負荊4
ふわふわと心地よいまどろみの中、新一の口元に小さな微笑が浮かんだ。
嬉しいのか切ないのか……微妙な角度で広がるそれは、よくよく見ないと分からない程度ものだったが、傍で安眠を見守っていた彼には気付いた。
無防備に眠り続ける彼の髪をそっと撫でる。細い絹糸のような黒髪にさらさらと心地よい指通りを感じた。
顔半分をシーツに押し付けるようにして、くの字になって眠る愛しい人。
白馬は、そのあどけないとも取れる青年の頬にそっとキスを落とした。
「ん……」
彼は小さく呟いて身じろぎ、次いで緩やかに覚醒した。
「……あ」
「おはよう、工藤君」
覗き込んでくる秀麗な顔に、新一は瞬きした。
「おはよ……って、もう朝?」
「ええ」
「……やべ。オレ、あれから寝ちまったのか」
慌てて起き出そうとする。
「何か、用事でもありましたか?」
「いや……そうではないけど」
新一はそう呟くと、ふと哀しげに微笑んだ。そのままシーツの上に舞い戻る。
「何か……今朝の君は何時もと違いますね」
「……夢をみたんだ。……思い出夢」
新一はそう言って微笑った。その笑顔が哀しくも幸せそうに見えて、白馬は一瞬息をのんだ。
「それは……興味ありますね。どんな夢だったのです?」
君にそんな表情(かお)させるなんて、幸せな夢だったのですか?
「ん……まぁ……」
新一は穏やかな顔でその夢を思い返しているようだった。うっとりと瞳を細めて、朝日の射し込むベッドの上で幸せそうに。
「……好きなヤツの夢。そいつと初めて逢った時の……昔の頃の夢」
唐突に、新一はそう言った。幸福そうな表情そのままに、まるで呟くように、囁くように。
だが、そんな新一とは対照的に白馬はうかない顔を見せた。
「それは……聞き捨てなりませんね」
ほんの少し険のある表情で新一を覗き込む。しかし当の本人は、相変わらず幸せそうな瞳で白馬を見つめ微笑んだ。
「別にイイじゃねぇか。好きなモンは仕方ねぇし……」
それに。と、ほんの少し寂しそうに視線を落とす。
「絶対に叶うような恋じゃないんだから……さ」
どう足掻いたって、叶う事など千に一つもない。だけど、だからと言って早々忘れられるモノでもない。
だから、夢の中でだけでももう一度逢えるのなら、それはそれで、とても幸せな事ではないだろうか。
例え、切なさが胸の奥を刺すように痛んでも。何時かは、忘れてしまいたいと願っていても。
甘くて切なくて、残酷で甘美な想い。
今はまだ、……まだ忘れられない。
「叶わない……って、相手は人妻ですか?」
「そうかもな……。もう、他の誰かが独占してるかも……」
「何か……嫉妬しますね。その『誰か』に」
真剣な声で見つめてくる白馬に、新一はくすりと笑って彼を引き寄せた。
そして素早く彼の口唇にキスをする。
「そんな相手に嫉妬する必要なんてねぇよ。……絶対、この想いは届かないんだから」
戯れのような口づけは一瞬の内に終わりを告げ、新一はそのまま流れるような動作でベッドを降りた。
そんな新一の態度に、白馬は不安に駆られる。
「工藤君……あの時の言葉、覚えてますか」
「……何?」
ローブを羽織りながら振り向く新一に、白馬は告げる。
「絶対に君を手放したりはしない、と。ボクは、君を愛しているのですよ?」
この気持ち……分かっているでしょう?
