彼女事情
K A R E × K A N O

Written by:きたずみ

#21
 少年のその腕には、黒髪の少女がさながら宝物のごとく抱かれていた。
 長く伸びた影は、ひとつ。
 そのやや後を、二つの鞄を抱えた蒼銀の髪の少女が、いささかならず不機嫌そうな面持ちで追う。感情を露にすること自体が稀な彼女にしてみれば、これはきわめて異例の事態である。
 そう、彼女――綾波レイは、すこぶるご機嫌ななめだった。
 何故なら、彼女にとって大切な存在であるユカは、トウジと完全に二人の世界に入ってしまっていて、自分の存在など目にも入っていない様子だからだ。
 以前の彼女なら、そんなことは気にも留めなかっただろう。他人の存在など、意識の片隅にすらのぼってはいなかったからだ。ただの群衆でしかなかった。
 だが、今は違う。否、ユカは違う、というべきか。彼女の存在を、レイはどうしても無視できないのである。放っておいて教室に行けばいいのに、このままユカとトウジを二人きりにすることには物凄い抵抗を覚える。自分でも良く解らないこの胸のモヤモヤが、レイにはどうしようもなく不快だった。
 このモヤモヤは、ユカが自分以外の人間と仲良くしている時に生じる。いや、ミサトとユカがじゃれていても別に気にはならないので、正確にはユカがトウジとべたべたしている時に、というべきか。
 普段なら、そのまま二人の間にムリヤリ割って入るぐらいのことはする。が、今はユカが怪我をしているらしく、おまけにトウジがユカを泣かせていた。それなのにユカはトウジにぴったりくっついて離れようとしない。いつもよりも胸のモヤモヤは激しいのに行き場がない所為で、レイはとっても不機嫌だった。
 ぴたり、とトウジが足を止める。
 その二、三メートル後方を追尾していたレイも、それとほぼ同時に足を止める。
 思わず、ひそやかな溜息が漏れた。それが一体誰のものなのか、などというのは愚問だ。その主たる少年の腕の中で、少女はなんとも倖せそうな、ふにゃ〜っとした顔をしているのだから。
「……綾波」
 もう一度小さく息を吐いてから、トウジはレイの方を振り返った。無論、腕の中のユカはしっかり抱いたままだ。それがレイを苛立たせているらしいのは解っているが、だからといってこの温もりを離したり下ろしたりする気はさらさらない。我ながら大人げないと思わないではないが、こればかりは譲れない。
(――ごっつい眼ェして睨んどるなぁ……)
 振り返った途端、威嚇的な光を湛えた真紅の双眸に出迎えられて、トウジは再び溜息を漏らす。
 鼻筋に皺を寄せて唸り声を上げている仔犬ににからまれているような複雑な気分を味わいながら、トウジは軽く保健室の扉のほうに顎をしゃくってみせた。ドア越しでも薬の匂いがするが、それよりユカの髪から漂ってくる甘い香りの方が気になってしまう。
 咽喉の奥がカラカラになるのを覚えながら、トウジは言葉を継いだ。
「すまんけど、ドア開けてくれんか。今、両手ふさがっとんねん」
「なら、おろせば」
「せやけど、ユカ怪我しとるしなぁ。歩かせるのは可哀想やろ」
「……」
 ちょっと困ったような声音で言って、トウジは腕の中のユカを見やった。ハッキリ言って、歩けないほどの怪我ではない。だが、腕の中のこのふんわりした感触はどうにも捨てがたいものがあった。このところユカがレイにかかりきりでろくにべたべたしていないため、少なからず欲求不満が募っていた所為もある。トウジとしては、ここらできちんと所有権を主張したいところだ。肝心のユカはというと、もうへにゃへにゃでまわりのことなどまるで目に入っていない。
 う〜、と低く唸りながら、レイはトウジの腕の中のユカを見た。
 何だか怪我人とは思えないほど倖せそうな顔をしているように見えるが、それはレイの気の所為だろうか?
