彼女事情
K A R E × K A N O

Written by:きたずみ

#23
 父兄用の待合室として使われている空き教室を覗き込んだケンスケは、軽い落胆と共に溜息を吐き出した。始めから来ている筈はないと思ってはいても、つい期待してしまっている自分が情けない。
(……いるわけないよな。言ってないんだから)
 そもそも、進路相談のことは父親には伝えていない。
 軽く肩をすくめてドアを閉じ、父親が来ていないことを教師に何と言おうか考えながら歩き出したケンスケの後ろで、こそこそと隠れるようにしてその後を追う人影があった。
 そのあからさまに怪しい人影は、気配の一つも少年に感じさせることなく近づいていく。が――
 角を曲がったところで、少年の姿を見失ってしまった。
「――!?」
 素人に尾行を感づかれたのかと、プロとして屈辱を覚える前に、その人物はまるで始めからそこに置いてあった不自然な彫像のごとく、硬直していた。自分のすぐ後ろに立って、背中にざくざく突き刺さるのが解るぐらい冷ややかな視線を投げかけてくる少年の存在によって。
「……ナニやってんだよ、オヤジ」
「えーと……」
 見た目はまだ三〇過ぎぐらいに見える、ちょっと頼りなさそうな雰囲気の男は、引き攣った笑いを浮かべながら少年の方を振り向いた。
「いや、背中をみるとつい……職業病かな、これって。ははは」
「他に言いたいことは?」
 冷ややかな瞳はそのままに、ケンスケは実年齢よりかなり若く見える優男を見下ろした。実際には男の方がかなり背は高いのだが、今は親に悪戯を見つかってどう言い訳しようか考えている子供のようにケンスケの前で身を縮こまらせているため、自然とそうなってしまうのだ。
 茶色がかったさらさらの髪、線の細い顔立ち。記弱げな双眸をノンフレームの丸眼鏡で隠している。相田ユウタ、三十八歳。NERV情報局保安諜報部二課に属する諜報員、というそこそこハードな肩書きがとことん似合わない男だった。ついでに言うと、ケンスケとはあまり似ていない。
「何でそんなに冷たい言い方するんだよ、ケンスケくん。久し振りに逢ったっていうのにさ。パパは哀しいよ」
「久し振りに逢った息子の尾行をするような奴は、俺の身内にはいないなぁ」
「そんなぁ。ちょっとビックリさせてやろっかなーっていう、お茶目な親心じゃないかぁ」
「死ね」
 くねくねと身を捩らせているいい年した大人を冷ややかに見やって、ケンスケは短く言い捨てた。硬派な俺の躰の何処にこんなちゃらけた親父の血が流れているのだろうかと、本気で時々思う。
「それに、パパはちょっと仕事の途中だからさ、顔見られるとまずいんだ」
「誰に?」
「え? ……あ、いや、別に」
「誰に顔見られるとまずいわけ?」
「えーっと……その、監視の対象者とゆうか……ね?」
「『ね?』って……誰の監視してんの」
「それは言えないよお。ボクだってプロだからねぇ。いくらケンスケくんだって、仕事の内容をべらべら話すわけにはいかないなぁ」
「ほほう」
 いやに自信満々な様子の父親を見やって、ケンスケは眼鏡をきらん、と光らせた。
「――綾波か?」
「うえぇっ!? な、なんで解るの!?」
「おい……」
 思い切り自分でばらしてしまっている父親の姿を、ケンスケは悲しい思いで見やった。これでは出世はないだろうと思うのだが、どういうわけか結構上の役職に就いているらしい。嘘みたいな話だが。
「そか、綾波の監視か」
「いいいいいや、ちち、ちがうよ、そんな、ファーストチルドレンの監視なんかしてないよボクは」
「だって、いま自分で」
「ファーストチルドレンは碇司令と赤木博士の管轄だもん、ボクなんかに任せてくれないよ。ボクがやってるのは――」
 そこまで言いかけて、ユウタは慌てて両手で自分の口をふさいだ。泣きそうな瞳でケンスケを見ているので、ケンスケはにっこりと笑ってやる。
「碇の監視?」
 両手で口をふさいだまま、ぶわっと目尻に涙を溜めてぶんぶん顔を振るユウタ。いい年した大人がやる仕草ではあるまいとは思うが、こうやって親父をいぢめるのが、ちょっとばかし楽しかったりする。
