彼女事情
K A R E × K A N O

Written by:きたずみ


#27
 雨は、もう上がったようだった。
 少し湿った匂いのする涼しい風が、庭の方から吹き込んでくる。雨上がりの風に揺られて、縁側で風鈴が鳴っていた。聴いていると、少しもの悲しくなるような切ない音色だ。
 その音色にかぶさるようにして、トウジの声が聞こえてきた。
「……ああ、ユカは大丈夫や。着替えたらすぐ連れて帰るから」
 耳許で、大好きな人の低い声がする。この声で名前を呼ばれるたび、心の奥がどくんと弾む。いやらしいことを耳許で囁かれるだけで、じゅんと躯の奥が潤み始めてしまう。優しいその響きを聞いているだけで、心が安らいでいく。
 ああ、わたしはこの人のことが好きなんだ、と実感してしまう瞬間。
 じかに触れ合う肌から伝わるぬくもり。このまま溶けてしまいそうになる。じわりとにじんだ汗が絡み合って、少し肌がぬめる。何度も肌を重ねて、すっかり頭に刷り込まれてしまった彼のにおいに包まれているだけで、とても幸せな気分になる。
(……きもちいい…)
 ユカは、ぼんやりした意識のまま目を開けた。
 部屋はまだ薄暗いままだった。網戸越しに、虫の鳴き声が聞こえてくる。
 灯りを点けずにいた理由は、すぐに解った。自分とトウジは全裸のまま、畳の上に腰を下ろしていたからだ。肌の上には大きめのバスタオルがかけられていて、彼女の躯は後ろから優しく抱きしめられている。
「…そない怒んなや。ワシかて、ユカと二人きりになりたい時はあるんや」
 薄闇の中で頭の後ろから聞こえるトウジの声は、ユカではない誰かに向けられていた。
 ユカに向けられるものとは違う、少し困ったような苦笑混じりの優しい声に、ユカは少し身動ぎした。トウジが手にしている携帯電話からは、相手の声はほとんど聞こえない。
「ええやないか、綾波はいっつもユカと一緒やねんから」
(…あ)
 その言葉に、今まですっかりレイのことを忘れていたことに気づいて、ユカは少し顔をしかめた。色んなことで頭がぐちゃぐちゃになっている時にトウジに抱きしめられて、もう他のことはみんな何処かにいってしまっていたのだ。
(ダメだなぁ、わたし……)
 前髪を掻き上げながら、溜息混じりに上体を少し起こす。
「……起きたか?」
 受話器を少し離して、トウジがユカに笑みを浮かべながら囁いた。薄闇の中、肌を触れあったまま向けられるその笑顔が気恥ずかしくて、ユカは真っ赤になってしまう。えっちしている時は思考がえっちモードになるから平気だけど、こういう普通の瞬間にはちょっと恥ずかしい。
 躯の中にまだ何かが埋め込まれているかのように膣がじんわり痺れている感覚が、躯の随所に残る快感の余韻とともに、気を失うくらい何度もトウジに愛されたことを教えてくれる。と同時に、最後にトウジにお尻をいじられながらイッてしまったことも思い出して、ユカは耳まで真っ赤になりながらトウジを睨みつけた。
「……? ああ、今から送ってくさかい。ほなな」
 何故ユカに睨まれているのか解らないトウジは、レイとの電話を一方的に切ると、携帯の電源を切って傍らに放り出しながら、怪訝そうな目を向けた。
「なんや、何怒ってんねん?」
「だってっ」
 怒ってはいるものの、口に出して言うのは恥ずかしい。真っ赤な顔でトウジを睨みながらむ〜っと唸っているユカの様子に、トウジは「…ああ」と頷いた。
「――お尻で感じてもたことか?」
「か、感じてなんかないもんっ」
 図星を疲れて真っ赤になるユカに、トウジはにんまりと笑みを浮かべた。
「ウソつけ。めっちゃ気持ちよさそうやったやん」
「そんなことないっ」
「そおか? そのわりには――」
「もういいっ」
