僕のマネージャー体験記(前編)へ

















僕のマネージャー体験記
(後編)



作:逃げ馬









 8月14日
 
 僕は、着替えを終えると階段を下りて食堂に向かった。今の僕は、夏の制服・・・白い半袖のセーラー服と、紺色のプリーツスカート、そして紺色のソックス姿だ。階段を下りようとすると、スカートが僕の足にフワフワと触れる。それだけではない、スカートの中で自分の無駄毛一つない足が、触れ合っている・・・初めての感覚に、僕は自然に内股になって、女の子らしい歩き方をしていた。食堂に行くと、父が新聞を見ながらトーストを齧っていた。
 「お・・・おはよう!」
 僕は小さな声で挨拶をすると、父の前の椅子に腰を下ろした。父が新聞の向こうから、僕の顔をチラッとのぞいた。
 『やばいな・・・やっぱり女の子の姿だから・・・』
 僕は上目遣いに父の顔を見つめた。黙ったままテーブルの皿の上に乗ったベーコンエッグに塩と胡椒をかけて、
 「いただきます」
 と言った途端、
 「かおる!」
 顔を上げると、父が僕の顔を見つめていた。
 『父さんも、僕のことを”かおる”と?』
 驚いて父を見つめていると、
 「おまえも女の子なんだから・・・少しは早く起きてお母さんの手伝いをしろよ・・・」
 僕は、呆然と父の顔を見つめていた。
 『なぜだよ・・・僕が女になっても、おかしいとも思わないのかよ?』
 そんなことを考えながら、父を見つめていると、
 「かおる・・・ゆっくりしていて良いの? クラブに遅れるんじゃない?」
 母に言われて、僕は慌ててトーストを口にくわえると、バッグをつかんで、
 「行ってきます!」
 玄関に向かって走り出した。その背中を、かおる=浩二の両親が、微笑みながら見つめていた。



 「ちょっと待てよ・・・」
 玄関を出て歩き始めた僕は、思わず足を止めた。思わず家の方を振り返る。体が回ることで、スカートの裾がふわりと広がり、いつもはズボンに包まれている・・・今は無駄毛一つないきれいな脚は、朝の空気にさらされる。
 「僕は・・・どこに行けば・・・?」
 右手で頭を掻く・・・・さらさらの髪が、細い指にまとわりついてくる。いつもとは違うその感覚に、僕はイライラしてきていた。
 『早く学校に行こう!』
 僕の頭の中に、女の子の声が響く。
 「学校って・・・どこの学校だよ・・・前に通っていた学校か?」
 『違うわよ・・・わたしの通っていたTS学園高校!』
 「なぜ、僕が君の学校に行かなきゃ行けないんだよ!」
 『だって・・・野球部のマネージャーを・・・』
 「なぜ・・・ピッチャーをやっていた僕が、マネージャーをしなきゃいけないんだよ?!」
 『だって・・・』
 僕の横を中年のおばさんが歩いて行く。すれ違いながらおばさんは、僕をチラッと見ると不思議そうに首を傾げていた。
 『お願い・・・わたしの学校の野球部の力になってあげてよ・・・このとおり・・・』
 僕の頭の中に、両手を合わせて頼み込むかおるの姿が見えた・・・僕は、大きくため息をつくと、
 「わかったよ・・・とにかく、行けば良いんだろう?!」
 僕は、今の姿に似合わない言葉を吐き捨てると、彼女・・・板倉かおるの通っていた”TS学園高校”に向かって駆け出した・・・。



 『カキーン・・・・』
 グランドから、金属バットでボールを打つ音が響いている。僕は、校門の前で足が止まってしまった。思わず自分の体を見下ろす。
 「本当に・・・この格好であいつたちの前に行くのかよ・・・」
 自分の体を見下ろす僕の目に飛び込んでくるのは、小柄な・・・セーラー服に身を包んだ同世代の女の子の体だ。自分の手を目の前に持っていくと、セーラー服の半袖から伸びる、細く白い腕と、しなやかな白い指が見える。そこには、昨日までの僕の逞しい腕の名残はまったくない。
 「ハ〜〜〜ッ・・・・」
 思わず大きなため息をついたそのとき、
 「おい・・・かおる・・・なにボーッとしているんだ?」
 突然声をかけられて、僕は飛び上がらんばかりに驚いた。振り返ると、細い体の長身の男が驚いた顔で僕の顔を見つめている。
 「おい・・・どうしたんだ?」
 心配そうに僕を見つめている顔には、見覚えがあった。
 『この人は・・・昨日のピッチャー?』
 『そう・・・エースピッチャーの星岡くんよ』
 僕の頭の中に、かおるの声が響く。僕の前に立っている星岡は、にっこり笑うと僕の方をポンと叩いた。
 「さあ・・・試合も近いんだし・・・練習が始まるぞ!」
 そう言うと、星岡はさっさと校門をくぐると歩いて行く。僕は、慌ててその後を追った・・・。



 僕がグランドに行くと、練習はたけなわになっていた。元気の良い声がグランドに響く。
 「おい! ライト! 行くぞ!!」
 お腹の出た、中年の男が大きな声で叫ぶと、ボールをトスしてノックバットで思いっきり打つ。
 『カキーン!』
 鋭い音がグランドに響くと同時に、ボールは弧を描いて飛んでいく。
 「オーライ!」
 守備位置を深く取っていたライトが、前に向かってダッシュをしてくる。それでも間に合わないと思ったのだろうか・・・前に向かってダイビングをした。しかし、ボールははるか手前に落ちてライトの後ろを転々と転がっている。
 「ハ〜〜〜ッ・・・・」
 その光景を目にして、僕は思わず可愛らしいため息をついてしまった・・・自分の口から出た声を聞いて、恥ずかしさで思わず頬を赤く染めてしまった。
 「おい!」
 振り返ると、ユニフォームに着替えた星岡が、グラブで僕の肩をポンと叩いた。外野を指差しながら、
 「頼むよ・・・マネージャー・・・」
 指差した先では、ダイビングキャッチをしようとしたライトの選手が、足を抱えてうずくまっている。ノックバットを持った監督?が、バッターボックスから僕の方を睨んでいる。
 「おい! マネージャー!!」
 僕は、自分の顔を指差した。
 「当たり前だろう! 石田! 早く行って手当てをしてやれ!」 
 バッターボックスから、まるで怒鳴るように僕に向かって言った。
 僕は、しぶしぶベンチにあった救急箱を持つと、うずくまっている選手に向かって歩いて行く。グランドには、夏の厳しい日差しが容赦なく照り付けている。その中で、監督は、ノックバットを振って部員たちに激しいノックを浴びせ、部員たちは、必死にボールに食らい付いていく。まあ、もっとレベルの高い野球部にいた僕から見るとそれでも下手だったが、必死さは伝わって来た。
 「アッ・・・マネージャー・・・・」
 四角い顔に、坊主頭の選手が、ひざを抱えてうずくまっている。その彼が、苦しそうな顔をして僕を見上げている。
 「大丈夫か・・・?」
 僕は選手の横に座ると、救急箱から痛み止めのスプレーを取り出した。
 「どこを痛めたんだ?」
 選手が指差したひざのあたりにスプレーを吹き付けた。その間、選手の視線は一ヶ所に集中している。
 『石田君!』
 頭の中にかおるの声が響く。
 『なんだよ!』
 『足!!』
 『エッ?』
 自分の足に視線を落とすと、座り込んだ僕は膝の部分を広げて座り込んでいた。そしてスカートの中が・・・。顔を上げると、僕の前で選手がニヤニヤと笑っている。
 「コラッ!!」
 僕が顔を真っ赤にして怒鳴ると、選手は弾かれたように立ちあがった。
 「ありがとう!!」
 大きな声で叫ぶと守備位置に戻って行く。
 「まったく!!」
 まだ怒りが収まらない僕に向かって、頭の中のかおるは、
 『今の君は、女の子なんだからね・・・気をつけてよ!』
 「そんな事言ってもさ・・・」
 僕は救急箱を持つと、ベンチに向かって歩き出した。視線を落とすと、足を動かすたびに、紺色の膝丈のプリーツスカートがふわふわと揺れて、色白の綺麗な足が見える。スカートの中ですべすべの足が触れ合うたびに、僕が今、女の子の姿になって、スカートを履いているんだという事を意識させられてしまう。
 『パシッ!』
 ボールがグラブに収まる音が耳に飛び込んできた。音の聞こえた方向に視線を移すと、星岡がキャッチャーを座らせて投球練習をしている。僕は自然にネットの後ろに向かって歩いていた。ネットをはさんで体のがっしりしたキャッチャーの後ろに立った。
 マウンドの上で星岡が振りかぶる。長身の細い体と細い腕をまるで弓のようにしならせてボールを投げる。伸びの有る直球がキャッチャーミットに収まり鋭い音をたてる・・・しかし、
 『ダメだな・・・』
 僕は心の中で呟いていた・・・・。
 『なぜ? 星岡くんは、ものすごくいいピッチャーでしょう?!』
 僕の頭の中で、かおるがすごい剣幕で怒っている。
 『確かにコントロールは良いよ・・・でも、あいては教剛高校だ・・・ストレートだけでは、たとえ150KMのボールでも狙い打ちされてしまうよ・・・・』
 『・・・・』
 頭の中のかおるが黙り込んでしまった・・・・僕は、少しバツが悪くなってきた・・・・。
 「しかし・・・・あれだけ投げる事が出来て、なぜ変化球・・・カーブだけでも投げないんだろう?」
 声に出して呟くと、
 『私が生きていた時には・・・・ちょっと練習をしていたみたいよ・・・・』
 『そうか・・・・しかし・・・・どうにかしないとな・・・』
 僕は、心の中で呟いていた・・・。
 『どうにかって・・・?』
 頭の中で、かおるが首を傾げながら尋ねた。
 『うん・・・・変化球が無いなら無いなりに、相手の弱点を・・・・』
 僕は、あることに気がついて思わずため息をついた。
 『どうしたの・・・?』
 「しかし、いまさら教剛高校のデータなんて・・・」
 思わず声に出すと、
 『あるわよ!』
 頭の中のかおるがニッコリと微笑んだ。
 「エッ?」
 『とにかく、部室に行って!』
 僕は、ブルペンから野球部の部室のある校舎に走っていく。マウンドの星岡と、キャッチャーの徳田は、不思議そうに僕の後姿を見つめていた。


