負荊5
忘れたい、忘れたい。だけど、忘れられない。
人の心はそれほど単純ではなくて、自分自身ですら思い通りにならない。
新一は半覚醒の波間に漂いながら、哀しい夢を見た。
それは、普段とさほど変わり映えしない日常。新一は、馴染みの警部に助けを求められ、わざわざ迎えにやって来た若い刑事の運転する車に乗って現場に向かう。
車の中で事件のあらましをざっと説明され、その精密に計算されかのような犯罪の稚拙な部分を垣間見る。
現場では、凄惨な行為の痕跡が生々しく残っていたが、新一はさして眉をひそめることもなく、手がかりになる物を捜し事件を暴いていく。
事件解決にそれほど時間は掛からなかった。それはいつものことで。
警部が相変わらずの見事な解決に何度も礼を述べ、端にいた若い刑事が半ば尊敬の念を向けていた。
そのどれもが、新一の日常だった。
事件解決後、警視庁に向かった新一は、若い刑事と他愛のない話をしながら、一課へ足を運んでいた。取り立てて新一には用はなかったのだが、このまま帰る気にならなかったから、刑事の勧めに何となく従い、庁舎の廊下を歩いていたのだ。
そんな時だった。予想もしなかった人物に声をかけられたのは。
予感は、あったのかも知れない。だけど、敢えて気付かない振りをしてた。
白馬は新一を好きらしい。信じられない事だけど、男である新一に対して、堂々とそう言い放った。
男同士でなんて、未来はない。言葉にすることすら憚られると、新一はずっとそう思っていたのに、彼はそんなタブーなどあっさり飛び越えて、新一を我が物にしようとした。
新一は、確かに同性に本気になっていたけれど、まさか自分がああも易々と男を受け入れてしまうことが出来るなんて、正直信じられなかった。
だけど、暫く考えてこう思った。
男を容易に受け入れられる身体だからこそ、同性に恋してしまったのだと。
そんな考えに、新一は暗く嗤った。
崇高な想いで恋してた。叶わぬ想いを抱いて生きてた。普通じゃないと心の何処かでそう自覚していたけれど……それでも好きだと思ってた。
何も言わなくても、何も言われなくても、この想いに偽りなんてなかった。
だけど……何処か心の奥が寂しかった。
その寂しさに付け入ってきたのが白馬だったのだ。
しかし、どうしてこんな関係になってしまったのか、そのきっかけが新一にはいくら考えても分からない。
分からない方が良いのかも知れない。例え思い出せたって何も変わらない。却って落ち込むだけだ。
少し自棄になっているのかなと思う。あんな事があったからと言って、ずるずる関係を続けたのは、新一が望んだ事だ。誰の所為でもない。新一がそうしたかったから。
誰でも良いから慰めて欲しかったのかも知れない。出口のない想いを抱えたままで居る自分を惨めに感じていたのかも知れない。
好きでもないけど、別に嫌いでもない。
寂しかった心を埋めてくれるから、抱かれてた。快感に浸っていれば忘れられる。そして、何時か本当に忘れられたらと思った。
こんな風に好きでもないヤツと自堕落な行為に耽る自分を外から見つめて、こんな人間には人を好きになる資格はないのだと思いたかった。
そうして、アイツへの気持ちを押し込めようとしてた。
もう、自分にはアイツに相応しくない人間なのだと。
────そう思えたらどんなに良かったか。
だけどそんなに都合の良い恋じゃなかった事を改めて知った。
白馬が何処まで新一に本気なのかは分からない。
あの、初めての夜の記憶を持たない新一にとって、彼がとんな風に自分を口説いたのかは分からない。
好きだと告げてきたのだろうか。それとも、強引に押し倒されてしまったのか……。
だけど、白馬は新一を誘う。
誘われるのは何時もホテルのあの一室だけだった。普通に食事に行ったりドライブしたり、そういう外での関わりは一切持っていなかったし、新一自身持つつもりはなかった。
どれだけ身体を重ねても、生まれてくるのは身体の快楽だけで、心には何も流れ込んでこなかったから、寂しさを紛らわすことは出来ても、心の空洞を埋めることは出来ないと感じたから。
なのに、今更ながら彼は新一を誘った。当然拒否した。白馬とこれ以上、別の関係を生み出すつもりも暖めるつもりもなかった。しかし彼は上手い具合に新一の欲しい物を目の前にぶら下げてきた。
「怪盗KID」という新一にとって極上の餌。それは誘惑だった。本当なら関わるべきではない。関わってはならない。新一にとって一番自分を惹き付けて止まない犯罪者。惹かれるのは新一好みの謎やトリックを弄するからじゃない。
