Love note 1
「今日は楽しかったわ。じゃあ新一、またね」
事務所下。喫茶店の前で、毛利蘭はにこやかにそう言って、ひらひらと手を振ると、その脇の階段を駆け上がっていく。
そんな彼女の後ろ姿を名残惜しそうに見やりながら、彼も軽く手を上げる。
この日、新一は蘭に付き合って、今大ヒット上映中のラブロマンス映画を見に行った。
もちろん、デートである。少なくとも、新一はそう思っていた。
映画を見た後、近くでお茶して、彼女のウインドーショッピングに付き合い、その後食事。
そして、夜も遅くならない内に、彼女を自宅まで送り届ける。
少なくとも、新一は今日をデートだと思っていた。
……しかし、相手にはどうもそういう雰囲気は見られない。
そもそも、新一は彼女に「好きだ」とも「付き合って下さい」とも言った事が無かった。
幼い時から一緒にいた所為で、今も2人で居るのが当たり前のようになっていて……お互い気負うことなく、歯に衣着せぬ物言いで語り合い、そして甘さの欠片もなく日々を送っていた。
それはそれで、新一は幸せだった。
好きな女と一緒に居られるのだ。それだけでも、神に感謝しても罰は当たるまい。
しかし、それだけじゃ物足りない、はっきり言って嫌だ。と、心の何処かで叫んでいるのも事実である。
「そもそも、アイツはオレの事をどー思ってんだ?」
蘭と別れた帰り道、新一はブツブツとぼやきながら家路へと向かう。
「まさか、只の幼なじみとしか思ってねーんじゃ……」
ないよな。 と、考えて、その後彼女の性格を思い起こし、それがあり得ない事ではないと思い至り、憮然とする。
やはり、ここは一度改まって彼女に告白すべきではないだろうか。
……しかし、今更というか何というか……新一はそう考えた所で、ぶわっと頬が紅潮するのを感じた。
「は、恥ずかしすぎて……」
無理。
警察の救世主と謳われ、比類無き頭脳と容姿を誇る工藤新一ですら、事色恋に関しては、大変疎い。
新一は、殊更大きな溜息をついた。
何処かに恋愛指南してくれるような、絶好の人材は居ないものか。
自分の経験では解決しないこの想いを、誰かに頼りたくなった頃、ようやく新一は自宅に帰り着いた。
一人で住むには異様に大きい。いや、家族で住んでいた時も大きすぎて、ほとんどの部屋は使われず、埃が被っていた。
数年前までは一応庭園だった庭も、今では鬱蒼とした茂みに代わり、端から見れば正に廃墟、幽霊屋敷。しかも、とっぷりと暮れ、夜もどんどん遅くなるという時間。……何が出てもおかしくないと思わせる光景が、此処にはある。
新一は自宅前の門に手を掛けながら、その有様に苦笑しつつ、鍵を開けようとした。
その時。
「工藤君」
背後から、聞き覚えのある声で名を呼ばれ、吃驚仰天した新一は思わず振り返った。
「出たっ!と……あれ、白馬?」
そこには、珍しい人が突っ立っていた。
白馬探は、新一の親しい友人の一人である。特に同じ探偵で、趣味も重なっている所から、新一の中では、かなり上位にランクされいる友人である。
しかし、彼は礼節を重んじる人物でもある。約束もないのに、こうして姿を現すような事は、今まで只の一度もなかった筈た。
「すまない、こんな時間に突然」
白馬は、そう言って頭を下げた。そういう生真面目な所が彼らしい。新一は苦笑しつつ、頭を振った。
「んな事、別にそんなに畏まらなくても……」
「連絡しようと自宅に電話したんだけど、留守みたいだし。携帯にも掛けたんだけど、繋がらないし」
思いあまって、自宅まで押し掛けてしまったと、白馬は恐縮しつつそう言った。
新一はそれを聞いて、内心赤面してしまった。
(そういや、携帯の電源切ったままだったな……)
デートの邪魔を誰にもされたくなくて、新一は携帯を切っていた事を思い出した。
「わりぃ。ちょっとヤボ用で……。それより、何かあったのか?」
彼が新一に遊びの誘いに来た訳ではない事はすぐに判った。何かしら大事な用があったのだ。……でなければ、わざわざ彼はこうして押し掛けたりしない。
新一の考えを肯定する様に、白馬は頷いた。
「ええ。実は工藤君にちょっと手伝って欲しい事があって、迎えに来たんだ」
「手伝い?」
怪訝に見つめる新一に、白馬は表情を改めてこう言った。
「是非、怪盗KID捕獲に協力して欲しいんだ」
怪盗KID。
新一が知る範囲では、彼の正体は謎に包まれたままである。
国際手配番号1412号。約20年前から世界中を暗躍し、特にここ数年はこの日本での活動活発な、世紀の大泥棒。
正体は分からぬままだが、どうやら日本人らしい。とは、彼に関わった者が等しく口を揃えている。
かくいう新一も、少なからず因縁のあった人物である。
しかし、最近は特に彼の活躍を追う事はなかった。
それは、きっと隣の人物の所為だろうと、新一はちらりと白馬を見やった。
彼の所有する黒塗りの車に押し込められた新一は、後部座席で彼と一緒に座っている。車外の一切の音を拾うことなく、中は静か。その中で、白馬の堅い声が響いていた。
「先日、彼が東都美術館に予告してきた、『天使の涙』を今晩奪いに来ると言う事で、ボクも警備に参加しているのですが、工藤君にもKID捕獲に、手伝って欲しいんだよ」
KIDが予告した『天使の涙』は、ペアシェイプ・ブリリアンカットが施された大粒のダイヤモンドだ。先日海外から一ヶ月間の期間限定で借り受けた東都美術館が、イベントの目玉として展示されている逸品である。
「お前一人では手に負えないと?」
悪意を見せず、からかうようにそう訊くと、白馬は少しくやしそうな顔をした。
「二課の人達が、もう少しボクの意見に耳を傾けてくれるとやりやすいんだけど、中森警部は頭が堅いから」
そう言う白馬に、新一は二課の警部の顔を思い浮かべた。……確かに、あの男はやりにくそうだ。以前、一課の目暮警部とやり合っている場面に遭遇したが……何というか、融通が利かないと言うか、物事を自分中心に進めたがると言うか。
決して、無能な人間ではないはずなのだが、怪盗KID絡みとなると、理性が緩むらしい。
「捕獲するのなら、彼を餌の所まで引き込まなければならないよな」
「ええ。ですから、網を張り巡らして、奴の退路を絶つように警備を指示したのですが、警察はそのようには動いてくれなくて」
結局、白馬は警察の人間を使わず、自分の部下に要所要所の警備を任せたと言った。
こういう所が新一と違う。彼は、使えるモノは何でも使う。
「ボクが警備を任せた人達は、もちろん優秀だ。けれど、相手と対等に張り合えるだけの能力はない」
「KIDと同等の能力を持ってる人間なんて、早々居ないぜ?」
「ええ、判ってます。だから、工藤君に頼みたいんだよ」
重要ポイントは2ヶ所。そのポイントの一つは白馬自身が赴くとしても、残りの1ヶ所を任せるだけの人材は、流石の白馬でも用意出来なかった。
「随分悩んだんだが、ここは一つ君に手伝ってもらおうと思って」
それが何より確実だ。
白馬の選択に新一は頷く。
そこまで実力を認めてもらい、且つ信用してもらえるのは、嬉しい事だ。
「判った。なら、オレはお前の言う場所で待機しよう。……ここから近いのか?」
白馬は、地図を広げた。
「東都美術館は此処。侵入ルートは2つに絞り込んだ。どちらも可能性がありすぎて、1つには絞れなかった。だから、彼がどの経路で侵入するかによって、退路も変わってくる。……逃走ルートで重要な場所は、此処と……そして此処」
白馬は、美術館を挟んで正反対の位置二ヶ所を指で押さえた。その場所にはマーキングされている。
新一も、瞬時に判断して、そのポイントがKID捕獲に重要な場所である事を見抜いた。
「……確かに、此処を抑えれば、あの男の首根っこ抑え付けた事になるな」
新一の言葉に、白馬はこの日初めて満足そうな笑みを見せた。
「取り敢えず、可能性が少しでも高い方へはお前が待機しろよ。……オレが無駄骨折ってやるからさ」
もちろん、白馬もそのつもりだったのだろう。頷くと、2ヶ所の内の一つを指し示した。
一通り説明が済むと、車内は一気に静寂に包まれた。
心なしか緊張しているのか。もしかしたら興奮かも知れない、そんな白馬の横顔を新一は見やり、小さく首を竦めた。
「何か?」
気配に気付いたのか、白馬は怪訝に眉を寄せて訊いてくる。段取りに不満があるのか、と言外に匂わせる彼に新一は苦笑した。
「別に……何でもねぇよ」
