彼女事情
K A R E × K A N O

Written by:きたずみ

#22
 第3新東京市中心部にそびえ立つ超高層ビル群は、その狭間に転がったままの第5使徒の遺骸と一緒に、真夏の陽射しに照らされてゆらゆらと揺らめいていた。解体作業が止まったままのため、ほとんど手つかずの状態だ。その光景は、気まぐれな芸術家が造りかけたまま無造作に放り出してしまったオブジェのようにも見えて、ひどく現実感が稀薄に感じられた。
 いつもと変わらぬ午後の気怠いひとときの静寂を破ったのは、雄々しいレシプロエンジンの轟きと、軋みながら路面を滑るタイヤが上げる、けたたましい悲鳴のようなスリップ音だった。
 とても公道を走っていたとは思えないスピードをほとんど緩めぬままに校門を抜けた真紅のフェラーリ328は、そのままの勢いで校舎脇に滑り込んできた。派手にタイヤを軋ませながら鮮やかなスピンターンをひとつして、決して広いとはいえない駐車スペースにぴたりと収まる。
 そんな真似をして、目を惹かない筈がない。2−Aだけでなく、他所のクラスの生徒たちまでが、いったい何事かと窓から顔を出す。
 そんな生徒たちの注目を意識してか知らずか、開かれたドアから悠然と差し降ろされたハイヒールが、コンクリートの地面にカツンと涼やかな音を立てた。耳元でそっと揺れるイヤリング、豊かな胸元でさりげなく輝く十字のペンダント。
 おもむろにサングラスを外し、軽く頭を振ると、藍色の長い髪が陽光を受けて輝きながらふわりと舞った。
「おおーっ」
 鈴なりになって窓から身を乗り出した男子生徒たちは、その姿に感嘆の吐息を漏らした。ミサトの本性など知るよしもない彼らにとってみれば、滅多にお目にかかれない美人のお姉さんなのだ。
「……何なの、いったい」
 男子生徒たちの騒ぎように、ヒカリは呆れたような溜息を吐いた。鈴なりになった男子どもの隙間から件の人物の姿を覗き見て、生徒の母親にしては少し若いかと思いながら、何で男子はこんなコトでいちいち騒げるのだろうとこめかみを押える。
「ごめん……あれ、わたしの保護者」
「じゃ、お姉さん?」
 申し訳なさそうに引き攣った笑みを口許に浮かべながら言ったユカに、ヒカリは少し首を傾げた。ちらっと見ただけだが、ユカとはあまり似ていないな、と思う。もっとも、自分と姉とてそれほど似ているとは思わないが。
「ううん、ネルフの人。わたし、親いないから、その代わり」
「あ、そうなんだ」
 何でもないことのようにそう言って笑うユカを、レイが横目でちらりと見やる。彼女はまだ、ゲンドウのことを父親として認めていないのだろうか。それとも、親はもういないのだと思うことで、痛みを忘れようとしているのだろうか。
「ま、うちのクラスの子はたいてい、親いなかったりするけどね。あたしも両方いないし。代役がいるだけまだマシかもよ?」
 ヒカリの友人三人娘の一人が、ややきつめのショートにした髪を無造作にかき上げながら、口許に薄い笑みを浮かべつつ、ちょっとだけ投げやりな口調で言った。
「……ごめんなさい」
「は? なんで謝るの? ユカが謝るコトじゃないじゃん」
 ほとんど反射的に謝っていたユカに、ショートの娘は呆れたような笑みを浮かべた。別に彼女はユカを責めたつもりはない。単に事実を言っただけだ。彼女を含め、両親がきちんと揃っている子は、このクラスには一人もいないのだから。
 ユカたちのクラスは、片親の子供達ばかりが集められている。それが何者かの意図によるものだと明確に意識はしないでも、二親が揃った子供がただの一人もいないというクラスは、ちょっと異常である。自然とそういうことを悟った子供たちの間には、奇妙な仲間意識めいた連帯感が生まれていた。
