Love note 3





誰かが呼んでくれた救急車。意識不明のまま、快斗はストレッチャーで運ばれた。新一も同乗して、救急指定病院へと搬送された。
……この時になっても、新一はまだ何が起きたのか理解出来なかった。

激しく揺れる車内で、隊員達が快斗に対して応急処置を施している。ぼんやり座り込んだ新一にも、別の誰かが何かを聞いているのだが、新一は上手く答えられなかった。
朦朧とした思考の中で、どうして救急車はこんなに揺れて居心地悪いのだろう。と、どうでも良い事を考えていた。そんな事しか考えられなかったのだ。

15分後、病院に到着し、待ちかまえていた医師や看護士達が、快斗を連れていった。新一も促されるままに、一応の検査を受けさせられた。
快斗も怪我らしい怪我はしていなかった。だが、打ち所が悪かったのか、意識が戻ったのはつい先程の事だ。今も朦朧としていると、傍にいた看護士が教えてくれた。
新一の方は特に異常もなく解放され、かすり傷一つない身体を見て「無傷で良かったわね」と看護士に言われた時、ようやくそこで、快斗が自分を守ってくれた事に気が付いたのだ。

「……キッド」
思わず呟いた後、傍にいた看護士に快斗のいる場所を訊こうと顔を上たその時、背後で新一の名を呼ばれた。

「工藤君!」
聞いた事のある声だった。新一が振り返ると、見慣れた婦人警官と刑事の姿があった。

「……由美さん?高木刑事も」
交通課の婦警だ。たまに会う事がある。佐藤刑事とよく一緒に居るのを見かけた事があった。
「交通事故の被害者が工藤君達だって聞いて驚いたけど、元気そうで何よりだわ」
由美はいつもの人なつっこい笑顔でそう言った。新一は、戸惑いつつも軽く頭を下げた。
彼女は仕事の一環として新一に会いに来たらしいが、高木刑事は新一達を心配して様子を見に来てくれたらしい。その手には、彼に不似合いな花束を抱えている。

しかし、見知った人間ではあるが、新一にとっては初対面である。どんな風に接して良いのか、咄嗟に判断が出来なかった。
「それで……黒羽君の様態は……」
高木刑事の口から快斗の名が出て、新一は内心驚く。……確かに一緒に暮らしているのだから、彼が……警察関係者が黒羽快斗の存在を知っている事はおかしくないが……それでも、彼がKIDである事を知っている新一としては、どうも気持ちが落ち着かない。

「工藤君……?」
「あ。……だ、大丈夫です。ちょっと脳しんとうを起こしただけみたいで。精密検査の結果も大丈夫だったし……」
取り敢えずは大事をとって、一晩入院となったが、大した事にはならなくて済みそうだった。
「そう、良かったじゃない」
そう言ったのは由美だ。そこで新一は、ようやく事故の概要を知る事になった。

加害車両は、信号無視して横断歩道に突っ込んできた乗用車であった事。実際に二人にぶつかったのは、信号待ちをしていた先頭車両で、玉突き事故の被害車両であった事。歩行中の歩行者はすぐに避けたり逃げたりして、その際に転倒して怪我を負った人は居たものの、車にぶつかったのは、快斗と新一だけだった事。惰性で突っ込んだ為に、速度は出てなかった。それ故に、当たったと言っても通常の事故程の事には至らなかった事。
そして……新一は、快斗に庇われて、無傷でいられた事。

「黒羽君にも少しお話を聞きたいんだけど……無理かしら?」
「……まだ、意識が朦朧としてるらしくて」
戸惑いつつもそう応えると、彼女はあっさり引き下がった。高木が、携えていた花を新一に渡して、見舞いの言葉を掛ける。新一は、ぼんやりした表情でそれを受け取ると礼を言った。
「工藤君も、大丈夫?」
何時もの覇気のない新一に、心配そうに声を掛けてくる。新一は軽く頭を振ると、にこりと微笑んだ。
「ボクは、大丈夫です。わざわざ高き刑事にまで来ていただいて、本当にすみません」
「いや、良いんだよ。事故の被害者を聞いて、目暮警部も是非にと言われてたし。1課のみんなも心配していたから」
照れたような顔で手持ち無沙汰で両手を振る高木に、新一は少しホッとした。
……新一の良く知る高木刑事そのものだ。

さっきよりも柔らかくなった表情に、彼も気付いたようだった。高木はこの後も仕事があると言って、由美と一緒に帰っていった。
新一はそんな彼等の後ろ姿を暫く見つめていたが、振り切るように踵を返すと病室の方へと歩き出した。


