EVANGELION:REVERSE
〜真


Written by:きたずみ
EPISODE:07 Two years ago(6)

 保健室のベッドに寝かされた真子。
 その意識は、夢と現実の狭間をたゆたう。
 消毒薬の匂い。白い壁と天井。それらは、何処か懐かしくて、しかし厭な記憶を呼び醒ます。
 ――母が死んだ日。
 母が死んだと聞かされた時の、心にぽっかりと穴が開いたような感覚。
 人の死というものを理解できる年齢ではなく、しかしベッドに横たわったまま動くことのない母のかたちをしたものを見た時の、どうしようもない喪失感。
 眠ったような母の顔、その肌の異様な冷たさ。躯を抱き締める、父の腕。痛いほどに強く自分を抱き締めながら、吼えるように泣き叫ぶ父。頬に滴り落ちる熱い雫。大切なものを喪って深く傷ついた、獣の咆哮のような父の泣き声が耳朶を叩く。
 事態を理解しているのかいないのか、黙って自分の手を握り締めている、玲。それを、やや離れた所から茫然と見ている飛鳥と、傍らの冬月。
 真子が四つの時の出来事だった。
 涙は出なかった。感情が飽和して、何も考えられなかった。実際に母がいなくなってしまったのだと理解出来たのは、夜、眠りに就く頃だった。
 闇の中に、母のいろんな顔が浮かんでは消えた。
 微笑った顔、怒った顔、困ったような顔、含羞んだ顔――
 その中に、涙はなかった。
 ――お父さんと玲を、頼むわね。
 死ぬ一年ほど前、結衣が真子にそう言ったことがあった。
 母の隣で、玲と手をつないで眠った。母の温もりと、匂いが好きだった。それに包まれていると、無条件で安心できた。闇も不思議と怖くはなくなった。
 正直な話、小四になるまで、真子は真っ暗な部屋では寝つけなかった。今でも、暗闇は苦手だ。怖がる真子を、母は優しく抱き締めてあやしてくれた。寝つくまで傍にいて、安心させてくれた。
 けれど、母はもういないのだと、二度と抱き締めてくれないのだと、その時、解った。遅れてきた涙が瞳に溢れた。
 その時になって、真子は枕に顔を埋め、声を殺して咽び泣いた。
 
「――おかあさん……」
 ベッドに寝ていた真子が、不意に呟いた。見ると、眦から透明な涙が一筋、頬を伝って流れ落ちた。
「結衣さんのこと、思い出してんだな」
 優しい声でそう呟いて、飛鳥は真子の髪をそっと撫でた。そのやるせなさそうな顔から目を背けて、玲は姉の寝顔を見詰めた。
 ピピッと電子音がして、保健医が真子の耳から電子体温計を外した。
「八度五分か。高いわね……」
 体温計の液晶表示を見て呟くと、保健医は飛鳥たちに目をやった。
「連れて帰って、ゆっくり休ませた方がいいわね。どうする? タクシー呼ぼうか?」
「いえ、大丈夫です。こいつ軽いですから」
 そう言うと、飛鳥は躊躇なく真子を抱え起こした。
「玲、荷物頼む」
「……解った」
「玄関で待ってっから」
 真子を背負う飛鳥を一瞥して、玲は授業中の教室へと引き返していった。
 
 帰り道。
 真子を負ぶった飛鳥と、三人分の荷物を抱えた玲は、無言のまま並んで歩いていた。
「……おかあさん、か」
 何ともいえない顔で、飛鳥はポツリと呟いた。
「お前、母親のこと覚えてるか? ――結衣さんのこと」
「ちょっとだけ」
 飛鳥の背中で眠る真子に視線を走らせながら、玲は言った。
 彼の中では、「母親」のイメージは姉と重なっている。思い出といえるほど、母のことは覚えていない。
 双子であるから、姉と同じだけ母と一緒の時間を過ごしてきた筈である。いや、躰が弱かった所為もあって、母の手を煩わせるのは姉より玲の方が多かった筈なのだ。にも関わらず、母のことを思い出そうとすると、脳裏に浮かぶのは幼い姉の姿だった。
 正直、母の死のことも良く覚えてはいない。ただ、姉と二人きりになってしまった夜の子供部屋で、薄闇の中、枕に顔を埋めた姉の漏らす嗚咽の声が、耳の奥に残っている。
