノ……いったいどおゆう説明したんや)
 最愛の妹ながら、ちょっとばかり眩暈を覚えてしまうトウジだった。
「ま、お前が選んだんやから、ワシは何もいわへんけどな。相手の娘を泣かすような真似だけはすなよ。ええな」
「……ああ。わかっとる」
 自分だって、泣かせたくないと思っている。
 表情を引き締めてこくりと頷くトウジを厳しいも優しい眼差しで見つめてから、シュウジは一気に表情を柔らかくした。アルコールで仄かに赤らんだ頬を緩め、トウジの胸倉を掴んで引き寄せる。
「で、どやったんや?」
「な……、なにがやねん」
「アホ。ヤッたんやろ? どやった?」
「ど、どやったて、そら……って、アホか!」
 気持ちよかった……思わずそう答えそうになって、トウジはシュウジの手を振り解いた。にんまり笑いながら息子の背中を見やっていたシュウジは、少し遠い目をして呟くように言った。
「ハルカもなぁ、乳でかかってん。ユキノはハルカ似やからでかなるやろ思とったけど、お前は間違いなくワシの血ぃひいとるな。燃えたぎる巨乳好きのアツい血潮を」
「アホか!」
「けど、好きやろ?」
「……」
 途中までしんみりした口調だったのに、最後の方は完全におちゃらけた口調で言った父のにやけた面を睨みながら、間違いなく自分はこの男の血を引いている、と確信してしまったトウジだった。
 
 薄暗く、だだっ広い司令官公務室で、碇ゲンドウは無言で書類に目を通していた。
 室内には誰もいない。いつもならつかず離れず彼と共にいる筈の冬月は、今は日本政府との対外渉務中だ。このところの会議続きでいい加減うんざりしているらしく、散々文句をたれて出かけていった。
 国連――というより、その上位意志決定機関である〈人類補完委員会〉が半ばムリヤリに押しつけてきたNERVという厄介ものと、日本政府の仲は必ずしも円満とはいえない。むしろ、ここ数ヶ月でかなり関係は悪化しているといえた。
 だが、それでもあまり深刻な問題に発展していないのは、現実に使徒が攻めてきているからであり、その攻撃に対し、戦自を含めたUNの戦力ではまるで歯が立たないからである。そして、NERVが保有する巨大人型決戦兵器・エヴァンゲリオン初号機、並びに零号機によって使徒が殲滅されているのは、動かしようのない事実なのだ。だから認めざるをえない。NERVなしでは使徒は倒せないのだ、と。
 だが、それでもその事実を認めたがらない者はいる。それが自分の手によって為されたことではないからであり、それによって何ら利を得ることなく、逆に損害を被っている者たちだ。
 彼らが、何をしようとしているのか。その愚かな試みの全てが今、ゲンドウの前にさらけ出されていた。そしてそれらを、ゲンドウは何の感慨を覚えるでもなく、ただただ無表情に、眼鏡の奥から冷ややかな視線を向けている。その先には、一枚の写真があった。
 ――JA。
 ジェット・アーロンと名付けられたその巨人は、体内に原子の炎を抱えている。内燃機関、とのみ称しているが、核融合炉がいまだ実用化されていない以上、荒っぽい核分裂を使った蒸気タービン機関、ということになるのだろう。そんな稚拙な方法でしか、人類は未だにエネルギーを産み出すことが出来ずにいるのだ。報告書にある「歌って踊れる原発」というフレーズには、思わず笑いそうになった。
 現在の人類の技術レベルに即したその姿形は、エヴァと比べると余りにも不格好で、優美さからは程遠い。が、同時に力強さも感じる。人間にはまだ、独力でこれだけのことができるのだ、と感じることが出来る。――それが、役に立つかどうかは別にして。
 これだけのデータを揃えたのは、現地に飛んでさえいない、今は太平洋上にいる筈の男である。加えて、政府への偽装工作もドイツからの移動の片手間に並行してやってのけた。人間的には好きになれそうにないが、いつものことながら見事な仕事ぶりである。出来ることなら、敵には回したくない相手だ。今のところは、彼の方にもその気はないようだが。
「また君に借りが出来たな」
「どうせ返すつもりもないんでしょ」
 どこか遠くを見つめているようなのんびりとした口調で、その男――NERV特殊監査部所属、加持リョウジは笑みを含んだ口調で言った。ゲンドウに対し、こうも堂々とした物言いが出来る男はそうはいない。飄々として掴みどころがなく、決して本心は表に出さない。