通りかがった看護士に快斗の居場所を教えて貰い、新一は花束を抱えてそちらに向かう。病室はすぐに判った。入り口で一瞬躊躇って、そして一歩を踏み出す。

簡素なベッドの上に、彼は横になっていた。
顔色はあまり良くなさそうに見えるが、寝息は穏やかで、新一は静かに近付いて立ち止まった。
「……新一?」
眠っていた快斗が名を呼ぶ。次いで瞼を押し上げ、目線を動かして、ベッド脇で佇む新一を見つめた。
「……キッド」
「良かった……新一、無事みたいで」
良かった。 と、もう一度呟いて、快斗は再び瞼を閉じる。しかし、眠る訳ではなさそうだった。その口元が穏やかに微笑んでいる。

……新一の胸が苦しくなる。

「お前のお陰で、オレは無傷だった。……ありがとう」
震えそうになるのを必死に抑えてそれだけ言うと、快斗はふわりと笑った。
「大事な新一だから……傷を一つでも付けられたら、そっちの方が辛いからね」
だから、自分の身体を大事にして。 少し、真剣な響きでそう告げる。

「その花は何……?」
「ああ。高木刑事が……わざわざ駆けつけてくれたんだ」
新一がそう言うと、快斗は「大袈裟な……」と呟き苦笑した。

「お前……高木刑事と面識あるんだな」
「そりゃ……当然だろ?……新一に関わりのある人間は、ほとんど網羅しているし……」
「怪盗キッドなのに……?」
不安にならないだろうか。例え、相手が1課の人間であろうとも、警察関係者であるには違いないのだ。それでも、敢えてその危険性を省みずに交流を持とうとするなんて。

新一の思いを余所に、快斗はくすくす笑い出す。

「オレの家の近所には、中森警部んちがあるんだぜ?……そこの一人娘とは幼なじみだし」
今更だよ。 そう笑う快斗に、新一は面食らう。

「新一は、何の心配もいらないんだ。……オレの傍にいて笑っていてくれれば、それだけで……」
「……キッ」
あまりにも穏やかに笑うから、新一はたまらなくなる。快斗がこうして横たわっているのは、新一の所為で、新一がぼんやりしていなければ、もっと早くに逃げる事が出来たのに。快斗だって、こんな事になりはしなかった。彼は、怪盗キッドだ。反射神経だって並ではないはずなのだ。
……なのに、彼はその事は何も言わず、ずっと穏やかなままだ。

胸が痛い。


「……あー……駄目だな……頭がぼーっとする……」
情けない声で呟く快斗に、新一は告げる。
「今晩は、ここに泊まった方が良いって。……様子みて、良ければ明日退院だって言ってた」
「そ……か……」
快斗はぼんやりした声でそれだけ言うと、暫くの間何も言わなかった。

新一は、抱いたままの花束を持って病室を出た。適当な花瓶を借りて、綺麗にラッピングされているそれを解き、無造作に活けると、病室へと戻る。
快斗は眠っているようだった。
新一は、彼を起こさぬように静かに近付くと、ベッド脇の簡易棚の上に花瓶を置いた。少しアンバランスで不格好だが、何もない空間に彩りが出来て、優しい場所になった。

「……ゴメンね……新一」
ふいにそう言われ、新一は快斗を見た。彼は目を閉じたまま、口を開く。
「ゴメン……一緒に居てあげられなくて……」
「そんな事……」
どうでも良いのに……。
新一は、吹っ切るように顔を上げると、殊更明るく言った。

「大丈夫だ。オレはちゃんと家に帰れるし、一人で眠れる。明日になったら、迎えに来てやるから、それまで大人しく寝てろ」
「……迎えに?」
「ああ。だから……」
「ちゃんと、迎えに来てね……オレに黙って行かないでね」
快斗が何を言っているのか、新一はすぐに理解した。

「判ってる」
敢えて力強く断言すると、快斗はふわりと嬉しそうな笑みを見せた。……それは、今まで見てきた中で一番穏やかで幸せそうな微笑みだった。

新一は、そんな快斗にそれ以上言葉を掛ける事が出来なくなった。
ずっと一緒に居たい。
此処に、この世界に、キッドではなく快斗と一緒に───。










一人暮らしの新一にとって、それは何時もの光景だった。
灯りの消えた室内。一人きりの日常。
朝も昼も夜も、この家の住人は新一だけで、それ以外の誰も存在していない。
新一が居た世界は、それが普通だった。