 『ガチャン!』
 僕は荒々しく野球部の部室のドアを開けた。ドアを開けた途端に、男臭い汗の匂い・・・・体育系のクラブ独特の匂いが鼻をつく。部室の両側にはロッカーが並び、真ん中には古ぼけた大きなテーブルが置かれている。その上には汚れたユニフォームや着替えたのだろう・・・・脱いだ後のブレザーの制服が、丸めて置いてある。
 『そこに・・・・“石田”って書いたロッカーがあるでしょう?』
 「“石田”って・・・・僕のロッカー?」
 思わず声に出すと、
 『そうよ・・・・だって、あなたはこの野球部の“マネージャー”なんだから!』
 僕の頭の中でかおるが笑っている。僕は、小さくため息をつくと、ロッカーの扉をあけた。ロッカーの中の小さな棚の上に、一冊のファイルがあった。
 『その・・・・棚の上のファイルを・・・』
 「これ?」
 『そうよ』
 僕は、自分のものとは思えない細く白い指でファイルの上にたまった埃を払った。辺りに舞った埃が、僕の鼻をくすぐった。
 「クシュン!」
 可愛らしいくしゃみに、自分で苦笑いをしてしまう。確かに、今の僕の姿は女の子・・・・板倉かおるのものなのだが・・・・。
 僕はファイルを持って部屋の真ん中に置かれたテーブルにやってきた。一緒に置かれている古いパイプ椅子に座ると、手にしたファイルを開いた。
 「これって・・・・」
 ファイルに書かれていたのは、この地区の高校の野球部の選手たちの詳細なデータだった。打者の打率、投手の防御率はもちろん、打者の苦手にしているコースや、投手の配球パターンまでがきちんと整理されている。その中には、僕のデータもあった。『フォークボールを投げる時には、グラブを構える位置が下がっている・・・・』と書かれているのを見て、思わず苦笑いをしてしまう。
 『どうかな・・・・』
 「エッ?!」
 『これ・・・・使えないかな・・・・』
 かおるが不安そうに尋ねている。
 「大丈夫・・・データは、これだけあれば十分だよ・・・・」
 僕は、細い指でファイルのページをめくっていく。そこには、教剛高校の強打者・・・・松田が対戦したピッチャーの配球も全て記録されている。
 「しかし・・・・すごいな・・・・」
 僕は、そのファイルを見ているうちにあることに気がついた・・・・。
 「・・・・」
 『・・・どうかしたの?』
 急に黙り込んだ僕に向かって、かおるが不安そうに尋ねた。
 「うん・・・・松田の弱点らしいものが・・・・」
 『エッ? あの松田君の?』
 かおるの声が弾む。
 「・・・弱点とは言えないかな・・・・“つけこめそうな隙”くらいかな?」
 僕は、視線をファイルの上に落としたまま考え込んでいた。
 『ねえ・・・・その話、キャッチャーの徳田くんにしてあげない?』
 「エッ?」
 『彼・・・・この学校で成績はトップ・・・・すごく頭が良いのよ。必ず抑える方法を見つけてくれると思うわ!』
 「そうか・・・」
 僕は、ふとドアに目をやった。ドアが開き、汗びっしょりになった野球部のメンバーが部屋に入ってきた。
 「よぉ・・・・マネージャー!」
 細身の男・・・・星岡が軽く手を上げている。そして、部員達は汚れたユニフォームを脱いで着替えを始めた。それを見ていた僕は、なぜだろう・・・・急に恥ずかしくなってきた。部室に居辛くなって、ドアを開けた。
 「あ・・・・星岡さん、徳田さん」
 「なんだい? マネージャー」
 「後で少し話せますか・・・?」
 「ああ・・・いいよ!!」
 徳田がユニフォームを脱ぐと、逞しい体に噴出した汗をスポーツタオルで拭いている。僕は、顔を真っ赤にして、慌てて部室を出ると後ろ手にドアを閉めた。しばらくドアにもたれて呼吸を整えようと深呼吸を繰り返す。胸に手をあてると、心臓の鼓動が激しい。
 「なんでだよ・・・・あんなの・・・・いつも見ているのに!」
 『だって・・・・今のきみは、女の子なのよ!』
 僕の頭の中で、かおるが面白そうにクスクスと笑っている。分かっていることとはいえ、僕は憮然としてしまった。
 『・・・女の子なんだから、恥ずかしくなっても当然でしょう・・・・』
 「そんな事言っても・・・」
 僕が口を尖らせながら呟くと、
 『ガチャッ!』
 「アッ?!」
 突然、もたれていたドアが開いた。思わず、後ろによろけた僕の体を、誰かが後ろで抱きとめた。
 「おいおい・・・・」
 振りかえると、徳田が笑いながら僕の体を抱きとめていた。
 「アッ・・・・」
 また、僕の顔が赤くなっていく。
 「ところでマネージャー・・・・話って?」
 徳田の大きな体の後ろから、細い体の星岡が声をかけた。
 「アッ・・・・」
 僕は、かおるが記録していたさっきのファイルを取り出した。
 「これなんだけど・・・・」
 僕は、ファイルを徳田に手渡した。徳田は、首を傾げながら受け取って、星岡と一緒に部室の真ん中に置かれたテーブルに歩いて行くとパイプ椅子に腰を下ろした。僕も、星岡と徳田に向かい合うように椅子に座った。部員達も、覗きこむようにファイルを眺めていた。徳田は、時々うめくような声を上げながらファイルのページをめくっていたが、
 「・・・・これは・・・・マネージャーが・・・?」
 「う・・・・うん・・・・そうだよ・・・・・」
 咄嗟に僕は、曖昧に笑ってごまかした。
 「うーん・・・・」
 星岡は、視線をファイルに落としたまま言葉が出ない。
 「何か・・・・気がついた?」
 「うーん・・・・これは、すごいデータだよ・・・・」
 徳田がため息混じりに呟いた。星岡も、その横で頷いている。
 「松田君を・・・・抑える方法は・・・?」
 今の僕の立場は、“マネージャー”だ・・・僕は、遠慮がちに二人に尋ねた。二人がため息をつく。
 「松田は・・・・強打者・・・・スラッガーのくせに、なかなか穴がないからなあ・・・・」
 徳田が小さな声で言った。それを聞いて、僕はファイルのあるページを指差した。
 「ねえ・・・・ここなんだけど・・・・」
 二人がファイルに視線を戻した。
 「「・・・・なるほど・・・」」
 二人が真剣な表情で呟いた・・・・。




 8月15日

 「行ってきまーす!!」
 その朝も僕は、セーラー服姿で朝の街に駆け出した。
 「しかし・・・・このスカートっていうのは・・・・」
 二日目・・・・やはり、このスカートの感触には慣れない。まあ、一昨日まで男だったのだから当たり前だが・・・・。
 『いいの! 高校生の女の子には、制服が一番似合うのよ』
 「本当かよ! それに僕は・・・」
 『今は、女の子なのよ!』
 「チェッ!」
 僕は、朝の街を歩いて行く。夏休み中でも、やはりどこの学校でも部活はあるのだろう。街の中でも制服姿の高校生とすれ違う。すれ違う男子高校生達の視線が僕に集中する。僕は、なんだか恥ずかしくなってきた。俯き気味に視線を落として自然に足早になっていく。
 「なんだよ・・・・」
 思わず呟くと、頭の中でかおるが、
 『どうしたの?』
 「だってさ・・・・なんだか・・・・すれ違う男が僕の方をジロジロ見てさ・・・・喧嘩でも売っているのかな?」
 『喧嘩なんて売っていないわよ』
 僕の頭の中で、かおるが明るく笑った。
 「じゃあ・・・・・どう言うことだよ・・・・」
 『それはね・・・・』
 かおるがクスクス笑っている。
 『わたしが可愛いからに決まっているじゃない!』
 「?!」
 僕も思わず笑い出してしまった。
 『何よ・・・・そんなに笑うことないじゃない?!』
 「ごめん、ごめん・・・・でもさ・・・自分でそこまで言わないだろう・・・・普通は・・・」
 『なによ・・・・でも、その辺りの女の子達より今のあなたの方が可愛いのよ。だから、男の子たちもあなたを見つめちゃうの・・・・』
 それは、僕にも分かっていた。着替えるときに鏡に映る今の自分の姿・・・・それは、男の心を持つ僕がしばらく視線が釘付けになるほど可愛い女の子の姿だった。
 やがて、僕の前にTS学園高校の校舎が見えてきた。
 『さあ・・・・今日も一日頑張りましょう!』
 頭の中で、かおるが言った。
 「ああ・・・・がんばろう!」
 僕も、ニッコリ笑って答えた。



