Love note After





「……マズイ」
工藤新一は、新幹線の中でそう独りごちた。

マズイ……と言うよりも、ヤバイ。

新幹線は、刻一刻と目的地へと向かっている。……もちろん、東京である。
3日間の出張を終えての帰途。しかし、新一の心は優れない。

「……やっぱ、マズイよなぁ。でもなぁ……」
新一の座席の隣りに乗客は居ない。なので、彼の独り言に眉をひそめる人間は居なかった。幸いにも、この車両にはほとんど客が乗っていなかったので、彼が多少大きな声で独り言を零していても、誰の迷惑にもならなかった。

「し、仕方ないよな。……何せ、事件起きちまったし」
此処には居ない誰かに向かって言い訳する。
「まさか、依頼者が殺されるなんて、オレだって夢にも思っていなかったんだ。……だって、報告書を届けるだけだぜ?それだけなら、小一時間もあれば済む筈だったんだ」
依頼者の住んでいる所が、交通機関の乏しい山奥であったが為に、移動に多大な時間を要してしまうが、それでも2日目の午前中には東京に戻れた筈だったのだ。

……それが、この有様である。


新一は、ごそごそと胸ポケットから携帯電話を取り出す。
それを溜息を吐きつつ眺め……また溜息。
……見つめる彼の携帯電話。電源は入っていない。
入っていれば、新一も此処まで精神的に追い詰められる事も無かったかも知れない。

「けど……現場圏外だったし」
どこまで行っても圏外で、苛々してそのまま電源を落として、既に丸3日。
今は当然受信範囲ではあるが……今度は、電源を入れるのが怖くて、それが出来ない。

情けない顔で暫くそれを見つめ、意を決して電源ボタンの上に指を持ってくる。
「……」
根性無し、である。

そうやって躊躇している間に、どんどん目的地に近付いて来る。
新一は、何度も大きな溜息を吐き続け、……結局東京に着くまで携帯の電源を入れる事は出来なかった。



東京に着いたのは、そろそろ昼に差し掛かろうという時刻だった。
悩みすぎて食欲のない新一ではあるが、その悩みを一瞬でも忘れたいが為に、少し早めの昼食を取った。それから、取り敢えず事務所に戻る。
……本当は家に帰りたかったのだが、未だ決心が付かない。それに、長い間事務所を留守にしていた事もあり、そちらも気になっていた。

重い足取りでそこに向かい、事務所の鍵を開けて中に入る。
何せ開業したばかりなので、所員は新一独りだ。極々たまに、隣家に住む宮野志保が手伝ってくれたりもするのだが……如何せん、彼女に経理は無理があった。
ぐたぐた悩みながら、新一はデスクに向かうと、置かれているPCの電源を入れ、起動する間に鞄を脇に放り投げ、上着を脱いで、それも近くに設えてあるソファの上に投げ捨てた。

「……ヤバイよなぁ」
起動したPCで取り敢えずのメールチェック。何通か受信した後、それらを銘々振り分けて、次の仕事の準備に取り掛かる。
留守電にも、何件か入っていた。それらは特に急を要するようなものはなく、新一はやれやれと肩を落とした。

「……快斗、怒っているよなぁ。きっと」
以前も、同じような失態を犯した事がある。その時は2日間、音信不通にしてしまった。その時も、彼には「1時間で戻る」なんて言っていたのだ。帰ってきたら、二人で食事に行こうと約束していたのに、新一が帰宅したのは、48時間後。
もちろん、その間一切の連絡が出来なかった。

……出来なかった。というのは少し語弊があるかも知れない。しかし、連絡しなかった訳ではない。
「連絡をしなければならない」という事を忘れてしまっていたので、わざとそうした訳ではないのだ。
しかし、あの時の快斗は酷く怒っていた。それは、約束を反故にされた所為ではなく、……心から新一を心配しての事だった。

やはり、新一の仕事に問題があるのだと思う。
もし仮に、新一が普通のサラリーマンであったなら、はたまた公務員であったなら、快斗は余計な心配などしないと思う。

新一は、職業としての探偵になる事を心に決め、ようやくこの春から探偵事務所を開いた。
その気になれば、すぐにでも探偵業を始める事も可能ではあった。しかし、元々客商売に向いているとは言い切れない新一である。しかも、依頼をえり好みしそうな自分も分かっていたし、例え前向きで励んだ結果、いつの間にか興信所のような事ばかりしている現状になってしまった、なんて事も避けたかった。
だから、新一は短くはない準備期間を設け、その間着実に基盤を築いた。