なのに、どうしてこんなにも寂しい気持ちが、心の中を吹き抜けるのだろう。

新一は一人で帰ってきた屋敷の中、リビングの灯りを付けた瞬間感じた寂寥感に、胸を詰まらせた。
今まで、ずっと一人で生きてきたのに。
「……どうしよう」
一人で居るのが寂しい。……こんな気持ちで元の世界に帰って、果たして自分は一人暮らしを続ける事が出来るのだろうか。

1日だ。
この世界にやって来て、まだたった1日しか経っていない。
しかし、この24時間は、新一にとって戸惑いと驚きと混乱の連続で……。

24時間前は、キッドの態度に嫌悪感すら覚えていたのに、今は傍に彼が居ない事が寂しくて辛い。
胸が痛いと訴える。

「どうしよう」
新一は、もう一度呟いた。声にすればするほど、不安になってくる。
元に戻りたくて戻りたくてたまらなかった筈なのに、戻る事に不安感が強くなる。

いっその事、戻れなくなれば良いのに、とまで考えて、慌ててそれを打ち消した。
ここは、新一の居ていい世界じゃない。否、居てはならない世界なのだ。


だけど。
「……オレ……こんなに」
好きになったのに。
好きになってしまったのに……!

羨ましい……この世界の自分自身が。あんな男に丸ごと愛されている自分が。
「……でも、オレじゃ……ダメなんだ」
分かり切った事を口にして、新一は泣きそうになった。


自分でも判る。……この想いが刻一刻と強く大きくなってしまっている事を。
想いは告げられない。……だって、新一はこの世界の新一じゃない。それに。

口にしたら、何もかもダメになってしまいそうで。
快斗も、新一自身も傷ついてしまうような気がした。


新一は、リビングの入り口で力無く座り込んだ。
ぼんやりと、室内を見渡し……その所々にある快斗の名残に胸を締め付けられる。

「……ダメだ……もう、会えねぇ……」
顔を見たら、泣いてしまいそうだ。
顔を見たら、抱きついてしまいそうだ。
顔を見たら、言ってしまいそうだ。


──好きだ、と。


好きになって欲しいと、快斗は言った。
同じ新一に、そう言って欲しいと。

……だけど、新一には出来ない。そう言ってしまったら……新一は彼から離れたくなくなってしまう。
ふと思いが過ぎる事もある。昼間会った赤魔女は、このまま新一が居続ければ、いずれ消えてしまうと言った。消えてしまうのなら、その最後の瞬間まで、この世界で、快斗と一緒に居たいとも思う。どうせ消えてしまうのだ。後顧の憂いはない。
だけど、そうして快斗を……好きな相手を巻き込むのは、決してしてはならない事だとも強く思う。

快斗は、新一のものではない。……例え今、この世界に居なくても、快斗は別の新一のものなのだ。
どれだけ彼が、自分を大切に思っていてくれたとしても、所詮別人。彼の愛した『工藤新一』などではない。


新一は何度も繰り返し、自分に言い聞かせた。
快斗の優しさも労りも愛も、全て別の新一のものだと。
繰り返し繰り返しそう言い聞かせて、新一は泣きそうになる自分を叱咤し続けた。











その日は、昨日に引き続き爽やかな青空が広がっていた。
新一は、眠れぬ一夜が明けた事に、何処かホッとしていた。

帰ろう。

新一は、改めてそう決心した。
窓を開け、朝の新鮮な空気を部屋一杯に取り込んで、新一は大きく深呼吸する。
それから、しっかりした足取りで部屋を出て身支度を済ませた。
朝食を摂る気にはなれなかったが、無理にトーストを腹の中に収めると、コーヒーで流し込んで、使った食器を綺麗に洗った。

その後、隣家に電話を掛けた。
昨日の事故の事を告げ、急な依頼で行けなくなった新一の代わりに、迎えに行って貰うよう頼む。
電話を応対していた志保は、少し驚いたように息をのんだ後、いつもの冷静な声でその頼みを引き受けてくれた。
新一は、ほっとすると、何度か礼を繰り返した後、静かに受話器を置いた。

迎えに行くと、約束したけど……新一は、もう彼には会うことは出来ない。
これ以上、彼の存在を大きくしてはいけない。そうして、悲しむのは自分自身であり、……こんな新一に心を傾ける快斗にも決して良い事にはならないからだ。
新一は、そう何度も心の中で言い訳を繰り返して、顔を上げた。