 その日も、厳しい練習が続いていた。炎天下のグランドに、部員達の元気な声が響く。
 「おい! ショート・・・・行くぞ!!」
 「オスッ!!」
 『カキーン!!』
 鋭い音と共に、ボールがショートを守るねずみのような顔をした少年・・・・今田に向かって飛んでいく。今田は横っ飛びにボールに飛びつくと、すぐに立ちあがって監督の横に立つ1年生の補欠部員・・・横谷にボールを返す。
 「ナイス・プレー!!」 
 監督がドスの効いた声で叫んだ。そして、
 「ライト!!」
 「オスッ!!」
 『カキーン!!』
 バットから響く音と共に、ボールがライトを守る小林に向かって飛んでいく。深く守っていた小林が前進してくる。タイミングを計ってダイビングキャッチをしようとしたが・・・・。
 「アッ?!」
 僕は、思わず声を上げた。ダイビングキャッチをしながら差し出した小林のグラブは、ボールを前に弾いてしまった。ボールが転々とグランドを転がる。すぐに置きあがった小林は右手でボールを掴むと、すぐにファーストベースの横に立つ大柄な少年・・・・久保にボールを返す。久保のファーストミットにボールが納まると、久保は振りかえりざまに監督の横に立つ横谷にボールを送る。
 『パシッ!!』
 横谷のグラブから乾いた音が響く。
 「コラ!! 小林! しっかり守れ!!」
 「オスッ!」
 小林が帽子を取って一礼した。
 「レフト!!」
 監督が、またボールをトスし、バットで打つ。ボールが放物線を描きながらレフトに飛んでいく。レフトを守る倉田がホームに背を向けて走る。落下地点に回りこむと、体をホームに向き直る。グラブにボールが収まると、大きく振りかぶってボールを投げた。次の瞬間、僕は目を見張った。矢のような送球が、ホームに向かって戻ってくる。サードの藤田も、ショートの今田も送球をカットしようとはしない。ボールは、ダイレクトで横谷のグラブに納まった。
 「すごい・・・やるじゃないか・・・」
 『そうでしょう?』
 かおるが、僕の頭の中で得意そうに言った。その言葉を聞いて、僕は思わず苦笑いしてしまった。
 グランドでの野手の練習を横目で見ながら、僕はブルペンにやって来た。キャッチャーの後ろに設置されたネットの後ろに立つと、マウンドの星岡に視線を移す。
 『シュッ!』
 星岡が、細い腕をしならせながらボールを投げる。
 『パシッ!』
 ボールが、キャッチャーの徳田のミットに納まる。
 「なかなか良い仕上がりだな・・・・」
 徳田が笑いながらボールを星岡に軽く投げ返す。
 『どう?・・・星岡君・・・・かっこいいでしょう』
 かおるが明るい声で言った。
 『徳田君が、あんなに言うくらいだから、明日は良い試合が出来るわよね』
 ブルペンでは、投球練習が続いている。明るく話すかおるや、満足そうな徳田とは裏腹に、星岡の投球に僕は言いようのない不満を感じていた。僕はブルペンに向かって歩き出した。星岡と徳田は、驚いて投球練習を止めてしまった。
 「どうしたんだ・・・マネージャー?」
 徳田が腰を上げながら僕に尋ねた。
 「危ないだろう・・・・かおる!」
 星岡が鋭い目で僕を睨みながら厳しい声で言った。
 『石田君・・・・?』
 かおるの不安げな声が頭に響く。
 「抜群のコントロールだね」
 僕は、明るい声で言った。聞いている二人には、可愛い女の子の声が聞こえているのだろう。しかし僕は、この体になってから自分が喋るたびにその可愛い口から出る声に、とてつもない違和感を感じているのだが・・・。
 「エッ?」
 驚く星岡。
 「分かっているね・・・マネージャー」
 徳田がミットを拳で叩きながら嬉しそうに笑っている。
 「ミットを構えたところに確実にボールが来るからね・・・・キャッチャーにとって、これほど楽なことはないよ!」
 「でも、なぜ・・・」
 僕は、星岡の顔をしっかりと見つめながら・・・・。
 「変化球を投げないんだ・・・」
 星岡の表情が厳しくなった。徳田が驚いて止めに入る。
 「おい・・・・マネージャー」
 「・・・これだけのコントロールがあるのなら、変化球・・・・例えばカーブだけでもあれば、投球の幅も広がるのに・・・」
 星岡が歯を食いしばりながら俯いてしまった。右手の拳が硬く握られ、小刻みに震えている。
 「マネージャー・・・・今まで3年間、一緒にやってきて分かっているじゃないか・・・」
 徳田が僕の方を見ながら厳しい口調で言った。
 「・・・星岡だって、そんなことは分かっている・・・・だから、変化球の練習もした・・・・でも、カーブも曲がらなくて・・・・緩急とコントロール、そして投球術でここまでやってきたんじゃないか・・・・」
 『そうよ・・・石田君! 星岡くんに謝ってよ!!」
 頭の中でかおるが厳しい口調で詰め寄る。僕は、回りの声にはかまわず星岡に向かって言った。
 「カーブ・・・投げてみませんか?」
 俯いていた星岡が顔を上げた。僕の顔を見ながら苦しそうに笑った。
 「かおる・・・・君の言うことは分かるよ・・・・だけど・・・・」
 星岡は僕に背を向けた。
 「・・・・何度も練習をした・・・・でも・・・・僕には・・・投げられないんだ・・・・」
 星岡が僕に向き直った。苦しそうな笑顔を顔に浮かべると、
 「無理なんだよ・・・・・僕には・・・・」
 「そんなことはない!」
 僕は首を振ると、
 「もっと自信を持ってよ・・・・あれだけのピッチングを出来るんだよ! 必ず・・・カーブを投げられるよ・・・・」
 「簡単に言うな!」
 星岡が厳しい視線を僕に向けている。
 「マネージャーのおまえに・・・・ピッチングが分かるのか? カーブを投げる難しさが・・・」
 「分かるよ!!」
 僕も、星岡の目をしっかり見つめながら言った。
 「カーブなら・・・・僕だって投げられるよ!」
 「エッ?!」
 「おいおい・・・」
 星岡と徳田が驚いている。星岡が僕の顔を見ながら笑い出した。
 「おいおい・・・自分で言っている事が分かっているのか?」
 僕は黙って星岡の腕からグラブとボールを奪い取った。星岡は呆気に取られながら僕を見つめている。僕はマウンドに向かって歩いていた。後ろを振り返ると、
 「徳田さん・・・ボールを受けてください・・・」
 「あ・・・ああ・・・・」
 徳田は、星岡と僕を交互に見ながらミットを構えた。
 『ちょっと・・・・石田くん?!』
 かおるの心配そうな声が頭に響くが、僕は自分が今、女の子だと言うことを完全に忘れていた。
 「よく見ておけよ!」
 星岡に向かって言うと同時に、僕は大きく振りかぶった。
 「良い構えじゃないか・・・・」
 ミットを構える徳田が呟く。
 「・・・・徳田まで・・・・届くのか・・・?」
 星岡が笑っている。
 僕は、徳田に向かって足を上げた。スカートを履いているなんて言うことは、すっかり忘れていた。
 徳田は、一瞬スカートの中に白いものが見えてドキッとした。しかし、次の瞬間、さらに驚くことになる。
 『シュッ!』
 僕の細い指先からボールが離れる。もちろん男だったときのスピードはない。星岡は、笑いながらそれを見ていたが、次の瞬間、顔が強張ってしまった。ボールが大きく曲がっていく。
 『パシッ!』
 ボールは、徳田の右の足元に構えたミットに収まった。ミットの中に収まったボールを見つめながら呆然としている徳田。僕は、突っ立ったままの星岡に向かって歩いて行くと、左手にはめていたグラブを外して星岡に渡した。
 「・・・もっと自分に自信を持ってよ・・・・『曲がらない』と思いながら投げていると、曲がるボールも曲がらなくなるよ・・・・」
 僕は、星岡のお腹に右手で軽くパンチをした。驚く星岡に向かって、
 「もっと・・・・自分を信じて・・・・頑張って!」
 僕は、ニッコリ笑うと、部室に向かって歩いて行った・・・・。



 『石田くん・・・・さっきは・・・ありがとう・・・・』
 「エッ?・・・・なにが・・・?」
 『・・・星岡くんのこと・・・・わたしが言いたかったこと・・・代わりに言ってくれたから・・・・』
 「そのことか・・・・」
 僕は思わず微笑んでいた。
 「・・・・我慢・・・・できなかったんだ・・・・せっかく・・・・良いピッチングをしているのに・・・・自信がないから変化球を投げないなんてさ・・・・」
 『・・・・』
 「でも・・・・君の体もすごいね・・・・」
 僕は自分のものとは思えない白く細くて長い綺麗な指を見つめていた。
 「・・・・いきなり変化球を投げられるなんてさ・・・・・あのときは、頭に血が上っていたからわからなかったけどさ」
 『フフフッ』
 「これだけ長い指なら、フォークボールを投げたかったけどね!」
 その時、
 「おーい・・・・マネージャー!!」
 グランドから、小柄な少年・・・セカンドを守る田中が叫んでいる。
 「どうしたんだ?!」
 「全員集合です!!」
 田中がグランドの中央に走って行く。そこには、監督を中心にして既に部員達が集まっていた。僕も、スカートをなびかせながら走る。走って行くと、監督は僕の方をチラッと見て皆に話しを始めた。
 「みんな・・・・今までよくやってくれた・・・・」
 監督は、部員達を見まわしながら、
 「・・・・明日は、いよいよ教剛高校との試合だな・・・3年生は、最後の試合だ・・・・全力を出し切ってくれ!」
 「「「ハイッ!」」」
 星岡や徳田・・・・3年生達が大きな声で返事をした。監督が頷いた。
 「今日は・・・・ゆっくり休んでくれ・・・・明日は、良い試合をしよう!」
 「「「「「ハイッ!」」」」」
 選手全員が答える。その時、選手の後ろに立つ僕を、星岡がチラッと振りかえったことに、僕は全く気がつかなかった・・・・。



 夜・・・。
 僕は家に帰って夕食を済ませると、風呂に入っていた。
 「・・・フ〜ッ・・・・」
 温かいお湯に体を沈めていると、心地よい感触が体を包んでいく。ふと、湯船に沈んでいる体を見つめると・・・・。
 「・・・・」
 湯船の中に視線を落としている僕は、湯船の中に沈んでいる体を見て言葉が出なかった・・・。湯船に浸かっているのは、もちろん女の子・・・・板倉かおるの体なのだが・・・。温かいお湯の中で、細い腕を優しく撫でる・・・・・細く、柔らかい女のこの腕・・・。ちょっと視線をずらせば、僕の薄い胸板の上にある、形の良い丸い膨らみが飛び込んでくる。
 『ちょっと・・・・そんなにジロジロ見ないでよ!』
 「そんなことを言われても・・・・体を見ないと洗えないじゃないか・・・・慣れない体になっているこっちのことも考えてくれよ・・・」
 『・・・・・』
 「フウ〜〜〜ッ・・・・」
 僕は大きくため息をついた・・・・・気まずい沈黙が続く。
 「・・・・明日は、いよいよ試合か・・・・」
 僕は、湯気に曇る天井に視線をやりながら呟いた。
 『明日・・・・みんなは勝てるかしら・・・・?』
 「・・・・それは・・・・・正直なところ・・・・厳しいね・・・・」
 『・・・・・でも・・・・みんなはあれほど頑張っているのに・・・・』
 「それは、僕にもわかっているよ・・・・いろいろ考えさせられる事だってあったしね・・・・」
 『エッ?・・・・どう言うこと?』
 「う・・・う〜ん・・・・・」
 僕は、曖昧に笑っていたが、
 「・・・・僕はさ・・・・ピッチャーだから・・・・自分が抑えれば、それで野球は出来ると思っていたんだ・・・・」
 『・・・・・』
 「だから、TS学園に転校するとき、『あんなに弱い野球部しかない学校には行きたくない!』って思っていたんだ・・・・」
 『そうなの・・・・』
 「でも・・・・みんなを見ていて考えが変わってきたんだ・・・・」
 『どんなふうに?』
 かおるが興味深そうに尋ねてきたが、
 「・・・・ごめん・・・・上手く言えないや・・・・」
 『変なの!』
 かおると僕は、同時に笑い出した。
 「・・・・明日は・・・・良いゲームになると良いね・・・」
 『うん・・・・・星岡くん・・・・頑張って欲しいな・・・・』
 「さあ・・・・そろそろ上がろう・・・・」
 立ちあがると、湯船のお湯があふれて洗い場の床に流れる・・・・・お湯のあふれる音が、風呂場に響いていた・・・・。



