EVANGELION:REVERSE
〜真


Written by:きたずみ
EPISODE:05 Two years ago(4)

 それぞれの思惑がどのようなものであったにせよ、その日以降、真子はとにかく忙しかった。
 毎朝一番に起きて弁当を作り、まだ眠っている三人に一応声をかけて家を出る。登校後は部室の鍵を開け、皆が来るまでにソロパートの練習をするのだ。無論、団体パートの練習もあるので、暇な時間は微塵もないといっていい。
 休み時間はぐったりとしているか、S‐DATで課題曲をずっと聴いているし、昼休みは部室に弁当を持ちこんで練習。そんなこんなでまともに話が出来るのは帰り道ぐらいなのだが、真子は疲れきっていて話どころではない。帰ったら帰ったで家事が待っている。
 その状況を見かねて、玲と飛鳥、そして玄道の三人は家事を分担することにした。よほど疲れていたのだろう、真子も素直にその好意を受けて、風呂にも入らずにベッドに倒れこんでしまった。夕食を食べる気力もなかったらしい。自分たちがいかに真子に頼り切っていたのかを痛感する飛鳥たちだった。
 味気ない夕食を突つきながら、飛鳥、玲、玄道は無言のままその面をつきあわせていた。無論、玄道のお手製である。可愛いウサギがプリントされた真子のエプロンを身につけた玄道は、死ぬほど不気味だった。その所為もあって、食欲は事象の地平線の彼方へとぶっ飛んでいる。
「ま、とりあえず食事はこれでよし」
 小松菜と豆腐の味噌炒めを口に運びながら、飛鳥は言った。
「問題は掃除と洗濯か――お前どっち採る?」
「洗濯」
「なら俺は掃除っと。言っとくけど、真子がコンクール終わって復帰するまでだからな」
「無論だ。真子なしでは最早我が家は安寧を保てん」
 箸を持った手で眼鏡を押し上げ、白飯をかっ込みながら玄道が言う。どうでもいいが、そのエプロンを取れ。
「コンクールまで、あと四日か……長いな」
 それまで保つかな、と思いつつ、飛鳥は大根と油揚げの味噌汁を啜った。
 真子が一切家事が出来なくなる状況というのは、それほど珍しくはない。母親似で躰が丈夫な方ではなかったから、風邪を引くのは珍しいことではなかったし、彼女が十二歳で初潮を迎えて以来、月に二、三日はそういう日が訪れていた。
 だから、飛鳥も玲も必要に迫られ、一応仕込まれてはいたのだが、その手練は真子には及ぶべくもない。玄道にしても、真子にその技術の全てを仕込んだとはいえ、今や昔日の面影はなかった。
 真子が一切の家事から離れてわずか三日で、碇家は確実に崩壊の一途を辿っていた。

 そして、四日目の朝がくる。
 その日、天気は昼過ぎから悪化し、放課後には湿った風が吹き始めていた。空は既にどんよりと重い雲に覆われている。
 玲は干しっ放しの洗濯物を取り込むために早々に帰宅し、飛鳥は飛鳥で、昼に玄道から買出しリストが携帯にメールで送られてきたため、雨が降り出す前に学校を出た。それを見送って、真子は部室に向かう。
 コンクール当日まで、あと三日。練習は仕上げの段階に入っていた。オープニングの真子のソロから全体の合わせまで、通しリハーサルを何度も繰り返す。
 仕上がりは上々で、担当の音楽教師の指導も俄然熱を帯びてきていた。全体の息は合っていたが、細かいところのミスがまだ目立つ。そのたびに中断し、細かい指導が入る。そんなこんなで練習は長引き、終わったのは六時過ぎだった。
「ちょっと遅くなっちゃったわね。今日はこのくらいにしましょう。お疲れ様」