そして、ゆっくりと部屋に戻る。
まず、キッチンを見回し、不都合がないかを確かめる。リビングを覗き込み、おかしな所が無いかを確認する。そして、最後に快斗の部屋のドアを開けて、忘れ物が無いかを確認した。
「……持ってきた物なんて、なかったな」
身一つでこの世界に飛ばされてきたのだ。唯一、ポケットの中に入っていた携帯電話だけが、持ち物らしい持ち物だった。
新一は微苦笑を浮かべると、彼が何時も使っているであろうデスクに近付いた。中途半端に整頓されたそこに、新一が一晩掛けて仕上げだそれを、そっと置く。

一晩考えた。一晩悩んだ。
だけど、……これくらいの我が儘は、許されても良いではないか。
快斗が、それを目にする時は、新一はもうこの世界には居ない。
それを見て、快斗がどんな気持ちになるのか判らない。

喜んでくれるのか、悲しんでくれるのか、怒り出すのか……。そのどれもがあり得そうで、新一は確たる予想が出来なかった。
でも、それで良いと思う。
「これくらいの我が儘は……許してくれよな」

新一は、そうして暫くの間、デスクを見つめていたが、吹っ切るように顔を上げると踵を返す。そのまま、振り返る事無く部屋を出ると、ゆっくりドアを止めた。
カチャリ、と乾いた音が一際大きく響いて、新一はその場から逃れるように足早に屋敷を後にした。





一度しか来た事のないその屋敷に、新一は迷う事なく辿り着く事が出来た。

昨日来た時と、何処も変わっていない。新一は、ゆっくりと玄関の前に立って、呼び鈴を押した。すると、まるで新一の訪いを知っていたかのように、扉が静かに開かれる。
「……どうぞ」
背の丸まった執事が、更に腰を折り曲げて、新一を迎え入れる。それに促されるように、一歩屋敷内に足を踏み入れると、突然視界が一変した。

「待っていたわ……光の魔人」
顔を上げると、そこは昨日通された部屋。新一は一瞬にして、紅子の居る部屋にやって来ていた。その事実に、軽く混乱する。
「な、んだ……?」
頭を振る新一に、紅子は微笑む。

「この屋敷は、全て私の思うが儘。驚く事ではなくてよ」
紅く縁取られた口唇が嫣然と笑う。新一は何も言えず、軽い眩暈を感じながらも、彼女の前に歩み寄った。

「オレを……元の世界に戻して貰えるだろうか」
「ええ、もちろん」
昨日の会話と同じく、彼女はあっさりと頷いた。新一は、ぎゅっと目を閉じて、再び開いた。

「なら、今すぐ戻してくれ」
「ええ。準備は出来ている。今すぐにでも戻してあげる」
紅子はそう請け負うと、石机の脇に置かれていた、古く歪な壺を引き寄せた。その中に指を入れ、粉状の何かをつまみ出し、新一に振り掛けた。
「これは、目印。万が一、私が時空間の狭間で貴方を見失ったしまった時に、すぐに探し出せるように……」
そう言って、彼女はくすりと笑った。

「怖い?……もしかしたら私、貴方を時の空間の中に放り出すかもしれなくてよ?」
美しく整った美貌が歪み、まるで新一を試すような表情が浮かんだ。だが、新一は怯まなかった。
「キッドはお前を信用しているようだった。……敵対していても信じられる相手なら、オレも信じる」
それに、と新一は思う。
もし、元の世界に帰れなくても、それはそれで構わない。
元の世界に怪盗キッドが居るように、黒羽快斗という人物も存在するのだろう。……しかし、この世界以外に、新一が好きになった快斗は存在しないのだ。

彼の居ない世界で、彼を好きになってしまった新一が、果たして生きていけるだろうか。

「そんな事より、別に頼みがある」
「何かしら」
「……キッドに……キッドの為にこの世界に存在していた『オレ』を捜し出して欲しい」
快斗にとって、それが一番望んでいる事だから。
新一には成し得ない事を、この世界の新一は成し得る事が出来る。

新一の頼みに、紅子はあからさまな溜息を吐いた。軽く頭を振ると、長い黒髪が生き物のように妖しく揺れる。
「それは、出来かねるわ。昨日も彼に告げたけれど、私には彼を操る事は出来ないのよ」
「……」

