EVANGELION:REVERSE
〜真


Written by:きたずみ
EPISODE:06 Two years ago(5)

 小止みになった雨の中、傘をさした少年二人が歩いていく。
 そのちょっと後を、やはり傘をさした少女がとぼとぼと俯き加減について歩いていた。なんだか、ひどく居心地が悪そうだ。
 飛鳥は肩を怒らせたその歩き方からして怒っているし、玲は玲で真子の方を見ようともしないところこから、かなり機嫌が悪いとわかる。それを見て取って、真子は肩身の狭い思いをしながら二人の様子を窺うが、二人はまるで相手にしない。
 そのうちに、雨があがった。が、それに気付かずにずんずん歩き続ける飛鳥。
「飛鳥ぁ〜」
 無視。
「飛鳥ってば」
 またもや無視。
「ねぇ、飛鳥」
 ひたすら無視。
「ねぇったら、ねぇ」
「るせーな、なんだよっ!」
「雨、止んでる」
「……わ、解ってるよ、そんなことはっ! 雨の余韻に浸ってただけだっ」
 照れ隠しか、良く解らない理由をつけながら傘をたたむ飛鳥。街灯が照らし出す夜道を、三人は黙りこくったまま歩き続ける。
「……ごめんなさい」
「ほ――、謝るってコトは、自分が悪いという自覚はあるワケか? え?」
「あの……えと、多分」
「何だよ、多分って」
「え、あの、だって……心配、してくれてたんでしょ?」
「――まーな」
 絶対「心配」の内容が違うと思うけどな、と心の中で呟いて、飛鳥は憮然とした顔でそっぽを向いた。
「なあ、お前、俺たちが何で怒ってるか、解ってんのか?」
「やっぱ怒ってたんだ」
「殴るぞ」
「……殴ってから言うかなあ」
「まだ殴ってないだろ」
 デコピンの痕をさすりながら涙目で言う真子を一瞥して、飛鳥はふんと鼻を鳴らしてから、びっと鼻先に指を突きつけた。
「女が男の家にホイホイ上がりこむなっつってんだよ!」
「飛鳥ん家にも?」
「ちがうっ。知らねぇ男の家にだ! それも一人暮らしだぞ? 馬鹿かお前は!」
「馬鹿じゃないもん!」
「こんな真似する奴は馬鹿に決まってんだろが。お前も一応女なんだからな。何かあってからじゃ遅ぇんだよ!」
「……ごめんなさい」
 ぺこん、と真子は頭を下げる。取り敢えず反省しているようには見える。が、自分の言ったことを何処まで理解しているかは甚だ疑問だ。どうもこの鈍感娘は、自分がどれぐらい魅力的な女なのかをいまいち自覚していないらしい。
「解ってんのか、ホントに……。郁だって男なんだからな、いつ変な気分になってどうにかなることもあるんだぞ」
 その飛鳥の一言に、真子は見事なぐらい劇的な変化を見せた。
 明らかに挙動不審である。これでは疑わない方がおかしい。
「ままままっ、まさかおまえ――」
「何もないよっ!」
「無茶苦茶返事早いじゃねぇか。ホントか?」
 ジト目で真子を見詰める飛鳥。射るような玲の視線が真子にざくざくと突き刺さる。頬を膨らませながら、真子は飛鳥を見返した。
「郁くんは何もしなかったよ」
「そか。……ってコトはお前が何かしたってコトじゃねぇかっ!」
「別に何もしてないよっ! ……ちょっと抱きついちゃっただけで
「なんだとおおおっ!?」
 最後の方はかなり小さな声だったのだが、飛鳥はきっちり聞き取って激怒する。
「怖かったんだからしょーがないじゃないかぁっ! はずみなのっ! 事故っ!」
「抱きついただけか? 何もされなかったのか?」
「……う、うん」
「お前、俺に隠し事が出来ると本気で思ってる?」
「な、なにもないってば……」
