EVANGELION:REVERSE
〜真


Written by:きたずみ
EPISODE:03 Two years ago(2)

 その頃――
 少年たちが対峙しているとも知らず、件の少女は一心にチェロを弾いていた。
 茜色の残照が射し込む音楽室には、もう誰も残っていない。だが、それすら気付かぬように、真子は目を閉じて手を動かし続けた。
 額に浮いた汗が、光を浴びてきらきらと輝きながらあたりに飛び散る。眉間に寄せられた皺が、朝とはまるで違うことを示していた。どうしても音に入っていかない。何か見えない壁でもあるように、あと一歩が踏み込めない。
 朝と違うことと言えば、郁の存在である。そして、彼女の精神状態も決して好ましいものではなかった。
 音に集中しなければと思う頭の隅で、つい郁のことや玲のこと、飛鳥のことを考えてしまう。何故郁に惹かれるのか。何故、玲や飛鳥に対して郁はあんな態度をとったのか。睨み合う玲と飛鳥。
 訳が解らなかった。普段のじゃれるような喧嘩とは雰囲気が違った。あんな二人の顔は見たことがなかった。
 怖かった。知らない人のような感じがした。そして、同じように郁も怖いと思った。他人が何を考えているのか解らなくて怖いと思ったのは初めてだった。
(どうして仲良く出来ないんだろう)
 みんな一緒ならもっと楽しいのに。そう思う。
 自分が争いの焦点になっているとは、夢にも思わないのが真子である。
 彼女にとって玲や飛鳥は異性ではなかった。もっとも身近にいる他人、即ち家族である。その意味では、郁は真子が初めて異性として認識した存在といえた。
 脳裏を郁の涼やかな笑みが過ぎる。胸の奥が微かに疼く。甘く、くすぐったいような感覚と、何かに追いたてられるような焦燥感がそこから湧き起こってくる。
「――っ!」
 その瞬間、指先に鋭い痛みが走った。ハッとして手を止めると、滑った指先に血の玉が浮いていた。
「痛……」
 こんなことは久しくなかった。傷ついた指先を口に含み、傷を確認する。痛みのわりに傷は浅く、指を動かすのに支障はない。そのことにホッとしながら、真子は指先を口に含んで血が止まるのを待った。
 そのまま、ぼんやりと窓の外を見詰める。カーテンを揺らしながら吹き込んできた風が、火照った肌に心地いい。
 先刻までは気付かなかった蝉の声が、やかましく聞こえ始めていた。
 ふと時計を見やって、真子は慌てた。
「あ! 晩御飯のお買い物!」
 思い出すのがこういうことであるあたり、主婦がすっかり身についてしまっている。冷蔵庫にあるものを思い返し、晩御飯の献立を考えながらチェロを片付けて、真子は窓を閉め、音楽室を出た。
 音楽室の鍵を職員室に返しに行って、教師の「早く帰れよ」という声を背に聞きながら、靴箱に向う。
「あ……」
 そこで、真子は足を止めた。
 夕陽に照らされた靴箱の傍で、一人の少年が待っていたからだ。
「飛鳥……」
「お、おう。遅かったな」
 びくんと肩を震わせて、燃えるような金髪を夕陽に照り映えさせた少年は、微かに頬を紅く染めながら真子に振り返った。
「待っててくれたの?」