「そもそも、私は他人を操れる力などない。それが出来るのなら、私はとっくの昔に彼への興味は失っているわ……」
それは独語だった。彼女の言葉の意味が分からず、新一は軽く首を傾げた。

「でも、安心しても良いと思うわ。彼がキッドを愛している限り、工藤新一は自らの意志でキッドの所に戻るでしょうから」
「それって……どういう……」
「この世界の事は、貴方が心配する事ではないと言う事よ。……そんな事より、貴方大丈夫なの?」
突然そう訊かれ、新一は何の事か判らずに紅子を凝視した。
「気付いていないのかしら。……貴方、此処に来てからずっと──泣き出しそうな顔をしているわよ」
「え……」
新一は、思わず目を見開いた。

貴方も愛しているのね……あの男を。
彼女の言葉は声にならなかった。しかし、新一はその口唇の動きを読んで理解する。

好きな男を想って泣く。いっその事、泣いて喚いてしまいたい。無様で醜い心の内をさらけ出して、思うが儘に叫びたかった。

心の内を読まれていた事に、新一は驚かなかったし、礼儀知らずだとも思わなかった。
只、自分自身が必死に忘れようとしている事を改めて突き付けられて動揺した。

「あ……」
どう取り繕って良いのかも判らず、戸惑いを隠せない新一に、彼女は今までになく穏やかな顔を見せた。
「もし、本気であの男を愛しているのなら、貴方の想いを彼に伝えれば良い。……元の世界に住む怪盗キッドに」
「そんな事……出来る訳……」
「何故?」
彼女の短い問いかけに、新一は視線を背けた。
「だって……そもそも、オレの世界では、キッドとの関わりなんてほとんどないのに、好きだなんて言える訳ないし……それに、オレが惚れたのはこの世界に居るキッド……いや、黒羽快斗であって、それ以外の誰でもないから……」
「それでも、貴方が本当に彼を愛しているのなら、それは些細な問題に過ぎないわ」
新一の苦悩などお構いなしにあっさりと言い放つ紅子に、新一は一瞬言葉を失った。

「── 些細な、って……!」
むきになる新一に、彼女は落ち着いた表情で長い髪を揺らし、こう言った。

「貴方が本気で彼を想っているのなら、判るわ。── 愛する人が誰であるかという事を」
「好きなのは、この世界の……」
「元の世界で貴方が彼に会い、どう感じるか。その気持ちを素直に受け止める事が出来たなら、いずれ判る時が来るわ」
彼女の話は、新一には理解出来るものではなかった。もし、万が一、元の世界での快斗に好きだと告げる事が出来たとしよう。そして、彼も想いを返してくれて……この世界の二人のような恋人同士になれたとしても、それは所詮身代わりに過ぎない。そうではないか。

しかし、紅子は新一の反論など聞くつもりはないように、口を開いた。
それは、新一もきいた事のない、何処か異国の言葉のようだった。謳うように言葉を綴るのは、まるで呪文。そう思った時、次第に新一の周りが、光に満ち始めるのに気付いた。
きらきらとしたそれは、まるで新一自身が輝いているようで、その後、この光は先程彼女に掛けられた粉状のものから発しているのに気付く。

何気なく自分の手を見ると、透けている。掌を通して向こうが見えた。
「なっ……!」
驚く新一に、呪文を言い終えた紅子が微笑む。

「また何時か、会いましょう」
その言葉を最後に新一の視界は暗転した。











甲高い金属音が連続して響く。
反響の大きいその場所で暫く響き続け、そして静寂に戻った。

それから、どれだけの時間が過ぎたのか。
「……っ、痛ってー」
踊り場でひっくり返っていた新一が目を覚ましたのは、鈍く疼く背中の痛みからだった。
半身を起こし、軽く頭を振る。意識がはっきりした所で立ち上がると、新一は辺りを見回した。

足元に転がる空き缶。先程の反響音は、この空き缶だった。
階段の踊り場で立ち尽くし、新一は転がった空き缶を見つめた。
暫くは混乱して、どうして自分が此処にいるのか判らなかった。しかし、徐々に頭の中が整理されていく。
ぼんやりと階段のステップに視線を向けて……ようやく思い出す。

「そうか……帰ってきたんだ」
自分の影が伸びているのに気付き、背後を振り返ると、上部に取り付けられている小さな窓から月が見えた。
辺りの空気は冷たく乾いている。……静かな夜だ。

