Infinity 2
その一瞬が、大切な宝物。
何故?と尋ねてはいけない。
どうして?と疑問に思ってはならない。
そんな事を考えてしまったら、折角の『現在(いま)』が崩壊してしまうかも知れないから。
おそらく……互いが同じような想いを心の奥に押し込んだまま、二人は逢瀬を重ねた。
逢うのは週末。
場所は、二人が再び相見えた、とあるビル。
時間も場所もお互いは何一つ約束などしてはいなかったが、二人は毎週末決まった時間に決まった場所で出逢いを重ねた。
大抵、探偵がその場に赴くと、怪盗は既に待ちかまえている。
怪盗は普段とさして変わらぬ表情で、探偵を見つめる。
だから探偵も大して表情を変えることなく、怪盗に近付く。
思わずほころびそうになる表情を抑えるのにかなりの労力を費やしていることに、この怪盗は気付いてはいるだろうか。
探偵が屋上に続く扉を開けると同時に飛び込んでくる白い姿に何時も安堵と……そして昂揚を同時に感じてしまう事に……。
冬の到来を告げる冷たい風すら、そうとは感じさせなくなるくらい胸が熱くなる。
その胸の熱さが、どこか心地よくて。
「よぉ……新一」
怪盗の口から言葉と共に白い息を吐き出される。
怪盗はあの夜から、彼を『探偵』とは呼ばなくなった。
新一は、ゆっくりと彼の側に歩み寄る。そして歩を進める毎に、胸に感じた熱を冷やしていく。
彼と逢うのに、この感情は決して見せてはならないもの。
探偵が怪盗を想っているなんて、あってはならない事。その逆も……。
だから、二人はその想いを自覚しつつも、決して表に出すような真似はしなかった。
お互いに、何も言わない。何も知らない。
そうしておけば、何時でも元の世界に戻れるから。
元に戻れると錯覚する事が可能だから。
新一は、探偵とした態度は取らない。
キッドは、怪盗としては振る舞わない。
お互いに暗黙の取り決めをしているかのように、互いの立場から物事を発言する事はない。
しかし、探偵と怪盗としてとしか対峙したことのない二人にとっては、やはり自分のフィールドの話しか出来なくて。
新一は、相変わらずホームズフリークな一面を。
キッドは、奇術に関する技を披露したりする。
二人しかいない屋上で、キッドは、たった一人の大切な観客に小さなマジックを良く見せた。
極々初歩的な奇術でも、この観客は、目を丸くしつつ魅入る。
無から突然姿を現すモノに、そんな事はありえないと目を凝らしてみるのだが、マジシャンの華麗な手さばきは、新一の目などさらりとかわして次々といろいろなモノを取り出して見せる。
「………何か、こんなに近くで見てんのに、ちっともタネが見えねぇ」
半ば悔しそうに呟く新一にキッドは笑う。
「当然ですよ。……これは、手品ではない、『魔法』なのですから、タネもしかけもありはしないのですよ」
純白の手袋をはめた両の掌をかるく重ね合わせると、突然その隙間から姿を現す深紅の薔薇。
キッドはそのほころびかけた花弁にそっと口唇を寄せてから、新一に向かって恭しく差し出した。
新一は、少し躊躇いつつも差し出された薔薇の花を受け取る。
受け取る時にほんの一瞬だけ触れ合った指先にどきどきしてしまうのは、新一だけだろうか。
キッドは、曖昧な表情を見せる新一にふわりと微笑んで見せる。
「…………」
受け取った薔薇を軽く弄びながら、ふいっと視線を逸らす。
決して、嫌がっている訳ではない。それは、一種の照れ。
もちろん、そんな事はキッドも承知している。
「私の扱う魔法なんて、まだまだ児戯に等しいものですよ。………私の父に比べれば、ね」
「………?」
「親父は、偉大なマジシャンだった。決して奢らず侮らず。かつ、笑顔と気品を損なわない。何時たりと、ポーカーフェイスを忘れる事のない人だった。………と言っても、親父はオレがほんのガキの頃に死んじまったから、……思い出らしい思い出なんてあまり覚えていないんだけどな」
遠くを見るような瞳で、独語のように語るキッドの言葉。
「その、お前の親父さんの名前って………」
「………?何だ?」
「いや、何でもない」
「……………そうか」
冷えた風が、彼の言葉を攫って消える。
そう。
別にそれは知る必要のない事だった。
新一は、時々彼が漏らす言葉を聞いているだけで良いのだ。
その言葉を、忘れなければ良い。
彼を深く知りたい欲求は、……いずれ彼本人の口から明かされるだろう。
それを信じていればいい。
「………どうした?新一」
黙り込んだままの新一に気付いたキッドが不安な声で尋ねてくる。
そんな彼の戸惑った表情に、新一は先ほどから手にしていた薔薇の花にそっと口付けて応える。
「いや…………別に何でもない」
屋上を吹きぬけた風が深紅の薔薇の花弁を揺らした。
この感覚の正体は、一体何だろう。
何時だって、二人が逢うのは夜だった。
決して光り輝く陽の下で逢う事も、煌々と人工的な光の下で逢うこともない。
ただ、夜毎変化する月の光だけが、互いの姿を映し出していた。
キッドは、そんな新一の姿を見つめる。
光などなくても、彼自身が輝いている。キッドには、彼の全てが見えるから、その事にさして不便は感じなかった。
むしろ、月の下に佇むその姿は、キッド自身よりも相応しく感じることもある。
本来なら、蒼く透き通るような輝きを放つのだろうその瞳も、月の下では、更に深く憂いを含んだ藍色に変化する。
……まるで、秋の夜空の色だ。
そんな彼の瞳を見つめていた時、ふいに何かを感じた。