 姉が泣いたのを見たのは、後にも先にもあの時だけだった。
「結衣さんというと、大抵病院を思い出すんだよな。シンの奴、しょっちゅうお見舞いに行ってたから」
 だからかもしれない――病院や薬の匂いが苦手なのは。
 だからかもしれない――母親のイメージが自分の中に存在しないのは。
 飛鳥の場合。母は、母親たることよりも仕事を選び、子供を顧みなかった。
 玲の場合。母は、病院と家とを行ったり来たりで、「お客さん」という感じだった。
 真子の場合――
 これは、飛鳥たちには解らない。女同士の、母と娘という関係は、男には一生理解し難いもののひとつだろう。
「――重くない?」
「言ったろ。すげー軽いんだよ、こいつ」
 知ってる――思わずそう言いそうになって、玲は飛鳥から目を逸らした。姉の躯の感触を思い出しそうになるのを抑える。
 そのまましばらく、前を向いたまま黙って歩く。
 ややあって、飛鳥がポツリと口を開いた。
「シンの奴、なんで学校に来たがったんだろうな」
 玲は答えない。だが、脳裏には、郁に視線を送っている真子の姿が浮かんでいる。それは飛鳥も同じようで、横目で見るとあまり面白くなさそうな表情をしていた。
 ――ふわふわする……
    なんか……あったかくて……きもちいー……
    ……懐かしいにおいがする……。この感じ……前にどこかで……
 ――お父さん?
 微かに開く目。それが捉える朧気な状況。飛鳥に負ぶわれた自分。明確にならない意識と安心感の狭間で、真子は飛鳥にぎゅっと抱きついた。
 ――飛鳥のにおいだ……。
 思っていたよりも広くて逞しい背中。いつも自分の傍にいた筈の少年が、何時の間にか父のような一人の男になりかけていることを実感する。飛鳥が何か喋っているが、明瞭りとは聞き取れない。その低い声音が心地好い。もっとくっつきたい。
 半分眠っているような状態で、真子はさらに飛鳥の躯にしがみつく。急にしがみつかれて狼狽える飛鳥。背中に柔らかな膨らみが押し付けられてどぎまぎする。真子の腕が、絡みつくように首筋に回される。艶かしい吐息が鼓動を高める。その中に笑みが混じっているような気がして、飛鳥は焦りながら眉をひそめた。
「……こいつ、ひょっとして起きてんじゃねぇか?」
「寝てるみたいだけど」
「そ、そか。なら、いーや」
「代わる?」
「いいって」
「代わろうか?」
「だからいいっつーの」
「代わろうよ」
「やだっつってんだろこのタコ」
「君はだんだん代わりたくな〜る」
「ならねー。お前キャラ変わってんじゃねぇ?」
「いいから代われよ」
「やだよ」
 羨ましそうな玲と、この刹那の倖せを手放したくない飛鳥は、そんな風にじゃれあいながらマンションまで辿り着いた。何となく、もうちょっとこのまま歩いていたかった気もするが、真子を早く休ませてやらねばと思い直す。
「じゃ、そーゆーわけで」
「何処に行く」
 自分の家に連れ込もうとする飛鳥の肩を、ぐわしっと掴んでぎりぎり力をこめる玲。ヤツは本気だと、その殺意に満ちた瞳を見て思う飛鳥。
「冗談だよ、真に受けるな」
 うそつけ。
 疑念に満ち満ちた玲の冷ややかな瞳が、如実にそう語っていた。
 あまり気の進まない風の玲にドアを開けさせて、背中の真子をベッドに下ろす。背中から不意に消えた温もりと、そこに流れ込んできた空気が、とてつもない喪失感を飛鳥に覚えさせる。軽く息を吐いて、飛島は部屋を見回した。
 あんまり女の子らしさを感じさせない、飾り気のないシンプルな部屋。壁際にはチェロのケースが立てかけられ、棚には音楽ディスクとスコア、文庫本や少女マンガなどがきちんと整頓されて並んでいる。それでもドレッサーがちゃんとあるあたりは、やはり女なんだなと納得する。化粧をしているところなど見たことはないが、単に自分が気づかなかっただけかもしれない。
(なんか、すげー久しぶりって感じだな……)
