EVANGELION:REVERSE
〜真


Written by:きたずみ
EPISODE:04 Two years ago(3)

 食卓には、見事なご馳走が並んでいた。
 ドミグラスソースのかかったハンバーグに、マッシュドポテト、付け合せの野菜ソテー、そしてコーンポタージュとイタリアンサラダ。
「ご飯にする? それともパンがいい?」
 籐の籠に入れたバゲットをテーブルの真ん中に置きながら、真子は男性陣を見回して訊いた。
「あ、僕はパンをもらおうかな」
「俺もパンでいい」
「ご飯がいい」
「わかった」
 郁と飛鳥の二人にバゲットを手渡した真子は、玲の台詞に頷いてお茶碗にご飯をよそった。一緒に箸を渡しながら、郁の方に目をやって、
「郁くん、お箸じゃなくて大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ。ありがとう」
 その台詞に、真子は小さく微笑むと、エプロンを外して席についた。
「「「いただきます」」」
 少年達が唱和する。それに真子が頷いて、食事が始まった。
 肉汁の滴るハンバーグを口許に運ぶ郁と飛鳥の様子をちょっと心配そうに見ていた真子だったが、郁が絶賛し、飛鳥が「うまい」と言って猛然と食べ始めるのを見て、ホッと息を吐いた。それから、肉の苦手な弟に目をやる。
「大丈夫? 無理ならいいからね」
「そーやって甘やかすからつけあがるんだよ。……でも今日は許す。さあ来い」
「やらん」
 既に半分近く食べている飛鳥からぷいと目を逸らして、玲はハンバーグにナイフを入れた。ソースを少し多めに絡めて口許に運ぶ。その目が一瞬大きく見開かれるのを見て、悪戯が成功したような笑みを真子が浮かべた。
「これは?」
「お肉の代わりにお豆腐を使ったの。見た目じゃわかんないでしょ?」
 そう言って笑う姉を、玲は眩しそうに見詰めてから、俯き加減に小さく「ありがとう」と言った。そのままナイフを動かし出す。その頬が、微かに朱に染まっていた。
「このソースが絶品だね。どうやったんだい?」
「市販の缶詰なんだけどね。コツがあるんだ。赤ワインと蜂蜜を煮詰めてコクと深みを足してあげるの」
「なるほど、すごいねぇ」
「そんな、TVでやってたのを真似しただけだから」
「いや、本当に美味しいよ」
 感心したように郁は頷いている。それを横目に見ながら、飛鳥は何も言わずに口を動かしていた。それを、真子は嬉しそうに眺めている。
 万言を尽くされるより、飛鳥の「うまい」の一言とその食べっぷりの方がよほど嬉しかった。もっとも、郁に褒められて嬉しくなかったわけではなく、その頬はほんのりと桜色に染まっていたが。
「飛鳥。スープのおかわりは?」
「ん」
「はい」
 真子の台詞に、すっと飛鳥が皿を差し出す。綺麗になった皿を見やって、満足そうに頷いた真子は席を立った。それを郁が制して、
「ああ、僕がやるよ。きみはまだ全然食べてないじゃないか」
「そんな、ダメだよ。郁くんはお客様だもん」
「しかし――」
「いいの、ボクがやりたいの。いいから、郁くんは座ってて」
 そう言って郁を座らせ、真子はスープを皿によそった。飛鳥は差し出される皿を受け取って「サンキュ」と呟く。
 それを、郁は無言で、しかし少し険しい瞳で見詰めていた。
 真子が再び食べ始めた時、玄関のチャイムが鳴った。
「あ、お父さんだ」
 そう言って、真子はスリッパを鳴らして玄関に走っていく。
「お帰りなさ―い」
「ただいま」
 迎えに出てきた娘を、玄道は今にも「ただいまのちゅう(笑)」をしそうなほど相好を崩して見詰めた。殆ど新婚夫婦のノリだ。
「今日はハンバーグだよ」
「そうか。……ん? 一人多いな」
 ネクタイを解きながら言って、玄道は郁を見やった。