 教師のその声に、疲れの混じった溜息を漏らして散っていく部員たち。真子も楽器保管室にチェロを戻し、帰り支度を始めていたが、その耳に、パラパラと地面を叩く雨の音が届いた。開いた窓から吹き込む風に雨の匂いが混じる。
「やだ、降ってきちゃった。ねー、傘持ってるー?」
「えー、ないよー」
「あ、あたし持ってるー」
 がやがやとかまびすしい中、真子はディバッグを探ったが、いつもなら入れている筈の折り畳み傘がない。
「そっか、飛鳥に貸しちゃったんだっけ」
 買い物帰りに雨に降られるといけないということで、自分から飛鳥に傘を渡したことを思い出して、真子は溜息を吐いた。部員たちはもうさっさと帰ってしまっている。どのみち、一緒に帰るような友人はいない。才能あるチェリストとしてそれなりの地位を確立しているので、表立っていじめられることはないが、かといって仲良くする相手もいないのが現状だった。
「……しょーがない、走って帰ろ」
 多少濡れるのは仕方がないと諦めて、真子は靴箱に向かった。が、エントランスの向こうから響いてくる物凄い轟音に、やはり尻込みする。暗雲垂れ込める空から、滝のように雨が降り注いでいた。
「こんな土砂降りになるなんて、聞いてないよぉ……」
 ドアの向こうの空を見上げて、真子は眉をひそめた。コンクリートを激しく叩く雨垂れに混じるように、遠雷が聴こえてくる。空を覆った暗雲の中で、時折青白い閃光が疾っているのが見えた。
「やだなぁ……」
 雷は苦手だった。別にトラウマになりそうな嫌な思い出とかがあるわけではない。ただ、近くに落ちたときの轟音や震動、視界を白く染め上げる眩い光は、昔から何故か得体の知れない恐怖を誘った。そして何より嫌なのは――
「真子さんじゃないか」
「えっ?」
 背後から声をかけられて、真子は吃驚した。既にみんな帰ってしまっていて、もう誰もいないと思っていたからだ。
 振り向くと、男物の大きな傘を小脇に抱えた郁が立っていた。
「どうしたの? 傘、ないのかい?」
「あ、うん。郁くんは?」
「日向先生に借りてきたんだ。送るよ」
「え、でも……」
「困っている女の子を助けるのは、男の義務だからね」
 恥ずかしいことをさらりと言って、郁は靴箱をパタンと閉じた。
「こんな遅くまで、何してたの?」
「真子さんを待ってたのさ」
「えっ?」
「冗談だよ」
 嘘か本当か解らない微笑を浮かべて、郁は玄関のドアを押し開けた。雨垂れの音と遠雷が一層大きさを増して耳朶を叩く。
「どうする? もう少し待ってみるかい?」
「あ、ううん。じゃ、お願いしようかな」
「では、参りましょうか。レディ」
 芝居がかった仕種でお辞儀をして、郁は広げた傘の中に真子を招じ入れ、その細い躰をそっと包み込んだ。傘を持った手を真子の肩に回し、自分の胸元に引き寄せる。
「あ……」
「濡れるといけないからね」
 真子は自分の頬が赤くなるのを自覚した。飛鳥とも玲とも違う、男の子の匂いが雨と石鹸の匂いに混じって鼻腔を擽った。
 そのまま寄り添うようにして、二人は土砂降りの雨の中を歩き出した。だが、雨は激しさを増す一方で、傘を差していても足元や肩口から濡れてしまう。激しい雨音に掻き消され、互いの声が聞こえないので、二人は言葉を交わすことなく、黙々と歩いた。
 湿った布越しに微かな汗の匂いを感じてしまい、高鳴る胸のドキドキに、真子は雷の恐怖を忘れていた。が、次の瞬間、閃光と轟音が辺りをつんざいた。「ひっ」と悲鳴を漏らして、真子はそのまま郁にしがみついた。そんなに近くに落ちたわけではなかったが、蘇った恐怖に真子の足が竦む。
「雷が怖いのかい?」
「う、うん。ごめんなさい」