そうして開いた探偵業も、ようやく軌道に乗り始めた。

もちろん、今も警視庁……特に1課の要請を受けている。特に新一は、警察に相談にやって来る民間人で、彼等がまだ手出し出来ないが深刻な事態を招きかねない、と言ったような、一歩間違えば身の危険がある人々を個人的に紹介して貰ったりもする。もちろん、これらはほとんどボランティアのようなもので、しかし、そう言った繋がりでの紹介は信用度が高く、次の仕事に結びつく事も多い。

新一は、かつて紙面を賑わせていた『高校生探偵・工藤新一』のネームバリューは一切使わなかった。あくまでも、一探偵として依頼者と向き合い、誠実に仕事をこなしているのだ。

お陰で最近は、少しずつ利益が上がってきている。……やはり、男は稼いでなんぼである。
これは、無意識の同居人に対する対抗意識の現れでもある。


「だってさ……アイツ、かなりの売れっ子なんだから」
参るよなぁ。 新一は小さく溜息を吐く。

新一の同居人の黒羽快斗はマジシャンである。
しかも、かなりの売れっ子でもある。
彼ほどになれば、仕事をえり好みするのも可能だろうが、だが、未だに地道に地方公演も続けている。
……どんな場所でも、最高のショーを披露する。
そんな彼の姿勢を新一はとても好ましく思う。だから、彼も快斗に負けないよう、誠実な人間でいたいと思う。


「……誠実、か」
新一は、目の前の電話をじっと眺めた。

彼は今、自宅にいるだろうか。1週間のオフだと言っていたその翌日に、新一は3日間も留守にしてしまったのだが……。
新一は、事務所の電話の受話器を取り上げた。直接携帯に連絡すれば良いものを、新一はほんの少し躊躇われて、まずは自宅の電話番号を押した。

コールは5回。

6回目が流れる前に回線が繋がる。
『はい……』
「ゴメン、ゴメン、ゴメン、ゴメン、ゴメン、ゴメンナサイっ!!」
相手を確認する余裕もなく、新一は一気に謝った。

『……し、新一……?』
「快斗、ゴメン!今まで、連絡出来なくて……オレ」
相手が思ったよりも落ち着いた響きで新一の名を呼んだ所為で、新一自身も落ち着けた。
『……新一、お前一体何処に』
「仕事先で、事件に巻き込まれたんだ……依頼者が殺されてさ。帰る予定が延びるなと思って、すぐに連絡しようとしたんだけど、山奥なもんだから携帯使えなくて、それに……」
マジシャンではない、もう一つの仕事の邪魔をしてしまうかも知れないと、夜に連絡を入れるのは控えたのだ。

しかし、そこからが新一の悪い癖で。
事件に没頭する余り、時間の感覚があやふやになって……気付いたら2日以上も山奥の事件現場に張り付いていたのだ。
しかも、馴染みの管轄での事件でもなかった所為で、予想以上に後手後手に回り、一時は容疑者扱いまでされそうになった。

そんな新一が快斗の存在に気付いたのも、帰りの新幹線の中でだ。
……折角まとまったオフが取れたから、何処かに旅行にでも行こう。と誘ってくれていたのに。

「あ、今はこっちに帰ってきている。事務所から電話してるんだ……。で、あの……」
真っ直ぐ家に帰ってこなかった事に腹を立てるかも知れない。と、一瞬ヒヤリとしたが、快斗は気にしなかったようだ。

駅まで迎えに行く。と、そう言われ、新一も思わず頷いて、何とか穏便に電話を切る事が出来た。











米花駅に着いて、ホームに足を降ろした途端、身体の自由を奪われた。
「── うわっ」
背後で電車のドアが閉まる。新一を運んできたそれは静かに発車し、通り過ぎていく。

驚くまでもなく、彼の身体を拘束しているのは快斗だ。彼は、電車から降りた新一をすかさず抱きしめたのだ。
……しかし、これは少し恥ずかしい。それ程の乗客は居ないとはいえ、ホームには多数の人の目がある。
「── か、快斗。ちょっと離せよ……人が」
「新一……会いたかった」
ぎゅうぎゅう抱きしめたまま、彼は離さない。
……実は、新一としても、3日振りの快斗のぬくもりに、うっとりとなりそうになるのだが、如何せん、此処は公共の場である。