「お、おう。まぁな」
 幼馴染みの少女の嬉しそうな笑顔に、飛鳥はさらに顔を赤らめた。変に意識してしまって、まともに顔が見られない。夕陽に誤魔化された所為か、生来の鈍感さゆえか、真子は気付かなかったようだが。
「部室で待ってればいいのに」
「いいじゃねーかよ、別に」
「?」
 あんな話の後で、なんとなく顔を合わせづらかったなどとはいえない。何故か郁も玲も、今日は真子を待たずに先に帰った。二人きりになる絶好のチャンスである。
「あ、ボクちょっとスーパーに寄らなきゃいけないんだけど」
「いいよ、付き合うよ」
「ほんと? じゃ、今晩は飛鳥の好きなものにしてあげようかな」
「じゃ、ハンバーグな」
「ん。いいよ」
 とんとんと爪先を鳴らして、真子は飛鳥を見上げた。小学校の頃は、二人の身長は大して変わらなかったのに、今では飛鳥の方が頭一つほど高い。中学に入ってから、玲も飛鳥もあっという間に真子より大きくなってしまった。
「男の子って、すぐ大きくなるんだね。ついこないだまでボクとおんなじだったのに」
「い、いつの話してんだよ、バカ」
 言いながら、飛鳥は自分を見上げる真子の可憐さを再認識して、動悸が高まっていくのを止められなくなっていた。
 細い肩、抱き締めたら折れそうな腰、すらりと伸びた細い足。短めの黒髪は彼女の顔立ちを際立たせ、ちょっと首を傾げるようにして自分を見上げてくる純真な眼差しは、たまらなく可愛かった。
 このまま彼女を抱き締めてキスしたい衝動に駆られるが、そんなことをするほどの度胸があれば、今まで告白もせずに悶々とはしていない。
「い、行くぞ、ほら」
「うん」
 さっさと背を向けて歩き出す飛鳥の横に、真子は小走りに追いついた。それに気付いて、飛鳥は歩調を緩める。
 しばらく、二人は無言で歩いた。夕陽が二人の影を長く伸ばしている。
(え、えーと、わ、話題、話題は……)
 気まずさを覚えながら、話しかけるタイミングを掴めない飛鳥と、飛鳥の反応を奇妙に思いながら、黙っている真子。
「――痛……」
 ふと、髪をかきあげた真子の動きが止まった。無意識の動作だったのだろう、つい怪我していたことを忘れてしまったらしい。指に走る痛みに一瞬顔をしかめた真子に、飛鳥は先刻までの気まずさなど忘れてしまった。
「どうした? 怪我したのか?」
「え? あ、うん、ちょっと」
「見せてみろ」
「だ、大丈夫。ほんと、大したことないから」
「いいから見せろ」
「平気だってば」
 真子は思わず手を隠そうとするが、飛鳥はその手首を素早く掴んで引き寄せた。その強引さに、真子の頬がかぁっと紅く染まる。真剣な表情で真子の傷の具合を確かめる飛鳥に、真子の心臓がどくんと大きく跳ねた。
 真子の言った通り大した怪我ではないのを見てとって、ホッとしたように息を吐いた飛鳥は、そこで初めて自分が真子の手をとっていることに気付いた。今のこの体勢は、まるで自分が真子を抱き寄せようとしているみたいだ。そんな己の考えに真っ赤になりながら、同じように頬を赤らめて自分を見上げている真子の潤んだ黒瞳に、半ば吸い寄せられるように躰が動いていた。
(!)
