彼女事情
K A R E × K A N O

Written by:きたずみ

#24
 ケイジに固定されて冷却液に浸かったままの初号機に、ユカは乗り込んでいた。
 第五使徒との緒戦で受けたダメージはほぼ回復したが、使徒はいつ来るか解らない。いつでも出られるように、パイロットとのシンクロが正常にいくことを確認しておく必要があるのだという。
 といっても、これといって特別なことをするわけではない。いつものようにシンクロするだけだ。ここに来て約一ヶ月、ほとんど毎日のように繰り返し行っている作業なので、考えなくても躯が勝手に動く。事実、エントリープラグの中で整備班の通信をぼんやりと聞きながら、ユカは今夜の献立を考えていた。
(トウジが折角来てくれるんだから、お肉は出した方がいいよね……冷蔵庫にお豆腐あったから、麻婆豆腐とか……レイの分はお野菜と一緒に炒めて、あとはお味噌汁と、小松菜のお浸しと……昨夜の筑前煮の残り、まだあったっけ……)
 レイが肉を食べられないため、献立には致命的な制限がある。そのため、このところ気がつくと献立を考える癖がついていた。しかし、冷蔵庫の中にある余り物で献立を組み立てていたユカの意識を実際に支配していたのは、シュウジのことだった。
 ユキノを怪我させた自分を責めたりせず、「よう頑張ったなぁ」と褒めてくれた。その柔らかい言葉の響きと、ちょっと荒っぽく頭を撫でてくれる大きな掌の感触が、なんだか嬉しかった。叔父ともトウジとも違う、大人の男の人のにおいがした。
 ユキノがお父さんが好きだという理由が解ったような気がする。
 あんな人がお父さんだったらな、と思い、そして己の実の父親であるはずの男の冷たい瞳を思い浮かべて、ユカは軽く頭を振った。
 目を閉じて、微かに揺らぐLCLに身をゆだねる。LCLが循環する音なのだろうか、何処からともなく聞こえてくるごろごろという低い音を聴いていると、何故か心が落ち着いてくる。お腹の中にいる赤ちゃんってこんな感じなのかなぁ、などと思いながら、ユカは下腹部を掌でそっと押えた。
 いつの日かそこに宿るであろう、いのち。
 己の中にもう一つのいのちを抱えるということを、ユカはまだ実感として理解することが出来ない。けれど、エヴァがお母さんなら、今の自分はまるでお腹の中にいる赤ちゃんみたいだ、と思う。
 だからだろうか。こうしてここにいるだけで、こんなにも安心してしまうのは。暖かい何かに、そっと包まれているような不思議な安心感が、心の中にふんわりと広がっていくのは。
 これは、戦う為に作られた機械だというのに。
 なのに、ここは……このエントリープラグには。
(……お母さんのにおいがする)
 それがどんなにおいだったか、もう明瞭りと覚えてはいないけれど。
 何故かそんな風に、ユカは思った。


 実験終了後、大人たちに混じってリフトに乗りながら、ユカは躯が妙に重いのを感じていた。それほど明確な違和感ではないが、かといって無視出来るほどでもない。
(……そっか。もうすぐなんだ)
 頭の中にカレンダーを思い浮かべ、ちょっと計算してみて、予定通りか、と小さく溜息を吐く。初潮がきて以来、毎月のこととはいえ、決して軽い方ではないユカにとっては結構憂鬱だ。
 リツコのくれた避妊薬をきちんと服用しているから、もとより予定外のことが起こるはずもないのだが……起こってしまったらそれはそれで困ってしまうのだが……でもちょっとだけ残念かも、とか思う。試しに飲むのやめてみようかな、と思いはするのだが、いつもそのたびに思いとどまっていた。
(バカだな、わたし。そんなことしても、トウジを困らせるだけなのに)
 何が不安なんだろう。赤ちゃんが出来たらこの不安から解放されるような、そんな気にさえなるのは、何故なんだろう。そんなこと、あるはずないのに。
 はあ、ともう一度溜息を吐いて、ユカは気怠げに髪を掻き上げた。
「零号機の胸部生体部品はどう?」