白馬探は、新一と同じ探偵ではあるが、タイプは全く違っていた。恐らく、彼の方が大人なのだろう。良い意味でも、悪い意味でも。
対して新一は子供だ、ガキだ。まるでゲームを楽しむような不謹慎さが、新一の周りを取り巻いている。
白馬ならば、一つの事件を最初から最後まで追い続けるだろう。きっと、犯罪者がどのような刑に確定されるのか。その後の服役や出所まで全て関わった人に対し、最後まで見守り続けるような誠実さがある。
新一は精々犯人を捜し出し、逮捕される所で終わってしまう。その後の取り調べ等には興味ない。……そもそも犯人そのものにも興味がないのかも知れない。
あるのは、その人物が作り出した謎やトリックだけで、それだけが新一の血を熱くするのだ。
子供だ……新一は改めてそう思った。
事件に対する姿勢だけではない。その生活全てにおいて、自分は子供だと思う。
勉強が出来るとか、頭の回転が速いとか……そんな事では大人にはなれない。
ふと、新一は白馬の私生活を考えた。
彼は、普段どんな生活を送っているのだろう。
新一は彼の友人ではあるが、彼自身の私生活については、何も知らない。相手だってそうだろう。
普段新一がどんな風に日々を送っているかなんて、知りはしない。
「なぁ、白馬」
「何だい?」
「お前って……好きな女とか、居る?」
相手にとっては唐突だったのだろう。その言葉に白馬は目を丸くし、次いでマジマジと新一を見つめた。
「……いきなりだね」
てっきり、警備に対して何か意見があるのかと思っていた所為か、妙に拍子抜けする白馬だが、新一は真剣な顔つきで彼を見つめていた。
「好きな奴……付き合っている子っているのか?白馬って彼女持ち?」
「倫敦にいた頃は、お付き合いしていた女性はいたよ。でも、日本に戻ってきてからは一人かな」
「女と付き合った事、あるんだ」
「君だって、女の子の一人や二人、付き合った事くらいあるだろう?」
子供じゃないんだから。と、呆れる白馬に、しかし新一は途端に瞳を揺るがせた。
「工藤君……?」
「その、倫敦で付き合っていた人とは、どんな風に付き合い始めたんだ?」
「……それは、ボクに馴れ初めを語れとでも?」
真剣に頷く新一に、白馬は溜息をついた。
白馬にとって、新一はかなり親しい部類の友人ではあったが、彼が今まで他人の恋愛談を聞きたがるような事は一度もなかった。しかも、よりによって、こんな夜に、だ。
「馴れ初めも何も、たまたまパーティで一緒になって、お互い興味を持ったから付き合い始めただけで、これと言ったドラマはないよ」
何を期待しているのか判らないが、取り敢えずあっさり言い放つ。
「付き合おうって、言ったりしたか?」
「さぁ……どうだったかな」
「じゃあ、どうして付き合った事になったんだ?」
「パーティの席で意気投合して、二人で会場を抜け出して飲みに行ったんだ。その後ホテルに行って……まあ、よくある成り行きだよ」
「ホテルに行くのが……よくある成り行き……」
信じられない。と言う顔をする新一に白馬の方が信じられないと言うように頭を振った。
「子供じゃあるまいし……」
「じゃあ、お前はその子とホテルに行ったから、付き合い始めたのか?」
「……工藤君」
「その、そういう所に行かないと、付き合ってるって事にはならないのか?」
「……別に、相手が同意していれば、何処でだって構わないでしょう?」
ホテルに行こうが、自宅に連れ込もうが勝手だ。しかし、新一は両方の瞳を大きく見開いて、縋るように白馬に言った。
「じゃあ、オレは蘭とはまだ付き合っていないと言う事になるのか!?」
「……はい?」
今までになく真剣な目つきで詰め寄る新一に、白馬は訳も分からず目を瞬かせた
「……はぁ、そういう事ですか」
新一が何を白馬に問いたいのか。彼が改めて説明すると、白馬はようやく事のあらましを理解する事が出来た。
「なぁ。……オレと蘭って、付き合ってる事にならないのか?」
一緒に遊びに行ったり、食事したり、それは端から見ればデートのように見えるだろう。しかし、実態がないとなると、また違ってくる。
「まぁ、所謂男女の関係ではなくても、付き合っていると本人達が思っていればあり得ない事ではないだろうけど」
天然記念物モノだが。と、白馬は心の内で付け加えた。
しかし、そんな白馬の心の内など露知らぬ新一は、彼の言葉にパッと晴れやかな笑みを見せた。
「じゃあ!」
「でも、工藤君は兎も角、相手の気持ちが分からない事には……」
その言葉に、新一の表情も一気に沈む。
「……そっか」
そんな新一の表情に、白馬はすっと背筋を伸ばし、きっぱりこう言い放った。
「こういう場合は、きちんと想いを相手に告げるべきだね」
「え!? そ、それって……」
「告白すれば良いんだよ。何も知らぬ仲じゃあるまいし、きっちり『好きです』と言ってしまえば、毛利さんだって、工藤君の気持ちを間違って受け止める事はないはず」
普通、異性から好意を与えられ続けていれば、どんな鈍い人間でも判らない訳がない。……しかし、もしもという事もある。現に新一は今までキスはおろか、手一つ握る事無く、彼女と付き合って来たのだ。
白馬にしてみれば、そういう関係は特に付き合ってるとは言わないと思うのだが、彼にそれを告げるのはあまりにも酷。
何より、今腑抜けにさせてしまっては、この後のKID捕獲に支障を来す。
「いいかい。明日にでも、彼女に好きと言ってみればいい。そして、改めて付き合って欲しいとお願いすれば、次のデートからは、きっとホテルに行けますよ」
大丈夫。絶対上手くいくから。
白馬に太鼓判押され、新一は少し嬉しそうな顔を見せたが、しかし、すぐに困った顔になった。……それから、ふわっと目元を朱に染め上げる。
「だ、駄目だ。そんな事……とてもじゃないけど、面と向かって言えねぇ」
恥ずかしすぎる。
そう言って頭を振る新一に、白馬殊更大仰に首を竦めた。
「面と向かって言えないのなら、メールで告白でもすれば」
「メール?」
「いや。メールだと、軽く扱われがちかな。……なら、手紙にしたためるというのはどうだろう」
「て、手紙……」
その手法が、いかに古典的であるか。しかし、白馬は大真面目だし、もちろん、新一はそんな事に気付きもしない。
「手紙なら、直接相手の顔を見ずに告白出来るし、うっかり告白し損ねる事も無いだろうしね。君みたいなタイプなら、きっと手紙の方が上手くいくよ」
「そうかな」
「大丈夫。想いを伝えるのは、躊躇うことじゃないんだよ」
力強く頷く白馬に、新一はようやく光を見た気がした。
「判った、やってみる」
そうか、手紙か。手紙で「好きだ」「付き合ってくれ」と書けば良いんだな。そうすれば、万事上手くいく。
「やっぱ、流石白馬だな。ホント、持つべきモノは友達だな!」
新一は晴れやかに微笑って、友人の有り難みをひしひしと感じたのであった。
今夜は満月の夜だった。
怪盗KIDは、満月の夜を好んで犯行を働いている。とは、白馬の言。
その日でしか奪えないというような標的以外は、必ずと言って良い程、満月を指定してくる。
今回の宝石の展示期間は1ヶ月。だから、彼が現れるのは満月の夜に違いないと、白馬はアタリを付けていたらしい。
新一はそんな事、考えた事もなかった。
既に無人と化したビルの前で、新一は苦笑する。
管理会社にわざわざ開けてもらった7階建てのオフィスビル。あいにく夜間はエレベーターは動いていない。新一は自分の足で、屋上に向かわなければならなかった。
「ま、丁度良い運動にはなるな」
食後の腹ごなしにもなるし。と呟いて、階段を駆け上がる。
腕時計の時間を確認すると、既にKIDが犯行を予告した時間に差し掛かっていた。
本来なら、もっとゆとりをもって望みたい所だったが、あいにく新一は蘭とデート中だった所為で、合流が遅れた。つまり、白馬はギリギリまで新一を待っていた事になる。
新一はそんな彼に報いるためにも、急いで階段を駆け上がった。
急いでいても、心の内は穏やかだ。どうせ、こちらにヤツが現れる確率は低いだろう。白馬はKIDに対する読みを外した事がない。五分五分とは言っていたが、どうせこっちは保険。
もちろん新一も頼まれたからには、きっちり果たすつもりではいる。それは当然だ。しかし、勢い良く階段を駆け上がりながら、新一の脳裏に浮かぶのは彼の大切な幼なじみの顔。
(そっか……手紙かぁ。でも、家に便箋や封筒なんてあったっけ?)
