Infinity 1
最初に会ったのは、何時だっただろう。
最初に出逢ったのは、何年前だったたろう。
思い出そうとすれば、きっとすぐに蘇る邂逅の時。
でも……初めての出会いは、決して重要な事ではなくて。
大切なのは……何時から想うようになったかと言うこと。
気になりだしたのは何時の事だっただろう。
彼の……何に惹かれていったのだろう。
自分の感情を言葉にするのは難しくて。
初めは……多分、純粋な興味。
ただ、謎めいたアイツの中にある『真実』を突き止めたくて。
何故、あんな事をして世間を騒がせているのか。
只の愉快犯か、それとも………。
意識した訳ではなかった。
その日は、大した事件もなく新一は手持ち無沙汰に本を読んでいた。
いつもは、慌ただしく一日が過ぎて行くコトが多くて、なかなかこんな風にゆっくりとした時間を持つのは難しくて。しかし、穏やかな時間はすぐに物足りなく感じてくる。
そんな時だった。BGM代わりに付けていたテレビのニュースが新一の視線を釘付けにさせたのは。
世紀の怪盗と呼ばれる大泥棒が、米花博物館に特別展示されているビックジュエルを盗む為に寄越していた予告状。
今時、何を考えているのか理解に苦しむその行動。
並の犯罪者なら、とうの昔に捕まっていただろう。
しかし、この怪盗は、恐ろしいほど頭が切れる。あれだけ派手に動いていながら、何一つ証拠を残すコトがなかった。
己の存在を隠すことなく、表舞台に堂々と立つ犯罪者。
新一も何度か相見えた事はあった。
だが、殺人専門の新一にとって、窃盗犯をどうこうするなんて事は考えた事がなかった。
忙しすぎて……そこまで手を伸ばす気にもならなかった。
しかし、今。
自宅の居間で暇を持て余しているくらいなら……少し様子でも見に行こうかという気になったのは、運命の悪戯なのか。
別に警察に口出しするつもりはない。
ギャラリーとは別に……少し離れたトコロで、アイツの顔を拝んでやるのも悪くない。
新一は、途端に面白いオモチャを見つけた子供の様な顔をして、いそいそと立ち上がった。
闇を切り裂くように回るサーチライト。
人々のざわめきの声。
怪盗KIDが現れるのを今か今かと待ちわびるギャラリーのコール。
そんな雑音がまるで聞こえない、とある廃ビルの屋上。
新一は屋上を囲む、かなり老朽化したフェンスに体重の半分を掛けながら夜風に身を任せていた。
季節は初秋を過ぎ、益々涼しくなっていく。
季節は着実に、人には聞こえぬ足音を立てて通り過ぎていく。
秋は、冬へと向かう通り道のようだ。
新一は、深い藍色をした夜空を見上げた。
都会の明るい夜でも、星は小さく瞬いている。
ここは、ビル群より少し離れた所に位置するために、人工の光は少ない。
立地条件が悪かったのか、周りのビルもそのほとんどが使われていないかのようにひっそりと建っている。
人気のない、場所。
怪盗KIDが逃走ルートに使うには、絶好の場所ではないか。
そこを通るか通らないかは、新一にもはっきりとした確信は持ち得なかった。
しかし、もし自分が『怪盗KID』なら、このルートは打ってつけと判断するだろう。
だから……待った。
別に来なくたって、新一が困る事はない。
一晩中、夜風に当たっているつもりもない。
ただ、来ればきっと面白いことになるだろうと……それだけ考えていた。
そんな事しか考えていなかった。
─────彼が来るまでは。
音もなく……しかし、微かに感じる気配。
新しい風が新一の髪をふわりと乱し、それに誘われるかのように振り向いたその先に。
純白の影が、月の光に照らされて、舞い降りる。
風が取り巻くように、その白い身体の周りに吹いている。
白いマント。白いスーツにシルクハット。そしてモノクル。
新一の想像通りのその姿。
それは、最後に相見えた時と寸分違わぬ格好で、塔屋から新一を見下ろしていた。
影になっていて表情は見えないが、その口の端には皮肉気な笑みを浮かべているのだろうか。
予想通りに現れたその人物に、新一は向き合うように身体を相手に向けた。
「ご機嫌よう、名探偵」
白い影から発せられた新一への言葉。
鷹揚のない響きに新一は眉を上げた。
ふわりとKIDの身体が宙に浮き、そして、屋上へと降り立つ。
音もなく、軽やかに。まるで見えない羽を生やしているかのような身のこなしで。
年の頃は多分、新一とほとんど変わらないだろう。…しかし、恐ろしいほど板に付いた白いスーツ姿。シルクハットもマントも仰々しいのに、何故か彼には相応しい。
「今宵は……また珍しい所でお会いしましたね」
ゆっくりと近付いてくるKIDから発せられた言葉に新一は己を取り戻すと、きっ、と睨み付けた。
「オレがここに来た目的が分からないとでも?─────怪盗KID」
「……さぁ。何のご用でしょうか」
とぼけた言葉使いであっても、目深に被ったシルクハットに隠れた両の瞳はどんな色を放っていることか。
油断ならない相手に、新一は警戒の眼差しを送った。
しかし、KIDの歩みの速度は落ちない。一定の速さで一歩、また一歩と新一との距離を縮めてくる。
「何だ?……怪盗さんは、素直にオレに捕まるつもりか?」
内心の焦りを押し隠し、新一は至って冷静な表情でKIDを見つめる。
二人を隔てる距離は更に縮まり、新一が手を伸ばせば彼に届くか、という所でKIDの足はぴたりと止まった。
「おや……月が姿を隠してしまいましたね」
見上げる彼のモノクルが薄闇の中、鈍く光りを放つ。
つられるように見上げると、先程までは煌々と光を降り注いでいた月が厚い雲に覆われ始めていた。
だが、それが何だと言うのだろう。
月下の奇術師と呼ばれる彼にとって、月が姿を消すと言う事は重要な事なのだろうか。
理解出来ないKIDの態度に僅かに首を傾げる新一に、彼は小さく笑った。
「月はね。……私にとって、とても重要な力を秘めているのですよ」
しっとりとした声で放つ、その言葉の響きはどこか優しかった。
しかし、空を見上げるその瞳は、片方のモノクルの無機質な輝きと、どこか冷たい色を帯びている。
新一が知っている何時もの冷涼とした表情と、何かが違う異質な雰囲気。
「…………KID」
新一の口唇が意識した訳でもなく、彼の名を形取った。
掠れた声はKIDの聴覚を微かに刺激し、ふと新一に視線を移す。
その表情は、苦笑しているようだった。
そんな彼を見た時。ふいに新一は、胸の奥に小さな熱が生まれたのを心の何処かで感じ取った。
突然、ふっと小さな炎が灯ったような、ふわりとした暖かな熱。
微妙な感情の変化に、新一は内心首を傾げた。
……何故だろう。
そんなKIDの表情(かお)を新一は見たことがなかったからなのか。
考えるまでもなく、こんな風に対峙した事など数えるほどもない二人。
新一は、彼の情報と数少ない邂逅から、勝手に『怪盗KID像』を作り上げていたに過ぎなかったのだと、そう思い至る。
そもそも、『怪盗KID』の存在は不可解だ。
彼に関する情報は約20年前からある。
しかし、今目の前にいる人物は、とても3.40代には見えない。
だから────彼は20年前のKIDとは異なる。……同一人物ではないのは明らか。
なのに、彼は自らを『怪盗KID』と名乗る。……何故か。
謎は、数え上げたらきりがない。存在そのものが謎ならば、彼を取り巻く全てのモノが謎になる。
目の前の人物は決して幻ではない。
生きた人間。まやかしではない。
なのに、その正体はとても希薄で……怪盗KIDの正体は誰なのか、という疑問を凌駕する、彼は彼であるとした、堂々とした態度に、新一自身も惑わされる。
「……どうしました?名探偵」
黙り込んだままじっと見つめる新一に怪訝そうな表情で尋ねてくる。
それに気付いて、新一は、はっとしたように顔を背けた。
「ど、どうしたもこうしたも……お、お前こそ、いいのかよ?こんな場所で油売って」
「ああ、そうですね。貴方がいるから、つい長居しそうになりましたよ」
KIDはそう言うとふわりと微笑った。
その微笑みは、決して皮肉気にゆがめられたモノではなくて、本当に困ったとでも言うような穏やかな微苦笑。
風が勢い良く吹き上げて、KIDのマントが舞い上がった。
その風に誘われるかのように、KIDの視線は新一から夜空へと戻る。
見上げる空。雲に覆われたその隙間から微かに零れ落ちる月の光に、思いを託すかのように右手を持ち上げる。
「……………」
一種の儀式のように夜空に向かって伸ばされた腕。
その先にあるのは、今夜の獲物であるビックジュエル。
僅かな光に反射するそれを見つめるKIDに、新一もまた魅入られる。
短くも静かな時間が、音も立てずに過ぎていく。
どれほどの時が経過した頃だろう。
小さなため息が、KIDの口唇から漏れた。
「……キッド?」
その憂いを帯びた表情に、新一が声かけた時だった。
突然、美しく放物線を描いて放たれる光の軌跡に目を奪われた。
真っ直ぐに新一の手の中に飛び込んできた、それ。
「…………これ……?」
さっきまで、KIDの手にあったビックジュエル。
薄闇の中でも、それは美しく輝いている。
「………悪いが、返しておいてくれないか」
「な……んで」
どうして返す?折角奪った獲物を。
何故新一が返さなければならない?彼は警備にすら関与していないと言うのに。
「……オレには必要のないモノだから」
「必要ないなら、盗まなければいいじゃねぇか。……やっぱりお前は」
─────只の愉快犯、なのか。
くすり……KIDが笑ったような気がした。
「それを突き止めるのも一興だろ?……名探偵」
只の愉快犯なのか、そうでないのか。
オレの中にある『真実』を探り出せばいい。……そう言って。
「見つけてみろよ、名探偵」
KIDの言葉は風に乗って新一の元に届き、それと同時に彼の身体は虚空に消えた。
そんな彼を守るように風が吹き…。
そして、新一の身体から体温を奪うように渦巻く風に、心すらも奪われていることに、彼はまだ気付かない。
ただ、この夜から、新一はあの白い怪盗の事が頭から離れられなくなっていた。
彼を、心の何処かで意識している。
多分、それが始まり。
運命なんて、こんなものなのかも知れない
何がどうして、こんな感情を生み出してしまったのか。
いくら自分自身の事とはいえ、工藤新一には全く理解出来なかった。
気まぐれに、あの怪盗と出逢った夜から既に数日が過ぎ。しかし、日毎にその犯罪者の影は大きくなる一方で。
それは、捕らえなければならない『敵』だから?