 8月16日

 「かおる・・・・起きなさい!!」
 母の声に、僕はベッドから飛び起きた。ベッドから下りて、カーテンを開けて空を見上げる。雲一つない夏の青空が広がっている。
 「晴れたね・・・・」
 『うん・・・・・よかった・・・・』
 僕は、階段を降りて、食堂に行くと、
 「おはよう!」
 「おはよう・・・・さあ、早く食べてしまいなさい!」
 母が微笑みながらテーブルを指し示す。テーブルの上には、トーストとベーコンエッグ。そしてコーヒーカップの中のコーヒーが湯気を立てている。
 「いただきます」
 僕は、トーストに齧りついた。やがて、父が新聞を片手に持って台所にやってきた。
 「お父さん、おはよう」
 「ああ・・・・おはよう・・・・」
 父は、僕の正面に座ると、新聞を広げて眺めながら朝食を食べ始めた。
 「おい・・・・かおる・・・」
 「うん・・・なあに?」
 僕は、コーヒーを飲みながら首を傾げる。父は、新聞を畳んで、柱に付けられている時計に目をやった。
 「・・・・そんなにのんびりしていて良いのか?」
 父に言われて、僕も腕にはめた時計に視線を落とした。驚いて立ちあがる。
 「やばい・・・・」
 僕は慌てて立ちあがると自分の部屋に戻った。ドアを閉めて、ピンク色の縞模様のパジャマを脱ぎ捨てると、クローゼットを開けてセーラー服を取り出した。そこで一旦手を止めて・・・・。
 「・・・やっぱり・・・・着るの?」
 『なぜ?』
 「・・・いや・・・Tシャツや・・・ジーンズでは・・・・」
 『駄目よ! だって・・・・3年生は最後の試合なのよ・・・・制服を着て行って!』
 「・・・・やっぱり・・・・?(^^; 」
 僕は、スカートに足を通してウエストで止めると、上着を着て髪を直した。
 『身だしなみはきちんとしてね!』
 「・・・・随分・・・気を使うね・・・・」
 『だって・・・・』
 「わかったよ・・・・」
 僕はドレッサーの前に座ると、身だしなみを整えていく。鏡に映っているのは・・・・ブルーのスカーフを胸の前で結んだセーラー服姿の可愛らしい女の子・・・・・それが、今の僕の姿だ・・・・その女の子が、これから高校3年生・・・・野球部のマネージャーとして、最後の試合に臨もうとしている。
 「・・・・よし・・・・」
 僕は立ちあがると、スコアブックなどを入れたバッグを持った。部屋を出て階段を降りて玄関に向かうと、
 「かおる・・・・忘れ物よ!」
 母が台所から小さなクーラーバックを持ってきた。ファスナーを開けて中を見ると、たくさんのスポーツドリンクが保冷材と一緒に入っていた。
 「それと・・・これ!」
 母が僕に小さなタッパーを手渡した。
 「レモンのスライスよ・・・・こんなに暑いとみんなが疲れるでしょうから、適当に渡してあげてね!」
 「・・・・ありがとう・・・・」
 僕は、母の心遣いが嬉しかった。母は、ニッコリと微笑むと、
 「さあ・・・・ここに入れておくわよ」
 母はレモンを入れたタッパーをクーラーバックに入れるとファスナーを閉めて僕に手渡した。
 「・・・・最後の試合・・・・頑張っていらっしゃい!」
 「・・・・うん・・・・・」
 母の言葉に頷きながら、僕は家を後にした・・・・。
 

 
 『良いお母さんだね・・・』
 「うん・・・・」
 朝の街を僕は、TS学園高校に向かって歩いている。夏の朝・・・・さわやかな風が、スカートから伸びる足を撫でる。交差点に出たとき、
 「よっ! おはよう!」
 僕の前に、誰かが立ちふさがった。
 「アッ・・・・」
 驚く僕の前に立っていたのは、ピッチャーの星岡だった。
 「・・・今日で・・・・お互い最後の試合だな・・・・」
 星岡が僕を見つめながら笑っている。肩から大きなバッグを下げ、手にはバットケースを持っている。
 「うん・・・・」
 「・・・さあ・・・・行こうぜ!」
 星岡に促されて、僕は、星岡と一緒に歩き始めた。
 「・・・長かったけど・・・・3年間なんて・・・・あっという間だったな・・・・」
 星岡が僕の横顔を見つめながら話し掛けた。
 「・・・・・」
 『3年間って・・・・僕は、本当はまだ2年生だぞ・・・・』
 そんなことを思っていると、
 『もう・・・・適当に合わせておいてよ!!』
 頭の中で、かおるが口を尖らせながら怒っている。
 「・・・・3年間・・・・いろいろおまえには世話になったけど・・・まだ、勝った試合をプレゼントできていないな・・・・」
 僕は驚いて星岡の顔を見つめた。星岡は、前を見つめたまま話しつづけている。
 「・・・今日の相手は・・・・ものすごく強いけど・・・・僕は、全力で投げるよ・・・・3年間支えてもらったおまえのためにもね・・・・」
 「・・・うん・・・・」
 僕は、頷いたものの、星岡の言葉が気になっていた。
 『おい・・・・これってどういうことだよ・・・・』
 『・・・・・』
 『まさか・・・・君と星岡は・・・・・?』
 『・・・・・』
 『おい・・・黙っていないで・・・・何とか言えよ!』
 『・・・・そうなの・・・・』
 『やっぱり・・・・・それで、ここに戻ってきたのか・・・・』
 『・・・うん・・・・』
 「・・・・・・・・」
 思わず僕は黙り込んでしまった・・・かおるの気持ちを知った今、僕はどうやって星岡に接すれば良いのか・・・・。そんな僕の考えを察したかのように、
 『・・・・あなたは気にしないで・・・・今日の試合で、みんなをしっかりサポートしてあげてね!』
 『・・・うん・・・・わかったよ・・・・』
 僕達の前に、学校が見えてきた。校門の前には、マイクロバスが停まって、その周りには野球部員達が集まっている。
 「おい・・・・星岡! マネージャー・・・・早く、早く!」
 レフトを守る倉田がこちらに向かって叫んだ。
 「あいつ・・・・」
 星岡がニッコリ笑った。
 「急ごう!」
 僕は、星岡と一緒にみんなのところに向かって駆け出した・・・・。



 「そろそろだな・・・・」
 監督が窓の外を見つめている。
 バスは、校門をくぐると、両側に銀杏が植えられた並木道を走って行く。
 「さすがは教剛高校・・・・広いな・・・・」
 立派な校舎を左手に見ながらバスは走る。やがて、右手に立派な温水プールの建物と、陸上競技のトラック。そして、その奥にあるのは・・・・。
 「・・・・嘘だろ・・・・」
 セカンドを守る田中が、フロントウインドーの向こう側を見ながら呟いた。そこには、立派な照明塔・・・・ナイター設備を備えた野球場が見えている。
 「・・・さすが・・・名門校は違うな・・・」
 星岡が笑った。
 バスは、立派な野球場の前に停まってドアが開いた。次々に野球部員達が降りて行く。バスを降りた僕の耳に聞こえたのは、
 『カキーン・・・・』
 グランドから響く、バットでボールを打つ鋭い音だった。
 「誰が打っているんだ?」
 部員達が次々スタンドに上がった。次の瞬間、
 「「「・・・・・」」」
 グランドでは、教剛高校の4番打者、松田がフリーバッティングを行っていた。ピッチャーがボールを投げた。星岡よりも、遥かに速いボールがバッターに向かって飛んでくる。松田のバットが鋭いスイングを・・・。
 『カキーン・・・・!』
 ボールが放物線を描きながら飛んでいく。ボールは、フェンスを超えてフェンスの向こう側の芝生の上で弾んでいた。
 「・・・・すげえ・・・・」
 ライトを守る小林が呟く。監督は、チラッと部員達に視線を向けた。誰もが青白い顔で松田のフリーバッティングを見つめている。監督は、『フン』と鼻を鳴らした。
 「おい・・・おまえ達! 何をボーッとしているんだ! さっさと試合の準備をしろ!」
 「「「「「オスッ!」」」」」
 弾かれたように、部員達がスタンドの下にある更衣室に走る。僕は、その後姿を見送ると、監督と一緒にグランドに降りてスタンドの下にあるベンチに入った。ベンチに入り、担いで来たクーラーバッグを肩から下ろすと、
 「おはようございます!」
 後ろから聞こえた声に振り向くと、教剛高校の監督と、主将でもある松田が立っていた。
 「やあ・・・・今日は、よろしくお願いします・・・」
 監督が、ニコニコ笑いながら、教剛高校の監督と握手を交わしている。
 「こいつ達も、最後の試合ですので・・・・よろしくお願いします」
 教剛高校の監督が、松田の方を見ながら言った。松田は帽子を取ると、
 「よろしくお願いします!」
 僕達に向かって、きちんと頭を下げた。僕も、ペコッと頭を下げる。
 『こいつ・・・・礼儀正しいな・・・』
 『こう言う人って・・・・実力もすごいのよね・・・・』
 頭の中でかおるが言った。すると、
 「オスッ・・・・よろしくお願いします!」
 元気な声と同時に、TS学園高校野球部員達がベンチにやって来た。教剛高校の監督の、精悍な顔が厳しくなる。
 「さあ・・・・それでは、始めましょうか・・・」



 「・・・それでは、教剛高等学校と、TS学園高校の練習試合を始めます! 礼!!」
 「「「「「よろしくお願いします!」」」」」
 ホームベースの前に整列した選手達が、帽子を取って礼をする。
 「行くぞ!」
 「「「「「オウ!」」」」」
 星岡の声に元気に答えて、選手達が守備位置に散っていく。
 『・・・みんな・・・・頑張って・・・・』
 僕の頭の中で、かおるが呟く。
 「信じようよ・・・・みんなを・・・・」
 僕は、声に出して呟いていた。

 「プレーボール!!」
 主審の右手が高々と上がった。教剛高校の一番バッター、ショートを守る小柄な西出が左バッターボックスに入った。
 『星岡くん・・・・』
 かおるが呟く。星岡の足が上がる。腕をまるで鞭のように撓らせて第一球を・・・・。
 「アレッ?!」
 フルスイングをした西出のバットは、見事に空を切った。外角のスローボール・・・・おそらくスピードは、100kmも出ていないだろう。
 「速球で来ると思ったのにな・・・」
 僕は、思わず苦笑いしながらスコアブックをつける。
 
 「遅いな・・・・」
 バッターボックスから、マウンドに立つ星岡を見つめながら、西出も笑っていた。
 「それなら・・・」
 
 星岡が振りかぶった・・・・第2球を投げる。インコースのストレート。
 「アッ?!」
 西出は3塁方向にバントをした。ボールが転々と転がる。小柄な西出が懸命に走る・・・さすがは教剛高校の先頭バッターだ、足は速い。サードの藤田がダッシュする。ボールを素手で掴むとそのまま1塁の久保へ・・・。
 「アウト!」
 塁審の腕が上がる。
 「フ〜ッ・・・」
 僕の口から、思わずため息が漏れる。
 『どう? なかなか良い守備でしょう?!』
 かおるが嬉しそうに言った。