 かなり怒った声で言って、ユカはぷい、とそっぽを向いた。薄闇の中に浮かび上がる剥き出しの白い背中とうなじがほんのりと朱に染まっていて、少し色っぽい。
 ちょっとやりすぎたかな、と思いながら、真っ赤な背中に向かって、トウジは口を開いた。
「ごめんな。イヤやったか?」
「……」
 ユカは応えない。けれど微かな身動ぎで彼のことを気にしているのが分かって、トウジは安心して続ける。
「ユカがホンマに嫌がったら、やめよ思てたんや。けど、ユカめっちゃ感じとったみたいやし、ワシも気持ちよかったから……」
「だから、もういいのっ」
「なにがええねん」
 言いながら、トウジはユカの躯をそっと引き寄せた。ほとんど何の抵抗もなしに、小さくて柔らかな少女の躯が腕の中にすっぽりとおさまる。腕の中のか弱くて温かな感触を大切に抱きかかえながら、トウジはうっすらと口許に笑みを浮かべた。
「またやってもええってことか?」
「…えっ……」
 耳許で囁かれて、心臓がどくんと弾む。
 気持ちよかったのは事実だ。ただでさえ快感で朦朧としていたところにお尻を責められて、自分でもわけが解らないくらいに感じてしまった。以前、トウジにお尻を舐められた時も、すごく感じてしまったことを覚えている。もしかすると弱い場所なのかも知れない。
 またあんな風にされたら、今度は間違いなくお尻だけでイッてしまいそうだった。
「……わかんないもん、そんなの」
 俯き加減に呟きながら、ユカは小さく頭を振った。
「トウジ、あんなとこいじって平気なの?」
「……正直、ワシも自分で不思議やねんけどな。…けど、ユカのやったら何処でも平気な気ィするんや」
「ど、どこでもって……」
「どこでも、や」
 言いながら、彼女の耳朶をそっと甘噛みするトウジ。自分でも少し不思議だったが、別におかしなことではないとも思う。考えてみれば、彼女の躯を初めて知った時から、彼女の躯に汚いところなどないような気はしていたのだ。
 この小さな躯で自分を受け入れてくれている、そんなユカの躯なら、何処でも平気で口をつけられる気がする。事実、はじめての時に彼は、ユカのお尻を舐めている。
 あの時、自分のしていることに疑問は感じなかった。ただ、そうしたかっただけなのだ。
 ユカを抱くたびに、彼女の躯の隅々に至るまで、ユカのすべてに自分の証を刻み込みたいという衝動に駆られる。彼女のお尻に指を入れてみたいというのだって、一種の衝動のようなもので、気がつくと躯が動いていた。もっと深く、彼女を知りたかったからだ。
 そもそも、自分がこんなに頻繁に彼女の肌に唇を滑らせるようになるなんて、思ってもみなかった。唇に触れる彼女のなめらかな肌の感触や、その躯から漂う仄かな甘い香りと汗の匂い、微かに甘い感じさえする汗の味。そのすべてが愛おしく、またトウジの心を激しく震わせる。
 それらはまるで強烈な媚薬のようにトウジを誘い、厭きることなく彼女に触れさせてしまう。中毒性の高い麻薬さながらに、強く、強く彼を惹きつけてやまない。
「イくときのユカ、めっちゃ可愛かったしな」
 ユカの感じる声や表情、恥ずかしがる時の仕草、拗ねて睨みつけてくる時の瞳、怒った横顔。それらすべてが愛おしくてならない。すべてを見たくてたまらなくなる。色んな声を聞きたくなる。
 だから時々、ちょっと意地悪したくなる。
「…変態」
「変態でも、ええんやろ」
 耳許でそう囁かれるだけで、ユカの心臓は破裂しそうなほどに高鳴っていた。後ろから優しくふわっと抱きしめられて、愛しくて愛しくてたまらないとでも言うかのようにそっと頬摺りされると、もう何でも許してしまいそうになる。イジワルでやらしくて、なのに時々こんな風にすごく優しくしてくれるから、ずるいと思う。
「ワシのこと、好きやろ?」
「……きらい」
「ホンマに?」
「……」
