Love note 2





ふと暖かいものが、新一を包み込んでいるのに気付いた。
暖まった布団の温もりとは違う、もっと別の暖かさ。
それが人の温もりである事に気付くのに、そう時間は掛からなかった。しかし、寝起きはイマイチ良くない新一である。それが何かを気付いても、どうも身体が上手く動かない。
なんと言っても、気持ち良いのだ。
それまで体験した事のない穏やかな温もりに、新一はふわふわとと心地良い気分に浸っていたのだ。
無意識の内にその温もりを引き寄せて、その中で微睡む。
暫くそうして……それから徐々に意識が覚醒し始めた。寝ぼけ眼の目がはっきりと開かれ、眼前にある物体を確認する。
「……げ」
生き物を轢き殺したような第一声を発して、新一は目覚めた。
そのまま勢い良くダウンケットを捲り上げ、思わず後ずさる。

「……う、寒い」
物体が寝ぼけた声で呻いた。

恐ろしい事だ。と新一は思った。
何と、知らず知らずの内に、この男にしがみついていたのだ。意識が朦朧としていたとはいえ、あまりにも恐ろしい。

新一は慌ててベッドから降りると、そのまま部屋を飛び出した。二階にある自室へ飛び込むと、急いで服に着替える。そのまままた勢い良く階段を駆け下りると、洗面所に直行して顔を洗った。
冷水を浴びて頭をしゃっきりさせて、フェイスタオルで顔を拭う。鏡の前には、何とも複雑な表情をした自分の顔が見えた。
不安と戸惑いと恐れと……強い悲壮感はないものの、正直、明るさなど何一つ見当たらない、そんな顔。
「……情けねー顔」
新一は一人ごちて、小さく笑った。

取り敢えず身なりを整え、頭をスッキリさせて洗面所を出た。











「新一も探偵なのか?」
何気なく訊いてきた快斗に、新一は頷く。
「じゃあ、探偵事務所とか持っているんだ」
「いや、それは」
今の新一は、まだ仕事としての活動はしてない。確かに将来は自分の事務所を構えたいとは思っているのだが、今はまだ時期尚早だと思っている。
「そうか……そこの所は、こっちの新一とは違うんだな」
快斗はそう言いながらコーヒーを一口飲んだ。

新一は彼の言葉を聞いて、僅かに眉を上げた。
「……ここでのオレは、ちゃんと仕事しているのか?」
「え?……あ、ああ。収支の程は判らないけど、軌道には乗っているみたいだな。一昨日も仕事で飛び出して行ったし……」
頷く快斗に、新一はほんの少し顔を曇らせた。

違う。……新一の知っている新一と違う。
この世界の彼はちゃんと探偵として独立しているのだ。もちろん、新一にはそんな記憶はない。
新一は、相変わらず興味のある事件に首を突っ込んでは満足しているような、中途半端な事をしている。

やっぱり、ここは新一の居た世界ではないのか。同じようでいても、細部は少しずつ違っている。
新一の思考が暗くなりかけた時だ。ふいに快斗は顔を上げて言った。

「ここに新一が居るっていう事は、やっぱり此処に居た新一はそっちの世界に行っちゃってるのかな」
「え、何?」
新一が聞き返す。
「だから、オレの恋人である新一の方だよ。……やっぱ、入れ替わっちゃったのかなぁ」
大丈夫かなぁ。寂しくて泣いてないかなぁ。などと、心配そうに呟く。

そうか。
新一が此処でこうして不安でいるように、本来此処にいる筈の新一も別の世界で一人きりになっている可能性があるのだ。

もし、単純に新一と入れ替わって、彼が新一の本来居た世界に行ってしまっていたら……。
「あっちの世界でのオレとお前の関係は、赤の他人だ。……恋人所か、精々顔見知り程度で、しかも怪盗キッドでしかオレは知らない」
「それは最悪だな」
重く呟く新一だったが、対して快斗はあっけらかんと言い放った。

「ま、オレの事だから、例え面識薄くても、絶対に新一を無下にはしない筈だから……大人しくオレに救いを求めてくれれば良いけど」
「……なんで」
そこまできっぱりと断言出来るのだ!? 新一は絶句する。しかし、快斗はにこにこと微笑みを崩さない。

「どの世界のオレであっても、オレが新一に惚れない訳ないからね。素直にオレに縋ってくれれば、取り敢えずは新一の身は安全だ」
一人納得して頷く快斗だが、一番危険なのは、この男に助けを求める事ではないだろうかと、新一は本気で思った。

しかし……本当に二人は入れ替わってしまったのだろうか。
もしかしたら、新一だけが迷い込んだだけで、この世界にも本来の新一が存在している可能性だって無いとは言い切れない。

「ここの世界のオレは、今何しているんだろう……」
「何も無ければ、帰ってきてる筈なんだけど」
一昨日、仕事で東都を離れたが、それは大した依頼ではなかった筈だから、一日で戻ると言っていた。
只、行き先が遠方だったので、日帰りは厳しいとの事だった。
「遅くても、今朝には帰ってきている筈なんだけど……」
帰ってこない所をみると、やはり彼はこの世界に存在していないのか。
「連絡とかつかないのか?」
ふと思いついた新一が言うと、快斗は、うーん、と唸った。
「携帯なら持ってるけど……」
試しに掛けてみるか。とそう言って立ち上がると、充電器に納まっている自分の携帯を取り上げて、短縮ボタンを押した。
途端に新一の胸に感じるバイブの振動。
「……あ」
慌てて取り出し携帯を見ると、見知らぬ番号が表示されていた。

「あ。やっぱり、そっちに繋がったか」
覗き込んだ快斗は、表示されているナンバーを確認すると、そのまま電話を切った。途端に新一の携帯も振動が止まる。
「ま、そうなるよな。新一の携帯に電話したんだから」
だから、新一の携帯に繋がるのは当然なのだ。……例え、それが別の世界の新一であったとしても。

「心配しなくても良いよ、新一。新一はオレが守るから。……ちゃんと元の世界に戻れる手段を考える」
段々暗い想いに落ちていく新一の心情を察したのか、快斗は新一の肩に手を置くと、励ますように力強くそう言った。

しかし、新一にはその根拠のない言葉を信じる程、脳天気ではない。
「だけど、お前に何とかする力なんてないだろ」
「それはそうだけど」
「なら、そんな無責任な事言うなよ」
「無責任って……」
快斗が言葉に詰まると、新一はふいと顔を背けた。結局は他人事でしかない相手。しかも、新一にとっては、とても信用の置けない相手に、助けてもらおうとも思わなかったが、それでも安易な事を言われると腹が立つ。
不愉快そうに眉を寄せる新一に、快斗も少し困った顔をした。
暫くの間、気まずい時間が流れたが、その流れをとめたは快斗だった。

「その、オレにはお前を元の世界に戻す術はないけど……出来そうな奴なら知ってる」
超常現象を作り出すのが得意そうな、現代の魔女の存在なら、快斗にはアテがあった。











「……貴方、大分歪んでいるわよ」
開口一番に彼女が言ったのは、そんな言葉だった。

快斗と新一と二人で赴いた先は、鬱蒼と茂る森の中に佇む、年代物の洋館だった。
外観とは裏腹に内装はしっかりしていたが、案内された先は、これまた非常に雰囲気のある一室だった。
天井も床も壁も石造り。しかも、まるで故意と言わんばかりに、すすや埃で汚れている。灯りはろうそくの炎。何本ものろうそくが床やテーブルの上に立ち並び、オレンジ色の炎を燃やしている。

声を発したのは、この館の主。
彼女は、部屋の丁度中央に作りつけられている、まるで暖炉のように古レンガで組み上げられた机に座っていた。その机の上には透明の球体。所謂水晶玉だろうか。この部屋の雰囲気に相応しく、そして彼女もこの部屋にまるで溶け込むかのように存在していた。

「相変わらず、オカルトだな、紅子」
呆れた。というような響きを隠すこともせず、言い放ったのは快斗だ。連れられてきた新一は、気後れしたように、彼の半歩後ろに下がって、主を見つめていた。
「歪んでいる」と言った彼女の視線は、紛れもなく新一に向かっていた事に、彼は気付いていた。

紅子と呼ばれた女は、その艶やかで豊かな黒髪を僅かに揺らして嫣然と微笑ってみせた。
「ご挨拶ね、怪盗キッド。貴方が私に会いに来てくれるなんて、嬉しいわ」
「お前もしつこいな。……オレはそんなんじゃねーよ」
憮然と吐き捨てる快斗に、紅子の表情は崩れない。口元に微笑を湛えたまま、ゆっくりと背後の人物に視線を移す。