 セカンドインパクト以降、片親がいない子供、というのはそれほど珍しい存在ではなかったが、片親がいないというだけのことでも、人間はいかようにでも残酷になれるものだ。その意味で、このクラスはコンプレックスから僅かなりとも解放される場所ではあった。少なくとも、そのことで不快な思いはせずにすむのだから。
「あ、うん……。けど、イヤな思い、させちゃったかなって」
「あー、言い方キツかった? ごめんね。うちもさ、今の親とは血がつながってないから。誰も来てくれないよりはいいよって、言おうとしただけなんだよ」
 そう言って、ショートの娘は笑みを浮かべた。
「親が片方いないってだけで、ムチャクチャなコト言ってくるバカは腐るほどいるしさ。そんなのいちいち気にしてらんないっしょ」
「……そだね」
 彼女の開き直ったような笑みと諦めの吐息混じりのその口調に、怒る気も失せるぐらいイヤな思いを重ねてきたのだと思い至って、ユカは少し項垂れた。
 母の顔を知らず、父のこともほとんど覚えていない彼女にとって、両親と思えるのは叔父夫婦だけだ。それらを一度に失ったも同然ではあっても、これまで親がいないことなど意識もせずに過ごしてきたことが、なんだか悪いことのように思えてくる。
「あー、そういや今日だっけ。進路相談」
 それまで読むともなしに手元の雑誌をぺらぺらとめくっていた眼鏡をかけた娘が、不意に思いだしたようにいった。
「めんどくさー。別にうちらがどうしようが勝手じゃん。中卒で就職しますってんなら別だけどさー」
 ショートの娘が溜息混じりにそう言って、机に突っ伏した。そういいながらも、それほどイヤそうな顔をしてはいないように見える。
「だいたい、選ぶほど高校あんのかってのよ。どうせ壱高でしょ? 成績がムチャクチャ悪いんでもなきゃさ、誰だって直で上がれんでしょーに」
「そりゃまあ、そうだけど……」
 彼女の台詞に、ヒカリは苦笑した。何しろ生徒数が足りてないので、確かに卒業さえ出来れば進学はほとんど確実なのだが、それを言ってしまっては身も蓋もない。
 進学組というものもあるにはあったのだが、使徒再来後の疎開によって消滅していた。生徒が戻ってこなかったのだから当然だが。たびたび避難命令が出るようなところでは、落ち着いて勉強などしていられないだろう。
「ママったらさあ、超おめかししてんだよ。この日のために新しい服買ったのよー、とか言って。たかが進路相談だってのに、勝負服とか着てさ。もー、やんなっちゃう」
 新しいマニキュアを試し塗りしていた娘が、ふわふわとカールした髪を揺らしながら言って、ふにゃーっと椅子に躯を預けた。
 その動きにあわせるように、制服の下で大きめの胸元がぽよんと勢いよく弾む。ちょっとぽっちゃりめな感じだが、中学2年生にしてはかなりいいスタイルをしており、顔立ちも大人びて見えた。薄く化粧をしているようだが、背伸びして大人ぶろうとしている感じではなく、意外に似合っていた。
「でさあ、ママったら、あたしの口紅貸してとかゆうんだよー。もういい歳なんだしさあ、若作りやめなよっていったら、『母一人、娘一人で頑張ってきたのに、ノリはママのこと愛してくれないのねっ』とかゆって嘘泣きするんだもん。もー、困っちゃった」
「ノリのママ、気だけは若いもんねー」
「そうそう、困ったもんだわ……って、『だけ』は余計なのよっ」
「あはは、ごめーん」
 こんな話題で明るく笑っていられるのも、気兼ねなく家族の話が出来るのも、相手も自分と同じような境遇だと知っているからだ。両親ともにいないショートの娘とて、そのことを気にした風もなく笑っている。
