負荊8
厚いカーテンの向こう側は、まだ夜明けが遠い。
KIDはふと目を覚ますと、ベッドサイドの時計を見遣る。まだ、起きるには早過ぎる時間だ。
身を起こして軽く頭を振る。ほとんど眠ってはいない。流石にこんな所で熟睡するほど彼は酔狂ではなかった。
ずっと付けっぱなしだったモノクルを外し、乱れた前髪をかき上げる。小さく息を吐いて、隣で眠る新一をそっと覗き込んだ。
思ったよりも長い睫毛。しっかり閉じられたその瞳に口元がほんのり微笑んでいるように見えた。
あどけない表情。
KIDは無防備に眠る新一に微苦笑を浮かべた。
シーツから見え隠れするなだらかな肩のライン。シミ一つないその肌にそっと口づける。
昨夜、KIDは新一の身体を夢中で貪った。それこそ、本能の思うがままに、何度も、何度でも。
一体、何度抱いたのか。もう、いい加減大人だというのに、まるで性に貪欲だった少年の頃ように手加減しなかった。
工藤新一が、これほどにも自分を夢中にさせるなんて思ってもみなかった。
女のものとは違う、淫らに濡れた嬌声。艶めかしく揺れる白い肌。その快楽に濡れた表情。
全ては紛れもなく男のものなのに、そのどれもが予想以上で、目眩すら感じた。
KIDは、ベッドの端に放ったままになっていたシャツを取り上げると袖を通した。かなり皺になってしまったが仕方がない。
そのままベッドを降りた。
────と。
軽く汗を流そうとバスルームへ向かおうとした時、何かに引っ張られる感じがして振り返った。
眠っている筈の新一が、何故かシャツの裾をしっかり握っている。
「………」
思わず首を傾げたKIDだったが、ふと微笑むと、もう一度彼の傍に寄った。
あどけなく眠る彼の髪を優しく梳いてやると、嬉しそうに微笑を浮かべた。
ぎゅっとシャツの裾を握りしめて、懐に引き込む仕種に苦笑する。何だか、優しい気持ちになった。
ゆっくりとまたベッドに舞い戻る。無意識に求められているその行為に、KIDはもう少しだけ付き合う事にした。
眩しい。
真っ先に感じた光に、新一は目をこすりながら、ゆっくりと起き上がった。
「起きたか?」
すると、思いかけなく声が新一の鼓膜を刺激する。
驚いて声のした方を見ると、あの夜対峙した時と寸分違わぬ格好をしたKIDがこちらを見つめている。
────まだ、居てくれた。
無意識にそう感じて嬉しくなる。しかし表情には出さず、素っ気なく相手を見つめた。
「身体、大丈夫か?名探偵」
気遣う風でもなく、そう訊いてくる。
新一は、「悪くない」とだけ応えると、ふと声を落とした。
「悪かったな……」
「……?何が?」
謝られる理由が見つからないらしく、軽く首を傾げるKIDに新一は呟く。
「……折角、付き合ってくれたのに」
……あまり、楽しめなかっただろ?