あの夜、自分は何の為に、屋上に向かって全力疾走で駆け上がっていたのだろう。
「……そうだ……ッド」
新一は緩慢な仕種で腕時計の時刻を確認する。
新一の記憶違いでなければ、あの日確認した時間とほとんど違いはなかった。

……ならば、行かなければならない。
新一は、白馬との約束を果たす為に、再び階段を昇り始めた。











白馬は、ことキッドに関しては、決して読みを違えた事はなかった。
彼ほど、『怪盗KID』を熟知している探偵は居まい。それは、ともすると、現場を指揮する2課の警部より上かも知れない。
そんな彼が、新一に「もしもの時の保険」とばかりに彼に依頼してきた、怪盗KIDのもう一つの逃走経路。

屋上に向かって階段を昇りながら、新一は不安、戸惑いと戦っていた。
きっと、この場所には彼は来ない。おそらく、来ないだろう。……だけど、もし彼が現れたら?
新一は、どんな顔をして、彼と対峙する事になるのだろう。

この世界の彼とは、精々顔見知り程度の関係で。怪盗と探偵で、敵同士で、相手が新一を認めていてくれるのならば、好敵手くらいには見てくれるかも知れない。
……それだって、可能性は低い。彼の眼中には、きっと新一の存在なんて無きに等しい。彼にとってのライバルは白馬探偵であって、新一ではないからだ。
それは、当然の関係だった。


様々な事を思い巡らし、そして最後に浮かんだのは自嘲でであった。
戻らなければならないのだ。キッド……快斗とと関わったあの一日以前の自分に。



軋んだ音を立てて、扉を開く。
その瞬間、強い風が吹き付け、新一は思わず左腕をかざして風を遮った。前髪が煩わしいほど揺れ乱れた。
新一は目を細めて、扉の外に視界を移した。真夜中を過ぎようとする時間、天空には煌々と輝く月が何物にも遮られることなく瞬いている。

それは、つい昨晩、あの世界で体験したのと変わらぬ光景だった。

只、一つ違うのは、この場に怪盗の姿が見えなかった事だけだ。
周りを見渡し、彼が来ていない事を知ると、新一は小さく苦笑を浮かべた。

「……やっぱり、いねーよな」
ほっとしたような寂しいような、曖昧な感情が新一を支配する。会いたくない訳ではないが、会ってしまうのも辛い。どちらを望んでいるわけでもなく、本当はどちらも望んではいなかったのだ。

新一は、再び時計の針を確認した。もし、彼が今晩の仕事を完遂させていたとしたら、今頃もう一方のルートで逃走を果たしている事だろう。
白馬は、上手くやるだろうか。……そんな事を考えて、新一はまた一人苦笑する。

時間が早く通り過ぎるのを強く願う。
早く過ぎて、そしてこの場から立ち去りたい。少しでも彼に関わるような事は、もうしたくない。……でないと、何時までも彼の事を考え続けてしまう。
いくら考えたって、快斗とはもう会えない。新一が好きになってしまった彼とは、もう二度と会うことは出来ないのだ。
だけど、この世界で生きるキッドは、新一に強く彼の事を思い出させてしまう。……そう思うと、新一は彼に会いたくはないのだと思い直した。

それから、短くはない時間が過ぎた。
新一は時間を確認し、小さく頷いた。もう大丈夫だろう。彼はこちらにはやって来なかった。
最後に白馬に連絡を入れて撤退させて貰おうと、ポケットの中から携帯電話を取り出した。その時、電源を切ってある事に気付いた。……ああ、今朝快斗が新一の携帯にかけた時、何となく切ってしまっていた事を思い出す。新一は苦笑しながら電源を入れようとした時だ。

不意に、強く乾いた風が新一の身体を襲った
それまでそよいでいた風向きとは、全く異なった方向から吹き付けられて、新一は一瞬動きを止めると双眸をきつく閉ざし、風をやり過ごす。
強い風は、すぐに消えた。元々そこにあったのであろう紙屑が、乾いた音を立てて転がる音を最後に、屋上に再び静寂が訪れる。
新一はゆっくりと目を開けて、次いで驚愕に目を見張った。

屋上の端。防護柵を背にして、人が居た。
強風に煽られ、真っ白なマントが空にはためいて……まるでそこから夜を切り取ったように、白という存在を強く醸し出して、彼が──居る。

「……っ」
持っていた携帯が、新一の手を離れ、するりと床に落ちた。乾いた音を立てたが、新一にその音は聞こえない。

どうして──彼が此処に居るのだ。
何故、今になって此処にやって来たのだ。
……それは、まるで新一を試すかのように、怪盗KIDは其処に佇み、冷涼な気配を漂わせたままで口元にそれと判るアルカイックスマイルを浮かべていた。