「最近帰ってこないと思ったら、そんなことしてたのか」
「いいい、言わないでね、誰にも言わないでね、ケンスケくん。ばれたらパパ、クビになっちゃうから。ね、お願い」
「俺はいままでクビにならずにいることの方が不思議なんだけど」
「そうだねぇ。パパも不思議なんだよ」
 そんなことを言いながら、にへ、と笑ったりしている男を横目で見やって、ケンスケは小さく溜息を吐いた。
「だってさあ、葛城さんてひとがさー、上司でもないのにボクたちをこき使っていろんなとこ覗かせたりするんだよ。ボクらはホントにそんなことしたいワケじゃないんだけどさ、でも時々楽しいかなーって思ったりしちゃって、だってほら、監視対象が可愛い娘だったりすると仕事も辛くないじゃない? 今回はもう幸せでさ――」
 訊いてもいないのにべらべらと喋りまくる父親を横目に、ケンスケはこめかみあたりがじんわりと痛んでくるのを覚えていた。
(NERVって、どーいう組織なんだよ……)
 少年の憧れに、小さな亀裂が入った瞬間だった。
 気を取り直して、ケンスケは傍らを歩くユウタを見上げた。
「だいたい、何でいるんだよ。言ってない筈だろ」
「ふっふっふ……ケンスケくん、パパを甘く見てもらっては困るね。これでもパパは諜報員なんだよ。そんなことは全部お見通しなのさっ」
 そういって胸を張るユウタをケンスケは冷ややかに見やっていたが、ふん、と小さく鼻を鳴らして目を逸らした。しかし、その目許が少し朱に染まっている。――ちょっと嬉しかったのだ。
 素直に喜びをあらわせない息子を愛しげに見つめながら、内心、ユウタはホッと胸を撫で下ろしていた。今日が進路相談だということは、実は当日になって――それも学校についてしばらくしてから――知ったのである。
 その意味では、監視対象が息子のクラスメイトだったのは、彼にとっては僥倖だった。ミサトやリツコが来なければ、今日が進路相談だということも気付かなかったわけだが、まあこのさい結果オーライである。一週間分の昼飯代をもつということで同僚に担当を代わってもらって、こうしてすっ飛んできたというわけだ。
「ところでケンスケくん、さっきから思ってたんだけど、何故ボクのことをパパと呼んでくれないんだい」
「そんな歳でもないだろ。もう子供じゃないんだ」
 そう言うと、ユウタは瞳にぶわっと涙を溢れさせた。
「あああっ、ノリコさんごめんなさいっ。しばらく逢わないうちにケンスケくんが不良になってしまいましたぁっ」
 本気か冗談か解らないが、天を仰いで亡き妻を拝むユウタ。
(……なんだかなぁ)
 そんな父を呆れた目で見やりつつ、しばらくぶりに逢う父が全く変わってなかったので、ちょっとばかり安心するケンスケだった。
 ケンスケの母はフリーのジャーナリストで、結構危ないところにいって数々のスクープ写真をものにしてきた女傑であった。幼い頃、ケンスケは母にカメラの扱いを教わった覚えがある。機材を手荒に扱って殴られたこともあるが。
 躯は父よりもひとまわりほど小さかったが、とにかく気丈な人で、よく父を怒鳴りつけていた。もっとも、それは毎度毎度懲りもせずにくだらない面倒を背負い込んできて、彼女を怒らせてばかりいたユウタが悪いのだが。
 ケンスケが小学校に上がる前に母は亡くなり、それ以来、父と二人で暮らしてきた。寂しいと思ったことがないわけではないが、そういうものだと諦めている。
 母が何故亡くなったかは、聞いていない。子供心に、母が死んだことで父がひどいショックを受けているのが解ったからだ。自分がしっかりしなくてはいけない、とケンスケが思い始めたのは、その頃からかもしれない。幼い彼の目にも、父はふわふわと頼りなげで、何だか危なっかしく見えたのだ。
 再婚でもすればいいのに、とは思うが、そうなったらなったで自分の居場所がなくなるだろうなとは解るから、せめて高校を出て、独り立ちできるようになるまでは待って欲しいと思う。こんな頼りない父だから、しっかりした女性でないと任せられない。変な女に騙されたりしたら、とばっちりを食うのは自分なのだから。
「あ、そうだ。ケンスケくん、進路の方はどうするんだい?」
「どうって……高校には行くよ、フツーに」