 碇家に半分住んだ状態になって久しいが、随分と長い間この部屋に入ってなかった気がする。小学校低学年の頃は三人で一緒に寝ていたものだったが、何時の間にか別々になって……考えてみれば、この部屋に入ったことは数えるほどしかない。
『いっしょに寝れば、さみしいのは半分になるよ』
 そう言って、一人で泣いていた自分の手を引いてくれたのは、いつのことだったろう。いつものように母親がいない夜、寂しくて心細くて泣いている自分の所に彼女がやってきたのは、いつだったろう。
 つい最近のような気もするが、すごく昔のような気もする。あの頃は、真子に甘えるなんて簡単だった。でも、今は……。
 背丈が真子を追い越して、自分の方がずっと力が強くなって、真子を守らなければという思いが、その細くて小さな躯に縋りつきたいという衝動を抑えた。下手をすれば自分が真子を傷つけてしまうから、怖くて触れることも出来なくなった。
 愛しいと思う反面、誰の目にも触れないようにしたいという衝動が湧き起こる。どうしようもない独占欲。彼女の全てを自分一人のものにしたい。自分だけを見ていて欲しい。他には何も映らないように。
 なんのことはない、自分は我儘な子供なのだ。そう解るから、必死に自分を抑えこんだ。けれど、抑えれば抑えるほど、自分の中の獣は激しく暴れ、大きく成長していく。このままではいつか、獣は檻から逃れてしまうかもしれない。そうでなければ、いつか自分が獣に飲み込まれてしまうかもしれない。その獣を大人しくできるもの、やがては破滅に至るこの病を癒せるものが何なのか、飛鳥にはまだ解らなかった。
「……っと、このままじゃマズいよな、やっぱ」
 制服のままベッドに横たわって、赤い顔で苦しそうに喘いでいる少女の姿に欲情している自分を嫌悪しながら、飛鳥は困ったように玲を見やった。
 いつまでも制服を着せておくわけにはいかない。着替えさせねばならないし、汗も拭いてやらないといけないだろう。問題は、どっちがそれをするかということだ。かといって、共同作業というわけにもいくまい。
 そのまま逡巡することしばし。突然鳴り響いたチャイムに、玲と飛鳥はびっくぅ〜と躯を跳ねさせた。人間、疚しいことを考えているとこうなる。
 再び鳴り響くチャイム。二人は揃って玄関に向かった。互いの監視のためである。
「はいはい」
 ドアを開けると、そこには我らがいいんちょ、洞木光とその他大勢――
「おいっ!」
 もとい。いいんちょのペットことパチもん関西人のじゃーじまん鈴原冬児と、おたく眼鏡の変態カメラ小僧こと相田健輔、そして銀髪の麗人・渚郁が立っていた。
「……なんだよ、この扱いの差は……」
 雑魚がなにやら呟いていたが、まあそれはどーでもいい。
「ど、どうしたんだよ、光」
「真子が心配になってきてみたんだけどね」
 腰に手を当てて、泡を食った様子で出迎えた男二人をじろりと睨め回した光は、「やっぱりね」と息を吐いた。
「来てみて良かったわ。お邪魔するわよ」
「お、おい」
 飛鳥と玲を無視して、光はずかずかと上がりこむ。勝手知ったるなんとやら、真子の部屋を目指して一直線。その後にどやどやと続く野郎ども。が、真子の部屋の入り口で振り返った光は、物凄い形相で男どもを怒鳴りつけた。
「女の子の部屋にむさ苦しい男が入り込むつもり!? 向こう行って!」
 その言葉を残して、ぴしゃりと扉が閉じられる。廊下に残った男四人は、互いに互いの様子を窺っている。ただ一人、郁だけはのんびりリビングでくつろいでいた。
「お茶ぐらい出してくれないか? 気がきかないねぇ」
「てっめぇ――……」
 問答無用でその後ろ頭を蹴り飛ばしてから、飛鳥ははぁはぁと荒い息を吐いた。玲に追い立てられてリビングに入ってきた冬児と健輔は、ひくひくと痙攣している郁を一瞥して、ちらりと目を合わせた。
(なあ、帰った方がええんとちゃうか?)