「精霊の気が落ち着かない。空間を乱している元凶は、貴方ね。……光の魔人」
「……光?」
何も言われたのか理解出来ずに戸惑う新一だが、彼女は構うことはない。
「貴方は本来、此処には存在しないもの。存在してはいけないもの。早々に立ち去らねば、歪みは益々大きくなって、修復出来なくなってしまう」
「すると、やっぱりこの新一は、本来存在している筈の新一ではないという事なんだな」
「そうね。……此処には存在している筈のない存在ではあるわね」
快斗の言葉にあっさりと頷く紅子。

「なら……手間を掛けさせて悪いが、こいつを元の世界に戻してやってくれないか」
お前なら可能だろう? そう言う快斗に、紅子はまたも頷いた。
「出来ない事はないわ。……いえ、私なら出来る。時空間を切り裂く事くらい、魔王ルシファーの力を借りれば容易な事」
紅子は、新一を見つめた。
「光の魔人、貴方のような強い光を放つ者は、この世界に2人と居てはいけない。早々に立ち去りなさい」

「ついでと言っちゃ何なんだけど、こっちにいる筈の新一も戻してくれないか?」
「あら。それは出来兼ねるわ」
快斗の望みに反して、紅子は間髪おかずに言い放つ。
「な、何で!?」
すっかり、これで元通りと思いきや、まさかの返答に快斗は慌てた。しかし、彼女は一向に冷静なままだ。新一は戸惑ったまま二人を交互に見た。

「彼は今此処に居るから、そのまま元の場所に返す事が出来るけど、貴方の望む光の魔人は何処に居るかも判らない。……何処に居るのか判らない者を連れ戻すのは無理ね」
「アイツはきっと、コイツの居た世界に居る筈だ!」
「居ないわ」
「……え?」
あっさりと断言する紅子に、快斗は呆けたように口を開けた。

「そ、そんな事は……」
「居ないわ。彼等は互いの存在が入れ替わった訳ではないの。残念だけど」
そうして、彼女は意地悪く笑った。

「時間も空間も、世界はそれ程単純ではないわ。彼がもし、時空間の歪みに捕まり飛ばされたとしたら、そんな人間の後を追うのは不可能よ。……でも、少なくとも、彼が元居た世界には居ないわ」
「何故、そんな事が言い切れる」
「彼が此処に存在しているからよ。彼は、その世界の一部だから、私は彼を通じてその世界を辿る事が出来る」
紅子は新一を見つめた。
「貴方の身体は此処に存在しているけど、元居た世界と切り離された訳ではないの。……例えるならば、その世界と細い糸で繋がっていると思って貰えれば良いわ。だから私には、彼がどの世界の時間からやって来たのが判る。そして、彼を通して、その世界を覗く事も出来る」
その結果、判るのは、彼の元居た世界は正常であるという事だった。
「本来、其処には存在しないモノが紛れ込むと、世界は歪みを生じる。特に人間のような存在だとそれがとても顕著に表れるの。現に今この世界は彼を中心にして歪みが生じている。世界が不安定になっている証拠よ。出来るなら、一刻も早く元の世界に帰る事をお勧めするわ」
俄に信じられない事だった。しかし、彼女の話を聞いて、新一は大きく頷いた。
彼女には、論理的思考を突き通させるだけの力があった。理論めいた事で納得するのではない、もっと別の思考の核とでも言うべきか、そんな所で強く訴えている。

彼女の言葉は真実なのだと。

彼女に会うまでは、やはり心の何処かで、パラレルワールドの存在を否定していた部分もあった。しかし、今は違う。素直に自分の置かれている境遇を受け入れることが出来た。
そして、その彼女を信じれば、新一は元の世界に戻る事も可能だと言う。

元の世界に帰れる。

元の世界に帰って、蘭に……彼女に会う事が出来る。
もし会えたら、新一は今度こそ、ちゃんと彼女に告白しようと誓った。好きと告げられぬまま彼女に会えなくなってしまう事が二度と起こらぬように、彼女にこの想いを伝えよう。


「今すぐ……戻してくれるのか?」
強い決心を秘めて、新一は彼女に問うた。
「ええ。貴方がそれを望むのなら」
彼女は僅かに目を細めて頷く。

「なら……」
「ちょっと、待ってくれ」
その時、それまで黙していた快斗が突然声を上げた。

「新一が元の世界に帰るのはいい。……けど、オレの新一のどうなる?どうなるんだよ」
「そんな事……」
私が知る訳ないでしょう?
長い黒髪を揺らし、小さく肩を竦める紅子に、快斗は声を荒立てた。

「そんな無責任な事ってあるのかよっ!」
「どうして、私が責任を負わなければならないのよ」
別に、私が招いた訳ではないんですからね。 紅子はそう言うと、再び新一に視線を戻した。

「それで、今からで構わないの?もし構わなければ準備するけど」
「ああ、よろしく頼……」
「ダメだっ!」
突然大声を上げて、新一の腕を掴んだのは快斗だった。
「KID!?」
そのまま強引に引っ張られ、抗う術もなく彼の腕の中に抱き込まれる。

「新一が居ないのに、新一まで居なくなるなんて、耐えられないっ」
「……おま、何言って」
強い力で拘束されながら、それでも新一はもがく。
「だって、新一が元の世界に帰れれば、オレの新一が戻ってきてくれると思ってたんだよ?……なのに」
目の前の魔女は、それは無理だと断言したのだ。そうしたら、快斗はこれから新一の居ない人生を送らざるを得なくなる。
「そんなの絶対にイヤだ」

快斗は新一を抱き込んだまま、ぎゅうぎゅうと締め付けた。その力に新一は暫し呼吸困難に陥るのだが、当の相手は頓着していない。そのまま彼を引きずるように、部屋から出て行こうとする。

「待ちなさい、怪盗キッド」
それまで事の成り行きを黙って見守っていた紅子は口を開いた。快斗は新一を抱き締める腕を緩める事なく、視線だけをちらりと向けた。

「邪魔して悪かったな。……今の話は無かった事にしてくれ」
「それは別に構わないけど……」
「それは、オレが困るっ!」
新一が悲痛な声を上げた。それに対し紅子はさも当然と言うように頷いた。
「そうね、困るわよね」
「おい」
苛立たしく眉を吊り上げる快斗に、紅子はうんざりするように溜息をつく。

「彼は、この世界の歪みの元凶。人体に例えるならはタチの悪いウイルスね。でも、身体はちゃんと、そのウイルスを撃退するだめの力はあるの。……私の言う事が判るかしら?」
「……新一は、病原菌じゃねーぞ」
「同じよ。この世界にとっては異質な存在で、しかも歪みの原因を作っているのだから」
そう言うと、紅子はちらりと新一を見た。
「この世界は、彼の存在をそのままにはしないわよ。歪みが大きくなれば、世界は崩壊してしまい兼ねない」
この世はとかく不安定に存在しているもの。時間と空間を隔てた隣の世界は、薄絹を裂く程の容易さで存在しているのだ。
「ほんの小さな歪みですら、世界はバランスを崩していく。そうなる前に……彼はいずれ消滅するわ」
俄には信じられない話に、快斗は絶句した。
「……そ、んな事って」
「今はまだ元の世界との間に繋がりが生きているから存在していられるけど、その糸は、時が経つ程にか細いものとなっていく。……そして、いずれ無くなるわ。それが消えてしまうのか、それとも切れてしまうのかは判らないけど」

元の世界との繋がりが消滅すれば、新一の存在は、この世のどの場所にも存在しなくなる。いわば親の庇護を無くした雛のようになった新一は、歪みを生じさせるだけの害としかならない存在でしか無くなるのだ。そんな彼を消し去る事に、この世界は躊躇いなどないだろう。
これは、この世界が自分自身を守る為に行う防御本能なのだ。

「そう言った意味で彼を殺したく無かったら、さっさと元の世界に戻すべきだと思うけど」

人の生き死を淡々と説明する魔女に、新一は他人事のような気持ちで聞いていた。
それ程彼女の話には現実味も悲壮感もないのだ。
しかし、彼女の言葉は全て真実を語っているのもまた事実。