 黙って首を振る。
 きらいなんて、ウソだ。きらいになんてなれない。たとえウソでもそんなことを言えるようになったのは、トウジのおかげだ。トウジが何度も何度も、ユカのことを好きだと言って安心させてくれて、優しくキスしてくれたからだ。
 こんなに好きになって、大丈夫なんだろうか。
 そんな不安を覚えるくらい、好きという気持ちが胸一杯に溢れている。彼になら何をされてもいい――本当にそう思い始めている自分がいる。彼を喪ったら生きていけないんじゃないかと思うと、怖くなる。
「ほんとは、すき。だいすき」
「ワシも好きや。ユカのこと、大好きやで」
 抱きしめながらそんなことを囁くなんて、ずるい。優しく頬に口唇を滑らせながら、そんな嬉しくなるようなことを言われたら。
 離れられないと、改めて思う。
「約束は出来へんけど、もう二度とせえへんから。ユカが嫌がるようやったら、絶対せえへん」
「……なら、……いい、よ」
「そか。よかった」
 ホッとしたように言って、トウジは軽く息を吐いた。それから思い出したように訊く。
「ホンマに、気持ちようなかったか?」
「……きもちよかった」
 小声でポツリと答えたユカは、うなじまで真っ赤になっていた。それがたまらなく可愛くて、トウジは嬉しそうに満面の笑みを浮かべながら、少女の小さな躯をもう一度ぎゅうっと抱きしめていた。


 雨が昼間の熱気と埃を一緒に洗い流してくれたお陰で、坂の上を吹き抜けていく風はとても涼やかだった。虫の声と相俟って、歩いているだけでも雰囲気があって心地いい。
「気持ちいいねぇ」
 うーん、と背筋を伸ばしながら言って、ユカは少し後ろを歩くトウジを振り返った。トウジのTシャツに包まれた胸元が、その動きに合わせてふよん、と柔らかく弾む。制服はすっかり濡れてしまっていたので、彼女が今着ているのはトウジのジャージである。下着までびしょ濡れだったから、その下は何も着けていない。
「そ、そやな」
 彼の瞳が自分の胸元に釘付けになっているのに気づいて、ユカはちょっと恥ずかしくなって俯いた。ちゃんと洗濯してあるのに、トウジのジャージからはほのかに彼のにおいがして、少しどきどきする。
 ふぅっと切ない吐息を漏らしながら、肩に掛かった髪を指に巻き付けて、ユカはふと顔を上げた。火照った頬を撫でていく風が、気持ちいい。
 坂のてっぺんから見下ろす街は、まるで地上の星空のようだった。闇の中に、色んな色の小さな光が無数に散らばっている。まるで空に浮かんでいるようだ。思わず息を飲んで、そのまま誘われるように空を見上げる。
「わぁ……」
 宝石箱をぶちまけたような――という表現がまさにぴったりの素晴らしい星空だった。これほどハッキリした星空は、箱根でも滅多にお目にかかれるものではない。こんな星空を見たのは、ずいぶん久し振りのような気がする。
 第3新東京市が出来てからというもの、街の灯りや排ガス、粉塵などが邪魔して、以前ほど星は見えにくくなっている。それでなくても、セカンドインパクト後の気象変化によって常夏の国と化した日本は、星を見るのに適した環境とは言えなくなっていた。
 それだから、これほどハッキリと星が見えるのは結構珍しい。雨が大気から熱気と埃を流し去ってくれたおかげだろう、空は綺麗に澄み切っていて、手を伸ばせば星に届きそうな感じさえした。視界を埋め尽くすような星の群れを眺めていると、雨上がりの空がいちばん綺麗なんだよ、と叔父がよく言っていたのを憶い出す。昔はもっと綺麗だったんだと、懐かしそうに語る横顔。
(…だめ、泣きそう)
 瞳の奥がじんわりと熱くなる感覚に、ユカはそっと瞳を閉じた。