……なんだろう。その藍色の瞳にキッドは、今まで見つからなかった「何か」をようやく探り当てたかのような感覚に見舞われる。
それを認めてしまえば、全てがしっくりと収まる気がする。……だけど、それが「何」なのか、良く分からない。
本来なら最初から揃っているはずの「何か」。だけど、何故かキッドにはその「何か」が何処にもなくて。欠けていた場所に「それ」を収めれば納得出来るはずなのに、その最後のピースが何なのか分からない。
キッド自身すら何が何だか分からず、眉を寄せる。
何処か不完全。何かが足りない。
この感覚の正体は、一体何だろう。
「パンドラ?」
突然彼の口から発せられた言葉に、新一は訊き返す。
「そう。命の石『パンドラ』」
冬の寒さなどものともせずにキッドは相変わらずの姿でそこに居る。
時折吹く風が彼のマントとモノクルの飾り紐を激しく揺らしても動じることはない。
新一は風が吹く度に思わず身体を竦めている。
例の薬の一件以来、身体の抵抗力が格段に下がった肉体は、暑さにも寒さにも極端に弱かった。
現場に赴いている時などは、強い高揚感にその事を忘れ去られてしまう事が多いが……今はそうではない。
そんな新一の態度にキッドが気付かぬはずはない。
「何だ。新一、寒いのか?」
ビルの屋上は風も強い。なのに、新一はさして着込んでいるとも思えない格好で此処に来ていた。
心配になって思わずそう訊ねるが、新一はそんなキッドの心配を余所に、ふいっと視線を逸らす。
「いや…………別に……」
そんな彼の態度にキッドは少し不満を感じた。無理をしているのが見え見えで、怒って良いのか苦笑して良いのか分からなくなる。
だから、キッドが咄嗟に起こした行動に、新一は少し驚いた顔をした。
「─────────!?」
不自然な風が起きて、新一の視界を一瞬だけ純白に染める。
「キッ………」
心持ち見上げる視線の先にはキッド顔。彼は、穏やかな微笑を見せた。
キッドの両手は新一の身体を包むように差し伸ばされていた。……だが、極力新一には触れぬように掴んだマントでそっと覆う。
触れるか触れないかの微妙な距離は、それ以上もそれ以下にも、近付くことも離れることもない。
そっと触れぬように包み込んだ新一の身体。驚いた顔をして見つめてくる新一の瞳には、キッドの瞳が映っている。
そして彼の瞳にも。
その瞬間、キッドはモノクルで覆われいる自分の瞳に苛立ちを感じた。
直に彼を映したいのに、無粋なレンズが二人の間に割り込んでいる。こんな小さな道具にすら、二人の邪魔をされたくなくて、そしてそんな風に思う自分に心の中で自嘲する。
レンズ越しであっても、深く吸い込まれそうなその瞳は損なわれはしない。じっと彼を見つめると、新一は少し困ったような表情を見せた。それが、何ともあどけなくて見えて、思わず微笑む。
「本格的に寒くなってきましたね……雪が降ってもおかしくない程に……」
きん、と冷えた真夜中の空気。吐き出される息は白く、新一も頷くように頭を垂れた。
まるで安心したかのように、ほっと肩の力を抜く新一に、キッドは愛しさを募らせる。
身体だけでなく、その心も包んであげられたら良いのに。
優しく包み込んで………だけど、絶対離さない。
「『パンドラ』は永遠の時を与えられると信じられているんだ」
彼を包み込んだまま語り始めるキッドに顔を上げた新一は「まさか…」と小さく呟いた。
「永遠の…って、不老不死……とか?」
冗談のつもりでそう尋ねた新一に、キッドは小さく頷いた。
「ボレー彗星近付くとき、命の石を満月に捧げよ……さすれば涙を流さん」
「……?」
「世界中に散らばる『ビックジュエル』と呼ばれている伝説の宝石。その中の一つに不思議な力が秘められている石が存在する。……オレはそれを探し続けているんだよ」
「その……不老不死を得る為に…か?」
「まさか」
戸惑いがちな新一の問いにキッドはきっぱりと否定した。
「オレは……悪いヤツ等にそんな物騒な宝石を渡したくないだけ」
「……………」
「それに、これは親父のやり残した仕事だから。……息子のオレが遺志を継いでやらなきゃな…」
そう告げるキッドの言葉は、寂しげだった。
怪盗KIDは、今からおよそ20年ほど前に姿を現し、一時忽然と姿を消した。
そして数年前から再び世間を騒がせている。
「全ては偽りの上に築き上げている……それがKID(オレ)」
キッドの口から自嘲気味な言葉が漏れて、新一は顔を上げた。
そんな彼の視線に、キッドの心は小さく波立つ。深く藍を湛えた瞳がキッドを見つめてくる。
「だけどそれは、お前自身の意志になった……違うか?」
凛として告げる新一の言葉。
その言葉に、キッドの心は静かに落ち着きを取り戻す。
ああ、そうかも知れない。
父親の仇とか、恐らく逝く直前まで関わっていた事だからと、そういった理由はきっかけに過ぎなくて、……現在では、それらを越えた所にあるのかも知れない。
快斗が『KID』になったのは、自分の意志だったし、犯罪を犯す事に、父親を引っぱり出して言い訳に使うつもりもない。
きっかけはどうであれ、全ては自分が決めたこと。例え、前途が暗い闇となってしまっても……それが自分が選んだ道だった。
「ああ……そうだな」
最初は父親の跡を継いだつもりでいたけれど、そうじゃない。怪盗KIDとして生き続けることは、何時しか快斗のなすべき事になった。
それは自分自身が生み出した姿ではないけれど、決して父親の真似なんかじゃない。