── 同じ、なんだ。
── 顔も姿も全く同じで、声もその性格や態度も全て一緒で……。
── 取り巻く空気や雰囲気も、なにもかも全部。


快斗が、頭でそう理解していても、心が納得していなかったであろう新一の存在。

── 例えどんなに上手く変装したとしても、気は変えられないのに。新一だけが持ち得るオーラまでも同じなんて……そんなの反則だ。


そう言った快斗の気持ちを、新一はようやく理解した。

……そうだ。
同じだ。明らかに目の前の怪盗と、あの世界で会った怪盗は違う。判っている。
なのに、どうしても、納得出来ない。頭で理解しているのに、心が、この気持ちが「この人なんだ」と訴えてくる。

違う、違うのに……!


新一は、自分の心を止められなかった。止める事が出来なかった。彼の姿を見た瞬間、あんなにも泣かないとずっと我慢していたのに、不意に視界がじんわりとぼやけて、ついに涙腺が壊れた。
ぼろぼろと、みっともないくらいに涙を流し、それでも彼から視線が離せなかった。

明るく照らす月の下、互いの距離は決して近くはないが、KIDは新一の様子の変化にすぐに気付いたようだった。
おそらく眉をひそめているのだろう。表情は伺えないが、いつもの冷然とした雰囲気が、僅かに揺らいだのを新一は感じた。

「……いと」
新一は、押し込めない想いを吐き出すように、彼の名を呼ぶ。あの世界で新一は、最後まで彼を快斗とは呼ばなかった。呼んではいけないと思った。
何故なら、彼を快斗と認めてしまったら……新一の想いの変化に気付かれる。
自分にも好きになってくれれば嬉しいと、彼はそう言っていた。……しかし、もし本当にそうなってしまったら、何時か彼は自分を重荷に感じるだろう。

それに、何よりも新一は、快斗にあの世界での『新一』だけを見つめていて欲しかった。
だって、もし新一がその立場だったら、いくら世界違えど同一人物だと言っても、やっぱりわだかまりが残る。自分自身に嫉妬してしまいそうで、そんな気持ちを持ちたくなかったから。……だから、全部これは新一の望んだ我が儘。


新一の掠れた声は、きちんとした固有名詞としての言葉にはならなかった。しかし、KIDは僅かに身じろいだ。……何か引っかかったのだろう。
(ああ……この世界のキッドも……快斗なんだ)
新一はそう思った。

限りなく同じに近い、似通っていたあの世界。
「……快斗」
そう言葉に出せるのが、嬉しかった。涙は止まらない、呼吸も乱れて声も掠れている。それでも今度は、はっきりと『快斗』と呼んだ。
すると彼は、あからさまに顔をしかめたようだった。ふわりとマントが翻り、その瞬間、新一は叫ぶと同時に駆け出していた。
「に、逃げんなっ……!」

防護柵のすぐ傍にいる彼の所まで、新一は全力で走った。
目を見張る彼の顔は、新一が好きになった快斗そのものだった。しかし、そんな表情を見せたのは一瞬で、彼は再びいつもの雰囲気を纏うと身を翻す。

そんな彼の背中を、新一の指先が捉える。そのまま掴んで強くしがみついた。
「── く、工藤探偵……!?」
「頼むから……逃げないでくれ、頼む……!」
背中から抱きつくように両腕を回し、新一は何度も請うた。呼吸がままならない、胸が苦しい。……けれど、そんな身体的な苦しみより、もっと奧の中にある心が、悲鳴を上げていた。
風で跳ね上がっていた白いマントが、ふわりと新一に落ちてきて包み込む。


「……そうして、私を捕らえるつもりですか、貴方は」
冷然とした声が、頭上に降りかかる。それでも、新一はその腕を解く事が出来なかった。
「……ちがっ」
……離したら、行ってしまう。
「面白い趣向ですね」
「違う!そうじゃない、オレは……」
重なり合った二人の身体を月が照らし、回した腕に力がこもる。

「……好きなんだ」
絶対に、離したくなかった。
「オレは、お前が好きなんだ……快斗」
「……貴方は、どなたかと勘違いしている」
あからさまな溜息と、意に介さないその口調。新一は、ぐっと目を閉じた。