今時、手紙でやりとりする事など無きに等しいご時世である。余程改まった場合や、趣味で送り合う文通以外で、個人が手紙をしたためるなんて事はあまりない。
(なるほど。しかし確かに、告白って、改まった事だもんな)
だから手紙なのか。だけど、あの便箋の一面いっぱいに想いを綴らなければならないのだろうか。ただ「好きです、付き合って下さい」と書くだけでは、とても埋まらない。
そんな事をつらつらと考えながら、身体は全力で階段を昇っている。
思考と身体が分離するのは、新一のクセだ。何時も事件の事を考えながら、ご飯食べたり、歯を磨いたり、風呂に入ったりする。ふと気付いた時には、ベッドの中で、一体自分は何時寝たのか判らなくなるのもしばしばだったが、今までそれで特にトラブルは起きなかったので、これはこれで構わないと思っていた。
が。
しかし、今回は少し違っていた。
踊り場でくるり向きを変えて再び駆け上がろうとステップに足を掛けた瞬間、何かがつま先を捉えた。コンクリートで囲まれた薄暗い階段に甲高い金属音が響き、新一は足を滑らせたのだ。
「──うわっ!」
それは、誰かが捨て忘れた空き缶だった。立てて置かれていたそれを新一は思わず蹴飛ばしてしまったのだ。
蹴飛ばしてしまっただけなら、問題はない。しかし、それだけでは済まなかった。
新一は勢いのついたままそれを蹴飛ばし、そのまま勢いで階段を駆け上がった。だが、空き缶はそのまま前方に向かって飛んでいき、そして階段上部のステップに当たって跳ね返ってきた。新一はそのまま空き缶を額で受け止め、その衝撃で折角昇っていた場所から再び踊り場へと戻っていった。
つまり、落ちた訳である。ひっくり返り背中を打ち付けながら、ずるずると落ちていったのだ。
端から見ていれば、さぞ滑稽な光景だっただろう。しかし、無人のビルの中、新一は誰にも見られることもなく、気付かれることもなく、意識を失った。
それから、どれだけの時間が過ぎたのか。
「……っ、痛ってー」
踊り場でひっくり返っていた新一が目を覚ましたのは、ずきずき疼く背中の痛みからだった。
半身を起こし、軽く頭を振る。すると鈍い痛みを感じた。そっと手を伸ばしてみると、後頭部に打ち付けた痕を発見した。
「たんこぶ出来た……」
そろそろと立ち上がりながら悪態を吐く。
一体、誰がこんな所に空き缶なんかを置いたのだ。……さては、新一を陥れる為に仕組んだ、怪盗KIDの巧妙な罠か?
「そうだ、KID!」
新一は思わず腕時計を見た。
かなりの時間、気を失っていた気がする。慌てて覗き込んだ新一だったが、……幸いにも時間はそれ程経っていなかった。
「……あれ?」
それ程所か、ほとんど進んでいなかった。気を失う前に確認した時間より5分と進んでいない。
意識を失ったのは、ほんの一瞬だったという事か。
「それなら、まだ間に合う」
新一は呟くと、再び階段を昇り始めた。
軋んだ音を立てて、扉は開かれた。
その瞬間、強い風が吹き付け、新一は思わず左腕をかざして風を遮った。最近無精していた所為で些か長くなっていた前髪が煩わしいほど揺れ乱れた。
新一は目を細めて、扉の外に視界を移した。真夜中を過ぎようとする時間、天空には煌々と輝く月が何物にも遮られることなく瞬いている。
……そして、その下。
屋上の端。防護柵を背にして、誰かが居る。
強風に煽られ、真っ白なマントが空にはためいている。まるでそこから夜を切り取ったように、白の存在を強く醸し出して、彼が居る。
「……KID」
ヤツだ、怪盗KID。……まさか、こちらにヤツが来るとは思わなかった。
(……白馬のヤツ、読みを外したな)
内心、そんな事を思いながらも、表情は鋭く相手を睨み付けながら、新一はゆっくりと近付いた。
今、此処に彼が居るという事は、彼は獲物を盗み果せた事を意味している。そして、もう一方で張っていた白馬も、彼がこちらに向かった事に気付いているはずだ。
時間稼ぎをしたほうが得策だと新一は判断した。
これが新一個人で張っていただけなら、掴みかかっても構わないのだが、主導権は此処に居ない白馬にある。それに、この奇妙に頭の切れて狡賢い男を相手にして、逃げられたのでは、彼に対して顔が立たないし、立つ瀬もない。
新一は殊更ゆっくりと歩みを進めながら、その口元を僅かに吊り上げて笑みを見せた。
「……よう、久しぶりだな。今夜もまんまと宝石を盗み出したようだが、ラッキーもここまでだ」
相手はその場に佇んだまま微動だにしない。逆光でその表情も伺い知れず、内心新一は不安になる。
……どこか、余裕を感じさせるのだ。堂々と佇んでいる様は、まるで新一の存在など取るに足らないと宣言しているようで、新一の追跡など難なく交わす自信を見せつけられているようで……それが癪に障り、焦りを誘う。
気を抜くと、相手に飲まれそうになる。新一はそんな自分に苛立って、奥歯を強く噛み締めた。
「いつものようには行かないぜ。今夜は、お前の年貢の納め時、とっとと……」
縛につきやがれ。 と、些かに時代的な台詞を続けようとした時だった。
ふいに相手がゆっくりと顔を上げた。シルクハットで影になっていた相手の顔が、その表情が見て取れた。
……新一は、思わず息をのんだ。
彼は、笑っていた。
それは、新一が良く知る、虚無的な笑みではなく、ましてや相手に対する不遜なものでもなく……まるで、花が綻ぶかのようなふわりとした微笑。
その微笑みに、新一は一瞬、毒気を抜かれたかのような顔になった。
一体、何だというのだ。……新一を攪乱する為の、新手の作戦か!?
あまりの事に、思わず後ずさりしそうになった新一だが、しかし寸での所で止まった。
こ、こんな所で、動揺など、新一の矜持が許さない。
新一は内心の焦りを必死に押し込めて、KIDを睨み付けようとした。
が、それより先に相手が行動に出た。
それまで微動だにしなかったKIDが、突然こちらに向かって歩き出したのだ。
逃げるのではなく、近付いてくる。新一は一瞬戸惑ったが、しかしすぐに思い直した。
これは好機だ。絶好のチャンス。
近付いてる相手を、新一は捕まえてしまえば良いのだ。あちらからやって来るのだ、こちらは易々と捕縛出来る。そして捕まえたら最後、絶対に離さない。そのままスッポンのように引っ付いて、白馬がやって来るのを待てば良いのだ。
そして、引き渡す。
相変わらずKIDの足の歩みは乱れなる事なく、こちらに近付いてくる。
新一はほくそ笑みながら、待った。一歩一歩近付いてくる相手を待つ。
そして、あと一歩で手が届くと言った所で、新一はKIDを見据えると、腕を掴もうと両手を伸ばした。
掴んだ! と思った。
掴んでおかしくない筈だった。此処まで来て、ヤツに触れられない筈はない。
しかし、新一の予想に反して、現実には彼の腕を掴む事は叶わなかった。
もう少し、と言う所で。……何故か新一の身体はグラリと傾き、そして両腕は空を切り、儚く空気を掴む事しか出来なかったのだ。
「!?」
何が起きたのか、新一は判らなかった。判るはずも無かった。
今自分が置かれている状況を正確に読みとる事など出来よう筈がない。
──だって、そんな事あり得ない。
新一は混乱の中、そう思った。
傾いた新一の身体を支えるKIDの身体。
……そう。
彼は、彼に身体毎抱き込まれていたのである。
「……新一、逢いたかった」
間近で声が聞こえた。新一の耳にその声は聞こえだが、内容までは聞き取れなかった。
いや、言葉は聞こえたのだが、その発言の意味する所……つまり、理解が出来なかったのである。
だって……新一の聴覚が異常を来していなかったのなら、彼は新一に対して『逢いたかった』と言ったのだ。
逢いたかったなんて、どうしてそんな事言われなければならないのだろう。
しかも、その響きというのが……何というか、アレである。
まるで、ようやく好きな相手に巡り逢えた喜びのようなそんな感じで、情感たっぷりに言い放たれたのである。
(オ、オレは会いたかったけど、会いたくなかったぞ!?)
新一は彼の胸の中で、顔を赤くしたり青くしたりしながら、パニックになっていた。
何というか……ここから抜け出したいのに、抜け出せない。
そんな新一の心情などお構いなしに、KIDは更に強く締め付けてくる。正確には、彼は抱きしめているのだが、新一には拘束されているとしか思えなかった。
「今晩は、きっと無理だろうとは思っていたのですが、どうしても可能性を捨てきれなくて……」
待っていた甲斐がありました。と、彼は言った。
(待ってた!?オレを?何でっ!)
益々パニックである。
いくら何でも、この状況で、新一に捕まえられているとは言いにくい。どちらかと言えば、新一の方が彼に捕まっているのだ。
「1日でも逢えないと……こんなにも辛い。私は、もう貴方なしでは生きては行けないのかも知れません……」
KIDの言葉に新一の思考は停止寸前だった。
何言ってる?「1日でも逢えないと」だって?