 そう言いながら目を逸らす真子。長年の経験から、真子を自白に追い込むにはとにかく考える暇を与えず強気で攻め立てるのが一番手っ取り早いと解っている。そうすれば勝手に自爆する。飛鳥は真子を壁際に追いこんで、顔を覗き込んだ。
「俺の目を見ろ」
「う……やだよ、何かするもん」
「正直に言わねーとキスしてやる」
 どおゆう脅迫だ。傍目には殆ど変態である。
「……」
「舌入れるぞ」
 そんな度胸は無論ない。言っている方も顔が赤い。飛鳥の視線から逃れるように俯いた真子は、小さな声でぼそぼそと呟くように言った。
「……ホントに……何も……。おでこに軽くキスされただけで……好きって言われたけど
「な……に…?」
 一瞬、呼吸が止まる。聞き捨てならない一言だった。
「あ、あの、気の所為だと思うの。なんかボク、すごくパニクってたし、郁くん怒ってたみたいだったし」
「(ンなわけねぇだろ)……で、何て答えたんだ」
 訊きたくはない。訊きたくはないが、訊いておかねばならない。自然と口調が硬くなり、表情が険しくなる。
「別に……何も……」
「なんだよそれ」
「だって……嫌いじゃないけど、なんか解んなくって、そういうの。そう言ったら、今はそれでいいよって」
「……そうか」
 飛鳥は真子から離れた。背中を向けながら、内心では歯噛みしている。あの男、もしかしたらこういうチャンスを窺ってたんじゃないだろうな、と邪推なんかもしてみるが、そんなことは無理に決まっている。こんなことなら、真子の傍に郁が近づかないようにしっかりガードを固めておくべきだったか。
(にしても……)
 溜息混じりに、困惑したように自分を見ている真子を見やって、飛鳥は髪をかきあげた。何を考えているのか、まるで解らない。
 郁から告白されたのだからもっと喜んでもいい筈なのに、どうも本気にとっていないようだ。言うに事欠いて「気の所為」とは何事か。これでは自分が告白したとしても同じように反応されかねない。……どのみち、出来はしないだろうけれど。
「……で?」
「『で?』って?」
「だから、好きだって言われたんだろ? 嬉しくないのか?」
「……解んない」
「はあ?」
 隣を歩きながら俯く真子を、飛鳥は眉をひそめながら見やった。
「お前、渚のこと好きじゃなかったのか?」
「郁くんのことは気にはなるけど、好きかどうかなんて解んないよ。ボクのこと『好き』って言ってくれたの、郁くんが初めてだし、嬉しい気もするけど……」
「なんだ、はっきりしねー奴だな」
「だって……」
 言えば言うほど、真子の足取りは重くなる。これではまるで郁と真子を付き合わせたいみたいだと思い直して、飛鳥は重い息を吐いた。
「まあ、いいや」
 ぽん、と真子の頭に手を載せて、微笑ってみせる。
「次からは俺を呼べよ、いいな」
「……」
「訂正。『俺たち』を」
 赤い瞳にじっとり見詰められて、飛鳥はさりげなく汗を拭った。
「……うん」
「よーし、帰ってシャワーだ」
 先に立って歩き出す飛鳥の背中を、真子は黙って見詰めた。その隣に、玲が無言で並ぶ。何も言わない弟の冷えた手を、真子はそっと握った。ハッとしたような表情で、玲が自分を見詰めてくる。
「ごめんね」
 そう言って、真子はにこりと微笑った。
 目を逸らした玲の頬は、微かに紅く染まっていた。
 
 家に帰ると、玄道が既に帰っていた。
 飛鳥と玲が風呂に入っている間に玄道と二人で夕食の支度をして、四人揃って食べた。食後は皆でTVを見て、好き勝手なことを言ったり、くだらないことで笑ったりした。
 ありふれたいつもの風景が、何故か遠くに思えた。
