負荊9
それは何時もと変わらなかった。
普段と変わらない日常の中で、ただ一つ決定的に違う事と言えば、目の前に立ち尽くす彼の瞳が躊躇いがちに伏せられていることだけ。
何時も二人で逢うホテルの一室で、白馬は初めて見るそんな表情をした彼に、言葉にならない不安がこみ上げる。
本当は白馬の方にこそ、彼に問い詰めたい事があったのだ。
白馬が日本を離れている間、彼は自分の領域を侵した。別にそれだけの事で目くじらを立てるつもりはなかった。
しかし。
「ボクが日本を留守にしている間に、2課の方に協力して頂いたそうですね」
「……え?」
思いがけない彼の言葉に、新一は思わず顔を上げた。まるで、そんな事言われるとは思っていなかったという表情で見つめてくる。
「最近まで、……いえ、ボクが君を誘うまで、ほとんど興味が無かったというのに、どうして今頃になって?……しかも、ボクが居ない時を見計らうかのように」
「……それは違う!」
思わず声を荒立てた新一だったが、白馬は冷静だった。……表面上は。
「別にムキに否定されなくても構いませんよ。ボクは事実を端的に述べているまでですから」
君の否定は無意味です。そう告げる白馬に、新一は奥歯を強く噛みしめる。
「君が2課に協力するのは構いません。……しかし、ボクの留守中は困ります。次からは気を付けてください」
最初で最後の警告。他のどんな事も許せるが、新一があの泥棒と関わる事だけは許せなかった。
あの男は、危険過ぎる。白馬にとっても、新一にとっても。
何も言い返せずにただ立ち尽くすだけの新一に、もうこの話は終わりだと告げるように手を差し伸べた。
「工藤君……」
何時ものように、そうして彼をベッドへと誘う。
しかし、常に反して彼はその場から動こうとはしなかった。俯いたまま、何かを思い項垂れている。
そんな新一の態度に白馬は僅かに眉を寄せた。
「……どうかしたのですか?」
一瞬、具合でも悪いのだろうかと、心配になってこちらから近付こうとすると、新一は小さく身じろぎした。
「工藤君……?」
彼がひどく思い詰めた瞳で顔を上げた。その表情を目にして、突如白馬の脳裏に警鐘が鳴り響く。
彼に……酷く辛い苦痛を与えられる、そんな予感。
「……悪いけど、……お前とはもう、こんな風には会わない」
「工藤君」
「勝手だとは思うけど……」
「本当に、勝手ですね」
白馬はつかつかと新一に歩み寄った。
再び視線を逸らして俯く新一の顎を捕らえて強引に上向かせた。
「白馬……!?」
「そんな事言われて、ボクが「はい、そうですか」なんて応えるとでも?」
静かに告げるその言葉の奥には苛立ちと怒りが見え隠れしていた。新一は思わず逃げるように後ずさった。
しかしそれより早く、白馬の腕が彼の腰を絡みつく。
嫌がる新一をモノともせずに、白馬は当然のように彼を抱き寄せた。
「やめ……!」
「手放せる訳がないでしょう?」
怒りを隠さず、新一に告げる。
「ボクは、君を愛しているんですよ。……手に入れた貴方をあっさりと自由にさせる訳ない事くらい、分かっていたはずです」
「……だけど」
掠れるような新一の声。それ以上、己を拒絶する言葉を聞きたくなくて、強引に口唇を塞いだ。
「……っ」
慣れた仕種で貪る。しかし、何時もと違い新一は腕を突っ張って腕の中から逃れようとする。それまで従順だった恋人が、どんどん遠くに行ってしまう。白馬は心の奥でそう思った。
「やめ……やっ!」
口を開いた瞬間に舌を潜り込ませる。嫌がって頭を振る新一の後頭部を押さえて、口腔を蹂躙する。
苦痛に似た呻きが漏れて、新一の抵抗が弱くなる。縋り付くように上着を掴んで……しかし。
「───っ、痛!」
白馬に強い痛みが走った。思わず口唇と離すと、新一が胸を押しやって、白馬から逃れる。
口元を乱暴に拭う新一に、白馬は苦渋の面もちで見つめた。
……錆びた鉄の味で口内が満たされる。
「マナー違反ですよ、工藤君」
「るせぇ!」
頑として抵抗を示す新一に、白馬の眼がすうっと、細められた。
「オレ、前に言ったよな。……オレがアイツを好きでいる限り、お前を好きにはなれないし、ならない、って」
「だから?」
「オレは……オレはもう止める。勝手なのは充分承知している。けど、お前だって、オレがお前に本気じゃないことくらい知ってた筈だろ?……只の、身体だけの関係だって」
「そんな事、ボクには関係ありませんね」
「白馬!」
「それとも何です?……その『アイツ』と想いが通じ合ったとでも?」
「そ……それは……」
思わず口ごもる。そんな新一に白馬は決定的な言葉を突き刺した。
「君の恋は実りませんよ。……分かっているのでしょう?よりにもよって、犯罪者相手に本気になるなんて、その先にあるのは暗闇でしか有り得ない」
「─────!」
白馬の言葉に息をのむ新一に、ゆっくりと近付いた。
「怪盗KID。────その男がそんなに好いですか?犯罪者相手に正気ですか、貴方は」
「あ……いや、ち、違う……」
「何がどう違うのです?ボクが日本を離れている間に、KIDの捜査に加わっていたじゃないですか」
今まで、一度だってそんな真似をした事はなかった新一が、まるで白馬の居ない隙を狙うかのように、怪盗KIDの捜査に協力した。
こそこそと、隠れるように、まるで工藤新一らしくない態度で。
「告白、でもしましたか。……あの犯罪者に」
探偵の分際で「好き」と告げたでも?