 2番バッターの河合が右の打席に入った。星岡がモーションに入る。腕をしならせて投げる。遅いボールが、外角へ・・・・。
 「ボール!」
 主審の声が響く。キャッチャーの徳田は立ちあがると、星岡に向かって、
 「力を抜け!」
 声をかけながらボールを返す。
 ボールを受け取った。徳田の出すサインを見ながら頷くと、第2球を投げた。

 河合は事前のミーティングで、星岡の球種はストレートしかないことを聞いていた。1球目のストレートは、80kmほどだっただろう。
 「しっかりと見ていけば・・・・」
 星岡の腕からボールが離れた。
 「エッ?!」
 速いストレートがインコースに・・・。
 『カキーン!』
 思わずバットが出た。打球がショートに向かって転々と転がる。ショートの今田が軽快に捌いて1塁へ・・・・。
 「アウト!」
 河合が悔しそうにベンチに走る。
 「何をやっているんだ・・・・見逃せばボールだぞ! しかも、スピードだって、良いところ120kmほどだろう?」
 教剛高校の監督が、きつい口調で河合に言った。
 「監督・・・・打席に立つと、あいつのボールは、速く見えるんですよ・・・・」
 河合が困惑した表情で監督に言った。それを、ベンチに座りながら、松田は黙って聞いていた。視線は、マウンドに立つ星岡に向けたままだ。
 『緩急の差を大きくして、ボールを速く見せる・・・・か・・・・・』
 『カキーン・・・・』
 3番バッターのライトを守る古市が打ち上げた・・・・ボールがライトに飛んでいく。小林が2・3歩下がると、ジャンプをしてボールを取った。小林のグラブにボールが納まると、星岡は駆け足でベンチに戻る。
 「・・・・なかなかやるな・・・」
 松田は、ベンチから腰を上げると、守備位置のセンターに駆け足で向かった・・・・。
 
 
 
 「よしよし・・・良いぞ!」
 監督が、手を叩きながら選手を迎えた。
 「ハイ・・・・ご苦労様・・・・」
 僕は、戻ってくる選手達にスポーツタオルを手渡した。星岡が戻ってきた・・・・。
 「・・・・ご苦労様・・・・」
 「ありがとう!」
 星岡は、タオルを受け取ると、ベンチの後ろの方に腰を下ろした。大きなバッグから、ミネラルウオーターのボトルを出して・・・・。
 「星岡くん!」
 思わず、僕は大きな声を出していた。星岡の手の動きが止まる。
 「それよりも・・・・」
 僕は、クーラーバックからスポーツドリンクを取り出すと、星岡に向かって手渡した。
 「あ・・・・ありがとう!」
 星岡がニッコリ笑う。僕も微笑みながら頷くと、視線をグランドに戻した。

 グランドでは、先頭バッターのセンターを守る佐々木が打席に入っていた。教剛高校のピッチャーは3年生の津野。全国大会でも活躍した豪速球投手で、決め球の高速スライダーは、プロ野球チームのスカウト達からも高く評価されている。
 「・・・・どこまで戦えるかな・・・」
 思わず声に出して呟いていた。
 『・・・信じましょう・・・・みんなを・・・・』
 頭の中でかおるが明るい声で言った。僕も頷く。
 
 バッターボックスで佐々木がバットを2・3度回してからゆっくり構える。
 「さあ・・・・来い!」
 マウンドで津野が大きく振りかぶる・・・足を高く上げてオーバースローでボールを・・・・。
 「・・・?!!」
 『ズバン!!』
 「ストライク!!」
 主審の腕が高々と上がっている。

 「速い!!」
 僕は、思わず声に出して叫んでいた。
 「・・・さすがは、ドラフトの有力候補だな・・・・」
 監督が、腕組をしながらマウンド上に立つ津野を見つめている。津野は、右手の掌の上でロージンバックを弄ぶと、足元に落として、プレートに足をかけた。第2球を・・・。
 「クソッ!」
 佐々木が必死にスイングをするが、
 「ストライク!」
 主審の腕が上がる・・・・ボールは、バットに掠りもしない。
 バッターボックスから一度外に出てバットにすべり止めを塗る佐々木・・・・鋭い視線でマウンドに立つ津野を睨みつけていた。
 「・・・・ちょっと・・・・やってみるか・・・・」
 佐々木が、改めてバッターボックスに入る。
 「落ち着いて行け!」
 ウエイティングサークルから、今田が声をかける。佐々木がバッターボックスで構えると、津野の足が上がって第3球が・・・・。
 『キン!』
 佐々木が、3塁方向にバントをした。同時に津野が、マウンドを駆け下りる。佐々木が俊足を飛ばして1塁へ走る。津野が好フィールディングで1塁へ送球する。
 「アウト!」

 「うーん・・・・守備も完璧だな・・・・あのピッチャー・・・」
 スコアブックをつけながら僕が呟くと、
 『感心している場合じゃないでしょう?!』
 かおるが頭の中で怒る。
 
 2番バッター・・・・今田がバッターボックスに入る。津野の速球が唸りを上げて飛んでくる。今田は、成すすべなく三振してしまった。今田がバッターボックスで悔しがっている。今田と入れ違いに、3番バッター・・・サードの藤田が入る。バッターボックスに入ると、バットでスパイクの裏についた土を、バットで叩いて落とすと構えに入る。
 
 『藤田くんは、アベレージヒッターだから・・・・期待できるわよ!』
 かおるが興奮気味に、僕の頭の中で言った。僕は、それには答えずにマウンド上の津野に視線が釘付けになっていた。

 津野が、スパイクでマウンドの土をならしていた。
 「さて・・・・」
 左打席に入った藤田をマウンドから見下ろす・・・・そこには、全国大会の激戦に揉まれて来た・・・・ある種の貫禄が感じられた。振りかぶって第1球を・・・・。
 
 「来た!」
 打席で藤田が呟く。簡単には津野のスピードボールは打てないと考えた藤田は、前の二人の打席の配球から、ヤマを張っていた。その通り、津野は外角にスピードの遅いストレートを投げてきたのだ。藤田は踏み込んでバットを振った。
 『ガキッ!』
 鈍い音がすると、ボールがショートに転々と転がっていく。ボールは、ショートに軽快に捌かれて1塁へ送られた・・・・。

 「あ〜あ・・・・」
 僕は、大きくため息をついた。
 「よし・・・・しっかり守って来い!」
 監督の声に送られて、選手達が守備位置に散っていく。入れ替わりに、1塁から藤田がバットを抱えて戻ってきた。僕は、無意識のうちに、藤田のファーストミットを持って彼を出迎えていた。藤田のバットを受け取り、彼にグラブを手渡した。
 「ありがとう!」
 藤田がニッコリ笑う。
 「どう? 打てそうかな?」
 「いや・・・・ジャストミートだと思っても、完全に詰まったからね・・・・思ったより重いボールで、打ち辛いよ」
 藤田は苦笑いを浮かべると、サードの守備位置に走って行った。
 「・・・・・・」
 僕は、走り去る藤田の後姿を見つめていた。
 『・・・大丈夫なのかな・・・・?』
 流石に、かおるも不安そうに尋ねた。
 「・・・・それよりも、ここが一つの山場だよ・・・・」
 僕は、バッターボックスに入る、鍛え上げられた男に目をやった・・・。

 松田が、バットを素振りしながら、バッターボックスに入ってきた。マウンド上から星岡が、鋭い視線で左打席に入る松田を見下ろしている。
 ホームプレートの後ろに座っている徳田は、マスク越しに松田を見上げていた。
 『・・・・すごい迫力だな・・・・』
 徳田は、マウンドに立つ星岡に視線を移した。
 『・・・さあ・・・・かおるくんのデータを信用して・・・・行くぞ・・・・星岡!・・・・まずは・・・・・』
 徳田はサインを出すと、ミットを一回・・・拳で叩いて構える。

 星岡が、徳田の出すサインを覗きこんでいた。
 「・・・よし!」
 頷くと、セットポジションからモーションに入る。第1球を・・・。
 
 松田は、打席に立ったまま、初球を見逃した。外角のストレート・・・・・スローボールが徳田のミットに納まる。
 「ボール!!」
 審判がコールした。
 「・・・外れたか・・・・」
 徳田が、星岡に返球しながら呟いた。
 「次は・・・」

 星岡は、サインに頷くとセットに入る。細い腕を撓らせながら第2球を投げた。
 
 「オッ?!」
 松田は、一瞬驚いて体を仰け反らせた。内角・・・・松田の胸元に速球が向かってくる。
 「ストライク!」
 「エッ?!」
 審判のコールに、松田は一瞬不服そうな表情を見せた。
 「松田・・・落ち着け! そんなに速い球じゃないぞ!」
 教剛高校の監督が叫ぶ。
 「これで勝ったな・・・・」
 徳田は、サインを出すと、またミットを一度、拳で叩いて低めに構える。

 星岡が、サインに頷く。ボールをセットすると、松田に鋭い視線を投げつける。第3球を、渾身の力を込めて投げた。松田の膝のあたりに向かってボールが飛んでいく。松田は、反射的にバットを振っていた。
 『カキーン!』
 速い打球がファーストの久保のミットに収まる。そのまま久保はベースを踏んでボールを星岡に送った。
 「アウト!」
 塁審の腕が上がる。松田は、唇を噛み締めながら、ベンチに向かって駆け足で戻って行く。一瞬、鋭い視線をマウンドに立つ星岡に向けていた。

 『やったー!』
 かおるが、頭の中で喜びの声を上げていた。
 「・・・データの通りだったね・・・・」
 僕は、スコアブックを膝の上に置いて、大きなため息をついていた。緊張をしていたのか、肩から首のあたりがパンパンに張っていた。
 かおるが生前に集めていたデータでは、松田は膝元に来るインコースのボールは、あまりヒットにはしていない。スピードは、さほど速くなく、変化球も持たない星岡は、駆け引きでカウントを稼いで、そこにボールを投げるしかなかった・・・。
 「・・・・踏ん張ってくれよ・・・・・星岡さん・・・・」
 思わず呟いていた。



 それから試合は、投手戦になっていた。教剛高校の津田は、速球と高速スライダーで三振の山を築き、一方、星岡は、毎回ヒットでランナーを出しながらも、緩急をつけた投球で連続ヒットは許さない・・・・。
 試合は、無得点のまま進んで7回・・・先に捕まったのは・・・・。