 自分が反射的にとってしまった行動に、真子は耳まで真っ赤になっていた。自分の胸にしがみつくようにして真っ赤になっている真子を柔らかい瞳で見詰めて、郁は傘越しに空を見上げた。今からでは、学校に戻るよりは家まで走った方が近い。
「止みそうにないか……ここからなら僕の家の方が近いね。どうする?」
「えっ?」
 驚いて見上げた真子の瞳を、郁は優しい笑みを口許に湛えて迎えた。
「雨宿り、していくかい? 雷がおさまるまで」
「え、でも……」
 さすがに尻込みするが、再び鳴り響いた雷鳴が、彼女に頷かせていた。その躰がふわりと浮かぶ。
「きゃっ」
「少し濡れるけど、我慢して」
 傘を閉じ、両腕で真子を抱き上げた郁は、そう言うと一気に走り出した。横殴りに叩きつける風雨が視界を遮る。真子はただ、目を閉じて郁にしがみついているしかなかった。
 辿り着いた先は、真子の家と学校の中間辺りに建っているウィークリーマンションだった。二人ともずぶ濡れのままエントランスを抜ける。
「ちょっと待ってて」
 ドアロックを外して真子を玄関に招き入れた郁は、じっとりと濡れてしまった靴下を脱いで部屋の中に上がっていった。
「お、お邪魔します……」
 玄関口で途方にくれながら、真子はフローリングの上に転々と残った水溜りを所在なげに見やった。と、奥から郁が厚手のタオルを持って戻ってくる。
「どうぞ、あがって。とりあえず温まらなきゃ」
「う、うん」
 郁の差し出したタオルを受け取って顔と髪をざっと拭って人心地のついた真子は、水の溜まった靴とぐしょ濡れになった靴下を脱いで室内に上がった。
 フローリングのワンルームで、入ってすぐの通路脇にキッチンがあり、反対側にバストイレに仕切りがある。ちょっとした家具や調理用具、食器、端末など、大抵のものは最初から揃っているようだった。
「その辺に座ってて」
 キッチンの方から、郁の声がした。
 パイプベッドは起きたばかりのまま寝乱れていて、枕もとにはよく解らない古い革表紙の原書が放り出されている。テレビや端末が置かれている本棚は空っぽで、ベッドの傍に古ぼけたトランクがひとつ、無造作に置かれていた。
 必要最低限のものは何でも揃っているのに、何故か生活の匂いをあまり感じない空間。そんな印象を真子は覚える。
「お待たせ」
 床の上にぺたんと座り込んだ真子の前に、郁は湯気の立つマグカップを置いた。ココアの甘い香りが気分を和らげる。小さなテーブルを挟んだ反対側にそっと腰を下ろして、郁は自分の分のココアを啜った。
「悪いね、こんな所で」
「ううん、そんなこと……」
 真子は首を振った。気の所為か、雨音や雷鳴が遠くに聴こえる。ベッドの向こうの大きな窓を、叩きつける滝のような雨が洗っていた。
「週末には日本を離れるからね。ホテルよりは安上がりだし」
「えっ!?」
 思ってもいなかったことを聞かされて、真子は郁の顔をまじまじと見詰めた。その視線にくすぐったそうに目を細めて、郁は微笑んだ。
「実はね、今日はそのことで先生と話してきたんだ。月曜日までみんなには言わないでくれって。気を使わせたくないしね」
「……どういうこと?」
「最初からね、一週間だけっていう約束だったんだよ――養父とのね。来月には手術があるから、その前に一度日本に住んでみたいっていう、僕の我儘だったんだ。ここは、母の産まれた国だから」
「手術って?」
 真子は、ただ茫然として尋ねた。よく考えれば、郁のことは何も知らない。郁は自分のことを殆ど何も話さないからだ。聞きたいと思っていても、聞くのを忘れてしまうくらい、郁と一緒にいると楽しかった。