「他の誰の代わりでもなく、お前はお前だよ、キッド。………オレはそれ以外にお前を知らない」
低く声を落とすその表情は、キッドの胸を締め付ける。
「……新一」
「オレが出会ったのはKID(お前)だった。それを否定されたら……」
自分たちに出逢いは存在しなくなる─────。
言外にそう告げてくる新一に、KIDは嬉しくて泣き出しそうになった。
KIDであるという自分を認めてくれる。そうしなければ二人の関係が成り立たなくなってしまうからだとしても、KIDには嬉しかった。
本当は……本当の快斗(自分)を知って欲しかった。だけど、「快斗」はともかく「KID」は目の前の……新一だけしか認めてくれる。
彼だけが……そして、自分は彼だけのもの。
そんな甘美な想いがKIDの心を支配する。
彼が怪盗KIDであることと彼が探偵であることは、絶対条件だ。
だけど、その上に今の自分たちが在ると新一は言ってくれる……。
「お前は偽りでも何でもない。今ここに存在している」
まるでキッドに胸を預けるかのように頭を下げる新一。囁くように告げる言葉は、だけどしっかりキッドの耳に心に届く。
「偽りを言い訳にして、お前は犯した罪から逃げたりはしない。なら、今のお前は真実なんだ。そうだろ?……キッド」
「ああ……そうだな」
呟くように答えたキッドの腕が、新一の身体を一瞬強く抱きしめるように力を込めた。恐らく彼にはそれだけで、自分の気持ちを判ってくれる。
自分を理解して、認めてくれる事がこんなにも幸福だなんて。それはきっと、相手が新一だから。
抱きしめるように力をこめたほんの一瞬に感じた彼のぬくもりと甘さは、その後の冷えた夜風ですら消し去ることはなかった。
辛くても……止める事なんて出来ない。
新一の部屋のデスクの上に何時もは見られることのない、ガラスのコップに無造作に活けられた一輪の薔薇。
それは、日を追う毎に花弁が開き、大輪の華を咲かせた。
傷一つない、燃えるような深紅の薔薇。
咲き誇ったそれは、更に日を経る毎に一枚、また一枚と、花弁を散らしていく。新一はその様をほんの少し、複雑な想いで見守っていた。
こんな小さな切花の一生は短い。
なのに生き急ぐ変化に、心のどこかで寂しさを感じる。
それが矛盾した想いであると自覚しながら………。
咲き誇ったまま止めておきたいと願うのは、間違っているのだろうか。
何かおかしい。
朝起きて、顔を洗って気付いた事。
何となく……喉が痛い。
頭がふらふらするような感じがする。
「……カゼかな?」
新一は、鏡に映った自分に訊ねる。
顔色は……一見悪くないように見える。
両手で頬をぺちぺちと軽く叩いて、深呼吸。
やっぱり、喉の奥がぴりぴりと痛んだけれど、それほど大した事でもない。
カゼ気味程度だ。大丈夫。別に休むほどの事でもない。
新一はあっさりと結論づけると、学校へ行くべくその場を後にした。
「………新一、何か声ヘン」
幼なじみの言葉に新一は「そうか?」と素っ気なく答えたものの、体調の変化に気付かない訳はなかった。
授業が進むにつれ、明らかに酷くなっている。
実のところ、席に座っているのも心許なかったりする。慎重に動かないと立ち上がることすらままならないくらいに。
結局、放課後まで居続ける事が出来たのが不思議なくらい急激に新一の身体は重くなっていた。
しかし、そんな体調であるにも関わらず、新一は至って平静だった。楽観していると言った方が良いのかも知れない。
おぼつかない足取りであるのにも関わらず、彼の機嫌は悪くはなかった。
こんな体調不良など取るに足らない事であるとでもいうかのように振る舞う新一に、幼なじみは心配になる。
「今日は早く寝るのよ、分かった?」
「……大丈夫。明日は休みだし、ゆっくり休むから」
気遣いに感謝しつつもそう素っ気なく言うと彼女に手を振って別れを告げる。
そんな新一を心配そうに見つめていた彼女だったが、それ以上踏み込む事は出来なかった。
本当はお見舞いがてら看病したかったのだけど……何処かで拒絶されているような気がした。
その原因が何なのか。それは分からなかったが、最近の新一はそういう雰囲気を纏い始めていたから、彼女は黙って見送る事しか出来なかったのである。
ともすれば倒れるのではないかというような足取りで家に帰ってきた新一は、そのまますぐに着替えるとベッドではなくリビングのソファに身体を投げ出した。
エアコンが部屋を程良い室温に保ってくれるその中で、手足をうんと伸ばしで関節を和らげるとそのままクッションを枕にして横たわる。
やっぱり……かなり身体は怠い。
しかし、だからと言って休みたくはなかった。このままベッドに入ればきっと次の日まで起きることはないだろうから。
今日は明日に休みを控えた週末。週に一度、アイツと会える日。
だから、絶対にこのまま眠ってしまってはならないのだ。
週末の夜、いつもの時間。
純白の翼が人知れず夜空を旋回して、とある場所へと静かに着地する。
ほとんど物音一つ立てずに降り立つのは見事としか言いようがない。キッドはそれをさして大したことではないというようにさらりとやってのけると、塔屋からふわりと屋上へと降り立った。
ふぁさり、とマントが風に靡く音だけ残して、優雅に降り立つと、落下防止用のフェンスに体重を預けるようにして眼下を眺めつつ、彼の訪いを待った。
しかし、いつもならキッドの訪れに呼応するかのように現れる新一が、今日に限って何時までたっても姿を現さなかった。
「……?」
来ない?