「兎に角、オレは帰るぞ」
戻れるものなら、今すぐにでも戻る。しかし、この話を聞いてもまだ快斗は新一を離そうとはしなかった。
「ダメだ!」
「KID!!」
「新一が消えるって……別に今すぐに消える訳じゃないんだろう?」
紅子に向かって投げかける。彼女は頷いた。
「そうね……数日くらいなら保つかもね。……あくまで私の見立てだけど」
「なら、それまでに、お前はオレの新一の居所を突き止める事」
「……なんですって……?」
耳を疑うような台詞に、紅子は眉を上げた。
「どうして、私がよりにもよって、恋敵の居場所を探さなきゃならないのよ」
「そうしないと、新一の命はないよ。判った?」
「判った……って、貴方ねぇ」
そんな脅しが、新一とは全く関わりのない紅子に通用する訳かない。……しかし、それを知ってか知らずか、快斗の眼は真剣だった。





「工藤新一の居所なら、私より貴方の方が良く知ってるくせに」
バタバタは帰って行った二人。後に残された紅子は憮然とした顔のままぽつりと呟いた。











「ちょ、おまっ……離せよっ!!」
あれよあれよという間に、自宅に連れ戻された新一は、それでも腕を離そうとしない快斗から逃れるべく、闇雲にもがいていた。しかし、当の相手は動じない。
「お前はオレを殺す気かよっ!」
人殺し人殺し!と連呼すると、快斗もようやく腕を離した。
「新一が死んだら、オレも死ぬ」
「……バッ、何言ってやがる」
真剣な眼でそう訴えるが、そもそも快斗の思考は間違っている。
要は、新一が元の世界に帰れば消えて無くなる事もなく、万事元通りでめでたしめでたし、なのだ。

もちろん、そんな単純明快な事、快斗が気付かぬ訳がない。

「良く聞け、KID。お前は言ったよな。オレはお前の恋人であった工藤新一じゃないって。……なのに、何故オレに執着する?」
「だって……」
「お前は間違ってるぞ。お前がやらなきゃならない事は、オレを傍に置いておく事じゃなくて、『お前の恋人』を取り戻す事だろう?」
「けど、アテがない。……何処かの世界に飛ばされた新一を魔女でもないオレがどうやって見付けられるんだ」
その情けない返答に、新一は内心頭を抱えた。この男……本気で『工藤新一』に惚れていたのか?
「……良いか、良く聞け」
次第に新一の声が低くなる。
「お前のオレへの愛はその程度のものなのか」
「新一……?」
「そんなにあっさりと諦めてしまえるような中途半端な想いしかないのか」
オレならそうはしない。と新一は思った。もし、仮に新一が快斗のような立場だったなら……もし蘭が、現在の新一の立場だったなら、彼は蘭を何が何でも捜し出そうとするだろう。紛い物なんかで満足なんかしやしない。どんな手だてを講じてでも、自分が愛した女を捜し出す。
例え見付からなくても、きっと諦めるなんて事はしない、絶対にだ。

「この世界のオレがお前の恋人だって事すら、オレには信じがたい事だと思ってた。けど、今は尚そう強く思う。……オレは本気でお前何かの恋人だったのか?」
好きな人に代替えなんて存在しない筈なのに。……いや、存在する程度の想いしか持っていない、しかも男に対して、この世界の新一は本気で彼を愛していたのか。
……もしそうであれば、何とも哀れではないか。

「もし、オレなら、そんな奴を恋人なんかにはしない。相手が男である以前の問題だ。オレはこの世界に存在していた『オレ』が不憫でならねーよ!」
「新一……っ!」
新一が言い放つと同時に、快斗は彼に抱きついてきた。突然の事に避けることが出来ず、そのまま二人は床に転がった。
「いっ、痛てー……」
背中を打ち付け、思わずうめき声を上げる新一だが、快斗は無言で抱きついたままだ。

「……KID、てめ……」
「ゴメン」
新一の肩口に顔を押し当て、快斗はくぐもった声を上げた。
「判ってる……判ってるんだ。……オレが無意味な事している事くらい」
「KID?」
「新一はオレの新一じゃない。そんな事は最初から判ってる。……けど」
どう言えば良いだろう。
確かに目の前の新一は、快斗の愛した新一じゃない。けれど、彼も紛れもなく工藤新一なのだ。
昨晩快斗は新一を身内だと言った。新一であって新一でなく、身内のようなものだと。
しかし、それは間違いだった。
彼は、ニセモノでも良く似た兄弟でもなく、正真正銘の『工藤新一』。


「同じ、なんだ」
「同じ……?」
「新一の顔も姿も全く同じで、声もその性格や態度も全て一緒で……」
「……」
「取り巻く空気や雰囲気……一見穏やかそうに見えるのに、ピンと一本糸を張ったような研ぎ澄まされたその蒼い瞳も、なにもかも全部」
存在そのものが、『工藤新一』なんだと、快斗に強く訴えてくる。

「新一の身体にキスマークがなかったから、オレはようやく納得出来たんだ。……もし、そうじゃなかったから、オレは……」
「キッ……」
「いっそ、記憶喪失の方が良かった。オレの事だけ忘れてたって、オレの新一には変わりない。もしそうなら……もう一度最初から、オレを好きになってもらうのに」
震える声でそう言う。それが快斗の本当の気持ちなのだろう。
新一は重くのし掛かる彼の背にそっと腕を回した。そして、あやすように、ゆっくりと背中をさすってやる。

「……お前は本当に、オレの愛した新一そのものなんだよ」
「本当に……変わらないのか?」
「姿形が完全に同じとは言い切れないかも知れない。髪や爪の長さの違いはあるかも知れない。けど、そう言った厳密に見る見た目なんかで、オレは間違えたりはしない。例えどんなに上手く変装したとしても、気は変えられないのに。新一だけが持ち得るオーラまでも同じなんて……そんなの反則だ」

「……でも、記憶は違う」
新一は、ぽつりと呟いた。
その声に快斗は顔を上げた。
「新一……?」
「オレは知らないけど、お前と……この世界のオレとの間には、色々な思い出があったんだろう?そういうのって、とても大切なものだと思う。そういった二人で築き上げた関係があってこそ、今のお前達があるんだから」
だけど新一には、そんなものは存在しない。
「もし、オレが只の記憶喪失で忘れてしまっていただけだったら、お前の気持ちも理解出来る。でも、違うんだ。オレはこの世界にいたオレじゃない。もし、只単に記憶を失ってしまっただけなら、それまで築いてきたという事実だけは残る。無意味なもののように見えて、その事実はとても大切なものだ。それに、例え忘れたとしても、もう一度始める事だって出来る。……でも、オレは違うんだ」

どれだけ同じ存在だと言われても、新一は、この世界に存在していた新一ではない。
それだけは、ねじ曲げようのない事実。

「お前さ……本当に、この世界のオレの事好き?」
「当たり前だ」
「今でも、好き?この世に居なくても、好き?」
「……愛してる。オレにとっての工藤新一はアイツだけだ」
快斗はそうキッパリと言い切ると、ゆっくり新一から離れ、起き上がった。そして、続いて半身を起こした新一の腕を取って立ち上がらせる。

「悪かったな……」
ばつが悪そうにそう言って頭を下げる快斗に、新一は安心したように微笑った。
「羨ましいよ、この世界のオレが。……何か、とんでもなく愛されてるんだな、って」
気恥ずかし気にそう言って笑うと、快斗も笑った。
「新一は、愛されてない?」
「愛している女はいるけど……」
「そうか……新一には、好きな子が居るのか」
少し複雑そうに顔を顰めたが、吹っ切るように軽く頭を振った。
「KID?」
「うーん、何か複雑だな」
「何が?」
「だって、新一もオレの事好きでいて欲しかったというか、何というか……」
「へ……?」
思わず呆けた声を上げる新一だが、快斗は気にすることもなく言う。
「だって……その、新一の居た世界でもオレは居るんだろう?なら、その世界に居るオレの事を好きになってて欲しかったなぁ、なんて」
「そ、それは……無理、かな」
どう見えても、新一がKIDを好きになる確率は低そうだ。そもそも、ほとんど関わりがないものを、どうして好きになれようか。
友人としても、無理。
乾いた笑いで答える新一に、快斗もまた笑って、そんな新一を残しキッチンへと姿を消した。暫くして香ばしい匂いが新一の所まで届いた。