「ヒカリは? お父さん、来れるって?」
「んー。ちょっと遅くなるけど、何とか抜けだしてくるからっていってた。父兄参観とかと勘違いしてなきゃいいけど」
「ありがちだよね、うちらの場合」
「そうそう、こういうのしたことないからさ、どうして良いのか解らないみたいで。『ど、どうしたらいいと思う?』って、そんなの訊かれたって、こっちだって初めてなんだからさぁ。分かるわけないじゃんねぇ」
「でも、ちょっと嬉しくない?」
「てゆうか、なんか照れるよねー。外とかで親に会ったりするのってさ」
「うんうん」
 親が学校に来るという経験そのものが希少な彼らにとっては、それが嬉しくもあり、また気恥ずかしくもあるのだろう。
 自然とはしゃいでしまうのは、無理ないのかもしれない。
 そんな会話を、ユカはぼーっと聞いていた。
 彼女自身には、もともと親がいないという意識はあまりなかった。自分を育ててくれた叔父夫婦のことを本当の親だと思っていたからだ。彼らが本当の親ではないと解った今でも、その意識はあまり変わってはいない。
 むしろ、自分が本当の父親だという名乗りを上げたゲンドウの方が、親だとは思えないという情況なのである。
 父親らしい言葉をかけられた覚えもないし、いきなり呼びつけたかと思えば「エヴァに乗れ」ときた。しかも、叔父たちの説明を信じるなら、彼はかつて一度、ユカのことを捨てているのである。
 両親から離れて、身よりのない異境の地で暮らしている――そんな心境ではあるのだ。ただ、叔父夫婦と全く連絡が付かず、その所在も消息もまるで分からないままなのが、不安であった。
 それでいながら、レイのことばかりを気にかけているように見えるゲンドウに、嫉妬めいたものを覚えなくもないあたり、ユカの事情もなかなかに複雑なのである。ゲンドウのことを全く覚えていないならともかく、時折、昔のことのように彼との思い出が蘇ったりして、中途半端に彼のことを意識してしまうあたりが、彼女の不幸であった。どうせ嫌われるなら、知らない人のままの方が良かった。今更父だなどと、名乗りでないで欲しかった。
 けれど、時折蘇る記憶の断片から、自分はかつて、彼のことが好きだったのかもしれないと思うにつれて、彼の影響を少なからず受けていることも悟らされて、だからもう、彼のことを嫌っていいのか無視すればいいのか、ユカには解らなくなっていた。
 そんな彼女にしてみれば、片親がいないとはいえ、彼女たちの明るい会話は「普通の親子」を感じさせたし、叔父たちのことを本当の親だと思っていた頃の穏やかな日々を思い出させて、少なからず気分を落ち込ませてもくれた。
 だから、ユカはちょっと疲れたように項垂れて、溜息を吐いた。
 そんな彼女を、レイは無言で見つめていた。
 
「誰、誰? あの美人」
「碇の保護者だって」
「ウソ、碇ってばあんな美人に保護されてるわけ?」
「いいなぁ、紹介してー」
 何も知らない男子たちは、呆れ返る女子たちの白い視線になど気づきもせず、口々に勝手なことを言っている。
「くぅ〜っ、やっぱいいよなぁ、ミサトさんは」
 朝撮り逃した分を取り戻そうと、特等席からミサトの姿をカメラに収めつつ、溜息混じりにそう洩らしたのは、いわずと知れたストーカー小僧である。親友のその台詞に、しかしトウジは苦笑を浮かべるほかはなかった。
(現実を知らんゆうんは、倖せなんやなぁ……)
 昔、彼女に憧れていたのは事実だが、その本性を知ってしまった今となっては、そんな気持ちなど欠片も持ち合わせていないトウジの、それが偽らざる本音だった。知らずに憧れていた頃の方がよかった。確かに美人だとは思うが、中身はムチャクチャだし、あの外ヅラの良さには恐怖すら覚える。