(いや、せめて一瞬なりともカメラに収めるまでは)
(……ま、死にたいなら止めへんけどな)
 すぐ後ろに立っている玲をちらりと見やって、冬児は諸手を上げ、投降した。
(魔界や、ここは)
「あ、だめ、そこは……いやん」
「気色悪い声あげるんじゃねぇっ!」
「……なんやねん、これ」
「すごい熱意だねぇ。それだけは賞賛に値するよ」
「……」
 ボディチェック開始早々、出るわ出るわ。健輔の躯中から、どうやって隠していたのかと思うくらいの盗撮グッズの数々を取り出して、飛鳥は冷ややかな視線を眼鏡小僧にくれた。
「言い残すことはあるか?」
「……イタくしないでね」
 合掌。
 油断も隙もない変態カメラ小僧を念の為に殲滅してから、飛鳥はソファに腰を下ろした。玲が四人分の番茶を煎れて戻ってくる。
 目の前に置かれた湯飲みを見やって、飛鳥の顔がひきっと凍りついた。
「――おい……何で赤いんだよ………………」
 仄かに漂う辛い匂い。ぷ〜んと鼻をつく、香辛料の匂い。番茶には本来あらざる匂いとその色に、飛鳥は思い切り顔をしかめた。
「玲……何入れた?」
「隠し味にタバスコを少々」
「入れるなそんなもんっ!」
 真っ赤なお茶の入った湯飲みをまるで恐ろしいものか何かのようにそっと押しのけて、飛鳥は長い息を吐いた。光の入っていった真子の部屋の方を見やる。
「……真子さんの具合はどうなんだい?」
 妙にしょっぱいお茶に顔をしかめながら、郁がそんな飛鳥に目をやって訊いた。冬児の方は、何か甘いなとか思いながらあまり気にせずに茶を啜っている。凄いぞじゃーじまん。その調子でミサトカレーを食ってくれ。
「ただの風邪だよ。熱が……確か八度五分だったか。結構良くあるんだ。ここまでひどいのは久しぶりだけど」
「すまない。僕の所為だ」
「気にすんな」
 気にされてたまるかとか思いながら、素っ気無く言う。
 その時、真子の部屋から光が顔を出した。
「碇くん、タオル用意してくれる? あと、お湯と洗面器も」
 その言葉に、玲が素早く動く。言われたものを用意して届けた玲に、光はにこやかに微笑むと、「ありがと」と言い残して素早くドアを閉めた。扉越しに「悪いけど、あとで水枕用意してね」という声が聞こえる。内部の様子は一瞬も見えなかった。
 果たして中で何が行われているのか。男どもの脳内で一体いかなる妄想が展開されたかは不明だが、気まずい沈黙がリビングを満たしていた。
 
 やや熱めのお湯を満たした洗面器とタオル数枚を玲から受け取って、光は素早くドアを閉じた。念の為にドアロックを下ろして、ベッドの真子を振り返る。
 真子は既に服を脱がされ、素肌の上に布団をかけられていた。脱がせた制服はハンガーにかけられている。シャツと下着は後で洗濯するつもりだ。洗面器とタオルをベッドの脇に置いて、光は布団を捲った。
 露わになる真子の素肌に、脱がせる時にも光を襲った感動とも羨望ともつかぬ思いが胸の中に満ち溢れる。まだ膨らみかけの乳房はすっぽりと掌に納まる感じで、一方腰周りはほんのりとまろみを帯びてきている。女の自分が見ても、綺麗だと思う。本人にその自覚がないあたりが反則だ。