彼に恋してしまったら。
その事が分かっているなら、誘いに乗るべきじゃない。だけど……だけど、どうしても抑えられなくて。
もう、彼の前に立つことすら許されない程相応しくない相手に成り下がってしまったというのに、それでも自分を止められなくて、白馬の誘いに乗ってしまった。
情けない程、意志が弱い自分をはり倒してやりたくなった。けど、そんな自分とは裏腹にもう一人の自分が彼と相見える事を心から欲していた。
相反する二つの心。どちらも新一のものなのに、どうして思い通りにならないのだろう。
逢いたい、とまでは言わない。だけど、せめてその姿だけでもこの瞳に映したかった。現場までのこのこやって来て、考えたのはそんな事。
一緒に赴いた白馬には、新一がそんな歪んだ感情で此処に来たなんて思いもしなかっただろう。しかし、相手も純粋に誘ったわけではなかったらしい。……でなければ、あの現場であんな事、しはしない。
TPOをわきまえたヤツだと思っていたが、それはあっさり裏切られた。背中から抱きすくめられて身動きが取れなくて焦って逃れようとしたけれどうまくいかなくて、結局ずるずると溺れていった。
ああ、もう。こんな所まで自分は落ちてしまったのか。
夢中になっている脳裏の奥で、そんな冷めた自分が呟いた。
こんな事を仕掛けてくる相手が許せなくて、あっさり籠絡してしまう自分が許せなくて、頭の中がぐるぐる渦巻いて、此処が何処だか一瞬分からなくなって……そうしたら、突然身体に衝撃が走った。
突き刺すような痛み────それは視線。
瞬間、ギクリと身体が強張った。ほとんどそれは恐怖にも似て、新一に襲いかかる。
次いで聞こえたのは、風に舞う布の音。───唐突に己が何処にいるかを思い出した。
慌てて白馬の腕の中から逃れようとした。しかし、身体はビクともしなかった。白馬が新一を抱きしめたまま力を緩めなかったのもある。……しかし、何より新一の身体に力が入らなかった。
指の先が冷たくなって、小刻みに震えた。指先だけじゃない、身体全体に震えが走って止まらない。
「これはこれは、───何とも魅惑的なシーンですね」
見られた。……見られた、見られた。─────見られた……!!
「───嫌だっ!!」
「工藤君!」
自分の声と、もう一人の声で、新一は気がついた。
見開いた瞳の向こうに、白馬が見えた。
「……此処は……?」
混乱した頭でそれだけ呟くと、白馬が口を開く。
「ボクの家です。……覚えていませんか。君は、突然倒れたんです」
「倒れ……?」
霞の掛かった頭でぼんやりと思い起こす。
何だったっけ。……どうして……どうし……。
「─────!」
記憶が繋がり、言葉を失う。慌てて起き上がると、白馬が身体を支えるように背中に手を回してきた。
その腕を新一は邪険に振り払うと、こめかみを押さえた。
「何で、こんな所に……」
連れてこられたんだ。
「家までお送りしようと思ったのですが……心配でしたので」
取って付けたような言い訳に、新一は眉をひそめた。
「余計な事すんな」
こんな風に関わって欲しくない。心配されているのは分かるが、そんな親切は新一にとって煩わしいものでしかない。
「でも……今夜の君は普通じゃなかった。─────KIDが現れてからは特に」
白馬の落とした声に、瞠目した。
彼の言葉の裏に、小さな棘のようなものを感じて身を震わせる。
「何を……怯えていたのです?」
あんな怪盗に後れをとるような君ではないはずです。白馬はそう言って訊ねてくる。新一はどうしようもないと言うかのように頭を振って息を吐いた。
「アイツに……知られた」
「知られた?……だから何だと言うのです?別にその事を知った彼が、声を大にして世間に言いふらすとでも?」
そうされても、ボクは別に構いませんが。
「バカ言うな!」
咄嗟に新一は叫んだ。
少し、驚い目をした白馬から視線をふと逸らし、新一は立ち上がる。
「帰る」
「じきに夜が明けます。朝になってからでも構わないでしょう?」
「今すぐ帰る」
新一はそれだけ言い終えると、扉に向かって歩き出した。
こめかみから奥がズキズキと痛みを発している。その痛みに自然と新一の表情は硬くなる。
しかし、それ以上にこんな所に居続けたくはなかった。
ドアのノブに手を掛けた時、白馬が新一を呼び止める声がした。
だけど、新一はそれを無視してその場を後にした。