 十時過ぎに玄道が風呂に入って寝室に引っ込むと、飛鳥も隣の自分の家に帰った。玲が自室に引っ込むのを見送ってから、真子は後片付けをして、風呂場に向かった。
「……ふぅ」
 湯船に浸かって天井を見上げながら、長い息を吐く。なんか今日は物凄くいろんなことがあった気がする。雷が怖くて思わず郁に抱きついて、そのままぎゅっと抱き締められて、おでこにキスされて――
 そこまで考えて、不意に脳裏に郁の囁きと、吐息の熱い感触が甦る。
 ――好きだよ。
 普通、あんなふうに囁かれたら、女の子はたまらないだろう。実際、真子も物凄くどきどきした。カッと躯の奥が熱くなって、でも、
 何故か、胸の奥の方で何かが音を立てて軋んだ。
「……嬉しくない、のかな」
 嬉しくないわけではない、と思う。けれど、郁にはああいうことを言って欲しくなかった、という思いがあった。
 もちろん、好きだと言われて、嬉しくないわけがない。でも、そう囁かれた時、何故か飛鳥の顔を思い浮かべてしまった自分に、否応なく自分の思いを自覚させられる。そして真子は理解する。自分が、何を求めていたのかを。
(……違う)
 郁に言われたのが厭なのではない。自分は、飛鳥に言って欲しかったのだ。
 ――好きだ、と。
 そう囁いて欲しかったのは郁ではなく、飛鳥だった。
 飛鳥とのキスが、忘れていたその想いを甦らせてしまった。だから、今の真子には、郁の告白を素直に喜ぶことが出来ない。受け入れることが、出来ない。その挙句、郁を拒絶してしまった。
「……そっか。だから怒ったんだ」
 帰り際の冷たいような郁の態度を、真子はそう受け取った。彼を傷つけてしまった、と後悔する。
 謝らなくては、と反射的に思ってから、真子はざぶっと顔をお湯につけた。そんなことをすれば彼をさらに傷つけるだけだ。彼が求めているのは謝罪ではない。何らかの答えだ。でも、彼は優しいから、それを待っていてくれると言った。
 しかし、今週末には彼は日本を離れてしまう。いつ戻ってくるかも解らない。なのに、自分は彼の連絡先も知らない。
 彼と、ちゃんと話をしなければいけない。
 少しだけ開けた窓から覗く雲間の月を見詰めながら、真子はそう決めた。
 自覚してしまった今となっては、もう、この想いを捨て去ることは出来ないのだから。たとえ、一生伝えることがなかったとしても――
 
 真っ暗な部屋で、郁はぼんやりと月を見ていた。
 雨が大気の汚れを洗い流してしまった所為か、雲の切れ端を付き従えた月がいつになく綺麗に見えた。
 何故、あのまま彼女を抱いてしまわなかったのだろう、と自問する。
 答えは解りきっていた。そんなことをすれば、二度と彼女の笑顔を見られなくなる。ひどく繊細な彼女の心は、大切に慈しみ護りたいという思いと、この手で握り潰してやりたいという衝動、相反する二つの行動に彼を駆り立てる。
 彼女は自分では気付いていないが、飛鳥の隣にいる時が一番魅力的に映る。それが解るからこそ、思う様に行動できない自分がなおさら腹立たしい。
 彼女がいなければ、案外飛鳥とは仲良く出来るかもしれない。だが、真子がいなかったら彼は今の彼ではないというのも、厳然たる事実なのだ。あの二人の運命は、余人には分かちがたく結びついている。
 しかし、互いに思いあう想いの強さは、それゆえに触れ合うことを恐れさせる。想いが強ければ強いほど、拒絶された時のダメージは計り知れないものになるからだ。そこにこそ割り込む余地があると思った。だが、今の彼では、彼女の全てを受け止めることは出来ない。そのために、どうしても一歩引いてしまう。いっそ、あの二人がくっついてしまった方が、心の安寧は保たれるのかもしれない。