新一は、この2年近く、彼に遭遇した事すら無かった筈なのだが。
何かおかしい。
新一はそう思った。
ヤツがおかしい、
新一は直ぐさまそう思い至った。
新一は、正常だ。それは間違いない。
そして、相手は……どうも言動がおかしい。おかしすぎる。
これは、はっきりと彼に伝えてやらねば。
「オ、オメー……一体、何言ってやがる。おまえ、頭少しおかし……」
言葉は最後まで言えなかった。
顔を上げて彼に文句を言おうとしたその時、……まるで計ったようにそれは起きた。
声が出ないのだ。何故?……それは、口を塞がれているから。
塞いでいるのは、彼の指でも掌でも腕でもなく──それはどう見ても、彼の口唇。
これ以上もない程の間近にKIDの顔が見えるのだから、それは間違いない。
新一は目を大きく見開いたまま、一瞬意識を失った。
が。
しかし、口唇の濡れた感触が気持ち悪くて、新一の意識はすぐに戻ってしまった。あまりのおぞましさに身体が言う事を聞いてくれない。それでも必死に彼から離れようと、背中を叩いた。
必死になって叩いているのだが、そう思っているのは彼だけで、実際は縋るようにKIDの背中に腕を回しているようにしか見えない。
別に周りにギャラリーがいる訳でもないのだから、それは構わなかった。しかし、相手に抵抗している事を理解されないのでは、困る。
どう見ても、KIDは新一が必死になって抵抗している事に気付いていないようなのだ。触れている口唇が益々深くなっていくような気がする。
……塞がれている口唇が、滑ってくる。次いで新一は何か別の感触を感じた。
何かが、新一の口唇を割って入り込もうとしてくる。
「……!?」
声は上げられなかった。……何故なら、口を開けたら何かが入ってきそうなのだ。いや、それは既に口唇を舐め回し潜り込み、歯列をなぞっている。
新一は、そこでようやくそれが何か気付いた。
舌だ。
……何故だか知らないが、新一の中に相手の舌が入り込んでいる。
新一はさっきから何度も意識を失っては覚醒しての繰り返していたのだが、今度も暫くの間、遠くに気が行ってしまった。
……それでも、これ以上口腔への侵入を阻止すべく、がっちり歯は閉じていた。
その間もKIDは優しく、しかし執拗に舌で愛撫を続けている。
だが、暫くすると彼も焦れてきたのか、口唇は触れ合わせたまま、吐息まじりの声で囁いた。
「どうした、新一?……ちゃんと口を開けて」
味わせて……。新一の頤に手を添え、腰に腕を回し引き寄せたまま、KIDはとんでもない事を曰った。
どうして、お前にそんな事させなきゃなんねーんだ!
と、新一は叫びたかったが、うっかり口を開けると危ないので、口には出せなかった。そんな危惧がなくても、今の新一には声は出せなかったかも知れない。
頭の中は、彼に遭遇してからずっとパニック状態だったし、口唇を塞がれていて、上手く呼吸も出来ないし、怒りや恥ずかしさや屈辱感のあまり、顔は紅潮しっぱなしだし……まるで普通じゃなかった。
しかしKIDには、頬を桜色に染めて見つめているようにしか見えない新一に、少し微苦笑を浮かべた。
「何か……今日の新一は素直じゃない。……いつもはもっと積極的なのに」
いつもは?
もっと?
積極的なのに!?
苦笑しながら口唇をついばんでくるKIDの行動とは余所に、新一は意識だけでも(今度は永遠に)遠く夜空の彼方へ逃げ出そうとした。
もう、こんな茶番に付き合っていられない。
夢だ。そう、これは悪夢だ。
だから、次に気付いたら新一は自宅のベッドの上に居るのだ。その筈だ。──そうでなければならない!
……だが、そう思い込もうとすればするほど、益々意識がハッキリとして、五感が鋭く反応する。結局、相変わらずKIDに身体を拘束されたまま翻弄され続けた。
(だっ、誰か……助けてくれっ!!)
新一は、そう心の中で叫んだ。こういった場合は、第三者に助けを求めても許される事だ。だって、新一独りではこの恐ろしい悪夢から逃げ出す事が出来ない。
そして、神は新一を見捨る事は無かった……ようだ。
背後で、突然強い勢いで屋上の扉を開け放つ音がしたのだ。
「……KID!」
その声は白馬だ。後ろを振り返ることが出来なかったが、その声に新一は心底安堵した。
助かった……!
正に、その言葉に尽きる。
思わぬ闖入者に邪魔されたKIDの方は、ようやく新一の口唇を解放し、前方を見据えていた。
「無粋ですね」
……相変わらず、身体は拘束されたままである。
「英国紳士を気取るのであれば、もう少し気を利かせては如何です?白馬探偵」
この体勢などまるで気に掛ける事もなく、平然と文句を言うKIDに、新一は、やっぱりコイツの頭はおかしいと確信した。
「……白馬っ!」
新一は首を回し、ようやく自由となった口を開いて彼を呼んだ。
「工藤君……君ねぇ」
眉をひそめる彼に、新一は懇願する。
「おまっ、そんな所で落ち着いていないで、コイツを何とかしてくれっ!」
離れようと躍起になっているのだが、何故かKIDは片腕で、新一を拘束したまま身動きを取らせないのだ。
新一と似たような体躯をしているように見えながら、彼はかなり鍛えている。……と思ったが、今の状況ではそんな事、どうでも良い事だ。
「そんなことより……」
白馬はあっさりと新一を無視して、KIDに向かって手を伸ばす。
「返して頂きましょうか」
穏やかに微笑みを浮かべながら、そう言う彼に、KIDも口元に微笑を浮かべる。
「ええ、構いませんとも」
KIDは、胸ポケットから素早く宝石を取り出すと、それを白馬に向かって放り上げた。
「でも、この人は渡せませんから」
白馬が石をキャッチするのと、KIDがそう宣言するのと同時だった。
「なっ……お前、何言って!」
驚く新一に、相手は平然と応えた。
「このまま一緒に帰りましょう、新一」
にっこり微笑んで、新一の額に口づける。
新一は、今彼が一体何を言ったのか、とっさに理解出来なかった。
帰る?一緒に?……何処へ!?
「確かに、返して頂きました」
新一の混乱を余所に、石の確認を終えた白馬はそう宣言すると、それを慎重にハンカチにくるんでポケットにしまい込む。
この異常なまでの状況下で、何故か平然としている白馬に疑問を抱きつつも、新一は唯一の味方に助けを求めた。
「白馬!何でも良いからオレを助けろよっ!」
「工藤君……君は一体何を言ってるんだい」
助けられる訳無いでしょう?
さらりと残酷な言葉を乗せて、風は新一の元へと届く。
「見逃してあげますから、さっさと消えて下さい」
「は、白馬!?」
お前。オレを見捨てるのか!?
「出来れば公私混同は控えた方が、お互いの為だと忠告しておきます」
新一の必死の叫びなどまるで聞いていない白馬はKIDに向かってそう告げる。
「善処しよう」
対する彼もそう応じると、新一を抱いたまま屋上の隅に移動した。
ずるずると引きずられていくのを新一は止められず、新一は喚いた。
「白馬、白馬!オレを見殺しにすんのかよっ!」
「……大袈裟な。ボクは、君たちの間を邪魔するつもりは毛頭もないよ」
ひらひらと手を振る彼に、新一はほとんど泣いているような声で叫んだ。
今まで。ほんのついさっきまで、コイツは頼れる良いヤツだって思っていたのに……!
「……もう、お前なんか、友達なんかじゃねぇっ!!」
恨むからな!死んでも恨んでやるからなっ!!
絶叫を上げながらも、二人は夜空へと舞い上がる。真っ白なハンググライダーが夜目に鮮やかだった。
「友達だから、見て見ぬ振りをしてあげたんじゃないか……」
誰も居なくなった屋上で、呆れたように呟く白馬の声は、もちろん新一には届くはずもなかった。
空を飛んでいる時は、パニックだった。
思い返せば、最初からパニック状態が続いているのだが、これは、真の意味での身の危険を感じずにいられない。
怪盗KIDに支えられるだけで、一度も経験のないハンググライダーで空を飛んでいるのだ。
しかも真夜中である。月が煌々と地上を照らしていても限界はある。
新一は、何時落とされるか判らない恐怖の中、一体何処に連れて行かれるのだろうと思った。
流石に上空から見る景色からどの方面に向かっているのかは判らない。
真夜中過ぎの地上は、人工の明かりもまばらで良く判らない。
何処でも良いから、早く降ろしてくれ!