 連絡がつかないままになっている叔父たちのことを思い出すと、いつも胸が締め付けられるような感じがする。ガラスの向こうに見えているのに、どんなに手を伸ばしても決して届かない宝物のように、想い出はすぐそこにあるのに、どんなに手を伸ばしても、それにはいつも夢のような不確かな感じが伴っていた。
 軽く頭を振って、ユカは感傷を払いのけた。いまそんなことを考えても始まらない。それに、どうしようもないほどつらくなったら甘えることの出来る人が、いまはいる。
「ねっ、トウジ」
 にじんだ涙を指先で拭って、ユカはトウジの方を振り返った。
「ん?」
「見て。星がすごくきれい」
 言われて、トウジは空を見上げた。半分に欠けた月が照らす夜空に、満天の星が瞬いている。
「……ああ、ほんまやな」
「でしょ? なんか得したって感じ、しない?」
「得、かぁ?」
「だって、プラネタリウムみたいじゃない。ほら、こうすると――」
 言いながら、ユカは両手を拡げて空を見上げた。そのままくるん、と回転すると、視界いっぱいに拡がる星空が一緒に回る。
 まるで自分だけの星空のような、空を独り占めにしているような気分。
「あはははっ、すっごーい」
 星を見上げながら、ユカは笑い声をあげた。
 子供みたいに無邪気なその笑顔に、トウジは少し口許を綻ばせる。彼女のこんな笑顔を見るのは久し振りのような気がして、自分の不甲斐なさを強く実感した。
「おい、そんなんしたら――」
 転ぶで、とトウジが言いかけた時だった。
「きゃっ」
 案の定、足元をとられて転びそうになるユカ。とっさに駆け寄ったトウジが、その躰を力強く抱きかかえる。ふわりと彼女の髪の匂いが鼻先をくすぐって、心臓がどくんと大きく弾んだ。何度となく彼女と肌を重ねているはずなのに、未だに慣れるということがない。
「あ、ありがと……」
 頬を赤らめながら、ユカがトウジを見上げる。その黒い瞳を間近に見つめながら、トウジはユカの肩を掴んで抱き寄せた。えっ、と彼女が小さな声を上げる。
「ユカ」
「は、はい」
 彼女の瞳を見つめたまま、トウジは言った。
「ワシ、ユカのこと、もっと知りたい」
「え……っ」
 その言葉をボンヤリと聞きながらトウジを見上げていたユカの顔が、見る見る真っ赤に染まっていく。耳も首筋も真っ赤だ。まるで今にも湯気が立ち上りそうに見える。
「あ、ああああの、えっと……」
 うなじまで赤くなりながら、ユカは狼狽えたように俯いたり、きょろきょろと辺りを見回したり、意味もなくシャツの裾を伸ばしたりした。そんな彼女の反応に、言った当の本人もなにやら恥ずかしくなってしまう。カーッと頭に血が上るのを実感しながら、トウジはロクに考えもせずに言葉を紡いだ。
「い、いや、ちゃうねん。ヘンな意味やのうてやな、その、ワシ、ユカのこと全然しらんから、それで……」
「そっ、そそ、そうだよね。あー、びっくりした」
 いったい何を想像したのやら、赤い顔で甘えたようにトウジを見上げて微笑う彼女の様子を見つめていると、トウジの胸の中に温かいものがこみ上げてくる。そっと彼女の頬を撫でて、トウジは微笑った。瞳を閉じて、頬を撫でるトウジの掌に身を任せるユカ。
 どちらからともなく、誘われるように唇をあわせる。
 月明かりの下、二人の影が重なった。


 しばらくトウジの肩に頬を預けていたユカは、そっと彼から身を離すと、空を見上げながら口を開いた。
「……星を見るとね、叔父さんのこと、憶い出すんだ」
 碇カズシ――ユイの弟で、ユカにとっては母方の叔父にあたる。幼い頃から体が弱く、いつも病気がちだったため、碇家の跡取りとしての権利を養子に入ったゲンドウに譲った人物だ。わずかばかりの財産と、碇家の旧宅だった屋敷のみを受け取って、滅多に人に会うこともない暮らしをしていた。