 ケンスケやクラスの男子たちの喜びようにやや白けた眼差しを送って、トウジはちらりとユカの方を見やった。
 鼻の下を伸ばしている男子どもを見て呆れ返っているヒカリの横で、ユカは複雑な笑みを浮かべていた。トウジの視線に気づいて、ユカが軽く肩を竦めて見せる。応えるようにトウジが口許に笑みを浮かべると、それを見咎めたヒカリの友人がここぞとばかりにユカの首筋を締め上げた。
「なによー、見せ付けてくれちゃって、このおー」
「はうううー、やめてぇー」
「こっそりみつめあうなんてやらしー。これは許しておけなひわっ」
「うりうり、くすぐりの刑じゃあー」
「きゃっはははは、そ、そこだめぇ……」
「ほう、ここかっ。ここが弱いんかぁ? うん? どうじゃ、うりうり」
「…っぁんっ、や、やめ、……ひぁぁんっ」
 くすぐるというより好き放題にしているといった感のある光景と、妙に艶めかしいユカの吐息に、男子たちの視線がうろうろとあたりを泳ぐ。
 何人かは思春期の少年らしく鼻から燃えたぎるアツい血潮を吹き、そしてある者は座ったまま、またある者はズボンのポケットに手を突っ込んだままどことなく前屈みになって動けなくなっているあたり、その破壊力は凄まじかった。
(……なにやっとんねん)
 そんな男子生徒たちの惨状など気にもとめず、無邪気にじゃれあう女子の様子に思わず苦笑したトウジは、ふと目を動かして、彼女たちの隣で楽しそうに笑っているヒカリの横顔を見やった。
 その笑みは、本心からのもののように見える。
 保健室で二人に何があったのかは知らないが、こうしていると、まるで昔からの親友のように仲良く見えるから不思議だ。ほんの数日前まで、二人の間にはまったく会話がなかったというのに。
 彼女には幾ら感謝しても足りない、とトウジは思う。
 身勝手ではあるけれど、自分がヒカリではなくユカを選んだことで、ユカがクラスで孤立するのは心苦しかった。
 クラスでは数少ない彼氏もちであり、友達の好きな人を横取りしたという理由でいじめられてもおかしくない彼女だが、これまで陰湿ないじめは受けていない――少なくとも、トウジにはそう見える。その代わり、仲良くしている女子もレイ以外にはいなかった。
 ヒカリが率先して仲良くすることで、クラスの女子とユカの関係も改善されるだろう。だが、だからといって、自分がヒカリにしてやれることは、何もない。彼女の思いに応えることは出来ない――今でもまだ、彼女が自分のことを想っていてくれていれば、だが。
 彼にはユカを裏切ることは出来ない。それは彼自身の性格によるものも大きいのだが、何より彼自身の心が、すでにユカ以外には反応しなくなっている。あらためて想うのは、自分がいかにあの小柄な少女に心を奪われているかという事実だ。
 そんな事を考えながらヒカリをぼんやり見つめていると、不意にヒカリがこちらを振り返った。
 トウジの視線に気づいて、少し驚いたような複雑な表情をしてから、彼女は口許ににんまりと悪戯っぽい笑みを浮かべてみせる。
 ――そして。
「きゃあぁっ、ちょ、ヒカリ、ちゃんっ、やめっ、てぇっ」
「をーっほほほ、やめて欲しければこのあたしに忠誠を誓うのねっ」
「いやーっははは、くっ……、やっ、はぅうんぅっ……」
 弱い腋下を思い切りくすぐられて息も絶え絶えなユカと、性格が変わったようなヒカリに、周囲は呆気に取られるしかなかった。
「……なんだかなぁ」
 こちらに向かってVサインなんかして見せるヒカリに、トウジは溜息混じりに苦笑するしかなかった。
 