「一息入れて……それからどうする?今からなら、まだ紅子の奴も居ると思うけど」
場所をリビングに移し、快斗がいれたコーヒーを受け取る。新一は、白い湯気の立ち上るそれを見つめながら、暫く考えた。
「一刻も早く帰りたいのは山々なんだけど……」
コーヒーを一口飲んで、同じ様に向かいのソファでコーヒーを飲んでいる快斗を盗み見る。
何となく……本当に何となく、この目の前の男にほんの少しだけ興味が沸いた。

曲がりなりにも、この世界の新一が恋人にしている男である。……今の新一には、そんな彼の何処が良いのか全くサッパリと理解不能なのだが、あれだけ愛されている、もう一人の自分を知ると、ない興味も沸いてくるものだ。

「お前ってさ……怪盗KIDなんだろう?」
「何だ?その藪から棒に」
突然の問いに顔を上げた快斗だが、あっさりそうだと頷いた。
「オレの世界ではさ……オレとお前の接点なんて、ほとんど無いんだ。そんなオレ達が、どうしてまた同居なんて事になったんだ?」
やはり、いくらよく似た世界だからといって、細かなところは色々違いがあるのかし知れない。この世界の新一はちゃんと探偵事務所を構えているという事だし。
そんな事を思いながら快斗に問いかけると、コーヒーを飲み干した快斗が、テーブルにカップを置いて意味深に笑った。

「同居に行き着くまでには、もちろん色々あったけど……やっぱり、きっかけアレだね」
「アレ?」
「新一の告白」
「……え?」
「オレ、新一に告白されたの。『好きだ』って。……それで、アレコレあって、現在はこの家で二人仲良く同棲中……」
思わずカップを落としそうになり、慌てて持ち直す。まだ半分ほど残っていたコーヒーがカップの縁にくるりと弧を描いた。

「その。正直、新一から告白されるまで、オレもそう言った意味で新一を見てなかったから……てっきりお前もオレの事憎からず想ってくれているのかなって、考えてしまっていた訳なんだけど」
悪戯っぽく微笑まれ、新一は言葉を失った。

そ、そんな事……。

「ぜってー、ありえねー……」
「あ、酷いな」
思わず呟いた新一に、快斗は傷ついたように手で胸を押さえた。しかし、その声は軽やかで、瞳は笑っていた。

それにしても、よもや、新一から告白してこのような関係になっていたのは。……考えも及ばなかった。
てっきり、この目の前の男が強引に新一を手込めにしたとばかり……。

「実の所を言うと、オレの方が聞きたいんだ。新一は犯罪者であるオレの何処を好きになってくれたのかなって」
「言わなかったのか?」
「うーん。好きになった事にきっかけなんてない、とか何とか言ってたけど……」
不思議なんだよね。と快斗は言う。

「オレと新一はそれまで個人的に関わった事って無かったし。精々事件がらみで出会う程度で、お互いの事なんて知りようが無かった筈なんだ。……だけど、アイツは、怪盗KIDの正体もちゃんと知っていたし。……その情報源は口にしなかったけど」
白馬の野郎の戯れ言を信じた訳でもなさそうだし……。と呟く言葉を、新一は聞き逃さなかった。

「白馬って……。やっぱり、この世界でもオレと仲良いのか?」
あの夜、新一の必死の助けの声にも関わらず、あっさり無視してくれた男。
「すこぶる良好かな。……妬けるくらいに仲良いよ。探偵としても認めているし、たまに共同で事件に当たる事もあったかな」
「そうか……。その辺りは、オレの世界と似てるかな」
「あ、やっぱ妬けるな。白馬の野郎とは仲良いんだ」
少し不機嫌そうに顔をしかめる快斗に、新一は苦笑する。
「ごく普通の、気の合う友人なだけだぜ?」
「それでも、眼中にないオレよりはマシだ」
憮然と言い放つ彼に、思わず吹き出した。

「この世界とは違うんだから、仕方ないだろう?でもそうすると、もしかして違うのはお前との関係だけなのかも知れないな」
「それはどうだろう」
快斗はふと、思い出して新一に尋ねてみた。
「所で、新一が好きな女って……誰?」
オレの知ってる子?
少し妬心を見せつつも興味深げに訊いてくる快斗に、新一は口ごもった。
……今まで、誰にも言った事がないのだ。そう思ってから、あの夜、思わず白馬に告白していた事を思い出して、すぐに訂正した。

「あ、やっぱ言えない?」
「そ、んな事ねーけど……」
意地悪く笑い掛ける快斗に、少し躊躇いがちに言葉を濁す。

それから、ふと彼女はこの世界で何をしているのか知りたくなった。

「オレの知っている子かな?」
「どうだろう……もしかしたら、知っているかも」
「誰?」
「……お、幼なじみなんだ」
意識しているつもりはないのに、頬が熱くなって、思わず俯く。名前を告げようと口を開き掛けたが、どうやら相手はそれだけで伝わったようだった。

「あー……毛利さんね。……うん……彼女は美人だ」
何となく歯切れが悪い。そう感じるのは新一にとって、大切な人の事だから、だろうか。

「なぁ……お前、蘭の事……知ってるのか?」
「そりゃ……。新一の大事な幼なじみだし……多分、新一が一番大切に思っている女性じゃないかな?」
「そ……か」
少しほっとした声で息を吐くと、まだ顔が火照っているような気はしたが、構わずゆっくりと顔を上げた。
すると、少し戸惑いがちの快斗の顔をぶつかった。

「KID……?」
「ん?何?」
「……何を隠してる?」
すっと眼を眇め、ひたりと快斗の双眸を見据える。
新一にとっては、ほんの小さな引っかかり。しかし、この手の勘は外れた事がない。
特に、事幼なじみに関してだと、余計に鋭くなるのが新一だった。

「何って……オレが何を隠すと言うんだ?」
特に慌てるでもなく不思議そうに見返してくる快斗。
しかし、ポーカーフェイスが得意な事は、関わりの少ないとは言え知っている。故に、新一は騙されない。

「言えよ。オレに何を隠してるのか。……それともまさか、蘭に何かあったのか?」
ふいに悪い方へと思考が向かうのに気付いたのか、快斗は声を上げた。
「あるにはあるけど、それは決して悪い事じゃない」
……新一にとっては、どうかは判らないけど。
そう意味深な発言を残すと、快斗は立ち上がり部屋から姿を消した。突然の事に一瞬の混乱後、直ぐさま新一もソファから立ち上がるが、快斗はすぐに戻って来た。
その手には白い封筒を持っている。
「見る?」
差し出すそれを新一は戸惑いつつも受け取った。
「これは……何だ?」
真っ白な封筒には、「工藤新一様」と宛名書きがされている。
慌てて封を開くと、そこには淡い金色の縁取りの美しいカードが二つ折りになって納まっていた。新一は、それを恐る恐る取り出した。

爽やかな風の吹く季節となりました。
皆様にはお健やかにお過ごしのこととお慶び申し上げます。
この度、私達は 結婚することになり……。


「え……結婚!?」
驚いて文末まで目線を飛ばすと、そこには、新一の見知らぬ男の名と毛利蘭の名がはっきりと記されていた。
紛れもなく、それは結婚式の招待状だった。

「結婚……?蘭が?……嘘だろ?」
思わずそれを床に落とし、そのまま足元から崩れ落ちそうになった新一を、快斗は軽々と抱き留めた。

「新一……大丈夫?」
「……じゃねぇ」
掠れた声でそう告げて、ぐったりとしてままソファに身を投げ出す。

「そんな……蘭が、他の男と結婚するって……?そんな事、オレ一言だって聞いてない」
「新一も最初は怒っていたよ。突然招待状なんか送ってくるなんて非常識だ、って」
新一の隣りに座り、まるで慰めるように肩を手を置いた。ショックの余り、新一はその手を払い退ける気にすらなれず、思うがままにさせていた。
「あいつ……そんな素振り、一つも……」
信じられないと頭を何度も振る新一に、快斗は言う。
「あくまで、この世界の毛利さんだから。……新一の世界の毛利さんはそうじゃないんだろう、きっと」
「ああ……そうか」
快斗の言葉に、ほんの少し安心した要に吐息をついた。と同時に、何となく複雑な胸中を持て余す。

「……悪かったな」
ぽつりと呟くその声に、快斗は眉を上げた。
「何?」
「……お前の気持ち、判った気がする」
例え、世界が違うからと言って、新一は新一に違いない。現に新一は、この世界では顔も合わせた事もない蘭の未来を知って、酷く動揺した。
……この世界でも、新一は蘭と一緒に居て欲しかった。
そう思うと、……隣で座る男の気持ちも分からないではない。