「キッドだろうが快斗だろうが、── もう、そんな事はどうだっていい!オレは、お前が好きだと言ってるんだ。お前が……お前がっ!」
「……泣いて縋り付かれる程、貴方を惚れさせた覚えはないのですがね」
諦めに似た溜息も沈黙も、新一はしがみつく事でしか埋められない。
新一をこんな自分にしてしまったのは、快斗に他ならない。……しかし、それを告げる事も出来ない。
同じ人物なのに……全く違う別の人。そのもどかしさを快斗は……あの世界の快斗も感じていたのだろうか。新一は、此処に帰って来られて、改めて彼の想いを噛み締めた。
好きにならなくてもいい。……せめて、嫌われたくない。
しかし、今の自分の行動は、彼には迷惑極まりない事だろう。判っているのに……離れられない。

そんな想いが交錯する中、キッドは静かに立ち尽くしていた。思案するように顎に手を添えて、このままで居て良い筈がないのは分かり切っているのだが、穏便な打開策が見付からないとでも言うように。

しかし、その膠着状態を断ち切ったのは、第三者が生み出した、激しいドアの開閉音だった。

突然のその響きに、二人は同時に振り向いた。二人の視線の先には、少し色素の抜けた明るい髪を乱した若者が立っている。全力で駆け上がって来たのか、息を切らしている。白馬探だ。
彼は何時も毅然としていて、身だしなみにも隙がない。だから、なりふり構わずと言った様相の彼を目にするのは、新一はこれが初めてだった。

「怪盗KID!よくも、このボクを翻弄してくれましたね!」
息を切らしながらも、そこまで一気に言い放つ。

「おやおや、これは白馬探偵。あの場所からこちらまで全力疾走ご苦労様です」
皮肉気に微笑んで、落ち着いた口調の中に見え隠れする嘲笑。
知り合いの探偵にしがみつかれていながらも、何時もの怪盗KID然とした姿勢が彼らしい。

しかし、白馬も負けてはいない。息を整えると、いつもの紳士然とした態度で笑う。
「フフッ……そうやって落ち着いて居られるのもそこまでです。何と言っても此処には工藤君が……」
と、言いながら、新一の姿を探すように、目線を動かして……そして彼は、ようやくキッドの傍にいる新一に気が付いた。
「── く、工藤君!?」
「あ……白馬……」
捕まえている、と言うよりは、取り縋っているような体勢の新一に、白馬は一体此処で何があったのか判らずに混乱した。
「工藤君……君、一体何を……」
唖然となりながらも、彼等に近付こうと、一歩足を踏み出した所で、新一が泣いている事に気が付いた。
「何で……涙……?」
益々訳が判らずに混乱する白馬に、キッドは、新一をしがみつかせたまま、胸ポケットの中から大粒ダイヤを取り出した。今夜の標的、『天使の涙』だ。

「今宵は、彼の涙に免じてお返しする事としましょう」
そう言いながら、大きく放り上げる。それは、綺麗な放物線を描いて、真っ直ぐに白馬の手元へと届けられた。呆然としたままでも、落とす事なく受け止めるのは、流石白馬だ。

「さて……そろそろ本気で離れて頂きたいのですが」
新一にだけ聞こえるように密やかに請うてくるキッド。しかし、新一は頭を振った。
「イヤだ、行くな」
「私はまだ捕まる訳にはいかない」
「……離れるのはイヤだ」
キッドは天を仰いだ。何度目か判らない溜息を吐いて、新一を見る。
「……仕方ないですね」
貴方の、その勘違いも正さなければなりませんし。 と、彼は呟いて。
とんだ災難だが、臨機応変に対処するのが『怪盗KID』である。

彼は、完全に何時もの自分を取り戻すと、嫣然とした微笑と共にマントをはためかせる。

「と、言うことで、私はこれにて失礼させて頂きますよ」
慇懃無礼な態度。そう言われて、白馬は、はっと気付く。
「く、工藤君は!?── KID!工藤君を離しなさいっ!」
離したいのは山々なのですがねぇ……。との彼の呟きは、白馬には届かなかった。しかし、それを聞いた新一は、益々腕に力をこめる。
「ぜってー、離れねぇ……」
「……ま、暫くはお付き合いしましょう。── 此処で彼に捕らえられる訳にも行きませんし」
キッドはそう呟くと、素早く左手で新一の両眼を覆った。その途端、指の隙間から眩い閃光が放たれたのを感じて、思わず強く瞼を閉ざした。

次いで、ふわりと足元が不安定になって、二人は夜空に飛び出していた。






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