 そんな賑わいを打ち破ったのは、上空から舞い降りてきたVTOLの排出する高周波のタービン音だった。派手に砂埃を巻き上げながら、武装を一応取り外されたVTOL重戦闘機は、校庭にその巨体を悠然と下ろしていく。
 ミサトのフェラーリどころの騒ぎではない。学校のみならず、周囲の建物からも人々が顔を出して奇異の目を向けている。
 その視線の集まる胴体に、イチジクの葉をあしらった真紅のマークが鮮やかに染め抜かれている。まるで八時四五分の印籠よろしく、それを出されると泣く子も鬼も黙って逃げ出すNERVのシンボルである。
「ああーっ、あれはっっ!!」
 先ほどまでじゃれるユカとヒカリをアホらしそうに撮っていたケンスケだが、この時ばかりは目の色を変えた。今にも窓から飛び降りんばかりに身を乗り出し、こんな傍では滅多に見れない最新鋭機の姿を夢中になってカメラに収める。
 金食い虫の某機関の所為でなにかと予算縮小を迫られている国連軍や戦自には、こうした新型機はおいそれと回ってこない。おまけに、折角回ってきたと思ったらあっさり使徒にぷち潰されたりするのが悲しい現実である。休日ともなれば周辺の基地詣でや遠征に忙しいケンスケをしても、未だ数えるほどしかお目にかかったことがない。
 その一方で、件の某機関では幹部職員のタクシー代わりになっていたりする。その維持費を考えると、NERVが金食い虫である理由はエヴァだけではない気がする。
「すごいっ、すごすぎるぅっ! まさかこんな近くて見れるなんてっ!」
「お、おいケンスケ、落ち着けっ! 落ちてまうがな」
「離してくれトウジっ。俺はもう死んでもいいっ」
「アホかお前は。離したらホンマに死んでまうやないか。若い命を粗末にすんな」
「後生だっ、離してくれぇっ!」
「あーもう……」
 熱心に投身自殺を実行中の親友の躯を後ろから抱きかかえて、トウジは溜息混じりに呟いた。なんとも助け甲斐のない男だ。
 ホンマに離したろか、とちらりと思った瞬間、着陸したVTOLのハッチが開いて、中から人影が現れた。躯のラインの浮き出る服装に身を包み、その上に無造作に白衣を纏った金髪の女性である。
「……誰やアレ」
 えらい派手なおばはんやな、と思ったことは秘密である。バレたら改造程度で済むまい。くわばらくわばら。
 きつそうな外見が、彼女を実年齢より上に見せていた。その点、素のままなら実年齢より多少幼く見えるミサトは得かもしれない。普段の考えなしの行動が、彼女の精神年齢を実際よりさらに低く見せている所為もあるだろうが。
「リツコさん、ホントに来たんだ」
 ようやくくすぐりの刑から解放されたユカは、レイと一緒に校庭に着陸したVTOLと、そこから白衣の裾をはためかせて悠然と歩いてくるリツコの姿を見やって呟いた。VTOLを校庭に乗り付けるとは、「忙しい」が口癖のようになっている彼女らしいといえなくもないが……。
「リツコさん?」
 なんとなく聞き覚えのあるその名前に、トウジは我ながらあまり当てにならない記憶を手繰った。
「……ああ、ミサトさんの友達か……」
 逢ったことがないのだから当然とはいえ、NERVの誇る頭脳も、トウジの中ではそれぐらいの認識しかない。ついでにいうと、「ミサトの友人」という時点で既に変人のレッテルは貼られている。加えて、ユカに余計なことを色々教え込んだ張本人の一人、というろくでもない先入観があるから、あまりいい印象はなかった。
「どんな人か思たら、なんや、結構べっぴんさんやないか」
「あれ? 美人だって、わたし言わなかった?」
「いや、聞いてないなぁ」
「ふーん」
 こちらに歩いてくるリツコをぼんやりと眺めているトウジの横顔を見つめながら、ユカは内心でちょろっと舌を出した。リツコは美人だとは思うが、ミサトに対する反応を見た後では素直に教えてやる気になれなかったので、黙っていたのだ。