新一の恐怖と焦りを余所に、KIDは彼を抱えたまま、かなりのスピードで滑空する。
「大丈夫、そんなに堅くならなくても落としたりしませんよ」
轟音などものともせずに言い放つ。新一の方は風の強さと寒さで、口はおろか目を開け続けているのもままならないというのに。耳が千切れそうな程、痛い。
それからどれほどの時間を飛んでいたのか。
新一には長い長い時間だったが、実際はそれほど進んではいない。空を飛んでいる分、最も短い距離で目的地に到着する。
新一の両足が土の上に降りる。勢いを殺して着地したにも関わらず、不慣れな新一がその場に崩れ落ちようとするのを、KIDは軽々と抱き支えた。
「着きましたよ」
ハンググライダーを瞬時にしまい込み、身軽になったKIDは、新一を抱いたまま囁くように言う。
既に抵抗を諦めた新一がその声にそろそろと目を開けると、……幸か不幸か、そこは自分の家の庭だった。
「……家だ」
何処に連れて行かれるのか、かなり怖かったのだが、その現実に新一は正直ほっとした。
「身体がかなり冷えましたね。……さぁ、家に入りましょうか」
KIDはそう言うと、新一を抱きかかえたまま玄関に向かう。
「おまっ……、ちょっといい加減に離せ。自分で家にくらい入れる。それよりお前、何時までもこんな所に居ないで、とっとと消えやがれっ」
もう今夜は、彼を捕まえて警察に引き渡すなんて事は、到底無理だ。何より、新一の精神状態がよろしくない。
白馬の言い草ではないが、「今夜は見逃してやる」つもりだった。
しかし、当の本人は新一の言葉などまるで意に介していないようで、相変わらず新一を離さないまま、玄関の前に立っている。
「……だから、お前帰れよ」
疲れた声でそう言った時だ。
KIDは新一の目の前で、ジャケットのポケットから徐にあるものを取り出した。
新一は何気なくそれを目にして……思わず目を見開いた。
「なっ……!?」
KIDは構うことなく、『それ』を玄関のノブ下の鍵口に差し込んだ。
「何で、てめー、オレん家の鍵なんて持ってんだよっ!!」
カチャリ、と鈍い音がして、それはゆっくりと開かれる。
「自分の家の鍵を持つのは、当然の事でしょう?」
KIDは事も無げにそう言い放つと、パニックになっている新一を家の中に引き入れた。
「自分ん家の鍵だって!?……何で、此処がお前の家なんだよ。ここはオレの家だっ!」
靴を脱いで、ご丁寧にスリッパに履き替えて、すたすたと先に歩いていくKIDに怒鳴りながら、新一も慌てて靴を脱いで追いかけた。
KIDは迷うことなく真っ直ぐにリビングにやって来ると、エアコンのスイッチを入れ、シルクハットとマントを外して、ソファの背に掛ける。
「確かにここは貴方の家ですが、私も一緒に住んでいるのですから、此処は私の家でもあるでしょう?」
何を今更な事を言っているのか。とでも言いたそうにKIDは眉をひそめる。
KIDに追いついた新一は、その言葉に目を丸くして驚いた。
何かもう、KIDに会ってからずっと驚きっぱなしなのだが、今の台詞はその中でも1.2を争う驚愕発言だ。
何で!?オレが、犯罪者と同居していなければならないんだ!!
もちろん、新一には、この男と一緒に住んでいるという覚えも事実も無かった。
新一は5年以上も前から一人暮らしをしている。両親は健在だが、二人とも海外在住で、もう日本には戻らないつもりらしい。
だから、今現在、新一は一人暮らしなのだ。
……欲を言えば、近い将来一緒に住みたいと思っている人は存在する。
しかし、それは断じて、この目の前の男などではない。
目を白黒させている新一などお構いなしに、KIDは軽くネクタイを緩めた。それからシルクの手袋を脱ぎ去り、片目に掛けていたモノクルを外すとそれをコンソールの上にそっと置いた。
そして、新一に向かってにっこりと微笑み掛ける。
「コーヒーをいれてくるから、少し待ってて」
それだけ言うと、彼はリビングを後してキッチンへと向かう。
新一は、また驚いていた。
「あれって……ヤツの素顔?」
シルクハットはおろか、モノクルさえも外して、探偵である自分に微笑み掛けるその神経。
「素顔見られても、絶対に捕まりはしないという自信か?」
……だとしたら屈辱だ。
怒りや羞恥や混乱で小刻みに震えていると、KIDが戻ってきた。その両手にはマグカップがそれぞれ一つずつ持たれている。
「新一、寒いの?」
はい、これ。暖まるよ。 KIDはそう言いながら、新一にカップを持たせた。
なみなみと注がれたコーヒーのカップは新一のお気に入りで、何時も使っているものだ。
どうして、ヤツがこの事を知っているのだろう。それとも偶然か?
新一は戸惑いながらもそれを受け取り、胡散臭そうに中身を覗き込む。
何か毒物でも入っているかも知れない。犯罪者にいれてもらったコーヒーなど、更々飲む気になれなかった。
KIDは、そんな新一の心情など知らず、一人ソファに腰掛けると、美味しそうにそれを飲んだ。
「……どうしたんだ?飲まないのか?」
彼は一気に飲み干したのか、カップをテーブルの上に置くと、マグカップを持ったまま立ち尽くす新一を怪訝に思って声を掛けた。
「何で……お前、居るんだ」
何時まで居るんだ。居なくならないのか。
……住んでるって……一緒に住んでるなんて、そんな嘘ついて、ヤツは何処まで新一を翻弄し続けるつもりだろう。
「何だか、今夜の新一はおかしいな」
彼は立ち上がると、新一に近付いた。
「おかしいのは、お前の方だ、KID!」
「快斗」
怒りに目元を染める新一に、一言彼は言った。
「え……?」
「仕事が終わって……モノクルを外したら『快斗』だって、何時も言っているだろう?新一」
新一の口元にそっと指を立てて、悪戯を咎めるような眼で微笑む。
「快斗……って、……何?」
「何って、オレの名前だろう?……まさか、恋人の名前を忘れた訳じゃないよな?」
と、少し不機嫌な声になる。
「こ、恋人……!?」
こ、恋人って何だ!?
恋人って、何なんだ。何で恋人なんだ。誰が誰の恋人だって言うんだ!!
今夜最大の衝撃発言に、新一はマグカップを掴む指が弱まった。グラリと落としそうになるそれを、快斗は難なく取り上げると、混乱を来している新一をソファに座らせる。新一は素直にそれに従った。……というより、抵抗する余力すらない。
「ほら、新一。コーヒー飲んで、落ち着いて」
冷めかけたカップに手を添えて、快斗が飲ませる。新一は抗うこともなくそれを飲んだ。
毒物は入ってなかった。口の中にほろ苦さが広がる。新一の好きなブラック。
「少しは落ち着いた?」
ぐったりと項垂れたまま、新一は小さく頷いた。
「一体、どうしたんだ、新一。……今日の新一は、本当に何処かおかしい。具合でも悪いのか?」
優しく気遣われて、新一はそろそろと顔を上げた。
素顔のKIDを見るのは初めてだ。……その姿は、自分とさほど年は変わらないように見える。新一や白馬と同年代くらいか、それより少し上。
「それ……お前の素顔か?」
「……何を今更」
まるで、初めて見たような言い草だな。と、少し眉を寄せる。
「初めてだよ。……お前の素顔を見るのも、……本名を知ったのも、今が初めてだ」
新一は弱々しく呟く。……もう、何が何だか理解不能だった。
蘭とデートして、白馬に請われて現場まで行ったまでは良かった。普通だった。
……なのに、屋上でコイツと会ってから……新一は狂いっぱなしだ。唯一の味方である白馬ですら、何処かおかしかった。
訳も分からずKIDに拘束され、連れてこられた先は自分の家で。なのに、その家にヤツも一緒に住んでいると言って、挙げ句の果ては恋人扱いだ。
もう、どこをどう対処して良いのかも判らない。
「新一、何言ってるんだ……オレ達、一緒に住んでもう一年になるっていうのに」
「いち……ねん」
一年も、一緒に?住んでる?