「玲、いつ分裂した?」
「してない」
「違うの、お父さん。渚郁くんって言ってね、今日転校してきたの」
「渚です、はじめまして」
「ああ」
 色つきの眼鏡の奥から値踏みするように――というよりは殆ど恫喝じみた視線だったが――郁を見やって、玄道は頷いた。
「君も生まれつきか?」
「ええ、まあ。遺伝子治療のおかげで、見た目ほど紫外線には弱くないんですけどね」
「うちの息子もだ。まあ、仲良くしてやってくれ」
「はい」
 そんな社交事例とは裏腹に、結構本気でガンを飛ばしあう玄道と郁。そんな険悪な雰囲気にはまったく気付かず、真子は玄道に尋ねた。
「お父さん、ビールにする? それともお風呂?」
「ああ、ビールをもらおうか」
「はーい」
 途端に表情を緩める玄道に、郁は少し毒気を抜かれたようだった。
「お父さんのも今作るからね」
「いや、先に食べなさい。私は後でいい」
「あ、うん、わかった」
 えびちゅの壜とコップをリビングのテーブルに置いて、真子は食事を再開した。玄道は手酌でえびちゅを飲りながらニュースを見ている。
「あ〜、食った食った」
 腹をさすりながら言う飛鳥に、真子は笑みを浮かべて「ごちそうさま?」と訊いた。子供に対するようなその声音に、思わず顔を赤らめながら飛鳥が頷く。
「ごちそうさま」
 言って、玲が席を立つ。何も言わずに食器を流しに運ぶ背中を一瞥して、次に食べ終わった郁が言った。
「ご馳走様。美味しかったよ」
「お粗末さまでした」
 にこりと微笑み、真子は食器を運ぼうとする郁を制する。その頑固さに思わず苦笑して、郁は促されるままにリビングに向った。
 男四人が互いに牽制しあっているリビングに、真子がお茶を運んでくる。
「お父さん、出来たから食べて」
「ああ」
 真子の言葉に、玄道が席を立つ。玄道が食事している間、真子は一緒にいるようで、何やら楽しそうに話している様子が内心気に入らない飛鳥と玲だが、彼女の倖せそうな笑顔を見ていると何も言えなくなってしまう。
「いつもこんな感じなのかい?」
「……だったらなんだよ」
「いや。倖せの定義は人それぞれだからね。僕は今、自身の狭量さを恥じていた所さ」
 そう言って、郁はお茶を啜った。
「はぁ? どういう意味だよ」
「彼女は今のこの暮らしを倖せとして捉えている。そのことを無視して、僕は彼女に僕の自分勝手な価値観を押し付けようとするところだった。そういうことだよ」
「……何が言いたい?」
 自分を睨みつける飛鳥に、郁は軽く肩を竦めてみせた。
「彼女を救い出そうと言うのは、僕の傲慢な考えだった。今の彼女は、きみたちといることを望んでいる。僕といることよりもね。それが解っただけでも儲けものさ」
「お前の言ってることは回りくどくて意味不明なんだよ」
「解らないのかい? 本当に?」
 そう言って、郁はカップ越しに飛鳥と玲を見詰めた。真紅の双眸が心の壁の奥を見透かそうとするかのように妖しく輝く。真っ向から見据えられて、飛鳥は落ち着かない気分になった。
 と、郁は不意にふふっと微笑うと、音を立ててお茶を啜った。その顔を、玲は表情を変えずに見据えている。
「教えてあげないよ。自分で考えるんだね」
「なんかムカつく言い方だな」
「当然だろう。敵に塩を送っている余裕は僕にはないよ――それなりにきみたちは手強い相手と解ったし、僕も本気にならないとね」
 そう言って艶然と微笑みながら、郁は玄道に甘えている真子を少し憐れみのこもった瞳で見やった。
 その後、郁は玄道と二言三言言葉を交わして碇家を辞した。それを見送って、碇家のリビングにいつもの光景が戻る。
 玄道は食後、しばらくTVを見ていたが、一番風呂を浴びると、そのまま寝室に行ってしまった。洗い物を済ませた後、明日の下準備をしていた真子が、玲と格ゲーで対戦していた飛鳥に声をかけた。