犯罪者だから?
探偵としての血が、彼を求めて止まないだけなのか……?
日毎空は高くなる。
風は既に肌寒さすら感じる……秋の午後。
午前中に殺人事件の捜査に協力して、それが思った以上にあっけなく解決し……突然ぽっかり時間が空いてしまった午後。
読みかけたままの推理小説すら手に取れぬ程もどかしい午後。
何がこんなにも自分の心を縛り付けるのだろう。
何も変わらない、何一つ変わらない日常の中で、突然降って沸いたかのように新一の胸に舞い降りた得体の知れない小さな灯火。
それは一種の苛立ちにも似て、新一を苛む。
居心地の良い自分の家で、穏やかな時間を過ごそうとするこの一時は、だけど安らぎを与えてはくれそうになかった。
無造作に開かれた窓から入り込む風が室内を一周してかき消える。
この得体の知れない想いもそんな風に消えてくれぬものかと考えたが……それほど簡単に消し去る事は出来そうになかった。
元々新一は、人間に対して執着心を持った経験が少なかった。
大切なのは、両親と……幼なじみ。強く想うのは、彼らと取り巻く人々だけで、それすら何か別事、特に事件の事となると、頭からすっぱり消え失せたりもする。
見た目以上に狭く、それ以外は希薄な人間関係しか持たなかった新一にとって、突然胸の中に宿った人物に対して、どう位置づけて良いべきなのか、全く見当が付かなかったのである。
何も分からないまま、時間だけは刻々と過ぎていく。
過ぎる時を振り返ってみても、何も見えては来ない。
しかし前を向いてみても………何も生み出しはしない。
何故なら……あまりにも違い過ぎる立場。
追う者と追われる者。
光の中を歩む者と……夜の帳を舞台とする者。
もう一度会って、確かめたいと思ってみても、それが可能になる事などないのだ。
神様の気まぐれで、邂逅を繰り返した二人だったが、偶然はそう何度も起こらない。
新一も、『怪盗KID』の警備を引き受けるつもりは、全くなかった。
自ら乗り出すことも、協力要請に応える事も。
『怪盗KID』に関して取る行動は、新一の意志に反する事だから。
彼を捕まえたいのではない。
多分、彼に逢いたいのでもない。
ただ、彼を知りたい。
自分の心を揺さぶられた原因を突き止めたい。
その為に出来ることは何もないが、それでも何か動き出さなければ、新一の心は何時までもこの場所に留まったままのような気がした。
そして、何時か耐えられなくなる程の苦痛を伴う想いに変化するであろう事に、新一は心の何処かで気付いていた。
気まぐれに起こした新一の行動が怪盗KIDとの邂逅を実現させてから、いつしか一週間が経過していた。
先週の今日、新一はたまたま暇を持て余し、たまたま付けたままにしてあったテレビのブラウン管から流れてきたKIDの予告に興味をそそられた。
あれから一週間が経過し、その経過を振り返った新一は小さく苦笑した。
……何も解決していない。
もちろん、事件の事ではない。
彼は、警視庁の要請で込み入った殺人事件を2つ解決した。しかし、いつものような推理する時の高揚感などは影を潜め、至って冷静沈着に謎を解明し、犯人を暴き出した、この一週間。
心を占めるのは………あの真っ白な鳥のように軽やかな怪盗だけ。
この心の真の原因は一体何なのか。新一にはそれが掴めなかった。
だから戸惑いの中、その白い影を心に描きながら、日々を過ごしていた新一にとって、それは決して安定した精神状態ではなかったのだ。
どうすればこの曖昧な感情から解放されるのだろう。
雲一つない、澄んだ夜空。
新一は、東の空にぽっかり浮かぶ下弦の月をぼんやりと眺めていた。
そう言えば先週は綺麗な満月だった。
雲に覆われる事もしばしばだったが、時に眩いばかりの光を新一に浴びせていたものだった。
乾いた風がコンクリートの床面を走る。
その場に出来た小さなつむじが新一の足下に渦巻いて消える。
風が起こる度に肌寒さを感じる秋の夜。
遠くに見えるネオンの明かりが無機質に見えて、寂しさを煽り立てる。
深い藍色の空に小さく瞬く星々が月の光に屈することなく、健気に輝いていた。
その場所は………あの時と同じ静けさの中にあった。
新一は、何時解体されるか分からないような古びた廃ビルの屋上で、一週間前と同じようにフェンスに身を預けながら、冷たい夜風に当たっていた。
何故……こんな所に来てしまったのだろう。
ここに来れば、何かが変わるとでも言うのだろうか。
それとも、逢えるとでも………?
「バカらしい……」
小さな呟きが夜空へと消える。
本当に、何しに来たのだろう。
ここに来て、例えあいつに逢ったとしても……何になるというのだろう。
何が理解るというのだろう。
都会のど真ん中にあるにも関わらず、この場所から見る月も星も澄んで見えた。
だけど、心の中に隠れた想いを浮き上がらせる事は出来ない。
代わりに、ずっと以前に忘れてしまっていた淋しさを思い出してしまいそう。
慣れきっていた哀しさが胸の奥にきりりと疼いた。
真夜中を過ぎた夜空は、更に深く藍く澄み渡り、まるで新一に慰めの言葉を掛けてきてくれているようだ。
虚空を見上げ、物憂げに微苦笑を浮かべた時だった。
ことり────。風が立てた音にしては、些か人工的な響きを新一の聴覚がとらえた。
新一は、その音に訝しむように音のした方向へと首を巡らせ…………止まった。
それは、脳裏にはっきりと記憶されていた通りの姿。
その人物が、こちらを見つめるようにして佇んでいた。
純白に染め上げられたマントが、微かな風を受けて、宙を舞っている。
両手は白いスーツのポケットに突っ込んで、逃げる訳でもなく近付く訳でもなく、ただそこに在った。
目深に被ったシルクハットで顔の半分は影で隠され、モノクルのレンズが月明かりに小さく反射した。
新一は、唯一はっきりと見えるその口元から彼の表情を読み取ろうとしたが、失敗に終わる。
いつものように皮肉気に歪められたものではなく、かといって、嬉しそうに口の端をつり上げている訳でもない。
…………表情が、ない。
ただ、無機質に存在しているだけのようなその姿に、新一は驚きよりも戸惑いが増幅される。
今晩は、彼の仕事の予告日だっただろうか。
それらしい事はニュースでは何も言ってはいなかった。
それとも秘密裏に何かを盗むつもりなのだろうか。
もしかしたら、仕事の下準備で………?
