第弐話 纏衣
穏やかではないけれど、何もない日々は続く。
たぶん、僕が死ぬか、父に必要とされなくなる日まで。
それまで、夢の逢瀬は続き、昼に見る夢も続く。そう思っていた。
……その時までは。
その日、いつものように野駈けに出ようとした僕を、家人がひき止めた。
「お父上がお呼びです」
抑揚のない声、表情のない顔。父にそっくりな――僕と同じ、傀儡たちが言う。いや、伝える。父の命令を。
僕には従うしかなかった。
「どこで?」
「稽古場でお待ちです」
「解った」
そのままの格好で、僕は父の前に出た。
父は、いつものように無言で、僕を眺めていた。その沈黙がいつまで続くのだろうと僕が思い始めた頃、不意に口を開いた。
「明日、依童が二人届く」
唐突な言葉だった。
依童。僕と同じ半人。神と同化する魂の持ち主。
「お前の妻だ。好きにしろ」
「……」
その瞬間、僕は目の前のこの男を本気で殺してやろうと思った。
この男は、母さんと同じ思いをさせるつもりなんだ。僕という依童を産むためだけに、母さんを妻にしたように。
だが、断れば二人がどうなるかも見当がついた。
どのみち、僕に拒否権はないのだ。
「はい」
望み通りの言葉をくれてやる。
僕は傀儡だから。
「それだけですか」
「もうひとつ。纏衣を起こす準備をしておけ。もうすぐ必要になる」
「……はい」
纏衣を起こす? 必要になる?
どういうことだろう。この中つ国は、長らく戦乱がない。纏衣を起こす必要なんて、ない筈なのに。
敵が攻めてくるっていうのか?
でも、敵って……なんだ?
僕は父の瞳を見た。が、すぐに目を逸らした。
父の瞳は、嗤っていた。
禊をして、僕は屋敷の地下に造られた岩室に潜った。
いや、それは正確ではないのだろう。岩室の上に屋敷を造ったのだろうから。どう考えても、これは神代に造られたものだ。
地下とは思えないほど広大な空間。闇を切り裂く熱のない炎。純粋なる光。影が幾重にも床に刻まれ、眩しさに僕は立ち竦む。空間の広さに比べると、そこで忙しく立ち働いている連中がまるで蟻のようだ。
「シンジ様が到着なさいました」
「了解。術式準備。解凍作業急げ」
「シンジ様、こちらへ」
黒衣衆の一人が、そう言って僕を誘う。
黒衣衆――纏衣を扱う神官。彼らにとっては、僕など纏衣の部品の一つでしかない。なのに、彼らは僕を名前で呼ぶ。まるで記号のように。
彼らに差し出された衣を受け取り、僕は個室に通される。何もない部屋。そこですることといえば、着替えることと待つことだけだ。
ふと、今は夜なのだろうかと想った。が、すぐにその思いを頭から振り払う。どうでもいいことだ。ここは異界。昼も夜もない世界。神の器の眠る宮。ここには夢は届かない。だから君には逢えない――たとえ、今が夜だとしても。
だから、僕は眠らなかった。
改めて、己の姿を見下ろす。躰にぴったりと貼りつくような、それでいてなめし皮のような固さを持ったその衣は、纏衣を繰るときには必ず纏うという決まりだ。でも、おかしなことなのだけれど、この衣に違和感を覚えているのは確かなのに、僕の中にこの感触を懐かしいと思う誰かがいる。たぶん、遠い昔、神代の頃の『僕』だった僕の記憶だろう。
依童は記憶を繋ぐ――そう言われている。先代の依童も、同じように過去の記憶をもっていたという(ちなみに、依童が家督を継ぐことはまずない)。依童は魂の不死者といってもいい。死んでも必ず同じ記憶を持って生まれてくる。だからきっと――
「シンジ様。準備が整いました」
「わかった」
思考を寸断させて、僕は立ち上がった。膚に貼りつくような衣が軋むような音を立てる。黒衣衆の一人に案内されて、細長い通路を行く。
開けた視界に映るのは、一面の赤い湖。そして、その只中で未だ微睡む神の器。
鋭く長い角、躰を覆った頑強な鎧。その双眸は未だ開かれず、躰は依然拘束されていた。
無論、それでいい。今はまだ、神を眠りから醒ます気などないのだから。
――これが纏衣。
人の形をした巨神。神の姿を似せたもの。神の器。魂の容れ物。
僕が繰る、傀儡。
見上げるような巨体には、依然慣れない。こんなものを平気で扱える黒衣衆の神経が解らない。だが、考えようによっては彼らも僕と同じだ。
僕が纏衣を繰るために在るように、彼らは纏衣を扱うために在る。秘中の秘として、生まれる前から黒衣衆に加わることを運命付けられ、そして子に伝承の技を伝え、死んでいく。誰にも看取られることなく。
彼らも僕も、所詮は傀儡でしかないのか――
そう思いながら、僕は黒衣衆に促されるままに細長い円筒の中に身を滑り込ませた。
中には座席があって、これが僕の躰にぴったり合う。これが魂の座。
「準備はよろしいですか」
何処からともなく声がする。脇を見やると、何もないはずの壁に窓が開いていて、目許に泣き黒子のある女がこちらを覗いていた。
最初は戸惑ったが、べつに穴が空いているわけではないらしい。説明する気があるのかないのか、女の台詞は冗長で、結局解らなかったから途中で聞くのは止めた。どうせ説明など無意味だ。僕の躰が、魂が全てを識っている。
「やってくれ」
「はい」
言葉と同時に、薄黄色の液体が筒の中に満ちていく。最初は溺れると思ったが、不思議と呼吸が出来た。
「接続開始」
頭の中がザワザワする。僕の中に誰か別の人間がいる感じ。でも何処か懐かしい感じ。いつまで経っても慣れない感触。好きじゃない。
僕の輪郭がぼやけていく。僕は纏衣の躰の中にいるのに、知らず纏衣の躰が僕の躰に変わっていく。視野が広がり、感覚が拡大する。固唾を飲んで見詰めている黒衣衆の呼吸音や心臓の鼓動、先刻の女が傍らの部下と話している会話など瞳で聞き取れる。
でも、意味ははっきりと解らない。今の僕にとっては、虫の羽音と同じだ。ただの雑音。耳障りだ。潰してやろうか。
「シンジ様…!?」
そう思った瞬間、右腕が拘束具を引き千切って振り上げられたので、女が狼狽えたように呼びかけてきた。その顔が面白かったので、潰すのは止めた。
纏衣を繰るたびに、僕は胸の内から込み上げる衝動を抑えるのに苦労する。
それは破壊衝動。全てを破壊してやりたいという気になる。それだけの力を持っているから。
で、そのたびに父の顔が浮かび、怒りが冷えていく。
纏衣の力を借りて殺すのは嫌だった。父を殺すのは、僕のこの手でなければならない。すべてを消し去るのは、その後でいい。
だから、僕は口許にうっすらと笑みを刻む。父のように。
「――問題ない」