「……で、なんでその人が学校に来るんや?」
「なんかね、レイの保護者なんだって」
「綾波の?」
 その言葉に、トウジはユカの傍らで校舎に入っていくリツコの姿を目で追っているレイの横顔を見やった。
 教室の窓からこちらを見ているレイに気づいたリツコが、口許をふっと緩める。その笑みになぜか暖かさを感じなくて、いったいどういう関係なのだろう、とトウジは思った。が、考えたところで彼に解るわけもない。
「……ぅげっ」
 そのまま席に戻りかけた時、視界の隅にろくでもないものを発見して、トウジはそのまま頬を引き攣らせた。
 大股開きで鼻歌混じりにのんびりママチャリを漕いでいる、ひたすら似合わないスーツ姿の大男。のほほんとした顔で歌っているのはもちろん六甲おろしである。チャリンコの後ろにタテジマの旗がへんぽんと翻っていそうだ。
 鈴原シュウジ、三十八歳。何処にいても無意味に目立つ男だった。
 その意味では、真夏のクソ暑い最中に真っ黒なジャージを着てうろついているトウジも同類だが。やはり蛙の子は蛙、と言うべきか。
「あれ、トウジの親父さんじゃないか」
「……言うな、ケンスケ」
「なんでだよ。ナニ恥ずかしがってんだよ、お前らしくないぞ?」
 そういうケンスケの顔には、にんまりとした邪悪な笑みが浮かんでいた。
「アレは恥ずかしいやろ、普通……」
 その胸倉を掴んで引き寄せながら、トウジはドスの効いた声音で囁いたが、ケンスケの笑みは消えることなく深みを増していく。
「忙しいのにわざわざ来てくれたんだろ? 感謝しなきゃさ」
「お前、絶対楽しんでるやろ」
 引き攣った笑みを頬に貼り付けたトウジに、ケンスケは歪んだ笑みを浮かべた。
「……ワカル?」
「バレバレじゃ」
「あの親父さん見たら、碇の奴どんな反応するかなぁ。楽しみだよな? ああ、ちょうどいい。教えてやろうぜ」
「……ケンスケ」
「苦しいじゃないか」
「余計なこと言うたらコロス」
「友情ってはかないよね」
「まったくやな」
 吐き捨てるように呟いて、トウジはケンスケを解放した。襟元を直しながら、拍子抜けした面持ちでケンスケはトウジを見やる。問題のチャリンコ男の姿は既に見えない。
「親父さん、家に帰ってきてるんだな」
「昨日帰ったらおってん。昨夜からユカに会わせろ会わせろてうるそうてな。せやから今日スーツ着て来い言うたったんや。……そしたらホンマに来るんやもんなぁ」
「ふーん」
 窓枠に凭れて溜息を吐くトウジを、ケンスケはそっとフレームに収めた。彼の父はこのところ家に帰ってきていない。たまにメールがくるので心配はしていないが、使徒も来ていないのに何処で何をしているのやら、かなり忙しいようだ。
 よもや自分の父親が、親友の彼女のストーキングまがいの監視で忙しいとは思いもしないケンスケだった。
「で、そのことを碇にどう説明しようか悩んだ挙句に奇行に走った、と」
「なんやねん、奇行て」
「朝っぱらから二人の世界に入ってたじゃないか。見てて結構笑えたぞ」
「……ケンスケ」
「ナニかな?」
「撮ってたんか」
「もうバッチリ」
「……」
「幾らで買う?」
 しゅぴっと魔法のように取り出したメモリーディスクを片手に、しれっとした顔で眼鏡を光らせて尋ねた親友を、トウジは溜息混じりに見つめた。
「あこぎな商売しとんなぁ、お前」
「誰かさんに碇の写真を差し止められてるお陰で、このところ商売上がったりだからねぇ。綾波の人気もここんとこ頭打ちだし、そろそろ転校生でもこないかなぁ。できれば美人の」
「……ンなうまいこといくかい」