 ピンク色の花弁のような唇は半開きになっていて、そこから真っ白い小粒の歯が覗いている。前髪が汗で額にへばりつき、頬の辺りが真っ赤に染まっているのが妙に艶っぽい。さらさらの黒髪をそっと撫でる。肌の下で滑る感触が心地好い。頬を指先でつついてみる。ぷにぷにした感触がたまらなく気持ちよかった。「んー、むー」と眉根を寄せて呻きながら身をよじる真子の仕種が、無性に可愛い。このまま抱き締めてしまいたいという衝動に駆られる。
(な、なに考えてるの、わたしったら)
 ハッと我に返った光は、思わずぼうっと見惚れていた自分を叱咤して、タオルをお湯に浸し、固く絞って、真子の躯を拭き始めた。ことさら意識しないよう、機械的に躯を拭っていき、乾いたタオルで水気を拭いてから、さっき見つけておいた真新しい下着と大き目のTシャツを着せてやって、ようやく息を吐く。頬が火照っているのが自分でも解った。耳が熱い。
(ししし、しっかりするのよ、光)
 眠っている真子に布団をかけてやって、ようやく気を取り直す。先刻より呼吸が落ち着き、顔の赤みも引いたようだ。おでこに手を伸ばす。
「まだかなり熱があるわね……」
 呟いて、光は洗面器を持って部屋を出た。玲から水枕を受け取って、代わりに洗面器を渡すと、真子の部屋にとって返す。頭の下に敷いてやって、光はそっと真子の髪を撫でた。そうしながら、さっきの衝動は何だったのだろうと考える。
(女の子同士なのに……どうしちゃったのかしら、わたし)
 どきどきする胸をそっと押さえて、光は真子の寝顔を見やった。水枕のおかげだろうか、随分と寝息が静かになってきており、表情も柔らかくなっている。それを見て、ホッと息を吐くと、光はタオルと一緒に洗濯物を持って外に出た。
「碇くん、ちょっと洗濯機借りるわね」
「あ、いいんちょ」
「なに、鈴原?」
「碇の具合、どないや?」
「だいぶ落ち着いたみたい。まだ熱はあるけど」
「さよか。そら良かった」
 安堵の息を吐いて、冬児は重苦しい空気に満ちたリビングを見渡した。殲滅された健輔はぴくりとも動かないし、飛鳥は郁と何やら睨みあっている。玲はいつものごとく何を考えているのか解らない。
「あんたたち、もう帰ったら?」
 慣れた手つきで洗濯物を洗濯槽に放り込みながら、光は言った。真子に劣らず、彼女も主婦としてのキャリアは伊達ではない。動きに無駄がなかった。
「なんでや。まだ見舞いしてへんがな」
「女の子の寝顔を見たがるんじゃないわよ、スケベ。ほんとに真子のこと思うなら寝かせてあげなさい。それが一番いいんだから」
「……まあ、そやろけど……いいんちょはどないするねん」
「もうちょっとついててあげようと思うの。せめて真子のお父様が帰ってこられるまで。この二人に任せておくと心配でしょ――イロイロと」
「あ、忘れてた。髭に電話だ、玲」
「了解」
「……やれやれ」
 今頃になって玄道に連絡をとろうとする二人を呆れたように見やって、光は溜息を吐いた。担任の日向から既に連絡が行っている筈である。
「しょうがない。そういうことなら、僕らは帰ろうか」
「そうしなさい。大体、あなたたちまでついてくることなかったのに」
「だって心配じゃないか。元はといえばなうっ」
「え?」
 目の前で飛鳥に蹴り飛ばされた郁の言葉に、光は眉をひそめた。
「どういう意味?」
「真子さんに風邪をひかせてしまったのは僕だってことだよ」
「何よ、それ」
「実は昨日僕の家で雨宿るぅぼわッ」
「何でもない何でもない。さあ帰れすぐ帰れサヨウナラ」
「痛いじゃないか」