「飛鳥、お風呂あいたよー」
「お、おう」
 差し出された着替えとタオルを受け取りながら、飛鳥はバスルームに向かった。玄道が入った後というのは大抵、抜け毛とかが浮かんでいて気持ち悪いのだが、真子は飛鳥が嫌がるのを知っていて、ちゃんと掃除しておいてくれる。
「覗くなよ」
「頼まれたって見ないよ、そんなもん」
「そんなもんっていうなー!」
「はいはい」
 真子に簡単にあしらわれてかなり機嫌を悪くしながら、飛鳥はアコーディオン・カーテンをじゃっと勢い良く閉めた。
 それを見送って、真子は小さく息を吐く。
「……何かあった?」
「え?」
 ふと顔を上げると、TVモニターを見据えてちゃかちゃかとコントローラーを操りながら、玲が言った。
「飛鳥と」
「ベ、別に、何も」
 目に見えて狼狽えながら頬を染める姉の姿を横目に一瞥して、玲は小さく息を漏らした。つくづく隠し事の出来ない性格をしている。本人はかなりうまく誤魔化しているつもりなのだろうが、伊達に双子として一緒に生まれてきていない。猿とは違うのだよ、猿とはっ! などと、今ではもう誰も知らないような古い台詞のパロディを思考の片隅にちらりと思い浮かべつつ、玲は口を開いた。
 いつの生まれだ、お前は。
「告白でもされた?」
「……飛鳥はしないよ、そんなの」
 声のトーンがどんよりと暗い。ということは、告白されたかったと言うことか? だとすればあまり好ましい状況ではない。姉を一刻も早く猿の手より救い出さねば。
「残念?」
「――べつに」
 すっと背を向け、真子は淡々と作業を再開した。が、その手許が時々狂うあたり、かなり動揺している。少なくとも、あの猿との間に何かがあったのは確実のようだ。だが、告白されたのでないとすると、いったい何をされたのだろう?
 そこまで考えて、かなり嫌な方向に思考が走りそうだったので、玲は無理矢理意識をモニターに向けて誤魔化した。
 CPUの操るキャラを猿代わりにしばき倒しながら、玲はこの状況で自分はどうすればいいのかを考え続けていた。
 玲には、姉をどうこうしたいという欲望はあまりない。あるのは強烈な独占欲であって、姉が自分の傍にいて、自分のことを見、考えていてくれればそれで良かった。ただ、そこに他人が割りこむと、どうにも我慢がならないのだった。
 今までは、他人を排除するのは容易かった。だが、郁という男の登場は、今まで希薄だった異性に対する関心を姉の裡に呼び覚まそうとしているように感じる。
 だが、どう足掻いてもそれが自分に向けられることはないと、玲は確信していた。道徳観の問題ではない。姉にとって、自分は何処までいっても大切な家族でしかないと解っているのだ。
 飛鳥の排除を後回しにしてきたのも、彼が自分と同じ所に位置付けられていると解って安心していたからであろう。だが、それが仇となったかもしれない。自分にもっとも近しく、そして決定的に違う立場を持つ飛鳥という少年を、玲は心底疎ましいと感じた。そして同時に、彼がたまらなく羨ましかった。
 考えなければならない。先に排除すべきなのはどちらか。自分が姉の傍にあり続けるためには、どちらが邪魔なのか。
 しかし、判断を下すには、材料があまりにも乏しい。
 まずは、渚郁――彼のことを、良く調査する必要がある。そう結論して、玲は三十人目の敵をへち倒した。
 恰度その時、飛鳥がカーテンを開けた。タンクトップとホットパンツに覆われた躰から湯気を立てている。白い膚が上気したその姿は、男性であるということを忘れてしまいそうに艶めかしかった。
 ……が、そんなものは鈍感少女に効かない。
 飛鳥や玲の素肌などとっくに見慣れてしまっている上、頭の中が母親モードになっている所為だ。