「なら……今からでも良いから、オレの事好きになってくれる?」
本気と冗談の入り混じった顔で訊いてくる。
その表情に、新一は意味もなく胸が熱くなった。
「好き、にはなれないかも知れないけど……嫌わないようにする」
何と答えて良いのか判らず、取り敢えずもそう言うと、快斗は嬉しそうに笑った。

「それで良いよ。……新一に嫌われるのは、本当に辛いから」
好きな人に嫌われるのは辛い。
例えそれが別の世界の住人であっても、辛いものは辛いのだと快斗はそう言って微笑んだ。











怪盗キッドという人間は、かなりまめで面倒見の良い人物だと新一は知った。
それまでは、怪盗としての一面しか知らなかった。それは当たり前の事なのだが、キッドでない時の彼は、何処にでもいる一人の青年に過ぎなかった。
……平凡と言うには、些か無理があるようだが。
それは、工藤新一とて同じ事で、一般人であるにも関わらず知名度の高い事は充分承知している。

新一がキッチンに赴くと、そこに快斗が居た。
ガスコンロの前に立って、何か調理している姿を見て、新一は少し驚いた。
……ガスなんて、いっそ止めてしまおうかと思っていたくらい使用頻度が低かった代物が使用されているのだ。
そもそもキッチンがキッチンとして機能している事に驚かされる。試しに冷蔵庫を開けてみたら、食料がきちんと整理されて納まっていた。
元の世界に居た時の風通しの良い冷蔵庫内とは大違いである。

「なぁ……、この世界のオレって、もしかして料理得意?」
同じ新一とはいえ、些かの違いはある事を知った新一である。試しにそう訊いてみるが、快斗は頭を横に振った。
「それはないな」
間髪入れずに、きっぱりとそう答えてくる。
「まぁ、食パンをトーストするくらいは出来るかな。後、お湯をカップ麺に注ぐ事とか」
快斗の話を聞いて、新一は、それは料理は言わないのではないか、と思わないでもなかったが、新一自身もそんなものなので、そこは同じなのだろうと、少し安心した。
こちらの新一の方が勝るというのも、少し悲しいものである。

「料理はオレの担当。タダで住まわして貰っているし、これくらいはしないとな」
とか何とか言っているが、実は裏で洗濯機も回していたりする。おそらくいつもの日常では、部屋に掃除機も掛けたりするのだろう。
「え……と。ハウスキーパーは、居ないのか?」
新一は掃除洗濯に手が回らなくて、週に1度の割合でハウスキーパーを雇っていたのだ。
「ああ……そんなのも居たかな?……でも、オレが来たから必要ないだろう?」
他人をこの家に入れるのも、あまり気乗りしなかったし。と呟いて、ガスを止めた。


「この家って、大きいけど結構設備は古いんだよね。……近々キッチンをを入れ替えようかと思うんだ」
快斗がテーブルに用意してくれた昼食は、イタリアンだった。
ベーコンとほうれん草をトマトソースであえたパスタに、スープ。それとクリームチーズの入ったポテトサラダ。
「本当は、茄子入れたかったんだよね。茄子とベーコンのパスタ。……新一好きだろう?」
くるくると器用にフォークに巻いて、パスタを絡め取る。新一はそんな快斗をちらりと見て、小さく唸った。
「うーん。ほうれん草があるなら、オレとしては、鮭とほうれん草のパスタも好きかな。オイルベースで」
何気なくそう言っただけなのだか、突然食器が不協和音を響かせた。吃驚して顔を上げると、快斗が心なしか顔を青ざめさせて、こちらを見ている。
「KID……?」
怪訝に声を掛けると、快斗は我に返ったように、取り落としたフォークを持ち直して、ぎこちなく笑った。

「ごめん。ちょっと、手元が狂った」
「そうか?」
特に気にすることもなく、新一は再び食べ始める。

「これはこれで上手いぞ、うん。とても、オレは作れないな」
新一なら、パスタを適度に茹でるのも難しそうだ。
取り敢えずフォローすると、快斗は気を悪くした風もなく笑った。

「このサラダも美味い」
ポテトサラダは嫌いではない。しかし、スーパーのお総菜は好きではなかった。でも、これはいける。
こってりしているようで、あっさりとした味。美味しい。……しかし、何かが足りない気がする。
「……何かな?」
「何?」
器を手にしたまま小首を傾げる新一に、快斗も怪訝に訊いてくる。
「美味くなかった?」
こっちの新一は、嫌いじゃないはずなんだけど。と言う快斗に、新一は益々首を傾げる。

「いや、美味いんだよ。……けど、何かが足りない気が」
味に物足りなさが残る。何が足りないのだろう。

気になって、うんうん考えていると、ふいに思い出した。
「そうだ、スモークサーモン!」
「……!」
嬉しそうに叫び声を上げる新一とは反対に、ギクリと身体を硬直させる快斗。

「そうそう。これにスモークサーモン入れて食うと美味いんだよ。あれを和えると、味が引き立つ」
昔、新一がコナンだった頃、蘭が作ってくれた。新一はかなり美味しく頂いていた事を思い出す。
「最近、食ってねーなぁ。サーモン……刺身も食いてぇ」
毎日がコンビニ弁当と言っても差し支えのない食生活を送っていた新一である。

「そうだ。今夜は寿司にしないか?お前もメシ作るの面倒だろ?たまには出前取って……」
「新一……!」
突然悲鳴のような声を上げられて、新一は吃驚して快斗を見た。すると、今にも死にそうな顔をした快斗が眼を潤ませてこちらを見ている。

「お、お願いだから……」
「え?」
「オレを苛めないで」
そう言うと、そのままテーブルに突っ伏したのだった。





新一の今夜の夕飯の提案は流された。新一も、嫌いな物を無理に食べさせるような趣味は持ち合わせていない。
「そうか。魚介類は嫌いだったのか……」
当然の事だが、知らなかった。それにしても、魚を食べる事が出来ないなんて、気の毒な人だ。
しかし、魚嫌いは怪盗キッドの弱点にはなりそうもない。
「海老とかは良いんだ。伊勢エビとかロブスターとか」
後、貝類も。と続ける快斗だが、元気はない。

「あの、『アレ』特有の生臭さとか、おぞましい姿とかがね……ダメなんだ」
そう言って、情けなく笑う。

「……まぁ、誰にだって、嫌いなものくらいあるさ」
あまりの消沈ぶりに思わず慰めの言葉を掛ける新一だが、何かそんな彼の様子が微笑ましく感じた。
「お前ってさ……男に産まれてきたの間違ったよな」
「何?」
「だって、端午の節句って言えば……」
鯉のぼり、と言おうとした所で、突然悲鳴が上がった。
快斗は何よりも、あの、てらてらと不気味に光るびっしり敷き詰められた鱗が、殊の外苦手だったのだ。
吃驚眼で快斗を見た新一は、次いで吹き出してしまった。


「それより……新一が今晩の夕飯の心配してくれると言うことはさ、今日はここに居てくれるのか?」
新一が笑いを収めるまで、何とも嫌そうな表情で口を噤んでいた快斗にふい尋ねられて、新一は曖昧に頷いた。
「あ……まぁ……うん。……どうしようかな」
一刻も帰りたいのは事実だ。あの赤の魔女と呼ばれている女性に会って、速やかに元の世界に返して貰えるよう頼みたい。今でもそう思っている。
「オレがこの世界に存在する事は、この世界にとっても、オレにとってもよくない事だって、言ってたよな」
「確かに。……だが、あの女の話を丸々信じ込むのも早計だ」
「え?それってどういう……」
帰れないというのか?
不安になる新一に、そうじゃないと快斗は頭を振った。

「あの女は、オレにとっては味方ではない。たまに気紛れを起こして助けてくれようとする事もあるが、根本的にアイツは敵だ」
「敵?……そんなヤツにお前は会いに行ったと言うのか?」
しかし、その割にはあの魔女の態度は柔らかであった。どうにも納得しかねると首を捻る新一に快斗は小さく笑う。

「あの女は、オレを目の敵にしていた時もあったんだ。でも、それはオレに対してと言う事で、新一にはそうではないから。……だから、あいつが元の世界に帰ることが出来ると言うのなら、それは事実だと思う」
だが、快斗が新一を引き留めようとするのを知って、大袈裟に騒ぎ立てている可能性だってあり得ない事ではないのだ。
あの女は、自分に靡かないと知るや否や、力ずくでモノにしようとした女である。
全てを頭から信じる程、快斗は彼女を信用してはいなかった。