 そんな彼女の様子には気づかず、先程とった初号機のデータに目を通しながらリツコが訊いた。先の第5使徒戦において、初号機を庇った零号機は荷粒子砲の直撃にさらされ、かなり深刻なダメージを受けている。装甲の下の素体にまで被害は広がっていたから、初号機の時のように装甲を換装すれば済むというわけにはいかない。
「大破ですからね……新作しますが、追加予算のワク、ギリギリですよ」
 溜息混じりに応えるマヤに、リツコは軽く天井を仰いだ。
「これでドイツから弐号機が届けば、少しは楽になるのかしら」
「逆かも知れませんよ。地上でやってる使徒の処理もタダじゃないんでしょ?」
 ただでさえ少ない予算を切りつめられているのに、このうえ後始末や弐号機の整備にまで予算を食われたんじゃやってられないとでも言いたげな口調で言う日向に、ミサトも呆れたような声で応える。
 とにかく地上に転がった使徒の残骸を片づけないことには、要塞都市としての機能を発揮出来ない。使徒に対しては牽制程度の役にも立たないとはいえ、最低でも電源は使えるようにしておく必要があった。エヴァが自由に動けないのでは話にならない。
「ホント、お金に関してはセコいところねぇ。人類の命運を賭けてるんでしょ、ココ」
「仕方ないわよ。ヒトはエヴァのみにて生くるにあらず。生き残ったヒトが生きていくには、お金がかかるのよ」
「予算、ね。じゃあ、司令はまた会議なの?」
「ええ。今は機上の人よ」
「司令がルスだと、ココも静かでいいですね」
 常日頃、あれこれと注文や催促をつけられている所為か、マヤのその台詞には実感がこもっていた。
 ミサトが常に飲んだくれて遊んでばかりいるとは必ずしも言い切れないのと同様に、髭は髭でそれなりに色々忙しいのである。
 ネルフのような巨大組織を動かす人間が、のんきに娘のストーキングばかりをしてはいられまい。NERVとて一枚岩の組織ではないし、能力を最優先した結果、有能ではあっても癖の強いメンツばかりを揃えたため、生半可な人間では部下がついてこないのだ。
 人間性において少なからず問題を抱えているとはいえ、碇ゲンドウという人物がそれだけのカリスマを備えているのは事実である。そして、財布の紐の堅い国連上層部から予算をぶんどってくるのは、司令の大切な仕事だった。
 そういうわけで、碇ゲンドウは予算会議に出席するため本部を空けていた。ユカの面談に出られないことで散々ごねていたのは、冬月だけが知る秘密である。


 大気圏上層部の薄い大気を舐めるように、わずかばかりの乗客を乗せたSSTOは南極上空を飛んでいた。
 客室はがらんとしていて、ゲンドウの他には誰も乗っていない。点けっ放しのテレビだけが静寂を無意味にかき混ぜていた。ニュースを読むキャスターの声を聞き流して、ゲンドウは窓の外に視線を彷徨わせている。
 けれど、その瞳は外の光景を見つめてはいなかった。
 こういう空白の時間というものが、彼はあまり好きではなかった。何もすることがないと、頭の中に余計な思考が次から次へと湧き起こってくる。そういう時は大抵、ユイのことを思いだしてしまうからだ。
 しゅっと空気の抜ける音がして、キャビンのハッチが開く。その瞬間、ゲンドウの意識は彼岸から現実へと引き戻されていた。
「失礼。便乗ついでにここ、よろしいですか」
 足音もたてずに近づいてきたその男は、ゲンドウの返事を待たずに隣に腰を下ろした。
「――サンプル回収の修正予算、あっさり通りましたね」
「委員会も自分が生き残ることを最優先に考えている。そのための金は惜しむまい」
 男の方を見ようともせず、依然変わらぬ姿勢のままゲンドウは応えた。
「使徒はもう現われない、というのが彼らの論拠でしたからね。……ああ、もう一つ朗報です。米国を除く全ての理事国がエヴァ六号機の予算を承認しました。ま、米国も時間の問題でしょう。失業者アレルギーですしね、あの国」
 そう言いながら、狐目の男は手にしたウィスキーの瓶を口に運んだ。顔立ちや身なりからすると中国の高官らしいが、日本語は流暢なものだ。
