Fairy tale 2
王宮図書館には、古今東西様々な書物が収められている。歴史的価値のある物から、大衆的な書物まで。
王宮内の限られた者しか入室出来ない場所。
それまで滅多にこの場所にやって来る事のなかった人物が、最近は足繁く通っている。
「えっと……あった!」
壁一面の造り付けの棚から目的の書物を取り出すとタイトルを確かめて小さく頷いた。
「……王子」
「後は……」
「王子!」
静寂を常とする図書館で、一際大きな声が館内に響き渡る。その声に王子と呼ばれた人物は、渋々ながら振り向いた。
「何だ、へぼ魔法使い」
目を眇めて嫌味たっぷりに言い放つ。大事な『仕事』の邪魔をされた所為で機嫌はすこぶる悪い。
「何ですか、その『へぼ魔法使い』などという言い草は」
へぼ扱いされた彼は、心外な、と言うかのように眉をひそめた。
こう見えて、彼は国内随一の魔力を持つ、白魔法使い。『白』の称号は、彼にだけに許された敬称だ。
彼は白魔法使いであると同時に王宮付の魔術師でもある。自尊心も人一倍あった。
しかし、へぼ呼ばわりした彼は、相変わらず不機嫌な顔で魔法使いを藪睨みする。
「へぼをへぼと呼んで何が悪い。王宮お抱えの国内随一の魔力を自負するのなら、魔女にへぼ扱いされねーだろうが」
「お言葉ですが、快斗王子。魔女の力は、国では認められていない魔性のもの。引き合いに出されては困ります」
「そんな事言ってるから、何時まで経っても『へぼ』なんだよ、白馬」
快斗は大仰に首を竦めて呆れて見せた。
バカみたいに自尊心の高い白魔法使い。彼の実力は国では認められているが、快斗は認めてなどなかった。
認められる程のものであれば、……あの夜、魔女に遅れを取るような事にはならなかったはずだ。
「ホント、お前って使えねーよな」
少しはオレの役に立ってみせろよ。と、尊大に言い放つ快斗に、本来ならば口答え出来ない身分の白馬だが、二人は年も同じで、幼い頃から白馬が王宮に出入りしていた事もあって、周りに人が居ない時は比較的にざっくばらんな関係を築いてきた。
そういう時の白馬は、ほとんど歯に衣を着せるような言動はしない。
「王子。元はと言えば、君がボクに無謀な頼み事をしてきたのだ、という事をお忘れではないでしょうね」
「王子が部下に命令するのに、何の不都合があるんだよ」
ふんぞり返る快斗の態度はふてぶてしい。
「……魔女の森に入る事は、女王陛下の命により禁じられてます。その事を承知した上で、ボクに命じたのは王子と言えども只では済みませんよ」
この国で快斗よりも地位が高いのは、女王である快斗の母だけだ。彼が膝を折る唯一の人物。
案の定、白馬が女王の名を口にした途端、嫌な顔をした。
「オレは、親の言う事を素直に聞き続けるような殊勝な妖精じゃないんでね」
「そういう問題ですか!」
激昂する白馬に、快斗はうんざりとした顔を見せた。
「一々、細かい事気にすんなよ」
「王子……。ボクの力が魔女共に及ばない事は素直に認めます。月の力を借りても、あの森へ気配を消して君を送り込む事は容易ではないんですよ」
……これまで、無事に過ごせていた事こそ奇跡であり、幸運な事だったのだ。
「魔女のお目こぼしに預かっていた訳だがな」
「それでも、です。……ですからもう、彼女達を刺激するような真似はよして下さい。先日のあの夜のような事は二度と遭遇したくない。あの時、ボクがどれだけ胸を痛めたか……」
白馬の魔力で魔女の森を行き来するには、月の力、それも光の満ちた満月の力が必要不可欠だった。それは快斗も重々承知の筈だったのに。
よりによって、満月以外の月の夜に魔女の森に入り込むなんて。彼の熱意に負けて、そして白馬自身の力の過信もあって、王子を魔女の森に送り込んだまでは良かったが……結局魔女にその力を遮断されてしまった。
快斗は、白馬の力を借りていたからこそ、魔術が使えただけであって、彼自身にそのような特殊能力はない。
元々、身分のある妖精には、魔力などありはしない。その高貴な血は『魔』を受け付けない。
だから、魔力によって二人を繋いでいたものが途切れた時、白馬の身は凍えそうになった。
魔女の森で魔力をなくした妖精が生き続ける事など皆無に等しい。早く捜し出して助け出さなければ、消滅してしまう。
その時になって、初めて事の危険さに気付いた。一国の王子をこのような目に遭わせてしまった自身を悔やみ、死にものぐるいで森の中を捜したのだ。
幸いにも、白馬は彼を助ける事が出来た。……本当に、魔女がもし快斗に手をかけていたなら、今頃この世に彼は存在していない。