キッドの顔が僅かに曇った。
決して約束などしていない。示し合わせたかのように重ねていた逢瀬は、今となっては既に必然だとすら思っていたのだが……相手はそうではなかったのか。
キッドは素早く記憶を辿る。
今日は……何か事件でも起こっていただろうか。
警視庁の情報は、ほぼリアルタイムに掴んでいる。その中で、工藤新一の手を借りるような事件は起こっていないはずだった。
なら……今晩はそれ以外で何らかの不都合が起きたのかも知れない。
キッドの口から思わずため息が漏れた。
所詮二人の関係なんてこんなものだ。
己がどれだけ相手を想っていても、キッドは怪盗で新一は探偵。
正体不明の得体の知れない相手を本気で相手にする事自体滑稽だった。
そう考えると、新一が今まで自分に付き合ってくれていた事は奇跡のようなもの。
仕方がない。
一抹どころではない寂しさがキッドを襲ったが、それには敢えて触れずに踵を返そうとした時だった。
─────何かを感じた。
音、ではなく、気配、というより……僅かに感じる空気の揺らぎのようなもの。
キッドはもう一度辺りをぐるりと見回した。
しかし、これと言って何の変化は見あたらない。
ほとんど光のない廃ビルの屋上は、しんと静まり返っていて、幾分冷たくなった風が吹き抜けるのみ。
その時ふいに気付いた事があった。
塔屋へと続く扉が、ほんの僅かに開いている。……いや、閉まりきっていないと言った方が正しい。
キッドはそちらに向かうと、古びたスチールドアを静かに引いた。
予想に反して、軋んだ音一つ立てずに静かに開いた扉。その奥には薄暗い階段が続いている。
きん、と冷えた空気に混じる埃の匂い。
決して居心地の良いとは言えないその空間にキッドが足を踏み入れた時だった。
扉の影から感じる人の気配に思わず覗き込んだ先に、捜し人の姿が見えた。
「……新一!」
扉の脇に……薄汚れた壁に背中を預け、だらしなく両足を投げ出して埃の積もる床に座り込んだその姿に驚愕する。
俯いた頭の所為でその表情は隠れていたが、とても……いつもの工藤新一の姿には見えなかった。
慌てて側に寄って新一の脇に跪く。
「新一、どうした?」
「………キッド……?」
キッドの不安を隠さない声に、新一の頭が僅かに持ち上がる。
キッドは眉を寄せた。いつも彼の指先が触れたいと願って止まない彼の柔らかな前髪が、しっとりと濡れていた。
上気した頬、汗ばんだ髪。
「……な…んでもねぇんだ。……ちょっと、外は寒かったから……」
中に居ただけだ、と。薄闇の中でも分かる程朱に染まった目元をキッドに向けて、ぎこちなく微笑う。
なんでもないはずがない。
新一のその姿を目の当たりにして、彼の言葉に素直に頷くほどキッドは鈍感ではない。
そっと頬に触れると、思いの外熱かった。そのくせ、震えてる。
「新一……寒い?」
「ちょっと……」
「────んな訳ないだろ」
やせ我慢するかのように言う新一の態度に痺れを切らしたキッドは、強引に新一の身体を抱き寄せた。
「キッ……!」
突然の行為に驚いた新一が思わず声を上げる。しかし、彼は意に介することもなくそのまま抱き上げた。
その、突然起きた浮遊感に思わず新一は意識が遠のいていくのを感じた。
「新一?」
ぐったりと預けてくるその身体を抱き直して顔を覗き込む。
理知的な光を宿した双眸は伏せられ、心なしか息も荒い。
しっとりと汗ばんだ身体。衣服の上からでも感じる事の出来る、熱い体温。
どう考えてみても、普通の身体ではない。
キッドは一瞬考えてからすぐに、彼を抱いたまま目の前の階段を慎重に降り始めた。
うち捨てられた廃ビルは、取り壊される日を静かに待ち続けている。
電気などとうに切られている。内装はほとんど取り払われ、壁と天井がむき出しにされ放置されていた。
塩化ビニールのタイルの所々剥がれている床。
キッドはそこに新一を抱いたまま腰を降ろした。
カーテンウォールから差し込む月の光が、ぼんやりと室内を浮かび上がらせる。
長い間、誰の出入りもなかったであろうその場所は、酷く薄汚れていたが、寒さは凌ぐことが出来た。
キッドが何時も身に纏っているマントは新一をくるむように包み込んでいた。見かけ以上に保温性に優れているそれを巻き付けた上からキッドはそっと抱き込んで一息つく。
出来ることなら、すぐに彼を送り届けてやりたかった。
普通ならばそうするだろうし、出来るだろう。
しかし、『KID』である自分が、新一の生活領域の何処まで侵して良いものか、それが分からなかった。
一人で帰す事も出来る。通りに出てうまくタクシーを拾えれば、そのまま自宅まで送り届けてくれるだろう。
だが、そんな事をするのが、とても酷な事のように思えて出来なかった。
分かってる。
これは、自分のワガママだ。
側に……居てあげたいのだ。熱に冒され、寒さに震える身体を抱きしめて。
側に居てあげたいというより、自分が側に居たい。
キッドは胸ポケットからピルケースを取り出した。何時も常備しているその小さいケースには、数種類の薬が並んでいる。
その中の一つを取り出すと、意識のない新一の口元へと持っていく。
「新一、解熱剤。飲めるか?」
返事を期待する事なく訊ねる。応えはなかった。
仕方なくそのまま薄く開いた口に錠剤を押し当てると、口唇が震えるように動いた。
長い睫毛を震わせて、うっすらと瞳を開ける。
「あ……」
「気付いたか?……薬、ただの解熱剤。噛み砕いても構わないから」
そう言って口の中に入れてやる。
新一はぼんやりと口を動かしていたが、暫くしてそれを飲み込んだ。
薄く瞼を開いたまま、新一はキッドを見上げた。
今、自分がどういった状況にあるのか、ほとんど認識していない。
ただ、その霞むように映るキッド見つめ、掠れた声で訊ねる。
「此処……何処だ……?」
「ビルの中。屋上階から二つ下のフロアだ。……何もない所だけど、上に居るよりマシかと思って連れてきた」