「と、取り敢えず、離れてくれ。……続きは帰ってから、な?」
彼の背中を軽く叩いて、最後の台詞は彼の耳元で密かに囁いてやる。……すると快斗は、渋々と言った体で新一を解放した。

「それにしても、ホームにまで来るなんて……改札口で良いのに」
「迎えに行くって言っただろ?」
それに、一刻も早く新一に逢いたかったし。……と、そう言われ、新一の頬が少し熱を帯びた。
当然とばかりに、快斗は新一から荷物を奪い取ると、ホームを後にする。
慌てて新一も後に続き、並んだ所で、そっと快斗を伺った。

「……なぁ。怒っていないのか?」
蒸し返すのも何だが、少し何時もと様子が違うような気がして、敢えて尋ねた。

「怒っていない。オレ、何時だって怒っていないよ。……只、心配してるだけなんだ」
改札を通り抜け、バス停へと向かう。
「快斗……」
「心配して、不安になって……だから、何時もオレを安心させて欲しいと……そう思っているだけ」
我が儘だよなぁ。と、快斗は頭を掻いた。だけど、その気持ちは新一にだって良く判る。
彼が、何時何処で危険な目に遭うか。……彼がいつまでも裏の仕事を続けていく限り、その危険性は、新一の比ではない。
しかし、新一は敢えてその気持ちを口にする事はなかった。しなくても、彼は理解ってる。その上で歩んでいる道ならば、新一は彼が負担に感じないように配慮するだけだ。

……そんなささやかな気遣いも、一旦事件にのめり込むと、何処かに飛んで行ってしまうのが困り所なのだが。


「……もう二度と、音信不通にしたりしないから」
「その言葉聞くの、もう3回目」
愁傷な新一の言葉に、快斗はくすくす笑いながら言った。

「次にこんな事になったら、オレに発信器付けたって構わないから」
「ああ、それは良い案だな。……用意しておく」
冗談のようにそう笑い、二人はバスに乗り、そして近くの停留所に降り立った。そこからは、歩いて家へと向かう。その間、二人は何となく無言だった。

新一の家は、周囲の屋敷よりかなり浮いた本格的西洋風な建物であるが、それ以上に隣家の建物の形状が奇抜な所為もあって、あまり目立たない。数年前までは、巷で幽霊屋敷とまで噂されていたのだが、特に快斗と同居を始めてから、そんな噂は聞かれなくなった。

新一にとって、3日振りの我が家だ。折角快斗が休みなのに、3日も留守にしてしまった事を、今更ながらに悪いと思った。

快斗が門を開けている時、隣家から人が出て来た。
「あら、工藤君。お帰りなさい」
彼等に気付いた彼女が、いつものようにそう声をかける。

「ああ、宮野。ただいま」
隣家とは昔から家族ぐるみの付き合いだ。それにしても、こんな時間に彼女と会うのは珍しい。
「出掛けるのか?」
「ええ、研究所の方にね。本当は朝一番に向かいたかったのだけど、工藤君の頼みじゃ断れないもの」
「……え?」
新一の怪訝な表情を余所に志保はそう言うと、ふと快斗に視線を向けた。

「黒羽君。……出歩いたりして、大丈夫なの?」
志保の言葉に、新一は首を傾げた。

「お気遣い頂き、感謝します」
快斗は舞台の上であるかのように、優雅に腰を折って、それから機嫌良く微笑んだ。
そんな快斗の態度に志保は満足げに頷くと、バスの時間に間に合わなくなるからと言い置いて、足早にバス停へと歩き去る。
新一は、そんな志保の後ろ姿をぼんやりと眺めていたが、快斗に呼ばれて我に返ると、屋敷の中に入っていった。

「出歩いてって?何……お前、どっか悪いの?」
腑に落ちない気持ちで、前を歩く快斗に問いかける。……新一が留守にしている間に何かあったのだろうか。
しかし、新一の心配を余所に快斗は、何でもないと言い放つ。新一も、彼に負い目がある事もあって、特に詳しく尋ねるつもりはなかった。



快斗は、ひとまずリビングに荷物を降ろし、キッチンへと向かう。その間に新一は着替えを済ませた。暫く締め切っていた部屋の窓を開けると、心地よく爽やかな風が吹き込んでくる。
新一は大きく伸びをすると、部屋を後にし階下へと向かった。