「そっか。まあ、ケンスケくんなら大丈夫だよね、しっかりしてるから」
 久しぶりに息子に会えて嬉しいのか、ユウタはすっかり上機嫌な様子でいった。そんな彼を見やりながら、親がしっかりしてないと息子はしっかりするんだよ、と胸の内で呟きつつ、ケンスケは口許に柔らかな笑みを浮かべた。


 から、とドアを開けると、それまで談笑していた父兄らが一斉にこちらを見た。
 全身に奇異の視線が突き刺さる。が、レイは気にもとめず、目的の人物の姿を探して視線を彷徨わせた。そんな風に見られるのには慣れっこだ。気にしたこともない。
 その人物は教室の隅、後ろのドアの近くの壁にもたれ、腕組みをしてなにやら考え込んでいる。目立つ白衣に金髪。少しばかり派手めの化粧をしていながら、あえていつも通りの白衣を着てくるあたりが彼女らしいといえなくもない。
 傍らにいるのは葛城ミサトだ。彼女はというと、歳の離れた父兄たちとどう接して良いか分らない様子で、居心地が悪そうに親友の傍に立って、落ち着かなげに躯をモゾモゾと動かしている。
「赤木博士」
 近づいて声をかけると、リツコはハッとして顔を上げた。
「どうしたの、レイ」
 いつもと同じ、感情を極端に排した声音で、リツコは問う。しかし、その瞳は心なしか動揺の色を浮かべていた。
「私の番なので、呼びに来ました」
「そう。解ったわ」
 言って、リツコは無造作に脇のドアを開けると、先に立って歩き出した。その後を、無言でレイが追う。しばらくの間、廊下に二人の足音だけが響いていたが、ややあってリツコが口を開いた。
「レイ」
「はい」
 顔を上げると、リツコがこちらを見ていた。まるで機械を見るようないつもの瞳とは少し違っていて、レイは少し戸惑う。
「案内してくれないかしら。何処に行けばいいのか、解らないのよ」
 いつもの癖で先に立って歩き出したのは良いが、行き先が解らないらしい。レイが相手でも少しばかり気恥ずかしいのか、彼女は気まずそうに目を逸らして言った。
「……こっちです」
 そんなリツコを見たのは初めてで、だからどう反応して良いか解らないまま、レイはくるりと踵を返した。目的地は、とうに通り過ぎていたのだ。
 再び、コツコツという靴音の輪唱が蝉の声に重なり始める。
 先に立って歩いていくレイの背中を、リツコは黙って見つめていた。


 ドアの窓から中を覗くと、退屈そうにしていたミサトが嬉しそうに手を振って出てきた。
「やぁっと出番なのねぇー。もお、退屈しちゃった。おばさんたちには変な目でじろじろ見られるしさぁ。だいたいリツコがいけないのよねぇ、あんな派手なマネするから」
「はは……」
 目立つ真似をしたのはミサトさんも同じじゃないかなぁとは思ったが、ユカはあえて突っ込まなかった。ぶちぶち文句を垂れているミサトの隣を歩きながら、彼女の顔は少しずつ俯き加減になっていく。
 その様子にようやく気付いたミサトは、歩く速度を緩めて彼女の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「えっ? あ、いえ、別に……」
「そんな顔して別にって言われてもねぇ。ハイそーですかって納得するほど、あたしはお間抜けじゃないわよ」
 彼女の親友なら、冷ややかに「そうかしら」と突っ込むところだが、ユカは小さな笑みを口許に浮かべただけだった。ミサトに向けていた視線を再び足元に落として、重い口を開く。
「高校、行っても良いんですよね」
「……は? 何言ってんの、当たり前じゃない」
「でも、ネルフのお仕事が――」
 お仕事、ね。内心そう呟きながら、ミサトは笑みを浮かべた。
 ユカはエヴァに乗ることを『仕事』としてとらえている。乗りたくて乗っているわけではない、ということだ。
 無論、そのことは彼女ときちんと話をして決めたことではある。彼女はこう言ったのだ――「エヴァには乗ります。でも、その代わりにお給料を下さい」、と。
 当然、NERVとしても中学生をタダ働きさせるつもりはなかったので、彼女の働きに対して正当な報酬を支払うことについてはやぶさかではなかったのだが、ミサトは少々意外に思ったものだった。そういうことを言い出す娘には見えなかったのだ。