 どうしてこんなに彼女に惹かれてしまうのだろう。単に可愛いだけなら、もっと楽な相手は幾らでもいる筈だ。
 一週間だけの相手と割り切ってしまった方が、きっと楽だったに違いない。だが、それは厭だった。もしこのまま自分が死んでしまうのだとしたら、そんな相手に自分の存在を託したくはなかった。
 だから、彼女でなければならなかった。もう顔すら覚えていない母のイメージを具現化したような彼女でなければ――
「……死にたくない」
 ポツリと、郁は呟いた。何者も答えることなく、その呟きは壁に吸い込まれ、消えた。代わりに答えたのは、携帯の着信音だった。億劫そうに手を伸ばし、傍らに放り出したままの携帯をとる。
「……もしもし?」
 聞こえてきたのは、遠くドイツにいるはずの養父、キール・ローレンツの声だった。向こうとの時差は何時間だったっけと頭の中で考えて、こちらの都合をまるで考えない養父の倣岸な性格が変わりないのを確認して苦笑する。
「ああ、大丈夫。こちらは変わりないよ、養父さん。……皆良くしてくれてる。……うん、うん。日本に来て良かった。蒸し暑いのと、蝉の鳴き声が煩いのには閉口するけどね。……ああ、予定通り、日曜のSSTOで帰るから。……じゃ」
 およそ養い親には不向きな性格をしていながら、不器用な愛情を郁に注いでくれる養父が、郁は嫌いではなかった。彼には、他にそれを注げるものが存在しないのだ。他人を、その心の弱さによって信用することが出来ないゆえに。
 本当に下劣な人間なら郁を引き取ったりはしない筈だし、セカンド・インパクト後のこの世界で、多大な治療費を投じて郁の躯を治そうとはしなかったろう。
「愛してるよ、養父さん。おやすみ」
 だからいつも、郁はそう告げる。嘘偽りない心をこめて。養父と呼ぶにはあまりにも老いた、哀れなひとりぼっちの老人に。
 ピッ、という電子音が、二人のあいだに隔たる距離を再び実感させる。
「あと二日、か――」
 二日後には否応なしに訪れる別れ。それが彼にとって福音となるのか、それとも苦悩の源となるのか。それを知るのはただ、神と呼ばれる存在だけかもしれない。そんなものがこの世に存在すればの話だが――
 脳裏に黒髪の少女の面影を描きながら、郁は目を閉じた。
 
 少女は眠っていた。
 しかし、その頬は微かに火照り、半開きになった口からは熱い吐息が漏れていた。汗ばんだ頬に黒髪が貼りつき、形の良い眉が時折寄せられている。
 寝息も何処か空気を求めて喘ぐようで、穏やかとは到底言い難い、苦しげな寝顔だった。窓の外は既に明るく、カーテンの布地越しに射し込む陽光が室内をうっすらと照らしている。が、少女はまだ目を覚まさない。
 チチチ、とサイドボードに置かれた目覚し時計が涼しげな音色を奏でる。その音色に、少女は苦しげに身をよじり、呻き声を漏らしながらぼんやりと目を開けた。
「……う……ぁ……?」
 目の前がぼんやりと霞んでいる。見慣れている筈の天井がぐるぐると廻っていて、どうも視線が定まらない。
「起き……なきゃ……」
 やけに躯がだるい。寝汗をやたらとかいていて、シャツの下でぬめる肌が気持ち悪い。ベッドの上で上体を起こして、真子は汗で湿った前髪を掻き上げた。なんだか躯がふらふら揺れているような気がする。
「んっ……と……」
 ベッドから降りようとしたところで、足元が縺れてそのまま倒れこむ。木の床のひんやりした感触を頬に感じて、真子は熱い吐息を漏らした。
「風邪……ひいちゃったかなぁ……」