 だが、怪我をしているのは確かだし、ユカの苦しむ顔など見たくない。悔しいが、その点ではトウジの言うことはもっともなのだ。それに、このままだと調子に乗ってずっとくっついていることにもなりかねない。
 自身の精神安定上の見地からも、さっさと二人を引き離すために協力した方が得策、とレイは判断した。
 きゅっと唇を噛み締めながら、余裕の笑みを口許に浮かべて勝ち誇っている(ようにレイには見えた)トウジをひと睨みして、レイは保健室の扉をからりと引き開けた。途端に溢れだした消毒薬の匂いが一気に鼻腔になだれ込む。
 思わず鼻筋に皺を寄せながら、トウジはユカを抱いたまま、レイの隣を擦り抜けた。
「なんや、誰もおれへんやないか」
 保健の先生はまだ来ていないのか、室内は無人だった。人の気配がまったくない。呆れたように呟きながら、トウジはベッドに腰を下ろした。尻の下で固いスプリングが弾むのを感じつつも、腕の中の柔らかな感触はどうしても離しがたく、トウジはユカを抱いたままでいた。微かに汗ばんだユカの髪の甘い匂いが鼻腔をくすぐり、トウジをたまらない気分にさせてくれる。このままだと衝動にまかせてユカを押し倒してしまいそうなので、トウジは足の怪我に気を使いながら、彼女の躯をそっとベッドに降ろした。
「だ、大丈夫か?」
「あ……、う、うん。ありがと」
 ユカは桜色に頬を染めてトウジを見上げた。
 襟元に残る微かな男の子の汗の匂いに、無性に胸がどきどきする。肩をそっと優しく掴んでいた掌の大きさや、彼女の躯を力強く支えていた腕の逞しさに、ユカは感動すら覚えていた。ふわふわと浮いてるみたいで、もの凄く気持ちよくて、何故か無性に安心できたのだ。
「ん、い、いや、ええねん」
「えへへ……なんか、照れるね。こーいうの」
「あ、アホ。そんなん言うたら、余計恥ずかしなるやないか」
 名残惜しげにしがみついて見つめあったりしているユカとトウジの姿に、我知らずレイはこめかみに青筋を浮かべた。思わず力任せに勢いよく扉を閉じる。
 ――ばーんっっ!
 少し腕に力を込めすぎたのか、意外に大きな音が辺りに響き渡った。
「きゃっ」
「な、なんやぁっ」
 その音に我に返ったのか、未練がましくべたべたとくっついていたユカとトウジは、まるで飛び跳ねるようにして離れた。二人とも、互いに顔を合わせられないくらいに真っ赤になっている。
 そんな自分たちを冷やかに眺めているレイの一見無表情な態度が、いっそう恥ずかしさを煽りたてた。
「あー……、えと、とりあえず、冷やさなあかんな」
  わざとらしく咳払いをして、トウジはあたりを見回した。何度か世話にはなっているが、自分の怪我ならまだしも、女の子の手当などユキノ相手にしかしたことがない。勝手の違いに戸惑いながら、トウジは薬棚に向かった。が、保健委員でもないので、何処に何があるのか良く解らない。湿布や包帯を探すのは早々に諦めて、トウジは消毒済みのタオルを水に浸すと、固く絞って戻ってきた。
「靴、脱げるか」
「あ、うん」
 靴紐を解いているユカにそう声をかけて、トウジはそのまま彼女の足元にしゃがみこんだ。痛みの所為か上手く脱げずにいる様子を見かね、彼女の足をそっと手に取った瞬間、ユカの甘やかな体臭がふわりと鼻をついて、カッと耳が熱くなる。このまま彼女を押し倒したくなりそうな衝動をぐっと抑えて、トウジはそっと靴を抜き去った。
 だが、それは逆効果だった。
 目の前に、すらりとしたユカの白い脚が差し出されている。純白のソックスに包まれた可愛い足につい見惚れたトウジだったが、ふとした弾みに、視線が太腿の少しまくれあがったスカートにいってしまい、思わず生唾を飲んでしまった。
 が、こういう時にかぎってどういうわけか、必要以上にでかい音がしたりする。
「……トウジのえっち」
「え、えっちて、な、なんやねん」
「なぁんか目つきやらしいぃ。ヘンなとこ見てるし……」