様々な憶測が新一の脳裏を駆けめぐったが、納得出来る答えは出てこなかった。
仕事でもないのに、わざわざその目立つ衣装で夜中を徘徊するとは思えない。
しかも、ここに……新一の目の前に姿を現すなど、一体何を考えているのだろうか。
「よぉ……名探偵」
まるで時間が逆流でもしそうなくらい不自然な沈黙を破ったのは、白い怪盗だった。
空気が、ぎこちなくも動き始める。
それは、奇妙な邂逅。
「こんな夜更けに、何してるんだ?名探偵」
先程とは打って変わった、新一の良く知る雰囲気を漂わせて口を開いた怪盗。
そんな彼に、新一も問い返す。
「お前こそ、こんな所に何しに来やがった……怪盗KID」
至って冷静に、何時ものような口調の新一。それは、目の前の怪盗も同じ事だった。
「ほぅ……気になりますか?名探偵殿は」
「ば、ばーろ……んなコト……」
何時もの皮肉めいた笑みを漏らしながら尋ねてくるKIDに新一は思わず顔を逸らした。
微妙に何かを含んだ物言いに、自分の心の中を見透かされているような気がした。
自分自身すら気付かない『何か』を目の前の男はとっくの昔に理解っているとでも言うかのように……。
もちろん、そんな風に思っているのは新一の思い込みに過ぎない。
目の前に佇む男は、少しばかり奇術の得意な泥棒で、超能力者でも読心術を得ている者でもない。
だから、新一が戸惑った態度を晒す事は、彼に付け入る隙を与えてしまう事に今更ながら気付いて内心赤面した。
「今宵は下弦の月ですね」
気付くとKIDは新一の隣に立って東の空に浮かんだ月を眺めていた。
「今宵は空も高くて美しい月が拝めると思って……散歩の途中なんですよ」
月の出と同時に空に飛び立ち、気ままに風の赴くままに身を任せていた時、貴方の姿が飛び込んできたのだと、彼は言う。
「散歩って、その格好でか?」
「だって変でしょう?……一般人が夜空を飛んでいるなんて」
こんな都会の夜の空をハンググライダーで悠々と飛翔している姿を見られ、あまつさえ職質なんてされた日には要注意人物としてマークされかねない。
ならば、いっそのこと何時もの夜空を舞うに相応しい格好で出かけた方が却って楽でいい。
そう言って隣で微笑うKIDに、新一は暫し見とれてしまった。
今まで……見たこともないような柔らかな表情で微笑んだ彼に、怪盗KIDらしからぬ、しかし紛れもない彼のその笑みに新一は無意識に引きつけられた。
そして、それを自覚した途端、さっと視線を外し………思わず頬が熱くなるのを必死に押さえる作業に没頭する。
──────どうして、こんな頬が熱くなるのだろう。
新一は別に赤面症でもなければ対人恐怖症でもない。
それまで全くと言っていい程気にも留めていなかった相手を突然意識してしまってから、彼の心は穏やかになる所か、会った途端更に意識してしまって収拾がつかなかった。
「………どうしました?」
突然黙り込んだ新一にKIDが怪訝そうに尋ねてくる。
「顔が赤いですよ、風邪ですか?」
「ちっ、ちが……」
「秋の夜風は冷えますからね。……甘く見ると、痛い目に遭いますよ」
そうKIDが告げると同時に、ふわり、と風が舞った。
訝しむ間もなく─────身体中に感じる仄かな暖かさ。
気付いた時には、新一はKIDが肩に留めていたマントにすっぽりと包まれていた。
「なっ………!」
「感謝の言葉なんて必要ありません。……貴方に寝込まれでもしたら、皆悲しみます。特に貴方を頼りにしている警視庁の方、とか」
KIDは、身体からマントを外すときっちりと新一に巻き付けて、前を無造作に結びつけた。
「な、何だよ、これは」
されるがままに身を任せていた新一が我に返り、自分がどのような格好で立ち尽くしているかを理解すると、羞恥と怒りで目元を赤く染めた。
きっ、と睨み上げる新一の視線を難なくかわして、KIDは微笑んだ。
「日々肌寒さが増しているというのに、そんな軽装でいるのがイケないんですよ。……そうしていれば、少しは寒さをしのげるでしょう」
「お、お前に……こんな事される謂われなんて……!」
思わず声を荒げた新一だったが、その後突然強く吹き付けた風に思わず身を竦めてしまう。
巻き付けられたマントの端をぎゅっと握りしめて、突然の寒さに反応してしまった自分に舌打ちする新一に対し、そんな彼の態度を満足気に眺めるKID。
視線を感じた新一は、先程とは別の羞恥に頬を朱に染めた。
遠くの東の空では、金色に光る月が、ゆっくりと昇ってくる。
まるで、彼らを頭上から照らしたいかのように。
真夜中過ぎの屋上は、下界に比べて風が強く、新一の指は無意識のうちにその純白のマントに縋るように掴んでいた。
「お気に召しましたか…?」
殊更柔らかく問いかけてくるKIDに、新一はもう何も言えず、ただ顔をふいっと背ける。
顔に当たる冷たい風を持ってしても、彼の頬の紅潮を沈める事は不可能だった。
藍色の夜空に小さな星が瞬く。
今夜の月は、彼らの輝きを失わせる程には強くなかった。
月が輝き、そして星も瞬く。それは、ある意味バランスの取れた夜の絵画のよう。
───────どれほどの刻の粒が零れた後だろう。
彼はフェンスから離れると、新一に向かって優雅に一礼する。
「…………さて。思いかけず、今宵は貴方とお会い出来た事ですし、そろそろ私はお暇しましょうか」
しゃらり……モノクルの飾り紐が微かな音を奏でた。
美しく流れるような一連の動きを目を追っていた新一は、そのまま自分から身を翻すKIDに思わず声かけた。
「キッ……!」
何が言いたいのか判らない。何故引き留めたいのか……。
そんな混乱の中発した言葉でも、KIDの動きを止めるには十分の響きを持っていたようだ。
彼は首だけを新一の方に向けると、そのモノクルに隠されていない方の瞳を僅かに細める。
「それは、次にお会いする時まで預けておきます。………もちろん、処分されても私は一向に構いませんが」
そう言われて、新一はマントを返さなければならない事に気付いたが、それに手を掛けた時には、既にKIDの姿は屋上から消え失せていた。
そのあまりの素早さに、あっけに取られる。
そうして、やって来た時と同じような唐突さで、彼は一瞬にして消えてしまった。
まるで、一睡の夢でも見ていたかの様に、その存在に名残すら残さずに。
ただ、新一の身体を包んでいるマントだけが、この邂逅を現実のものであると告げる。
戸惑いのままに過ぎてしまった邂逅に、新一は小さく息を吐く。
見上げた夜空の星々が、新一の瞳にはどこか寂しげに映っていた。
運命なんて言葉は、こんな時にこそ使われるものなのかも知れない
ある日突然、襲う病。
それは、本人が自覚する前からじわじわと心を侵食して、そして突然大きなうねりのように押し寄せてくる。
何がどうして、こんな感情が生まれてしまったのか。
あの時、思いかけず出会ってしまったのがいけなかったのかと、KIDは思う。
予測していなかった邂逅に、警戒や緊張と言った感情はなく、ただ心がざわざわと波立った。
その瞬間、『拙い』と思った。
この感情は、何時か抑えきれなくなって……いずれ破滅へと向かう。
他のどんな感情も抑えるのは容易だか、コレだけは己がどれだけ戒めても、何時かは溢れてくる。
怪盗KIDには、やらなければならない事があった。
命の石、パンドラを探し出し、この手で砕く為に彼は存在していると言っても過言ではない。
その為には、どんな危険を冒しても構わない。
使命を果たすまでは、どんな欲望にも身を任せない。
全ての親しい人々を裏切ってでも、遂げなければならない事。
その為に怪盗KIDは此処に在るのだ。
なのに……。
偶然にも、あの東の名探偵と出逢った夜から一週間が過ぎても尚、KIDの心に消すことの出来ない姿が未だ神々しいまでの光を発して存在している。
真っ直ぐ見つめてきた深く蒼い瞳は、夜の所為で更に深い藍色に輝いていた。
吸い込まれそうになるほどの光を湛えたその眼がKIDを捕らえて離さない。
欲しい、とそう思った。
その他には何も考えることなく、ただ欲しかった。
工藤新一が。
怪盗として生きてきた性なのか、彼を求めて止まない。
だけど……理由は本当にそれだけ?