「彼らが情報公開法をタテに迫っていた資料ですが、ダミーも混ぜて適当にあしらっておきました。政府は裏で法的整備を進めていますが、近日中に頓挫の予定です。――で、どうです? 例の計画の方は。こっちで手、打ちましょうか?」
「いや。君の資料を見る限り、その必要はなかろう」
 好きにさせてやればいい。そう思いながら、ゲンドウは言った。愚者にわざわざお前は愚かだと告げてやることはない。わざわざ陰謀を企てるより、自力で失敗させてやった方が効果は大きいのだ。どうせ上手くいく筈のない試みなのだから。
「――シナリオとは、多少違いますが」
 加持は、驚きを感じていたとしてもそれを声には出さなかった。伊達に修羅場はくぐっていない。だが、電話の向こうの男が微かに笑みを漏らしたのを聞いた時は、さすがに背筋が寒くなるのを抑えきれなかった。そういう時は大抵ろくでもないことを考えているのだと解る程度には、彼と付き合ってきたからだ。
「問題ない。誤差の範囲内だ」
 いつもの薄い含み笑いを口元に浮かべながら吐かれたに違いないその台詞に、加持は軽く肩を竦めた。扉の向こうで、自分を探しているらしい少女の黄色い声がする。溜息を吐いて、彼は呟いた。相手の男がもう、聞いてはいないと確信しながら。
「では、こちらはシナリオ通りに」
 
 碇ユカの朝は、早い。
 無論その分、寝るのだってめちゃくちゃ早いのだが、それはともかくとして、お天道様が眠たそうに顔を出すころには、既に彼女は目を覚ましている。
 隣から聞こえるのは、最近寝坊助である事が判明した、蒼銀の髪の少女の寝息だ。シーツに包まるようにして、枕にほっぺたをうずめているその寝顔は、なまじ整った造作をしているせいか、妙に幼く見えてやたらと可愛い。
 見ていると幸せな気分になってきて、眠気なんかどこかに吹き飛んでしまう。
 カーテンの隙間から射し込んできた陽光に照らされ、レイの髪がきらきらと光の粒子を弾いてあたりに撒き散らす。
 眩しそうに目を細めながら、ユカは大きめのTシャツに包んだ肢体をそっとベッドから引っぱり出した。この程度のことではレイは目を覚まさないと解ってはいても、やはり気を使ってしまう。
 躯を起こすと、軽く寝癖のついた黒髪が頬にかかった。一応お手入れはしているものの、第3新東京市に来てから一度も切っていない髪は、今ではすっかり肩にかかるくらいにまで伸びて、少し邪魔っけな感じだ。けれど、ユカはどうしてもその髪を切る気になれなかった。三つ編みとはいかないまでも、やはり髪が長いほうがトウジは好きかも知れない、とつい思ってしまうからだ。
 着替えを抱えてバスルームに向かう途中、ユカは自分の髪を耳元でいじりつつ、もうちょっと伸びたらリボンで結べるかなぁ、などと考えていた。
 お気に入りのリボンをつけたら、トウジはどんな反応をしてくれるだろう。
 そんなことを考えながら、指先に絡めた黒髪をしゅる、と解いて、ユカは勢いよくシャツを脱ぎ捨てた。
 
 夜明け前に見た夢は、目覚めてみるとなんだか明瞭りしなかった。
 幸せだったような、辛かったような、悲しかったような、くすぐったいような……そんな色んなものが綯い交ぜになった、不思議な夢だったような気がする。もっとも、夢の常として、目覚めたときには大抵、ほとんどなにも憶えていなかったが。
 レイは夢というものを見たことがなかった。
 少なくとも、夢を見た、と認識してはいなかった。それが単に憶えていないのか、彼女に意思が存在しなかったからかは解らない。夢を見るほど深く眠るということ自体、初めての経験なのだから。
 最近、やけにこうした「初めて」が増えた。もちろん、それは不快なことではない。
 それはともかく――
 歪んだ天井を見上げながら、綾波レイは目を醒ました。
 視界をぼやけさせていた液体は音もなく眦から溢れ、頬を伝って耳の後ろに流れていく。ゆっくりと上体を起こしたレイは、ぽたぽたと一定の間隔をおいて白いシーツに淡いシミを広げていくそれを、ぼんやりと眺めていた。
「――涙……」
 知識では知っている。TVや物語などで、さんざん使い古しにされている代物だ。最初にそれを見たのは、一体いつのことだったろう。
 そう遠くはない過去の事を、レイは鮮明に憶い出す。それ以前の記憶というのはいつも曖昧で、何処か現実感がなかったり、明瞭りと憶えていなかったりすることが多い。
 生きることに、それほど執着していなかった所為かもしれない。ただ言われるがままに、機械的に生きていたからかもしれない。