 一瞬、自分が何をしているのか解らなかった。甘やかな汗の香りがふわりと鼻孔を擽る。腕の中には得も言われぬ柔らかい感触があって、すぐ近くで真子の瞳が驚いたように自分を見詰めている。
 そして、触れ合う二つの唇。頬にかかる鼻息。自分の胸に押し当てられた真子の手が、徐々に力を失っていく。
 そして、ゆっくりと伏せられていく真子の瞳。長い睫毛が頬に影を落とす。
 どれくらいの間、そうしていたのだろう。ただ唇を重ねるだけの、つたないキス。だが、二人は唇越しに伝わる柔らかさと温もりに酔い痴れて、時を忘れていた。もっと真子を感じたくて、半ば本能的に腰に手を回し、舌先を伸ばしていく。
 その瞬間、びくんっ、と躰を震わせる真子。その動きにハッと我に返って、飛鳥は唇を離した。
(お、俺は今、何を……)
 驚いたように真子を見詰め、恐る恐る自分の唇に指先を這わせる。閉じられていた真子の目が開き、潤んだ双眸が揺れながら自分を見詰めてくる。その表情は哀しげにも、また切なげにも見えた。
「……どうして?」
「あ、い、いや、これは――」
 狼狽える飛鳥とは対照的に、真子は冷静な声音で尋ねた。
「どうしてキス……したの?」
「い、いや、はずみっていうか、その、つい……」
 焦るあまり、しどろもどろになって訳が解らなくなっている飛鳥は、真子の黒瞳が哀しげに伏せられたのに気付かなかった。
「……そう」
「あ、お、おい……」
 するり、と掴んでいた手から真子の細い手首が抜ける。
「早く行こう?」
 何もなかったように微笑む真子に、飛鳥の胸にずきりと痛みが走った。このまま彼女を離してはいけないという強迫観念に衝き動かされるように、飛鳥は真子の手を握っていた。
「あ……」
 驚いたように自分を見上げる真子の方を見れぬまま、そっと指を絡める。真子の細い指。柔らかな掌。握ったら壊れてしまいそうなその手を、そっと掌の中に包み込む。そのまま、飛鳥は真子の手を引いて歩き出した。
「……久し振りだね、こういうの」
「ん……、ああ、そだな」
「昔はよく手、つないだのにね」
「ああ」
「いつからかな、手つながなくなったの」
 その言葉に、飛鳥は黙った。
 それは小学五年の頃。クラスメートにからかわれた時だ。小学生の頃はよくあった。女子と仲良くしていると、必ず騒ぎたてる奴がクラスに一人はいた。
 その時も、無視すればいいものを、思わずカッとなって反論してしまった。何を言われたのかとか、何を言ったのかとかはよく覚えていない。ただ、そのときの真子の寂しそうな表情だけは、脳裏に焼き付いていた。
 そしてそれ以来、真子と手をつなぐことはなくなった。
 久し振りにつないだ真子の手は、小さくて、柔らかかった。触れ合う肌越しに伝わる温もりと互いの心臓の鼓動を、飛鳥は大切に思った。
「……なに考えてた?」
「小学校の時のこと。ボクとのことからかわれた飛鳥がムキになって、こんな奴なんとも思ってないって」
 そんなひどいことを俺は言ったのか、と飛鳥は愕然とした。そして、それをすっかり忘れていた自分に腹が立った。
「――ゴメンな、ひどいこと言って」
「え?」
「カーっとなると俺、訳わかんなくなって、思ってもないこと言っちまうんだ。ホントはそんなこと、全然思ってないから」
「……うん、わかってる」
 長い付き合いだからね、と真子は小さく笑った。
「でも、悲しかったんだよ。すごく」
「ごめん」
「いいの。もう」
「でも――」
「……いいの」
 遠くを見詰めながら小さく首を振る真子に、飛鳥はもう何も言えなかった。自分は彼女を傷つけてばかりだ、と自己嫌悪するあまり、飛鳥は自分の衝動的な行動が真子を傷つけていることに、またしても気付かなかった。
「ね、つけ合わせ、何がいい?」
 カートを押しながら、真子は飛鳥を振り返った。先ほどまでの気まずさは何処へやら、慣れた仕種で目利きをして、商品をカゴの中に入れていく。
「何って、普通のでいいよ」