KIDは徐に空を見上げた。
秋の夜風を身に受けながら、東の空に浮かび上がった月を眺める。
確か、先週は満月だった。
眩いばかりの月の光が雲の合間を見え隠れして、その光が降り注ぐ度に、名探偵の身体が艶やかに輝いていた。
今夜は下弦の月。雲一つない秋の夜空に広がる星々の瞬きも美しく、KIDは夜空の向こうに探偵の姿を思い浮かべた。
そして思わず苦笑する。
重症だと自覚するくらい、焦がれる。
それは、彼の心の中に空いていた隙間を埋めようとするかのようにキッドにとって必要なものだった。
しかし、どれだけ想っても手に入れる事など出来ない。それは、彼の捜し求めているビックジュエルよりも困難な獲物。
……心を落ち着かせなければ。
この想いは、いずれ己の仕事に支障をきたすだろう。
怪盗が探偵に焦がれるなど、あってはならない事。
分かっている………そんな事、考えなくても分かっている。
KIDは、頭を軽く振るとハンググライダーの翼を広げた。
こんな夜は、じっとしていても彼の事ばかり思い出してしまうから。
頭を冷やすべく、肌寒くも心地よい秋の夜空へと飛び立った。
雲一つない、澄んだ夜空。
KIDは、その深く藍い空の中を鳥のように軽やかに飛翔した。
ネオン瞬く都会の夜を見下ろす。空から見た下界は、爛れ腐った人間臭さを感じることもなく、まるできらきらと輝く宝石を散りばめたように美しく輝いていた。
空からの景色は、どんなものでも美しく、そしてちっぽけに見せてくれる。
夜空を飛んでいると、自分自身が空の大気と溶け込んでしまったように、思い煩う全ての事をその時だけは消し去ってくれる。
多分、一瞬でも忘れる事が出来なければ、何時までもこんな事は続けていられなかっただろう。
KIDは決して強い心の持ち主ではなかった。
多分、何処にでもいる……普通の人間。
ハンググライダーは優美に弧をを描いて旋回する。
気ままに夜空を舞っていたKIDだったが、その身体が無意識のうちにある方角へと向けられた。
自分でも気付かない内に、あの日、あの夜彼と出会った場所へと向かう。
そしてそれに気付いた後も、KIDは進路を変える事なく飛び続けた。
バカらしい……あんな寂しい場所に行ったって、何もありはしないだろうに。
そう思いながらも、戻る事なく飛び続ける。
そんな行動をKIDは心の何処かで冷静に受け止めていた。
突き動かされる心と、その心を抑制しようとする心。二つの心が互いに引き合って、今はバランスを保っている。
しかし、何時かはきっとその均衡は崩れるだろう。
崩れた時、KIDはどうなるのだろうか。
『怪盗KID』ではなくなるかも知れない。……逆に、『黒羽快斗』が消えてしまうかも知れない。
今はまだ抑えられる。
自分一人の………独りよがりの感情だけなら、まだ保つだろう。
パンドラを捜し出すのが先か、己の心が暴走するのが先か。
もう一人の自分がそんな事を考え、自嘲する。
眩いばかりのネオンが姿を消し、寂しさの拭えぬビル群の上空に差し掛かった時、KIDの瞳は、あの日彼と出会った廃ビルに目を留めた。
光のほとんどないその場所は、一種異様な雰囲気で存在している。
上空から見下ろしても、さして楽しい光景ではなかった。
もちろん、彼の目を楽しませるようなものなどない事は最初から判りきっていた事。
只……あの日、あの場所で彼と出会った。それだけがKIDを此処に呼び寄せた理由だった。
たったそれだけの事が、彼には特別になる。
遙か上空からビルを見下ろし、暫しあの時を思い起こす。
あの日、思いかけずアイツに出会った夜。
東の名探偵が警備に協力していなかったのにも関わらず、彼はKIDの逃走ルート上に佇んでいた。
そう……彼はあの朽ちかけた屋上のフェンスに半ば身を預けるようにして、夜風に髪を靡かせて………。
「────────」
何気なくその廃ビルを見下ろした時だった。
あのビルの屋上に………何かある。
この高さからは、いくらKIDの視力が良いとはいえ、何なのかはっきりと確認出来なかった。
ゆっくりと高度を下げ………目を凝らす。
「……まさか」
信じられなかった。
都合の良いものを勝手に瞳が認識してしまったのだろかと思った。
それは、其処にはあり得ない者。
存在するはずのない人物。
KIDは信じられないまま、それでも身体は無意識の内にその廃ビルの屋上へと静かに下降していった。
近くなるに連れ……その姿がはっきりと映し出される。
だけど……どうして。
彼は、東の空にぽっかり浮かぶ下弦の月をぼんやりと眺めていた。
乾いた風がコンクリートの床面を走る。
その場に出来た小さなつむじが彼の足下に渦巻いて消える。
遠くに見えるネオンの明かりが無機質に見えて、寂しさを煽り立てる。
深い藍色の空に小さく瞬く星々が月の光に屈することなく、健気に輝いていた。
その場は………あの夜と同じ静けさの中にあった。
KIDは静かに下降すると、なるべく風を起こさないように屋上に……彼の後方に降り立った。
ことり────。コンクリートの床に彼の靴音が小さく響く。
彼はその音に気付いた様だった。KIDの佇む方向へと首を巡らせ…………止まった。
それは、KIDの脳裏にはっきりと記憶されていた通りの姿。
その姿をした人物が、微かに驚愕の表情を浮かべて立ち尽くしていた。
……ああ、工藤新一だ。
彼が、己の目の前に存在(い)る。
そう思うと、KIDはその場から動けなかった。
風が吹き、マントが煽られている事すら気付かない。
どんな顔して対峙すれば良いのか。戸惑いを胸の内に秘めて、KIDはただその場に佇む事しか出来なかった。
いつものようなポーカーフェイスが作れずに、何時も以上に目深にシルクハットを被る事で、表情を見られぬようにした自分。
今日は、仕事の日ではない。何の予告も出してはいない。当然、次の標的も定めてはいなかった。
怪盗としてのみ存在するKIDが、何の理由もないまま、新一と対峙する。
不自然に感じているのだろう。彼は怪訝そうな瞳でこちらを見ていた。
……彼に気取られてはならない。唐突にKIDは思った。
そう感じた瞬間に、彼はようやく普段通りの振る舞いで新一に声を掛ける。
「よぉ……名探偵」
KIDの言葉に、止まっていた時間が動き出したかのように、新一も小さく身じろぎした。
それは、奇妙な邂逅だった。
多分、お互いそう思っているのだろう。新一の瞳はまだ揺れている。しかし、その揺らぐ瞳の奥に彼独特の色気を感じて、内心胸が熱くなった。
「こんな夜更けに、何してるんだ?名探偵」
いつもの口調。皮肉気に、そして自信あり気に新一に問いかける。
本当に……こんな夜更けに、こんな場所で、彼は何をしているのだろう。
それは、出会えた事への喜びよりも、強く疑問に思う事だった。
しかし、新一はそれに答える事なく、逆に問い返す。
「お前こそ、こんな所に何しに来やがった……怪盗KID」
至って冷静に、普段と変わらぬ口調の新一。先程まで揺らいでいた瞳は、影を潜める。
「ほぅ……気になりますか?名探偵殿は」
からかいを含んだ物言いだったが、彼が自分の事を気に掛けてきたのが嬉しくて、上機嫌で尋ねた。
すると、新一は途端に瞳を揺るがせたかと思うと、夜目に分かるくらい頬を色づかせた。
「ば、ばーろ……んなコト……」
少し震えたような声でそう言い放つと、そっぽを向く。
そんな彼の態度がとても年相応の男子のするような振る舞いに見えなくて。
何時も、自信ありげにKIDを追い詰めてくる新一とは、少し態度が異なっていた。
そして……そんな新一の一面を垣間見れた事の幸運。
KIDにとって、元々工藤新一は今までになく奇妙に気になる存在だった。
彼がどういう場所に位置する人物なのか。
先週の邂逅以来、KIDにとって新一は只の『怪盗の敵』だけではなくなってしまった。
怪盗を追い詰める探偵。しかし、もうそれだけではない……。
彼にとって、新一は────。
「今宵は下弦の月ですね」
何時もと違い、隙のある彼の傍に近付く事など容易な事だった。
KIDは新一の隣に立って東の空に登り始めた月を眺める。
「今宵は空も高くて美しい月が拝めると思って……散歩の途中なんですよ」
月の出と同時に空に飛び立ち、気ままに風の赴くままに身を任せていた時、貴方の姿が飛び込んできたんですよ。
「散歩って、その格好でか?」
緊張の解れたような新一の声の響きに、KIDは微苦笑を浮かべた。
「だって変でしょう?……一般人が夜空を飛んでいるなんて」
空を飛ぶのは、常に怪盗KIDだ。
黒羽快斗はそんな事はしない。
なら、必然的にこの衣装を纏ってしまうのは仕方のない事だった。
だが、新一はKIDの言葉に応える事なく、顔を背けてしまった。
「……?」
敵であるKIDとなれ合う事を拒んでいるのだろうか。
………確かに、二人こうして追う訳でもなく、追われるわけでもなく並び立っているのは不自然かもしれない。
しかし。
(そりゃ、あんまりじゃねーの?)