白馬の言葉に、しかし新一は小さく首を竦めて応えただけだった。そのままバスルームに向かう彼に白馬は慌てて腕を引く。
「工藤君!」
「白馬、お前の気持ちは分かっているつもりだ。……けど、オレの気持ちも分かれよ」
オレは、お前を愛していない。
「工藤君……」
「最初から承知していただろう?それくらいの事。……お前の事、嫌いじゃねぇよ。いくら何でも、嫌いなヤツとこんなコト、オレはしない。だけど、所詮それだけの関係だ。……オレがあいつを好きでいる限り、お前を好きにはなれないし、ならない」
だから二人は、この部屋での関係なだけで、それ以外には何もありはしない。
「そんなこと……僕は今、初めて知りましたよ」
「当たり前だ、今まで一度だって言葉にして言った事はなかったからな」
新一はどうでも良いと言わんばかりに吐き捨てると、捕まれたままの腕を振り解く。彼をあっさりと逃した白馬だが、その眼は納得いかないと告げていた。
「それでは、君がその『誰か』を忘れれば、……ボクを愛してくれますか?」
彼らしくなく切羽詰まった表情で訊いてくる。新一は少し困った顔をしたが、それだけで、肯定も否定もしない。
そのまま黙ってバスルームへと消える新一に、白馬はただ小さく溜息をつく事しか出来なかった。
新一が誰を好きかなんて、そんな事白馬は知らない。
問い詰めたって、きっと言いはしないだろう。
元々、新一を手に入れたのだって決して人に誉められるようなやり方じゃなかった。ほとんど……いや、立派な犯罪行為だ。
だけど、当の本人は容易くこの腕の中に落ちてきた。……それはもう、拍子抜けする程あっさりと。
だからなのかも知れない。
夢を見ていたのだ。工藤新一も、己を好きだったのではないかと。それは、あまりにも魅惑的な想像だった。しかも、その想いを否定するだけの態度を彼は取らなかった。……あの日までは。
彼は何時だって、白馬の誘いを断る事はなかった。
いつものホテル。最上階に近いその一室を定宿として白馬が貸し切っていた。その誰にも邪魔されぬ部屋に新一は躊躇うことなく足を踏み入れていた。
嫌がるそぶりも抗うそぶりも見せない。少なくとも身体だけは白馬の思い通りに嬌態を演じて、そして満足していた。
だけど……そう。
白馬が常に囁く睦言に、彼は一度として応えた事はなかった。
ただ、愛しているの言葉に、精々うっすらと微笑む事しかなかった。
そんな事、とっくに気付いていた。……しかし、気付いていない振りをした。彼は従順だったから。拒む事は一度もなかったから、それを心のよりどころとしていたのだ、自分は。
彼は、あのホテルの一室以外で、白馬との関わりを持った事など一度もない。
避けている程のものではないが、敢えて近付こうとしていないのは確かだ。
元々、彼は一課の人間と行動している時が多い。対して白馬は二課の……特に世界中を騒がしている大怪盗確保の為に手を貸す事が多かった。
最近、あの泥棒は疲れ知らずに様々な宝石を盗みまくっている。
今日もその事で警視庁にやって来た。相変わらず人騒がせな怪盗の相手をしに……。
いい加減、二課の連中にはうんざりする。白馬の思い通りに警察官が動けば、もう少し警備もマシになるものを。
そんな事を考えながら廊下を歩いていた時だ。
前方から、人が歩いてくる。
一人は白馬も面識があった。一課の刑事だ。そしてもう一人は……。
「工藤君」
思わず声をかけて、その足を止めさせる。一緒に居た若い刑事が自分を見ると遠慮したように一言二言彼に声をかけて離れていった。
残された新一は、少し憮然とした態度で白馬を見る。
そんな彼に、心の中で苦笑を浮かべながら歩み寄った。
「何だ……?」
その声は、このような場所で声をかけられて明らかに不機嫌であると告げていた。だが、白馬は別段気にする風もなく、新一の前に立つ。
「今晩、一緒に食事でも如何ですか」
そう誘うと、新一は少し目を見開いて白馬を見た。
「……何言ってんだ、てめぇ」
それはルール違反だと言わんばかりの声に白馬は苦笑する。
「君をこうして誘ってはいけませんか……?」
「ダメに決まってる」
はっきりそう言い放つと、用は済んだとばかりに踵を返す。しかし白馬は、素早く新一の肩を掴んで引き寄せた。
「なら、『探偵工藤新一』として、ボクが君に助力を請うのは許されませんか?」