「いーかげーん。普通って言われてもなー」
 真子の料理なら本当は何でもいい飛鳥には、そんなことを訊かれても良く解らない。そんな飛鳥を一瞥して小さく頷いた真子は、レタスとトマトをカゴに入れた。一緒にハーブも買い込んでいる。どうやらイタリアンサラダにするつもりらしい。
「あ、ねぇ飛鳥、何か欲しいものある?」
「えっ?」
 半ば真子に見惚れながらぼんやりと後ろを歩いていた飛鳥は、思わず間抜けな答えを返してしまった。
「どうしたの? ぼーっとして」
「な、なんでもねーよ」
 つい先刻奪った唇の動く様がやけに艶めかしく映って、思わず頬を赤らめ、ぷいと目を逸らす飛鳥。すぐ近くで無造作に自分を見上げてくる真子にどきどきしながら、自分一人が舞い上がっているみたいで笑えてくる。
「へんなの」
 ちょこんと首を傾げ、小さく笑って歩き出す真子。ほんの数分前にキスしたばかりだというのに、まるで何事もなかったかのように平然としたその態度が、飛鳥の苛立ちを誘う。まるで子供のようにあしらわれている気がする。
(何でそんな平然としてられるんだよ――)
 そうは思うが、俺とキスしたのに何で平気なんだとは、とても訊けない。それだけに、苛立ちは一層募る。何でこんなに苛々しなければいけないのだろう。答えは解っている。真子の気持ちが解らないからだ。そして、あんな風にキスしておきながら、「好きだ」の一言もいえない自分が情けないのだ。
 真子にとって、自分はその程度の存在でしかないのか、と思う。彼女が自分をどう思っているのか解らない。
 キスした時、真子は嫌がるような素振りは見せなかった。本当に嫌なら簡単に撥ね退けられたはずだし、少しでも真子が嫌がっていれば、それを無視して無理矢理キスするような真似は飛鳥には出来なかった。
 なのに、今は――
 店内に流れる有線の曲を口ずさみながら、てきぱきと売り場を移動して食品や日用品をカゴに入れていく真子の背中を目で追いながら、飛鳥は小さく溜息を吐いた。
(マジ解んねぇ……何考えてんだよ)
 辺りを何気なく見回す。時間的に主婦が多いが、新婚らしい夫婦やカップルの姿もちらほらと窺えた。何気なく腕を絡め、微笑みを交わす彼らの顔は倖せそうで、それに対して自分は何なのかと思う。
 真子の後ろをただついて歩くだけならカルガモや玲でもする。今の二人を見て、恋人だと思う奴はいないだろう。
 何で真子は自分の傍にいてくれるのだろう、と考えて、ふっと口許を歪める。
(幼馴染みだから、か)
 自嘲気味な笑みを口許に浮かべ、飛鳥は微かに鼻を鳴らした。
『悪いわね、真子ちゃん。飛鳥のこと、頼むわね』
『はい、鏡子さん』
 三年前に自分を置いて海外に行ってしまった母親と、幼馴染みの少女の会話が、不意に脳裏を過ぎる。
 息子より研究を選んだ母と、彼女の代わりに飛鳥の母になろうとした少女。自分と真子を繋ぐものは、それだけだ。幼馴染みでなければ、こんな風に真子と一緒にいることはなかっただろう。
(お袋に頼まれてるから……幼馴染みだから……それだけか)
 確かめてもいないのに、そんな風にすぐ悪い方へ考えてしまうのは、飛鳥の悪い癖だ。もっとも、不安なら訊いてみればいい、というのは他人だから言えることで、他人にとっては些細なことでも、本人にとっては物凄く勇気のいることだったりするのだが。
 ふと首を巡らせると、お菓子をねだっている子供の姿が目に止まった。母親の服を掴んで、良く解らない理屈をこね回したりしている。
「なに?」
 すぐ耳許で聞こえた声にハッと我に返ると、真子が隣で自分の視線を追っていた。その顔が不意に強張る。
 辺りを憚らぬ大声で泣き喚く子供と、困ったようにそれをあやす母親――
 ひたすら無防備に母に甘える、そんな当り前の記憶が、二人にはない。いや、探せばあるのかもしれないが、思い出すことが出来ないくらいに少ない。