 呟きながら躯を起こそうとするが、腕に力が入らない。しょうがないので、そのままころん、と寝返りを打つ。カーテンを揺らして吹き込んできた風が、火照った肌に心地好い。そのまま目を閉じそうになっていると、ドアをノックする音がした。
「……は〜い……」
「シン?」
 気だるそうな真子の声に、ドアを開けて玲が入ってきた。床に寝転がっている真子を一瞥して眉をひそめながら、そっと彼女を抱き起こす。
 そのまま、玲はおでこをくっつけた。至近距離で、漆黒の瞳と真紅の瞳が視線を絡ませる。互いの吐息が混じりあう距離、しかしそれが何の不思議もない感覚。幼い頃には、もっと近くで感じていた互いの存在。
 そのまま何の不安感を覚えるでもなく、相手に全てを委ねられる。
 郁に抱き締められた時のようなどきどきや、飛鳥に抱き寄せられた時のような幸福感よりも、ずっと深いところで安心感が広がっていく。
「熱がある」
「……そうみたい」
 真子は、そっと目を閉じて弟の肩に頭を凭せ掛けた。玲は、そんな真子の躯を抱き上げ、ベッドへと運ぼうとする。が、その腕を真子が掴んだ。
「だめ……練習、あるから……」
「無理。今日は休んで」
「でも、休めないもん。コンクール、明後日なんだよ。みんなに迷惑かけちゃう」
 言って、真子は玲をじっと見詰めた。その瞳に、玲は弱い。姉が自分に頼み事をする時というのは大抵、自分が反対したい時なのだ。なのに、そういう時に限って頑固なこの姉は、自分に言うことをきかせる術を心得ている。
 理屈で言えば、練習で無理するより、本番に備えてゆっくり休養した方がいいに決まっている。本番で休まれる方が迷惑だ。だが――
「お願い」
 熱に潤んだ真っ黒な瞳でじっと見上げられたら、たとえそれがどんなに間違ったことだと解っていても、その結末が解り切っていても、玲には否とは言えないのだ。あの幼馴染ならどうだろう。怒鳴りつけるぐらいはするだろうか。わからない。
「……解った」
 深い溜息を吐いて、玲は真子を下ろした。
「ありがと」
 未だ躯を玲に凭せ掛けながら、真子は弟にそう囁いた。姉の躯を支える腕に、その熱さが伝わってくる。
「今日、早いね。どうしたの?」
「……こうなるの、解ってたから」
 姉の乳房の柔らかい感触が胸にあたって、少し心拍が跳ね上がるのを感じながら、玲はあまり抑揚のない声で言った。が、その声音が僅かに乱れていたのを、音楽家の鋭敏な耳を持つ姉なら聴き取ったかも知れない。
「シン、きっと朝になったら熱出すだろうなと思って」
「なんか、馬鹿にされた気分……」
 そう言いながら、口調はかなり甘えている。だが、そろそろ離れてもらわないと、正常な青少年的にちょっと困った状態になってしまう。
「ご飯は?」
「食べたくない……」
「学校に行くなら、朝ご飯ちゃんと食べないと」
「……ん、わかった」
 さもなければ縛り付けてでもベッドに拘束しかねない弟の様子にちょっと苦笑して、真子は小さく頷くと、そっと躯を離した。躯の奥に不快感がまだ残っていたが、眩暈はなんとか治まった気がする。
「シャワー、浴びてくるから」
「一人で行ける?」
「大丈夫」
 力なく微笑んで、真子は部屋を出て行った。その足元はやはりふらついている。それを見送って、玲はそっと溜息を吐いた。言い出したら聞かない姉のことだ、倒れるまで無理するに決まっている。
 今日は姉から目を離せないな、と決めてから、玲は姉の体臭のこもった部屋を後にした。今頃になって感触が甦り、顔が熱くなる。
 彼とて正常な男子中学生、生理的欲求を理性で抑えるのは、容易ではないのだった。
「……」
 自然と、溜息が漏れる。
 リビングに戻ると、玄道が起きていた。昨日の真子の様子から、彼も今日の朝食と弁当は自分で作ることに決めていたようだ。