 大量の本の山に埋もれるようにしてページをめくっている痩せた背中と、少しかさついた暖かい手のひら、眼鏡の奥の優しい眼差し。物静かで、声を荒げたことなど数えるほどもなかった。いつも優しい瞳でユカのことを見守っていてくれて、けれど時折、何だか寂しそうな表情をするのが、すごく不思議だった。今思えば、それはいつかこうなることが解っていたからかもしれない。
 叔母も同じで、夫のそんな隠居じみた暮らしぶりに文句ひとつ言うでなく、庭に作った菜園で野菜やハーブを育て、月に一度か二度、食糧の買い出しに出るような自給自足めいた生活を送っていた。普段の食事はユカに任せていたが、彼女の誕生日には信じられないくらい美味しい料理を作ってくれた。
 あの屋敷に来た時のことは、覚えていない。近くの公園で迎えが来るのをただ待っていたことも、これまでは憶い出すことさえなかった。父のことも。
 それほど穏やかで、何もない日々。
 なにかに心乱されることも、悩むこともない。ただ毎日が静かに何ごともなく過ぎていく。
 こんな日々が、ずっと続くのだと思っていた。
 あの日、父と名乗る人物から手紙が来るまでは。
 ――『来い』。
 ただ、それだけ。
 その手紙とも呼べないたった一枚の紙切れが、ユカの平穏な生活を壊してしまった。
 叔母は一人になるといつも隠れて泣いていた。叔父はその背中をそっと撫でながら、『仕方ないんだ』、『こうなることは解っていた』と繰り返すだけだった。そして、ユカに対しては『自分でよく考えて決めなさい』とだけ言った。
 父に逢いたかったわけではなかった。彼女の気持ちなど微塵も考えず、ただひたすら傲岸に、自分にとって必要になったというだけの理由でユカの平和な暮らしをぶち壊した男に、ひと言文句を言ってやりたかっただけだった。そして、もう二度と関わらないでと言うつもりだった。それですぐに帰るつもりだったのに。
 ――そのすぐあとに、ユカの帰る場所は、何処かにいってしまった。
 ユカの身の回りのものが一通の手紙と一緒に届いて、それっきり連絡は途絶えた。家に電話しても繋がらないし、ユカを知っていたはずの人たちはみな、彼女のことを知らないという。
 何が起こっているのか、わけがわからなかった。まるで醒めない悪夢を見ているみたいに。
 ひとり、知らない世界に放り出されたような気分だった。
「二階の物干し台にね、ふたりで寝そべって星を見るの。いつもそうしてるから、良く飽きないわねって叔母さんに呆れられるんだけど、でもわたしは叔父さんの隣に寝っ転がって、星の話を聞くのが大好きだった。第3新東京市(ここ)に来る前にも、そうやって叔父さんと星を見たんだ。星座とか、結局わかんないまんまだったけど」
 空を見上げたままぽつぽつと語るユカの背中を、トウジはただ見つめることしかできなかった。その薄い肩が微かに震えていて、小さな背中がやけに寂しげだった。それを見ていると、無性に彼女を抱きしめたい衝動に駆られる。そうしないと、彼女がここから何処かに行ってしまいそうな、そんな不安に襲われる。
「…帰りたいんか?」
 恐る恐る、トウジは訊いた。答えを聞くのが恐ろしい。もし彼女が、ここにはもういたくないのだと答えたら。
 その言葉に、ユカは俯いた。光の加減で、影になったユカの表情は良く見えない。
「帰りたい……、帰りたいよ。だって、わたしのパパとママだもん。ずっとそうだったんだもん。いまさら、本当の親じゃないなんて言われても、そんな風には思えないよ……。逢いたい。せめて声だけでも聞きたい」
 涙で震える声に、トウジは言葉を失う。彼女がこんなに苦しんでいるのに、それでも彼女を引き留めたいと思ってしまう自分が、たまらないほど醜く思えてくる。
「ユカ……」
 自己嫌悪にまみれながら、トウジが声をかけた時だった。