「――君の国は?」
「八号機から建造に参加します。第二次整備計画はまだ生きてますから。……ただし、パイロットが見つかっていない、という問題はありますが」
 男のその口調には、その貴重な専属操縦者――適格者(チルドレン)を二人も擁するゲンドウへの皮肉が込められていたのかも知れない。
 しかし、ゲンドウは何事もなかったかのような口調で言った。
「使徒は再び現われた。我々の道は彼らを倒すしかあるまい」
「……私も、セカンドインパクトの二の舞はごめんですからね」
 言いながら、男は窓の外に目をやった。
 眼下に拡がっているべき氷に閉ざされた大地はもはやなく、あるのはただ、生きるものとてない紅い海と、林立する塩の柱ばかりだ。
 この世のものとは思えない、そこは永劫の静謐(せいひつ)に満ちた世界だった。


「――じゃあ、南極大陸が蒸発したセカンド・インパクトって……」
「そう。歴史の教科書では大質量隕石の落下による大惨事となっているけど、事実は往々にして隠蔽されるものなのよ」
 ユカの問いに答えたリツコの返答は、何処か嘲笑めいたものを含んでいた。同じように欺瞞を事実であるかのようにユカに話して聞かせている自分が、すこし可笑しかったのかも知れない。
「……十五年前、人類は最初の《使徒》と呼称する人型の物体を南極で発見したの。でも、その調査中に原因不明の大爆発を起こしたのよ。それがセカンド・インパクトの正体」
 下りのエスカレーターに乗りながら、リツコは続けた。
 いつもならうるさいぐらいに話に割り込んでくるはずのミサトが、今は二人の話に加わろうともせず、硬い表情でそっぽを向いている。そんな彼女の方をちらりと見やって、ふと思い至ったことがあるのに気づいたユカは、「あ」と小さく息を飲んだ。
 ――「あたしね、セカンドインパクトが起こった時、南極にいたの」
 ミサトの押し殺したような声音が、脳裏に甦る。
(ミサトさんのお父さんが死んだのって……)
 長年の親友であるリツコがそのことを知らない筈はないのに、白衣の背中を向けている女性の声音はいつもと変わらず、淡々としていた。冷淡、とさえ言えるほどに。
「リツコさ――」
「予想されるサード・インパクトを未然に防ぐ。そのためのNERVと、エヴァンゲリオンなのよ」
 口を挟みかけたユカの声が聞こえなかったように無造作にそう言い捨てて、リツコは不意にミサトの方をちょっと振り返った。
「ところであれ、予定通り、明日やるそうよ」
「――わかったわ」
 硬い表情のままリツコの視線を受け止めたミサトは、吐き出すようにその言葉を紡いだ。


 ユカの携帯が鳴ったのは、シャワーの後で帰り支度を整えていた時だった。
「はい」
「あ、ユカちゃん? あたしー」
 タオルを躯に巻きながら、まだ少し湿った髪を軽く振って通話ボタンを押すと、さっきの静けさは何処へやら、ミサトの威勢のいい声がした。酒が入っているのはいつものことだが、今日は妙にテンションが高い。
「ミサトさん? どうかしたんですか?」
「あのさー、ちょっと仕事入っちゃってぇ、すぐには帰れそうにないのよ。悪いけどユカちゃん、ひとりで先に帰ってくれる? あたし、今日は晩ご飯いらないから。戸締まりと火の始末だけ、お願いね」
「はい、解りました」
 いつもならミサトの車で一緒に帰るのだが、今日はそうもいかないらしい。珍しく酒があまり入っていない状態で久し振りに執務室に戻ったミサトを待っていたのは、部屋中を埋め尽くした決裁待ち書類の山だったのである。
 ミサトの仕事を処理してくれる筈の日向はというと、このところのオーバーワークがたたってダウンしたままだ。といっても自分の仕事はきちんとしているので、必然的にミサトの仕事だけが際限なく溜まっていくことになる。
 まあそういうわけで、ミサトは珍しく仕事らしい仕事を強いられていた。むろん、やけ酒ならぬやけエビちゅ片手だから作業効率はとことん悪いが、本人はそんなこと気にしちゃいない。