「どうだ、真子の様子は」
「熱があるけど学校に行くって」
「大丈夫なのか」
「心配なら説得して」
「……一度決めたら、私が何を言っても聞く子ではない」
 呟くように言って、玄道は眼鏡を押し上げた。その横顔を、玲はしばし無言で見詰めていたが、ふいと視線を逸らしながら口を開いた。
「送ってくれる?」
「車でか。それは構わんが……」
 歩くこともままならん状態なのかと、目で問う。それを軽く目を動かして否定してから、玲はバスルームの方を見やった。
「疲れさせたくないから」
「……解った」
 頷いて、玄道は朝食に支度に取り掛かった。にしても、そのエプロンはいい加減なんとかならんか(案外気に入っているらしい)。
 玲と玄道が二人がかりで朝食と弁当の支度をしていると、着替えた真子がやってきた。シャワーを浴びてさっぱりした所為か、少し顔色が良くなった気がする。
「おはよう、お父さん」
「ああ、おはよう」
「ごめんね、ちょっと寝坊しちゃった」
「いや、問題ない」
 そう言いながら、玄道はさりげなく真子の様子を窺っている。だが、真子は何ともないふうを装って、コップに注いだ牛乳を差し出す玲に微笑んだ。
「ありがと。飛鳥は?」
「まだ」
「起こしてないの? しょーがない、起こしてやるか」
「いい」
「え、でも」
「車で送ってやる。大人しくしていなさい」
「……はい」
 玄道の科白に、真子は小さく頷いて大人しく席についた。その前に玄道が食事を運んでやるのを見やって、玲は隣に向かった。放っておいても良かったが、それでは姉が大人しくしていないだろうから、一応声だけはかけてやることにする。お互いに相手の家の合鍵は持っているが、上がりこんでまで起こしてやる気にはなれなかったので、インターホンを鳴らすだけにする。
 意外なことに、飛鳥も既に起きていた。シャワーを浴びていたのか、髪はまだ濡れたままで、上半身は裸だった。タオルで髪を拭きながら、寝不足の不機嫌そうな瞳を玲に向ける。
「……なんだよ」
「朝食」
「ああ。今行く」
 頷いて、飛鳥は背を向けた。が、そのまま足を止める。
「シンの奴、やっぱり風邪ひいたのか?」
「熱がある」
「それでも行くってか。しょうがねーな」
 溜息を吐くと、そのまま飛鳥は振り返らずに奥へと戻っていった。しゅっと音を立ててドアが閉じる。
 遮られた視線をそのまま伏せて、玲は踵を返した。
 
 玄道の車で――といってもMAGIのオートナビゲーションによるものだったが――送られて、真子たちは学校に向かう。わざわざ部室に近い裏門まで廻ったところで、玄道は車を停めた。
「無理はするな。気分が悪くなったら、すぐに言うんだ。いいな」
「……うん。解ってる」
「では、後を頼む」
 そう言って玲と飛鳥に視線を走らせ、玄道は車をスタートさせた。それを見送ってから、三人は部室に向かう。コンクール前なので練習の邪魔にならないよう、部室には入らないが、その近くまで送っていく。真子が部室に入っていくのを見送って、飛鳥は廊下の窓枠に凭れ、息を吐いた。その隣に、玲が無言で背中を預ける。
「……なんか久しぶりだな、こーいうの」
 朝の涼しい空気の中で、飛鳥は言った。視線は裏庭の方に向いている。
「小四の時だっけか。熱あるのに無理して、『大丈夫』つって聞かなくて。結局途中でぶっ倒れて、親父さんにおんぶされて帰ったんだよな」
「演劇発表会の時?」
「おお、それだそれ。俺が王子様でお前が悪い魔法使いやった奴な」
「あれは不正の疑いがある」