 ユカはそっと涙を拭って、顔を上げた。涙で潤んだその眼差しが、トウジの心にちくりと刺さる。
「でも、いいの。トウジに話したら、なんかスッキリしちゃった。きっと元気にしてると思うから、今はいいの」
「けど……」
 言いかけたトウジに振り返ったユカは、その瞳を見つめながら小さく笑った。その笑顔は、トウジには何だか無理をしているように思えたけれど、それゆえにだろうか、ひどく儚げで美しかった。
「わたし、まだここにいたいよ」
 潤んだ漆黒の瞳が、揺らめきながらじっと彼を見つめている。その瞳の中に映る自分の不安げな顔を見つめて、トウジは安堵の吐息を漏らしながらぎこちない笑みを浮かべた。彼の微笑みを見て、ユカも安心したように笑う。それを見て、トウジはやっと自分が普通に笑えているのが解った。
「レイやミサトさんや、ヒカリちゃんやクラスのみんな。それに……トウジのそばに、もっとずっといたいよ」
「ユカ……」
 じっと自分を見つめるトウジの視線に、ユカはちょっと頬を赤らめた。
「…あのね」
 ちょっと俯き加減になりながら、こつん、と足元の小石を蹴飛ばす。そのうなじが少し赤い。
「トウジが迎えにきてくれた時、わたし、すっごく嬉しかったんだよ」
「え?」
「……うれしかった」
 消え入りそうな声で言って、ユカは紅い顔で俯いた。
 あの時、自分がどれだけ嬉しかったか、きっとトウジは知らないだろう。
 息せき切って駆けつけて、雨の中、自分を捜し回ってずぶ濡れになった彼が力一杯抱きしめてくれた時、自分はずっとこうして欲しかったのだと、解ったのだ。自分だけを見つめてくれる誰かに。
「そ、そか」
 何となく気恥ずかしくなって、トウジは軽く咳払いをした。その彼の耳に、ほっとしたような吐息とともにポツリと呟いた、ユカの声が聞こえた。
「トウジでよかった。トウジのこと、好きになってよかった……」
 どくんっ、と彼の心臓が大きく跳ねた。頭の中が真っ白になる。
 目の前の彼女を抱きしめたくてたまらない。ユカが、可愛くてならない。
「…あ……」
 その衝動に任せるままに、トウジはユカの躯を抱き寄せていた。石鹸の香りがふわりと鼻先をくすぐる。ほのかな汗の匂いに混じって、彼女の甘い匂いがする。彼女の髪の中に鼻先を埋めながら、トウジはやわらかなその躯をそっと抱きしめた。
「全部終わったら……ふたりで、逢いにいこか」
「え…っ」
 腕の中で、ユカが小さく身動ぎする。
「ユカの大事な人たちなんやろ。ほな、ワシも挨拶しとかなあかんやないか」
 言って、トウジは少し腕の力を緩めた。自分を見上げている少女の顔を覗き込むようにして、そっと笑う。
「な?」
 優しい笑顔。見ていると、涙がこぼれた。
「あ、アホ。なんで泣くんや」
「だって……」
「泣くな」
 怒ったように言って、そっと抱き寄せる。
「お前が泣いたら、ワシが泣かしたみたいやないか」
「うん…うん」
 涙を拭きながら、何度も頷くユカ。
 その頭上で、星が一筋、すっと流れた。


「ねぇ、トウジ」
 水溜まりを軽く飛び越えながら、ユカは幸せそうな笑みを向けてきた。
 その拍子にふよん、と胸元が大きく弾んで、その動きと一緒に可愛い笑顔が視界の中に飛び込んできたため、トウジは思わず生唾を飲み込む。
「アイス、買ってこっか」
「…アイス?」
「レイにおみやげ。心配させちゃったみたいだし、ご飯も遅れちゃったから、きっとお腹空かせてると思うの」
 言って、ユカは近くのコンビニを指さした。
「そ、そんな恰好でか?」
「……あ、そっか」
 トウジに言われて、ユカは自分の胸元に目を落とした。ややあって、赤い顔で傍らのトウジを見上げる。
「やっぱ、わかっちゃう?」
「…あー……、まぁ、な……」
 もちろん透けて見えたりするわけではないのだが、他の男の視線にユカの躯を晒させたくない。