 真子が物心つく前に結衣はこの世を去り、鏡子はいつも家を空けてばかりいた。子供より研究の方が気になる、そういうタイプの人間だった。だから二人とも、あんな風に駄々をこねた記憶は、ない。記憶の始まりは大抵、真子と玲と飛鳥が三人で遊んでいた。例えば夕暮れの公園。他の子供達はお母さんが迎えに来るのに、三人に迎えはこなかった。
 一人ずつ減っていく友達を見送って、三人は誰からともなく手をつないで一緒に帰るのが常だった。そして、真子の家で玄道が帰ってくるのを待つのだ。
 これは誰も信じないのだが、真子の料理は実は玄道仕込みだったりする。玄道はああ見えて結構まめで、真子が大きくなるまでは、玄道が家事と仕事を両立させていたのだ。今の姿からは、当時の面影などこれっっっぽちもないが(力説)。
 そこまで考えて、自分はあの髭の手料理で育ってしまったのかと思うと、ちょっと気分が悪くなる飛鳥だった。
 脳裏には、あまり想像したくはないがエプロン姿のアレが微かに残っていたようないないような……。ほとんどR指定ものである。子供心にもかなりおぞましい光景だったらしく、メモリーからは自動消去されていた。
「――行くぞ」
「あ、うん」
 何処となく寂しそうに、そして羨ましそうに親子の姿を見詰めている真子に代わり、カートを押して歩き出す飛鳥。その隣に、真子がすっと並ぶ。
「おかあさんって、いいね」
 ぽつりと真子が言った。飛鳥は答えない。
「ボクも、いつかあんな風になれるのかな」
 少し俯き加減に、そんなことを呟く。
(そ、それって……)
 ――俺の子供が欲しいって意味かぁ〜〜〜!?
 などと妄想が暴走してしまいそうになるお猿な飛鳥には気付かず、真子は通りすがりに幾つかのお菓子をカゴに放り込んだ。置いておけば飛鳥か玲が食べるだろう。
「……どしたの? 顔、真っ赤だよ」
「な、なんでもねぇよっ」
 きょとんとした表情の真子から、飛鳥は真っ赤に染まった顔を背けた。そのままレジに向かいかけて、思わず立ち竦む。
「わぷっ」
 急に立ち止まった飛鳥の背中に鼻先を突っ込んで、真子は抗議の目を向けた。が、それより先に方向転換した飛鳥が、真子の手を引いてすったかすったか歩き出す。
「ど、どうしたの?」
「い、いやあの、ほらなんだ、急に酸っぱいものが食いたくなるっていうか、甘いものが無性に欲しくなるっていうか」
「なにそれ?」
「とにかく、和菓子だ。和菓子にしよう」
「……はぁ?」
 訳の解らないことを言って、飛鳥は真子の手を引いて歩いていく。その背に、ぞわりと鳥肌が総毛だったりしそうな気障ったらしい(飛鳥の主観だが)声がかけられた。
「やあ、真子さんじゃないか」
「郁くん?」
 くるりと真子が振り返る。そこには、スーパーのカゴを提げた姿が妙に似合っている郁が立っていた。
「お買い物?」
「ああ、一人だからね。夕食ぐらい自炊しないと。といっても、まだ片付いてないんだけどね」
「郁くん家って、この近くなんだ?」
「そうなんだよ。偶然だね」
 どうだか、と顔をしかめる飛鳥を、郁は笑み混じりの瞳で見やった。
「一緒に買い物かい? 仲が好いね。そうしているとまるで夫婦みたいだ。妬けるね」
「そ、そんな、夫婦だなんて――」
「ああ、ただの幼馴染みだったね。ごめんよ」
 わざわざ飛鳥の瞳を見て言いながら、郁は真子に極上の微笑みを湛えて訊いた。
「今夜の献立はなんだい?」
「あ、あの、ハンバーグ。飛鳥が好きだから」
「そうなんだ。羨ましいね、きみの手料理を食べられるなんて」
「そんな……」
 必要以上に接近して囁く郁の台詞に頬を染める真子と、それに比して機嫌を悪化させる飛鳥。解っていて煽っているあたり、郁もかなりタチが悪いが、ここまであからさまな挑発に気付かない真子の鈍感さも問題だろう。
「今度僕にもご馳走して欲しいな」
「え……あ、あの……」
 にこやかに微笑んで、あっさりと離れていこうとする郁。
「じゃ、また明日ね、真子さん」
(とっとと失せろ!)