「……まだ根に持ってんのか、お前。アレは根回しっつーんだよ、根回し」
 呆れたような口調で言って、飛鳥は溜息を吐いた。が、その蒼氷色の双眸は遠くを向いたままだ。
「無駄だったけどな。お姫様が目の前でぶっ倒れたのに、助けたのは王子じゃなくて魔法使いだった。おまけに観客席から悪の大魔王みてーな髭親父がぶっ飛んでくるし」
「大ウケだった」
「ああ。大爆笑だったな」
 今でも覚えている。『真子ぉ〜っ!』と絶叫しながら観客を掻き分け――というかパイプ椅子ごと跳ね飛ばし、ステージに駆け上ってくる玄道の姿を。そして、その滑稽で真摯な姿を、何も出来ずにただ見ているしかない自分の、嗤うにも値しない情けない姿を。
 肝心のお姫様は漆黒のローヴに身を包んだ悪い魔法使いの腕にしっかり抱きかかえられ、そのまま大魔王によって連れ去られてしまいましたとさ。めでたしめでたし。
 自分はただの道化だった。華麗な王子の扮装が、一層情けなさを助長する。
 頭では解っている。舞台の上での距離から言えば、自分よりも玲の方がずっと近かったということを。しかし、真子の体調が悪いことに気付いていながら、肝心な時に助けられなかったことへの悔恨が、未だに飛鳥の胸の奥で燻っていた。
 あんな思いをするのは二度とごめんだった。自分より玲の方が真子のことをずっとよく見ているのではないか、と思い知らされるのは。真子と一緒にいた時間では、決して負けてはいないと思うのに。
「大人しく寝てりゃいいのに。……あのバカ」
 そう呟いて、飛鳥は空を見上げた。昨日の嵐が嘘のように、空は綺麗に晴れ渡っていた。雲ひとつない快晴だ。
 今日も、暑くなりそうだった。
 
「碇さん、ちょっと」
 早朝練習が終わった後、真子は音楽教師に呼び止められた。
 躯がだるい。熱の所為か、視界が定まらない。ぼんやりと自分を見上げる真子の赤い顔を一目見て、彼女は「やっぱり」と頷いた。
「音に集中出来てないみたいだったけど、体調が良くなかったのね。駄目よ、無理しちゃ。午後の練習には出なくて構いません。明日も辛いようなら休んで構わないわ。本番までに体調を整えていらっしゃい。本番では先刻のような演奏は許されないわ。――普段の貴女の実力を発揮出来れば何の問題もないと思うけど」
「……はい」
「今日はもう帰った方がいいんじゃない? なんなら日向先生に連絡しとくわよ」
「いえ、大丈夫です」
「そう? そうは見えないけど……まあいいわ。無理は駄目よ、いいわね」
 俯いたままの真子を見やって、音楽教師は溜息を吐いた。
「さ、出ましょう」
 教師に促されて部室を出た真子は、廊下に飛鳥と玲が立っているのに気付いてぼんやりと顔を上げた。
「飛鳥……玲」
「もう帰るか?」
「……」
 飛鳥の問いに、しかし真子は首を振る。ここまで意地になっている真子は珍しいので、飛鳥も玲もどうしたらいいものか解らない。
「辛くなったらすぐ言えよ。解ったな」
「……うん。ごめん」
 肩を貸そうとする玲の手を拒んで、真子は一人で歩き出した。その覚束ない足取りをハラハラして見詰めながら、いつでも助けられるように両脇を飛鳥と玲が固める。普段の倍も時間をかけて教室に辿り着いた真子に、光が寄ってきた。
「どうしたの? 顔色悪いわよ」
「なんでもない……平気」
 そうは見えないんだけど……と内心呟きながら、光は飛鳥と玲に目をやった。が、飛鳥が軽く肩を竦めるのを見て、仕方ないと諦めて溜息を吐く。
「なんや? どないしたんや」
「体調が悪いみたい。でも、飛鳥が言っても駄目なら、私が言っても聞くわけないわね」
「生理か?」
 げすっ。