「飛鳥、ちゃんと歯磨いた? 虫歯になっても知らないよ」
「うるせ、子供扱いすんな」
 言いながら、常備されている歯ブラシで歯を磨きはじめる飛鳥。自宅においてある筈のそれは、長年の埃にまみれて最早使い物になる状態ではない。彼にとって、自宅は既にただ寝るための場所と化していた。
 だからといって、寝る場所まで碇家に設定しようとしないのは、彼なりに遠慮しているのだろうか。あるいは、帰ってくる筈のない母親を待っていたいという、捨てきれぬ思慕の為せる業か。真実は、誰にも解らない。恐らく、飛鳥自身にも解ってはいないだろう。自分の行動の意味をいちいち理解できる者がいるとしたら、それは人間ではない。
「玲、お風呂ー」
「ん」
 頷いて、玲はゲーム機の電源を落とした。脱衣所のカーテンを閉じ、洗面所で言われた通り歯を磨いている飛鳥を一瞥して、躊躇なく服を脱ぎはじめる。真子が異性に対して鈍感なのは、間違いなくこいつが傍にいる所為だ、と確信する飛鳥だった。
 白人種というのは、生物学的には一種のアルビノである。だが、その血を受け継いでいる飛鳥と比べてもなお白い玲の膚は、その下の血管すら明瞭り見て取れて、一見した限りでは病的という感じを受ける。セカンド・インパクト以降、常夏の地となったこの日本においてさえ、その膚は日焼けというものをせず、下手に気を許せば火傷に至る、脆弱な鎧。だが、その儚さ故か、常人ならざる雰囲気を湛えた肢体は美しくさえ映った。
「なに」
 歯ブラシを咥えたままじっと自分を見ている飛鳥に、玲は気にせず半裸になりながら目を向けた。
「なんでもねーよ」
 思わずまじまじと見入ってしまった自分を恥じて頬を染め、飛鳥は目を逸らす。二卵性とはいえ、この姉弟は良く似ている――その所為で、一瞬、真子の裸身を玲に重ねて想像してしまっていた。
「変態」
「フザケタこと言ってるとマジで殺すぞコラ」
「シンに何をした」
「――あ?」
 血の色を浮き上がらせた玲の双眸が冷ややかに、貫くように飛鳥を見据える。それを真っ向から受けとめた飛鳥だったが、疚しさからか、つい目を逸らした。次の瞬間、その頬を衝撃が走り、飛鳥は殴られた勢いそのままに壁に叩きつけられていた。
 一片の情け容赦もない一撃を放ったのは玲だった。口の中を切ったのか、鉄の味が広がる。唇の端から伝う血を拭いながら、飛鳥は玲を睨みつけた。
「な――」
 本来なら怒声を上げて殴り返していたはずだった。が、怒りは声帯を微かに震わせただけで、そのまま尻すぼみに飲みこまれてしまった。
 玲の表情を見たからだった。
 玲は、信じられないという表情をしていた。
 今にも泣き出しそうに歪んでいた。
 そして、とても頼りなげだった。
 どういう感情が胸に宿れば、いつも無表情なこの鉄面皮男にこんな表情をさせることが出来るのか、飛鳥には解らなかった。ただ、悪いのは多分自分だと、半ば確信していた。玲が感情を露わにするのは、真子に関することだけなのだから。飛鳥は、知らぬ間に玲の逆鱗に触れていたのだろう。
「……悪かったな」
 のそりと体を起こして、飛鳥は玲に言った。未だに震えている玲の拳を、そっと掌で押さえる。
「真子とキスした。抱き締めて、キスした」
 囁くような声音で言う。普段は玲と同じように「シン」と呼んでいるのに、今は自然にそう呼んでいた。本当はずっと、そう呼びたかったのかもしれない。
「なんでかは解らない。ただ、そうしたかった。頭の中がおかしくなりそうなくらい、真子が愛しかった」
「……」
 玲は、無言で飛鳥を見た。その瞳を、今度は逸らさずに飛鳥は見返した。
「好きなんだ」
「知ってる」
「渡したくなかった。郁にも、お前にも。だからかもしれない」