「高校行くのはまだ一年半も先のことでしょ。それまでにはなんとかケリつけるわよ。使徒さえやっつけちゃえばいいんだから。そんなこと心配しないの」
「……そう、ですね」
 やや明るめな口調で言ったミサトだが、ユカの表情は晴れない。
 いつまでここに――第3新東京市にいなければならないのだろう、とユカは考えていた。中学を卒業して、高校に行って、大学に進むまで、ここにいるのだろうか。
 もちろん、ここにいたい理由がないわけではない。ミサトやレイとの暮らしは楽しいし、トウジの傍にもいたい。けれど、彼女はもう一度、自分が暮らしていたあの街に帰りたかった。本当に自分がそこにいたのだということを、確かめたかった。
 そのためには、ここを離れるしかない。それはとても辛いことだけれど、どうしても解らないままにはしておけなかった。連絡がとれなくなった叔父夫婦のことも、常に頭の何処かに引っかかっていた。
 ここを出たい。今すぐ捜しに行きたい。
 でも、ここを離れるわけにはいかない。自分がいなくなったら、レイはひとりで闘わなければならなくなる。使徒はこれからも現れるのだろうから。
 ――いったい、いつまでこうしていればいいんだろう……。
 それが、ユカの偽らざる本音だった。
 こういう時、いつも脳裏を過ぎるのは何故か、優しい笑み一つ見せてくれたことのない、父を名乗る男の顔だった。
「ミサトさん。いつか、使徒は来なくなりますよね?」
「……そうね」
 そう答えたミサトの顔に、笑みはなかった。ただ遠くをぎゅっと睨みつけるようにして、押し殺した声で呟くように答えた彼女を、ユカは寂しそうに見上げていた。


「あー、もう進路相談なんかどうでもええやないか。はよユカちゃんに会わせてくれ」
「逢う前からちゃんづけかい!.」
「ほな呼捨てにしよか? 『おい、ユカ』……いやー、なんか照れるなぁ」
「……何ゆうとんねん、オマエ」
 コイツいっぺんどつきまわしたろかと思いつつ、トウジは震える拳とグッと押さえた。
「せやな、『ユカさん』、『なあに、お義父とうさん』……うん、やっぱコレやな。コレが一番グッとくるわ。ワシなぁ、いっぺんそう呼ばれてみたかってん。憧れるやろ、男としては」
「こっ……このドグサレオヤジが……」
 勝手に妄想を膨らませているらしいシュウジの背中を睨みつけていたトウジは、彼がやに下がった顔でこっちを振り向いて、
「なあ、トウジ――」
 と言った瞬間、その顔面に膝蹴りをかましていた。
 どざしゃあっ。
 重い音と地響きを伴って、その巨体がゆっくりとリング(違)に沈む。
「オマエみたいなスケベオヤジは、ユカに逢わせられへんな」
 奇襲攻撃を見事に食らってリノリウムの床を舐めた父親の後頭部を見下ろし、トウジは言った。だが、相手のタフさは嫌というほど知っているので、まだ緊張は解かない。漢の闘いはこれからなのだ。
「ぬぅおおおおぉぉっ」
 むく、と上体を起こしたシュウジは、雄叫びと共にスーツの上着のボタンを全て弾き飛ばす勢いで立ち上がり、ファイティングポーズをとっている息子に掴みかかった。
「ワシは、ユカさんに会うんじゃあ――っ!!」
「そうはいくかぁっ!」
 それを迎え撃つ息子。  鈴原親子の不純かつ無意味な戦いがいま、何の脈絡もなく廊下で始まろうとしていた。はた迷惑な話である。
 その後、父子揃って説教を食らったため、トウジの進路相談はほとんど実のないものとなった。
 あたりまえである。


 帰りに何処かに寄っていくのだろうか、親と楽しそうに話しながら連れ立って下校していく生徒たちを見送りながら、玄関口でユカは佇んでいた。
 ミサトとリツコは、校庭に駐機したVTOL機の傍で待っている。修理の済んだ初号機の再調整のため、彼女はこれからNERV本部まで行かなくてはならないのだ。いつもならそんな風に思うことはないのだが、こんな時は、ちょっとだけうんざりする。
「ユカ」
 背後から聞こえたトウジの声に、ぱっと笑顔になって振り返ったユカは、そのままの状態で固まった。トウジの隣に、トウジによく似た顔立ちの大男が立っていたからだ。