 爽やかに手を振る郁に、真子に見えないよう中指を立てる飛鳥。が、真子の次の発言に、飛鳥は凍りついた。
「あ、あの、郁くん、良かったら一緒に……」
(なに考えてんだ、このバカ!)
「いいのかい?」
 蚊の泣くような小さな声だったのに、しっかり聞きとって素早く戻ってくる郁。真子の手をとって、優雅な笑みを浮かべて見せる。
「ありがとう、とても嬉しいよ。でも、迷惑じゃないかな」
「迷惑に決まってんだろバカ」
「飛鳥!」
 そっぽを向いてぼそりと呟いた飛鳥を睨みつけてから、真子は慌てて笑みを浮かべて首を振った。
「あ、あの、ホントに大丈夫だから。明日のお弁当にも入れるつもりで、いっぱい作る予定だし、一人分くらい全然平気」
「普通遠慮すんだろこういう時は。常識のねぇ奴だな。ていうか帰れよ」
「飛鳥! なんでそんなこと言うの?」
「お前の料理をこいつに食わせたくないからに決まってんだろ!」
「……え?」
 思わず口走ってしまった飛鳥は、慌てて自分の口を押さえた。自分を見詰める真子の視線に、頬が火照ってくる。……どうやら、周囲の人の奇異の視線は、ものの数にも入っていないらしい。
「今……なんて?」
「な、なんでもねぇ! 気の所為だ! 忘れろ!」
 真っ赤な顔で宣告する飛鳥を、郁は笑みを噛み殺して見詰めていたが、やがて堪えきれなくなってクックッと笑声を漏らしはじめた。
「か、可愛いね、きみは。好意に値するよ」
「……き、気色悪いこと言うんじゃねぇっ!」
「そういう意味じゃないよ。友達になりたいって意味さ。ああ、きみとは友情について熱く語らう約束だったっけね?」
「てめぇと仲良くするつもりはねぇよっ!」
「それは残念だな。きみといれば退屈しないで済むと思ったのに」
「何でこの俺様がてめぇの退屈紛らわせてやんなきゃならねぇんだよ!」
「細かいことは気にしちゃ駄目だよ、飛鳥くん」
「〜〜〜〜〜っ。そのトリハダ立つ呼び方止めろ!」
「じゃあ、なんて呼べばいいんだい?」
「飛鳥様と呼べ!」
「よし、折衷案で飛鳥と呼ぼう。僕も郁でいいから」
「勝手に決めるな! 人の話聞いてねぇだろお前」
「さあ、行こうか真子さん」
「俺を無視すんじゃねぇ! ってコラ、馴れ馴れしく真子に触るな!」
「痛いじゃないか飛鳥。挨拶代わりに人を蹴り飛ばす癖は治した方がいいよ」」
「本気で蹴ってんだよボケ! ――って、何で平気な顔してんだよ」
 既に周囲の迷惑も、恥ずかしそうに顔を真っ赤にして身を縮こまらせている真子のことも忘れて大声で喚きたてる飛鳥と、人の話を聞いているのかいないのか、飄々と受け流す郁。
 この騒ぎは、他人のフリをして精算を済ませた真子が店を出るまで続いた。
 無論、帰り道でも同じように不毛な騒ぎが延々と繰り広げられ、沿道のご家庭に多大なご迷惑をかけたことも付記しておかねばなるまい。
 
「……おかえり」
 玄関で真子を出迎えた玲は、その後ろでじゃれ付いている二人を見て僅かに目を見開いてから、嘆息混じりにそう言った。
「ただいま……」
 何故かひどく疲れた顔で言って、真子は手ぶらのまま部屋に上がった。肝心の荷物は飛鳥と郁が持っている。どちらが持つかでもとにかく揉めたのだが、そのことのことはもう思い出したくもないのか、真子は小さく溜息を吐いた。
「お父さんは?」
「まだ」