「ならもっと痛そうに言えよ」
「友人の愛情表現を無碍には出来ないだろう?」
「愛なんかねぇっ!」
「のぉっ」
 げしぃ――
「仲良し?」
 ぽつりと呟く玲。その言葉に凍りつく飛鳥と、何故か妙に嬉しそうな郁。
「…………ほな帰るわ」
「えっ?」
 未だ復活しない健輔の亡骸(?)を引きずって、冬児は碇家を辞することにした。このままここにいると、要らぬ巻き添えを食うと判断したためである。
「あと頼んだで、いいんちょ」
「あ……、うん」
 言いたいことは一杯あったのだが、口には出せない光。出て行く冬児の背中を見送るしかない。郁は飛鳥とじゃれている。電話口で何故か黙りこくっている玲。音声通信で黙り込んでどうする。それで意思疎通が出来ているとゆうのだろうか。謎だ。
「そういえば、真子、今日はずっと渚くんを見てたわね」
「……」
「何か話があったんじゃないのかしら」
「愛の告白かな」
「…………碇くん、お父様に連絡はついた?」
「無視するのかい? 冷たいね。きみは好意には値しないな。きらいだ」
「すぐ帰るって」
「……そ、そう(どのへんに会話があったのかしら)」
「相手しておくれよ〜〜」
「もう帰れよ、お前」
「飛鳥、僕の相手をしてくれるのはきみだけだ。僕と友情を深めよう」
「お前とだけは絶っ対に死んでもイヤ」
「……はあ」
 ひどくげんなりした気分で溜息を吐いた光は、洗面器と濡れタオルを持って、真子の部屋に引っ込むことにした。
「……なんだかノリが悪いねぇ、彼女は」
「いや、あれが普通だろ」
「ちょっとお茶目な可愛いジョークなのに」
「真っ黒けのな」
 うんざりしたように言って、飛鳥はTVを点けた。気を紛らしてくれるなら何でも良かったのだが、郁がTVラックの下からゲームパッドを取り出すのを見て、にやりと笑った。
「勝負だ、飛鳥」
「ハッ、返り討ちにしてくれるわ若造」
 そんな二人を見て、玲は思った。やっぱり仲良しだ、と。
 そして、そのまま真子の部屋に向かった。
 
 二人きりになったリビング。
 ただゲームサウンドのみが沈黙を破ろうと足掻くように流れている。飛鳥と郁、二人の視線はモニターに注がれているが、互いに意識の大半は躯の隣に注がれていた。
「真子になんかしたんじゃねぇだろな」
「抱きしめてキスして、好きだと言った。それだけだよ――おでこだけどね」
「……」
「きみはもう言ったのかい? 好きだって」
「……て……よ」
「ん?」
「言ってねぇよ」
 半ば無意識に近いような動きで指先を動かしながら、飛鳥は嗄れた声で押し出すようにその言葉を紡いだ。
「まあ、そうだろうね」
 ドリフトをかけてインに滑り込みながら、郁は言った。
「解っててもちかけたのか?」
 ゲームをしよう、と郁は言った。
 ――一週間以内に告白して、彼女が受け入れてくれた方の勝ち。
 つまりは真子次第ということだ。そうでなければ受けたりはしなかった――喩えどんなに頭に血が上っていても。
 真子が受け入れる筈がない、という半ば確信めいた思いがあった。伊達にこの一年、真子にフラれ続ける男どもを見てはいない。何せ、告白されたという自覚すら満足にはないらしいのだから。
 以下はそのそのほんの一例。

とある男子生徒「すっ、好きなんだ、付き合ってくださいっ!」
      真子「え、何処に?」
とある男子生徒「……」