 こんなに素直になったのは、初めてかもしれない。それぐらいには、玲の先刻の表情は衝撃的だったのだろう。
 嘘や誤魔化しは、脳裏に浮かばなかった。恥ずかしいとも思わなかった。本人と面と向えば、きっと言えないようなことすらも、平気で口を衝いて出た。さっきの音を聞きつけて、真子が様子を窺いにくるかも知れないとも思わなかった。
「でも、好きだとは言えなかった。言うつもりだった筈なんだけどな。抱き締めてキスしたら、頭ン中真っ白になってた。もしかすると、俺には一生言えないかもしれない」
「シンは、気にしてる」
「そっか。……そうだろうな」
 好きだとも言わず、はずみでキスされれば。
 でも、真子はそれを面に出さない。少なくとも、玲に言われるまで飛鳥は気付かなかった。ずっと、一緒にいたのに。
「俺は、お前には勝てないかもしれないな」
 ――でも、ぼくは、シンの恋人にはなれない……。
 その言葉を、玲は飲みこんだ。教えてやるのが癪だったからだ。
「早く風呂入れよ。風邪引くぞ」
 そう言って玲の頭をぽんと叩くと、飛鳥はカーテンを開けて出ていった。それを見送って、玲は微かに眉をひそめた。飛鳥を殴った拳が、今頃になってズキズキと痛みはじめていた。
 脱衣所を出ると、キッチンに真子の姿はなかった。両掌に黒猫印のマグカップを抱えて、リビングでぼんやりとTVを眺めていた。瞳は画面に向けられていたが、焦点はまるであっていなかった。
「シン」
 声をかけると、真子はハッとしたように躰を震わせた。その動きの所為で、カップの中の紅茶が膝に零れ、真子は「熱っ」と声を上げる。
「大丈夫か?」
「あ、う、うん、平気」
 慌ててカップをテーブルに置いて、ティッシュで拭き始める。
 なんだか視線が彷徨っている。飛鳥の表情を見ようとせず、妙にびくついている。飛鳥と、二人きりでいることに。
 ――玲に言われて初めて気付くなんてな。
 思わず溜息を漏らし、飛鳥は濡れたままの髪をかきあげた。
「俺、もう帰るわ」
「えっ」
 思わず声を上げて、真子は飛鳥を見詰め、そのまま慌てて俯いた。やたらと飛鳥を意識してしまっているようだ。案外、郁を誘ったのだって、自分と二人きりになるのが怖かったからかもしれない。
「なんだよ?」
「……な、んでも、ない」
 少し意地悪な気分で問うと、真子は顔を背けた。そのくせ、自分との距離を妙に気にしているのが解って、可笑しい。
「謝らねぇからな」
「え……?」
 顔を上げる真子の目の前に、飛鳥がしゃがみこんでいた。いつになく真剣な眼差しで、真子を見詰めている。
「キスしたこと」
「あ……」
 思い出したのか、赤い顔で真子が俯く。その仕種に高鳴る胸を強引に押さえつけて、飛鳥は続けた。
「俺は悪いとは思ってないから」
 真子は答えない。顔も上げない。きゅっと唇を噛んで、膝の上でスカートを掴んでいる。その手が、微かに震えていた。何を考えているのか解らない。解るわけがない。それでも構わない、と飛鳥は続けた。
「お前とキスしたかったからしたんだ。お前とじゃなきゃ、嫌だったんだ」
「それって――」
 どう言う意味、と訊こうとした真子の唇を、飛鳥は唇で塞いだ。真子の顔を両掌で包んで、唇を重ね合わせた。
 一瞬にも、また永遠にも思える時間が流れる。
 そして、飛鳥は唇を離した。
「……おやすみ」
 囁くように言って、飛鳥は背を向けた。そのまま逃げるように碇家を出て、灯りの点っていない自宅に飛びこんだ。
 今頃になって、心臓がばくんばくんと音を立てていた。
「…………ビビった――」
 薄暗い玄関先にへたり込んで、飛鳥はポツリと呟いた。
 どうなってもいい、と半ば本気で思った自分に。