 『カキーン・・・・』
 ボールが放物線を描きながらライトに向かって飛んでいく。ライトの小林が、ホームベースに背を向けて走る。落下地点に入った。
 『これで、スリー・アウト・・・だな・・・』
 小林は、ニッコリ笑うとタイミングを計って軽くジャンプをしながらグラブをはめた腕を伸ばす。
 『これで、ファインプレー・・・・?』
 そう思った瞬間、
 『エッ?!』
 ボールが、グラブの土手にあたってグランドに落ちると、芝生の上を転々と転がる。
 「クソッ!」
 小林は、必死に走ってボールに追いつくと、素手で掴んで振りかえりざまにセカンドに送球する。しかし、既に打者の古市は、3塁ベースに向かってヘッドスライディングをしていた。小林は、悔しそうに唇を噛み締めた。

 「・・・まずいな・・・」
 僕は、スコアブックをつけるために握っていたボールペンを、知らず知らずのうちに強く握り締めていた。
 『大丈夫かしら?』
 かおるも心配そうに呟いている。
 「三打席目だからね・・・・・厳しいけど・・・・信じるしかないよ・・・・・」
 僕は、マウンドに立ってスパイクで足元を均している星岡を見つめていた・・・・。

 星岡は、マウンドの上からウエイティングサークルから、左打席に入る松田を見下ろしていた。
 松田は、打席に入ると、スパイクで足元の土を均して、何度かバットを素振りをしてから、ゆったりとバットを構える。
 
 「・・・ヤバイな・・・・」
 『どうしたのよ?』
 「・・・・松田・・・・前の2打席とは、どこか違うよ・・・・」
 『どこが?』
 「どこが・・・って言われても・・・・」
 僕の視線は、打席に立つ松田に釘付けになっていた。ゆったりと構えて、マウンド上に立つ星岡に鋭い視線を向ける松田・・・・その構えと表情は、自信に満ち溢れていた。
 「・・・・星岡さん・・・・気をつけないと・・・・・」

 星岡は、マウンドから徳田の出すサインを見つめていた。小さく頷くと、セットポジションから第1球を投げた。外角低めにスローボールが飛んでいく。松田が鋭くバットを振る。
 『カキーン!』
 3塁線に速い打球が飛んでいく。反射的に藤田がボールに飛びつき、ボールがグラブに納まったが・・・。
 『ファールボール!』
 塁審が腕を広げている。

 『惜しかったなあ・・・・・3塁ゴロだったのに・・・・』
 僕の頭の中で、かおるが悔しそうに言った。
 「・・・・」
 僕は、それには答えなかった・・・・。じっと睨みつけるように、打席を外してバットを素振りしている松田の精悍な表情を見つめていた。
 「あの外角のボールに手を出したのは・・・・・?」

 星岡が、徳田の出すサインを覗き込んでいる。
 『・・・・この打席・・・・松田は、外角狙いだ・・・・』
 サインに頷いて、セットに入る。サードランナーに視線をやって、細い腕を撓らせながら、第2球を投げた。星岡渾身のストレートが松田の胸元を襲う。松田は、体を全く動かさずに見送った。主審の腕が上がる。
 「ストラーイク!!」
 
 「・・・・・」
 『星岡くん、すごいね! 松田君もすごいけど、全く手が出ないじゃない!』
 かおるが嬉しそうに言った。
 「・・・・本当に・・・・外角狙いなのか・・・?」
 僕はスコアブックに視線を落とした。この試合の松田への配球をチェックした・・・・ハッとして、星岡へサインを出している徳田を見つめた。
 「徳田さん?!」
 
 『大丈夫・・・・今のストレートに反応しなかったのは、やはり外角を待っているからだ・・・・勝負だ・・・・星岡!』
 徳田は、マスク越しに星岡を見つめながらサインを出した。星岡が頷くのを確認すると、ミットを一回拳で叩いてミットを構えた。

 星岡が、セットに入る。3塁ランナーがベースを離れてリードをとる。星岡が、細い腕を撓らせながら、第3球を投げた。ボールが、インコース・・・・松田の膝元に向かっていく。次の瞬間、
 「「エッ?!!」」
 『カキーン!!』
 松田は、体を開くと、ボールを掬い上げるようにバットをスイングした。ボールは、まるでピンポン球のようにライト方向に飛んでいく。小林が背中を向けながら必死に走る。フェンスに張りついてグラブを構えるが、その小林をまるで見下ろすように、ボールはフェンスを超えていった・・・・・唇を噛み締め、小林はがっくりうな垂れた。
 「・・・クソッ!」
 星岡は、マウンドからベースを回る松田を見つめていた。『大したことは、していない・・・・』と言うように、ポーカーフェイスで松田はベースを駆け足で回っていた。
 
 「やられたな・・・・」
 僕は、小さな声で呟くと、スコアブックに印を付けた。
 「・・・ツーラン・ホームラン・・・・か・・・・」
 『でも・・・・前の2打席は、全く手が出なかったのに、なぜ・・・・・』
 「配球が単調になったからね・・・・外角から入って、胸元に見せだま・・・・勝負は、インコース膝元・・・・配球が分かれば、インコースの膝元を、インコースにしない事だって出来るさ・・・・あんな風にね・・・・」
 グランドでは、星岡が次の打者を仕留めて、選手達がベンチに引き上げてきた。小林は、星岡に追いつくと帽子を取って、
 「すみませんでした・・・・僕が、エラーをしてしまったからこんなことに・・・・」
 「いや・・・いいさ」
 星岡は、ベンチに戻ってスポーツドリンクで喉を潤すと、
 「・・・あの後、俺が松田に打たれなければよかっただけじゃないか・・・・それよりも・・・」
 星岡が、小林の肩をポンと叩いた。
 「あと2回ある・・・・逆転しようぜ!」
 「ハイ!」
 監督が、ベンチで手を叩いた。
 「さあ・・・・まだまだこれからだ・・・・・しっかり見て打って行けよ!」
 「オスッ!」
 セカンドの田中が、バットを振りながら打席に向かう。
 「頑張れ・・・・」
 小さな声で呟きながら、僕は田中の小柄な背中を見つめていた・・・・。
 


 8回の攻防は、教剛高校の津野、TS学園の星岡・・・・どちらも踏ん張って、両校とも得点できなかった・・・・。
 そして、TS学園に残されたチャンスは・・・・・9回の表・・・・1イニングだけだった・・・・。



 9回表、星岡は選手達を集めてベンチの前で円陣を組んだ。監督は、腕を組んだまま何も言わずに、その様子を眺めている。
 「いいか・・・・3年生は、これが最後の試合だ・・・・・悔いを残さないように、思いっきり行こう・・・・そして、1・2年生は、秋季大会に繋がる試合をしよう・・・・」
 星岡が、円陣の中央で、選手達を見まわした。
 「頑張って行こう!」
 「「「「「オーッ!」」」」」
 
 マウンドでは、津野が投球練習の手を止めて、その様子を見つめていた。
 「津野!」
 振りかえると、松田が真剣な表情で、津野を見つめていた。
 「今日のあいつら・・・・いつもと違うな・・・・」
 松田が、顎をしゃくりながら言った。
 「ああ・・・・投げていても、必死にボールに食らいついてくる・・・・」
 津野は小さく笑いながら、
 「・・・なぜ、あいつ達が一勝もしていないか・・・・不思議でしょうがないよ・・・・」
 松田も頷くと、
 「今日の連中は・・・・目的があるからな・・・・」
 「目的?」
 「ああ・・・・卒業するあいつに・・・・1勝をプレゼントすると言う・・・・」
 松田が、ベンチに座っている星岡を指差した。
 「・・・・それなら、俺達も同じじゃないか・・・」
 津野が松田を見つめながら笑った。
 「・・・・俺達だって、どうせなら勝って終わりたい・・・・」
 「もちろんだ・・・・・しまって行こうぜ!」
 松田は、津野の肩をグラブでポンと叩くと、センターの守備位置に向かって走って行く。津野は、走り去る松田の背中をしばらく見つめていたが、やがて、真剣な表情でホームベースの方向に向き直った。打席には、TS学園の先頭バッター・・・・佐々木が入った。

 佐々木が、バッターボックスで素振りをしている。
 「星岡さんに・・・・せめて1勝を・・・・」
 足元を均して、バットを構える。
 「・・・・とにかく、繋ぐ・・・・・」
 鋭い視線で、マウンドに立つ津野を睨む。

 「・・・・目つきが違うな・・・・」
 津野は、そう思いながら振りかぶった。大きなフォームでボールを投げる。唸りを上げて150km近いボールが佐々木を襲う。
 
 「いけっ!」
 佐々木は、バントの構えから、まるで、バットを押し出すようにバントをした。ボールが、フラフラと三遊間の後方に落ちる。ショートが、ボールを取って振り返ったときには、佐々木は既に一塁ベースを駆け抜けていた。
 「良いぞ、佐々木!!」
 ベンチから、選手達がメガホンを口にあてながら叫ぶ。佐々木は、1塁ベースの上に立って、ベンチに向かってガッツポーズをした。
 「今田・・・続け!!」
 監督が、メガホン越しに大きな声で、打席に向かう今田に向かって言った。今田が、緊張した表情で打席に入る。
 「大丈夫かな・・・・」
 僕が呟くと、
 『大丈夫よ・・・・ああ見えても、今田くんはガッツがあるのよ!』
 かおるが自信に満ちた声で笑う。

 「これ以上は、ランナーは出させないぜ・・・・」
 津野が、キャッチャーのサインを覗きこむ。1塁の佐々木に、チラッと視線を投げかけると、第1球を投げた。

 『来た・・・・スライダーだ・・・・!』
 今田は、一瞬、その表情に笑みを浮かべた。今の今田に、津野の速球やスライダーを打つのは至難の技だ・・・・そうだとすると、今、彼に出来るのは・・・・?
 「いて〜〜〜え・・・・・!!」
 今田の絶叫が、グランドに響く。
 
 「「アッ?!」」
 ベンチに座っていた部員達が、一斉に立ちあがった。彼らの視線の先では、今田が尻を押さえてひっくり返っている。内角に変化してきたスライダーのボールは、今田の尻にあたってしまった。
 『今田くんが・・・?!』
 かおるが心配そうに呟く。しかし僕は、俯きながらクスクスと笑ってしまっていた。
 『なによ・・・・石田くんって薄情なのね!』
 「ちがうよ・・・・」
 僕は、グランドに視線を戻した。今だが、びっこを引きながら1塁へ向かって歩いている。そんな今田に、マウンドの上から津野が帽子を取って頭を下げている。
 「・・・・あいつ・・・・わざと当たったね・・・・」
 『わざと?』
 「うん・・・・何がなんでも、塁に出て後に繋げようと・・・・・根性だよね・・・・」
 ベンチは、このチャンスに一気に活気付いていた。誰もがメガホンを口にあてて、大きな声で打席に向かう藤田に声援を送っている。