階段を下りると、香ばしいコーヒーの匂いが鼻腔をくすぐった。荷物の整理をする前にキッチンに寄るが、そこに快斗の姿はなかった。
小さく首を傾げつつも、新一はいれたてのコーヒーをいつもの愛用カップに注ぎ込み、リビングへと向かう。
一口飲んで、それをテーブルの上に置き、荷物の整理に取り掛かった。一泊のつもりで用意していた荷物はそれ程多くなかったが、連泊途中で着替えが無くなり、結局洗濯物が増えてしまった。それらを抱えて洗面所横に設置されている洗濯機まで運び、それらを中に放り込む。
洗剤入れてスイッチを押せば、新一のような人間でもちゃんと一通りこなせてしまう全自動洗濯乾燥機は、とても重宝だ。
暫くの間、静かに回る水音に耳を澄ませていたが、満足気に溜息を洩らすと、その場を後にする。


快斗の姿が見えないなと思いつつ、何となく気が向いて新一は彼が使っている客室に足を向けた。
一応、プライベートな空間を持つのも必要だと言う観点から、新一は使われていない部屋を提供したのだが……結局の所、完全なプライベートな場所ではない。新一はノックもせずにしょっちゅう出入りするし、新一の部屋もそうだ。
部屋の主が留守中の時でも、勝手気ままに出入りしている所為で、その日の新一もいつものように突然部屋のドアを開いた。

「快斗、いる──?」
そう言いながら部屋を覗き込んだ瞬間──新一は、呆然とした体で立ち尽くす快斗を目の当たりにした。
「……快斗!?」
……何か、様子が変だった。彼は、デスクの前に立って、微動だにしない。新一の声も、聞こえてはいないようだった。

「快斗、一体どうし……」
心配になって、部屋に入る。快斗の傍まで歩み寄り、彼の顔を覗き込む。
……新一は思わず言葉を失った。

快斗の双眸が大きく揺れて、潤んだ瞳から大粒の滴がこぼれ落ちた。

「快斗……何で……」
泣いているんだ……?

新一は、今まで快斗が泣いている姿を見た事が無い。彼の人となりを知り始めて、もう随分経つが……快斗がこんな表情を見せた事など、一度も無かったのだ。

掛ける言葉が見付からずに、新一はそっと彼の腕を取った。すると、ひくりと快斗は身じろぎして、ようやく隣に新一が来ている事に気付いたようだった。
「あ……新一……」
情けない程に掠れた声を聞いて、新一は益々不安を募らせていく。
「快斗、何かあったのか……?」
先程までは、普段の快斗だった。なのに、何故突然……。

快斗は、自分が泣いている事に今頃気付いたのか、吃驚したように目を瞬かせ、乱暴な仕種で涙を拭った。
新一は、快斗の様子のおかしくなった原因は何だろうと、軽く目線を動かして辺りを見渡すが、特に変わった事はなさそうだった。

── と思ったその時、ふいに、新一の視界に『青色』が飛び込んできた。

何時も彼が愛用しているデスク。脇には専門書が積み上げられ、反対側にもレポート用紙が乱雑に置かれているその隙間を埋めるように、真っ青な……コバルトブルーの色をした封筒が置かれていた。
それを見た瞬間、ふと何かが引っかかった。

何だろう。……新一の記憶の中で、過去にそれを見た事があるような気がしたのだ。
何処にでもある大きさの、何の変哲もない封筒。

……しかし、新一が良く良くそれを見つめた時、──変哲は、あった。


「あ……」
思わず上擦った声を上げ、快斗が怪訝に新一を見つめた。
新一は……それが、どうして此処にあるのか理解出来ずに、青い封筒を凝視した。

何の変哲もないと思われたその封筒には、はっきりした字で『黒羽快斗様』と書かれている。……それは、新一の筆跡だ。
間違いない。少し角張った文字。── 確かにこれは、新一が自らの手でしたためたものだった。

それを見た瞬間。新一の記憶が呼び起こされる。
新一が、これだけの事を書くのに何時間も考えて悩んで、そうしてようやく書き綴った言葉。
封筒の表面に、想いを託すように、強い筆圧で彼の名を書いた事を昨日の事の様に思い出す。