 自分を見上げる真子の、続きをねだるような潤んだ黒瞳が脳裏に焼き付いている。咄嗟に逃げ出さなければ、あのまま真子を抱いていたかもしれない。ありったけの理性を総動員しても、逃げ出すのが精一杯だった。
 何しろ、同じ家に玲と玄道――彼女の弟と父親がいるのだ。もしそうなっていれば、二度と碇家の敷居は跨げまい。
 それが解っていてもなお、それでもいい、と思った。
 何でこんなに惹かれてしまうのか解らない。あんな、他の男に気を取られている女に。人を子供扱いして、男の気持ちなんか解りもしない鈍感女に。
 その気になれば、女なんか幾らでもいる。でも、気がつけば目が探している。耳が彼女の声を捉えている。心がその仕種に一つ一つに敏感に反応する。他の女なんて、視界にすら入らない。欲しいとも思わない。どうでもいい。彼女だけが欲しい。ひたすらに。心が壊れてしまいそうなほどに。この気持ちだけは、玲にだって負けないと思う。
 だが、だからこそ言えない。
 ――言えるわけが、ない……。
 冷たい金属製のドアに背中を預けたまま、飛鳥は長い吐息を漏らした。
 
 二度目のキスは、血の味がした――
 そのことの意味に思い至ったのは、ドアが閉じた後だった。
(飛鳥、怪我してた……)
 脱衣所で、玲に殴られたときのものだろう。すぐ近くにいたのだから、彼女が気付かぬ筈はない。二人の会話も、大体は聞こえていた。途中まで聞いて、ここにいてはいけないという思いに駆られるように逃げ出した。
 ――好きなんだ。
 飛鳥のその言葉が、今でも耳に残っている。
 聞き間違いじゃないのかと思った。でも、嫌じゃなかった。
 ぼんやりしていたら、飛鳥に声をかけられて、気がついたらキスされていた。
 ……嫌じゃなかった。
 どきどきした。もっとして欲しい、と思った。そしてそんな自分に驚いた。飛鳥のこと、そんな風に思ったことなどなかったのに。
 ……嘘だった。
 意識しない筈がなかった。だから、敢えて「母親」の振りを続けた。そうすれば、飛鳥の傍にいられたから。
 でも、こうなると、もう自分が解らない。
 郁にも惹かれている。なのに、飛鳥のことも気になってしょうがない。そんな自分が、たまらなく嫌だった。
 ずっと、今のままでいたかった。そうすれば、考えなくてもよかったから。
 でも……
 唇に残る感触を思い起こしながら、真子は溜息を一つ吐いた。
 ぴちゃーん、と水滴が落ちて波紋を拡げる。バスタブの中で躰を伸ばして、真子は長い息を吐いた。そのまま、湯の中に身を沈めていく。けれど、すぐに息苦しくなって躰を起こした。鼻から水が入るのが嫌で、プールに顔をつけられなかったことを思い出す。
 あれは、いつのことだったろう。気がつけば、いつも一緒にいた。それでも、ずっと一緒というわけにはいかなくて、たまに一緒に寝られると、それがすごく嬉しかったのを覚えている。
 でも、自分が女だということに気付いてしまうと、今までのようにはいられなくなった。
 そんな時に、飛鳥の母――鏡子が、飛鳥をおいて海外にいくことになった。本当は連れて行くつもりだったらしいが、飛鳥が嫌がったらしい。
 以前から、鏡子がいない時は飛鳥の面倒をみてきたから、母親代わりを名乗り出た。飛鳥には悪いと思ったけど、嬉しかった。飛鳥が日本に残るといってくれて。そして、鏡子に頼まれたことで、公然と飛鳥の傍にいられることが。
 でも、飛鳥が寂しくて夜眠れずにいると知った時は、苦しかった。自分のよこしまな願いが、彼を苦しめたのだと思った。だから、一生懸命頑張った。鏡子の代わりに彼を包んであげよう、安心させてあげようと思った。
 気がついたときには、真子は「母親」になっていた。そして後悔した。「母親」は「恋人」にはなれないのだと、気付いてしまったから。真子には、「母親」の振りを続ける以外に、飛鳥の傍にいる理由がなかった。そして、自分の気持ちを閉じ込めた。心のずっと深い所に。だが、それが、浮かび上がろうとしていた。