只、こんな突拍子のない現実に対処出来る人間は、彼女しか居なかったから、会いに行ったまでの事。
快斗は新一の為なら、ある程度の矜持はすっぱりと投げ捨てる事が出来る男でもあった。


「KID……お前、あの女を信じるのは早計だって、言ったよな」
暫く何やら考え込むように、顎に手を当てていた新一が、ふいに顔を上げた。
「それがとうかしたか?」
「……もし、彼女が偽りを言っているとしたら、もしかしたら、それはこの世界に存在していたオレの事じゃないか?」
「え……?」
「お前を困らせてやりたいと思っているのなら、この世界のオレは戻ってこないと言ったって判らないだろ?……だから、もしかして」
オレが元の世界に帰ったら、この世界のオレも戻って来られるのかも知れない。

新一はそう呟くように言って、快斗を見つめた。

「そんな、都合の良い事……」
そうであってくれれば、と快斗は思う。しかし、そう信じ込む事も出来ない。
「取り敢えず、今日はまだ此処に居る事にする。まだ数日は大丈夫だって、彼女も言っていたし」
何となく快斗を一人にさせておくのが不安になり、つい口をついて出た言葉。
しかし、それを聞いた途端、快斗は、ぱっと華やいだ笑顔を見せた。

「本当!?本当に、居てくれるのか?」
嬉しそうに訊いてくる快斗の顔。

その瞬間、ふいに新一は胸の奥に針を刺されたかのような、ちくりとした小さな痛みを感じた。
「あ……うん」
「嬉しいよ、新一」
そう言って、また笑う。

すると、また新一の胸はちくちくと痛んだ。
「……?」
「何?新一、どうかした?」
突然、小首を左右に傾げ始めた新一の様子を変に思ったのか、快斗が気遣うように声を掛けてくる。
「いや……別に、何でもない」
今の新一には、まだ胸の痛みの理由を理解する事が出来なかった。











「だからー。今日はオフだって、言っただろう?」
快斗が電話口で、苛立つように声を上げている。新一はそんな快斗の声を聞きながら、屋敷の中の相違点を探すかのように、ふらふらと歩き回っていた。
床は綺麗に磨き込まれていて、水回りもすっきりと綺麗。窓もそれ程汚れは目立たないし、カーテンからは洗い立てのような石鹸の香りが仄かに匂った。
総合的に見て、自分が居た世界の家よりも数段居心地が良いのは否めない事実だ。

午後の日差しは爽やかで、窓を開けると心地よい風がカーテンを穏やかに揺らした。外の空気を充分に吸い込んで、新一は大きく伸びをした。

「新一、ちょっと良いかな」
ふいに背後から声を掛けられ、慌て振り返る。
「何だ?」
「突然なんだけど、オレちょっと出掛けなきゃならなくなったんだ。二時間もあれば戻って来られる筈だから……留守番していてくれる?」
申し訳なさそうにそう言う快斗に、新一は苦笑しながら頷いた。
「いいぜ、別にそんなに恐縮しなくたって。ここはオレの家だし、用もないし、留守番くらい出来る」
「ゴメン、すぐに戻るから」
快斗はそう言うと、何気ない仕種で新一の腕を掴んだ。その事を意識する間もなく、新一は彼に引き寄せられる。
距離が近くなり、吐息が触れ合うくらいの程に顔と顔が接近する。
新一が驚く間もなく、快斗ががそのまま新一の口を塞いだ。

そして、あまりにも突然に起きた出来事は、新一が抵抗しようとする前にあっさりと離れていく。

腕を解かれ、ふらつく肩に手を添えると、今度はこめかみにキスをされ、眩暈にも似た感覚に頭をふらつかせていると、快斗は穏やかに微笑んだ。
「じゃ、行ってくる」
軽やかにそう言い残して、早々と快斗は部屋を後にした。パタパタと床を鳴らすスリッパの音と、その後に聞こえた扉の開閉音。

新一は、よろける身体を窓枠に手を掛けて支えた。

「……な、んで」
何故だか判らないが、唐突にキスされてしまった。新一は、快斗の好きな新一じゃないのに。
混乱する頭をどうにか整理し、暫くの間考えて、おおよその理解を得た。

多分勘違いでもしたのだろう。……もしかしたら、ああいう事が彼等の日常なのかも知れない。
現に彼は、躊躇うことなく且つさらりと新一に触れて離れていった。新一の恋人だと自称するのだから、それくらいの事はするのかも知れない。……新一自身には、そんな経験など無かったが。

恐らく今の新一が、昨晩に比べれば格段に落ち着いていた事もあるのだろう。新一もかなり普段の自分らしい振る舞いで、彼に接する事が出来ていた。
知人と友人の中間のような態度であったとはいえ、その所為でキッドの脳に軽い混同が起きてしまったのだろう。

ああ、そうか。そうなんだ。と新一は納得した。
……だけど、そう納得したにも関わらず、何故か身体の震えが治まらなかった。指先が小刻みに震えたままで、何とか止めようとするのだが、止まらない。

そして、また考える。今度はそれ程悩む事はなかった。
新一が驚いたのも震えているのも、別に快斗が突然キスを仕掛けてきた所為ではなかったからだ。

初めて会った時も、その夜、そして朝隣で眠っている時にも感じていた恐ろしいまでの嫌悪感が、さっきのキスでは微塵も感じられなかったからだ。
触れられるだけで背筋に悪寒が走って吐きそうなっていたのに、今はまるでない。

新一が感じているのは、捕まれた腕が、やんわりと触れられた肩が、何故か未だに熱を持っている事で。そして、羽のように軽くキスされた口唇が、ぴりぴりと痺れに似た感覚に包まれている事。

それが溜まらなく心地良いと感じてしまう事。

「────!!」

新一は、思わず口元を両手で覆った。

今、なんて思った!?
己の思考が正常であるのなら、今自分は、あの男の接触に対して、気持ち良いと感じなかったか!?

「……んな、バカなっ!」
新一は、絞り出すようにそう吐き出すと、バタバタと部屋を飛び出した。


──オレ、狂った!









居ても立ってもいられずに、家から出たものの、何処かに行くアテも有りはせず、新一は仕方なくその場に蹲った。……わざわざ玄関先で蹲るくらいなら、リビングのソファで丸くなっていた方が建設的だろうが、新一には今自分が何処にいるのかすら頭にはなかった。
只、この場で立ち往生したから蹲ったに過ぎない。

「どうしよう……オレ、変態になった」

いくら相手が新一の事を恋人だ、恋人だと言い続けてたからって、どうして新一まで、そんな変な気持ちにならなければならないのだろう。
別に、洗脳された訳でもないのに。

その相手が女なら、まだ納得出来なくもない。だが、ヤツは男だ。紛れもなく。
当然、新一も男であって、女ではない。だから、相手に迫られて、フラフラと靡くような立場ではないのだ。
なのに、なのに!

まさか、この世界に来た所為で、こうなってしまったのだろうか。もしかして、この世界では同性間の恋愛しか出来ないよう脳内プログラミングされている、とか。
一瞬、そう考えるが、即座に思考をうち消した。……それでは、子孫は繁栄しない。
「何にしろ、オレは異常人間になったんだ……」

「何?何処か身体に異常でもあるの?」

ふいに頭から降ってきた声に、新一は慌てて顔を上げた。
……そこには、紅茶色の髪を揺らした年若い女が立って新一を見下ろしている。

「み、宮野?」
新一は一瞬見とれ、うわずった声を上げた。
彼女は、隣家に住む科学者だった。

「他の誰に見えると言うの?」
驚く新一とは逆に、宮野志保は呆れた顔で首を竦めた。その胸には小包を抱えている。
「黒羽君宛に宅配便が届いてたんだけど、彼居るかしら」
留守がちな工藤家に代わって、隣家は良くこういった事をしてくれる。慣れた業者は、直接隣家に届ける程だ。
それは、新一の世界でも良くあった事。……しかし、あの男の荷物など届くはずもないが。

「い、今は居ない……。出掛けた」
「あ、そう」
特に気に掛けることなく志保は頷いた。それよりも、こんな所で蹲っている新一が気になるようだ。

「ねぇ、貴方……そんな所で何しているの?」
玄関ドアの前である。そんな所で丸くなっている新一を見た志保は、一瞬具合でも悪くなったのかと、ひやりとした思いが胸を過ぎったが、相手の様子を見る限り、特に何かしらの発作が起きたようには感じられなかった。