── それは、新一の……忘れ得ぬ記憶。

しかし、その封筒の存在は、理解出来ない事だった。
現在(此処)にあるべき物ではないはずだ。

「何で……此処に……?」
訳が分からないと言うように頭を振り、新一はデスクに手を伸ばす。「あっ」と快斗が声を上げる前に新一の手にその封筒は握られた。

「どうして……」
「……新一?」
快斗の声で我に返ると、新一は彼を見た。不安と戸惑いと躊躇いと……様々な感情が交錯したような表情を目にして、── 新一は脳裏にあるの女性の姿が浮かんだ。

2年前……。
そう。もう、あれから2年もの月日が流れたのだ。

あの日、あの場所で、新一が最後に会った彼女が、別れ際に放った言葉。
これまで、その言葉の意味を深く考えはしなかった。彼女流の別れの挨拶程度にしか認識していなかった。……しかし、違う。

彼女には、最初から分かっていたのだ。新一が何処からやって来たのかを。

様々な思いが、奔流のように新一の脳裏を駆けめぐった。そして、快斗と築いてきた月日を強く噛み締める。

「快斗……」
新一は、その手紙を強く握りしめたまま、頭を垂れた。
「新一、一体……?」

「オレ、頑張ったんだ……お前が言ったから、お前が言ってくれたから……だから頑張ったんだ」
何を言い出したのか理解できない快斗が、おろおろと彼に手を伸ばす。
……今度は、新一が泣きそうな顔をした。どうして泣きたくなったのか、それは悲しいからでも嬉しいからでもない。

「例え面識薄くても、絶対にオレを無下にはしない、って、本当だった」
無謀な新一の告白に、彼は決して突き放しはしなかった。困った顔して、本当は煩わしくてたまらなかっただろうに、彼は根気よく新一の想いを聞いてくれた。

「『どの世界のオレであっても、オレが新一に惚れない訳ない』って、お前言ったんだ。……言ったんだよ」
「え……」
「お前が黒羽快斗であることも、職業がマジシャンである事も、近所には馴染みの警部と幼なじみが住んでいる事も、全部全部、お前が──お前の口から聞いたんだ」
そう言い放った瞬間、新一の視界が揺らめいた。快斗が、驚いた表情で新一を見つめていたが、泣き出した新一には、はっきりとは見えなかった。


── また何時か、会いましょう。


彼を元の世界に帰してくれた赤魔女が、新一に向かって言った言葉は、気休めでも希望でもない。
紛れもない真実だったのだ。











絶対に好きになれる訳がない。

そう思っていた。新一が男を……しかも因縁浅からぬ犯罪者を好きになるなんて、それこそ天地がひっくり返ってもあり得ない事だと。
なのに、たった24時間で、新一の想いはいとも簡単に覆されてしまった。好きな相手が居た筈なのに、ずっと彼女と幸せになる事だけを考えていた筈なのに……今は全く別の、違う男の事で心の全てを支配されている。

こんなにも……こんなにも、自分は節操のない男だったのかと、自らを顧みる事すら出来ずに、新一は快斗への想いを強く噛み締めていた。
このままでは、何時か想いが堰を切って溢れ出してしまう。

いや、『何時か』なんて、そんな曖昧なものではない。もう、今にも決壊しそうだ。
恋とは……愛とは、こんなにも突然に襲ってくるものなのだろうか。
それまで体験してきた淡い恋心とは、全くの別物のようにすら、新一は感じていた。


快斗には……もう逢えないと、その時思った。
逢ってしまえば、この想いを口にしてしまいそうで、怖い。彼には、自分を好きになって欲しいと願うけれど、それと同時にこの世界の『工藤新一』以外の人間を愛して欲しくはないとも思った。
新一自身は会った事のない、もう一人の『自分』だけを愛して欲しいと。これもまた、偽らざる気持ち。


新一の不注意で、快斗を事故に巻き込んでしまった新一が一人で帰宅してから、彼の事だけ考えてる。
誰も居ない、ひっそりと静まりかえった家の中で、夜を過ごした。眠りたいという気持ちにはなれず、かといって動きたい気持ちにもなれず、床に座り込んだまま、僅かに開いたカーテン隙間から差し込む月の光とその影を、見るとは無しに目で追っていた。

快斗は……もう眠っているだろうか。
頭を打って朦朧としていた彼を思い出し、新一は暗く沈んだ。あんな惰性で突っ込んで来る車くらい、避けられて当然だったのに、わざわざ新一を抱き込むなんて事するから。
「……ごめん」
好きな人に怪我をさせてしまった。