「そう。……あ、どうぞ、上がって」
「ああ、失礼するよ」
「もちっと遠慮しろよな」
 そういう飛島も、ここが自分の家ではないことを忘れているらしい。
「何処で?」
「あ、うん。スーパーで逢っちゃって。自炊だって言うから、今日ぐらいご馳走してあげようかなって」
「何?」
「ん、ハンバーグ」
「……」
 肉嫌いというほどではないのだが、あまり肉料理が好きではないらしい双子の弟は、案の定、幼馴染みの好みに対し、あまりいい顔はしなかった。といっても、玲の表情を見て取れるのは真子か玄道ぐらいのものだが。やたらと単語の少ない玲のとまともに会話しているあたり、さすがは双子というべきか。他の人間と話す時はもうちょっと喋るのだが、語を費やさなくても意思疎通の出来る人物が相手の時は、単語数が極端に減る傾向にあるのだ。
「今度ちらし寿司してあげるからね」
「♪」
 真子のその言葉に、途端に機嫌が良くなる玲。どうも魚介類に目がないらしく、何よりちらし寿司が好物なのだった。そのわりにツナは嫌いなのだが。
「ここでいいのかい?」
「あ、ありがとう。ちょっと待っててね、すぐ作るから」
 キッチンにスーパーの袋を置いて尋ねる郁の声に、真子はぱたぱたとスリッパを鳴らして走っていった。その背中を目で追って、玲は余計なものをむざむざと連れ込ませた無能な金髪小猿を睨みつけた。
 いつもうるさく騒いでいるのだから、こういう時ぐらい阻止して見せればいいものを。まったく、防波堤の役にも立たない奴だ。
(猿は用済み)
 ……くす。
 ホントに一瞬だけ小さく笑って、玲はリビングに入っていった。
「そんな顔で睨まないでくれよ。怖いじゃないか」
 ちっとも怖がっていない顔で言って、郁は悠然とソファに凭れたまま玲を見やった。その向こうでは、金髪小猿が憮然とした顔で郁を睨んでいる。が、その目が時折キッチンに向けられているのを、玲は見逃さなかった。
 ……むか。
 良く見ないと解らないような青筋をこっそり浮かべて、玲は飛鳥を睨んだ。だが、飛鳥は涼しい顔で気付かぬフリをする。
 点けっ放しのTVは何やら騒ぎたてていたが、そんなものに目をくれている人物は一人もいなかった。リビングで三竦みの状態にある野郎三人の瞳には、キッチンで鼻歌混じりに料理している真子のエプロン姿しか映っていない。
 ……ぱり。
 ふと目を上げると、郁がソファに寝そべって新聞を読みながら煎餅を食っていた。もう馴染んでいる。がさがさと袋に手を突っ込み、がばっと煎餅を掴み取ったのは、TVモニターに目を向けている飛鳥だ。
 お互い、相手のことは見ちゃいない。
 それを、玲は黙って眺めていた。
(男二人が仲良し=ホモ? ……問題ない)
 ……ふ。
 物凄い結論を平然と下し、微かに唇を一瞬吊り上げて笑う玲。飛鳥が知ったら血の雨が降るだろう。郁の方は解らないが。……あまり考えたくない気もする。
「玲、郁くんたちにお茶出してあげて」
 壁に凭れて立っていた玲に言って、真子は再び忙しそうに背を向けた。その言葉に従い、玲は丼に手を伸ばす。
「ちゃんとお湯呑みを使ってね。そーゆう良く解んない意地悪しないの」
 ……見ていないようで見ているらしい。
 どうもこの姉は自分のことを未だに小さな子供と思っているのではなかろうかと思いつつ、そう言われても仕方がないとは思わない玲だった。