「あんまり紹介したないけど、一応紹介しとくわ」
 彼女と向かい合うように立ったトウジは、少しばかり憮然とした顔で傍らに立つ大男を指さした。
「これ、うちのオヤジな」
「これとか言うな」
 顔を軽くしかめながら、シュウジはストリートファイトの巻き添えを食ってぼろぼろになったスーツの上着を片手に、空いた手を差し出した。ごつい見た目とは裏腹に、あまり日焼けしていないその手は繊細な感じがした。
「鈴原シュウジ言います、よろしゅう」
「あ、碇ユカですっ。は、はじめましてっ。あ、ああの、わた、わたしっ」
 相手がトウジの父親だと知って、完全にパニックに陥るユカ。真っ赤な顔で必死になって口上を述べようとするその姿に、シュウジは目尻を下げ、口許を思い切り緩めた。
「ああ、そない固ならんでええから。まま、楽に楽に」
 見上げるような大男にニカッと微笑まれて、ちょっと引き攣った笑みを浮かべながら、ユカは差し出されたその手を握った。指先のあたりにタコが出来ていて、仕事をする男の人、という感じがした。
「あんな、お願いがあんねんけど」
「はい?」
「言いにくいことなんやけどな……その、ワシのこと、……お義父とうさん、って呼んでくれんか?」
「ふえええええっ!?」
「お前はホンマもんのアホかぁぁっ!!」
 ぽ、と頬を染めて恥じらい気味に言ったシュウジの前で、ぎしっと固まるユカを横目に見ながら、トウジは全体重を乗せた回し蹴りを後頭部にかまして親父を殲滅した。


 ひととおりはしゃいだ後で、シュウジは少しだけ真面目な顔をして言った。
 数行前の人とは全くの別人である。
トウジコイツはほっといても死なんからどうでもええけど、ユキノの面倒まで見てくれてるんやて? すまんなぁ。ホンマやったらワシがやらんならんとこやのに」
「いえ、そんな……だって、悪いのはわたしなんだし」
「それは違うで」
 強い口調で、シュウジは言った。その声音に、俯いていたユカはハッと顔を上げる。見上げると、シュウジは厳しい表情で彼女を見ていた。
「あんたが戦ってくれんかったら、ワシらもユキノもみんな死んどったんや。あんたのおかげで助かったんやゆうことは、ワシらはみんなよう解ってる。せやから、そないに自分を責めたらあかん」
 シュウジの瞳がふっと優しくなって、大きな掌が包み込むようにふわりと頭を撫でた。
「えらかったなぁ。よう頑張ったで」
 妙に荒っぽく、それでいて優しい感じに頭を撫でられ、その言葉を聴いた瞬間、ユカの中で何かがぷつんと弾けた。いけない、と思うより早く、ぼろぼろと涙が溢れ出し、瞬く間に流れを作って頬を濡らす。
(……ああ、そうだったんだ……)
 自分はずっと誰かにそう言って欲しかったのだと、今更のように気づいた。どんなに怖い思いをして頑張っても、誰も彼女を褒めてくれなかった。そのことがこんなにも胸のつかえになっていたとは、自分でも気づかなかった。
 一度堰を切ると、それまで溜め込んでいた感情は一気に溢れだして、ユカはやがて子供のように声を上げて泣きじゃくっていた。
 そんなユカを優しい瞳で見つめながら、シュウジは彼女の頭を黙って撫でていた。


「ご、ごめんなさい、わたし……」
「いやいや、ええねん。次からは抱きついてくれると、もっと嬉しいけどな」
 ひとしきり泣いてすっきりしたような顔で、しかし、逢ったばかりの男の人の前で子供のように泣いてしまったのがひたすら恥ずかしくて、シュウジの顔をまともに見られずに俯いてモジモジしているユカに、文字通り鼻の下を伸ばしきった顔でシュウジは言った。息子の方を一瞥した時の勝ち誇った表情が、トウジの怒りに油を注ぐ。
「ええ娘やないか、トウジ。お前にはホンマもったいないわ」
「やかましい!」
 そんなことは言われなくても解っている。自分が彼女に見合った男だとは思っていない。……が。でれっでれに緩みきった顔の親父にそれを言われると、いっそう腹が立つのだった。
「じいちゃんにも教えたらなあかんな。じいちゃん喜ぶでぇ、孫に可愛い嫁がきたゆうてな」
「よ、嫁って……」
「な、な、な、なに言うてんねん、お前は!」