白馬のその態度に新一は言葉もなく項垂れた。……流石にそこまで常軌を逸脱した行為は出来ないだろうと踏んでいた白馬の予想通りの新一の態度に、冷笑を浮かべる。
「彼は君に興味ありませんよ。……それは、以前遭遇した時に嫌と言うほど知った事でしょう?」
女にしか興味ないと。その当然過ぎる彼の反応に、一番傷ついたのは新一自身だった。
そんな仕打ちをされながら、どうして、再びあの男と会おうなんて真似が出来たのだろう。
「……オ、オレは」
それでも何かを言おうとする新一を強い力で抱きかかえ、殊更乱暴にベッド上に放り上げた。
驚いて身を起こそうとする新一の肩を抱いて、シーツに沈み込ませる。
「どんなに足掻いたって無駄ですよ。ボクはそれほど寛容ではありませんから」
冷静な声とは裏腹に狂気が見え隠れするその瞳で彼を射抜く。
白馬の本気を読み取って、新一は顔を強張らせた。
「はく、ば……」
拒絶の言葉を紡ぎ出す前に、その口唇を塞ぐ。
息苦しそうに喘ぐ彼の口腔を思う存分嬲った。一刻も早く彼を快楽の底に引き込まなければ、この関係が終わってしまう。
関係が終わる。……そう考えただけで、白馬は恐怖した。手放せない、手放したくない。
しかし、……白馬の必死の思いは、新一の身体を溶かす事はなかった。
嫌がって嫌がって。強く抵抗して抗って。
……そして、ふいに彼の力が抜けた。強張っていた身体が急速に緩んで……。
その突然の態度に、白馬は訝しみ……そっと口唇を離して見下ろした。
──思わず、息をのんだ。
泣いていた。
「好き、なんだ……」
新一の瞳が涙に濡れていた。大粒の涙がその蒼く澄んだ瞳に浮かんでは流れていく。
「工藤君……?」
今まで、こんな風に涙を流す工藤新一など、見たことがなかった。
「ア、イツが……好き。好きだ……キッドが」
「くど……」
「こんなにも、人を好きになることなんで……誰かに執着してしまうなんて、初めてで……」
何処にいても、何をしていても、好きで好きで大好きで。心も体もそれだけで一杯になった。
初めて本気の恋を自覚した相手が、よりにもよって男で、しかも犯罪者で。誰がどう考えたって普通じゃないし、想いが通じ合うなんて夢の中ですら叶わないに違いない。
胸の中でどんどん育っていく、決して伝えられない想い。そんな気持ちを一人で、……何時まで抱かえ続ければ良いのだろう。
決して実る事のないこの想いを一人で抱いていくのが、辛くて苦しくて悲しくて……そして。
「寂しかった。……一人で、この気持ち抱えて生きていくのか、堪らなく寂しかった」
だから……白馬の手を取った。それが相手に対してどれほど残酷な行為であるかも考えずに。
……どうしてこんな事になってしまったんだろう。
新一は今でもそれが判らなかった。しかし。
「オレは、……オレはこんな事を望んじゃいなかった。……お前とこんな関係になるなんて、考えたことも無かったのに」
それでも、きっかけはどうであれ、ずるずるとこの関係を引きずってきたのは新一だった。一方的に白馬を責めるなんて出来ない。
だけど、……だけど!!
