第壱話 昼に醒めてみる夢
目醒めの気分は、いつも最悪だ。
至福の時間の終わり。辛い現実の再開。嫌な一日の始まり。
朝は嫌いだ。
「……またこの天井か」
幼い頃から、目醒めるたびに眺めてきた木目。いつの頃からか、見るのも嫌になった。だって、ここが現実だという証だから。
溜息ひとつ吐いて、起き上がる。いつまでもぐずぐずしてはいられない。
寝坊をしている時間なんて、僕には与えられていないから。
ほら。障子の向こうに、もう気配がする。僕を起こしにきたんだ。
別に声をかけるわけでもない。でも、気配で僕を威圧する。そして、僕が起きたのを気配で確かめると、そのまま離れていく。
それが僕の父さん。
言葉なんか交わさない。視線なんか合わせたこともない。
僕の部屋の前に来るのだって、単に通り道というだけ。無駄を省きたいだけ。優しさを期待するのは、七年前にやめた。
母さんが死んだから。
父さんにとって、僕は母さんの息子でしかないんだと解ったから。あとは、利用して使い捨てるだけの道具。
僕以外に、纏衣を繰れる者がいないから。
ただ、それだけ。
僕も、父さんの傀儡でしかないんだ。
着替えて、稽古場へ。
すると、既に父さんが待っていた。
一部の隙もなく衣を纏って、扇を膝の脇に置いて。
いつもの光景。僕は黙って正面に座る。
「始めろ」
抑揚のない声で、父さんが命じる。
感情など、初めから持っていないかのように。どんな表情をしてるかなんて、見ない。見たくない。
だから、僕は言われるがままに、舞う。
心を閉ざして。
ただ、傀儡のごとく。
「そこまで」
どれほどの時が過ぎたのか。
父さんのその声で、僕は遊離していた心を現実に立ち帰らせる。父さんの視線を頬に感じることもある。でも、何も言わない。ただ、
「フッ」
と、いつものように小さく嗤うだけ。
満足そうに。僕が従順な傀儡であることを確認して、父さんは稽古場を出ていく。
そこで初めて、僕は全身汗だくになっていることに気付く。
溜息をひとつ残して、僕は風呂場に向かう。
擦れ違う者はない。この広い屋敷に、僕と父さんの二人きり、なんてことはない。ただ、家の者は僕の前には姿を現さない。
だって、僕は依童だから。
神の器を纏うものだから。
神だろうと物の怪だろうと、人にとって、得体の知れぬものは畏れの対象でしかない。
だから、誰も僕には触れない。
でもいい。一応、世話はしてくれるから。湯は沸かしておいてくれるし、着替えも用意してくれる。部屋に戻れば食事も届いているだろう。
僕は何もしなくていい。
だって、僕は傀儡だから。
一人でいることを、苦痛に感じたことはない。
父さんと二人きりでいるほうが、苦痛だ。他人といるほうが辛い。
でも、君となら平気なんだ。君にならなんだって話せる。君といる時は、僕は嘘の仮面を被らずに微笑えるし、泣けるんだ。
君に逢いたい。
……朝は、いつも思う。
早く夜にならないかな、って……
君に言ったら、また叱られるかもしれないけど。
空を見上げるたび、無性に君に逢いたくなる。
君の綺麗な瞳を思い出すから。
今日は好い天気だ。陽は燦燦と照って、躰を温めてくれる。それはそれで心地好いけど、昼寝をしても君に逢えたためしはないから。
だから意味はない。
朝の稽古が終われば、僕にはもうすることがない。手習いは幾つかあるけど、誰が教えてくれるわけでもないから無意味だ。僕に読み書きや算術を教えてくれたのは母さんだった。
というより、僕に何かを教えてくれる人なんて、他にはいない。
父さんのは、教えるとは言わないし。
そこまで考えて、ふと部屋の隅を見やる。壁に立てかけられたままの月琴。母さんが、たった一つ僕に残してくれたもの。
母さんのことを思い出して、僕は月琴を手に取った。
奏でるつもりはなかった。母さんに教わって、一応弾けるようにはなったけど、こんなところで弾きたくなかった。
父さんに聴こえるところでは。
屋敷にいるかどうかは、知らないけれど。
ろくに手をつけていない食事の膳を見やって、僕は溜息を吐いた。ここにいると気が滅入る。何処かに行きたいな……。
そう考えて、それはすごくいい考えに思えた。
べつに、外出が禁じられているわけじゃない。どうせ、僕には他に行く所なんかないんだから。ただ、屋敷の周りは野っ原で、一番近い町でも三里(一里は約四キロ)は歩かないといけない。
こんな辺鄙なところに、なんで屋敷なんか建てたんだろう。
まあ、どうでもいいけど。
僕は月琴を担ぐと、厩に向った。繋いである馬のうち一頭、葦毛の牝馬に近づき、僕はそっと手を伸ばす。
馬は、前に一度乗せただけの僕を覚えていた。
僕をその黒い大きな瞳でじっと見詰めてから、鼻を鳴らして、僕が鬣を撫でるに任せた。嬉しくて、自然に笑みが零れた。
「散歩に行きたいんだ」
そう言うと、馬は飼葉から顔を上げた。
「付き合ってくれないかな」
彼女に跨り、手綱を握って、何故か開いたままの門を潜る。
誰も咎めたりしなかった。ただ、後ろから気配が尾いてきたのは解った。彼女が教えてくれたからだ。家の者が監視のために尾いてきたらしい。
でも、気にしなかった。彼女に任せて、僕は流れる景色と風の感触を楽しんだ。久し振りに、声を立てて笑っていた。
しばらく駈けて、せせらぎの近くで彼女が足を止めた。僕は彼女から降りて、川の水を掌に受けて一口含んだ。すごく美味しかった。
彼女も僕の掌から飲んだ。たぶんまどろっこしかったんだろうけど、我慢してくれたようだ。後で、自分で飲んでいたけど。
僕は月琴を傍らに置くと、草の上で寝転がった。鞍と鐙がなかったので、少し尻が痛い。でも気持ち良かった。汗ばんだ膚を撫でる風の感触が心地好い。
そうして、しばらく流れる雲を眺めていた。
そして、不意に君を思い出した。
君に聴かせてあげたいと思った。だから、月琴を手に取った。
そして、弾き始めた。
鳥の囀りと、風の音にあわせるように。
たぶん、僕はとても倖せだったんだと思う。
気がつくと、泣いていたから。
彼女に頬を舐められて、はじめて気付いた。
陽は、とうに中天に差し掛かっていた。
「……帰らなきゃ駄目かな」
言ってみただけだ。
誰も答えなかったし。
「帰ろう」
諦めるように呟いて、彼女に跨った。
これも、きっと夢と同じなんだろう。でも、昼に見る夢なら、これでもいいと思った。夜、君に逢うまでの暇つぶしなら。
だから、僕は帰った。
家という名の、牢獄に。
自分から。