 そんなレイにとって、彼女との出逢いは鮮烈だった。
 脳裏に焼きついているのは、一杯に涙を溢れさせた漆黒の瞳。二粒の宝石はきらきらとした光を放っていて、とても綺麗で、目が離せなかった。それは何処から湧き出てくるのかと思うほど強いものと、とてつもなく脆く壊れやすいもので出来ている、たおやかな光で満ちていた。
 つよくて烈しい、意志の光。
 あの時、黒髪の少女の頬を濡らしていたものと、たったいま己の頬を伝い落ちるそれとが果たして同じものなのかどうか解らぬまま、レイはそっと手を伸ばした。
 少しひんやりした頬の柔らかな感触が、指先に触れてくる。
「私……泣いてるの……? 悲しくないのに……どうして……」
 人は、悲しい時に涙を流す。だが、悲しくない時でも人は泣くのだということを、レイはつい最近知ったばかりだった。そして、レイ自身はいまだ泣くことを知らない。悲しみを理解するほどには、彼女の心は育っていないからだ。
 だから、自分が悲しいのかどうか、レイには解らない。ただ、胸の奥に澱んだ夢の残滓は不快というより、何処か触れることを躊躇わせた。
 指先に触れた棘の鋭い痛みは心を怯ませ、それ以上触れることを半ば無意識に拒むようになる。それと同じように、それを無理に憶い出そうとすると、つい先刻まで胸を包み込んでいたどうしようもないやるせなさにまた襲われる事になるのではないのか――。
 そんな怯えにも似た思いに駆られながら、レイは軽く頭を振って、つい先刻まで見ていた夢の残り香を振り払った。乱れた髪を無造作に掻き上げながら素足を床に下ろし、膚に伝わってきた柔らかな感触に、レイは自分が今何処にいるのかをようやく憶い出す。
 薄汚れた冷たいリノリウムではなく、決して上等ではないけれど肌触りのいいカーペットが敷かれた、こぢんまりとして可愛らしい部屋。カーテン越しに差し込む柔らかな朝の陽射しが、決して華美ではないが、センスよくシンプルにまとめられた室内の様子を浮き上がらせる。それはそのまま、この部屋の住人の人柄をあらわしているかのようだった。
 ゆるりと部屋を見回したレイは、確か同じベッドで寝ていた筈の黒髪の少女の姿を求め、まだ完全には目醒めきらぬままに立ち上がった。まだ寝ぼけているのか、なんだか足下がふらついている。
 ふぁ、と可愛い欠伸を一つ洩らして、レイは襖を開けた。
 
 目玉焼きに白いご飯とお味噌汁、ほうれん草の胡麻和えと里芋の煮っ転がし。あとはユカお手製の白菜とかぶらの浅漬けが可愛い小皿に乗って、ちょこんと鎮座している。
 これが、今朝の葛城家の朝食メニューである。朝は大抵時間がないので、お弁当のおかずの残りや昨夜の残り物、あるいはパンで済ませることの方が多い。
 その葛城家のありふれた日常風景に最近加わった蒼銀の髪の少女は、先刻からつるつる滑る里芋と必死になって格闘していた。まだ上手く箸が使えない彼女にとっては、きわめて手ごわい相手である。どうやら、初戦は敗色濃厚のようだ。
「レイ、お醤油とって」
「ハイ」
「ありがと」
 にこりと笑みを浮かべて醤油の小壜を受け取ったユカは、ご飯の上にのせてわざと崩した目玉焼きの半熟の黄身にちょろっと醤油を足らした。ケチャップやマヨネーズ、あるいはソースやタバスコをかける人もいるが、ユカの場合は絶対に目玉焼きにはお醤油、と決まっている。
「ちょっとお行儀悪いかな〜って思うけど、コレが美味しいんだよね〜」
 そう言って幸せそうに目玉焼きとご飯を口に運ぶユカをぼんやりと見やって、レイは自分の目の前の皿にのった綺麗な目玉焼きを見下ろした。肉が食べられないレイのための、ハムエッグではない普通の目玉焼きである。ユカの好みか、黄身がちょっと半熟気味だ。
 レイはユカの真似をして、箸先で軽くつついた黄身に醤油を垂らしてみた。
 まるで化学の実験でもしているような慎重そのものの表情だったが、慣れない所為かつい手元が狂ってしまい、無惨にも醤油まみれになった目玉焼きに、レイは世にも情けなさそうな顔をした。
「……クァ」