「この躰さ。先天性の白子症――きみの弟とは少し違うみたいだけどね。今でこそ外を出歩けるようになったけど、昔は色々と障害があったんだ。この躰のおかげで、僕はずっと病院暮らしだった。外の世界なんて知らなかったよ」
 微笑を浮かべながら、涼やかな口調で郁は語る――が、その重い内容に、真子はただ言葉を失くした。
 そして、自身の双子の弟を思う。彼女や彼女の母と同じく、玲も子供の頃は躰が弱く、よく熱を出して寝込んだ。今の玲があるのは父である玄道の尽力によるものだろう。幼い玲を、父は何度となく研究室に連れて行っていた。
 父が何を研究しているかは、よく知らない。だが、きっと母のように玲を喪いたくないという一心だったのだろうとは、解る。
「どうも次の手術は大きいものになるらしくてね。父も医師も僕には何も言わないけど、こっそり話してるのを聞いちゃったんだ。成功率はあまり高くない、失敗すると生命に関わる恐れがある――って。でも、他に僕が生き延びる術はないんだ。本当なら、この年まで生きてこられただけでも奇跡みたいなものだからね」
「……っくしゅん!」
 郁の独白を黙って聞いていた真子は、そこで初めて自分の躰が冷え切っていることに気付いた。掌で包んでいた筈のココアも、すっかり冷めてしまっている。
「ああ、ごめん。濡れっぱなしでする話じゃないね。風邪ひくといけないから、シャワーを浴びておいで。乾燥機もあるから」
「で、でも、着替えがないし……」
「僕のでよければ貸すよ」
 そう言って、郁は立ち上がるとトランクを開け、ジャージを取り出した。
「パジャマ代わりに使ってるけど、まだ着てないから」
「あ……うん、でも……」
「そっか、無神経だったかな。ごめん。僕、しばらく外に出てるから」
「でも、それじゃ郁くんが風邪ひいちゃう」
「じゃあ、先に着替えさせてもらうよ」
 それならいいだろう? そう言って微笑うと、郁はトランクから着替えを取り出して、バストイレの仕切りの向こうに消えた。アコーディオン・カーテンの向こうで衣擦れの音が何度かした後、スラックスとシャツに身を包んだ郁が戻ってくる。
「お湯、出るようにしてあるから。終わったら呼んで」
 そう言うと、郁は財布と携帯をポケットに押し込んで部屋を出て行った。郁に渡されたジャージを抱き締めるようにしたまま彼を見送って、真子は困ったように部屋を見回した。が、
「――っしゅん!」
 もう一度くしゃみをして、躰をぶるっと震わせた真子は、郁の厚意に甘えることにして、バストイレに入っていった。
 洗面台と便器のある脱衣所には洗濯機と乾燥機が設置されていて、その奥のビニールカーテンの向こうに小さなバスタブとシャワーがあった。洗濯機の横に置かれたかごには、郁の濡れた制服が入っている。
 アコーディオン・カーテンを閉めた真子は、意を決して制服を脱ぎ始めた。濡れた下着が肌に張り付いて気持ち悪い。一瞬どうしようか迷ったが、この際いいかと考え直して、先に下着だけ乾燥機のドラムの中に入れ、急速乾燥のスイッチを押す。低い唸りとともに、乾燥機が動き出した。
 それを確認して、真子はシャワーの方に向かった。郁が用意しておいてくれたのだろう、厚手のバスタオルがかかっている。
 ビニールカーテンを閉め、壁のタッチパネルに手を伸ばすと、ノズルから勢いよくお湯が流れ出した。それを全身に浴びて、ようやく真子はホッと息を吐く。温かいお湯が全身の緊張を解きほぐしていくようだった。
 その頃、金属のドアに凭れかかるようにして目を閉じたまま、郁は跳ね上がる心臓を必死に押さえつけていた。