 ちょっと怒ったようにトウジを睨みながら、ユカはまくれあがったスカートをそそくさと直した。
「あ、アホなこと言うな。わ、ワシはやな、ただ――」
「たまってしょうがないんだ?」
「そう、そうやねん――って、ちゃうがな! これはやな、あれや、男の本能ちゅうか、悲しいサガっちゅうか……その」
「……ばか」
 赤い顔でやや上目遣いにトウジを睨みながら、ユカはぽつりと言った。
 いろんな欲求を抱えているのは男の方ばかりではない。女の子にだって性欲はある。好きな人といつもくっついていたいと思うのはごく自然のことで、くっついていたらヘンな気分になることだってある。
 ユカも、このところトウジとのスキンシップが足りないことで欲求不満を感じていたのだ。出来ることなら、もっとずっとべたべたしていたいくらいである。
「そんなこと言われたら、わたしも我慢できなくなっちゃうじゃない」
「ゆ、ユカ……」
 またしてもレイの存在を忘れて二人の世界に突入しかけたユカとトウジだったが、世間はそんなに甘くない。
 ――がらっっ。
「碇さん、だいじょう――ぶっ!?」
「ひ、ヒカリちゃん……っ」
 気合をいれて勢いよく扉を開けて入ってきたヒカリが見たものは、なんともえっちくさいシチュエーションで見詰め合うユカとトウジの固まった姿だった。
 想像していただきたい。
 ベッドに座った女の子の足元にひざまづいて、その足をそっと手に包み込んでいる男。
 少なくとも、朝っぱらの保健室で中学生がやることじゃあるまい。やってる奴が絶対にいないとは断言できないが、あまりおすすめできることではないのは確実だろう。少なくとも、健全な中学生らしくはない。
 まあ、いまさら健全な中学生を気取るつもりはさらさらないが。
「あ、あの、ちがうの! これは――」
 改めて自分たちのおかれた状況を見渡してみてそう思ったユカは、半ば無駄だろうなと思いつつ弁明を試みた。が、予想通りというべきか、相手は既にこちらの言葉など耳に入る状態ではない。
「……あかんな、コレは」
 やはりというべきか、ユカよりはヒカリとの付き合いの長いトウジは、わなわなと肩を震わせているヒカリの反応から、次の行動を正確に予測していた。伊達に一年も喧嘩友達はやっていない。
「ふ……っ」
 一瞬固まっていたヒカリだったが、ややあって思い切り息を吸い込んだ。
「――ふ?」
 状況の解っていないユカとレイがきょとんと首を傾げるのを眺めながら、トウジは諦め顔で耳をふさいだ。警告するにはもう遅い。
「ふけつやぅぉぉぉぉぉぉ――っっっっ!!!!」
 ヒカリの魂の絶叫が、朝の静かな校舎をこれでもかといわんばかりに揺るがした。
 実に数週間ぶりの、ヒカリとユカの会話(?)であった。
 
「……っとに、なに考えてんのよっ」
 耳許や頬がまだ火照ったまま、深々と息を吐いて、ヒカリは一見反省しているように見える少女と少年を見下ろした。
 殊勝そうに項垂れてはいるが、時折こっそり目配せしているあたりがカンに障らないかと言えば、そんなことは全然ない。
 はっきり言ってドタマにくるぐらいムカついたりするのだが、それが嫉妬とは少し違う感情なのだと気づいてしまう自分に驚いて、ヒカリは怒るより先に呆れてしまった。結局、頬を赤らめたまま、俯き加減にぶちぶち呟くぐらいしかできなくなってしまう。
「保健室で、その……そーいうこと、しないでよねっ」
 そういうことてどういうことやねん、とトウジは思ったが、あえて口には出さない。決して短くはない彼女とのつきあいの中で、下手に口を挟むのは火にガソリンをぶっかけるようなものだということを既に学んでいる。
 ここは、嵐が通り過ぎるのをひたすら待つことだ。
 とはいえ、思わず愚痴めいた呟きを漏らしてしまうのは仕方がないのかもしれない。
「……まだ何もしてへんて言うとるやないか」
「未遂だっただけでしょ! まだって何よ! あたしが入ってこなかったら何するつもりだったわけ!? フケツよっ!」