小さく呟いた謝罪の言葉は、もちろん彼に届く筈もなく、しかし新一はそれでも繰り返し何度も呟いた。
まるで、『好き』の代わりに告げるように。


「……キッド」
責任を持って、明日彼を迎えに行くと、新一は彼にそう言った。
その言葉を聞いて、快斗は嬉しそうに頷いた。
「ごめん」
……だけど、もう逢えないと思った。

あんなに、あんなにも、幼なじみに対して言えなかった『好き』の二文字が、彼の前なら思わず零れてしまいそうで、それが怖い。
彼女に対する想いも彼に対する想いを同じ筈なのに、どうしてこうも自分を抑えられないのだろう。
自分で自分の気持ちが怖くなる。
……だから、もう会うことは出来ないと。


そこまで決心しているのに、なのにどうしても想いを収める事が出来なかった。好きと言う想いに応えて欲しい気持ちと、望みたくない気持ちがせめぎ合って、心が揺れて。
悩んで考えて……そうしたら、ふいに友人の言葉が浮かんだ。


──なら、手紙にしたためるというのはどうだろう。

「……白馬?」
新一は思わず顔を上げた。脳裏に蘇る彼の声。

──手紙なら、直接相手の顔を見ずに告白出来るし。それに、君みたいなタイプなら、きっと手紙の方が上手くいくよ。

「だけど……」
そんな風に想いを告げてしまっても……構わないのだろうか。

──大丈夫。想いを伝えるのは、躊躇うことじゃないんだよ。

力強く請け負う白馬の顔を思い出し、新一は泣きそうな顔を歪めた。
「判った。……やってみる」

新一は、この気持ちを手紙に託す事に決めた。



明日、迎えに行けない事への詫びと、彼を好きだという気持ちを伝えて、それを手紙に託して、この想いにケリを付けよう。
新一は立ち上がると、自室へと向かった。何時も使っているデスクの引き出しを開けて、便箋と封筒を探した。しかし、手紙をしたためる習慣のない新一の引き出しにそれらは見付からなかった。
仕方なく、机に出しっぱなしになっていたノートを取り上げると、一枚引き裂いた。そして椅子に腰掛けペンを取り出すと、ぎこちなくも真剣に言葉を綴り始めた。
何度も書いては書き直し、推敲を重ねる度にノートが薄くなっていく。

想いを綴ることが、こんなに難しい事なんて、新一は知らなかった。
結局書き上がったそれは、「これで、作家の息子なのか」と言わざるを得ない程の出来で、しかし新一は構わずそれを四つに折った。
その頃には、既に外は白くなり始め、月光に代わって太陽の光がカーテンの隙間から光を届けた。

新一は立ち上がり、階段を降りて、リビングへと向かった。書き上がったそれを丁寧な仕種でキャビネットの上に置くと、ソファに投げ出されていたままだった上着を取り上げて着込んだ。
それから何気なくぐるりと見渡し、一つ大きく息を吐くと、ノートの切れ端に書いた手紙を取り上げる。
その時、ふいに新一の視界の端に青色が映った。
快斗のだろうか。キャビネットの端に置かれていた、見覚えのない書類。その隙間から、目の覚めるような青色の紙片が覗いていた。興味をそそられて引き抜いてみると、それは真っ青な封筒だった。
表面にも裏面にも、何も書かれていない。郵便番号の枠すらない。横型の、しかし決して趣味的ではない。ただ、その色があまりにも鮮やかで……真っ青な、コバルトブルー。

新一は暫くそれを見つめていたが、次の瞬間には、それにノートの切れ端を折り込んだ手紙を入れた。
それから、コンソールの引き出しから糊を取り出して、封印する。
それを表面に向けてテーブルの上に置くと、暫く考え込んでいたが、決心したように頷くと、そこに快斗の名前をフルネームで丁寧に綴った。



最後に、快斗の部屋へ赴くと、彼が何時も使っているであろうデスクの上に、手紙をそっと置いた。

快斗が、この手紙を目にする時は、新一はもうこの世界には居ない。
それを見て、快斗がどんな気持ちになるのか判らない。

喜んでくれるのか、悲しんでくれるのか、怒り出すのか……。そのどれもがあり得そうで、新一は予想が出来ない。
でも、それで良いと思う。

新一は、そうして暫くの間、デスクを見つめていたが、吹っ切るように顔を上げると踵を返し、そのまま振り返る事無く部屋を出ると、ゆっくりドアを止めた。
カチャリ、と乾いた音が一際大きく響いて、新一はその場から逃れるように足早に屋敷を後にした。