「お〜、いっちょ前に赤なっとるやないか。アホ、冗談じゃ。本気にすな。稼ぎもない若造に結婚なんぞ許すかい」
「〜〜〜…っ!」
 もう一度どつき回したろか、とトウジが真っ赤になりながら拳を握り締めたその時、微かな電子音が鳴り響いた。
「っと、失礼」
 慌ててスーツのポケットをあちこち探って携帯を取りだしたシュウジは、今までとは一変した厳しい表情で携帯を耳に当てた。
「はい、鈴原……おう、なんや。……なに? ……そうか、解った。今から行く」
 相手は部下なのか、シュウジの表情には厳しい中にも「仕方ないな」という薄い笑みがある。トウジがあまり見たことのない顔だ。
「すまんな、トウジ。仕事入ってもたわ。晩飯一緒に食われへん」
「ええよ、別に」
「すまんな。また今度、旨いもん喰わしたるさかい」
 そう言って、シュウジはポケットを探ると、先程間違えて取り出したもう一つの携帯をトウジに渡した。
「せや、これな、好きなように使てええぞ。当分家には帰られへんやろし、あるとお前も色々便利やろ。ユキノのこと、よろしく頼んだで」
「わかった」
「ほなな。……じゃ、また今度ゆっくり」
「あ、ハイ」
 ユカに手を振って、シュウジは自転車置き場の方に走っていった。
 その背中を、ユカはちょっと頬を染めて見送っていた。


「どうだったぁ、そっちは?」
 火の点いていない煙草を咥えたまま、白衣のポケットの中で苛立たしげにライターを鳴らしていたリツコは、そう声をかけてきた人物の方を見もせずに、軽く肩を竦めた。
「そうね。……普通、かしらね」
 そう、ひたすらに「普通」だ。高校へ進学する、という結論は。何処にでもいる当たり前の中学2年生なら、何も考えなくてもそうするだろう。他になにか特別な事情がない限りは、だが……
「な〜んだ。つまんないの」
 なにを期待していたのか、ミサトは残念そうに溜息を漏らしながら機体にもたれかかった。じ〜わじわじわと厭きることなく鳴き続ける蝉の声をぼんやりと聴きながら、木漏れ日に目を細める。
 そんなミサトを一瞥して、リツコは溜息を吐いた。
 彼女は疑問に思いもしない。綾波レイの下した結論が「普通」であるということが、どれだけ驚嘆に値することなのか。
 きっと、そんなことは考えたこともないのだろう。当然だ――彼女は、レイのことをほとんど何も知らないのだから。無口で変わり者のパイロット。ミサトの知るレイというのは、きっとそんなものなのだろう。
 だが、レイをずっと見てきたリツコにしてみれば、それは到底考えられないことだった。
 あの綾波レイが、自ら高校に進学したいと言い出す、などとは。
 未来のことを考えるなど、リツコの知るレイにはなかったことだ。
 教師との面談を終えて部屋を出たとき、たどたどしい口調で「今日はありがとうございます」と、自分に向かって礼を言いさえしたレイに、リツコはもはや完全にレイは己の制御を離れた、と確信するに至った。
 それをどう判断してよいのか解らずに――というより、確実に人間らしくなっているレイを目の当たりにして、それを自分が喜んでいるのかどうか解らなくて、リツコは溜息を漏らした。ミサトのように素直に喜べなくなっている自分が、正直情けなくもある。赤木リツコ個人としては、それは歓迎すべきことなのだろうが……。
「レイって、成績いいの?」
「べつに頭は悪くないもの。本人がその気になれば、中学の勉強ぐらい何でもないはずよ」
「羨ましい話ねぇ。死ぬ気になっても赤点すれすれってヒトもいるのに」
「カンペ作って赤点すれすれの方が私は信じられないけれど」
 それも試験直前の真夜中にヒトの部屋にいきなり上がり込んできて、半ば徹夜でカンペ作りを手伝わせた結果なのだからたまらない。あまりの結果に、さすがのリツコも開いた口がふさがらなかった。どうしてなのかと問いつめたら、使うカンペを間違えたというのだから、これはもう才能としかいいようがない。
「ヤなこと思い出さないでよ。せっかく忘れてたのに」
「忘れられるのはあなただけよ。こっちは忘れたくても忘れられないわ」