「……オレ……何で此処に居るんだ……」
ぼんやりと、そう自問する。
「屋上に続く扉の脇で座り込んでいたんだよ。……ほとんど倒れてるみたいに。覚えていないのか?」
「…ああ……何となく、覚えて……」
瞳を閉じて、そう呟く。
「熱が酷いみたいだ。かなり熱いだろう?」
「大した事ない……って、思った。……今日は朝からちょっとカゼ気味だったけど……」
お前に逢えるのなら、カゼなんて大した問題にはならないって思った。と、新一は心の中で続ける。
「カゼ引いてたのなら、こんな所に来るんじゃない。悪化するのは目に見えてる」
屋上に降り立った時、彼の姿が見えなくて心寂しい気持ちが広がった事など忘れてキッドは言った。
此処は、どう考えても居心地の良い場所ではなかった。
夏場ならともかく、真冬に向かうこの季節で、しかも夜中に風吹き荒ぶ屋上で逢瀬を重ねるなんて、非常識この上ない行為だった。
それでも、そうしてしまうのは『探偵』と『怪盗』という関係だから。
堂々と逢える場所なんて、本当は何処にもありはしない。
キッドがそう内心暗くなっていた時だった。
「………さみぃ」
肩を震わせて、ぎゅっと縮こまるように身体を丸めようとする新一に気付いた。
「え……寒いのか?」
熱い塊を抱いているようにしか感じなかったキッドは思わず問い返す。
額には汗を浮かべた新一が、それでも身体を小刻みに震わせている。
身体は熱でとても熱いのに、寒さに震える新一。新一は朦朧とした意識の中で寒さを訴えた。
きっと、今自分がいる状況など脳裏から消し飛んでいるのだろう。ただ、寒いと何度も繰り返す彼を、キッドは強く抱いて応えた。
「悪い……こんな風にしか暖を取ることしか出来なくて……」
しかし、新一は震える腕を伸ばして……キッドの背中に廻すと強く縋るように抱きついてきた。
「しん……」
「……あったけぇ……」
身体を震わせながら、それでも少し幸せそうに放った呟きは、キッドの耳元に届いた。
ぎゅっと、胸に顔を押し当ててくるその温もり。
途端にキッドは彼に対して、リアルに意識してしまった事に気付かされた。
あまりにも無防備にその身を預けてくる新一。今までこんなに近くに触れ続けた事なんてなかった。
当然だ。
二人はそんな関係ではない。
夢と現の狭間にかかる細い糸の上で落ちないようにバランスを取りながら向かい合っている。
例えるなら、そんな関係。
好きで愛しくてたまらないけど。……それは決して具現させてはならないもの。
しようとすれば、二人を繋ぐ細い糸はたちまち切れてしまうだろう。
前に行く事も、後ろに戻ることも出来ない。「今」というその一点だけで存在し合っている二人。
無意識に暖を求めて縋り付いてくる腕。
温もりを与えるべく、更に強く抱きしめたその行為の裏にある感情を、キッドは全身全霊で押し隠した。
どうして、こんな風にならなきゃならないのだろう。
怒られてしまった。
新一は、自室のベッドの中に潜り込んだまま小さく微笑んだ。
あの廃ビルで新一が気付いた時、既に朝日が差し込もうとしていた。
意識がはっきりとした時は流石に置かれている状況に慌ててしまったが、自分を包むようにして微睡んでいるキッドを目の当たりにした時……言葉にならない幸福感が胸に広がった。
新一の目覚めに呼応するかのようにすぐに彼はいつもの表情に戻ったが、新一の心は暖かなままだった。
彼の怜悧な眼差しと溜息。
憮然とした態度で新一を戒める声。
カゼ気味のくせに大した防寒対策もせずにやって来た事に対する叱責が耳に痛い。……でも、心地よい。
彼の言葉は心配の裏返し。
心配させてしまった事には反省するが、心配されるのは悪くなかった。むしろ嬉しい。
相手の自分に対する気持ちが見えるような気がしたから。
家に帰ったら暖かくして寝る事。
週末は外出しない事。
体調が戻らなかったら、此処には絶対に来ない事。
キッドは、怒った声でそう言ったのだ。
流石にとんでもない醜態を晒してしまった新一は即座に頷いたのだが……3番目の言いつけだは守りがたい気がして、何が何でもこの週末に治してしまおうと決心した。
折角の休日をベッドの上で過ごす事は、ほんの少し勿体ない気がしたが、新一は好きな推理小説すらベッドの周りから遠ざけて治すことに専念する。
昨日なんて、目暮警部のたっての要請を涙を飲みつつ断ったりもしたのだ。
何か、とても難解な暗号による犯行予告が警視庁に届けられたらしい。少し……いや、かなり心をくすぐられたけれど、我慢した。
そのお陰かどうかは分からないが、少なくとも安静にしていたのが良かったのか、あの夜、あれだけ身体の熱が酷くて、それ以上に悪寒の止まらなかった身体がいまでは微熱程度にまで落ち着いている。
喉の調子はあまり良くないが、それでも声が掠れる程度で咳き込む事もない。
思ったより、早く回復しそうだ。新一はそう思うとまた微笑った。
念の為に明日は病院へ行ってから登校して、それから……。
そう、考えていた時だった。
家の呼び鈴が控えめに、しかし強い存在感を持って鳴り響いた。
「………?」
新一は少し困った表情で、頭を上げた。
現在一人暮らしの新一にとって、来客の応対も自らが行わなければならない。
何時もならそれほど億劫な事ではないのだが、この今の状態では相手が誰であれ、応対するのは憚られた。
こういう時は一人暮らしの不便さを実感してしまう。
その生活を自らが望んだことであったとしても。
新一は暫しベッドの中で考えたが、無視する事を決めた。
日曜日にやって来るような知り合いは新一の脳裏に浮かばなかったし、友達ならまず連絡の一本くらいは入れてくれるだろう。
それが出来ない友人ならぱ、無視しても大して問題にはならない。
そう思いながら、再びシーツの上に身体を預けた時。
また、呼び鈴が鳴った。
しつこい。
新一は憮然とした気分でそう思った。