 濡れたブラウスの下の透けた肌や下着が脳裏に焼き付いている。腕の中には、彼女を抱き上げた時の感触が、まだ残っている。どう足掻いても気の浮き立つような筈のない身の上話でもしなければ、自分を抑えきれる自信がなかった。
「あそこまで無防備だと、男として辛いものがあるな……」
 ポツリと呟く。そこまで信頼されているのは喜ばしいことなのか、あるいは男として見られていないのか。
 彼女と一緒に暮らしている少年たちの苦労を思って、郁は苦笑を浮かべた。
「取り敢えず迎えを呼ぶか――」
 そう呟いて、郁は携帯を取り出した。
 
「遅い!」
 冬眠中に叩き起こされた寝不足の熊のように、飛鳥は室内をうろうろと歩き回っていた。
 キッチンには買い物袋が無造作に放り出されたままだ。
 取り込んだ洗濯物をたたみながら、玲はそんな飛鳥を見やって、小さく息を吐いた。
 冷静に見える彼にしても、内心は決して穏やかではない。窓の外は土砂降りの大雨で、しかも雷が鳴っている。真子の雷嫌いは彼ら二人のよく知るところである。しかも、真子が傘を持っていないことも、そしてもう学校にもいないことも確認済みであった。
 なのに、肝心の真子はまだ帰らない。連絡もない。
 しかもこういう時に限って、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきたり、テレビが交通事故のニュースを伝えたりするのである。
 不安ばかりが募る。本当はこの雨の中に飛び出していって探し回りたいのだが、この雨と雷の中、傘を持たない真子が何の連絡もしてこないとなれば、どう考えても何処かで――それも軒先とかいうのではなしに――雨宿りをしているとしか考えられない。
 が、それならそれでまた問題なのだった。というのも、真子が雨宿りしそうなところといえば光の家ぐらいしか思いつかないが、その可能性は既に消えている。
 つまり、真子の居場所がまったく解らないのだった。
 無論、最悪の可能性というのは何とはなく思いついているのだが、二人ともそれを明確な思考にすることを意図的に避けていた。
 即ち、真子は郁と一緒にいるのではないのか、という可能性を――
 転校してきてまだ間もない郁には、正規のアドレスとIDがない。よって、郁の連絡先を知る術は飛鳥にはないのだった。
 無論、冷静になって考えれば、情報通の健輔あたりがそういう情報はとっくに押さえている筈だと解るのだが、今はそこまで頭が回らない。くそ真面目な日向に尋ねてもみたが、やはりというべきか、教えてはくれなかった。手詰まりである。
「……くそっ」
 苛立たしげにソファに腰をおろした飛鳥は、そのまま跳ね上がるように立ち上がった。ポケットに入れっ放しだった携帯が震動したのである。
「もしもしっ!」
『やあ、飛鳥。久しぶりだね』
「殺すぞてめぇ」
『怖いな』
 人を食ったような郁の声に、本当に食い殺しかねないような口調で飛鳥が答えると、郁は穏やかな笑声を上げた。
『真子さんは僕が預かっている。命が惜しければ身代金を用意しろ』
「……本気で言ってんのか?」
『いやだなあ、冗談に決まってるじゃないか』
 はっはっは、と事も無げに笑う郁に、飛鳥は脱力してへなへなと座り込んだ。もうやだ、こいつと喋るの……と、半ば本気で思ったりもする。
 が、今は負けている場合ではない。
「真子、そこにいんのか? 声を聞かせろ」
『だから冗談だってば。何もしやしないよ――でも、声はちょっと無理だな。今、彼女はシャワーを浴びているからね』
「なんだとぉっ!?」
 ぶちぃっ! 