彼への想いを託す唯一の方法であるこの手紙に、全ての気持ちを込めて。











全ては、新一の手の中にある手紙が物語っている。全ての真実を。
これは、新一が体験した、奇妙な……そしてその後の新一の人生を大きく変えさせた、忘れぬ事の出来ない出来事の、唯一の物証。

新一は、あの時の事を昨日の事のように思い出せる。……新一がひょんな事から飛ばされてしまった、別の世界での出来事を。

「『オレ』が……居たんだな。昨日まで」
あの時の新一が、昨日、この時間に存在していたのだ。

「新一……本当に、新一なの?……オレが昨日まで一緒に居た新一が……本当に?」
泣き出してしまった新一に、快斗は先程まで胸一体に広がった悲しみを振り払い、新一の肩を抱いた。

「でも、分からない。新一はどうして……新一は二人居たのか?」
同じ世界に二人の新一が存在していた。しかも、双方ともに同じ……同一人物?
「……お前が……昨日、一緒に居たのは、──2年前のオレだ」
「2年前……」
信じられないと呟く快斗に、新一は溢れる涙を拭った。そして快斗の顔を見つめる。

「そうだ。オレは別の世界に飛ばされたんじゃない。同じ世界の……未来に飛ばされていたんだ」
「未来……タイムスリップ?」
どうして新一が時間を渡ったのかは分からない。あの日、赤魔女が言った、時空間は薄絹を裂くほど容易に存在しているという事を信じるのならば、新一のタイムスリップもあながち珍しくはないのかも知れない。
……昔の人は、人が居なくなると、神隠しと言って恐れた。居なくなった人々も、もしかしたら新一のように飛ばされてしまっているのかも知れない。
新一は運良く元の世界……元の時間に戻る事が出来たが、それはきっと奇跡のような確率だろう。


「彼女は、最初から判っていたみたいだ……」
「彼女?……紅子か」
新一の言葉に、快斗は一瞬顔をしかめた。

「アイツ……オレの新一の居所を知らないって」
忌々しげに呟くが、その表情は決して怒ってはいなかった。
それよりも、新一の存在を確かめるように、何度も強く抱きしめる。


「……これで、謎は解明されたよな」
抱き寄せたまま離そうとしない快斗に、新一は抵抗せずに大人しく抱かれたまま小さく微笑む。
「何が……何の謎?」
「だから、オレがどうしてお前の事を知っていたと言う事をだ。お前の本当の名も、好きな物も苦手な物も……全部お前がオレに教えてくれた事なんだよ」

時系列的には、個人的には関わった事って無かった筈なのに、新一は『怪盗KID』の正体を知っていた。
躊躇いもなく彼を『快斗』と呼んで、KIDを振り向かせた。

「オレが情報源を口に出来なかった理由……理解してくれたか?」
一生口に出来ないと思った。別の世界で、もう一人の『快斗』を好きになった事など。
それは、言ったところで信じて貰える筈がないという思いと……最初好きになったのは、本当は別の人だという罪悪感。

「オレ、元の世界に帰ってから、お前の気持ちが分かった」
「……何?」
「言ってただろう。姿形も、取り巻く空気や雰囲気も、なにもかも全部が全く同じだ、って。オレにとって、最初に惚れたのはお前で、2年前に出逢ったお前じゃない。……だけど、どうしようもなく突き動かされた」
違うのに。この人は、新一が好きになった人ではない。全く同じ別の人。
判っているのに……想いは溢れ出し、KIDに……快斗に向かった。


ぎゅっと強く握りしめたままの青い封筒。快斗はそれを優しく解して、指を開かせる。

「これ……新一が……」
「オレが……書いた」
……黙って居なくなってしまう罪悪感と、お前への気持ちを知って欲しくて。

思わず声を詰まらせる新一に、快斗は泣きそうな顔で微苦笑を浮かべた。
「酷いよな、新一。……病院に迎えに来てくれるって約束したのに、お前来なくて……」
彼の代わりだと、病室に志保が顔を見せた時に感じた快斗の絶望は、どれ程のものだっただろう。
裏切られたという思いよりも、もうきっと二度と逢えないであろう事実が悲しくて。さっきまで満ちていた寂寥感が再び胸に蘇る。