呼び鈴を鳴らす音は、その後も時間をおいて数度繰り返された。
闇雲に押されないだけマシだったが……それでも気にならないはずは無かった。
「……ったく」
仕方がないと言わんばかりに、新一はむっくりと起き上がった。
そのまま上着を引っかけると階下へと降りていく。
もし、知ってるヤツのくだんねー用事なら、即座に切ってやる。と思いながら、インターホンを取り上げる。
「はい、どなた?」
決して愛想良いとは言えない声音で言い放つ新一の耳に飛び込んできたのは、予期せぬ人物の声だった。
『─────白馬です。……開けていただけますか?』
傷一つない真っ白な薔薇の花束。
豪華に結わえられたコバルトブルーのリボンが、その花束を汚れない高潔さに引き立てる。
白馬探は、片手に抱えきれないほどの花束を持って、新一の前に現れた。
「………あ、白馬」
新一は何と言えば良いのか分からず、ただ立ち尽くしていた。そんな新一に向かって白馬は優雅に微笑むと彼にそれを差し出した。
「お加減は如何ですか?花屋に貴方に似合う花を選ばせました。…受け取って頂けますか」
ノーブルな仕種で差し出すそれを新一は戸惑いながらも受け取った。
でも、
「どうして……?」
何故、此処に白馬は来たのだろう。
白馬探と新一の関係はそれほど深くはない。友人……というにはそれほど純粋ではなかった。
警視総監令息にして警視庁嘱託探偵の地位を確立している彼との間には、同年代の探偵同士という立場に加えて、見えない利害関係のようなものも存在する。
互いの能力は認め合っているし、事件に際して協力することもしばしばだったが、こんな風に家を訪問し合うような関係ではなかった。
見舞いの品にしては些か華やかな花束を抱かえつつ、怪訝な顔をする新一に白馬は微笑した。
「貴方が体調を崩した所為で昨日の事件に参加出来なかった事を聞いて、お見舞いに来たのです」
工藤新一の最も得意とする暗号文での犯行予告の解読。
彼ならば、多少の体調不良程度でその要請に辞退するとは思えない。よほど容態が思わしくないのか……と、心配になって来たのだと言う。
「……でも、思ったより顔色が良くて、安心しました」
そう言って微笑む白馬に新一もつられるように笑みを返した。
「ああ……昨日一日休んだお陰で大分良くなったんだ」
だから、心配してもらうほどの事ではないし、相手の好意に感謝しつつ早々に退去して頂こうと思った時だった。
「だったら……少しお話しませんか?昨日の事件について、色々お教えしますよ」
白馬の魅惑的な言葉に新一の興味は途端に事件へと動くと、嬉々として彼を家の中へと誘った。
冷えた室内に暖房を入れると、客人をもてなすには些か不足しがちなキッチンへと移動する。
「あ、お構いなく」
案内したリビングから白馬が声をかける。新一は構うほどの事は出来ないと笑って応えると、インスタントコーヒーを淹れた。
自分用にはホットミルクを。それを見られた時に白馬が苦笑したように見えたが、体調を考えれば彼のそんな態度など取るに足らない事だった。
少しずつ暖まってくる室内のソファに相手は優雅に腰掛けたまま、決して美味いとは言えないコーヒーを一口飲んで微笑んだ。
マイセンのカップに淹れられた、安物のインスタントコーヒー。
白馬はそんなアンバランスな新一のもてなしに内心微苦笑を浮かべる。
新一は上着だけでは寒いのか、リビングに放り出してあった大判ブランケットを肩から掛けて、使い込まれたマグカップを両手で持って白馬を見詰めていた。
その瞳には、好奇の色が浮かんでいる。
白馬はそんな新一の態度にもう一度苦笑を漏らすと、彼の好奇心を満足させるべく昨日の事件の一部始終を語り始めた。
「へぇ……、なら結構犯人逮捕に時間掛かかっちまったんだな」
ミルクを飲みながら呟く新一に、
「ええ。……しかし、それは警察の不手際ですね。犯人の居所を察知しながら、踏み込むタイミングが悪すぎました」
例の犯行予告文のコピーを差し出すと、喜々として受ける。
「で、やっぱり、コレ解読したのって……白馬?」
「貴方のいない現場で、他に誰が居ますか?」
「よく言う」
新一はそう言って笑った。
それから暫くは事件を考察しつつ、互いにその考えを披露し合う。
考えの相違点を抜き出して、再度様々な観点から解き明かしていく、まるでゲームのような楽しさに新一は半ば夢中になっていた。
打てば響くような白馬の知識や考え方は、新一にとってかなり居心地が良かった。ズバリと切り出しても、直ぐさま答えが返ってくる。
新一は同じ推理好きな探偵としての白馬に上機嫌だった。
そして白馬もまた、新一とは違う意味で機嫌が良かった。
それは、彼が行動に移すまで新一には気付くことは出来ない種類のものだった……。
カチャリ、と小さな音を立てて、手にしていたカップを白馬はソーサーに戻す。
テーブルの上に置かれていたコピーを眺めていた新一の視線が彼へと向けられた。
「あ、おかわり?」
「いえ……もう、結構です」
新一の気遣いにやんわりと断りを入れて、白馬は新一を見つめた。
「……何?」
「いいえ」
突然、ちくりとした視線を感じて、新一は訊いたが、相手はこちらを見つめたまま首を軽く振った。
新一が怪訝に感じて眉を寄せた時だった。
「やっぱりヘンですね」
「え?」
「声。……掠れてますよ。それに顔も、少し赤い」
首を傾げる新一に、
「……何か、そそられますよね。誘ってます?」
「は………?」
新一は思わず目を丸くした。
一瞬、相手が何を言っているのか理解出来なかったのだ。
「見舞いに託けてあわよくば……なんて都合の良い事考えていなくはなかったのですけど、まさかね」
剣呑な眼で新一を見つめる。
彼の……上着を引っかけただけのパジャマ姿でテーブルに影を落とすように俯いてる姿は、正面に座る白馬から見れば、その白い首元から鎖骨にかけての綺麗なライン浮き彫りで、無言で彼を誘っていた。
