Hey,
darling!〜8
一歩踏み出した足は、身を切る寒さに固まってしまった。
そこへ、後ろからふんわりとしたものを首に巻かれる。外へ逃げようとしていた体温は留まって、ぽかぽかと温まってくる。
どうやら襟巻きにはカイロが入れられているようで、どこまでも気が付くオトコに新一は礼を言おうと振り返る。
と、さらにほんわかとしたぬくもりに包まれた。
「じゃ、いってらっしゃい」
「あ……うん…」
にっこり笑って手を振る快斗に、新一は数回瞬きを繰り返し、覚束ない足取りで通学の途へとついた。
「送って行ったほうがよかったかな?」
「大丈夫じゃないの。いつもは半分寝ながらだけど、今日は意識はハッキリしているようだから」
「哀ちゃん。おはよう」
「おはよう」
赤いダッフルコートを着てランドセルを背負った哀のかわいさは、実に将来が楽しみだと万人に思わせるものがある。が。今の、この状態がイイだなんてモノがいるのも事実。
「アブナイヤツって案外多いからな。気をつけないと」
「心配ご無用よ。私はちゃんと自覚があるから、撃退法だって心得てるし。問題は彼の方」
新一の背中を見送っていたが、角を曲がって見えなくなると視線を快斗へと合わせてくる。小学生では決してありえないキツイ眼差しで。
「手が早いというべきか、それとももうそういう仲なのかしら?」
「どう思う?」
にこにこ笑ったままの快斗に、哀は肩を竦める。
「取りあえず、ちゃんと起きて学校に行ってるのだから、あなたの理性はマトモだという証明にはなるわね」
「ま、取りあえずはね。ぎゅっと抱きしめると胸に擦り寄ってくるし、起きようとしたら腕にしがみついてくるしで、男心をイヤってほど擽ってくれたけど」
「…まさか、一緒に寝たの?」
「使えるベッドは一つしかなかったからさ」
珍しくも驚きを露にした哀は、まじまじと目の前のオトコの顔を見る。
「そんなに驚くことかな?一緒のベッドで寝るのも一つ屋根の下にいることも大して変わらないと思うけど」
「ああ…そうね、大雑把に言えばね…」
「大体さ、哀ちゃん。一晩たってからオレのことをどうこうしようだなんて、悠長なことは思ってなかっただろ。何かあってからじゃ、遅すぎるからね」
からかうような悪戯な光を宿した瞳が、哀を見下ろす。負けずに睨み返して、哀も口元に笑みを作る。
「そう、今更ね。彼に手を出そうとすれば、それこそ今まで何度となくチャンスはあったのですもの。でも、あなたは彼を守りこそすれ、傷つけることはしなかった」
「だから信用したって?」
「納得がいったのよ。彼と繋がりがあったからこそ、ああまで献身的だったってね。多少シチュエーションが変わっても、どこかのバカみたいなことをあなたがするはずがないわ」
「お褒めいただき光栄だね」
おどけたような口調に、微かに滲んだ昏い響き。哀は、昨夕の会話を思い出す。
こんなことになるだなんて思ってはなかった――――そう言った通り、快斗はまだ新一に近付くつもりはなかったのだろう。巻き込まないためにも、全てが終わるまでは。
それなのに固い決意を曲げさせたものは何なのか。
容易に思い当たるのが、この一週間の新一の生活態度。傍から見守るには我慢ならない状況だったと、他ならぬ哀自身が骨身にしみて知っている。
誰より新一の側にいた者として、些か申し訳なさを感じてしまう。
「違うよ」
「…え?」
無意識に俯いていた哀は、覗き込むように見つめる快斗と視線を合わせた。
「その"どこかのバカ"のせいなんだ。でなきゃ、もっとステキな出逢いを演出した。ま、新一を守ることはオレの特権だから、不満はこれっぽっちもないよ」
「そう…」
余計なことは何も言わず、負い目や負担を感じさせない。
快斗の人となりがわかってきて、自然と哀の表情も和らいだ。新一があっさり懐柔されたのもなんとなく頷ける。
「ホラ、さっそく来た。"どこかのバカ"のうちの一匹が」
「あら、ホント」
快斗につられて視線を向けた先には、訳のわからぬ雄たけびをあげながら走って来る者が一人。門の前に立っているのに気づくと、騒音以外の何ものでもない大音量で叫んでくる。
「くどーッッ!!くどーッッ!!会いたかったでーッッ!!」
耳を劈く大声に、哀は眉をしかめながら耳をおさえる。