楽しませてやるつもりが……気付けば自分が夢中になっていた。こんな風になるはすではなかったのに。
しかし、そんな新一とは裏腹に、KIDは穏やかな物腰のまま笑みを浮かべる。
「いえいえ。充分堪能させて頂きましたよ?」
ゆっくりとベッドに近付き、片膝を乗り上げて新一の頬にそっと触れる。その瞳は微かに潤んでいるのか、朝日を受けて光っていた。
「キッ……ド……?」
戸惑う新一に、KIDは静かに口唇を奪った。
少し驚いたように目を見開いた新一だったが、次第にそれは伏せられて、そっと口唇を開いた。KIDはその合図に応えるように己の舌を潜り込ませた。
「ん、ん……」
口腔内を侵し、まさぐる。新一も彼の誘いを受けるように舌を絡め、深く求めてくる。
そうやって暫くの間、二人はキスに酔いしれた。夢中になって、頭の奥に霞みがかかる。思わずふらついた新一の指が、咄嗟にKIDのジャケットの裾を握りしめて、自らを支える。
そんな彼の身体に気付いたKIDが自分に凭れさせるように背中に腕を回して引き寄せた。
「……なぁ、名探偵」
キスの合間に囁く。
「何だ……?」
掠れた声で応える。KIDの口唇は新一の顎を辿り、ゆっくりと首筋へと向かう。
「恋人は……何時帰ってくる……?」
「こいびと……?」
キスの心地よさにうっとりと瞳を潤ませていた新一が、彼の言葉にゆっくりと頭を振った。
「恋人なんて……っあ」
居ない、と答える前に、KIDの口唇が彼の耳朶を甘く噛んだ。
「今、貴方を独占している相手ですよ。……いつ頃帰国されますか?」
「……んなの、知らね……っ」
今、KIDと一緒にいる時に、彼の事は思い出したくなかった。折角、二人で居るのに、今の心の中に居るのはKIDしかいないのに……。
そんな新一の心とは裏腹に、KIDは執拗に訊ねたが、本当に知らなかった。具体的な事は何も言ってなかったし、新一も訊きはしなかった
しかし、そう長く日本を不在しないはず。何時かは分からないが、近い内に帰国するだろう。
取り敢えずそう答えると、KIDは少し考え込むように新一の肩に顔を埋めた。
「……KID?」
その態度が不自然で、怪訝そうに声かけると、彼は「うーん」と唸って見せた。
「どうしようかな……」
「何が?」
肩に掛かる吐息がくすぐったくて身体を震わせる。そんな新一に気付いて顔を上げると、指先でつっ、と肩のラインをなぞった。
「浮気がバレたら、マズイだろ?やっぱり」
男にしては白くてきめの細かな肌を撫でていく。本当に、シミもホクロも見あたらない綺麗な身体。
何を言いたいのか判らず、首を傾げる新一に、KIDは小さく決心すると、彼の左腕を持ち上げた。
「!?」
戸惑う新一を無視して、KIDはその二の腕の内側に素早くキスして、強く吸い上げた。
「っ……!」
肌を刺すような鈍い痛みに、新一は反射的に身を引こうとする。しかしそれを押さえて、KIDは殊更強く吸い上げた。
暫くして顔を上げる。不安に揺れる新一に微笑いかけると、その口唇に素早くキスした。
「一応、所有の印」
おどけた声で告げるKIDに、新一は思わず腕を見た。
さっきまで彼が触れていた箇所が、紅く鬱血している。所謂、キスマーク。
「恋人が当分戻ってこないのなら、もっと目立つ場所に残したかったんだけどな。アイツに変に勘ぐられるのはイヤだろう?」
それに、こんなに白い肌に痕を残すの、少し勿体ないしな。と、そう言って笑う。
新一は、一瞬胸が詰まった。
嬉しかった。
彼の気遣いがではなく、そうして、自分を我がモノとしてくれた事に。
只の遊びだけど、快楽を貪るだけのものだとしても。……こうして、少しは自分を独占したがっている証明が残されたような気がして、堪らなく嬉しかった。
しかし、そんな風に新一が思っているなんて、目の前の男に知られる訳にはいかない。だから顔を上げて、少し意地の悪い笑みを見せた。
「少しは楽しんでくれた訳だ」
男でも、悪くなかったってコトだよな?