 藤田が打席に入った。バットを構えて、じっと津野を睨みつける。

 「嫌な時に、嫌な奴に回ってきたな・・・・」
 津野がマウンド上で呟いた。これまでの打席で、この藤田だけは、津野の打球を前に飛ばしている・・・・それどころか、打席を重ねるたびにタイミングが・・・・。津野が、雑念を払おうとするように頭を振った。
 「正々堂々と直球で・・・・」
 津野がセットに入る。二人のランナーが、ベースを離れてリードを広げていく。津野は、藤田に向き直ると、ダイナミックなフォームで第1球を・・・・。

 「速い!」
 僕は、ベンチで思わず声を上げていた。全国大会でも、これほどのスピードは出なかったのではないかと思えるようなスピードで、津野がボールを投げたのだ。
 誰もが、言葉を失って打席に立つ藤田を見つめる。
 「頼む・・・・」
 星岡が、呟くように言ったその時・・・・。

 津野の剛速球が、藤田に向かってくる。
 『ストレートだ・・・・』
 次の瞬間、藤田の鋭いスイングが、津野の速球を捉えていた。
 『カキーン!!』
 グランドにバットの音が響く。

 「やった!」
 僕は、思わずベンチから立ちあがって打球の行方を追った。打球は、レフトの頭を超えてフェンスに当たって跳ね返る。
 「佐々木! ストップだ!!」
 星岡が、僕の横で叫んだ。
 佐々木は、3塁ベースを大きく回ったが、3塁コーチも両手を広げて佐々木を止めた。大急ぎで3塁に戻って行く佐々木。ボールは、すぐにレフトからサードに送られてきた。僕は、ホッと胸をなでおろして星岡の顔を見上げた。
 「・・・・当たりが良すぎたね・・・・」
 「ああ・・・・チャンスは広がったけどね・・・・・無死満塁・・・・か・・・・」
 監督が立ちあがった。ウエイティングサークルからバッターボックスに向かおうとしていた4番バッター・・・・ファーストの久保を呼ぶと、一言二言囁いてから、背中を叩いて送り出した。僕は、スコアブックに視線を落とした。そして、思わず・・・・。
 「うーん・・・・・・」
 久保のこれまでの通算打率は2割・・・・大柄な体と鍛え上げられた筋肉で当たれば飛ぶが、バットをぶんぶん振りまわすだけに、三振も多い・・・・。
 「フウ〜〜ッ・・・・」
 思わずため息をつく僕に、
 「どうした・・・・マネージャー・・・」
 星岡が、僕の顔を覗きこんだ。
 「エッ? いや・・・・なにも・・・・」
 顔を赤く染めながら、僕は俯いた。
 「久保の打率が心配・・・・かな?」
 「ウッ?!」
 図星を突かれて、僕は思わず黙り込んでしまった。
 「確かに、打率だけを見れば、期待できないかもしれないけどね・・・・」
 星岡は、バッターボックスで素振りをして構えに入る久保の背中を見つめながら、
 「・・・3年間一緒にやってきたんだ・・・・・最後まで信じようよ・・・」
 星岡がニッコリ笑った・・・・なんとも言えない、さわやかな笑顔だった。僕も頷くと、グランドに視線を戻した。津野がボールをセットした。ランナーに視線を投げると、プレートを外して牽制の素振りを見せる。
 「・・・流石に、ランナーが気になるみたいだな・・・・」
 『チャンスね!』
 かおるの声が弾む。
 「ここで、決めて欲しいな・・・・」
 僕の、ペンを握る右手は、いつしか汗で濡れていた・・・・。

 「クソッ・・・・」
 マウンド上の津野は、唇を噛み締めながら、3人のランナーに鋭い視線を投げかけていた。
 「・・・・こんなに粘ってくるなんて・・・・」
 津野は、再びボールをセットすると、ランナーに鋭い視線を投げかけると、久保に第1球を投げた。

 『来た!』
 久保が、力一杯スイングした。しかし、バットは虚しく空を切った。
 「ストラーイク!」
 主審の腕が高く上がる。

 「落ち着け!」
 星岡が、メガホンで叫んだ。僕も、じりじりしながら打席の足元の土を均す久保を見つめていた。
 「頑張れ・・・・」
 思わず呟いていた。

 久保が、バッターボックスから、マウンド上の津野に鋭い視線を投げる。
 『・・・・なんとか・・・・得点を・・・・』
 バットのグリップを握る腕に力が入る。

 『・・・・あれだけ力んでくれていれば、勝負はしやすいな・・・・』
 津野は、マウンドの土を均すと、キャッチャーのサインに首を振った。
 『一球仰け反らせて、勝負は、決め球のスライダーだ・・・』
 津野は、ボールをセットすると、久保の胸元に向かってボールを投げた。

 久保が、体を開きながらバットをフルスイングした。しかし、津野の速球はバットに掠りもしない。
 「ストラーイク!」
 審判の大きな声が、グランドに響く。

 「ああ・・・・」
 監督が、大きなため息を漏らした。
 「久保! しっかり見ろ!」
 「落ち着いて!」
 「力を抜け!!」
 星岡や徳田・・・・ベンチに居るみんなが、大きな声で叫んだ。久保が、頷きながら素振りをする。しかし、そのスイングは、ますます力が入っているように見えた。久保がバッターボックスに入った。津野がモーションに入った。躍動感あふれるフォームで第3球を・・・・。
 「久保くん、頑張って!!」
 僕は、思わず叫んでいた・・・・それは、僕の考えなのか・・・・それとも、かおるのチームに対する思いなのか・・・?

 「マネージャー・・・」
 久保の体から、緊張感が消えた。津野の決め球、高速スライダーがすさまじい勢いで・・・・。
 「行けっ!」
 久保は、渾身の力でバットを振った。
 「カキーン!!」
 ボールが放物線を描きながらセンターに向かって飛んでいく。ボールがセンターの頭を越えた。ランナーが一斉に走り出す。ボールは、センターのフェンスに当たって跳ね返った。
 「いいぞ!!」
 「走れ!!」
 ベンチが大騒ぎになる。僕も、立ち上がって叫んでいた。佐々木が、今田が、そして藤田がホームにヘッドスライディングをした。審判の両手が広がる。
 「セーフ!!」
 「やった〜!!」
 「逆転だ!!」
 ベンチが歓声に包まれる。久保は、セカンドベースの上でガッツポーズをしていた。
 教剛高校の選手が、マウンドに集まった。ベンチから、細身の選手が駆け足でマウンドに向かった。マウンドの津野は、悔しそうにボールをその選手に手渡すと、ベンチに向かって走って行く。

 『あれは・・・・』
 かおるが、頭の中で言った。
 「うん・・・・・教剛の抑えのエースだよ」
 教剛高校の2番手ピッチャーは、西川。右のアンダースローのピッチャーで、津野とは全く対照的なピッチャーだった。投球練習が終わると、5番バッターの倉田がバッターボックスに入った。
 しかし、全く異なるタイプのピッチャーに、TS学園打線は手が出ない。後続が続かず、セカンドランナーの久保を返すことが出来なかった。
 「よし・・・しっかり守っていこう!!」
 監督の声に送られて、選手達が最後の守備に散っていく。星岡が、帽子を被ってベンチを出て行く。
 「星岡くん」
 僕は、無意識のうちに声をかけていた。星岡が足を止めた。僕を見ると、ニッコリ笑って、
 「・・・・頑張ってくるよ!」
 そう言ってマウンドに向かった。僕は、黙ってその後姿を見送っていた・・・・。



 この回も、星岡の投球は冴えていた。相手の狙いの裏をかいて投げ、大きな緩急の差は、星岡の120km程度の球を、140km以上にも感じさせていた。しかし、僕は、星岡のピッチングに危うさも感じていた。今まで、1勝も挙げていないピッチャーが挑む最終回の投球・・・そして、それは現実になってしまった。二人を続けて討ち取ったものの、そのあと、二人に連打を浴びてしまった。そして迎えたのは・・・・松田だった・・・。

 松田が、バッターボックスに入った。2アウト・ランナー1・2塁。星岡は、連打を浴びてスタミナが切れたのか、肩で息をしていた。前の打席は、ツーラン・ホームラン。星岡も、徳田も、この打席でどうやって攻めていくのか・・・・途惑っていた。
 『とにかく・・・1球目は外角からだ・・・・低めならば、簡単には・・・』
 星岡は、サインに頷くとセットポジションからボールを投げた。しかし、
 『カキーン!!』
 松田が掬い上げるようにボールを打った。ボールがレフトに飛んでいく・・・・しかし、
 「ファール!!」
 肩で息をしながら、ホッとする星岡。再び、徳田のサインを覗きこむ。頷いてセットポジションから・・・・。
 『カキーン!!』
 鋭い音がグランドに響く。星岡渾身の内角へのストレートを、松田は苦も無くライト方向に引っ張った。小林が走る。
 「今度は・・・取る!」
 ファールゾーンに入ってフェンス際でボールに飛びついた。しかし、勢いあまってフェンスにぶつかってしまった・・・・ボールが転々と転がる。
 「ファール!」
 小林が、よろよろと立ちあがった。心配そうに小林を見る選手達に、
 「大丈夫です!」
 手を挙げて答えた。徳田がタイムをとってマウンドに向かった。内野手達も集まってくる。
 
 「横谷!」
 監督が声をかけると、
 「ハイッ!」
 はじかれるように、ベンチに座っていた補欠選手の横谷が立ちあがった。
 「伝令だ・・・・最後なんだから、悔いが残らないように投げろ・・・とな!」
 「ハイ!」
 横谷がベンチを出ようとした。僕は、咄嗟に、
 「横谷くん?」
 「ハイッ?」
 「星岡くんに・・・・」
 僕は、童顔の横谷の顔をしっかり見ながら、
 「もっと・・・・自分を信じて・・・・頑張って!・・・・って伝えてくれるかな」
 横谷は、しばらく僕の顔を見つめていた・・・・やがて、
 「ハイ!」
 元気に答えると、マウンドに走って行った。