「これ、着ろや」
 そう言って、トウジは自分が着ていたジャージの上着を脱いでユカの肩にかけた。ユカが持っていた鞄を取って、辺りを見回すようにしながら足を止める。その頬が少し紅くなっていた。
「あ、ありがと……」
 まだ体温の残っている上着に袖を通しながら、ユカは真っ赤な顔で言った。
(トウジの匂いがする……)
 まるで彼にそっと抱きしめられているみたいで、それだけで胸がどきどきしてくる。こんな風に同じような恰好で並んで歩いていると、なんだか銭湯帰りの若夫婦みたいで、ちょっと嬉しい。
「いこっ」
 きゅっとトウジの手を握りしめて、ユカは歩き出した。
「いらっしゃいませー」
 店員の女の子の明るい声をぼんやりと聞きながら、トウジは店内を見回した。
 ピークは少し過ぎたのか、店内に人はまばらだった。スーツ姿のサラリーマンや大学生風の男が雑誌を立ち読みしている以外は、他に客の姿はない。
「トウジ、何がいい?」
「抹茶金時」
「じゃ、わたしチョコクッキー。レイは何がいいかなぁ。……あ、みてみて、ビールアイスだって。ヘンなの」
 見た目は普通のかき氷タイプのアイスだ。黄色い色のついた氷の上に、泡をイメージしているらしいバニラアイスがのっている。パッケージはちょうど生ジョッキみたいな感じで、あからさまにあやしい感じがする。「生爽快!」とかいう胡散臭さ大爆発のド派手なロゴが一層怪しさを助長する。
「……うまいんか、コレ?」
 とりあえず人間の喰うものではない気がかなりする。
「わかんない」
 思わず手に取ってしまったが、食べてみたいような食べたくないような。さすがにアルコールは入っていないようだが……なにゆえに麦芽とホップが原材料表示にあるのやら。作った人間の正気と味覚を疑いたくなるような代物である。酔った勢いにまかせて軽いノリで作った企画が何故か通ってしまって、今さら後には退けなくなったという感じだ。売る気があるんだかないんだか。
「ま、いーや。ミサトさんに買ってってあげよ」
「おいおい」
 簡単に言って、そのアイスをかごに放り込むユカに、トウジは苦笑した。


 コンビニを出てしばらくはご機嫌だったユカだが、マンションが見えてくるにつれて、足取りが重くなり始めた。
 レイのことを放ったらかして自分の欲望に身を任せてしまったことが、やはり気まずいのだろう。少し俯き加減に歩くユカの横顔を見やったトウジは、つないだ手を軽く握りしめた。
「綾波にはワシから言うといたし、文句があるんやったらワシに言うてくるやろ。せやから、そんな顔すんな」
 というより、確実に恨まれている。文句ぐらいですめば可愛いものだが、そもそも口数の少ないレイのことだから、怒り方がちょっと予想できないだけに、かなり怖い感じである。内心、戦々兢々としているトウジであった。
「でも……」
「そら、ちゃんと謝らなあかんけどな。まあ、大丈夫やろ」
 笑みを浮かべながら言って、トウジはユカの手を引いた。
 マンションの前に、人影が見える。
 腕の中に温泉ペンギンを抱いた蒼銀の髪の少女は、その真紅の双眸をじっとこちらに向けていた。表情はいつもと変わらないのだが、罪悪感がそう見せるのだろうか、なんとなく怒っているような気もする。
 思わず立ち止まったユカは、つないだ手にきゅっと力を込めた。
「あ、あの……」
 トウジの手を握ったまま、ユカは気まずそうに声をかけた。が、その先を言う前に、レイがホッとしたような笑みを浮かべながら口を開く。
「…おかえりなさい」
 その言葉を、レイの口から聞いたのは初めてだった。ビックリした顔で、ユカはぽかんとレイの顔を見つめていたが、つないだ手が軽く引っ張られる感触に、ふっと傍らの少年を見上げる。
 ――ほらな?