 昔から、姉に近づく男にはちまちまと執拗に意味不明の嫌がらせを仕掛けて追い払ってきたが、ついそれを後回しにしてきた奴がいた。金髪小猿である。しかも今回はもっと面倒な相手が一緒だ。この際、直接攻撃の必要もあるかもしれない。
 ……毒でも入れてやろうか。
 怖い考えが頭に浮かぶ。が、手許には毒物になりうるものがない。いっそ酢かタバスコでもぶち込んでやろうか。
 などと考えているとは誰にも解らないくらいの無表情で、玲は淡々と湯呑みを三つ並べてお茶缶に手を伸ばした。姉の目を盗んで調味料を混入出来るとは思えなかったので、異物混入は諦め、取敢えず精神攻撃だけでも仕掛けておくことにする。
 丸いお盆に三つの湯のみを載せ、リビングに戻った玲は、郁と飛鳥の間に腰を下ろした。そして、二人の前にお盆を差し出す。
 二人の手が伸びるのを待って、くるん、とお盆を回した。
「……?」
 二人が怪訝そうな視線を向ける。しかし玲は動かない。微かに首を傾げて、再び二人が手を伸ばす。すると、玲はまたくるん、とお盆を回す。
「……っだーっ、なんなんだよお前は!」
「ロシアンルーレット」
「は? ……って、まさかおまえ――」
「何が入ってるんだい?」
「飲めば解る」
「……なるほど」
 ゆったりと上体を起こして、郁はソファの上で胡座をかいた。血色の双眸が油断なく細められる。煎餅を咥えた飛鳥も、蒼氷色の瞳に不審の色を湛えている。
「当たりは幾つだい?」
 特に何も入っていないように見える湯気の立つ湯呑みを見やって、郁は尋ねた。しかし、玲は答えない。飛鳥は形の良い眉をひそめ、くんくんと匂いを嗅いでいる。特に異常はないように感じる。
 が、ふと瞳を上げた飛鳥の視線に応えるように、玲が口許をくっと吊り上げた。それが飛鳥の神経をざりざりと逆撫でする。
 親の敵でも見るような目でお盆の上の湯呑みを睨んで、伸ばした手を彷徨わせる。どうも決めかねているようだ。
 と、郁と玲があっさり横から手を伸ばして湯呑みを取った。
「あ――――――っ!!」
 大声を上げる飛鳥を尻目に、郁と玲は平然としている。特に玲は平然とお茶を啜っていた。それを見やって、飛鳥はごくりと唾を飲み込む。あれがハズレなら、残る二つの内どちらか、あるいは両方が当たりということになる。
 ちらり、と郁と視線を交わして、飛鳥は湯呑みを掴んだ。そのまま一気に飲み干す。かなり温くなってはいたが、普通のお茶だった。
 それに気付いて、唖然とする飛鳥。だが、そうなれば郁が当たりか――と、にんまりして見やった先では、郁が何もなかったように平然とお茶を啜っていた。かくん、と飛鳥の顎が落ちる。
「な、な――」
「何か入ってるなんて、言ってない」
 ぽつりと言って、玲は飛鳥を見やった。にま、と口許に笑みが浮かぶ。その途端、どうしようもない脱力感と悪寒に襲われて、飛鳥は怒りを忘れてしまった。
「ごはんできたよー」
 とたとたと可愛い足音を立てて真子がリビングに入ってきた時、飛鳥は玲に掴みかかり、それを郁が楽しそうに眺めていた。
「どうしたの? なんか楽しそう」
 そう言って倖せそうに笑う真子の台詞に、三人が唖然となったのは言うまでもない。
つづく


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