「フケツて……あのなぁ……」
 こうなってしまっては何を言っても無駄である。それに、下心があったのは否定のしようがない事実なので、トウジは溜息混じりに諸手をあげて降参した。同時に、先日のことを少しも引きずっていないように見える彼女の以前と変わらぬ様子に、少なからずホッとする。
 ユカと出会う以前。彼女のことをこの世でもっとも大切なものとして認識するようになる以前、このそばかすの少女との口喧嘩が、鬱陶しいと思いつつも何処か心地好かったことを思い出して、トウジは複雑な気分になった。ヒカリとのこうしたやりとりに懐かしさを感じている自分が、すでに彼女のことを過去のものとして考えていることを自覚してしまい、己の身勝手さをあらためて確認してしまう。
「何って、ワシらはただ……なぁ」
「う、うん」
 ちょっと変な気分になっちゃったけど、と思いながら、ユカは赤い顔で頷く。
「だいたい、綾波もおんのになんかできるわけないやないか」
 いくら殊勝な台詞を吐いてみたところで、ほんのりと頬を染めて視線を交わしあっていては、説得力も信憑性もあったもんではない。そんな二人に胡散臭そうな眼差しを送りつつ、未だに憤懣やるかたないといった様子で腰に手を当て、諦め混じりの溜息を漏らしたヒカリは、傍らにぼーっと佇む蒼銀の髪の少女に目をやった。
 無論、別にレイはぼへーっと見ていたわけではない。ヒカリが飛び込んでくるのがほんの少し遅かったら、彼女が見た光景は違った物になっていただろう。半ば本能的に、トウジの無防備な後ろ頭に、取り敢えず膝蹴りでもかます体勢になっていたのだ。げに無意識とは恐ろしい。
 だが、そんなこととは知るよしもないヒカリは、呆れたように息を吐きながら言を継ぐ。
「だいたい、綾波さんも綾波さんよ。どうして止めなかったの?」
「――止める?」
「そうよ。私たちまだ中学生なのよ? ああいうことはしちゃいけないんだからっ」
「ああいうことって、どういうこと」
「どうって、……その……」
 淡々とした面持ちで問い返すレイに、ヒカリは言葉に詰まった。なんと説明して良いか解らないというより、恥ずかしくて言えないといったほうが正しい。首筋まで真っ赤になって俯いている様子から、先ほどのユカとトウジの体勢を彼女がどう受け止ったかが如実に窺える。
「止めれば、いいのね」
 軽く首を傾げてから、レイはいつもの口調で言った。その声音が少なからず嬉しそうに聞こえたのは、果たしてトウジの気の所為だろうか?
 どうもそうではないらしいのは、レイがわざわざ視線をトウジに向けてニヤリと口唇の端を軽く吊り上げて見せたことからも窺えた。仮にも育ての親であった某髭オヤジのそれにあまりにも酷似したイヤ〜ンな笑みに、トウジの背筋に思わずぞわぞわぞわぁっ、と悪寒が走る。
「いいんちょ……なんちゅうことをしてくれんねん……」
「え? なにが?」
 どんよりと重い口調で呟いたトウジを不思議そうに見やりながら、ヒカリは小首を傾げた。これからの先行きに不安を抱き始めているトウジの横で、ユカが少しばかり引き攣った笑みを浮かべている。その片足に目をやって、傍らに無造作に放り出されたままの濡れタオルを目にとめたヒカリは、呆れたように深々と溜息を吐いた。
「ったく……ほら、さっさとどきなさい!」
「おわっ! な、なにすんねや、いいんちょ!」
「なにじゃないわよ! 女の子の躯はもっと丁寧に扱いなさいよね! 頑丈なだけが取り柄のあんたとは違うんだから」
「……人のこと蹴り飛ばしといて言うか、そーいうことを……」
 性懲りもなくユカの隣に腰掛けていたトウジをベッドから追い出して、ヒカリはユカの足を手に取った。
「――…っ」
 その瞬間、何ともない顔をしていたユカが微かに眉を顰めて呻きを噛み殺すのを見て、ヒカリは勢いよく靴下を脱がした。
「……痛いはずよね、こりゃ」