くしゃりと皺の寄った封筒を、快斗は受け取った。
「開けて……良い?」
本人を目の前にして、快斗が尋ねる。新一は、暫く戸惑うように視線を彷徨わせていたが、最後には小さく頷いた。
「……その……大したモンじゃねーんだ」
封を切ろうとする快斗に言い訳するように目を逸らす。しかし、快斗にそれは重要な事ではない。
昨日まで存在していた『工藤新一』が残した唯一のもの。それを確かめたい。それだけだ。

目の前の新一の、過去の想いを……もう一度、現在(いま)の快斗が知りたい。

2年前の快斗は、好きだと告げる新一の想いに惹かれるように恋人になった。彼の想いの真の理由を知らずに。

それは間違っていない。後悔していない。
だけど、改めて彼に恋をしたような気がする。同じ人に二度目の恋。与えられるばかりだった二年前の愛情を……昨日まで傍に居てくれた『新一』には与えられたのだろうか。

引き出しからペーパーナイフを取り出して、それで丁寧に開封する。出てきたのはどう見ても便箋とは言えない紙切れだった。
ほんの少しバツが悪そうに視線を泳がせる新一に微苦笑を洩らし、快斗はゆっくりその紙片を開いた。



  快斗。
  迎えに行けなくて、約束を破って、ごめん。


  お前が好きだ。




「……新一って、本当に作家の息子?」
呆れた口調で、声を震わせて、みっともないくらいに瞳を揺るがせて、快斗は微笑った。

「かい……」

「ありがとう……オレも、新一が好きだ」

「快斗……」

「オレを好きになってくれてありがとう。オレも、これからも、もっと新一を好きになるし、ずっと好きでいる。死ぬまで変わらない……誓うよ」
澄んだ藍色の瞳が新一を真っ直ぐに見つめて、迷いもなく告げる真実を、新一も真摯に受け止めた。

想いは一つに繋がって、新一はあの日長い黒髪を揺らした魔女の言葉が脳裏を過ぎった。

元の世界で快斗に会って、どう感じるか。
その気持ちを素直に受け止める事が出来たなら、いずれ判る時が来ると。

「オレの気持ち……間違ってなかった」

「新一?」

「オレも一生、お前だけを好きで居続けると誓える。……絶対に間違ったりしないから」
快斗の背に両腕を回して、強く引き寄せる。そんな新一に、快斗も嬉しそうに抱きしめた。

「うん、オレも。……これからは、絶対に惑わされないから」
あり得ないような非日常の出来事にも、もう二度と見間違えたりはしない。

「キスマークなんかなくたって、昨日の新一は、オレの新一だから」
2年前の出来事を、新一は正確に思い出す事が出来る。快斗の言葉に、新一は思わず微笑んだ。

「なら、オレの身体はどうだと思う?」
付いてると思うか? と意味ありげに訊かれ、快斗は「うーん」と唸った。

「付いてる、だろ?……でも、多少は薄くなってるかも」
「直に確かめる気にはならないのか?」
再びそう訊いてくる新一に、快斗の眼が物珍しそうに瞬いた後、次いで楽しげな笑みを浮かべて口を開いた。

「是非、確かめてみたいね。もちろん、消えているような事になっていたとしても……元通りにたくさん残してあげる」
数え切れないくらいの愛の証を。

快斗は楽しそうにそう言うと、新一の身体を抱き上げて、この屋敷で唯一のベッドの上に横たえた。
「昼間から、よくやるよ」
「誘ったのは新一の方だろう?」
「……それもそうか」

新一はくすくす笑うと、覆い被さってくる恋人をその身体で受け止めた。そっと口唇に触れてくる温もりを深く味わい堪能する。

「……幸せだな」
キスの合間、満足げに吐き出される吐息。そんな新一の呟く声に、快斗も嬉しそうに微笑んだ。


願わくば、この幸せが一生続きますように。






END





BACK NOVEL NEXT

Love note
2004.02.22〜2004.10.07
Open secret/written by emi tsuzuki

Gポイントポイ活 Amazon Yahoo 楽天

無料ホームページ 楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] 海外格安航空券 海外旅行保険が無料!