 マウンドでは、内野手と星岡が話をしていた。
 「思いっきり行くしかないだろう・・・・」
 徳田が、星岡に向かって言った。
 「・・・・打たれても、誰も文句は言わないさ・・・・」
 久保も、明るく言ったが、星岡の表情は晴れない。そこに、ベンチから横谷が走ってきた。
 「なんだ?」
 藤田が怪訝な顔で横谷を見た。横谷は、そんなことには構わず、
 「星岡さん・・・監督が、『最後なんだから、悔いが残らないように投げろ』・・・と・・・」
 「・・・・そうか・・・・分かった!」
 星岡が、スパイクで足元の土を均している。
 「それと・・・マネージャーが・・・・」
 「「エッ?」」
 みんなが驚いた。
 「・・・かおるが・・・・なんて?」
 「マネージャーが、『もっと・・・・自分を信じて・・・・頑張って!』・・・と・・・・」
 「・・・・・」
 星岡は、足元に視線を落とした。頭の中では、あの日のブルペンでのやり取りが思い出されていた。
 「・・・そうか・・・・」
 みんながベンチに視線を移した。ベンチでは、かおる=浩二が胸の前で両手を合わせてこちらを見つめている。
 「よし・・・みんな・・・・最後くらい、マネージャーにいいところを見せようぜ!!」
 「「オーッ!」」
 選手達が守備位置に散っていく。徳田は、星岡の腹をミットで叩くと、ホームベースに戻っていった。星岡は、深く深呼吸をすると、再びベンチを見た。かおるが、じっとこちらを見ている。
 『あいつに・・・・3年間で、一度も勝つところを見せてやれなかった・・・・』
 星岡は、徳田の出すサインに視線を移した。
 『・・・最後くらい・・・・あいつに・・・・』
 サインに首を振る。そして、自分からサインを出した。
 
 『エッ?』
 驚く徳田。確認のため、サインを出しなおす。星岡が頷いた。
 『・・・・この土壇場で・・・・』
 徳田も、ベンチに視線をやった。かおるが、祈るような表情で星岡を見つめている。
 『・・・・やるしかない・・・か・・・・』
 拳でミットを一度叩くと、ミットを構える。

 星岡がセットに入る。ランナーがリードを取る。星岡がグラブの中でボールを握りなおした。細い腕を撓らせながら、ボールを投げた。
 『行けッ!』
 心の中で叫ぶ。

 松田は外角のボールを待っていた。その外角に、スローボールが・・・・。
 『貰った!』
 松田がパワフルなスイングでボールを・・・・。
 『エッ?!』

 ボールは、松田の左足の足元に構えた徳田のミットに納まっていた。
 「ストライク・バッターアウト!」
 「「「やった〜〜〜!!」」」
 選手達が抱き合う。徳田が、マウンドの星岡に駆け寄った。
 「すごいな・・・あんなに大きな落差のカーブ・・・投げられるじゃないか・・・・」
 「ああ・・・・僕も驚いてるよ!」
 二人が笑う。
 試合終了後の挨拶を済ませると、ベンチ前は大騒ぎになった。
 「良くやった・・・・おめでとう!」
 監督が、声を詰まらせながら、部員一人一人の頭を撫でると、
 「よし・・・監督を胴上げだ!」
 星岡が声をかけると、部員達が胴上げを始めた。
 「そ〜れ! そ〜れ!」
 監督の体が中を舞う。監督の胴上げが終わると、星岡は僕の前に立った。
 「かおる・・・・」
 星岡が微笑む。
 「・・・・初勝利・・・・おめでとう・・・・」
 自然に言葉が出た。これは、僕が言ったのか・・・それとも、頭の中のかおるが・・・・。
 「ありがとう・・・・おまえがみんなを支えてくれたおかげだよ・・・・」
 星岡の言葉に、なぜか涙が出た・・・・。
 「あれ? マネージャーが泣いてる!」
 田中が言うと、
 「よし・・・マネージャーを胴上げだ!」
 徳田の号令に、部員達が僕の体を軽々と持ち上げた。僕は、慌てた。
 「ちょっと・・・僕は・・・・スカートを・・・・」
 「「「そ〜れ! そ〜れ!!」」」
 僕は、必死にスカートを抑えながら、宙に舞った。なぜか、涙が止まらない・・・今まで感じたことの無い充実感を感じていた。



 夕方
 
 僕は、星岡と肩を並べながら学校から家に向かって歩いていた。夕日が、後ろから僕達を照らして、道に長い影を伸ばしている。
 「ようやく・・・・最後に一つ勝てたな・・・」
 星岡が笑った。
 「・・・うん・・・・よかったね・・・・」
 僕も答えた・・・なぜだろう・・・・まともに、星岡の顔を見ることが出来ない。チラッと横目で星岡の横顔を見上げると、夕日が星岡の顔を照らしている。その表情には、今日の試合前に比べて、逞しさが感じられた。一瞬、ドキッとしてしまった。
 『何を考えているんだよ・・・・男だぞ・・・・僕は!!』
 自分に言い聞かせながら、その戸惑いを隠そうと、
 「でも・・・びっくりしたよ! あのカーブ・・・・ものすごいボールだったね」
 明るく笑いながら言った。くるっと回って星岡に向き直る。セーラー服のスカートが一瞬ふわっと広がった。
 「・・・・おまえのおかげだよ・・・・」
 「エッ?」
 「・・・あそこで、おまえが横谷に伝言を託してくれたおかげさ・・・・」
 星岡が真剣な表情で僕の顔を見つめている。なぜだろう・・・・なんだか息苦しくなってきた。星岡が僕の肩に手をかけた。
 「本当にありがとう・・・・」
 星岡と僕の唇が重なり合った。
 『バサッ・・・・』
 僕は、瞳を閉じてその感覚を全身で感じていた・・・・・いや・・・・感じていたのは、かおるなのだろうか・・・・思わず、手に持っていたバッグを落としてしまった。
 夏の夕日が、二人を優しく照らしていた・・・・。



 夜

 僕は、セーラー服姿のまま、一人でベッドの上に座り込んでいた。スカートがベッドの上に丸く広がっている。
 僕は、人差し指で唇を触った。今思い出しても、あの時のキスの感覚が甦ってくる。なぜだろう・・・・瞳から涙が溢れてくる。この涙は・・・?
 その時、窓から差し込む月明かりの中に人影が浮かび上がった。
 「君は・・・・?」
 月明かりの中・・・・淡い光に包まれながら立っているセーラー服姿の美少女・・・・それは、今の僕の姿・・・・いや、板倉かおるだった。淡い光に包まれながら、優しく微笑んでいる。
 『ありがとう・・・・』
 「・・・・・」
 僕は、呆然と光の中に立つ、かおるの姿を見つめていた。全く同じ姿をした二人の少女が部屋の中で向かい合っている。
 『あなたのおかげで・・・・野球部が初勝利をするところを見ることができたわ・・・・』
 かおるが、僕の前に座った。僕の目を覗き込むように見ながら、
 『・・・・星岡くんとも・・・・・・あなたを驚かせてしまったけど、本当にありがとう』
 かおるが、立ちあがった。
 『・・・・あなたには、本当に感謝しているわ。わたしも想いを遂げたし、これで安心して帰れるわ・・・・』
 「帰る・・・? どこに?」
 『天国に・・・・』
 かおるが淋しそうに笑った。
 『・・・わたしたちがこの世界にいられるのは、このお盆の間だけ・・・・今夜には、天国に帰らなければいけないの・・・・』
 「・・・そんな・・・・」
 僕は、立ちあがってかおるの前に立った。かおるの小さな肩を掴んで体を揺さぶりながら、
 「せっかく星岡と想いが通じたんだろう? それなのに・・・・いなくなっちまうのかよ!」
 口調に似合わない可愛らしい声で、かおるを怒鳴りつけた。かおるが悲しそうに笑った。その大きな瞳から涙がこぼれている。
 『・・・みんなは・・・・明日には・・・・わたしの記憶はないと思う・・・・』
 「そんな・・・・・」
 かおるは指で涙を拭うと、明るく笑った。
 『でも・・・・わたしはみんなと一緒に最後の試合を戦えた・・・・・これは本当のことだもの・・・・』
 僕に向き直ると、
 『君に御礼をしないとね・・・』
 「御礼?」
 怪訝な表情を浮かべる僕の目の前で、彼女は右手の掌をかざした。その手の中に、青色の淡い光が浮かび上がる。その光が、ふわふわと僕に近づいてくると、
 「アッ・・・?」
 僕の胸の中に消えていった。それと同時に、体が温かくなってくる。
 「これは・・・?」
 『おまじないよ・・・・』
 かおるは微笑みながら、
 『・・・・あなたの人生は、まだこれから・・・・・空の上から応援しているわ・・・・・』
 かおるの顔が僕に近づいてくる。
 『頑張ってね・・・・』
 かおるの柔らかい唇の感覚を感じながら、僕の意識は深い闇の中に落ちていった・・・。



 翌朝

 「浩二・・・・いつまで寝ているの!」
 母の声に、僕は眠りを破られた。
 「うーん・・・・・」
 おきあがると同時に、僕はハッとして自分の体を見下ろした。そこには、白と水色の縞模様の見なれたパジャマ・・・・鍛え上げられた腕で体を撫で回した。それはまぎれもなく自分の体だった。
 「・・・・あいつ・・・・本当に帰っちゃったんだ・・・・」
 僕は、カーテンを開けて朝の空を見上げた。
 「僕の方こそ・・・・ありがとう・・・・・」
 自然に呟いていた。
 「・・・・僕もこれから頑張るよ・・・・・」
 僕は、窓の側を離れると部屋のドアを開けた。
 「空の上から・・・・見守っていてください・・・“先輩”・・・・」
 『頑張ってね!』
 一瞬、かおるの声が聞こえたように感じて、僕は部屋を振りかえった。そこには、いつもと変わらない僕の部屋があった。ニッコリ笑うと、僕は後ろ手にドアを閉めた。

 

 それから1年後の夏。TS学園高校は、一人の豪腕投手を得て全国大会で大活躍をすることになる。しかし、今は誰も、そのようなことは想像もしていなかった・・・・。








 僕のマネージャー体験記(後編) 終わり







 こんにちは! 逃げ馬です。

 遅れに遅れた、“僕のマネージャー体験記” ようやく後編の登場です。
 スポーツ物を書いたのは・・・・“センター・コート”以来になります。試合のシーンは、書き手としては力が入りました。しかも、今回は主人公がなんとベンチから出ることが出来ない(笑) その制約の中で、みんなの思いを書いていくのは・・・・それなりに楽しめました(^^)
 かおるは、お盆が終わって天国に帰っていきます。そして、浩二くんの体を借りていた状態なのですから、みんなの記憶からは、試合で一緒にいたと言う記憶は消えてしまいます。しかし、一緒にいたという思い出を持って天国に帰っていくかおる。その想いを、この後、浩二くんが受け継いでいきます。もちろん、この後どうなるかと言うことは、浩二くんだって想像もできないのですが・・・・。

 それでは、今回も最後までお付き合いいただいてありがとうございました。また、次回作でお会いしましょう。

 なお、この作品に登場する団体・個人は、実在のものとは一切関係のないことをお断りしておきます。
 また、この作品に間する権利は、作者に帰属します。この作品の無断転載・全部、または一部を改変するようなことはご遠慮ください。






 2003年2月 逃げ馬






短編小説のページへ


Gポイントポイ活 Amazon Yahoo 楽天

無料ホームページ 楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] 海外格安航空券 海外旅行保険が無料!