 軽く捻っただけと思っていたが、肌が白い所為か、赤黒くなったその箇所は一際目立った。思ったよりも足首が腫れている。これでは歩けるわけがない。呆れたように溜息を吐いて、ヒカリは恐縮して肩を縮めているユカを見やった。
「ごめんなさい……」
「なに謝ってるのよ。怪我人は大人しくしてなさい」
 まるで仔犬のような黒くて丸い瞳に見つめられて、ヒカリは自然と笑みを浮かべていた。しょうがないなぁ、と思ってしまう。溜息混じりに苦笑したその時、涼やかだとは世辞にも言い難い、味も素っ気もない無機質なチャイムが校舎に鳴り響いた。
「……とりあえず、冷やさないと」
 予鈴が鳴り終わるのをぼんやり聞いていたヒカリは、胸の中に溜め込んだ想いと一緒にその言葉をぽつりと吐き出すと、腰に手を当ててトウジたちに向き直った。
「あんたたち、ボサッとしてないでさっさと教室に行きなさい。もう予鈴鳴ったわよ」
「…え……、いや、けど……」
「こっちは私がやっとくから。ほら、行った行った」
 躊躇いがちにベッドに腰掛けたユカの方を見やるトウジにそう言って、ヒカリはひらひらと手を振った。
 それきり、彼には目もくれずに医薬棚の方へと歩き始めて、ふと部屋の片隅に佇んでいる蒼銀の髪の少女に改めて気づく。彼女は、ユカの方をじっと見つめていた。レイの視線の先では、黒髪の少女が漆黒の双眸を潤ませて少年にそっと微笑みかけている。
 ふと、その紅い瞳が動いてこちらを見た。
 その瞬間、どきり、と心臓が跳ね上がった。
 とても澄み切っていて、感情などの揺らぎがない所為か、冷たささえ感じられる瞳だ。だが、すごく綺麗だとヒカリは思った。
 こんな風にレイと視線をあわせるのは初めてのような気がする。それが嬉しくて、ヒカリはちょっと遠慮がちに微笑んでみたが、レイはそんな彼女を無感動な瞳で一瞥しただけで、すぐに視線を外してしまう。ヒカリの存在など、まるで道端の電柱ほどにも気にとめていないかのように。
 彼女は昔からそうだった。転校してきた時、特徴的なその風貌も相俟って周囲の関心を集めたものだったが、彼女は自分の周りに群がるクラスメイト達を、まるで目の前に存在しないかのように扱った。話しかけても反応が返ってくることの方が珍しく、そのうちに彼女の相手をするものは誰一人としていなくなった。そして、それが当たり前になっていた。
 ――その半年後、黒髪の少女がやってくるまでは。
 ユカも、最初は今とはまるで違っていた。レイのように周りを無視するのではなく、周囲に溶け込んでなるべく目立たないようにしようとしていた。まるで人目につくのを恐れ、息をひそめるように。
 今の彼女を見れば、目立たなかったのが不思議なくらいだ。それぐらい、彼女は自分を殺していた。ただでさえ変な時期に転校してきたことで奇異の目を向けられていたのだが、その好奇の目もすぐに沈静化していった。彼女が、あのエヴァのパイロットだと、解るまでは。他人の注目を浴びることを、彼女は異様なほど恐れているように見えた。極力他人と関わることを避け、誰とも話をせずに、ただ目立たないように教室の片隅で息を殺していた。
 そんな彼女の笑顔を見たのは、随分後になってからだ。
 あれは、二度目の避難警報が出たあと。彼女がしばらく学校を休んで、久しぶりに出てきた時のことだった。
 ヒカリには、それは唐突な変化のように感じられた。いや、ヒカリだけではない。クラス全体が騒然となったものだ。それまでじっと身をひそめていた蕾が一気に花開いたかのように、それまで目立たなかった少女はその溢れんばかりの魅力を惜しげもなく発散していた。
 何が彼女を変えたのかは、一目瞭然だった。誰もがその豹変ぶりに驚き、そしてどうしてこんなに魅力的な少女に気付かなかったのかと悔いた。――だが、気付いた時には、もう何もかもが遅かったのかもしれない。
 それはヒカリにしても同じ思いだった。
 その時から、彼女の笑顔の先には一人の少年がいた。彼女の感情表現はヒカリには真似できないぐらいストレートで、無骨な少年が戸惑いながらも彼女に惹かれていくのが、ヒカリにはすぐに解った。