「ったく、こんなに人をこき使っていいのかしらねぇっ」
 普段ロクに仕事もしていないくせに、文句だけは一人前である。
「ま、そーゆーことだから。じゃーねー」 
 一方的に用件だけ言うと、ミサトはあっさり電話を切った。
「……はぁ」
 小さく溜息を吐くと、ユカは携帯を鞄に戻して歩き出した。
 NERV本部からミサトのマンションまでは、結構遠い。ミサトのマンションが第3新東京市の郊外に建っているからだ。だから一度市の中心部に出て、そこからリニアに乗り換えねばならない。
 ミサトと一緒に帰る時は、ユカは座っていればよかった。車があれば、帰りに買い物をして帰ることも出来るし、疲れている時は寝てしまってもミサトは文句を言わない。けれど、歩きだと色々不便なことの方が多い。訓練で疲れた躯を引きずって、ジオフロントからリニアで地上に昇り、そこからバスに乗って郊外まで。バス停から商店街を抜けて公園の傍を通り、ようやく家に着く。
 買い物をしたりしようものなら、自分の荷物の他に買い物袋まで持たなくてはならない。しかも帰ったら家事が待っている。戦闘訓練などがあった日は、全身クタクタになって夕飯を作ることすら億劫になってしまうほどだ。基礎体力がもともとないので、いっそう辛い。だが、普段ならこれぐらいのことでこんなに憂鬱な気分になることはない。
 今日はエヴァの起動テストだけだったので、疲れもそれほどではなかった。なのにこんなに気分が沈むのは、いったい何故なんだろう。
 帰ったら、トウジが来てくれるのに。
 そんなことを思いながら、ユカは重い足取りで家路についた。


 たった一人で家路につくのは、久し振りだった。
 それを淋しいと感じるより先に、レイはいつもユカやトウジと並んで歩く帰り道を一人で歩くことに新鮮なものを覚えていた。そして、隣に誰もいないことを改めて物足りなく思った。
 気がつくとユカが隣で微笑っていて、その微笑みの向こうでトウジが優しい瞳を彼女たちに向けている。そんな時間が、この上なく大切なものに思える。ミサトたちとの暮らしにも少し慣れて、誰かと一緒にいるということがどれだけ心を豊かにしてくれるかを、実感する。それは決して心地よいものばかりではないけれど、でも以前のように戻りたいとは思わない。
 誰もいないあの部屋に帰って一人きりの時間を過ごす毎日に、今はどうして耐えていられたのか解らない。
 淋しい、ということを彼女は知らなかったから。彼女にとってそれが当たり前だったから、そうでない今のこの状況というものは、想像すらしなかった。そんなものがあるなんて考えもしなかった。
 部屋の前で、レイはポケットを探る。指先に当たる固くて、けれど少し温もりを帯びたその感触にちょっと口許を綻ばせながら、レイはポケットからそれを取り出した。
 レイの掌の中には、ピンクのリボンがつけられた小さな金属片がある。レイのためにミサトが用意してくれた、家の鍵だ。といっても、これまで彼女はそれを使ったことがなかった。彼女が家に帰る時、いつもユカが一緒にいたからだ。そして一人で暮らしていた時は部屋に鍵などかけていなかったから、鍵を持ち歩いたことはなかった。
 だから、鍵を鍵穴に挿し込んだ時、ちょっとだけどきどきした。ある意味で初体験である。
 少しレトロな形をしてはいるが、接触部があるわけではない。鍵の中に埋め込まれたチップの情報を読みとって、電子ロックが外れる仕組みになっている。鍵を鍵穴に挿し込む、というのは一種のおまじないみたいなものだ。
 かちり、と小さな音がして電子錠が外れた瞬間、レイの胸は少し高鳴っていた。
 しゅっ、と微かな空気音を立ててドアが開くと、まる一日閉め切られたままだった所為で、むっとするような熱気とともに澱んだ空気が一気に外へ流れ出てくる。
「……ただいま」