 そんなレイの心境など委細構わず、ペンペンはアジの干物をパクリと口に咥えて丸呑みする。彼の場合、活きがいい方が美味しいのかもしれないが、生憎とここは山の中。芦ノ湖でとれる魚は彼の口には合わないかもしれないし、海面上昇に伴って海岸線が近づいてきているとはいえ、新鮮な魚はやはり高い。葛城家の家計を預かるユカとしては、彼にもたまには鮮魚を食べさせてやりたいところだが、普段は干物で我慢してもらっている。今のところ、ユカの用意した食事に彼がケチをつけたことは一度としてない。まあ、ミサトの料理を(半ば強制的に)食べさせられるよりははるかにいい、ということかもしれないが。
「大丈夫大丈夫。余計なお醤油は流しちゃえばいいから」
 泣き出しそうな顔をしているレイのお皿をとって、ユカは空いた器に大量の醤油を捨てた。多少醤油で汚れてはいるが、食べられない状態ではないのを確認してからレイに渡す。
「はい、ご飯にのせると美味しいよ」
 ユカのその言葉に、レイは早速実践する。黄身を潰し、白身やご飯と一緒にかっ込むと、下品だなとは思うのに美味くてまたやってしまう味なのだった。レイは目を輝かせながら、夢中になってご飯をかっ込んだ。頬っぺたにご飯粒をつけている様が可愛らしくて、ユカはつい微笑ってしまう。
「おふぁよぉ〜」
 奥の襖を開けて、ぼさぼさ頭のミサトがまだ寝ぼけ眼のまま部屋から出てきた。
「あ、おはようございます」
「……おはようございます」
「ユカちゃん〜、おなかすいたぁ〜」
「はいはい、ちょっと待ってくださいね」
 夢遊病者みたいな足取りで席につくミサトに苦笑して、ユカはとりあえず牛乳のコップを彼女の前に出した。コンロに火を点けてフライパンと味噌汁を温めながら、冷蔵庫から取り出した卵を片手で器用にぽんと割る。じゅわ〜っといい音があたりに拡がった。
「ミサトさん、ご飯にします? それともパン?」
「ご飯っ」
 お茶碗を抱えてご飯をかっ込んでいるレイを見て食欲が刺激されたのか、牛乳を一気に飲み干したミサトは、珍しく自分でご飯を茶碗によそった。冷蔵庫を開けて冷えたエビちゅと納豆のパックを取り出し、調子っぱずれのよく解らない鼻歌を歌いながらぐりぐりと箸で納豆を混ぜ始める。
 その光景を、レイは鼻先に皺を寄せて眺めていた。ミサトが美味しそうに食べているのを見て一度挑戦した彼女だったが、それ以来納豆には手もつけようとはしない。
「ちょっとぉ、レイってばなんて顔してんのよ。やぁねぇ〜、美味しいのに」
「……納豆、嫌いだもの……」
「そお?」
 不思議そうな顔をしながら、ミサトは納豆に醤油とからしとタバスコとわさびを適当にぶち込んでグルグル掻き混ぜていた。納豆の食べ方を知らない人が見たらそういう食べ方をする食べ物なのか、と納得したかもしれないが、たぶん間違いなく違う。そういう食べ方をする人もいるかもしれないが、まぁ多数派ではあるまい。
 どどめ色をしたネバネバの物体をほかほかご飯にのせ、幸せそうに掻き込んでいるミサトを、レイは得体の知れない生き物を眺めるような目で見つめていた。もしかすると、レイが「まずい」と思ったのは納豆ではなく、ミサトの手による「納豆状の物体」だったのかもしれない。
 ちなみにユカは納豆を食べないので、レイにちゃんとした食べ方を教えてやりたくても知らないのだった。ただ、彼女の場合、ミサト納豆は間違っても食べようとは思わなかったけれど。
 葛城ミサト、如何なる食物にも独自の味付けを加える女。
 彼女の味覚は既に、生物の範疇を超越した異次元生命の領域に到達しているようだった。
「あら、ユカちゃん、もしかしてお味噌変えた?」
「あ、解ります?」
 一体どういう理屈なのか、あんな味覚をしているくせにしっかり味の違いは認識しているらしい様子に、いつもの事ながらミサトさんってすごいとつくづく感心しながら、ユカはそれを顔には出さずに頷いた。
「いつものお味噌、値上がりしちゃって。そのくせ最近味が落ちてきたから、どうせならと思って。こっちの方が二十円安いんですけどね」
「ふ〜ん。いいんじゃない。あたしはこっちの方が好きよ」
 ずぞ、と味噌汁を啜りながら言って、ミサトは取り皿に取り分ける手間を惜しむように、里芋にぶすりと箸を突き刺した。そのまま直接、口に運ぶ。
 それを見たレイは、密かにカルチャーショックを受けていた。
 そう、つまめないなら突き刺してしまえばいいのだ!
 どうしてそんな簡単な事に今まで気付かなかったのだろう?
 天啓の如く閃いたその考えを実践しようとして、レイはミサトのその食べ方をユカが冷ややかに見ているのに気付いた。どうやら、あまり行儀のいい食べ方ではないらしい。
(……葛城一尉の行動は真似しない方がいいの?)