 物凄い音を立てて、飛鳥の理性の鎖が一本ぶち切れた。郁の声の背後に雨音がやかましく反響していることにも気付いていない。
『勘違いしないでくれよ。雨で濡れたから、風邪をひかないように僕が勧めたんだ。心配しなくていいよ、僕は今外にいる。彼女がシャワーを浴びているのに、部屋の中にいてまともでいられる自信はないからね。だから迎えに来てくれるとすごく嬉しいんだけど』
「……今から行ってやる。住所を教えろ」
『先刻メールで送っておいた。すぐおいで』
「首洗って待ってろ!」
 問答無用で通話を切って、飛鳥はメールをチェックした。確かに、郁からのメールが入っている。住所と目印になる建物がいくつか挙げられていた。
「あンのド変態ホモ野郎、真子に手ェ出しやがったらぶっ殺してやる!」
 日本語としてかなりおかしいことを口走って、飛鳥は部屋から飛び出そうとした。が、その腕を玲が掴む。
「なんだよ!」
「着替え」
 抑揚のない玲の一言で、頭に血が上っていた飛鳥は、冷水をかけられたように冷静さを取り戻した。何の準備もせずにいくと、郁に余計な借りを作ってしまい、真子がお返しに行くとか言い出しかねない。
 玲とは少しベクトルのずれた理由によって、飛鳥は玲が迎えに行く支度を整えるのを苛々しながら待った。
 何度かほっぽって行こうかと思ったが、それを実行する前に玲が準備を終える。
 そして、金と銀の髪の少年たちは、遠雷轟く土砂降りの雨の中、見た目だけは仲良く傘を並べて駆け出した。
 
 郁のジャージはかなり大きかった。袖と裾をかなり折り曲げてもまだぶかぶかだ。郁の制服のズボンと一緒にスカートとブラウスを乾燥機のドラムに入れ、スイッチを入れると、真子はカーテンを開けて外に出た。
 どれぐらい時間が経ったのか解らないが、郁は室内にはいなかった。素足のまま辺りを見回して、玄関まで行ってみる。ドアをノックしてみると、軽い空気音とともにドアが開いた。
「もういいのかい?」
 ぶかぶかのジャージを着た少女の姿に思わず目を細めながら、郁はそう言って中に入ってきた。
「あの……、ありがとう」
「じゃあ、僕もシャワーを浴びさせてもらおうかな」
「あ、ごめんね。寒かったでしょ」
「気にしなくていいよ」
 バスルームに向かいながらそう言って、郁は思い出したように真子を振り返った。
「ああ、さっき飛鳥に電話したら、迎えにくるって言ってたよ。もうすぐ来るんじゃないかな」
「そ、そう……」
 なんとなく飛鳥には知られたくなかったような気がして、真子は俯いた。何故そう思ったのかは解らない。でも、こうして郁の家に二人っきりでいることが、ひどく後ろめたかった。
(飛鳥、怒るかな……)
 ――なに考えてんだ、このバカ!
 そんな風に怒鳴る幼馴染の顔が脳裏に浮かんで、胸の奥がずきりと疼く。胸を軽く押さえたままぶんぶんと頭を振って、真子は飛鳥の面影を振り払った。バスルームの方からは、シャワーの音が聞こえてくる。
(……ボク、何でここにいるんだろ)
 廊下の壁に背中を預けて、真子は溜息を吐いた。
 何の予告もなしに灯りが消えたのは、その瞬間だった。
「えっ!」
 遠くで雷鳴が重々しく轟く中、真子は咄嗟に目を閉じ、耳を塞いだ。そのまましゃがみこんで、パニックを起こしそうになるのを必死で押さえ込む。
 薄闇の中で、真子はまるで幼い子供のように蹲って震えていた。
 からり、とカーテンが開く音がする。と同時に、ぺたぺたと湿った足音が近づいてくる。闇の中、手探りで玄関脇の配電盤を見つけ、ブレーカーを探った郁は、レバーが全て上がったままなのを確認して眉をひそめた。
 ブレーカーが落ちたのではないということは、この一帯が停電中ということだ。近くの電柱にでも落ちたのだろうか。
「やれやれ、参ったな……真子さん? 何処に――」
 言いかけて、郁はすぐ傍の闇の中に蹲っている少女に気付いてぎょっとする。
「だ、大丈夫かい?」
 さすがの郁も動揺したらしく、声にそれが表れている。腰に巻いたバスタオルを押さえながらそっと肩に手を置くと、少女はびくっと躰を震わせた。