そう言うと、KIDは彼にもう一度キスをした。
「充分楽しませて貰ったって、言っただろ?……思った以上に良かった。クセになりそう」
耳元で囁かれる甘い響きに、新一の身体も甘く震えた。
新一は、安堵した。
別に身体だけの関係だけでも構わなかった。彼が自分を求めてくれるなら何だって……。
もう、あの夜のように、その存在を消されてしまうような事はないだろう。また何時か、自分と遭った時には、昨夜の事を思い出して欲しかった。そうすれば、新一はずっとKIDの中にその存在を刻み続けていられる。
そんな錯覚をすることが出来る。そう考えるだけで、それだけで泣くたくなるくらい嬉しかった。
何時までも、このままでいられれば良いのに。時間が止まってしまえば、どんなに素晴らしいか。
しかし、KIDは無情にも抱き寄せていた腕を外すと、新一を解放する。
「シャワーでも浴びてきたらどうだ?」
軽やかにベッドから離れると、そう言った。新一は、咄嗟に動くことが出来なくて、一瞬視線をシーツに落とした。
帰ってしまう。新一はそう直感した。
もう、外は完全に陽が昇っている。夜の内に姿を消すと思っていた彼が、今もこうして傍に居る事は、新一にとって奇跡のようなものだ。
しかし、何時までも此処に居てくれるわけがない。
恐らく……新一がバスルームから出てくる頃には、この部屋を後にしているだろう。それくらいの予想はついた。
しかし、そうなってしまう未来を受け入れるのが……少し辛い。
何時までも此処で蹲っていられる程、世界は新一に甘くはない。
「そう……だな」
そう呟くと、シーツに視線を落とす。その時になって、急に自分がまだ何も身につけていない姿でいることに羞恥心が生まれた。手近に掛けてあったバスローブを引っ張ると、慌ててそれを羽織り、ベッドから離れた。
裸足のまま、ゆっくりとKIDの傍を通り過ぎ、その奥のバスルームへと向かう。
僅かに震えた肩に、彼は気付いただろうか。……そんな事を考えながら、新一はバスルームの扉を開けた。
その中に入ろうと一歩足を踏み入れた所で、ピタリと止まる。思わず振り向いてKIDを確認する新一に気付いて、彼が「何だ?」と尋ねてくる。
新一は、首を振って答えると視線を逸らした。バスルームの扉を閉める音が妙に大きく響いた気がした。
乱暴にバスローブを脱いで、浴室へと向かう。シャワーのコックをひねると、勢い良くお湯が噴き出した。それを頭から被り、暫くの間じっと立ち尽くした。
触れられた場所も、キスされた所も、彼の汗も体液も、全てが流されていく。本当は彼を感じた身体をこのままにしておきたかった。ずっと、彼に包まれていたかった。抱かれた後の余韻が、こんなに心地良いものだなんて……今まで知らなかった。
身体中を濡らして、彼の痕跡を全て消し去る。だけと一つだけ、流しきれないその紅い花びらのように色付いた痕を見て、新一は小さく微笑んだ。
これだけが……彼が新一を抱いた、その証明。
そう遠くない未来には、この痕も消えてしまうだろう。だけど今はそれだけが新一を幸福にさせる。
戯れに白馬に付けられた時は、それを見る度に苛立たしく感じていたというのに、この違いはどうだろう。
──── 一生消えなければ良いのに。
新一は、こんなにも人を好きになってしまった自分が不憫になって、声を立てずに泣いた。
バスルームを出ると案の定、彼はいなかった。
分かっていたことだったけど、新一は少し寂しげな顔で室内を見渡した。そこには、もう何処にも彼が居た痕跡は残っていなかった。
……と。
新一は、テーブルの上に何かが置かれているのに気付いた。慌てて駆け寄ってそれを取り上げる。
アクアマリン・サンタマリア。
怪盗KIDの昨夜の獲物。
海水を意味するその宝石は、海の精の宝物であったと伝えられている。
その極上のビックジュエルは、普通のアクアマリンに比べ、海よりも深い青を湛えて輝いていた。
掌の上の海の石。新一は、その透き通った色石をじっと見つめた。
無機質な鉱物なのに、何処か暖かな温もりを感じたその石は、涙色をしていた。
新一はそれをじっと見続けた。飽きることなく何時間も。何が正しくて、何が正しくないのか。
そして、何をどうすれば幸せになれるのか考えた。
そして決心する。
もう、終わりにしよう。