 ――飛鳥の、二度目のキスで。
(どうしよう)
 バスタブの中で、真子は自分の躰を抱き締めた。
 この想いは、殺さなければいけない。でないと、飛鳥の傍にいられる自信がない。独占欲の強い、やきもち妬きの女の子になってしまうから。そうなったら、きっと飛鳥に嫌われてしまう。それだけは嫌だった。
(……どうしよう)
 思い出さなければ良かった。そうすれば、封じ込めるのはきっと、簡単だった。でも、一度閉じ込めた所為で、想いは膨れ上がって、もとあった場所にはもう戻らなかった。
 真子にできることは、その想いから目を逸らして、仮面を被ることだけだった。
 
 お風呂の掃除と換気をしてから、躰をバスタオルでくるんだ真子は、一旦部屋に戻っていつもの大きなTシャツとショーツという恰好でリビングに戻った。
 ガスの元栓を確認し、部屋の灯りを落とすと、大きな窓から射し込んでくる銀光が、仄明るい部屋の中に細い影を作った。
 普段ならそのまま部屋に行ってベッドに潜り込む所だが、今夜はなんとなく月を眺めていたい気分になって、真子はベランダに歩み寄った。夜空に浮かぶ真っ白な月に、つい誘われるようにベランダに出る。
 ただでさえ明るい都市の熱帯夜、星などは満足に見えはしないが、それでも冴え冴えと中天に輝く月だけは、周囲に闇を纏ってその姿を誇示していた。
 火照った躰に、夜風が心地好い。ふと悪戯心がわいて、真子はキッチンにとって返した。冷蔵庫に常備してあるビールに一瞬目をやってから、まだ三分の一ほど残っているミネラルウォーターの二リットルボトルを掴んでベランダに戻る。
 板簀の子を敷いたベランダにすとんと腰を下ろして、ボトルにじかに口をつけながら、よく冷えたミネラルウォーターを飲む。
 いい気分だった。月見酒ってこんな感じなのかもしれない、と思う。根が真面目な所為か、酒類に接する機会は豊富なくせに、真子はまだ酒を飲んだことが殆どない。精々、正月の御屠蘇ぐらいだ。
 セカンド・インパクトによって地軸が遷移し、熱帯へ移動した日本からは四季が失われた。熱燗の愉しみがなくなって寂しい限りだ、と父――玄道は言うが、冬の寒さを真子たちはまだ知らない。雪も実物は見たことがない。
 だから当然、夏のよく冷えたビールも美味いが、炬燵で鍋を突つきながら啜る熱燗も捨てがたい――という父の気持ちはよく解らないのだが、まあ、こんな月を見ているとお酒を飲んでみたいという気にはなる。それを水で代用するあたりが、真子の真子たる所以だろうが。
「月って不思議――」
 吸い寄せられるように月を見詰めながら、真子はポツリと呟いた。
「見てると、嫌なことみんな忘れそう」
 自力で輝いているわけでなく、太陽の光を反射しているだけと知りつつも、その美しさはそんな無粋な知識に妨げられることはない。
 月は、人を狂気に誘うという。だが、そんな俗諺など、この美しさの前では一顧だにする価値もない。月が人を狂気に誘うのではない。己の心に迷える者が、月の美しさに怯えて狂うのだ。
 思考がすっきりと澄み渡って、今まで悩んでいたことが些細なことのように想えてくる。それは幻想であっても、明日を生きていく糧にはなろう。人が生きていくためには、そんな頼りないものでも必要なのだ。
 ベランダでいつまでも月を見ている真子を、無言で見詰める赤い瞳があった。
 声をかけることなく、彼はひたすらに姉の背中を見ていた。
 真紅の双眸のその奥に、狂おしいほどの感情を秘めたまま。
つづく


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