      真子「あ、ごめんね。これから晩御飯のお買い物があるから」
とある男子生徒「……」
      真子「飛鳥ぁ、玲、かえろー」
とある男子生徒「……青い春なんて嘘っぱちだぁっっ!」

 ……閑話休題。
「まあ、大体はね。僕が現れたぐらいで言えるようなら、今まで何もなかったわけがない。今まで何もなかったのは、それだけきみと彼女の距離が近いという証拠だよ――家族と錯覚してしまうくらいにね」
 飛鳥は顔をしかめた。『錯覚』とは言ってくれる。偽りかもしれないが、家族としての繋がりがあることは事実で、それは飛鳥にとっては大切な絆だ。それを『錯覚』の一言で片付けられてはたまらない。
 だが一方で、自分が家族ではなく恋人としての絆を真子と結びたいと思っているのも確かで、そのためには、家族の絆は邪魔なのだ。
「……嫌な奴だな、お前」
「よく言われるよ」
 さらりと答える郁。後ろから飛鳥が猛追をかけてくる。最後のコーナー。インを取らせない郁。アウトから回り込んだ飛鳥は、そのまま強引にブーストをかける。負けじと郁もブースト開始。何やら懐かしいCVが響く。
「悪いけど、僕には時間がないから」
「どういう意味だ?」
「真子さんから何も聞いてないのかい?」
「だから何を」
「きみには朗報かな。日曜には僕はここからいなくなるよ」
「なっ?」
 目を離した隙にラインを外れ、マシンはそのままコースアウト。郁のマシンはあっさりと後続を振り切って、トップでチェッカーフラッグを受ける。だが、飛鳥にとってはそんなことはどうでも良かった。郁の言った言葉が頭の中でぐるぐる廻る。
(そうか……そういうことか)
 真子の様子がおかしかった理由――郁が日曜には第3新東京市からいなくなることと、無関係ではないだろう。そのことで話がしたかったのではないのか。だから、風邪をひいたぐらいで学校を休んではいられなかったのだ。郁と話が出来るのは、今日と明日しかないのだから。
「何時()つんだ?」
「午後のリニアで。見送りは要らないよ」
「心配すんな。お前の見送りなんざしてる暇はねーよ。俺たちゃ真子の演奏を聴いてる真っ最中だからな」
 マシンのチューニングをしながら言った飛鳥の科白に、郁はハッとしたように顔を上げた。視線を落として溜息を漏らしながら呟く。
「そうか、コンクールか……真子さんがオープニングのソロを演奏()るんだったね」
「ま、そういうわけだ。残念だったな」
 ふんと鼻を鳴らしてせせら笑いながらも、飛鳥の表情は晴れない。
「確かに残念ではあるけどね……まあ、いいさ」
 想いを残した方が、帰りたいという欲求も強まるだろう……。その想いが、この生命を現世に繋ぎ止めてくれるかもしれない。
「帰ってきてから聴かせてもらうからね。精々、僕の代わりに彼女を護っていてくれ。いつか彼女を迎えにくるから」
「死ぬまで言ってろ、バーカ」
 ――試合中断、後日再試合ってとこか。
 などと考えながら隣の少年を見やる。真子のことがなければ、案外気の合う友達になれたかもしれない、とちらりと思って苦笑した。自分でもそんな考えを抱いたことに驚いてしまう。
「どうしたんだい?」
「べつに」
 言って、飛鳥は再びモニターに目をやった。
つづく

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