 全身に押し寄せる熱気にやや顔をしかめながら、レイはいつもの台詞を口にした。彼女がその言葉を口にすると、ミサトもユカもすごく嬉しそうな笑顔を浮かべて「おかえりなさい」と言ってくれるのだ。それを脳裏に思い浮かべながら、レイは誰もいない玄関に足を踏み入れた。
 といっても、この家に誰ひとり住人がいないわけではない。
「…クアッ」
 そんな一声でレイを迎えたのは、いつものように風呂上がりのペンギンだった。いつもながら何のために使用するのかよく解らないが、慣れた様子で肩からタオルをかけて、蒼い髪の少女を見上げている。風呂好きの彼がいるため、葛城家はほとんど二四時間風呂状態となっている。おかげで、鳥のダシの良く出た風呂に入ることにもすぐ慣れた。
「お風呂、使えるのね」
「クァァ」
 当たり前でしょ、とでも言いたげな口調で言って、ペンギンはぺったらぺったらと足音を立てながらキッチンの方に歩いていった。風呂上がりの牛乳でも飲むつもりなのだろうか。普通のペンギンなら考えられないことだが、葛城家のもう一人の同居人であるところのこの温泉ペンギンは、驚くほどに芸が細やかなのだ。
 炎天下をてくてく歩いてきたため、全身がじっとりと汗ばんでいて不快だった。折角風呂が沸いているのだから、ひと汗流してさっぱりしようと、レイはその場に鞄を放り出すと、歩きながら次々に制服を脱いでいった。
 彼女の通ったあとには、脱ぎ捨てられた制服や下着が点々と落ちていた。
 風呂上がりに濡れ髪をタオルで拭きながら、レイはペンペン以外に誰もいないリビングを見回した。
 ユカもミサトも、NERV本部に行ってからまだ帰ってこない。空腹を覚えるほどではないが、ちょっと手持ち無沙汰を覚える。こんな時、以前ならどうしていたのだろう。
 唯一の話し相手であるはずのペンギンは、夕方のドラマの再放送を見ている。このペンギン、無類のテレビ好きなのである。自室(専用の冷蔵庫)の中にも小さなテレビをもっているほどだ。この家でテレビが点いている時は、たいてい彼がその前に座っている。目的の番組を観たいがために、新聞のテレビ欄の読み方を覚えたほどだ。お気に入りは紀行ものと料理もので、とりわけ全国各地の秘湯名湯を紹介する旅番組がいちばん好きなようだ。
(……たいくつ)
 何もすることがない。ペンペンと二人、テレビを眺めていたが、はっきり言って何が面白いのか解らない。
 もっとも、そのドラマは主人公の男が二人の女性の間を行ったり来たりではっきりせず、そのうちどろっどろの四角関係に陥ってしまってすったもんだという陳腐な代物で、そもそもあまり面白い話ではないのだが。
 あの部屋で一人で過ごしていた時、このような感覚を覚えたことはなかった。何もすることのない時間を退屈だと感じるほど、彼女の時間は濃密に流れていなかったからだ。
 気づくと時間は流れていて、望まなくても朝はきた。
 けれど、今は――
 時折、時が経つのが遅い、と感じる。こんな風にひとりでいる時は、特に。
 早く帰ってこないかな、と薄暗くなった窓の外を見やった時、チャイムが鳴った。ユカやミサトなら、いちいちチャイムを鳴らしたりはしない。誰だろうと思って時計を見ると、もう六時を回っていた。
 レイが顔を上げると、目の前でペンペンがぱた、と尻尾を鳴らした。あんた出てよ、今いいとこなんだから、といったところか。どうせ面白いドラマではなかったし、他にすることもなかったので、レイは立ち上がった。
 玄関まで迎えに出ると、ドアの向こうにはトウジが立っていた。
「お、綾波か」
 レイは戸惑いを顔に出したりはしなかったが、彼の方は少し面食らったような顔をしている。レイがいるのは知っていたが、彼女が出てくるとは思わなかったらしい。
「なに」
「なにて、ご挨拶やな。ユカが夕飯食わせてくれるゆうから、来たんやないか」
「……そう」
 小さく頷くレイ。トウジに中に入るよう勧めもしない。そうするのが普通だということを知らないのか、それともしたくないのか。気まずそうな二人の雰囲気を察して、CMの合間にリビングからひょこっとこちらを覗いたペンペンはあっさりと顔を引っ込めた。ドラマの方が気になっていたのかも知れない。