 そんな感じにトウジは笑みを浮かべた。つられるように微笑むと、ユカはレイに向かって言った。
「ただいま」
「クアァ」
 それに応えるように、レイの腕の中でペンペンが甘えたような声をあげる。くすっと笑って、ユカはペンペンの咽喉を指先でくすぐった。
「ただいま、ペンペン。すぐにご飯作るからね」
「クァ〜」
 嬉しそうに羽根をばたつかせるペンペンをレイの腕から受け取って、ユカはトウジを振り返った。
「ね、トウジもご飯食べてくでしょ?」
「ん……あー、そうやな……」
「……」
 自分が夕食をご馳走になるだろうと疑ってさえいないユカの瞳に、トウジはちょっと困ったように笑みを浮かべた。ユカは気付いていないのだろうが、さっきからレイの冷ややかな視線が全身にザックザク突き刺さっている。まるで、さっさと失せろと言わんばかりに。とにかく居心地は最悪である。とても落ち着いて飯など食える状態ではない。が、かといってユカの誘いを断るというのも、トウジには難しいことだった。
「この際、外で食べへんか? 今から飯作るんは大変やろ」
 少しばかり引き攣った顔で、少年は打開策を提案する。
「そうでもないけど……でも、たまにはいいかな。レイもそれでいい?」
「……ええ」
 トウジの目にはイヤイヤ頷いたように見えたのだが、ユカは気付かなかったようだ。にっこりと笑うと、腕の中のペンペンの躯を軽く揺すり上げた。
「じゃあさ、ペンペンのご飯を用意して、ついでに着替えてくるから、ちょっとここで待っててくれる?」
「おお、ええで」
 本音としては、今ユカにここを離れられると命が危険な気がしてならなかったが、そんなことはおくびにも出さずにトウジは頷いた。
「すぐ戻るから」
 言って、ユカがマンションの中に消えていく。
 その背中を見送っていたふたりの視線が、不意に交わる。
 真夏の空気が殺意と共に瞬時に凍りつく涼やかな音を、トウジは聞いたような気がした。
つづく


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  あとがき

 大変お待たせしてしまいました。カレカノ#27です。
 前回、欲求不満に負けてかなり無理矢理にえっちシーンを入れてしまったため、その反動でプロットが大幅に崩れてしまいました。おかげでこんなもんでお目汚しです。
 本当なら、農協の話はちゃちゃっと済ませて、とっくにアスカを出してるハズなんですが……。
 その前にもう1話ぐらい入ることになりそうです。こちらの方は既にプロットが出来てるので、すぐにお届けできるでしょう――…てなことを言えるとなんかプロっぽくてカッコいいんですが、何ごとも電波次第なきたずみの場合、そんな都合の良い状況はあり得ないんですねぇ``r(^^;)。
 とりあえず、カレカノの続きを書く前に、ほったらかしたまま二度目の秋を迎えてしまった「真夏〜」をまず何とかしないと人としてまずいだろう、という感じなので、続きはその後ということで。
 ……って、宣言しちゃったからには書かなきゃいけないんだよね(^^ゞ
 さあ、崖っぷちだ(笑)。

P.S.
 下にきたずみあてのメールフォームを用意してみました。まだテスト運用中ですが、よかったら何かメッセージを書いてください。きちんと動かなかった時は、その旨を掲示板にでも書き込んでくださると嬉しいです。
 よろしくお願いします。

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