彼は、その事をしっかり知るべきだと、白馬は強く思った。
「王子。君がボクの力を使える意味は理解しているのでしょうね」
「そんなこと……」
最初にそうする時、白馬から何度も説明を受けていた。
白馬の力を快斗が使うという事。……それはつまり、二人はその間繋がっている事となる。
白馬は快斗の眼を通して全てを透視し、彼の耳でもって全てを聞いていた。
魔女の森では、魔力がないと呼吸する事すらままならない。……つまり、快斗が森の中に存在している間の出来事は全て白馬には見通せていたのだ。
だから、彼が何に固執し、求めていたのか理解っている。
それが、許されざぬものであり、禁忌であると言う事も。
「君の犯した事は、この国を裏切る事になり、同時に魔女達の怒りに触れるものでもあったと自覚すべきです」
白馬は快斗の眼を見据え、はっきりと言い放った。
「第一、君には歴とした許婚者がいるのですよ!?その事を、よもやお忘れではないでしょうね」
「………忘れるかよ」
快斗は声を落として呟いた。
この国の第1後継者、次代の国王となる者にとって、世継ぎをもうける事は最も重要な努めである。その為には、血筋の正しい、世継ぎに相応しい子が必要だった。
王家の血を絶やさぬ事。快斗にとってそれは生まれながらにして科せられた使命でもある。
過日、彼は王家に連なる貴族の姫と無事に婚約を果たした。周囲にとって、これとない良縁に国中が祝福を贈った。
その姫との婚礼はもう間近に迫っている。
婚儀は花嫁が主役とはいえ、快斗ものんびり図書館で過ごす時間などないはずだった。……なのに。
「あまりにも……戯れが過ぎます。それとも、君は彼を王宮に上げるつもりですか?」
寵姫のように彼を囲うと言うのなら、白馬はこの男との縁を切ろうとすら思った。
しかし快斗は、手にした書物を強く抱き締めて顔を伏せたまま動こうとはしなかった。
王子という身分なら、……例えそれが眉を顰める事であったとしても、市井の野花を手折る事にはきっと誰も諫めようとはしないだろう。
手折られた方も、名誉な事と喜ぶこそあれ、不埒な振る舞いに声を荒げる者はいまい。
しかし、相手が魔女に連なる者であるのなら、話は別だ。
国中が王子の婚儀で沸き返っている現在、彼の一挙手一投足に皆が注目しているのだ。そのような中、危険な醜聞は王家にとって致命的だ。
もちろん、快斗も十二分に承知している。
「……白馬」
短くも長い沈黙の後、快斗は沈痛な面もちで魔法使いの名を呼んだ。
「白馬、頼むからもう一度だけ……オレに力を貸してくれないか」
快斗が初めて新一と出会ったのは、忘れもしないあの日。
次代の国王と定められていても、多少の制約があるとはいえ、自由な日々を送っていた……あの日。
その日は午後から重要な御前会議の為外出も出来ず、ぶらぶらと王宮内を散策していた。
この豪奢で荘厳な建造物。快斗はこの王宮で生まれ育ったにも関わらず、生理的にあまり好きな場所ではなかった。
無駄に贅を尽くした装飾や高価な調度品も快斗の琴線に触れることはなく、王族直系の血を引く自分が信じられないくらいに感覚は庶民的だった。
王宮内ですら歩き回る快斗の身辺には側近の者が付いている。それに煩わしくなって、隙を見て捲いたその直後──快斗は一人の妖精と出逢った。
豪華な建物が一瞬で色褪せてしまったかのように、一瞬で目を奪われた存在。
それが、新一だった。
もちろん、その時は彼の名など知らない。一見、貴族の子弟と見られた彼だったが、快斗の記憶の中に彼の顔はなかった。
こう見えても、快斗は王宮に上がる事の出来る貴族の全てを覚えている。だから、彼がそう見えてはいても、実は貴族にあらざる者である事はすぐに判った。
しかし、咎めようとする気にすらならなかった。
快斗は彼に目を奪われたと同時に、心をも奪われたのだ。
相手が何者であるかなんて関係ない。快斗の心に真っ先に芽生えた感情は所有欲だった。
欲しい、目の前の存在が。
この国の王子である自分は、何をしても許される。……どんなに身分の低い妖精だって、自分が望めば手に入るのだ。傍に置いて愛でても、誰も文句は言わない筈だ。
一国の王子でありながら、普段は呆れるくらい潔癖で堅苦しい生活を送っている快斗が、その時初めて感じた欲。
それまで、煩わしい以外の何物でも無かった自分の身分が、とてつもなく有り難いと感じた。
「どうしましたか?」と、すぐにでも手に入れてしまいたかったのを抑え、相手を労るように声をかけた自分。
その時、初めて間近に見る彼の姿に目眩すら感じた。