「ユカ、まだ帰ってないんか」
「ええ」
 表情ひとつ変えずに応えるレイに、トウジは軽く顔をしかめた。
「ちょっと遅ないか? もう六時やで」
「……そうね」
 言われて、レイはトウジの手元にちらりと目をやった。そこにはずぶ濡れになった傘があった。先から滴り落ちる水雫が、足下の床に水溜まりを作っている。耳を澄ますと、外から雨垂れの音が聞こえてくる。
「雨、降ってるのね」
「おお。結構降っとるで」
 言って、トウジは気遣わしげに外の方を見やる仕草をした。
「迎えにいかんで大丈夫かな。ちゃんと傘持っとるやろか。帰りに買い物してくる言うてたけど……」
「……」
 顔を見合わせるレイとトウジ。
 窓の外を閃光が走ったのは、その時だった。数瞬遅れて、腹の底に響くような重低音とともに微かな振動が轟音を伴って耳に届く。反射的に窓の方を振り向いたレイは、背後でドアが閉じる音にふたたび玄関の方を振り返った。
 そこには、小さな三つの水溜まりが拡がっているだけだった。


 彼女がそこに足を向けたのは、単なる偶然だった。
 帰り道にある、小さな児童公園。
 夕闇に染まる公園は何処か淋しげな雰囲気を湛えていて、泣きたくなるような切なさを伴った懐かしさに負けて、ユカは公園に足を踏み入れていた。
 ほんの数時間ほど前までは子供たちの賑やかな声が響き渡っていたのだが、今はもう、他に人影はない。
 夕食の支度をする匂いが何処からともなく漂ってくる。雲間に見えるまだ微かに青い空を、数羽の鴉の群れが啼きながら飛んでいく。買い物帰りの主婦や急いで家路につく子供たちの声が、遠くに聞こえる。
 夕暮れの気配と共に押し寄せてくる言い知れない寂しさは、ユカに叔父たちのことを思い出させた。
 ――誰かが迎えに来てくれるのを、ずっと待っていた。
 一人、また一人と母親に連れられて帰っていくのを眺めながら、夕闇の押し迫る公園で、ユカは一人で待っていた。自分の名を呼んで、お家に帰ろうと言って手を差し伸べてくれるひとのことを。
 そうしていると、たいていが彼女を探しにきた叔母に手を引かれて帰るのだが、叔母が忙しくて手が離せない時などは、叔父が彼女を迎えに来てくれた。そして、「サトコさんには内緒だよ」と言って、近所の駄菓子屋でお菓子を買ってくれたものだった。
 そのころは、叔父たちのことを本当の両親だと思っていた。
 今でも、その思いは変わらない。変わらないはずだ、と思う。けれど、そう思う反面、あの時、自分が本当に待っていたのは叔父たちではないのではないか、とも感じるのだ。
 あのひとのことを、ずっと待っていたのではないのか、と。
 ――碇ゲンドウ。
 優しい微笑みのひとつも向けてはくれない、未だに父とは思えぬあの人のことを。
 何故なら、叔父や叔母に迎えに来てもらえて嬉しく思う心の何処かで、確かに自分はがっかりしていたのだと、そう感じていた記憶があるからだ。
「…はぁ……」
 そっと溜息を吐いて、ユカは子供用のブランコに腰を下ろした。きい、きい、と淋しげに軋むブランコを軽く揺らしながら、残照を浴びている砂場を見やる。オモチャや小さなバケツ、スコップなどが放り出されたままになっていて、作りかけの砂山がぽつんと残されていた。それを見つめるユカの口許に、淋しげな笑みが浮かぶ。
 たったひとり、誰もいない公園であのひとが迎えに来てくれるのを待っていた時の切ない気持ちが、一気に押し寄せてくる。と同時に、脳裏に突然、彼女に背を向けて歩き去ろうとする彼の背中が浮かび上がった。
 ――いかないで。
 どくん、と耳の奥で心臓が大きく弾む音がした。
 ――いかないで、おとうさん!
 一瞬、男の足が止まる。けれど次の瞬間には、再び動き出して今度は止まらない歩みが、少女の心に生まれた小さな希望を無惨に打ち砕いてしまう。
 ――すてないで。ゆかをすてていかないで!
 ――おとうさん!