黙り込んだまま新一にKIDは少し不機嫌そうな表情を浮かべた。
「………どうしました?」
問いかけ様、彼の顔を覗き込むと、驚いた事に頬が朱に染まって……何とも言えない色気を醸し出す。
「…………?」
どうしたのだろう。
KIDが首を傾げた時だった。一際強い風が彼と新一を包み込んだ。
肌寒く感じる、冷たい風。
ふいにKIDは、新一が何時から此処に居るのであろうか気になった。
こんな場所に長時間居たら……間違いなく体調を崩す。
もしかしたら、もう既に風邪を引きかけているのかも知れない。
「顔が赤いですよ、風邪ですか?」
先程とは打って変わって、労るように声を掛ける。しかし、新一は益々頬を赤くして首を振る。
「ちっ、ちが……」
敵に弱味は見せられないとでもいうのか。まるで自分を隠すかのように身を縮める新一の態度に、KIDは気付かれないように小さくため息をついた。
「秋の夜風は冷えますからね。……甘く見ると、痛い目に遭いますよ」
熱にうなされる新一を脳裏に思い描く。きっと、辛いだろう。
そんな思いは、させたくなかった。
そう思った瞬間、KIDは自分でも意識することなく肩からマントを取り外していた。
薄いジャケット一枚でこんな風の当たる場所に居るなんて、考えようによっては無謀な行為だ。
KIDはそんな彼を躊躇う事なく包み込んだ。
純白のマントが新一の姿を覆い隠す。
「な………!」
「感謝の言葉なんて必要ありませんよ。……貴方に寝込まれでもしたら、皆悲しみます。特に貴方を頼りにしている警視庁の方、とか」
ふいに、彼を独占し続けている警視庁の連中が脳裏を過ぎった。
何時も公然と新一を独占している無能な連中。例え彼等の無能さが新一にとって都合の良い事であったとしても、今の己の立場との違いに半ば嫉妬する。
KIDはマントを新一に巻き付けて、前を無造作に結びつけた。
「な、何だよ、これは」
されるがままに身を任せていた新一が我に返り、咎めるように睨み付ける。
目元を朱に染めた新一の視線を難なくかわして、KIDは微笑んだ。
さっきの苛立ちが、すうっと引いていくのが分かる。新一が自分の姿を映していると感じただけで、嬉しくて仕方がなかった。
「日々肌寒さが増しているというのに、そんな軽装でいるのがイケないんですよ。……そうしていれば、少しは寒さをしのげるでしょう」
「お、お前に……こんな事される謂われは……!」
思わず声を荒げた新一だったが、その後突然強く吹き付けた風に思わず身を竦める。
そんな新一の態度をKIDは満足気に眺めた。
真夜中過ぎの屋上は、下界に比べて風が強く、新一の指は無意識のうちにその純白のマントに縋るように掴んでいた。
「お気に召しましたか…?」
殊更柔らかく問いかけるKIDに、新一は黙ったままで、顔を背けた。
頬は赤いままだったが、それは明らかに照れであることは容易に伺えた。
そんな彼が、堪らなく愛しい。
彼は、この世の何よりも……KIDが心から望んでいた『パンドラ』よりも大切なのだと確信する。。
焦がれる程、欲している。でもそれは只の物欲なんかじゃない、愛おしむべき存在だから。
狂おしいほど奪ってしまいたい存在なのは、ただただ愛しい人だから。
「…………さて。思いかけず、今宵は貴方とお会い出来た事ですし、そろそろ私はお暇しましょうか」
フェンスから離れると、彼は新一に向かって優雅に一礼する。
何時までも……此処に留まってはいられない。この時間は紛れもない現実だけど、決して互いが望んだものではないはずだから。
KIDにとっては嬉しい偶然でも、目の前の……新一もそうだとは思うのは、都合の良いKIDの思い込みだ。
彼が普段の彼らしく振る舞う前に、姿を消したかった。焦がれる者から辛辣な言葉は受けたくはない。
それは、『怪盗KID』らしからぬ気弱な感情で、人間らしい気持ちだった。
「キッ……!」
しかし、そのまま身を翻すKIDにまるで引き止めるかのように声がかかった。
そんな新一の制止の声を無視出来るほど、KIDは強くない。
彼は首だけを新一の方に向ける。しかし、彼が何か言葉を吐く前にKIDは告げる。
「それは、次にお会いする時まで預けておきます。………もちろん、処分されても私は一向に構いませんが」
そう言って、新一の眼が一瞬マントに向けられるのを待っていたかのように、彼は姿を消した。
もちろん、本当に姿を消したわけではない。隙をついて塔屋の中に身を隠したに過ぎなかったのだが。
彼にマントを預けてしまったのだから、帰りは空を飛ぶ事は出来ない。
しかし、そんな事は大した問題ではなかった。
空を飛ばなくとも、心が軽くて……まさに地に足がついていないような感覚で。
彼に会えた事と、彼に対する想いをしっかり理解出来たことをKIDは素直に喜んだ。
そして、無駄な事だと感じながらも、これ以上彼に心を奪われてはならないと、この胸に言い聞かせる。
それは、『怪盗KID』であり続ける為にはどうしても避けなければならない想いだから。
名前を呼んでもらえるのが、こんなに嬉しい事だったなんて。
ため息がこぼれる。
…………眠れない。
もう、どのくらいこうしてベッドの上で寝返りを打っているのだろう。
右を向いても左を向いても仰向けでも俯せになっても、睡魔はなかなかやって来なかった。
眠くならないはずはないのに。
今日(昨日)も警視庁からの要請で事件を一つ片づけた。一見、難解そうに見えた殺人事件も、一つ一つ謎を解いていくうちに、あっさりと犯人が浮かび上がってしまった。
いつもなら辞退する事情聴取にも立ち会った。
それは………家に帰りたくなかったから。
一人になりたくなかったから。
一人になると、……考えてしまうのはたった一つ。
新一は、最後に一つ大きなため息をつくと、むっくりと起き上がった。
枕元の時計は午前3時に指しかかっている。
………結局、2時間も無駄にベッドの上に転がっていたのだ。
新一は、眠る事を諦めた。
人間は眠らなければ生きられない動物なら、ずっと起きていれば、何時かは眠くなるだろう。
それが朝だろうが、昼だろうが、夜だろうが構わない。
寝不足気味のはずなのに、眠れない身体を起こして新一は窓に掛かるカーテンを開けた。
外の仄かな光が室内に射し込んでくる。
間接照明すらない薄闇の中で、新一の視線は躊躇うことなく一方向へ向けられる。
部屋の片隅に置かれたハンガーポールに掛けられた真っ白な布地。
一見、それだけでは何なのかはっきり分からない只の布地は、………何故か安らぎをも与えてくれるものだった。
ばさり。
新一はポールに近寄ると、些か乱暴にそれを手に取った。
それからそれをベッドの上に放り投げるようにして大きく広げる。
純白の軽やかで滑らかな手触りの『怪盗KID』が新一に残したマント。
美しい光沢を放つマントは、こうして広げるとかなり大きい。
しかし、手に取ると驚くほど軽い。
新一はそれを表向けたりひっくり返したり、丸めたり広げたりと、無意味な仕種を繰り返した。
指にさらりと気持ちの良い肌触りを楽しむのに、意味など必要ない。
ふぁさり。
シーツを広げるように、両腕を動かすと、そこに生み出された風が新一の前髪を柔らかに乱した。
それがベッドの上に舞い降りる前に、新一はぎゅっと寄せるように抱きしめた。
何の変哲のない、ただの布。
この時代、マントなんてものは日常生活に使われるコートではない。
だから、これを見てマントだと判別する人間なんて、そう多くはいまい。
でも新一は知っている。
憎らしい程によく似合ったアイツの格好が、すぐさま脳裏に浮かばせることが出来るほど。
そして、その姿が浮かぶ度に、心が異常な程に粟立って、どうして良いのか解らなくなることも……。
自分は………一体、何を求めているのだろう。
見えない心の奥を新一は必死にかき分けて捜し出そうとするが、すぐに迷ってしまう。
心惹かれる意味が知りたくて、一生懸命に探ろうとするのに、そうすればする程、棘のある茨に絡まれてしまったかのように動けなくなる。
人の心の機微は理解り過ぎるほど理解るのに、自分自身の事は幼子の心程に理解出来なかった。
今になってもまだ、新一は自分の気持ちが『何』なのか、全く理解出来ていなかったが、これによく似た感情を新一は幼い頃に体験していた。
よく似た……と言うのは言いすぎかも知れない。ただ、こうして、マントを……只の無意味な布地に触れていると、心が仄かに温かくなる感じは、小さい頃、近所に住んでいる幼なじみの女の子といると時々そんな風に感じたのに似ている。