「そんなの、嘘だ」
そんなの知らない。事実じゃない。
「どうして、嘘を言わなければならない。新一の方こそおかしい。……どうして、今になってそんな事」
「オレはおかしくない」
「おかしくないなら、オレの顔を初めて見たとか、本名知ったのは初めてだ、なんて事は言わない」
「……だけど」
それが事実なんだ。
本当にそれが事実なんだ。
新一は、それまでKIDとほとんど関わっていなかった。もう2年近く、彼の現場に駆り出される事はなかった。
接触していた時期も、もちろんあった。けど、それは、白馬が日本に居なかった所為で、……彼が帰国してからは、新一がKIDに関わるような事件は何一つなかったのだ。
「オレは、今日久しぶりに現場に行った。お前に会うのは、かれこれ2年振り。……少なくとも、オレにとってはそうなんだ」
だから、KIDは知っていても、『快斗』なんて知らない。ましてや、一緒に住んでいるとか恋人とか……そんな事、ある訳ないのだ。
快斗は、新一が、ぽつりぽつりと吐き出す言葉に耳を傾けていた。最初は不機嫌に眉を顰めていた彼だったが、次第に考え込むように、こめかみを指で押さえた。
「新一……もしかして、お前……記憶を失ったんじゃないか?」
「え……?」
快斗の思いがけない言葉に、新一は顔を上げた。
記憶を失った?……それって、つまり。
「記憶喪失?」
新一の言葉に快斗は頷く。
新一は、そんな馬鹿な、と思った。……けど、もし万が一、記憶を失っていたのなら……KIDも白馬も不自然に映っていた新一の方に問題があった事になる。
だけど……と、新一は更に考える。
例え、もし万が一、新一が記憶喪失だとしても、これは受け入れられる状況ではない。
だって、KIDは新一の恋人だと言った。一緒に住んでいる恋人だと。
そこで、はたと、ある重要な事に気が付いた。
「……怪盗KIDって」
今までの数少ない邂逅を果たしてはいた新一であったが、まさか……。
「実はお前……女なのか?」
「……は?」
真剣な新一の質問に、彼は呆けた声を上げた。それに比例して呆けた顔も晒している。
「だって、恋人同士……なんだろう?なら、本当は女、とか」
コイツは、変装の名人だ。男も女も思うがまま。恋人と言うからには、どちらかが女でなければならない。
しかし、新一の予想に反して、KIDは些か憤慨したような表情を見せた。
「冗談にも程がある。……オレの何処が女に見えるんだよ」
彼は、自らの頬を指でつまんで伸ばして見せる。
「ほら!この顔はオリジナル。身体だって、どこも手を加えてない」
ハッキリキッパリ断言される。……すると、新一が考えたくない可能性が出てくる訳で。
「……じ、じゃあ……オレが女?」
まさか、そんな事は絶対あるまい!と思いつつも、恐る恐る訊いてみると、彼もキッパリ否定した。
「んな訳ねーだろ」
「じゃあ、恋人云々は冗談だよな」
ほっとした声で言うと、新一は知らず知らずの内に流れていた冷や汗を、手の甲でぐいと拭った。
が、話はそこで終わらなかった。
「新一もオトコ、オレもオトコ。オトコ同士で、恋人同士。分かった?」
「分かんねーよっ」
結局、振り出しに戻る。
「……やっぱり、重度の記憶喪失だ」
自分が男か女かも分からないなんて……。と、目一杯の同情の視線で呟かれる。
しかし、新一にはとても納得出来ない。世の中の全ての人にそうだと言われても、新一は絶対に納得など出来ない。
それに万が一、仮にそうであるとしよう。考えたくもないが、もし新一がこの男と恋人同士であるとしたら……。
……なら、蘭は?
この世で一番大切で、愛おしい彼女の存在はどうなる?
新一の想いは何処へ行けば良いのだ。
「いや、違う。記憶喪失なんて、そんなんじゃない」
これは、誤った想像だ。
「新一」
「違う、違うっ!」
何もかも振り払いたくて、新一は大きく頭を振った。
その瞬間、後頭部に鈍痛が走った。
「──痛っ」
思わず頭を抱え込む新一に、快斗は驚いて抱き寄せた。
「どうした、新一!?」
「……頭、痛い」
そう言われ、快斗は新一の頭をまさぐる。労るように撫でていると、何時もはない小さな膨らみを指先が捉えた。
「新一、何か出来てる。……こぶかな?」
何処かで、頭打った? 快斗にそう訊かれ、新一はハッと思い至った。
「か、階段、昇っていて……落ちた」
空き缶を蹴飛ばして、落ちた事を思い出した。……一瞬、気を失っていた事も思い出す。
「落ちて……頭を打ったのか?」
快斗の問いに、新一は頷く。
「なら、新一の記憶喪失の原因はそれだ」
「そ、んな……」
新一は目を大きく見開いて、縋るような視線を快斗に向けた。
……本当に、自分は記憶喪失になってしまったのだろうか。とても、信じられない。
しかし、快斗は大仰に頷くと、口を開いた。
「それ以外に原因はない。……新一がオレの事をすっかり忘れてしまっているのなら……ここ1.2年の記憶が欠落していると言う事だ」
「そんな事!」
あり得ない。
「だって、オレはお前に会う直前までは覚えてる。白馬に要請されて、一緒に現場に送ってもらったんだ。オレはこっちで、ヤツはあっちで張って……。ビルの前で別れてから、オレは屋上に向かった。そこまで覚えていて……!」
「なら、オレの事だけを忘れたって言うのか」
それまで、どちらかと言えば優しい態度で接していた快斗の態度が、少し変化した。……暖かくなり始めた室内で、急激に温度が下がったかのような感覚。
「キッ……」
「快斗だよ、新一」
そう言って快斗は、顔を寄せる。
「な、何だ……」
ゆっくり近付いてくる相手に、新一は身体をずらして離れようとした。しかし、それより先に快斗の腕が新一の肩を掴む。
「許せないよな……オレの事だけ忘れるなんて」
「……そんな」
忘れた覚えはない。忘れてはいない。
新一は断言出来る。
最初から、新一はこの男の正体も知らないし、何の関係もない。
あるのは、探偵と怪盗という立場の違いだけで、それ以外に何も存在などしていない。
しかし、目の前の男は真剣な顔つきで、新一は怯んだ。
快斗は掴んだ肩を引っ張るようにして、新一をソファから起こした。そのまま腕を掴み、彼を引っ張る。
「ちょっと来て」
快斗はそう言うと、抵抗する新一などものともせずに、彼をリビングから連れ出した。
「一体、何処連れて行くんだよっ」
新一の問いに彼は答えず、只無言である場所に向かった。
ここは新一の家だ。
引っ張られていく先に何があるのか、もちろん新一は知っている。
そこは普段新一があまり足を踏み込まないエリアだ。この広い屋敷で、新一が使用している部屋は、ごく一部。
快斗が彼を連れてきたのは、そんな使用されていない部屋の中の一室。
「ここは……」
確か、来客用に作られたゲストルーム。
この家には、滅多に来客など……まして泊まり込まれるような客も来はしない。
新一も全く入り込んだこともなく、掃除すらした事のない部屋だ。
此処に何があるのだろう。怪訝に思う新一を余所に、快斗は扉を開いた。
「……な」
新一は思わず息をのんだ。
埃の被った室内を想像していたそこは、何故か全く違う様相を呈していた。
書斎用の机の横にパソコンデスク、書棚。そして、反対側の壁に鎮座する、大きな来客用のベッド。
壁には、何かのスケジュール表が貼ってあった。その前にはハンガーポールが置かれ、何着か衣類が掛かっている。
「オレはもう1年近く、此処を使わせてもらっている」
快斗はそう言うと、扉口で突っ立ったままの新一を中に押し入れると、扉を閉めた。
新一は呆然としつつも、周りをぐるりと見渡した。
今までほとんど足を踏み入れた事はなかった部屋。だから、新一の気付かぬ内に、誰かが使用しているように整えられたとも考えられない事もなかった。
だが、それを否定せざるを得ないものがある。
それは、生活臭というものか……この部屋には匂いがあった。誰かがここを使っていた事を証明するかのように染みついた独特の匂い。
こればかりは、一朝一夕で作り上げられるものではない。
しかも、この部屋には、落ち着きがあった。まるで、新一が使っている自室と同じような居心地の良さというものが……。
「オレは、もうずっと新一と二人で、ここに暮らしている。……信じてくれた?」
「……」
言葉は出なかった。いくら新一の家には使用していない部屋がたくさんあるからと言って……流石に、家人に気付かれず、ここで密かに生活していたとは考えにくい。
一応、ここは客室なのだから、屋敷の奧ではないのだ。比較的リビングに近く、人が居れば気配は感じる。
だけど……。
「信じ……られねぇ」
いくら真実がそうだったとしても……新一の記憶が間違っているなんて、そんな事……あり得ない。
考えたくなかった。
新一が今好きなのは、蘭なのだ。少なくとも目の前の男などではない。
そんな事、当然受け入れられない。
「記憶無くして混乱しているのも判るけど、きっと元に戻るよ」
悩む新一を余所に、快斗はそう言って彼を引いてベッドの端に腰掛けさせた。
「一時的なものだ、きっと。今晩はもう遅いから、明日病院で診てもらおう」
「……けど」