 頭の中に、幼い頃の自分が叫んだ言葉が蘇る。
 その瞬間の、頬を伝った涙の熱さとともに。
 ブランコのチェーンを握り締めるユカの手に、ぎゅっと力がこもった。
(…すてられたんだ、わたし)
 あの人のことを思うと、心が軋む。
 どうして、思い出したりするんだろう。こんな思いをするぐらいなら、いっそ全部忘れてしまいたい。あの人のことが大好きだった頃のことを中途半端に覚えていて、こんな風に苦しまねばならないぐらいなら。
 けれど、ゆるんだ蛇口から水がポタポタと漏れだしてくるように、思い出しもしなかった昔のことが、それまで完全に忘れていたはずの記憶が、何かの拍子で今更のように蘇るのだ。唐突に。何の前触れもなく。目の前でパッとはじけて消える花火のように、予期することも逃れることも、そして掴み取ることも出来ない素早さで。
 そんな時、いつも思う。忘れてしまうのと、全部思い出すのと、どっちを自分は望んでいるのだろう、と。
 そして、どっちが倖せなんだろう、と。
 その時、天から落ちてきた水滴が、ぽつんと頬を叩いた。
 ユカの頬から透明な涙が溢れ出したのとほぼ同時に、にわかにかき曇った雲が空を覆い尽くして、大粒の雨が迸るような勢いで降り始める。
 その雨の中、ブランコに腰掛けたまま、ユカは俯いていた。
 雨に濡れていることも気にならないかのように、彼女の瞳は虚ろだった。
 ざぁっと地面を叩くその音も、全身をあっという間にずぶ濡れにしてしまったその雨も、今のユカには気にならなかった。


 土砂降りの雨の中、トウジは走っていた。
 時折瞬く雷光が、闇を切り裂いて駆け抜ける。雨が全身を濡らしていく。けれど、手に持った傘をさすことすら忘れて、彼は愛しい少女の姿を探し求めていた。
 こんな雨の中、求める少女の姿がないことがひどく心配だった。
 取り越し苦労なら、それで良かった。商店街の軒先で雨宿りしていた少女が、必死の形相で走ってきた彼に微笑みかけてくれるなら、笑われても全然構わなかった。
 けれど、嫌な予感めいたものが、どうしても胸から消えない。わけの解らない不安だけが胸の中でどんどん膨らんでいく。今すぐ彼女をこの腕に抱きとめないと、安心出来ない。別れる時の彼女の顔が脳裏を過ぎるたびに、彼女が自分の知らない何処かで泣いているのではないかという気がして、早く彼女を見つけなければという焦燥感に駆られる。
(ユカ……何処におんねん)
 彼女に電話をしてみる、という考えはまるで思い浮かばなかった。思いつく限りの場所を走り回って、心臓は今にも弾けてしまいそうなぐらい激しく鳴っているし、雨粒を一緒に吸い込んだ所為で息苦しい。
「…くそっ」
 咳き込みながらどんよりと曇った空を恨みがましく見上げて、トウジは荒い息を吐いた。
 こんな雨の中、全身びしょ濡れになって誰かを捜して走り回っていると、ユキノが今より小さかった頃のことを思い出す。トウジと喧嘩して家を飛び出したユキノは、公園の滑り台の下で膝を抱えて泣いていたのだ。
 それを思い出して、トウジは顔を上げた。
 もしかしたら、あそこにいるかもしれない。いや、いてほしい。
 そんな思いに駆られながら、疲れた躯に鞭打って走る。何度か速度を緩めて呼吸を整えながらも、走るのをやめようとはしない。
 公園のブランコに腰掛けた少女の姿を見つけた時、トウジの心臓は大きく弾んだ。
 こんな雨に降られているのに、そんなことを気にした風もない彼女の様子に、嫌な予感はますます膨らんでゆく。
「……ユカ」
 俯いたままの彼女に、そっと声をかけると、ユカはぱっと顔を上げた。
 その頬を濡らしていたものが雨だけではないのは、すぐに解った。自分を見上げる少女の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れては零れていたからだ。
「トウジ……」
 自分の名を呼ぶ彼女のか細い声を耳にするより先に、トウジはその場に跪くようにしてユカの躯を抱きしめていた。その躯の冷たさに、ずっとこうして雨に打たれていたのだと解って、抱きしめる腕にいっそう力がこもる。服が汚れるのも構わず地面に膝をついて、冷え切った彼女の体を温めようとするかのようにぎゅうっと抱きしめるトウジに、虚ろだったユカの瞳にゆっくりと光が戻った。
「だ、ダメだよトウジ、濡れちゃう」
 もう絶対離さないとでもいうかのように力一杯抱きしめたユカが、己の腕の中で自分を見上げながらそんなことを言った瞬間、トウジは彼女の口を唇でふさいでいた。冷え切った躯と同じく、口唇も冷たかった。
 二度と彼女をこんな風に、ひとりで泣かせたくなかった。
つづく



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  あとがき

 なんだか良く解らないエピソードです。単なる伏線なんですけど。イメージした通りにはなかなか仕上がりませんね。やれやれ。
 うむう。精進せねばっ。

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