「もう、終わりにしたい。……頼む、頼むから……オレを解放してくれ!」
泣きじゃくってそう懇願してくる新一を白馬は呆然とした体で見つめていた。
こんな風に感情をむき出しに訴えてくる彼を見るのは初めてで、なりふり構わず無防備に涙を流す彼を見るのは初めてで……白馬は、思わず痛ましげに顔を背けた。
手段がどうであれ、白馬はずっと新一を自分のモノにしたいと願っていた。念願叶って、白馬の腕の中に彼が落ちてきた時、もう絶対に離すまいと誓った。自分の腕の中で一生、生きていって欲しいと、そう願った。
それを実現させるためならば、どんな事でもするつもりだった。例えそれが社会や法に背く行為であったとしても、彼の為に罪に手を染めることに躊躇いなど無かった。……それは、今でも変わらない。
だけど。
こんな風に泣かせたいなどとは、今まで一度だって思ったことは無かった。
自分の腕の中で、幸せにしてあげたった。本当ににそう思っていた。
と同時に、新一の気持ちが自分には全くないのだと気付いた時────それを認めたくなくて。こちらに振り向いて欲しくて。
……微笑って欲しくて。
この手を取ってくれれば、白馬は己の持てる全てを使って、彼を幸せにしてあげるのに。それが彼にとって、最良の選択の筈なのに……だけど、彼は泣き続ける。
無理矢理この身体を押し開いて、己の証を打ち付けて、全てを自分の色に染め上げて、もう逃げられないように快楽を彼の身体に刻みつけた筈なのに。
──どうして、人はこれ程まで、人を好きになる事が出来るのだろう。
白馬の新一に対する想いも、新一がキッドに対して抱いている感情も、等しく深い本物の気持ちであるはずなのに。どうして、こうも上手く行かないのだろう。
打算的に生きられないのが恋愛というものなのだと理解りつつも、白馬はそう思わずにはいられない。
「……叶うと、貴方ははそう思いますか?」
貴方の気持ちをその相手に告げて、受け入れられると信じているのだろうか。
白馬は新一を押さえつけたまま、そう尋ねた。口調は変わらず厳しかったが、淡い色をした瞳は穏やかな光が見え隠れしていた。
そんな彼を見つめた新一は、小さく息をのんで口を開く。その拍子にまた新たな涙が彼の頬を流れた。
「叶わなくたって良いんだ。……オレは、伝えたいんだ。今の気持ちを」
嘘で塗り固めたあの一夜に真実なんて一欠片も存在していなかった。
どうして、あんな風に彼を誘ってしまったのだろう。自棄になって彼を掴んで強引に自分を押し付けた。あんな事では、とても新一の気持ちは伝わらない。あの時は、気持ちなんて頭の中になかった。只自分の存在を相手に刻みつける事しか頭になかったから。あの時は……せめて、自分を知って欲しいと願っただけだったのに。
人は貪欲だと、新一は知る。
人の望みは果てしなく広がる。最初はそれだけで良かったはずなのに、次から次へと欲望が頭をもたげる。
強引にキッドを誘って一夜を明かしたのに、後悔以上にそれだけじゃダメだと心が叫んでる。
一番知って欲しかった事、一番最初に伝えなくてはならなかった事。それを欠落したまま交わした情事は、ただ快楽だけを包んでいた……それは、白馬との時と変わらなかった。
必死に縋ったその腕は、只の一夜の遊びにしかなり得なかった。最初からそのつもりでいた筈なのに……それが今になってこんなにも苦しい後悔に襲われているなんて、自分の愚かさ加減に唾を吐きたくなる。
けど……それが紛れもない、今の真実の気持ちだった。
「相手が迷惑に思う事くらい、最初から分かっている。拒絶される事だって、覚悟してる。……何も告げずにいた方が、相手にとって優しさだと言うことも理解してる。……けど、それでも、オレはアイツに言いたいんだ」
好きだ、って。
そう告げる事で与えられる相手の拒絶に恐怖するより、伝えられない想いを何時までも胸の中に抱かえていかなければならない事の辛さを新一は気付いてしまったから。
何も言わずにこの恋が冷たくなってしまう前に、この心毎相手にぶつけたい。
それで傷つく事になったとしても、それも新一が望んだ事だから……だからそれでも構わない。
新一の悲痛な告白を白馬は静かに聞いていた。彼の本気は、言葉も表情も雄弁に語っていた。新一の心の中のどの部分を捜しても己の存在は見つからない事も、最初から理解っていたはずだけど、今また思い知らされる。しかし…。
「彼に告白して拒絶されて……そうしたらどうするのですか。傷も痛みも全てをひっくるめて受け入れてくれる人物が君には必要だとは思いませんか?」
白馬の最後の足掻きに、新一は小さく笑った。それは哀しすぎるほど透明な、ガラス細工のような微笑。
「……最初から判っている質問なんてすんなよ、白馬」
だから、これは……新一にとって、最初で最後の思いやり。今の彼に出来る精一杯の気持ち。
覆い被さる白馬の頭を抱き寄せて、そっと触れるだけの口づけを贈った彼のキスは、白馬にとってそれまで交わし合ったどんな情よりも、崇高で心が満たされるものだった。