可愛い女の子。彼女が微笑うと新一も嬉しくなった。
幸せだと感じられた。……だから、泣かせたらいけないと思った。
──結局、泣かせっ放しにさせてしまったけど。
今でも交流のあるその幼なじみの顔を思い浮かべて、新一は小さく微笑んだ。
今だって、彼女の事を思い出せば、心が温かくなって安心する。
しかし、彼女から感じるのはそう言った心地よさだけで、胸が痛いくらい締め付けられる感情や、意味もなく紅潮する身体を持て余した事はなかった。
だから似ているだけで、その本質は微妙に異なっているのだろう。
その気持ちが何なのか、知りたいと思う心と知ったらどうなるかという戸惑いと……。
考えれば考えるほど深みにはまり込んでいく想い。
………考えてみれば、こんなにも強く誰かのことを考えたことなんて、なかったかも知れない。
どうして、こんなにも考えてしまうのだろう。
そして、その答えは何処にあるのか。
新一は、抱きしめていたマントから手を離すと、目の前の腰窓に手を掛けた。
鍵を外して、大きく開け放つ。
その途端、冷たい風が新一の身体に当たる。秋の夜風とは到底感じられない、それは冬の来訪を告げる、身を切るような冷たさだった。
気温の許容範囲の極端に狭い新一にとって、冬の到来は決して喜ばしいものではなかった。
それでも、身を乗り出して見上げる澄み切った空の高さ。星々が一番美しく映える夜空を見上げるのは嫌いではない。
本当に……地上はこんなにも雑多なモノで溢れ汚れているのに、そこから見上げた空は、人の身体も大気の中に溶け込めるのではないかと感じてしまうくらい澄み切っていた。
本当に……溶け込んでしまえたら良いのに。
空は全て繋がっているから、空気となればどんな所にも飛んで行ける。
翼なんてなくても、自由に………。
新一は、そんな他愛もないことを考えた自分に小さく苦笑した。
そして……いつの間にか足が勝手に玄関に向かって歩いている自分の身体にもう一度苦笑する。
鍵を外し、両開きの扉を押し開いて戸外へと出る。
夜中を過ぎた住宅地にあるのは街灯の明かりくらい。それでも、空は満天の星など見えやしない。
こんな都会で、それを期待するのは端から無理だった。
しかし、どんな所でも消される事なく照らす月の影すらないのに気付くと、言いようのない焦燥感に捕らわれた。
考えれば判る事だった。
今夜は三日月の夜。月の出にはまだ時間がある。あと1時間もすれば東の空からそれは昇るだろう。
そして、夕刻の黄昏の西空の上にその光を零しながら、沈んでゆく。
考えれば判る事だった。地球と月と、自分の居る土地の関係で、それはまだ新一の前に姿を現さない。
だが、頭で判っていても、どうしても納得出来なくて。
何故、こんなに綺麗に晴れた夜空が広がっているのに、それがないのか。
冬の星座が西に傾き掛けているというのに、姿を現さないそれに意味もなく苛立った。
──本当に、どうしてこんな事で……。
それでも……堪らなく無性に月が見たかった。
月齢27.3の、か細い月を。
自分の行動に呆れてしまう。
そう新一は思った。
まだ夜は明けぬ時間。
夏なら既に空が白み始めている時刻だが、今はまだ深い色に包まれた時間。
新一は、家から10分ほど歩いた所にある小高い丘の上に来ていた。
児童公園と言うには広すぎる。しかし自然公園と言うには狭く緑の少ない公園の一部のように見えるその場所は、新一が小さい頃によく遊んだ場所でもあった。
そして、そこから見渡す景色は、遠くの町並みまで見えて、遊び疲れた時や一人になりたい時はよくここにやって来ては、眺めるのが好きだった。
夕暮れ時、遠く東の空から昇るオレンジ色の丸い月を眺めていたのを思い出した。
ここからなら、東の空がよく見える。
今夜の……爪の先ほどの細い月だって、見られるかも知れない。
眠れない身体が起こした、ちょっとした気まぐれ。
そんな軽いつもりでやって来たその場所に、新一は居るはずのない人物を認めて、暫し声が出なかった。
「な……んで、ここに居るんだ……お前」
何で……どうして此処にいる?
信じられない人物を目の当たりにして、新一はそれ以外の言葉が出なかった。
夢を……見ているのだろうか。
「………羽を休めていただけですよ、名探偵」
これは現実だと、その声が告げる。
何時もと変わらぬ衣装を身に纏った怪盗は、さらりと言うと微笑んだ。
しかし、新一の頭の中はまだ混乱している。
「こんな……もう夜明けに…?」
「月を見てから帰ろうと思いまして、ね」
「月……?」
KIDの言葉に新一がここに来た目的を思い起こした。
そうだ。自分も月が昇るのを見に来たのだ。
でも、でも……。
どうして『此処』なんだ………?
ふと、丘から麓の方を眺めると、丁度新一の屋敷の全貌が見えた。
「本当に……今宵の月は儚い」
KIDの言葉に新一は視線を上向かせると、薄雲の隙間から見え隠れしている光が見えた。
細い細い、針のような月。
「もうすぐ、新月ですね」
その月は更にやせ細り、そして姿を消してしまう。
それが過ぎたら今度は肥え始めるのだ。
ゆっくりと丸味を帯びて全てを晒すと、今度は少しずつ身を削る。
月はその繰り返し。
繰り返し繰り返しが永遠に続く。
夜が明け切らぬ早朝の澄んだ空気の中、またしても予期せぬ人物とこうして同じ月を眺めている。
偶然は、3度続いたら、必然になるだろうか……。
夜明け前の一時は、お互いの境遇も立場も忘れさせてくれるような静けさで、過ぎる。
忘れさせて欲しい、今だけは。
新一は何かに縋るようにそう願った。
「それにしても、こんな夜も明けぬ内から外出するなんて、少しは身の危険を考えたら如何ですか」
心配するように言うKIDに対して、
「関係ない」
咄嗟にそう言い放ってしまった自分に、新一は内心舌打ちした。
こんな風に言うつもりなんてなかったのに……相手の言葉を拒絶するような言動なんて。
ほんの少しの後悔が、新一の脳裏を掠める。
俯くと、いつもと同じKIDの衣装の一部が目に入った。
彼が借りっぱなしにしているマントもそのままに……。
新一はふいにそれを目に留めて、それから少し思案する。
やはり……返さなくてはならないだろうか……アレ。
別にに大した理由もないのだが、手放し難くなっているそれに、新一は思い悩む。
「………あ……あのさ」
口ごもりつつも言いかける新一をKIDは不思議そうな瞳で見つめた。
そんな彼の態度に新一は躊躇してしまう。
べ、別にに言わなきゃならない事でもないんだし。……そう心の中で言い訳していると、KIDが言葉の先を促す。
「何だ?……名探偵」
「い、いや……大した事じゃない」
「話かけておいて、それはないだろう?」
そう言って、先を促すKIDだが……新一の話に期待されても困る。
本当に大した事ではないのだ。
ただ…………。
「あ、あのさ。……この前、お前がオレに貸してくれたヤツ…………別に返さなくても良いか……?」
どうして、あんなものを欲しがったのか、自分でも分からない。
ただ、素直にこのまま手元に置いておきたいと思った。
あの日、寒さから新一の身を暖めた純白のマント。
「──そういうコトか」
しかし、KIDの口から零れた言葉は新一の理解を超えていた。
それまでの優しげな表情は消え、冷徹とも言える眼でこちらを見つめている。
その突然の変貌に、新一は大きく息をのんだ。
「残念だが、アレをどれだけ調べてたとしても、何の証拠も出ては来ませんよ。髪の毛どころか、糸くず一本見つからないはずた」
「え……?」
何を言われているのか分からないと言うような瞳で見つめてくる新一にKIDは首をすくめてみせた。
「ま、確かにアレは、怪盗KIDの遺留品には違いないですけどね」
「ち、ちが……」
「だが、残念だがそれだけで私を追い詰めるのには、無理がありますよ」
甘く見られたものですね……私も。
「違うって言ってんだろっ!!」
思わず叫んだ新一に、KIDの言葉はようやく止まった。
「何で、そんな事。……そんなつもりなんてねぇよ。オ、オレはただ、あれが欲しかっただけだ」
何故欲しいのかは分からないけど。
「ずっと持っていたかったんだよっ」
「お…おい」
「調べるつもりなんて毛頭ないし、誰にも触らせるつもりもねぇっ!!」
「── し、新一!?」
(……え?)