 かなり軽くなった財布の中身を思い、今月どうやって乗り切ろうか頭を悩ませているトウジは、アホらしそうにそう呟いただけで、その時点では夢にも思わなかった。近いうちに、ケンスケの願望が現実となるなどとは。
 
「ちょっと、リツコ! あんたいったい何考えてんのよ」
「なんのこと?」
 ヒールを鳴らして足早に歩み寄ってきたミサトを、リツコはいつもの薄い笑みを浮かべて迎えた。ほとんど無意識のうちに咥えて火を点けようとした煙草を横からミサトにかっさらわれて、初めてここが学校なのだと思い出して苦笑する。
「そうね。教育上、よろしくなかったかしら」
「まあ、一応はね……って、そうじゃなくて! あんなもん校庭に乗り付けるなんて、どういう神経してんのよ!」
 言いながら、校庭にでんと鎮座ましましているVTOL重戦闘機を指さす。
「他の誰よりもミサトにだけは言われたくはなかった台詞ね」
「……どーいう意味よ」
「説明して欲しいの?」
 しれっとした顔で言われて、ミサトは言葉に詰まった。幸せな気分になど間違ってもさせてくれそうにはない予感に打ち震える彼女を冷ややかに一瞥して、リツコは小さく息を吐いた。
「悪いけど私は忙しいの、誰かさんと違って。零号機の改修もようやく目処がつきそうだし、初号機の調整もしなきゃならないし、そうでなくてもやることがありすぎて手一杯。ハッキリ言って時間がないの、お解り?」
「まるでヒトを暇人みたいに……」
「ミサトのこと、だなんて言ってないけど? それとも身に覚えがあるのかしら」
「あ、あるわけないでしょお。あたしだって色々と忙しいんだからぁ」
「……でしょうね」
 同居人の少女の私生活を覗いたり、盗聴したり、データを隠匿したりしないよう保安諜報部に睨みを効かせたり、ビールを飲んだり、酔っぱらって書類の決裁をしながらそのまま寝てしまったり……
 数え上げるだけでうんざりしたくなるような旧友の仕事ぶりをちらりと思い浮かべて、リツコは重い溜息を漏らした。
「でぇ、その忙しいヒトが、何でまたわざわざやってくるわけ? 今までほったらかしにしてたくせに」
 意識して咎め立てるような口調にならないよう気をつかってはいたが、声音や瞳に非難の色がこもってしまうのは仕方のないことなのかも知れない。レイの、あの人の住む場所とは思えない部屋を見てしまった後では、それをよしとして放置してきた人物の一人に、少なからず憤りを覚える。可愛がってやれとまでは言わないが、それにしたってもう少しマシな扱い方があるだろう。
「……そうね」
 ミサトのそういった感情は理解できるから、リツコはあえて反論しなかった。レイを人間扱いしてこなかったのは否定しようのない事実なのだし、その理由をミサトに今説明してやるつもりもなかったからだ。
「今のレイは、私の知るレイではないわ。だから、かしら。科学者としての好奇心ね」
「……あっそ」
 さも当たり前のことのような口調であっさり告げるリツコに、ミサトは怒るより先に呆れてしまった。髪を掻き上げながら、こんなところでもいつも通りの白衣でいる旧友の姿を一別して、そっと溜息を吐く。
つづく



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  あとがき

 こ、こんなに長引くとは……(^^ゞ
 やっぱ飛ばせばよかったかなぁ、この話。って、今更だけどさ。農協ろぼを出さずに済ませようとしたのがまずかったかのう。むぅ。
 てワケで、もうちょっと続きます。

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