未だ混乱している新一に、快斗は優しく頭を撫でた。
「大丈夫、新一は覚えている……オレの事」
「KID……?」
「新一の頭の中は忘れ去られても、身体は覚えている筈だ……きっとね」
快斗は、そう言うなり、新一をベッドに押し倒した。
「──えっ!?」
いきなりの事に、新一はそのままシーツの上にひっくり返った。その上に快斗がのし掛かってくる。
「なっ……何しやがるっ!」
「何って……何時もしているコトだろう?」
大丈夫、ちゃんと身体は覚えている筈だから。それを感じれば、きっとオレの事も思い出すよ。
無邪気とも取れる顔でそう囁いて、混乱する新一の口唇にキスをする。
ぞくり、と背中に悪寒が走る。
「……やっ、だ」
気持ち悪い、吐きそうになる。
「やっ、やめっ……」
離れようと抵抗する新一などものともせずに、開いた口唇から舌を潜り込ませ、口腔を愛撫する。奧に隠れていた新一の舌を引き寄せ、絡め、吸い上げる。
「んんっ……ん」
苦しくて、息が出来ない。逃れようと頭を振るのだが、顎をしっかり捕まれていて、まるで言うことを聞かない。
のし掛かってくる身体を必死になって退かそうと両腕を突っ張ってみるが、それも大した抵抗にはならなかった。
「やだ、嫌だ……」
「大丈夫……大人しくして……」
泣きそうな声で拒絶する新一をあやすように声を掛けるのだが、執拗な手は緩めない。口唇を堪能した後、目元やこめかみ、頬から喉元に掛けて、快斗の舌先が無尽に這う。新一はそれを感じながら、どうすれば離れてくれるのかも考えられずに目尻に涙を浮かべた。
そもそもキスなんて……今まで、まともした事など無かった。
しかも、こんな激しく深いキスがあるなんて、考えた事すらない。
……この短時間の間に、自分が別の何かに変えられてしまうような、今までの自分を覆されそうな、そんな恐怖。
「も……やめてくれ……頼むから」
哀願に近かった。もう、そうする事にプライドはない。只、やめて欲しくて、それ以上触れて欲しくなくて、新一は切に願い、頼んだ。
しかし、相手は無情にもその言葉を無視した。新一の声が聞こえているはずなのに、彼は仰け反るように逸らせた喉元をゆっくり口づけ、降りていく。
「KIDっ……嫌だ……!」
暴れたいのに、身体の要所要所を押さえ付けられている所為か、びくともしない。唯一自由になった口で、必死に哀願するのに、まるで聞き入れてくれない。最後には喚いて抵抗したのに、それでも彼は止まらなかった。
どうして、何故。
男なのに。……新一は男なのに、どうして、こんな風に組み伏せられなければならないのだろう。
例え、自分が女の立場であったとしても、好きでもない男に押し倒されて無抵抗で居られる訳はない。それに気付かない相手ではない筈なのに、彼は敢えてそれを無視して、事を進めようとする。
そんなの酷すぎる。
喉元を這っていた口唇が、ゆっくりと鎖骨に向かって降りていく。いつの間にか外されたシャツのボタン。外気の冷えた空気が新一の胸元を撫でたが、その寒さを感じる前に、快斗の口唇が愛撫する。
「……っ…く…」
どうしようもなくて、ついに涙腺が緩んだ。涙が次々に溢れだして、呼吸がままならなくなり、声も上手く出せなくなる。
こんな事で屈服してしまう自分が情けなくて、許せなくて、新一は涙を隠すように、両腕で顔を覆った。腕を交差するように両眼を覆い、不規則な呼吸を繰り返す。そんな新一の態度など、まるで気付いていないかのように、快斗の指が更にシャツのボタンに手を掛けた。
一つ一つ外されていくのを新一は感じた。服を……全部脱がされてしまうのだろうか。KIDは、そうやって新一に何をするつもりなのだろうか。
深くは考えたくない頭で、ぼんやりとそんな事を思う。
抵抗しなかったら……何時か止めてくれるだろうか。好きにさせてやれば、どれくらいで自分の身体は自由になるのだろう。
KIDが彼の恋人だとか、一緒に住んでいるとか、そんな事実はもうどうでも良い。置かれている、奇妙な自分の立場も忘れた。
今は、早く解放して欲しい。それだけを考えた。
指先をリアルに感じた。
肌の上をゆっくりと辿る男の指。まるで、何かを確かめるように、何度も行き来する。
「……っ!」
胸の辺りで、ふいに鋭い痛みを感じた。それは一瞬に近い短さで離れていく。新一は、何をされたのか判らず、恐る恐る顔をそこに向けた。
新一の身体の上にのし掛かっている男の顔が見えた。指先をはだけたシャツの間に滑り込ませて、ゆっくりとなぞっている。
それは愛撫というよりも、もっと別の仕種で……そして彼の目つきは、それまで見てきたどの視線よりも真剣味を帯びていた。
一体……何をしているのだろう。
自分の上に乗り上げたまま、鋭い視線で身体を見つめている男の態度に、新一はそれまでとは違う別の戸惑いを感じた。
声を掛けようとした。……しかし、それより前に彼が動く。
はだけられたシャツを合わせ、彼は一つ一つゆっくりとボタンを留めていった。上から下まで全て留め終えると、新一の身体から離れた。
キシリ、と小さな音を立てて、ベッドを降りる。
突然の解放に新一は戸惑いを隠せないまま、それでも急いで身体を起こした。しかし、立ち上がろうとした所で、彼に両肩を捕まれ、押し止められる。
「キッ……」
びくりと震える新一に、快斗は声を落とした。
「ごめん」
「え……?」
突然謝られ、新一は混乱する。いきなりの事で、新一は素直に乱暴された詫びを言われたとは思えなかったのだ。
「新一は……違う」
快斗は、ぽつりと言った。
「な、に……?」
「新一は……オレの知っている新一じゃない」
顔を上げ、真剣な眼で見つめ告げる言葉に、新一は何を言われているのか理解出来なかった。
「なに……、それ、どういう……」
新一は、新一じゃない?
それは、どういう意味なのだ。
訳が分からないと、縋るように見つめる新一に、快斗は彼の首筋をゆっくり撫でた。
「オレと新一は、もう1年も前から恋人同士だった。一緒に暮らして……そして、夜も一緒に眠って」
一緒に眠っていると言われ、意味もなく新一の頬が赤くなる。……つまり、やはり……そういう関係なのだろうかと、今更な事を考えた。
だが、そんな新一の心情など気付かずに、快斗は言葉を続ける。
「一昨日も一緒に寝た。いつものように新一を抱いた。……だけど、今の新一はあの時の新一じゃない」
「……それは」
何を言いたいのだろう、と首をひねる。しかし、快斗は真剣な表情で新一を見つめた。
「1日や2日で消えるはずがないんだ」
「……? 何が……?」
「キスマーク」
「キス……マーク?」
新一は小首を傾げ、暫くそうして考え込んでいたが、ふいに気付き、瞬時に頬が紅潮した。
新一の肌はきめが細かくて綺麗で……だから、ついつい付けてしまうのだと快斗は言った。
「付けると怒られるんだけど、オレがあまりにも言う事を聞かないから、とうとうお前は折れて、見えない場所ならいくら付けても文句言われなくなったんだ」
だから、快斗は嬉々として、白い肌に食いついた。服を脱がなければ見えない場所。肩から下は、好きなところに吸い付いて鮮やかな紅の花をいくつも散らせた。
一昨日もそうだった。胸や脇腹や腰と言った場所にいくつも付けたのに、今の新一にはその痕跡が一つも見られない。
シミ一つない肌。……まさか、何らかの原因で、彼の体質が変わってしまったのだろうか。
試しに一つ、付けてみたキスマーク。それは、鮮やかに肌を彩った。
なら、考えられる事はただ一つ。
「新一は、新一だけど、オレの新一じゃないんだ」
快斗は、キッパリと言い放った。
「は……?」
何を今更。
新一は新一であって、それ以外の何ものでもない。当然、KIDのものなんかでない事は、最初から当然分かっていた事だ。
それを今更、まるで断腸の思いで宣言するが如く言い放つKIDに、新一は強い脱力感を覚えた。
相手の態度を余所に、随分落ち着きを取り戻した新一は、彼に向かって宣言する。
「兎に角だな、オレは、お前の恋人でもなければ、お前が此処に住んでいて良い訳でもないんだ」
何はともあれ、彼には出ていってもらわないと、新一自身が落ち着かない。
新一は家主の権限でそう言い放つが、しかし、相手は怯まなかった。
「間違っているのは、多分新一……お前の方だ」
出て行く一件には触れず、快斗は突然そう言った。
「何の事だ」
眉を寄せる新一に、彼は真剣な眼で新一を見つめる。
「新一は、パラレルワールドって信じる?」
パラレルワールド。
多次元的平行世界。
四次元宇宙に、この世界と同時に、無限に存在しているとされる異世界。
これは、四次元宇宙を三次元宇宙の集合と考えて導き出されたものだ。
「世界は常に、いくつもの分岐の可能性を孕んでいる。オレ達の住むこの世界と、別の……分岐平行した別世界が存在している事を新一が今、証明して見せてるんだよ」
つまり、目の前に居る新一はこの世界に存在していた新一ではなく、別世界からやって来た、もう一人の工藤新一だと。
「そんな、突拍子もない事……」
絶句しそうになって、慌てて頭を振る。