「真子さん?」
 尋常ではないその様子に、郁は眉をひそめた。しかし、彼には真子の表情が見えないため、状況が飲み込めない。掌から伝わってくる限りでは、少女の体は小刻みに震えていた。恐らくは寒さではなく、恐怖によって。
「どうし――」
 郁が肩を揺すりながらそう声をかけようとした瞬間、窓全体が眩く光り、灼けつくような純白の光芒が室内に満ちる。その直度、鼓膜をつんざくような破裂音が立て続けに轟き、一拍遅れて建物全体が震えるような重低音が響き渡った。
「いやぁ――っ!」
 泣き出しそうな悲鳴をあげて、真子が郁にしがみついた。その瞬間、郁の鼓動が早まる。先刻の落雷の衝撃なのか、今胸にしがみついている少女の躰の柔らかさの所為なのかは解らなかったが。
 が、すぐに我に返った郁は、自分にしがみついたままがたがたと震えて泣きじゃくっている少女の躰を、そっと包み込むように抱き締めた。
 そのまま、震える少女の背中をそっと、安心させるように撫でてやる。何だか父親になったような気分だった。でも、それもいいかとも思う。このまま手放したくないな、と郁は本気で思った。
「大丈夫、大丈夫だから」
 そう何度も囁いて、安心するまで頭や背中を撫でてやるうちに、真子もようやく落ち着きを取り戻したようだった。
 ……が、落ち着いたら落ち着いたで、今度は別のパニックが真子を襲う。
 自分の頬にあたる素肌の濡れた感触。耳許に聴こえてくる、とくん、とくんという生命の鼓動。背中に回され、そっと撫でさすってくれる郁の手――
 何度か遠くで、時には近くで雷鳴が轟いたが、殆ど気にならなかった。真子は、硬直していた躯から、そっと力を抜いていった。
 耳許に郁の吐息がかかってくすぐったい。その感触が何故か可笑しくて、髪や背中を撫でる手の感触が懐かしく、頬から伝わる肌の温もりが心地好くて、口許に笑みを浮かべながら真子はそっと目を伏せた。聞き取れないほどの微かな呟きが唇から漏れる。
「――あったかい……」
「こういう状況で、そういうことは言わない方がいいよ」
 ぐらりと傾いた天秤に無理矢理手をかけて、郁は暴走しそうになる自分を押さえ込んだ。それでも多少の悪戯心は湧いてきて、耳許で囁いてみる。
「ねぇ、キスしていい?」
「えっ」
 びくっ、と真子の躯が強張る。その仕種に、郁は自分をいつまで押さえ込めるのか、もう解らなくなっていた。
「キスしたいな」
「ど、どうして?」
「好きだから……かな。そうしたいんだ。ダメかい?」
「……」
「黙らないでよ。ホントにキスしたくなっちゃうじゃないか」
「ご、ごめんなさい」
「何が『ごめんなさい』なんだい?」
 その問いかけに、真子は困惑する。自分は郁にキスされたいと思っているのか、キスされたくないと思っているのか、解らない。こうして抱き締められているとすごくドキドキするのに、ひどく安心できるのに。
 脳裏に、誰かの顔が過ぎる。ぼやけていて、その表情は明瞭りしない。でも、何故か見えなくても解るような気がした。
「……わかんないの」
「なにが?」
「好きっていう気持ちが……」
「飛鳥のこと、気になる?」
 しばらく間があいた後、真子は小さく頷いた。
「僕は嫌い?」
 首を振る。
「なら、今はそれでいいよ」
「でも……」
「好きになるのは一人だけって決まりはないよ。そのうち、この人だけはどうしても失いたくないっていう人が解るようになるさ。……たぶんね」
 僕にとってはきみなんだけどね……とは、郁は言わなかった。けれど、真子の心に一つ、楔を残していこうと思った。
 たとえ自分が死んでも、彼女の心の中で生き続けられるように――
「!」
 真子のおでこに、そっと触れるようにキスして、郁はそのまま唇を滑らせた。熱く火照った耳朶を優しく甘噛みして、吐息混じりの囁きを送り込む。
「好きだよ」
 それだけ囁いて、郁は大切なものを包み込むようにそっと真子の躯を抱き締めた。激しかった雨音はいつしか穏やかなものに変わり、雷鳴はもう遠くに消えていた。心臓の鼓動にも似た単調なリズムが、全ての音を飲み込んでいく。