「…バカじゃないのかしら」
「まあまあ、ちょっとの我慢だから」
呆れた物言いが何を指すのか。快斗だって同じ事を思っていたからよくわかる。含むところのありそうな言い方に、哀はどんな相対をするか俄かに興味を覚えた。
と、快斗の気配がガラリと変わる。
(…冷冷として…透き通った感じ……それで静かで…誰も寄せ付けないような雰囲気…)
まさしく新一の気配を纏っている。
呆気にとられて見上げると。表情まで変わっていて、新一がよくする物憂げな微笑みを浮かべていた。顔だけならまさしく本人そのものだ。
「くどーッッ!!会いたかったでーッッ!!」
勢いのまま飛びついてきた不埒者を、難無く避ける。見事に肩透かしをくらって、地面に倒れこんだ。
「あ…イタ…タッ…!なんや、久しぶりに会ったっちゅうのに、相変わらず冷たいやっちゃなあ…!」
「そうかよ」
「………」
さすがは世紀の魔術師、声音はおろか話し方まで新一そのままで。哀は素直に感心する。
「元に戻ったことも教えてくれへんから、和葉に聞いてホンマびっくりしたわ!せやからこうして始発の新幹線にのってわざわざ来たんやで。工藤は照れややさかい、本当の姿で会うのが恥ずかしかったんはわかる…け…ど…………」
のっそりと体を起こして、へらへら笑いながら顔をつき合わせて。不埒者は点目になった。
「く…どう…?…なんや、えろう体格がええ…っちゅうか…こう、しなしなしてて…思わず抱きしめたくなるくらい…儚く…脆…かった…はずや…のに……」
「儚く脆いだと?ざけんなよ、テメェ。蹴り殺されたいのか」
不用意は発言に目が座り、言葉のまま蹴ろうと後方に引かれた右足。
小さな姿でも容赦なく蹴られた記憶があるだけに、真っ青になって後ずさりをはじめる。
「い、いや…!アヤや!言葉のアヤッッ!!」
「いい訳はいい。それより、平日の朝に何しに来やがったんだ。オレは、うるさくて人の迷惑も省みない礼儀知らずのヤツなんかと関わり合いになるのはゴメンだ」
「く、くどう…ッそ、そそないなこと言わんと…!せっかく、遠路はるばる…」
「誰が来いなんて言った?恩着せがましい。二度とそのツラ見せるな」
取り付く島もないくらいに凍てついた眼差しで見つめられて。命綱とばかりに、助けを求めて哀へと手を伸ばす、が。
「彼、あなたなんか見たくもないって言ってるの。さっさと帰りなさい、目障りよ」
止めとばかりに哀に睨みつけられて。声もなく回れ右をすると、来たとき同様に慌しく去っていった。
「あなたもやるわね」
「なにが?オレは何も騙してなんかいないよ。むこうが勝手に勘違いしただけ」
くすりと笑う快斗は、もう元のとおりだ。
新一に纏わりつく輩にどれだけ手を焼くか。幸先は決して明るくないと思っていただけに、がっちりとガードしてくれる存在はありがたいことこの上ない。
「そうね。工藤くんかどうかもわからないバカですもの。じゃ、そろそろ行くわ」
「ずい分遅くなったから、送っていこうか?」
「結構よ。あなただって忙しいでしょうから」
「いってらっしゃい」
後ろ手を上げて歩いていく哀に、快斗も手をふって送り出す。
「さて、と。手始めはやっぱり大掃除、か」
屋敷を振り向いて、やりがいのありそうな仕事に腕まくりをした。
「ちょっと新一。朝から何ぼーっとしてるのよ」
「そうそう。珍しく遅刻せずに来たと思ったら」
昼休みになってにぎやかな声が新一に掛けられる。
しかし、当の新一はぼんやりと空を見つめたままだ。
「新一ってば!」
ばんっ。
力をこめて蘭が机に手をつくと、ようやく現実へと舞い戻ってくる。
「あ…なに?」
「何って……もうお昼よ?」
「え、もう?」
ハッとして、教室内をきょろきょろ見回す様に、声をかけた二人はぐったりとしてしまう。
「あんた…ただでさえ出席日数が足りなくて先生たちのお慈悲にすがってんのに、授業ぐらい真面目に受けないと卒業できなくなるわよ」
「そうそう!これでテストの点数だけはいいんだからサギよね!」
「あ…そうだ。オレ、メシを…」
ぐちぐち怒られるなんて哀だけで十分で。新一は急いでこの場から離れようとイイワケを口にした時。ブレザーのポケットが振動する。
「なに?まさかまた事件?」
嫌そうな顔をする蘭を目の端に映しながら、取り出した携帯を急いで耳に当てた。