 そんな当たり前の事実に、今更のように気付くレイだった。
 だが、何をどうしようと、つるつる滑る里芋は上手くつまめない。レイが悪戦苦闘している隙に、ミサトは遠慮なくパクパクと里芋を口に運んでいく。見かねたユカが別皿に取り分けてやらなければ、レイは里芋を口にする事は出来なかっただろう。
 レイの戦いは、これからもまだまだ続きそうだ。
 
「ホントに今日、学校に来るんですか?」
 身支度を終え、レイと並んで食後の洗いものをしながら、ユカが尋ねた。ミサトはというと、ご機嫌な様子で食後のエビちゅを啜っている。ユカが買ってこないのに一体どうしたものか、しっかりエビちゅを調達しているミサトであった。
 朝っぱらから飲むという習慣だけは改められていないのだが、それでも一日に消費する本数が多少減っているところを見ると、少しは気にしているようだ。無論、飲んでばかりもいられないぐらい仕事が忙しくなっている、というのも事実ではある。なんのことはない、事務処理ましーんこと日向の処理能力を越えた量の仕事を蓄積してしまっただけのことだが。
「あたりまえでしょ、進路相談なんだから」
「でも、仕事で忙しいのに――」
「だからよ。抜け出すいい口実になるじゃない」
「ミサトさん……」
 ユカとレイに揃ってジト目で見られて、思わず本音をバラしてしまったミサトは、椅子の上で胡座をかいたままエビちゅを啜った姿勢で固まり、慌てて引き攣った笑みを浮かべた。
「じょ、冗談よ、冗談」
 胡散臭そうな目で自分を見やる二人の少女に、ミサトは冷や汗を流す。飲み干したエビちゅの缶を脇に追いやると、ミサトはいつになく真剣な眼差しで二人を見つめながら、口許にふっと優しい笑みを浮かべた。
「家族なんだから、変な遠慮しないの」
「そ、そう、ですよね」
 その言葉に、ユカは照れたように頬を染めた。なんでもないことのようなミサトの口調と、その言葉のさりげない響きが、妙に嬉しかった。
「あ、それとね、レイの面談なんだけどぉ。ちょっち意外なのよねー。なんかさ、リツコが行くって言ってたわよ」
「リツコさんが?」
 意外なその言葉に、思わず顔を見合わせるユカとレイ。まさか彼女がそんなことを言い出すなんて、思っていなかった。無論、それは親友であるミサとも同じようで、不思議そうに頬杖をつきながら呟く。
「最近使徒もてんでご無沙汰だし、技術部もヒマなのかしら」
「ミサトさん――」
「……ごみん」
 ヒマだから行く、というような言い方はちょっちマズかったかと反省するミサトを軽く睨みつけて、ユカは小さく息を吐いた。リツコが冷たいばかりの女性でない事は知っているが、どうも感情表現に不慣れなようで、いまいち何を考えているのか解らない。ことに、レイに対するリツコの反応は、ユカには理解不能だった。
「リツコもねー。もちっと、肩のチカラ抜いて、他人に頼ったりしてみればいいのに」
 それが出来ない性分なのだと、解りすぎるくらいに解っているミサトは、レイの面談などこれまで言い出したこともない親友の行動に多少面食らいつつ、決して悪いことではないのかもしれないと安易に考えていた。
「……なんでリツコさんなんだろ」
 食器を洗いかごに入れながら、ユカが不意に呟いた。
「ん? なんかゆった?」
「え……あ、いえ。なんでもありません」
 暢気な顔で自分を見やったミサトに軽く首を振って、ユカは曖昧な笑みを浮かべた。もしかするとあの人が――ゲンドウが来るのではないかと、疑っていたとはいえなかった。自分のではなく、レイの面談に。
 ――しらないひと、なのに。
 なのになんで、こんなきもちになるんだろう。
(イヤだな……なんでだろ)
 唇をきゅっと噛み締めて、ユカは濡れた手をエプロンで拭った。
 そんな彼女を、レイは無言で見つめていた。
 その時、インターフォンのチャイムが鳴った。
「――はい……あら、わざわざありがとう……ええ、ちょっち待っててね……」
 受話器を取ったミサトがよそいきの声を出すのを呆れたように見やって、ユカは軽く息を吐いた。彼女の外ヅラに対するこだわりと変わり身の早さには脱帽するが、今は彼女のそんなところに救われたような気分だ。
「ミサトさん、そんなカッコで出てこないでよ。どうせケンスケを喜ばせるだけなんだから」
「あら、いいじゃない。あたしに逢いにきてくれたんでしょ?」