 多大な迷惑を周囲にかけまくりながら、奇跡的に単位を掻き集めた挙げ句の卒業である。彼女が卒業できると知って、教授も同級生も後輩までもが一斉に胸をなで下ろしたというのは公然の秘密だ。
 かなり努力して大学に入ったくせに、入った途端に遊び呆けて真面目に勉強しないあたりがミサトらしい。だって今まで遊べなかったんだもん、とは彼女の弁だが。
「で、そっちはどうなの?」
「ああ、ユカちゃん? 成績は可もなく不可もなくってとこね。まあ、ただでさえ途中から転入してきたから、まだ追いついてないんじゃない? あの娘はしっかりしてるから、なんとかするでしょ」
「無責任な保護者ねぇ」
「だってぇ。自分が勉強嫌いなくせにさ、ヒトには勉強しなさいなんて恥ずかしいこと、あたしには言えないわよ」
「ミサトにも一応、羞恥心はあるのね」
「……どういう意味?」
「お望みなら詳しく説明してもいいけど。知りたい?」
「…いいです」
 リツコといいユカといい、なんでこうさりげなくキツいことを言うんだろう。もうすこし人の気持ちを考えてくれてもいいのに、と身勝手なことを思いながら、ミサトはげんなりと項垂れた。
「それで、そのユカちゃんはいつ来るのかしら? 早いとこ初号機の起動テストを済ませておきたいんだけど」
「ああ、ユカちゃんなら、さっき……」
 言いながら廊下の向こうを見やるミサトの視線を追ったリツコは、致命的なほどにスーツが似合わない大男が大声で笑いながらジャージ姿の少年の背中をばんばん叩いている光景に、こめかみに軽い痛みを覚えた。なんだかでかい犬が二匹、吠えてじゃれあっているような感じだ。
「なんなの、あれ」
「なにって、彼氏のパパじゃないの」
「ぱ……」
 パパ、という単語をあの大男を結びつけることを脳が拒否して、リツコはくらりと立ち眩みを覚えた。
「お願いだからその呼び方、二度としないでくれる」
「なんで? ……あの人さ、なんかうち関連のヒトみたいだけど。リツコ知ってる?」
「鈴原技師長でしょ。あなたも何度か逢ってる筈よ、エヴァの整備関係はあの人の管轄だから。見た目はともかく、腕は確かよ」
「それはそれで結構ひどいこと言ってるような気がするけど」
「気のせいよ」
 ミサトじゃあるまいし、あれほど無意味に目立つ男をそうそう忘れたり見間違えたりするわけがない。エヴァをはじめとして、ネルフで使用されるあらゆる機器の開発や修理を一手に請け負う主任技師チーフエンジニアの一人である。
 見た目はともかく、職人気質で知られる鈴原父子の技術にはリツコも一目置いていた。彼女は設計図は引けても、実際に機械をその手で作ることは出来ない。彼女の頭の中にあるイメージを寸分違わず現実のモノとして作り上げてくれる彼らには、さしものリツコも頭が上がらないのだった。
 職人を大事にしない国に、有能な技術者は育たない。セカンドインパクト後、同じように奇跡の復興を遂げたとはいえ、ドイツと日本の技術力には明らかな差があった。その理由はマイスターシステムにあるといっても過言ではない。ともに高度な技術を持った職人を多く輩出してきた国だが、現在はその差は歴然としている。たとえどんなに高度な技術を持っていても、それを次代に伝え、後継者を育成することを怠れば、いずれは失われてしまうのだ。
「もう嫁にとったつもりでいるわよ、あれ」
「オヤジ対決は必至ね」
「あたしそれ見たくないなぁ……」
「同感ね」
 とりあえず日本にはいない人物の胸中を思って、リツコは重い溜息を吐いた。彼がユカの進路相談に出られないことでぶちぶち愚痴っていたことは、冬月とリツコしか知らない秘密である。


「ホンマ、悪かったな。変なオヤジで」
 シュウジをやっとの思いで追い払ってようやく彼女と二人きりになったトウジは、気まずそうに頭を掻きながら言った。
「う、ううん、そんなこと……」
 そう言いながらも、ユカは頬を染めて俯く。
 トウジには内緒だけど、ちょっとどきどきした。
 最初は少し怖かったが、笑った顔が子供のように無邪気で、その真ん中の黒い瞳がとても優しくて、そういうところが彼女の好きなひととよく似ていて、ああ、やっぱりトウジのお父さんなんだなって気がした。
 トウジも大人になったらああいう風になるのかな、と想像してみて、一人で紅くなる。