しかし、顔色は良くない。

「身体に変調でも起きたの?……さっき、異常がどうのとか聞こえたけど」
「宮野……」

新一は蹲ったまま志保を見上げた。訝し気に眉を寄せる志保に、新一は溜まらずこう言った。

「宮野、オレ……変態になったっ!」







支離滅裂な事ばかり発する新一を宥めて家の中に入れ、勝手知ったる他人の台所とばかりにコーヒーをいれて、居間のソファで丸くなって座っている彼にカップを差し出す。
新一は、素直にそれを受け取り、飲んだ。

「で。何がどうして、自分が変態になったと言い張る訳?」
話くらいなら聞いてあげても良いわ。と、志保も向かいのソファに座って、自らいれたコーヒーを一口飲む。

「オ、オレ……何かヘンになったんだ」
「何がどうおかしくなったの?」
まさか、体調が悪いとか言うんじゃないでしょうね。 少し剣呑とした声で言われ、新一は慌てて頭を左右に振った。この世界でも、彼女は新一の身体の面倒を診てくれているらしい。

「おかしくなったのは……頭なんだ」
「頭?」
「その……信じられない事なんだけど……オレ……キッ、いや黒羽快斗が……」
「黒羽君?」
「何か、アイツに触られると……何というか、ドキドキするっていうか、嫌悪感がないっていうか……男なのに、男に触られても嫌じゃないっていうか……」
上手く言葉をまとめられず、どもりながらそう吐き出す新一に、志保の眉はどんどん寄っていく。

そのまま恥ずかしそうに俯く新一に、志保は何とも言えない苛立たしさを吐き出すように溜息をつくと、新一を見据えた。

「何?それは、私に惚気話を聞いて欲しいと、そういう事なの?」
志保は、希に見る美女である。街を歩けば、振り返る男共も数知れない。
……しかし、彼女は未だフリーであった。

彼氏の一人も居ない女に対して惚気るとは、いい度胸である。いくら、志保が敢えて恋人を作っていないとしても、配慮に欠ける態度である事には違いない。
しかし、志保の不快感に気付いた新一は、即座に首を振った。

「違う、そういうつもりじゃなくて……!」
「なら、どういうつもり?」
「それは……その……」
新一はまた口ごもり、暫く考え込むように俯いた。暫くして、躊躇いがちに志保を見つめる。

「なぁ……お前って、オレを変態だって思わないか?」
「何?突然」
「その……男と同居して……男を恋人にしている男を見て、どう思う?」
「別に」
志保は素っ気なく答えた。

「恋愛は自由よ。道徳や倫理に反すると言われたとしても、互いが好きならどうしようもないわね」
「だけど、男同士だぜ?」
「何を今更」
志保はコーヒーカップをテーブルに置いた。

「男が女を女が男を愛するのは、確かに正しい事だと言えるわ。……そうでないと、子孫を生み出せないもの。だけど、だからといって、そう言った性的なモノを含んだ愛情が異性にしか向けられないように人間は作られてはいないのよ」
「けど……っ」
「そういう感情はね、自分自身ですら制御出来ないものだからよ。本能がそれを求めるのなら仕方がないでしょう?」
もちろん、むき出しの本能は危険なものだ。それを抑えるために理性が存在している。しかし、それは単に抑えるだけであって、打ち消すものではない。

「貴方ねぇ。そういう感情を持て余す人の気持ちも分からなくもないけど、彼と同棲してもう1年は経とうって言うのに、何を今更そんな事で悩む訳?」
そんな事思っているって黒羽君が知ったら、どうするの?

「最初に彼を好きになって、彼を自分の方に向けさせたのは工藤君、貴方なのよ。それを今になって悩むなんて」
彼が不憫ね。 と、冷たく言い放つ志保の声に、新一は項垂れる。
「そ……んなつもりじゃ」
先に好きだと言ったのは新一の方だと、そう彼が言った事を思い出す。
この世界に住んでいた新一は、一体彼の何処に対してそんな想いを育んできたのだろう。探偵と泥棒。事件好きだけど、殺人事件専門の新一にとって、出会いを重ねる機会なんて、滅多に有りはしなかった筈なのに。

志保は、あからさまに大きな溜息を吐いた。
「何というか……工藤君らしいというか。……そういう倫理観で頭を悩ますのは、もっとずっと前の段階で起きるべきじゃないかしら。恋を自覚して、その相手が同性だ、自分はゲイかバイかと悩む時期は、正直もうとっくの昔に通り過ぎている事よ?それをどうして今になって、考え込むのかしら」
常々、普通とはどこか違うと思ってきた志保だが、どうやら彼は本当に、世間一般の思考や感覚が異なっているようだと思った。……確かに、そうでもなければ、突然身体が小さくなった事をすんなりと受け入れる訳もない。
「……一度、その頭の中をかち割って、脳の構造を調べたくなってきたわ」
志保は残りのコーヒーを飲み干すと、ソファから立ち上がった。

「工藤君の悩みには付き合っていられないわ。……いい? もし、今度そんなどうでも良いような事で私の貴重な時間を侵す事があったら……問答無用で性転換させるわよ?」
半ば本気とも取れる呟きに、新一は思わず身を引いた。……そうだ、この女はタチの悪い冗談も言うが、本気でやりかねない人間でもある。

「わ、判った……もう、何も言わない」
本気で怯えながら何度も頷く新一に、志保も表情を僅かに和らげると、小さく肩を竦める。

「人を好きになる事に間違いなんてない。……例え相手が犬猫であろうか、炉端の石であろうが……愛したら、その気持ちを大切にすれば良いのよ」
新一だけではなく、己自身にも言い聞かせるように言い残すと、彼女は出ていった。

新一は暫く彼女の出ていった方を見つめていたが、小さく溜息をつくと、手の中のコーヒーを飲み干した。
窓から零れ込む日差しが、一瞬柔らかく揺らめいた。











2時間で帰ってくる。
その言葉を違える事なく、快斗はきっちり2時間で戻ってきた。

来客の痕跡を残したまま、ソファでぼんやりとしている新一を見付けると、快斗は軽い足取りで傍にやって来る。
「新一、ただいま」
上機嫌な声に、新一はのろのろと顔を上げた。
「あ……おかえ……」
最後まで言う間もなく、頤を掴まれ、そのまま口唇を塞がれる。

その瞬間、まるで電気が走ったかのようなピリピリとした衝撃に、新一は思わず顔を背けた。
「あ……悪い」
一瞬怪訝な顔をした快斗が、すぐに自分が思い違いをしていた事に気付き陳謝する。
びっくりした表情のまま見上げる新一の口唇に触れ、親指でぐいと拭った。

「ゴメン。……新一だけど、お前はオレの新一じゃなかったんだよな」
少し悲しそうな顔で微苦笑を浮かべ、快斗はもう一度謝った。

「いい……別に……行きがけにもやられたし……」
拭われた口唇を新一も手の甲でごしごしと擦った。新一の言葉を聞いた快斗はすぐに思い出し、益々消沈した面持ちになった。
「あ……そう言えば、そうだった」
ゴメン……。と、また謝って、快斗は新一から離れる。

「ダメだな……オレ。新一じゃないって理解しているつもりなのに、何でだろう。……お前はオレの新一だって、そう思っちまう」
情けなさそうにそう言って、気持ちを吹っ切るかのように軽く頭を振る。
そんな快斗を見て、新一は複雑な気持ちのまま俯いた。

……喜んで良いのか、悲しんで良いのか判らない。

快斗がしたキスは、新一にはっきり恋の自覚を認識させる程、甘くて柔らかなものだった。
もう、嫌悪感がないとかなんて言ってられない。はっきり感じてしまったのだ。

しかし、そう思う一方で、新一は、ちゃんと判っていた。……この想いは、決して相手に気取られてはならないものだと。
新一は、常よりほんの少しだけ早まっている胸の鼓動を、何とか正常に落ち着かせると、努めて明るく言った。

「気にすんなよ。今後気を付けてくれれば、今までの事、みんな水に流してやるからさ」
「あ、……ああ」
快斗は情けなさそうに微笑んで、空ののまま放置されているコーヒーカップを取り上げた。