「そんなに少年の夢をぶち壊したいんですか?」
「……今、ヒドイことをさらりと言われたような気がするわ」
「気のせーです。いこっ、レイ」
 思わず固まったミサトを置いて、ユカとレイは連れ立ってキッチンから出て行った。
 ぱたぱたという少女たちの軽い足音を聞きながら、ミサトはふっと軽い溜息を吐いた。
「家族、か。……あたし、酷いことをしてるわね」
 彼女たちを大切に思っているのは、本当。けれど、いざ使徒が現れれば、彼女を戦地へと赴かせなければならないのは、自分。彼女たちと一緒に暮らすことで、こんなにも心が癒されているというのに。
 子供のころは、そんな大人にはなりたくなかった。なのにいつのまにか、自分が最もなりたくなかった大人に――唾棄すべき存在に、なってしまっている。
「勝手なものね。大人なんて」
 少し疲れた面持ちでそう呟いて、ミサトは短く息を吐いた。
 
「トウジ、おはよー」
「お、おはようさん」
 いつも通りのジャージを着たトウジにユカが声を掛けると、トウジは硬い顔で言った。
「ゆ、ユカ、あのな――」
「……え?」
 何か言いかけたまま、トウジは言いあぐねたように口をつぐんだ。そのままどうしようかというように宙を見上げた後、いきなりユカの手を掴んで歩き出す。
「な、なに?」
 驚きの声を上げるユカをよそに、トウジはずんずんと歩き続ける。なにがなんだかまるでわけの解らないユカは、トウジに手を引かれるがまま、何度か転びそうになりながら後を追った。その後を、少しばかり不機嫌そうな雰囲気を纏ったレイが追う。その目は、しっかりと繋がれたふたりの手を見つめていた。憧れのミサトさんの姿をひと目でも、と狙っていたケンスケのことなどはなから眼中にない。
「……ふうっ……」
 エレベーターに乗り込んだ辺りでようやく息を吐いたトウジは、自分がユカの手をしっかり握っていた事に気付き、今更のように浅黒い顔を紅く染めた。
「あ、ああ、や、その、すまんっ」
「え? あ、ううんっ、べつに、大丈夫っ」
 しっかり手を握り合っている事にようやく思い至って改めて恥ずかしさがこみ上げてきたのか、ふたりして赤い顔を見合わせるトウジとユカ。そのくせ、しっかりと指を絡めあったその手は、お互いに離そうとはしない。もっとすごい事を色々やっているくせに、妙な所で初々しい。
 そんな二人に呆れたような目を向けながら、ケンスケとレイがエレベーターに乗り込んでくる。らぶらぶの二人と、じぇらしー全開のレイに挟まれ、気まずい思いを味わっているのはケンスケただ一人だ。
「あ、あの……どうか、したの?」
 恥ずかしさと嬉しさでポーっとなって、照れたまま俯いて鼻の頭を掻いているトウジの顔をまともに見れなくなりながら、ユカは上目遣いに彼の顔をそっと見上げた。意図的にやっているのではなくて、単に背が低いからなのだが。
 ちょこん、と小首を傾げるその仕種と、掌の中の柔らかく小さな手の感触にドキドキしながら、トウジは困ったように目を逸らした。
「ん……ああ、いや、ちょっとな……」
 どうも歯切れの悪い答えに、ユカは微かに眉をひそめた。
「……ユカ」
「なに?」
「その……今日の放課後やねんけど……」
 そう言いかけて、トウジは軽く頭を振った。
「いや……、あとでええわ」
「?」
「大したことないねん、ホンマ。気にせんといてくれ」
「気にするなって言われても……」
「いや、その話はあとでするさかい。急がな遅刻してまうで」
「う、うん……」
 どうも明瞭りしないトウジの言動になんとなく釈然としないものを感じながら、ユカは一応頷いた。トウジの様子は、困っているというより、むしろ慌てているように見える。何か、まずいことがあったような……
(まさか――)
 ――ほかに好きな娘が出来た、とか……
 ずきん、と胸の奥に痛みが走る。そんな事は考えたくもないし、ある筈ないと思っても、ユカの迷走する思考はどんどんとアヤしい方向に向けて突っ走っていく。
 ――それとも子供の頃に約束した許婚が現れたとかっ!?
 一昔前の少年マンガじゃあるまいし、仕込んでもいないのにそんな便利なものがぽこぽこでてくるわけはないし、トウジにいるわけだってありゃあしないのだが、ほとんどパニックに陥っているユカは既に冷静な判断が出来る状態にない。
(そんなのイヤぁっ!)