「もしもし」
『新一』
「………か…いと…?」
野太い警部の声を予想していただけに、一瞬誰が掛けてきたかわからなかった。けれど、自分のことを名前で呼ぶのは片手で事足りる。そのなかでも若い男の声といえばたったひとり。
反応が遅いのに頓着する様子も見せずに、電話の向こうから声が届く。
『そう。あのね、バックのなかにお弁当が入ってるから、ちゃんと食べるんだよ』
「え、弁当…って作ったのか?」
意外な言葉に、机の横に掛けているデイバックを慌てて見る。
『もちろん。そんなに量は多くないから、できるだけ残さないように。それから、帰りが遅くなるようだったら連絡をいれてね、いい?』
「わ…かった…あの、ありが…とう」
新一に返せたのはそれだけ。慣れないコトバだが、妙な気恥ずかしさを感じることもなく自然と口からでた。
『どういたしまして。じゃあね』
「うん…」
通話を切った携帯を机の上に放り出すと、デイバックのなかを覗き込む。
「あ…った」
快斗の言った通り、新書版サイズくらいの包みが出てきた。それを広げはじめた新一の傍らで、呆気にとられていた園子が騒ぎ出す。
「新一くん!何なの今の?!誰?!"かいと"って言ってたけど!蘭は知ってる?!」
「ううん!知らないけど…わぁ!すごくかわいいお弁当!」
新一の許容量をきちんと把握した上で選ばれた弁当箱は、女生徒が持つものよりも一回り小さ目。だが内容は彩りも華やか、おかずの種類も多くて実に手が込んでいる。
「…よく…こんなの作れるよな…」
「ホント。かいとっていう人が作ったの?」
「うん……あ、おいし」
早速、ダシ巻き卵を口にして。昨夜も今朝も、料理がおいしかったことを思い出す。お弁当であろうと気を抜かずに張り切って作っただろうことが伺える。
はむはむと、お弁当だけに集中して食べていた新一だったが。はた、と箸を止めて蘭を見た。
「…っていう人…ってことは…蘭は快斗を知らないのか?」
「え?うん。珍しい名前だから、知ってたら忘れないよ?」
「そ、か。知らないのか…」
彼女が知らないということは、昔仲が良かったのは米花町に来る以前ということになる。それにしても、珍しい名前だから忘れないと断言する蘭であるが、新一はきれいさっぱり忘れていて。なんともコメントのしようがない。
「あーーっっ!!思い出した!!」
「思い出したって…快斗のことか?」
「そう!その人でしょう!新一くんが手をつないで歩いていたのって!!」
「な…っ」
絶句。
瞬時にして強張ってしまった新一に、教室中の視線が集まる。
「朝からウワサになってたのに、新一くんがヘンだったせいで今の今まで忘れていたわ!」
「そうそう!新一に良く似たすっごいハンサムだったって!私も聞いたわよ」
「ね!誰よ?!どういう人?!新一くんに似てるってことは親戚かなにか?!」
力強い園子の手で片を揺すぶられ、もう少し遠いところにいたかったのに連れ戻された新一は。周囲のみんなが興味津々に聞き耳を立てていることにアタマを抱えたくなった。
「…そんな…もんだよ…」
まさか親の隠し子で、兄弟だ――――なんてワイドショーネタを言うわけにもいかず、コトバを濁すほかはない。
それを聞いて、なにやら園子が好き勝手語り出す。しかし、耳を傾ける気は毛頭なく。
(やっぱり…見られてたのか…)
盛大なため息をついて、騒ぎを作り出してくれた原因にどう文句を言おうか模索するけれど。怒りは長続きせず、代わりに浮かぶのは今朝の出来事。
目いっぱいに迫ってきた端正な面立ち、深い色の瞳。その藍色がキレイだと思った刹那。
唇にほのかなぬくもりが宿って……。
(…キス…したんだよな……)
指先が唇をなぞる。
無意識のうちに、新一は朝からずっと触れていた。何もなかったことにして、さっさと記憶から消すこともしないで。
唇にともされたぬくもりは、そのまま心まで満たしてくれた。
とても心地よくて、また欲しいと思ってしまうほどに。
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02.04.25
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