ほんのりと朱に染まった頬に、放つ言葉は少し掠れていて、普段とは明らかに違う、しかし紛れもない艶やかさがあった。
「お前……何言って……る?」
理解不能、と言った顔で小首を傾げる新一に白馬は苦笑する。
純粋に、彼は白馬が何を言っているのか判らないようだった。
その、少し潤んだ瞳で無防備に見つめてくる。
そんな新一に向かって白馬は静かに手を伸ばした。
ガシャン、と耳障りな音が響いてテーブルの上のコーヒーカップが倒れた。
テーブル越しにあっけに取られた新一の、その頤を掴むと引き寄せる。
「……白馬!?」
無理に引っ張られ、抵抗する間もなく───その口元に彼の口唇が触れた。
「─────!」
……何が起きたのか、判らなかった。
白馬の腕が新一の背中に廻り、強く引き込まれても……何がどうなっているのか、新一の頭は正常には動かなかった。
その無抵抗な新一の態度に、白馬はこれ幸いにと更に引き寄せる。
強引に引かれた身体。しかし、膝がテーブルに当たった痛みで、新一の思考は一気に回復した。
「てっ、てめぇ……何しやがる!!」
掠れた声を荒げても、相手はまるで怯むことはない。
不自然な体勢で引きずられた身体を、新一はテーブルを足で彼の方に押しやる事で、ようやく解放された。
立ち上がり、濡れた口唇を右手で拭う。
しかし、睨み付ける新一の視線を白馬はさらりとかわして悠然と微笑んだ。
「失礼。先にこう告げるべきでしたね。……工藤君」
「………」
「ボクは貴方に並々ならぬ想いを抱いてます」
白馬はあっさりと言い放った。
「逢う度に、私の心は貴方に囚われたまま身動きが出来ないのですよ」
「……何言って……」
すっと立ち上がり、こちらに近付いてくる白馬を、新一は信じられないモノを見るような目で見つめた。
新一の気付かぬ間に突然豹変した男に、一体どう対処すれば良いのだろう。
頭の中がぐるぐると渦巻いて、目眩を起こしそうになる。しかし、そんな新一の気持ちなどお構いなしに白馬は彼の側まで歩み寄ると、彼の両肩に手を掛けてそのまま押し倒した。
「────!」
どさり、と座っていた場所に押し戻され、思わず息が詰まる。白馬は、そんな新一に顔を寄せると微笑んだ。
「何故なのでしょうね……男であるボクが、そりにもよって、こんな想いを貴方に抱いてしまうなんて」
「……しっ……知るか!そんな事!」
逃れようと藻掻くが、両肩に添えられた白馬の手は、見た目以上に強く新一の肩に張り付いていた。
「知らないでは済みませんよ。……だってそうでしょう?」
貴方の存在そのものが、ボクの心を煽るのですから。
そう告げると、必死に抵抗する新一をソファの背に押し付けて……その可憐に動く口唇に己のものを押し付けた。
「……っ!」
先程の触れるだけのものとは違う。深く、強く与えられる口づけ。
止めて欲しくて口を開けば、それを待っていたかのようにするりと何かが入り込んでくる。
生暖かく蠢くモノが新一の口内を蹂躙する。
「………やめ…っ…!」
今まで体験したことのない嫌悪感が新一を包み、必死になって頭を振った。
熱っぽい身体は、激しく動くと更に体力が削がれていくような感覚に見舞われたが、そんな事構っていられない。
腕を相手の胸に突っ張り、闇雲に相手の身体に蹴りを入れる。
すると白馬は小さく呻いて、ようやく新一から離れていった。
その機会を逃さず新一はソファから転げ落ちるとすぐに体勢を立て直し、彼の元から離れた。
「乱暴ですね……貴方は」
「────それはこっちの台詞だ……!」
距離を置いて新一は言い放つ。しかし、その語尾は震えていた。
右手で口元を覆い、込み上げてくる吐き気に耐えながら白馬を睨み付ける。
「────帰れ!!」
とっとと、オレの前から失せろ。
嫌悪感を露わにして叫ぶ新一に、白馬は小さく首を竦めて見せた。
「……諦めませんよ、ボクは」
「帰れと言っている」
顔を紅潮させて睨み付ける様は決して相手を怯ませるものではなく、むしろ煽ると言っても良かった。
しかし、白馬はそれ以上は新一に近付くことはなく、あっさりと踵を返す。
新一はその後ろ姿を睨みながら立ち尽くしていたが、玄関の扉が閉まる音を聞いて、即座に洗面所へと駆け出した。
迫り上がってくる嘔吐感に耐えられなかった身体は、胃の内容物を全て空にした。
水道の水を勢い良く流しながら、吐くものが無くなっても吐き続けた。
どうしようもなく顔を上げた鏡に映る自分が泣いている事に、その時ようやく気付いた。
まるで主の意志を無視して溢れ出る涙は、どうしても止めることが出来なかった。
泣いたのは、……嫌悪感だけじゃなかった。
真っ白な薔薇の花は萎れてしまった。花に罪はないのだけれど、水を与える事が出来なかった。
置き忘れたかのようにリビングのキャビネットの上に放置したまま、それを取り上げることはなかった。
たった1本の深紅の薔薇は大切に飾ったのに、貰う人間が違うとこれほどまでに花の運命は違ってしまう。
新一は、重い身体を引きずって、ベッドの中に潜り込んだ。
何も考えたくない。考えない。
しかし、心の中で何度もそう思い込んでも、忘れることは出来なかった。
頭の中に過った気持ち。それに気付かされた事に、どうしようもないやるせなさが付きまとう。
白馬が工藤邸を辞した後、新一は暫く嫌悪感からか、吐き気が止まらなかった。
全身で相手を拒絶していた。
それは、心が感じる以上に顕著に外に表れた現象だった。
怒りや悲しみを感じる前に溢れた涙は、それがあまりにもショッキングな出来事だったからだろう。
冷静になった今は、それが判る。
白馬は、友人と言ってしまえるほど純粋な関係ではなかった。
知り合った経緯も普通ではなかったし、共通点といえば、互いに「探偵」であると言うことだけ。