 溶け合う吐息と混じりあうふたつの鼓動。それきり言葉を交わすでもなく、薄闇の中で二人はじっと抱き合っていた。
 が、前触れもなく灯りが点り、魔法が解ける。
「あ……」
 真っ赤な顔で真子は郁から離れた。その反応に、郁は自分がどういう恰好をしているかを思い出し、苦笑混じりに立ち上がる。
 足音が遠ざかり、乾燥機の低い唸りが再び聞こえてくるまで、真子はずっとそこに座り込んだままだった。恥ずかしさと驚きと、その他諸々のよく解らないぐちゃぐちゃの感情の奔流が胸の奥から溢れてくるのを、必死で押さえ込む。

(だめ……泣いちゃう)
 何故だか解らないが涙が溢れてしまいそうになるのを必死で堪えて、真子は膝の間に顔を埋めた。
 嬉しいのか悲しいのか、もう解らなかった。
 その時、ドアがしゅっと音を立てて開いた。ハッと顔を上げると、そこには息を切らしたずぶ濡れの飛鳥と、そして玲が立っていた。
「飛鳥……玲……」
「無事かっ!?」
「え……? 無事、って?」
 きょとんとして自分を見上げる真子に、飛鳥は一挙に脱力してその場にへたり込んだ。
「何でもない。帰るぞ」
「あ、でも――」
「着替え、持ってきたから」
 郁のジャージを着た真子の姿を赤い瞳で見詰めながらそう言って、玲が着替えの入った袋を差し出した。
「おいコラ、渚! 出て来い!」
「相変わらず賑やかだねぇ」
 半乾きの髪をタオルで拭きながら、服を着た郁がバスルームから出てきた。玄関口にいる飛鳥と玲を見やって苦笑する。
「なんだ、ずぶ濡れじゃないか。きみたちもシャワーを浴びていくかい?」
「余計なお世話だっ! 帰るぞ!」
「あ、うん。あの、着替えさせてもらっていい?」
「どうぞ」
 郁と目を合わせずに言う真子に道を譲ると、彼女は着替えの入った袋を抱えたままバスルームに飛び込んだ。目の前で閉められるカーテンを一瞥してから、郁は今にも噛み付きそうな目で自分を睨んでいる飛鳥と玲に、軽く肩を竦めた。
「何もしてないよ――まだね」
「ままま、まだってなんだよ」
「これからしようかなって思ったとこだったんだけどねぇ」
 そう言って悪戯っぽく笑うと、飛鳥は面白いように目を白黒させ、顔色を変化させて口をパクパクさせた。ひどく意地悪な気分になっている自分を自覚する。
「冗談だよ」
 言って、郁は飛鳥にタオルを投げた。
「風邪ひくよ」
「濡れてんじゃねぇかよ」
「そりゃそうだよ。僕が使ったやつだからね」
「ンなもん人に寄越すな!」
「他にないんだから仕方ないだろ」
 そう言って、郁は飛鳥が投げ返してきたタオルを受け取った。その時、カーテンが開いて、スリムジーンズとTシャツに身を包んだ真子が出てきた。手には袋に入れた制服と、郁のジャージを持っている。
「あの、ありがとう。これ、洗って返すから……」
「いや、いいよ。気にしないで」
 微笑みながら受け取ったそれを、郁は無造作に洗濯槽に放り込んだ。その仕種が何処か冷たく感じられる。口許に浮かんだ笑みが作り物めいて見えて、真子は次に言うべき言葉を飲み込んだ。
「早くお帰り」
 静かに微笑んでそう言うと、郁は真子の肩をそっと押した。俯いたまま、真子は飛鳥の腕の中に引き寄せられる。
「今日の借りはそのうち熨斗つけて返してやるからな!」
「どうして素直にありがとうと言えないかなぁ」
 のそのそと素足に濡れた靴を履き、その脇に落ちていた靴下を拾い上げて、真子は外に出て行った。郁と目を合わせようともしない。威勢良く啖呵を切る飛鳥に苦笑しながら手を振って、郁は三人を見送った。
 目の前ですっとドアが閉じる。その瞬間、郁の顔から笑みが消えた。怖いくらいの無表情で、手にしたタオルをぐっと握り締める。
 と、その口許が歪んだ。咽喉の奥から、圧し殺したような笑声が漏れ始める。
 そのまま、郁は壁に背中を預けた。微かに顫える手で胸を掴む。
「……何をやってるんだ、僕は――」
 そう呟いて、郁は長い息を吐いた。
つづく

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