「新一は否定できる?それまでも、このパラレルワールドの存在は、決して否定しきれないものだった。何が正しくて、何が間違っているなんて事は存在しない。世界は多次元に広がっていて、そのどちらも存在しているんだ」
自信ありげに断言する快斗だが、新一は思った。
これはSFではない。夢見物語ではないのだ。
何かつじつまが合わない事があれば、すぐにパラレルワールドに結びつけるなんて、思考が常人とずれている。
流石、怪盗KID。……という所だろうか。
しかし感心ばかりもしていられない。
今の状況では、どう贔屓目に見ても、新一の方が不利なのだ。
「今日の所はもう遅い。……明日、ゆっくり話す事にしよう、新一」
思い悩む新一に、快斗はそう言った。新一も仕方なく頷く。
先に湯を使って良いと言われ、新一はまた頷いた。
取り敢えずは、勝手知ったる自分の家だ。クローゼットの位置もバスルームの場所も把握している。
新一は、のろのろと起きあがると、そのまま部屋を後にした。
予め沸かしてあったのか、湯船には既にお湯が注がれており、新一はそのまま風呂に入った。
頭の中がぐるぐると混乱していたが、それでも身体を洗うと気持ちは多少さっぱりとした。
用意されていたパジャマに袖を通し、髪を乾かしてバスルームを出ると明かりのついているリビングに向かった。
マグカップを片付けている快斗に、新一は声を掛ける。彼はにっこり笑った。
「先に寝て構わないから」
新一が頷くのを確認してから、快斗はキッチンへと姿を消した。
新一は小さく溜息を洩らすと、ゆっくりと自室へと向かった。
新一の部屋は2階にある。些か力無い足取りで階段を昇りきると、いつものように部屋へと向かった。
階段も廊下も普段と変わらない。違う所なんて一つもない。全てが新一の記憶通りだ。
「オレが別の世界の人間だって……?」
そんな事ある筈がないではないか。……それなら、まだ記憶喪失の方が信憑性がある。
……しかし、記憶喪失にしても、キッドの事だけ忘れているというのもおかしい。彼が新一を騙していると考える方が自然だが、しかし新一を欺く理由もないし、手が込み過ぎている。
新一とキッドなんて、ほとんど関わりなどなかった。
新一を騙して得るものなど何もありはしないだろう。……それなら、まだ白馬を欺く方が、彼にとって余程益がありそうだ。
しかし……。
「あいつも……なんか変だったよな」
キッドに捕まっている新一を見て、彼は助けようとしなかった。
いくら何でも、犯罪者に捕らわれた善良な市民を放っておけるような白馬ではない。
いや、それ以前に驚きもしなかったのだ。
もう、分からないことだらけだ。新一は頭を振ると自室の扉に手を掛けた。
混乱したままで考えを続行しても、納得する答えが導き出されるとも思えない。
あの男の言う通り、今夜はゆっくり眠って、明日また考えよう。
もし、どうしようも無くなったら、この家を出て両親の元に身を寄せることも考えつつ、ノブを回した。
部屋に入ると、特に何も考えずにベッドの傍に向かう。そのまま寝ようと腰を屈めた所で──はたと気付いた。
「え……!?」
もう寝るだけだから、電気も付けずに部屋に入ったまでは良かった。
自分の部屋だから、何処に何があるかも把握している。暗くても身体をぶつける事は無い。
しかし、新一が寝ようと思った場所には……何もない空間がぽっかりと空いているだけだった。
新一は慌てて部屋の入り口に向かうと電気を付けた。
途端に室内に光が満ちる。……そして、新一はしっかり把握した。
あるべき場所に……ベッドがない。
「え。何で!?」
さして広くもない自室を見渡すが、ベッドはない。それ以外の家具は新一の記憶通りの場所にあるのに、ベッドだけがないのだ。
「オ、オレ……何処かに動かした?」
暫し考え、そんな事はないと頭を振った。そもそも、ベッドを移動させる理由がない。
確かに、今朝まではあったのだ。新一はちゃんとベッドで眠ったのだから。
しかし、今は此処にその姿はなく、新一は訳も分からず部屋を飛び出した。
片っ端から部屋のドアを開け、己のベッドを探し出す。
工藤邸はそれなりに大きな家である。使われていない部屋を開けてはベッドを探した。
2階の部屋を調べると、新一は勢い良く階段を駆け下りた。
1階は2階に比べ部屋数も多い。それでも片っ端から扉を開けようとしたその時、丁度風呂上がりの快斗に出会った。
「あれ、まだ寝てなかったのか?」
のんびりと問いかけてくる快斗に、新一は少し苛立ち気に言った。
「ベッドが無いんだ!」
「は?」
いきなりの発言に、快斗は目を丸くした。
「オレのベッドが無くなっているんだよ!お前、何処かに隠したのか!?」
「……どうして、オレがベッドを隠さなきゃならないんだよ。そんな事したら、寝られないじゃないか。それに……」
快斗は慌てふためいている新一を宥めるようにやんわり肩に手を置くと、そのまま部屋に向かう。
「……さっきまであった筈のベッドを消す程、オレは暇じゃないよ」
そう言って、快斗はベッドを指し示した。
快斗の指の先にあるのは、紛れもなくベッドだ。しかし。
「無いと言ってんのは、オレのベッドの方だ!お前のじゃないっ!」
先程連れてこられた、元ゲストルームのベッドを示す快斗に、新一は喚く。しかし、快斗は動じなかった。
「新一のベッドはコレだろう?」
「……は?」
「正確には、オレ達のベッドかな。……兎に角、今晩はもう寝なさい。大分疲れているみたいだし」
そう言って背中を押す快斗に、新一は慌てた。
「なっ、何言ってんだっ。オレは、自分のベッドで眠りたいんだ!お前が使っているベッドでなんか眠れる訳ねーだろ!」
オレのベッド、何処に隠しやがった。とっとと出しやがれっ! と喚く新一に、快斗は溜息を一つ。
「だから、コレが新一のベッドだって言ってるだろう?」
聞き分けのない子供向かって、諭すように告げる。
「あのね、新一。この家でベッドはコレだけなんだ。コレしかないんだ。……だから、大人しく寝てくれるかな?」
「なっ……!」
声にならない声を上げて、口をぱくぱくさせる新一に、快斗は優しく頭を撫でた。もう、完全に子供扱いである。
この広い屋敷に部屋はいくつもある。しかし、ベッドが一つしかないと断言出来るのには、理由がある。つまり、快斗がこれ以外の全てを処分したからだ。
快斗が新一との同居を始めた数ヶ月後、ちょっとした些細な喧嘩で、それまで毎晩一緒に眠っていたのに、その時は新一が自分の部屋に閉じこもってしまった事件以降、彼は屋敷にあるベッドというベッドを全て処分してしまったのだ。
「……なら、オレは居間のソファで寝る」
「我が儘言わないで」
そんな所で寝かせられる訳無いだろう?と肩を竦める快斗だが、新一方こそ受け入れられない問題だ。
よりにもよって、自分を『恋人』だと思い込んでいるような男と一緒に眠れる訳がない。
正直、体力には自信が無かったから、何かあったら自分の身を守れるかどうか。……そんな事、考えるまでもなく無理だ。
新一は相手の反応など待たずに踵を返した。そのまま部屋を出て行こうとしたのだが、あっけなく腕を捕まれる。
そのままぐいと引っ張られ、些か乱暴な仕種でベッドの上に放り上げられた。
「……った!何すんだよっ」
「あのね。いくらオレでも、無節操に人を襲いやしないよ」
「……襲ったじゃねーか」
「それは、新一が『オレの新一』だと思っていたからだ。……そりゃ、新一は新一だけど、お前は、オレの恋人の新一じゃないだろう?それに、オレはいくら相手がお前でも、『新一』を裏切るつもりはないし」
そう言う快斗に、新一はさも疑わし気に目を細めた。
「でも、お前も大事だよ。何たって、やっぱり新一には違いないし。……言うなれば、お前は新一の身内みたいなものだから」
同じ『新一』ではあるけれど、快斗の知る『新一』ではなく。だけど紛れもなく彼も新一。
「それに、一緒に寝るたって、このベッドは広いし。端と端に寝れば、寝返り打ってもお互い当たりははしないし」
……確かに、このベッドは大きい。実は、新一には見覚えのないそれは、もしかしたら彼が買い込んだ物かも知れなかった。
「ひとまず今夜は此処で勘弁して。……でないと、オレもそれなりの手段を講じさせてもらうから」
にっこりと微笑みながら、さも物騒な言葉を吐き出す彼に、新一は思わず頷いた。
下手に刺激して、とんでもない事になったら困る。いや、刺激しなくても、とんでもない事になるかも知れないが、取り敢えず今は、彼の言葉を信じようと言う考えに辿り着いた。
……というか、どう考えても、それ以外に選択の余地が無かっただけなのだが。
仕方なく新一は決心すると、ベッドの端に移動した。枕も端ギリギリまで寄せて、潜り込む。
それを見届けた快斗も、新一とは逆の場所に身体を滑り込ませた。
「取り敢えず、対策は朝になってから考えよう。……元の世界に戻れる方法が、きっと何かあるはずだから」
「……ああ」
快斗に背中を向けた格好で、新一は短く応えると瞼を閉じた。
眠れるかどうかは判らないが、少なくとも彼には休息が必要だった。
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