「誰か来た?」
「ああ。宮野が、……お前宛の荷物届けに来た」
それを聞いて、快斗は頷いた。玄関に置きっぱなしになっていた荷物があった事を思い出したのだ。

「何か、この世界にもちゃんと宮野が居て……ちょっと吃驚した」
「何?新一の世界には居ないの?」
不思議そうに尋ねてくる快斗に、新一は首を振った。
「いや、ちゃんと存在してる。……でも、随分綺麗だった」
「何?……それって惚けてる訳?」
からかうようにそう言って笑う。

「彼女は綺麗だよ。新一って、結構綺麗所に囲まれて生きてるんだな、って思う。毛利さんも美人だしね」
「そうかな?」
確かに、蘭は綺麗だと思う。でもそれは、惚れた贔屓目かとも思っていたので、真正面からそう言われると、嬉しいようなくすぐったいような。
……無論、この世界に住む毛利蘭は、新一の想い人ではないのだが。

「そんな中で生きてきたのに、オレなんか選んでくれて……感謝してるんだよ。本当に」
「……キッド」
どう言って良いのか判らずに口ごもる新一に、快斗は笑った。

「そうだな。新一に言っても意味ないんだよな。……ああ、もう、オレってホント、どうかしてる」
カップを片付けるべくリビングを後にする快斗を見つめながら、新一は揺れ動く心を持て余すように、長い溜息をつく。


「……どうかしているのは、オレの方だ」











「明日、紅子の所に行こう。あっちも待ってるって」
電話で約束を取り付けた快斗が、何をする事もなくリビングでうろうろしていた新一にそう告げた。
新一は小さく頷き、と同時に思ってはいけない気持ちになっている事に気が付いた。

帰りたくなくなっている。

このままここに居続けたい。そんな、危険な気持ち。

「新一?……どうかした?」
表情を暗くした新一の様子に気付いたのか、快斗が気遣わしげに声を掛けてくる。
そんな彼の心遣いに、胸の奥を小さく痛めながら新一は微笑んだ。

「いや、別に何でもねーよ」
努めて明るくそう言うと、相手も安心したように笑う。

「ねぇ、新一。折角だし、夕飯は外で食べない?新一も、家の中ばかりでは息が詰まるだろう?」
快斗の提案に新一は素直に頷いた。じっくり町中を観察してみたいというのもある。
「アレ」は無しね。と、苦笑しながら言う快斗。「アレ」とは、主に魚介類を指しているのだろうと新一は思った。
「何でも良い」と、新一が言うと、彼はアレコレ考えた挙げ句、「豚カツにしよう」と言った。

最近、サクサク衣が美味しくて、ボリュームあるのにくどくもなく、食後の胃もたれ感を感じさせない名店を見付けたのだと言って、新一を誘う。
「オレ思うんだけど、新一って少しやせすぎのように感じる。こっちの新一の方がまだ肉付き良いよ」
笑いながら、だからボリュームのある豚カツなんてのにしたのかと、新一は思った。その気遣いが嬉しくて、……もう一人の自分が羨ましかった。

快斗が案内した店は、とても落ち着いた雰囲気で、新一もくつろいで食事する事が出来た。彼の言うとおり、ボリュームたっぷりなのに、全然しつこくなくて、何枚でもいけそうなカツだ。快斗は、お代わり自由のご飯とキャベツの千切りを躊躇い無く頼んでいた。
「ドレッシングも、この店オリジナルなんだよ」
キャベツにそれを掛けながら、新一にそう説明する。
楽しそうな快斗に、新一もふんわり幸せな気持ちになった。

……だけど、目の前の快斗は新一の快斗ではない。
新一は、心の中で、何度も何度もその事を言い聞かせた。



穏やかな食事の時間を終えると、二人は満足して店を出た。
「所で、お前って一体どんな仕事をしてるんだ?」
帰り道、新一は少し気になっていた事を尋ねてみた。
彼が怪盗キッドである事は、紛れもない事実だが、黒羽快斗も泥棒を生業にしているとは思えない。なら、彼は何らかの職業に就いている筈だった。

「ああ、オレ?……オレは、売れないマジシャン」
「マジシャン?」
「そう。浮き沈みの激しいやくざ家業」
別に卑下する風でもなくそう嘯くと、にっこり笑った。

「マジシャンなオレに、探偵な新一。どっちも、不安定な職業でお似合いだろ?」
それが自分達らしいのだとそう言って、彼はまた笑う。

新一の心が、きしきしと軋む。
幸せなんだ。
この世界の快斗は、新一と共に居られて、とても幸福なんだ。
そして、この世界の新一も思いは同じだろう。……きっとそうだ。

きしきしと軋む。新一の胸の奥が痛い。
訳もなく、心の中で泣きたくなった。


「そ……そっか。オレは、未だにフラフラしてる。オレも何かちゃんとした職見付けなきゃ」
「んー?別に急がなくても良いんじゃない?……新一はさ、サラリーマンなんて出来るガラじゃねーし、かといって事件好きだからと警察官にもなれそうにないし」
「……何か、オレって社会不適合者みてーだ」
情けなく呟く新一に、快斗は首を振る。
「そうじゃなくて。……新一は、新一にしか出来ない事があるんだと思う。ほら、新一の親だって自由業だろう?新一も、自分の身一つで食える人間なんだと思う」
「そっか……。そうかな」
でも、新一は作家になるつもりもなければ、俳優になるつもりも全くない。

「……やっぱり、オレも探偵、かな」
趣味と実益。食べていけるかどうかは判らないが、……まぁ、少なくとも毛利探偵よりはマシな稼ぎが出来るのではないかと、甚だ不遜な事を考えた。

「結構大変だぜ?遊びで探偵ごっこ出来る程、単純じゃないよ」
「……ああ、判ってる」
そうすると決心しても、実現するのに長い準備期間が掛かるだろう。新一は、探偵として誰かに雇って貰おうと考えている訳ではなく、初っ端から、探偵事務所を起こしてやろうと考えているだから。
……きっと、それは、この世界の自分自身と張り合っているのかも知れない。新一はそう思って、密やかに自嘲した。

夜の少し冷えた夜風を身体に受けながら、二人はゆっくりとした歩調で歩いていた。沢山の人とすれ違い、公道を走る車の排気音と、店先から流れる音楽や人の声が、新一の中を通り過ぎていく。ゆっくりなのは、新一が緩慢に歩いているからだ。快斗は、そんな彼の歩調に併せて隣を歩いてくれている。

どこにでもある夜の風景だ。この世界も元居た世界も、こんな風に時は過ぎている。変わらない、町の喧噪も、人々のざわめきも。……本当に、此処は限りなく近い世界。
只、新一の存在だけが、はっきり異質だと伝えている。今になって、それがたまらなく辛い。


思考と身体が分離するのは、新一のクセだった。
何時も事件の事を考えながら、ご飯食べたり、歯を磨いたり、風呂に入ったりする。

この時も、まさに新一はそんな状態だった。
隣に快斗が居るのは判っている。自分が町中を歩いているのも判っている。……だけど、頭の中は全く別の事で一杯になっていた。
時折巻き上がる風にすら気付かずに、新一は黙々と歩を進め、一体何処に向かっているのか理解していないまま歩いていた。

──だから、新一はこの時、一瞬何が起きたのか把握出来なかった。


「──新一、危ないっ!」

パッと、白い光が新一を不自然に強く照らした事に、果たして気付いていただろうか。
眩しいと感じたのは、快斗が声を上げた後のような気がする。

足が、アスファルトからふわりと離れたのは何故か。
そもそも、新一は何故車の往来の激しい路上を歩いていたのだろう。さっきまでは、歩道をちゃんと歩いていたと思ったのに。
そこまで考えて、ようやく、ある答えに行き着いた。

……そうだ。横断歩道を渡っていたんだ。

90°に傾いた信号機に視線を向けた。傾いているのは、己の身体がひっくり返っているからだ。歩行者用のそれは、今、青信号が点滅してる。
別に、赤信号で渡っていた訳じゃねーよな。 じゃあ、どうして身体がひっくり返っているのだろう。

暫く色々考えていた気がする。だけど現実には、ほんの数瞬の事だった。いつもは無関心に通り過ぎる人間達が、慌てたように駆け寄ってくる。
「……あれ?」
思わず漏れた呟きに、新一は我に返った。アスファルトに寝転がっている筈なのに、どうも暖かくて柔らかい感触が付きまとう。不思議に思って身体を起こそうとしたのだが出来ない。
身体が柔らかく拘束されているようだ。……そう感じた瞬間、目の前の存在に気が付いた。

「……キッド?」

彼は新一を包み込み、顔色を無くして横たわっていた。





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