嗜好するモノが同じで、同じ作家が好きで彼の作り出したキャラクターに互いが心酔していたりもして、決して不快な相手ではなかった。
キライではない、むしろ好ましかった。
どちらかというと万人向けではない趣味を持つ新一にとって、ある意味白馬は貴重な存在だった。
探偵としては、時に思考の相違もあって、二人で組んで事件を解決する事はほとんどなかったが、それでも新一が彼を認めていたのは事実だ。
親がどうとか、コネがどうとかという問題以前に、新一は彼の存在を快く思っていた。
なのに、どうしてだろう。
何故、彼はあんな態度を取ったのだろう。
相手に好意を示されるのは悪い気分じゃない。
現に彼にあんな事されるまで、新一の機嫌は悪くなかった。芳しくない体調でも相手をしたのは相手が白馬だからだ。
もちろん、彼の運んで来てくれた話題も充分に彼を惹き付けたが。
それほど親しい間柄ではない。しかし、新一も好意を持っていた。
だが、その「好意」の種類が異なるだけで、人の心はこんなにも変化するのだろうか。
今、新一の心にある思いは白馬に対するどうしようもない嫌悪感と拒絶感だけで、それまで培ってきた些細な関係など、糸も簡単に吹き飛んでしまった。
友人、知り合いだと思っていた相手から、恋愛感情をぶつけられて、戸惑わない人間はいない。
そして、大抵は本能的に拒絶してしまう。相手に悪いと感じる以前にそんな態度を取ってしまう。
だから、白馬に対して取った行動に新一は露ほどの後悔もなかった。あるのは、あんな風に変貌してしまった彼に対する悲しみや寂しさだけ。
信じていたモノは、新一だけがそう思い込んでいただけのもので、相手はそうではなかっただけだ。
──────しかし、そう思い至ったら……途端に恐ろしくなった。
新一は、白馬の自分に対する気持ちを知った。
そしてその感情は、自分自身にもあるものだった。
週末に、正体の知れぬ泥棒に嬉々として逢いに行く自分。
体調が優れなくても、相手の迷惑など顧みずにそれでも逢いたいが為に足を運ぶ自分。
それは、決して「友情」という言葉で言い表せるものではなかった。
いや、「友情」ですらない関係に、縋るものと言えば約束すら交わせない、密やかな逢瀬だけだった。
そんな探偵の怪盗に対する想いは一つしかない。
……結局、白馬が新一に抱いた想いと、新一がキッドに抱く想いは同じ。
ならば……。
────キッドはどうなのだろう。
贔屓目に見て、彼は新一に好意を持ってくれていると思っていた。
約束もない逢瀬に付き合ってくれる程度には、新一を認めてくれているだろう。
しかし、好意は愛情ではない。
新一がキッドに対して育てたのは愛情だった。
しかも、この気持ちは、本来ならば異性に働く感情だった。
不思議と生まれた感情に、新一は戸惑いつつも嫌悪感はなかった。
新一にとって……キッドを好きになった事は、決して変でもおかしくもなかったのである。
だけど……当の相手はどうなのだろう。
決してキライではない相手からでも、新一は激しく拒絶した。
おぞましさすら感じた。
もう、二度と顔を合わせたくないと思った。
だから、キッドが……もし、自分の抱いている真の想いを知ったら、どう感じるだろう。
同じ想いで返してくれるなんて都合の良いことは考えないが、それでも拒絶だけはして欲しくなかった。
もう二度と逢わないなんて、思って欲しくなかった。
自分の勝手な想像に、恐怖が這い上がる。
もし、軽蔑の眼差しで見つめられたら……もう、心は生きていけない。
どうしてこんな気持ちになってしまったのだろう。
何もこんな想いを育てなくても良かったのに。
もっと別の……互いを理解り合える関係だって、いくらでも作ることが出来ただろうに……。
どうして……。
そう思うと心が激しく悲鳴を上げた。
彼の事を考えると心が切なくて、だけど暖かな気持ちになれた今までの自分が、少しずつ変わっていく。
辛くて苦しくて……彼に嫌われるかも知れないという恐怖だけが新一の心を包み込んでいく。
嫌われるなんて……。
それだけは……絶対にイヤだった。
想いを告げるつもりはなかった。今までも、これからも。ただ、ほんの一時、側に居られればそれで満足だった。
相手が笑ってくれて、新一も微笑みを返して。
言葉にならない幻のような関係でも構わなかった。
いや、それだけで満足だった。先にも進まず後にも戻らず、ただ「今」に留まるような二人。
不自然な関係だと言うことは判っていた。何時までも続くようなものではないと覚悟もしていた。
だけど、それでも幸せを感じてた。
こんな気持ちになった事………今まで一度だってなかったから。
新一には、相手の気持ちを確かめる事なんて到底出来ない。
相手の気持ちを知る術もない。
だけど、きっと勘の良い彼は、いずれ新一の心の内を知るだろう。
いや、もしかしたら薄々は感じ取っているのかも知れない。
探偵である新一が、何時まで経っても己を捕らえる事のないその行動の裏に潜む、軽蔑に値するほどの歪んだ想いを。
そう思い至ったら、背筋にぞくりとした悪寒が走った。
逢う度に気持ちは膨らんで心は次第に満たされていく、そんな独りよがりなこの気持ち。新一は壊されたくなかった。
夢のような、幻のような二人の時間を、変質させたくはなかった。
だから。
……だから、もう充分だと思おう。
新一は泣きたくなるくらいの悲しみの中で、心に決める。
もう充分だ。自分は今まで幸せだった。
だから、彼に自分の真実の気持ちを知られ、嫌われてしまう前に、……もう止めてしまおう。
心の全てを占めていた、彼との逢瀬に次はない。
今のままなら、綺麗な想い出として抱いていける。
新一はそう決心すると顔を伏せた。
─────泣くのは、もうこれが最後だ。
Open secret/written by emi
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