 ヒカリには、どうすることも出来なかった。否、その勇気がなかった。少年の顔を見ても出てくるのは憎まれ口や小言ばかりで、本当の気持ちはどうしても言葉に出来なかった。彼女が勇気を奮い立たせようとしている間に、黒髪の少女がするっと傍らをすり抜けて、少年に腕を絡ませていく。それを、ヒカリはただ見ていることしかできなかったのだ。
「あ、そだ、レイ」
 立ちつくしていた蒼銀の髪の少女に向けて、ユカが不意に思いだしたような口調で言った。その瞬間、レイの瞳がハッキリと揺らぐのを、ヒカリは見た。
「悪いんだけど、先にカバンを教室に持っていってくれる? わたしの机の上に置いといてくれればいいから」
「……わかったわ」
 こくん、と頷いて、レイは持っていたユカのカバンをきゅっ、と軽く抱きしめた。そして、名残を惜しむようにユカに視線を走らせてから、からりとドアを開けて出ていった。
「トウジも、先に行って。先生来ちゃうよ」
「お、おう。ほな頼んだで、いいんちょ」
「はいはい。解ったからさっさと行きなさい」
 しっしっ、とノラ犬を追い払うように手を振るヒカリに軽く顔をしかめてから、トウジはユカに手を振って保健室から出ていった。ドアの向こうで、ばたばたという賑やかな足音が遠ざかっていく。それに伴って、保健室に静寂が舞い降りた。
 溜息をひとつ吐いて、ヒカリはユカの方を見やった。
 ベッドの上にちょこんと腰を下ろして、素足になった方の足を軽くぷらぷらと揺すりながら、少女は肩にかかるくらいの艶やかな黒髪をそっと揺らして、やや上目遣いにヒカリの視線を受け止めた。
 今にも消え入りそうなひそやかな笑みを口許に湛えた少女の潤んだ黒瞳に、ヒカリは吸い込まれるような感覚を覚える。
 なんと言えばいいのだろう。その瞳に見つめられていると、胸の奥がザワザワする。不思議と目で追いかけずにはいられないような、そんな雰囲気を湛えている。こんな瞳で見つめられて、縋り付くように思い切り甘えられたら、どうにかならない男なんていないんじゃないだろうか。
 自分とは全然違う。そう思って、ヒカリはつい落ち込んでしまう。顔はそばかすだらけだし、可愛いげなんかないし、ユカみたいに甘えてみせるなんて真似は到底出来なくて、恥ずかしさを誤魔化そうと、つい憎まれ口を叩いてしまう。
 なんで、鈴原だったんだろう。どうして彼でなくてはならなかったのだろう。
 彼女みたいに可愛い子なら、別に鈴原でなくてもよかったんじゃないか――。
 そんな風に思ってしまう自分を、ヒカリは嫌悪した。
「あの……わたしの顔、何かついてる?」
「え? あ、ううん、別に」
 少し困惑したように尋ねられて、ヒカリは慌てて首を振った。医薬棚に向き直り、慣れた手つきで湿布と包帯とハサミを取り出して、ユカのもとへとって返す。華奢な白い足首は軽く腫れていて、それが痛々しく見えた。
 湿布を当て、少しきつめに包帯を巻いて固定する。
「はい、できた」
「ありがとう、ヒカリちゃん」
 軽く息を吐いて立ち上がったヒカリに、ユカは含羞んだような笑みを浮かべて言った。
「い、いいわよ、別に」
 何故か頬を赤らめながら、ヒカリは目を逸らした。ベッドから離れ、閉め切られていた窓を開け放つ。グラウンドを渡ってきた所為か、少し埃っぽい風が吹き込んできて、カーテンと少女たちの髪をそっと揺らした。
 すっと、胸の奥まで空気を一杯に吸い込む。
 軽く目を閉じる。
 そしてゆっくりと開くと、ヒカリは空を見上げるようにして言った。
「ねぇ、碇さん」
「え?」
 ベッドに腰掛けたまま、少し居心地悪そうにしていたユカは、ヒカリの呼びかけに軽く首を巡らせた。そんな彼女の動きを知ってか知らずか、ヒカリは窓枠に手をつ
いたまま、こちらに背を向けている。
「鈴原のこと、なんで好きになったの?」
「えっ?」
 唐突な問いかけに、ユカは戸惑ったように口ごもった。