表面上は渋々と言った体だったが、内心はどうなのだろう。
白馬の言葉に、新一は僅かに揺れた瞳を見せた。
工藤新一は、二課の事件にはほとんど首を突っ込まない。あくまで殺人事件のみに興味をそそられるような彼だが、そもそも「殺し」そのものでなく、そこに含まれる「謎」が、彼を捕らえて離さないようだ。
だから、白馬が誘った「怪盗KIDの犯行予告状」に興味を示したのは当然なのかも知れない。
難解な暗号のような予告状には、常に警察も頭を悩ませていた。これが解読出来ない限り、犯行時刻もその標的も分からない。
あの泥棒はそうやって彼等を手玉にとって遊んでいるように見えた。本当に速やかに犯行を行うのであれば、わざわざこんな予告文を送り付ける必要はない。
その泥棒の真意も、探偵工藤新一にとっては興味を感じずにはいられない存在だろう。
白馬自身だって、彼は大変興味深い存在だ。
この手でその正体を暴いてやるのは、もう悲願にすらなっている。
しかし、新一を名実ともに手に入れる為ならば、それを餌にして差し出したって惜しくはない。彼の気を惹き付けるものであれば躊躇はなかった。
貴石と言われる石の中でも、最も特異な模様を描き出す宝石。
ブラックオパール。
あの世紀の怪盗がこの宝石を標的に定めたのは3日前の事。予告状は例のごとく展示されている美術館と警視庁に届けられた。
白馬はその時送り付けられた暗号の混じった予告状を餌にして、新一を誘ったのだ。
彼があのホテルの一室だけの関係しか持たないというのであれば、白馬自身が行動しなくてはならなかった。彼は、全てにおいて新一を独占したかった。あの部屋以外でも、彼に振り向いて欲しかった。
内心の興奮を押し隠したかのように新一は白馬の餌に飛びついた。暗号の解読を彼に任せると半ば喜々としてそれに取り組んだ。もちろん難解な暗号も工藤新一にかかればそう時間は必要なかった。二課の連中が丸一日かけても解けなかった謎を新一は僅か1時間足らずで解読してしまうと、それを現場指揮に当たる中森警部へと告げる。
解読がなされた後の警察の行動は素早かった。警備の配置や怪盗の進入経路等、考えられるだけのルートを割り出しその全ての地点に警察官を配置する。
指揮を取る中森警部も、興奮の色合いを更に深めて檄を飛ばす。その姿は、端から見ると少し滑稽でもあったが、彼は真剣だ。
彼のその情熱に新一も少し閉口気味な表情で見守っている。そんな彼に白馬はそっと近づき囁いた。
「工藤君も、……現場にいらっしゃいませんか?」
月が出ていた。ぽっかりと浮かんだ三日月が西の空に。
夜の空気は冷たく凍えていた。風が刺すように痛む。
新一は、そんな夜が支配するビルの屋上で月を見上げていた。その背後は白馬が佇んでいる。
此処は、例の泥棒が犯行予告した美術館から4つ程離れたビルの上。閉まっていたそのビルも、管理人に事情を話せばあっさりと開放してくれた。
塔屋から屋上に続く扉は押し開かれたまま。新一は腕時計の指す針を見つめ、小さく息を吐いた。
「そろそろ、ですね」
白馬が声かけると、新一は「ああ」と小さく呟いて、視線を前方に移した。
その背中にどこか落ち着きのなさを感じる。きっと今の新一には白馬の存在などなきにしもあらず、なのだろう。
それが少し不満で。だから、突然強い突風が吹いて思わず身を竦めた新一を背中から抱きしめた。
「白馬───!?」
驚いた声がして、咄嗟に振り解こうと藻掻くが、白馬は抱いた腕を更に力をこめる。
「離せっ」
「嫌です」
新一の訴えにキッパリと答えると、強引に体勢を入れ替える。身体をぴったりと密着させて抱き寄せた。細い腰に腕を回して彼の抵抗を封じ込める。
「ふざけんなっ!此処を何処だと……!」
「ふざけてなんていませんよ。ボクは何時だって真剣ですが」
頭を振って逃れようとする新一の首にもう一方の手を回して動けないようにすると、強い眼光で睨み上げられた。
その瞳があまりにも綺麗で、ゾクゾクする。
「これは……ルール違反だ…!」
「ルール?それは君が勝手に設けたルールでしょう?ボクには関係ありませんね」
あの関係は、あの部屋だけのもの。そう決めたのは新一の勝手だ。白馬は承知していない。
白馬は、何時だって彼の傍にありたいと願ってる。どんな時も、何をしていも。