新一は、怒りに任せて叫んでいたけれど、理性を手放していた訳ではなかった。
今、目の前の男が何を言ったのか………聞こえない訳はなかったし、理解出来ないはずもなかった。
それまでの怒りを忘れて、呆然と立ち尽くす。
視界に入るKIDは、あからさまに失言であった事を告げるように、彼らしからぬ態度で、その手で口元を覆っていた。
「あ………わりぃ」
名を呼んだ事に対する詫びなのか、小さく呟くKIDは今まで新一が眼にした事のなかった姿で。
新一もKIDに負けず劣らず驚いているのだが………それは決して不快なものではなくて───むしろ。
「──……いい」
新一は呟く。
「え……?」
聞こえなかったと告げるように声を上げたKIDに新一は顔を向けた。
「お前に名探偵なんて呼ばれるよりは………ずっといい」
まるで探偵一纏め、とでも言うような呼び方よりも……ずっと良い。
自分を個人として認められたような気がする。
「し……んいち…?」
何より、名前を呼ばれる事がこんなにも嬉しい事なんて……。
「お、おい、新一!」
──夢にも思わなかった。
「何で泣いてんだよ、おい」
呆然と突っ立ったまま、突然両目から溢れてきたものを目にしたKIDは、慌てた風に新一に近付いた。
どうしたものかと、困った顔で見つめてくるKIDの初めて見るそんな表情に、新一の胸が熱くなった。
──オレは……名前を呼ばれて涙を流す程に、こいつのコト。
好き、なのか。
その時になって、新一はようやくこの想いが何たるかに気が付いた。
泣かれるなんて、思いもしなかった。
馬鹿馬鹿しいほど、何も手につかない。
これで良い訳はない。
そうは思っても、何をする事も出来なくて、こんなにも世界が色褪せて見える。
心配そうに覗き込む幼なじみの声が耳に残る。
────最近の快斗、元気ないよ。……どうしたの?
多分、己の事のように心を痛めている幼なじみに、快斗はぎこちない笑顔しか向けられなかった事を後悔した。
他の誰もが気付かない表情を、あの幼なじみにだけは知られてしまう。
一番心配かけたくない人間には、きっと全てを知られてしまう。
────快斗、好きな人が出来たんでしょう?
屈託なく問いかけられた言葉に、快斗は絶句し、そのまま何も答える事が出来なかった。
好きな人……。
この、心の中に息づく想いは、本当にただの『好きな人』の所為なのだろうか。
恋とは、こんなにも息苦しいものなのだろうか。
何かが邪魔している。
普通に、幼なじみのような可愛い女の子を好きになったのなら、こんな気持ちにはならなかっただろう。
相手は同性で、探偵で……何よりも彼は自分の事を知らない。
『怪盗KID』として出会ってしまった事に後悔はないが、『黒羽快斗』を知らない彼にたまらなく苛立ちを覚える時もある。
その事実が、絶対に告げてはならない想いだと……知られてはならない想いなのだと告げている。
だから、これ以上この気持ちが大きくならないようにと思う。好きになってしまったものは消せないから……。
一日は単調に過ぎていく。
何時もと変わりない風を装いながら、快斗は単調に日々を消化していた。
本当は、もっとやらなければいけない事はたくさんあるのに。
来週行われる試験の勉強とか、マジックの練習とか……次に狙う宝石の下調べ、とか。
泣いても笑っても落ち込んでも切ない思いを抱いても、一日は確実に過ぎて行くのだから、こんな毎日を過ごしていて良い訳ではないのに。
何も手につかない。
昼間はまだいい。
学校へ行って、友人達との上滑りな会話に、頭に入ることのない授業。
それでも、まだ何もしないよりはマシだった。
でも、学生としての一日が終わると、ただ何をすることもなくぼんやりと時間が過ぎるを待っている自分がいる。
ぼんやりと自室のベッドに転がって、さして美しくもない天井に視線を向けたまま、彼との邂逅に思いを巡らす。
瞼の裏にくっきりと映し出される彼の姿。
夜の帳がどれほど厚くても、彼のその姿は決して隠せはしないだろう。
月がなくても、星々が厚い雲に覆われていても、彼自身が輝いているから。光の中で神々しく、闇の中でも凄烈なまでに。
──────どうかしてる、男に心を奪われるなんて。
怪盗が探偵に心を揺さぶられるなんて。
快斗は何時だって願っている。
想いがこれ以上大きくならないようにと。
自分を戒めればそうするほど、強く相手を思ってしまうのは理解っている。
全てを押さえつけるような真似は、却って逆効果だという自覚は充分過ぎるほどある。
だからといって、……今の自分の行動はどうだろう。
呆れて果ててしまう。
そうKIDは思った。
「……何で、こんなトコロに来ちゃったんだろ、オレ」
KIDは、誰もいない小高い丘で呟いた。
紅く彩られた落葉樹の大木の幹に寄りかかって吐くため息は、白く空気中を漂って消える。
この木は桜樹だろう。春にはきっと薄紅色の花が満開になるだろうその木も、今は風が吹く度に使命を負えたかのように一枚、また一枚と落葉していく。
そんな様を眺めていると、本当に切なくて、切なくて。今度は大きくため息をついた。
丘から見下ろす先に、殊更大きな屋敷が見える。
あれが……工藤新一が住む屋敷。
両親は海外生活が長く、一人息子である新一だけがあの屋敷に住んでいるという。
たった一人で、何年も。
明かりの消えた屋敷を照らすモノは何もない。
今宵の月は東の空に昇ってもいなかった。
姿を見せたとしても、細く儚い光しか生み出さないのだが……。
真夜中過ぎてこの場所で羽を休めて……だけど何時までもここに居る訳にもいかない。
ただ、あと少し。もう少しだけ、と、意味もなく寒空の下に居座り続け、……せめて、細い細い針の月が昇ったら、家に帰ろうと……そう決心して、大木を見上げた。
ぼんやりと、はらはらと舞い落ちる色付いた葉を眺めながら………だから、彼が直ぐ近くまで来ている事に気付かなかった。
「な……んで、ここに居るんだ……お前」
乾いた空気の中、突然響いた声にKIDは一瞬声を上げそうになる程驚いた。
当の相手も、自分に負けず劣らず驚愕している様子で立ち尽くす。
にしても……。
──────どうして、ここに工藤新一が居る!?