 何か話があるのかな、とは思ったが、そんなことを訊かれるとは思っていなかった。
「……なんで、って言われても――」
 相変わらず足を揺すりながら、軽く俯く。
「そんなの、わかんない」
 しばらく考えて、ユカはそう答えた。
 いっぱい理由はあるような気がしたが、そのどれもが違うような気もした。
「わからない?」
「だって、気がついたら好きになってたんだもん。なんでかなんて、わかんないよ」
「……そっか」
 全身からふっと力が抜けていくのを、ヒカリは感じた。自分でも、バカなこと訊いちゃったなぁ、と思う。心の何処かで、ユカは本気じゃないんじゃないか、などと考えていた自分が、ひどく狡い人間に思えてくる。
「あの……」
 ヒカリの顔と自分の膝もとの間で視線をうろうろさせながら、ユカは言いにくそうに口を開いた。
「ん?」
「ヒカリちゃん、は?」
「なにが?」
「あの……トウジのこと、なんで――」
「……」
 その問いかけに、ヒカリは一瞬応えに詰まる。ややあって、ヒカリはふっと微笑った。そんな彼女を、ユカはぽかんとした顔で見ていた。
「忘れちゃった」
 いつも小言をいったり喧嘩ばかりして、手間のかかる弟みたいに思っていた彼のことを、不意に異性をして意識した瞬間のことは、ヒカリの心の底に、今でも大切な思い出として残っている。でも、それを今、ユカにいうのは、違う気がした。自分でも良く解らないのだけれど、ユカがトウジを横取りしたとか、自分の方が先に好きになったのにとか、そんな風にはどうしても思えない。
 一緒にいるユカとトウジを見ても、何故か嫉妬めいた感情は湧き起こってこなくて、それが自分でも不思議だった。なんかもう、勝手にやってちょうだい、という感じなのだ。トウジのことをそれほど好きではなかったのかも、とさえ思う。そんなことはない筈なのだが。
「ヒカリちゃん、あの……今でも、その……」
 言いにくそうに口ごもるユカを見て、ヒカリは思わず口許に笑みを浮かべた。
「好きだよ」
 その言葉に、ユカが全身を強張らせるのが解る。表情が凍り付いて、泣きそうなままじっとこちらを見つめていたかと思うと、ふっと俯いた。膝の上に置かれた拳がぎゅっと固く握りしめられていて、微かに震えている。
 きっと、それをずっと怖れていたのだろうと解って、ヒカリは何となくホッとした。
「でもね」
 そんなユカの様子をつぶさに観察しながら、ヒカリは言葉を継いだ。
「でも、不思議なの。さっき、普通に話せたのよね。まるで何もなかったみたいに。あんな風に話したりとか、もう絶対できないと思ってたのに。どんな顔して会えばいいの、とか色々考えてたのが馬鹿みたい。なんか、泣いて損しちゃったなぁって感じ」
 ユカは顔を上げない。そんな彼女の様子を見つめたまま、ヒカリは続ける。
「私、鈴原とああいう風に話したりするのは好きだったけど、碇さんみたいに、鈴原に甘えたりしたいとは思わなかったし、そんなこと、恥ずかしくてできないと思ってた。だからね、私の『好き』と、碇さんの『好き』は、たぶん違うんだと思うの」
「……?」
 のろのろと、ユカが顔を上げた。
「正直言うとね、ほんとに好きだったのかどうか、よく分かんないのよね。あいつ、ホントどーしようもない奴で、相田とつるんで馬鹿やったりしてて、先生とかにも目をつけられてて、もうほっとけなくて。そんなあいつを叱りとばして、つまんないことで言い合ったりするのは、今考えると楽しかったかなって思う。そういう意味では、好き……、だった、かな。今でも、その気持ちは変わってない。鈴原と今まで通りに話せて、すごく安心してるの」
 ヒカリの言葉を聞きながら、ユカはヒカリが何が言いたいのか解らないような表情で、不安そうに彼女を見ていた。
「私、あなたが現れなかったら、今でもあいつとはただの喧嘩友達のままだったと思う。鈴原に告白なんて、絶対にできなかった。二人になると素直になれなくて、ホントの気持ちを伝えられずに憎まれ口ばっか言っちゃって……告白して断られたらどうしようとか思うと怖くて、だったら今のまんまでいいやって、甘えてたのね。だから、その……ああもうっ、なんて言ったらいいのよっ」