「はな……離……んっ!」
抵抗するその愛して止まないその口唇を己のもので封じ込めた。驚愕に見開いた新一の瞳。あの部屋でなら、彼は何時も従順で、抵抗した事なんて一度もなかった。キスもそれ以上さえも、拒んだ事はなかった。
だけど、あの部屋を出た彼は、こんなにも自分を見ようとはしない。
それなら、いっそのことあの場所に閉じこめてしまおうかとも思う。その暗く甘美なその考えを今すぐ実行してしまおうか……。
触れる口唇を更に深く貪っていくと、快楽に慣れた新一の身体は、瞳を潤ませながらもキスに夢中になり始める。
そんな彼の変化を察した白馬は、彼の口腔を無遠慮にかき回し、舌を絡め吸い上げた。
「……んっ……っあ」
キスの合間に零れる声は艶やかで欲情に濡れている。もう既に此処が何処なのか判断つかなくなり始めたのか、新一の腕が縋るように白馬の背中を掴んでいた。
白馬の腕が衣服の上から彼の背中をゆっくりと撫で上げると、途端にその身を反らして快感に応えてきた。
新一の想いが何処にあろうとも、この身体は己のモノだ。
白馬の意のままに快楽を引き出す新一があまりにも無防備過ぎて、こんなにも心と体をかき立てられる現実に身を沈めようとしたその時だった。
何かが風に舞う音がして───次いで、二人の世界に無遠慮に侵入してくる声。
「これはこれは、───何とも魅惑的なシーンですね」
からかいを含んだ、しかし針を刺す様な声。
新一の身体が、ギクリと強張ったのを白馬は感じた。
それまで欲望と快楽に喘いでいた身体は瞬時に冷え、抱かれたままの身体を必死になって引き離そうと躍起になっている。
そんな新一の態度を無視して、白馬は更に強く腕を回し、彼の動きを封じる。
それからようやく、声のした方へと視線を向けた。
「───無粋ですね、貴方は」
新一を抱いたまま、こちらを面白そうに眺めている怪盗に向かって言い放つ。視線を向けられた相手にそれに対して小さく首を竦めると、皮肉気に口元を歪めた。
「おや、此処に私が来ると踏んで網を張っていた訳ではないのですか?私はてっきりそうかと思って、わざわざ顔を出して差し上げたのですが」
飄々と言い放つ声。
怪盗KID。
夜を背景にして、悠然と姿を現す犯罪者。
彼は、細い湾曲した針の月を従えて、優美な姿で佇んでいた。しかし、その肩を小さく震わせて、笑っている。
その態度に白馬は軽い苛立ちを感じた。
「それにしても、当代きっての名探偵のお二人が、よもやこのような関係だったとは、恐れ入りました。……しかし、この私にそれを見せつけるなんて、何か意味でもおありですか?」
彼のモノクルが鈍く反射して表情は読みとれなかったが、どこか楽しそうだった。
そんな彼を目の当たりにして、新一は泣き出しそうな表情で顔を伏せた。
肩の震えが白馬の掌に伝わってくる。
「意味なんてありませんよ。……でも、そうですね。今後はこの人の目の前に現れないで頂けると嬉しいですね。かすめ取られるのは不愉快極まりないですから」
挑むような声で告げる白馬を相手は軽々とかわす。
「ご安心を、白馬探偵。私は、男に入れ込むような趣味はありませんよ。……抱くのなら、女性が一番」
白い泥棒はそう言って声を上げて笑うと、胸ポケットから大粒の宝石を取り出した。
妖しいまでの美しさを誇るブラックオパール。
しかし、硬質感のないそれは、妖しさと同時に柔らかな質感を保ち、遊色効果も相成って無限の広がりを見せる。
彼はそれを殊更優しく放り投げ、計算され尽くした精密さで白馬の手元に収めた。
「面白いモノを見せて頂いたお礼です。貴方にお返しします」
そう言い放つと同時に、彼のマントがふわりと舞った。細い月夜にひらめく純白の波に目を奪われ、気付いた時にはその姿は忽然と消えていた。
白馬は、衝撃にはすこぶる弱い宝石を慎重に見つめ、それに破損がない事を知るとほっと息を吐く。
そしてそこで、ようやく腕の中にいる人物の様子に気付いた。
身体を小刻みに震わせて、夜目にも分かる蒼白な表情に。
「工藤君……?」
訝しんでその愛しい人の顔を覗き込む。
彼は、小さく何かを呟いていた。繰り返し繰り返し。
「どうしよう……。アイツに、アイツに知られてしまった。アイツが……どうし……!」
彼が告げた叶わぬ恋の相手。白馬はそれが誰だか分かったような気がした。