男は大人しく寝ていた。片腕を枕にして、傷だらけの体を横たえて。
時折、ポツリ、ポツリととりとめのない言葉を交わしながら、
二人して、雨足が遠ざかるのを、漫然と待ちつづけていた。
そんなとき、ふっ、と、『遣らずの雨』という言葉が思い浮かんだ。
人を帰らせないように降りしきる。そんな雨。
もしこの雨がそうだとしたら、一体いつまで降り続くのだろう、いつまでここに留めるのだろう。
どうせなら。どうせなら、もっともっと降りつづけて、そこいら中を雨の海にして、
二度とここから出られないくらいにしてしまえばいい。
だって、たとえやんだとしても、私の心が帰る場所など無いのだから。
雨は、激しく降りつづけていた。
ケモノの温もり
「ねえ」
またポツリと、私は男を呼んだ。
「んあ?」
「あんた名前何ていうの?」
「なんだ、惚れたか?」
男は意地悪そうに、ニヤリと唇の端を上げた。
「違うわよ、だって、呼びにくいじゃない?」
「別にいいじゃねえか。俺のことはずっと『あんた』って呼びゃあいいし、
俺はあんたのこと、そうだな…、『センセイ』とでも呼ばせてもらうからよ」
つまらなそうに返事をした後、男はからかうようにそう続けた。
男には何の気もなかっただろう、が、私はその言葉に、
まるで息が詰まるかのような錯覚を覚えた。
「…『センセイ』は、やめてよ。もう、そんなんじゃないんだから…」
私はそっと目をそらして、膝の上で拳をギュッと握った。
すると、とても、気まずい沈黙が流れた。
「…さっきも、そんな事言ってただろ」
獣の目は、まるで私の心を見透かしているかのようだった。
そっちを見ちゃいなかったけど、注がれる視線が痛かった。
まるで責められているかのように痛かった。
「『元』医者だってな」
心臓を鷲掴みにされるとは、きっとこういうことだ。
突然耳が聞こえなくなってしまえばいい、記憶喪失になってしまえばいい、
非現実的な思考にしかたどりつかない。私は弱いから。
かたくなに顔を上げようとしない私を見て、男は訝しげに問うた。
「…聞かれたくねえのか?」
「……………あんまり」
私は笑みを浮かべる。力無い。
あのまま忘れるつもりだったのだ。
もう掘り返すつもりは無かったのだ。
…否、忘れられるはずがない。
私は、人を殺したんだ。
故意でなかったにしろ、私は人を殺したんだ。
一生、その事実を抱えて生きていかなければならないのだ…。
「じゃ、何で俺を助けた?」
不意に男が言った。
「首突っ込まれたくねえんなら、俺のことなんて置いて
さっさと出て行きゃよかっただろ」
今までもやさしい声とは言いがたかったが、今度は明らかな冷たい響きを感じた。
「それは…、だって、こんな大雨の中…」
「だったら俺が出て行く。さっきそう言っただろうが」
「だって、怪我人だもの。そんなことさせるわけには…」
「てめえ、もう医者じゃねえんだろ。だったらんなこと気にしてんじゃねえよ!」
「…ッ!うるさいな、ほっといてよ!名前も知らない人にそんな詮索されるいわれはないわ!」
やにわに、私は大声を上げた。
なんだかすごくイラついて、言葉を撥ね付けることしかできなくなっていた。
「潮江文次郎」
唐突に、男はそう吐き捨てた。
また何かつけこんでくるとばかり思っていたのに。あっけにとられる。
思いもよらぬその言葉に、私は思わず顔を上げ男の顔を凝視した。
男は笑っていやしなかったが、怒ってもいない。
判断つきかねる顔だった。
男は相変わらず低いが、気持ち穏やかな声で言葉を続けた。
「俺の名前だ。言ったからな。首つっこませたからな」
「なっ、何よそれ。わけわかんない!」
「てめえが先に首突っ込んできたんだからな。頼んでもねえのに勝手に治療しやがって。
おら、こっちだって名乗ったんだ。てめえの氏素性も聞かせてもらおうじゃねえか」
「なに、その理屈…っ。わけわかんない」
「てめえが首突っ込んでなかったら、そんなわけわかんねえ話もしてねえよ!」
展開についてゆけず、それまでの激昂はひっこんでしまった。
すると、今度は男は嘲笑的に唇の端を持ち上げた。
「見殺しにすりゃ良かったろ」
「ッ!馬鹿なこと言わないで!!」
頭に血が上るようだった。
たとえ冗談でも、そんなことを言うべきではない。
そう思った。
「あんた、自分がどれだけ血流してたと思ってんの!?
あのままだとほんとに死んでたかもしれないのよ!?
縁起でもない事言わないでよ、死にかけてる人放って、
見殺しにするなんてできるわけないでしょう!!」
顔を真赤にして喚き、もう一言ほど言わんと息を吸ったが、
ズキリと怒り狂った頭が疼いて、言葉を詰まらせた。
つっ、とうめいて頭に手を寄せると、下からクツクツと笑い声が聞こえた。
今度はどうして笑うのか、詰問してやろうと睨みつけると、
男はこの上なく楽しそうな笑みを浮かべていた。
「ほらな」
「何が『ほらな』よ」
「あんたはその仕事やめれねえんだよ」
「え…」
男はゆっくり体を起こしながら、穏便に言葉を紡ぎだした。
「口ではやめるやめるっつっても、ほんとはやめたくねえんだろ。
あんたの人間を想う気持ちはよくわかったし、医者なんて気力いる仕事、
女だてらやってる覚悟にゃ感服したよ。この仕事向いてんぜ」
呆けいている私を見ながら、男はニヤリと口の端を吊り上げた。
「何があったかはしらねえけど」
居住まいを正しながら、男は堂中に深く染み入るような声で続けた。
「もう一回やり直してみろや、…センセイ」
…そう言った男、いや、潮江文次郎の声は思いのほかやさしくて、私は驚愕した。
それど同時にはりつめていた何かがぷつりと切れて、目頭も、胸も熱くなって、
目に映る潮江の顔が滲み出して、こらえきれなくなって顔を伏せてまばたくと、
にぎりしめた手の甲に、ひとしずく涙がおちた。
すると堰を切ったようにポタポタとこぼれた雫が膝を濡らし、
堪えようと歯を食いしばると、さらに涙が頬を伝った。
「…泣くなよ」
「…うん、…うん」
思えば医者の道を志してから今日まで、珍奇の目を向けられ、女の癖にと
罵倒され続け、それでもただひたすらに前を見据えてやってきた。
一瞬でも気を抜けば足下をすくわれそうで、いつも気を張り詰めていた。
やっと勝ち得た城付きの医者の立場も、あの事件で失った。
後ろ指をさされ、誹りを受け、所詮は女だったと嘲られ。
誰かに肯定してもらいたかったのだ…私の生き方を。
潮江は、不思議な男だ。さきほどまで名前も知らなかったのに。
そんな人間に、こんなにも癒される。
もう一度やり直そう。私は固く心に誓った。
「ねえ、私が医者を辞めようとした理由、聞いてくれる?」
「おう」
溢れる涙を指でぬぐい、私は潮江に問い掛ける。
潮江は、ぶっきらぼうにだが、さっきと同じ優しい声で答えてくれた。
「私が煎じた薬が、毒にすりかえられていてね…。
それを、若君に飲ませて…殺してしまったの」
潮江の顔色が変わるのと、堂の戸が開け放たれたのはほとんど同時だった。
…ケモノと兎 邂逅するケモノ
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