 言いたいことがうまくまとまらなくて、ヒカリはもどかしげに溜息を吐いた。彼女を責めたいんじゃない。鈴原に選んでもらえなかったのは、彼女がいたからじゃない。ただ待っているだけで動こうとしなかった、自分が悪いのだ。自分が彼女に伝えたいのは――
「私ね? あなたのこと、嫌いじゃないよ?」
「……へ……っ?」
 ぽかんとした表情で、ユカはヒカリを見つめた。何を言われたのか、まるで解らないような表情だったが、やがてその言葉の意味が脳に染み渡っていくと、ぎゅっと唇を噛み締め、緩みかけた涙腺をなんとか締めようとする。
「わたし――わたし、ヒカリちゃんに、嫌われてるって思ってた……」
 頑張って締めようとしても、胸の奥から突き上げてくる衝動は抑えようもなく、瞬く間に双眸が潤んでぼろぼろと涙が溢れ出した。瞳から溢れた涙の粒はひとすじの流れとなって頬を伝い、顎を伝って膝の上にぽたぽたと落ちる。
「わたし、知ってたの……ヒカリちゃんが、トウジのこと見てるの。だから、好きなんだなって、解ってたの。でも、わたし、ズルいから……だから、ヒカリちゃんに嫌われても当然だと、思って……、だから――」
 途切れ途切れの涙声でそう漏らすユカ。
「ぷっ……」
 我慢しきれずにとうとう吹き出したヒカリに、ユカはぽかんとした顔を向けた。涙と鼻水でぐしょ濡れのその顔はお世辞にも可愛いとはいえなくて、まるで小さな子供のような泣き顔を他人に見せることのできる彼女に、ヒカリは心の中でわだかまっていたものが霧散していくのを感じていた。
「ったく……なんて顔してんのよ……もう、せっかくの可愛い顔が台無しじゃないの。しょうがないわねぇ」
 笑いを噛み殺しながら、ヒカリはポケットからハンカチを取り出すと、ぐしょぐしょになったユカの顔を拭ってやった。妹がまだ小さかった頃にそうしてやったことを思い出して、呆れたように溜息を吐く。
「ヒカリちゃん……」
 ぐしゅ、と鼻水を拭きながら自分を見上げるユカに、ヒカリは観念したように笑みを浮かべて見せた。
「いっとくけど、私はあなたに負けたわけじゃないからね。鈴原の恋人の座はあなたに譲るけど、トモダチの座まで譲る気はないから。あの馬鹿に女友達なんてそうそう出来っこないし、私が第1号ってことで」
「えーっ?」
「えーって何よ。ま、そういうコトだから、私が鈴原と仲良ししててもヤキモチ妬かないでね、ユカ」
「むー……」
 涙のひいた半むくれの顔で、ユカは腰に手を当てて宣言するヒカリを見上げた。それから、今まで自分を「碇さん」と呼んでいたヒカリが、ようやく「ユカ」と呼んでくれたことに感動して、怒っていいのか泣いていいのか解らなくなる。
「見てなさい、そのうち鈴原なんかよりずっといい男を捕まえて自慢してやるんだから」
 そう言って、ヒカリはユカと顔を見合わせた。
 一瞬の後、二人は揃って吹き出した。
 朝の保健室に、少女たちの明るい笑声が響き渡る。
 眩い陽射しが室内を照らしていて、開け放した窓から吹き込んでくる風が二人の髪とスカートを揺らしている。蝉の鳴き声が校舎に反響して、けたたましく響いていた。
つづく



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  あとがき

 ヒカリとユカ、何とか国交樹立という感じです。
 「真夏」では何となく親友にしちゃってるのですが、そんなに簡単に仲良くなれるのだろうかと思ったりもしました。でもケンカとかはしないだろうな、と。わかんないけど、なんとなく。
 てゆーか、あんまし引っ張るとイタモノになっちゃいそうで、ねぇ(^^ゞ

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