「おもしろいひとだね、シュウジさんて」
「そぉか?」
 なんだか妙にシュウジを気に入っているらしいユカのご機嫌な様子に、トウジはいささか複雑な思いだった。シュウジが泣いて頼んだこととはいえ、ちょっと頬を染めて名前で呼ぶあたりが気に食わない。まあ、それでも恥ずかしげもなく『お義父さま』とか、『おじさま』とか呼ばせるよりはいいかとも思う。
 やや不機嫌な様子で明後日の方を睨んでいるトウジをちらりと見やって、ユカはくすっと微笑った。
「もしかして、いちゃった?」
「あ、あほか。な、なにゆうてんねん」
 図星をさされて思い切り動揺するトウジに、ユカはそっともたれ掛かった。トウジの袖をそっと掌に包み込むようにして、少し覗いたうなじまで真っ赤にしながら、ぽつりと呟くように漏らす。
「うれしい」
「……そ、そか」
 その一言だけで、トウジは茹で蛸のようになってしまう。
「なんかね、父子の会話ってああいうのなんだなって、思っちゃった」
 ユキノがお父さんのことを大好きな理由が、何となく解ったような気がする。あのひとなら、きっとユキノのこともすごくすごく可愛がっているのだろう。そんなユキノがちょっと羨ましいな、と思う。
「ああいうひとがお父さんだったら、よかったのにな……」
「なんでまたそうやってあいつを喜ばせるようなことを言うかなー……」
 はあ、と溜息を一つ吐いて、トウジは口を開いた。
「そんなこと言うたら、また『お父さんと呼んでくれ』とか言い出すで、あのアホ」
「……うや〜……それは、ちょっと恥ずかしいなぁ……」
 トウジと結婚してシュウジを『お父さん』と呼んでいる自分を想像してしまって、バカみたいなその想像に自分で真っ赤になっているユカを見て、トウジは少しだけホッとした。
 あの父親のことがユカのネックになっているのは明白である。とりわけこういう状況では、否応もなくそのことを意識せずにはいられないらしく、今日のユカはいつにも増して挙動があやしかった。一人で落ち込んでいるかと思えば、いきなり明るくはしゃいでみたり、ふと遠い目をしてみたり……
 こんな時こそ、自分が彼女を支えてやりたいと思うのだが、どうしてやればいいか解らない。自分が一緒にいれば少しは気が紛れるかと思っても、彼女の都合がそれを許さない。
「ごめんね。もう、行かなきゃ」
「……ああ」
 ユカの言葉に、トウジは視線をグラウンドに向けた。アイドリング状態のVTOL重戦闘機の傍らで、腕組みをしたまま白衣の裾をはためかせたリツコと、髪を押えているミサトが、こちらをじっと見守っている。
 ユカを待っているのだ。
「じゃ、いく、ね」
「……おう」
「よかったらさ、後で家にきてよ。晩ご飯一緒に食べよ? ね、いいでしょ?」
「わかった。ほな、後でな」
「うんっ」
 軽く手を振って、ユカはトウジから離れ、VTOL重戦闘機の方に駆けていった。ユカを先に乗せ、次にリツコ、ミサトの順で乗り込んでハッチが閉じる。
 ややあって、高周波の響きとともに機体周辺に砂埃が舞った。
「……ユカ」
 窓からこちらを見ている少女の顔がまるで泣いているように見えて、思わず二、三歩踏み出た彼を嘲るように、機体はふわりと浮き上がる。そして、テールを軽く振って飛び去っていった。それを、トウジは何も出来ずに突っ立って、ただ見送ることしかできなかった。そんな自分が、無性に腹立たしかった。
 グラウンドに佇み、足下を見下ろしたままぎゅっと拳を握りしめて立ちつくすトウジを、VTOL重戦闘機の中からミサトが申し訳なさそうに見つめていた。
つづく


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  あとがき

 ちょっと場面転換が多すぎますね。失敗です。
 ついでに言うと、ヒカリちゃんのお父さんも出せなかった。残念。コレというのもユウタとシュウジが悪い。ホントならまともな「お父さん」を出していたはずだったのに。くすん。

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