心臓が、突然バクバクと音を立てる。
その音は、相手にも聞こえそうなくらい大きく感じて。
それでも、それまで培ってきたポーカーフェイスを必死に貼りつけると、いとも優雅に微笑んでみせた。
「羽を………羽を休めていただけですよ、名探偵」
口元に湛えた微笑は、ともすれば満面の笑みになりかねない。それを必死に押し隠して、さらりと言ってのける。
「こんな……もう夜明けだぞ」
納得いかない、と言った声で新一が呟く。その響きにうっとりと耳を傾けつつ、KIDは微笑う。
「月を見てから帰ろうと思いまして、ね」
「月……?」
怪訝そうな彼の顔。言い訳のような答えに納得がいかないとでも言うように。
新一の視線が、ふとKIDから逸れて麓の方に移される。そんな彼の目線の先を変えようと、KIDは少し慌てたように声上げた。
「本当に、今宵の月は儚い」
KIDの言葉にそれまで下方を向いていた視線が僅かに上向いた。
薄雲の隙間から見え隠れしている光を捕らえる。
細い細い、針のような月は、それでも小さく光を放っていた。
「…もうすぐ、新月ですね」
あと数日もすれば、月はその姿を全て隠す。
消える訳ではない。ただ、見えなくなるだけ。
だけど、それでも少し寂しい。
KIDは、見上げる新一の横顔をそっと盗み見た。
白く滑らかな肌を晒したその横顔は、秀麗で目眩を起こしそうになるくらい美しい。
女にはない美しさと色気を露わにしている愛しい人物に、KIDの心音は平常になることはない。
逢えは逢うほど、想いが深くなる。
離れがたくなる……。
それは、自分ではもうどうにも制御仕切れなかった。それを無理に抗えば、却って傷つくだろう。……キッドも新一も。
彼の深みのある藍色をした瞳が月を見続けているその姿を見て、キッドは思った。
「……それにしても、こんな夜も明けぬ内から外出するなんて、少しは身の危険を考えたら如何ですか」
募る想いを振り切るように、KIDは話しかける。
この世の中、女だけに危険が降りかかる訳ではない。
頭脳、容姿、知名度共、他の人間を惹き付けて止まない麗しの名探偵。
「関係ない」
しかし新一は、にべもなくそう言い放つと、顔を背けてしまった。
関係ない。……確かに関係のないことだろう。無関係、否、敵である人物からその身を案じられる謂われなどないのだ。
どんなに想ってみても、互い距離は縮まる事はない。
………そう。互いの為にも、そうあるべきなのだ。
俯いてしまった新一。どちらにしても、怪盗と探偵の間に心穏やかな時間など持てる訳はないのだ。
しかし、理解かっていても……心はなかなか納得出来なくて、辛い。
求めているのだ。キッドの心が、彼を。足りなかった「何か」を埋めるように、欠けていた心を補うように、そして満たすようにと訴えている。
好きとか愛しいとか………人間にとって、最も崇高な感情であるはずのこの想いが、キッドにとって今最も必要としているのだと。
キッドがその心の中の激しさを増しつつある想いの嵐を必死に押し止めように躍起なっていた時、ふいに新一は顔を上げた。
視線が合った瞬間、心臓の鼓動が一瞬激しく胸を叩き、しかし、その表情を見ると、KIDは軽く眉を寄せた。
何とも言い難く、躊躇いがちな顔。その揺れた瞳のまま、KIDを見つめてくる。
「………?」
何だろう。……少し、何時もと違う。さっきまでは彼らしい空気を取り巻いていたはずなのに、今は一転してキッドに戸惑いを伝えてくる。
「………あ……あのさ」
口ごもりつつも声を発する新一にKIDは首を傾げた。
「何だ?……名探偵」
しかし、KIDの問いに新一は何でもないと頭を振った。
「話かけておいて、それはないだろう?」
そう言って、先を促す。新一が自分に話しかけようとしている。それだけで、軽い高揚感を覚える。
まるで、彼の一挙手一投足に一喜一憂するかのように。
────だが、彼の発した言葉が、KIDの心を一気に凍えさせた。
「この前、お前がオレに貸してくれたヤツ…………別に返さなくても良いか?」
…………。
……なんだ。
つまり。
「──────そういうコトか」
自然と、声が低くなった。
沸騰していた心に冷水のように浴びせかけた言葉。
そう、彼は『探偵』なのだ。
『探偵』は『怪盗』を追い詰めるのは当然だ。
『怪盗KID』の残した遺留品を鑑識にでも回すつもりなのか。
いや、そんな事くらいとっくの昔にやっているかも。
そう考え至ったら、唐突に哀しくなった。
きっと、この探偵はどれだけの邂逅を繰り返したとしても、自分を只の『怪盗』としか見てはくれない。それは、極当然の……当たり前の事だというのに、それでも……。
「……残念だが、アレをどれだけ調べてたとしても、何の証拠も出ては来ませんよ。髪の毛どころか、糸くず一本見つからないはずた」
突然感じた心の空洞を埋めるかのように、冷然と言い放つ。語尾が僅かに震えていることに、探偵は気付くだろうか。
「え…………?」
瞳を揺らす新一にKIDは首をすくめてみせる。
「ま、確かにアレは、怪盗KIDの遺留品には違いないですけどね」
「ち、ちが……」
「だが、残念だがそれだけで私を追い詰めるのには、無理がありますよ」
捕らえる為なら、どんな些細な物証をも逃さないのは分かるが……甘く見られたものだ。
「違うって言ってんだろっ!!」
思わず叫んだ新一に、それまでの気持ちを押し潰すかのように言葉を畳み掛けていたKIDの言葉がようやく止まる。
わざと逸らしていた視線を合わせると、頬を紅潮させた新一が、己を睨み付けていた。
「何で、そんな事。……そんなつもりなんてねぇよ。オ、オレはただ、あれが欲しかっただけだ!…………ずっと持っていたかったんだよっ」
「お…おい」
何を喚いているのだ?そんなにムキになって言い訳なんかしなくても……。
『探偵』が『怪盗』のコト、調査しようとする行為は弁明しなければならない事ではない。
むしろ当然な行いである訳で。
「調べるつもりなんて毛頭ないし、誰にも触らせるつもりもねぇっ!!」
「───し、新一!?」
興奮の所為なのか、潤んだ瞳で睨まれて、叫ばれて、初めて見る新一の感情の露わになった姿を見て──────気付いた時には、思わず名前を呼んでいた。
今まで一度だって呼んだ事なかった、名探偵の名を。
ヤバイ。
己は怪盗で……彼は名前を呼び合うような相手じゃない。
否、名前なんてKIDの口から発してはならない事……。『探偵』ではなく、『彼個人』を認めるような言動はしてはならない。
己の失言に咄嗟にその手で口元を覆ったが……放った言葉を元に戻す事は出来るはずもなく、
「あ………わりぃ」
自分らしからぬ態度で詫びるのが精一杯。しかしその言葉も『怪盗KID』らしくはなかったのだが。
収拾がつかなくて、暫しの間沈黙が続くと…。
「────────…………いい」
ふと、新一が何かを呟いたような気がした。
「え……?」
聞こえなかったと告げるように声を上げたKIDに新一はふいっと顔を向けた。
「お前に名探偵なんて呼ばれるよりは………ずっといい」
「し……んいち…?」
お前……何言って………。
どうして……
「……何で泣いてんだよ、おい」
呆然と突っ立ったまま、突然新一の両目から溢れてきたものを目にしたKIDは、慌てた風に近付いた。
どうして急に泣かれなければならないのだ!?
訳も分からず、ただおろおろとするばかりのKIDを……新一は果たして認識しきれているのだろうか。
「……泣くなよ。なぁ」
我ながら、情けない声だとKIDは思う。
新一の方は言うと、必死で涙を止めようとしているらしく、しかしそれが却って余計に泣きじゃくっているように見えた。
「……な、泣いてなんか、ない」
嗚咽のように呟く言葉に、KIDの心はふんわりと温かくなる。
何時もはめている手袋を片方だけ取り払うと、手を伸ばし……そっと目元を拭ってやる。
その突然の接触に、新一はビックリしたように大きく瞳を開いた。その反動で更にはらはらと新たに頬を濡らした。
驚いてはいるけれど、KIDのその行動に抗わない……その態度が嬉しい。
「なあ、名探偵。………これからは、『新一』って呼んでもいいか……?」
心の隅で、『KID』が警告している。
これ以上の接触は危険だと、けたたましく騒いでいる。
しかし今のキッドには、その声は聞こえなかった。
新一の肌にそっと触れている指先から伝わる温もりに支配されて、キッドには新一しか見えていなかった。
だから、目の前の彼が、暫しの間逡巡したように視線を彷徨わせた後、こくりと小さく頷いた時、どれほど嬉しかった事か。
この時から、怪盗と探偵との奇妙な逢瀬が始まった。
Open secret/written by emi
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