 考えが物凄くイヤな方向にいってしまったため、トウジに手を引かれて歩きながら、ユカはほとんど半泣き状態でぶるぶると頭を振った。
 ずーんと落ち込んだかと思えば、いきなり青くなったり紅くなったりと忙しく、はたで見ている分にはかなり面白い光景である。結果、足下への注意がおろそかになってしまったユカは、ものの見事にすっ転びかけた。
「きゃっ!」
 十四歳にしてはというべきなのか、どうにもお子様な顔立ちや体型に比べると非常識なぐらいに大きな胸の所為で、ただでさえ足下は視界不良なユカである。道端に落ちていたブロックの破片に躓き、足下をとられてしまったのだ。この街は戦場だから、壊れた建物など珍しくもないし、瓦礫の破片はそこらじゅうに幾らでも落ちている。
「ユカっ!」
 ぼんやりと考え事をしていたトウジは、それでも機敏に反応して、転びそうになったユカの躯を咄嗟に抱きとめた。柔らかな体が胸の中におさまり、甘い匂いがふわりと鼻孔をくすぐる。
「だ、だいじょぶか……」
「あ、う、うん……ありがと、トウジ」
「い、いや……」
 しっかりと抱き合ったまま、紅い顔で見詰め合うふたり。なんともいい雰囲気である。
 潤んだ瞳に見上げられ、ユカの桜色の唇に思わずキスしたい衝動に駆られたが、それより一歩早く、周囲のざわめきがトウジの耳に届き、済んでの所で彼は思いとどまった。
「……な、なんやねん」
 思わず辺りを見回して息を飲むトウジ。なんといっても朝の通学路のど真ん中、周りは物見高い生徒たちで一杯だ。自分たちがいかに目立つ存在であるかという自覚に欠ける三人は、事ここに至ってようやく、自身らが衆目にさらされている事に気がついた。
 もう一人はというと、この面白い光景を見逃す手はないとばかりに、ちゃっかりカメラをまわしている。
「ユカ、歩けるか?」
「ん、へーき」
 言って微笑ったユカだが、軽く体重をかけた右足から駆け抜けた鈍い痛みに、思わず顔をしかめた。どうやら先刻躓いた時に軽く足首を捻ってしまったようだ。
「いた……」
 思わず小さな声で呟いてから、慌てて何でもないような顔を装うユカに、トウジの中で何かがぶつんと切れた。
「トウジ……? え……、きゃあっ!」
 いきなり抱え上げられて、ユカは思わず声を上げた。ようやく周囲の人混みと視線に気付き、恥ずかしさのあまり顔を上げられない。かーっと顔が火照ってきて、耳が熱くなるのが解る。しかし、対照的にトウジは周りのことなど目もくれず、真剣な表情で足早に人混みを掻き分けて進んでいく。
 そんな彼の様子に慄いたように、人混みは自然と割れていく。その二人の後を、ユカが取り落とした鞄を胸元に抱えたレイがいささか憮然とした様子で続いた。
「あ、あの、わたし、大丈夫だから……」
「なにがやねん」
 かなりドスのきいた声が頭の上から降ってくる。何だかトウジが怒っているらしいと解って、ユカは思わず首を竦めた。
「トウジ、怒ってる……?」
「……いや」
「うそ。だって、声が怒ってるもん」
 トウジは答えない。そっと見上げると、恐いぐらい真剣な眼差しで正面を見つめていて、ユカは少し怯えたように身を縮こまらせた。
 何か悪い事をしてしまったのだろうか。トウジを怒らせるような事をしたのだろうか。
 いくら考えてみても、ユカにはトウジが怒っている理由が解らない。ただ、痛いぐらいに強く、それでいて大切に包み込むような彼の腕の逞しさに、何故か安心してもいた。
「わたし、何か悪いことした……?」
 トウジは答えない。まるでユカの言葉が聞こえなかったかのように、ずんずんと歩を進めていく。彼女の怯えたような声が、耳に届かなかったわけではない。ただ、なんと言ってやればいいのか解らなかったし、実際に彼は怒っていた。自分に対しても何でもないフリをするユカと、彼女に信頼されていないのだと解る己自身の不甲斐なさに。
 傍らでは、レイがさながら絶対零度の如き視線を送っている。何だか躯の左半分が冷たいような錯覚を覚えながら、自分の中で荒れ狂うものを必死に押さえ込んで、トウジは平板な声音で言葉を吐き出した。
「……なんでや」
「え……?」
「痛いんやろ? せやったら、なんで何でもないような顔するんや」
「……トウジ……?」
 少しだけ、トウジの歩みのペースが緩む。
「ワシは、そんなに頼りにならんか……?」
「トウジ……」
 今にも泣き出しそうになるのをぐっと我慢している子供のような、そんな顔で切なげに自分を見つめるトウジに、ユカは胸を衝かれた。
 そんなつもりはなかった。だが、叔父夫婦が自分の本当の両親ではないと解ってから、心の何処かに迷惑をかけてはいけないという思いがあって、いつのまにか「いい子」でいることが習い性のようになってしまっていた。それが他人を傷つけることがあるなんて思ってもみなかった。
「……ごめんなさい。そんなつもりじゃ、なかったの」
 言って、ユカはトウジの胸元に縋りついた。ジャージを掴んだ小さな手が微かに震えている。
「ごめんなさい……」