「〜〜〜〜っ。今のはめちゃめちゃ痛かったで、いいんちょ。カドや。カドはあかん」
「馬鹿なこと言ってないで、さっさと花瓶のお水を替えてきなさい!」
「はいただいま」
 慌てて立ち上がる冬児を見送って、健輔は軽く息を吐いた。
「久しぶりに出番かと思ったらこれか。脇役は辛いね」
 呟きながら、机に突っ伏している真子を見やる。辛そうにひそめられた眉や、熱の所為で火照った頬、汗で貼りついた解れ髪、半開きになった唇。喘ぐような吐息すらもがやたらと色っぽい。
 思わずごくりと生唾を飲み込んだほど艶かしいその表情をカメラに収めたかったが、流石に今はやばいのでやめた。何しろ、飛鳥と玲が片時も目を離さずに彼女を見詰めているのだから。今は写真を撮っても何もされないだろうが、後で報復が百倍になって返ってくるに決まっている。――それも二人がかりで。今度ばかりは命が危ない。
(絶対売れると思うけどなあ)
 呟きながら、個人的な趣味としてこっそり隠しカメラのシャッターは切る健輔だった。手に持っているハンディカメラは囮である。
 と、校門の方から女子の黄色い嬌声が聞こえてきた。見なくても解る。渚郁のご登校である。軽くカメラを向けると、ズームしたフレームの中に、女子の集団を連れた郁が歩いてくるのが見えた。二年と三年がメインだが、中には一年の姿も混じっている。
 恐るべきは、近隣の女子生徒の顔を全て記憶し、名前とクラス、メールアドレスまでも網羅した顔写真つきのデータベースを持っている相田健輔の方だろうが。彼のサイトの裏ページは極秘情報の宝の山である。そおゆうことをしているからいつまで経っても春がこないということを、彼はまだ自覚していない。
 嬌声が徐々に近づいてきて、郁が教室に入ってきた。取り巻きの女の子たちは、クラスの郁ファンたち――郁さま親衛隊(自称・非公認)――のガードに阻まれ、教室の中には入ってこれない。
 郁が入ってくると、それまで机に突っ伏していた真子がむくりと躯を起こした。声をかけたそうにしているが、視線が合うと俯いて目を逸らしてしまう。郁もその様子は気付いていたが、周りにいる女の子の相手で忙しく、一瞬心配そうな視線を真子に向けただけだった。その視線が、進路上で飛鳥と玲のそれとぶつかり合う。直上会戦である。周りの女の子たちもその雰囲気に気付いたが、やがて飛鳥たちの方が先に視線を外したため、事なきを得た。
 やがてチャイムが鳴り、日向が入ってくる。そして、一日の授業が始まった。何事もないまま、冷ややかな緊張感を湛えて――
 真子は何度か郁に話しかけようと思ったが、そもそも彼女から郁に話しかけたことなど数えるほどもない。休み時間はいつも親衛隊の女の子たちが張り付いているから、真子が郁と話が出来るのは、昼休みか帰り道しかないのだった。
 だが、真子の躯の方は、それまで保たなかった。二時間目の途中で、くずおれるように意識を失ったのである。
「真子っ!」
 そう叫んで立ち上がったのは、飛鳥の方が早かった。血相を変えて真子のぐったりした躯を支え、額に手を伸ばす。
「保健室に連れて行きます。いいですね」
「あ、ああ……」
 有無を言わせぬ声音で教師に言って、飛鳥は意識のない真子を花嫁抱きにして抱え上げた。その傍らに、玲が音もなく立つ。呆気に取られる教師とクラスメートを尻目に、三人は教室を出て行った。
 それを無言で見送った郁が、何ともいえない表情でそっと目を伏せたのに気付いたのは、健輔ただ一人だった。

つづく

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