 すん、と鼻を啜り上げる音がする。己の胸元に顔を埋めて咽び泣く少女の姿に、トウジの胸から引き潮のようにスーっと怒りが引いていった。
「……泣くな、ユカ。もうええから。な?」
 信じられないぐらいに軽い少女の躯を抱えて保健室に向かいながら、トウジは彼女の耳許にそっと囁いた。
「ごめんな」
 彼の胸の中で、漆黒の髪が微かに揺れた。
 
 教室の窓から、彼女はそれを見ていた。
 同年代の少女たちと比べて、顔立ちも幼く、かなり小柄な少女。少年と出逢うまでの彼女については、はっきりと憶えていない。
 いるのかいないのか解らない、出来る限り目立たないよう、隅っこで小さな躯をさらに縮めて、そっと息をしているような少女だった。今の彼女からは想像もつかないが、積極的に周囲に馴染もうともしなかったから、クラスからは浮いていた。
 少女を彼が変えたのか、彼に逢って少女が変わったのか。
 その少女の躯を両腕にしっかりと抱いて、少年はずんずんと大股に校庭を突っ切っていく。まるで大切なものを抱え込んでいるかのように。
 今までなら、積極的に何かをしようという態度などあまり見せなかったような少年だ。制服の代わりにジャージを着てくるくせに、運動部に入るでもなく、さりとて勉強熱心というわけでもない。いつも何処かつまらなさそうで、だから不真面目な生徒だと教師には思われていた。
 そんな風な彼だから、気になって仕方がなかった。なんだか放っておいてはいけないような気がして、煙たがられようともうるさく言ってきた。
 けれど、彼を変えようとは思わなかったし、そう出来るほど深く踏み入るには、彼女の方に少しばかり勇気が足りなかった。
 だが、少女と出逢ってからの彼は、変わった。少なくとも、変わったように思う。何処が、と問われると上手くは言えないのだが、今の彼には、昔のような、放っておくとどうなってしまうか解らないような危うさは、ない。
 何処か遠くを見つめていた彼の瞳は今、一人の少女に注がれている。そして、彼女のため、彼女と共にあるために、彼はその視線をようやく地平線の方へと向けたのだ。
 そして、それは、自分の好きだった彼ではない。
 いい意味で、彼は変わったのだ。今の彼なら、自分は気にせずにいられる。放っておいても、心配したりしないでいられる。
 それは、きっといいことなのだろう。
 だが――
 それなら、自分の恋は、何処に行くのか?
 屋上での告白で、風に吹き飛ばされて消え去ってくれていたなら、どんなにか楽だったろう。しかしながら、彼女の中で、想いは融け残りの雪のように、消えずに残っている。
 あの後、家に帰ってから思い切り泣いた。次の日は目許が少し腫れぼったくて、泣き疲れて眠った所為か頭がぼうっとした。寝坊してしまった彼女に代わって、姉が朝ご飯の支度を済ませておいてくれていた。
 彼女が落ち込んでいるらしいのを何となく察してくれて、家族は皆、何も言わないで気遣ってくれる。それはとても嬉しいのだけど、そのおかげで、未だに想いを振り切ることが出来ずにいた。
 友達は腫れ物に触れるような態度で彼女に接してくるし、少年とはあれきり口を聞いていない。気付くと視線は彼女の方を追っていて、自分の視線に気付いた少女が気まずそうに瞳を伏せるたびに、心が疼いた。
 あの後、彼女は本当に色々考えた。今考えればどうでも良いようなくだらない事だけではなく、今度ふたりに逢ったらどんな顔をすればいいのだろう、といった事まで、真剣に考えた。
 おかげでひとつ、解った事がある。
 彼に告白しても、彼女は想いを振り捨てて自由になることが出来なかった。それは何故なのか考えていて、気付いたのだ。
 彼女はまだ、少女ときちんと話をしてさえいないのだ、ということに。
 何を話せばいいかも解らない。けれど、このままうやむやにしてしまうと、自分も、少女も、そして彼もきっと不幸になる。そう思った。
 だから、後はタイミングなのだ。
 何を話せばいいかなんて、解らない。でも、話さなくてはいけない。そんな気がした。
 ガラスに押し当てた拳をきゅっ、と握り締めると、ともすれば竦みそうになる躯を叱咤して、彼女は踵を返した。
つづく



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  あとがき

 農協ろぼ、ちょこっとだけ出ました。写真だけ(^^;
 アスカは声だけ。なんだかなぁ……あ、ばらしちゃった。てことで、アスカは女です。男にすることもちょろっと考えたんですけどね。それは「真夏」でもうやってるし。
 しかし、なかなか話が進みませんですねぇ。
 書いててイライラ〜。って、読んで下さってる方はもっとイライラ? ごめんね。次回はなるべく早くあげようと思いつつ、こればっかりは電波の神様次第。
 ご意見や感想なんかをくれたりするとちょっとは早く書けるかもしれない。なんてな(^^ゞ
 でも、もらえればホントにすごく嬉しいです。ぷりーずっ。
 さて、続きどうしよう(自爆)。

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