今までたくさんの妖精達と接してきた。貴族の美しい姫達など、飽きるほど見てきた。
なのに、一目、一瞬見ただけで、こうも簡単に心を奪われる事など、快斗には只の一度の経験もなかった。
彼の深く澄んだ蒼い双眸が、少し不安気に揺れながら、快斗を見上げていた。その瞳は僅かに潤んでいるようで、益々心が引き込まれた。
視線を外す事が出来なくて、強引に手に入れようとしていた筈の自分が、驚くほどに気後れしていた。王子の名により、彼を束縛するのは容易い事であるにも関わらず、そんな不躾な事をする事など脳裏から完全に吹き飛んで、只どうすれば彼と長く共に居られるか真剣に考えた自分。
結局あの時は、彼に辞する事を許してしまった。気付いた時には、既に彼の姿はなく、その時になって初めて己が戸惑いを胸にしていたことを知った。
この戸惑いは、恋だ。……快斗にとって、初めて自覚した強い恋情だった。
結局その後、彼は再び快斗の前に姿を現す事はなかった。密かに側近に捜させたのだが、彼の存在はもとより、髪の毛一本すら痕跡を見付けることが出来なかった。
この国の民であれば、遠からず彼の存在を知る事になるだろうと、ある意味楽観視していた快斗にとってその結果は、彼を深く落胆させた。
快斗自身もお忍びで街に降りて探ってみたが、そのような若者はおろか、噂すら聞く事はなかった。
……あの時心を奪われたあの若者は、もしかしたら快斗の幻だったのだろうか。
そう思わずには居られない程、彼は存在は掴めなかった。
捜して捜して、これ以上は無理だと言う程捜し抜いて、それでも諦めきれず、しかし打つ手もなく悶々とした日々を過ごしていたその時。
快斗は、再び彼と出会った。
場所は王宮。その夜は舞踏会が開かれていた。妃選びの舞踏会。快斗自身の妃選びだと言うのに、当の本人は心ここにあらずだった。
……この催しが形式的なものであって、実質妃となる姫は決まっている。只の茶番だ。しかし、己の為に開かれる大事な夜会。快斗は渋々ながらも出席し、幼なじみの相手を務めていた。
当日は、代々王家に呪いを掛けている魔女がこの日を狙って災いをもたらすだろうとの予言がなされていた。周囲が警戒する中、しかし快斗自身どうでも良かった。
呪いたければ呪えば良いとすら思っていた。
彼にもう二度と逢えないのなら、別に自分がどうなろうとも、大した事にはならないだろうとすら感じていたのだ。
そんな快斗を不甲斐ないと思ったのかどうか。幼なじみはわざわざ人間の少女を呼び寄せ、魔女の呪いを断ち切ろうとしてくれた。
その心遣いに感謝しつつ、それでも快斗の胸に占めるのは彼の事だけ。
だから、再び彼が目の前に現れた時、快斗はそれが自らが生み出した幻なのではないかと疑った。
舞踏会はつつがなく進み、美しい音楽が鳴り止んだ、丁度その時。
広間の入り口で衣擦れの音と共に、彼が姿を現した想い人。
漆黒の髪を結い上げ、白金の髪飾りを付けて。そして美しい布を幾重にも重ねて作られたようなドレスを身に纏った美姫。
女性のように振る舞ってはいても、快斗は一目で判った。……この姫は、あの時の彼だと。
周囲が注目する中、彼はゆっくりと優雅に広間を進み、快斗の元へやって来た。
快斗はあまりの事に一瞬我を忘れていたが、すぐに己を取り戻すと彼に向かって一歩踏み出した。
彼が……どのような姿であれ、彼が自分に会いに来てくれた。それだけで、心躍る。
彼が快斗の元に来る理由はただ一つ。
今宵は舞踏会。彼にリードをとられる前に、快斗は手を差し出した。
ダンスのお相手を、と。
快斗の誘いに、彼はまるで恥じらうように身じろぎした。そんな態度が堪らなく愛しくて思わず微苦笑を浮かべると、彼は誰もが魅了する程の華やかな笑顔を見せてくれた。
好きだ。好きなんだ──堪らなく。
改めてそう自覚した。早く彼に触れたくて、早く彼を抱き寄せたくて。
触れたらもう二度と手放さない。そして、彼の全てを知るのだ。こんなにも好きなのだから、彼もきっと応えてくれる筈。
この手を取ったら──。
なのに、運命は二人の間に微笑みを投げかけてはくれなかった。
「白馬、もう一度だけオレに力を貸してくれ」
一生の頼みだと、そう言って頭を下げる快斗に白馬は呆気にとられた。
「な……何、言ってるんですか!もう一度、あの森に送り込めだなんて」
無理です。と、きっぱりはね除ける白馬に、快斗は尚も縋り付く。
「後一度。一度だけで良いんだ。この通りだから……!」
なりふり構わない快斗の態度に、白馬は次第に戸惑いを大きくしていく。
彼が、本気で懇願しているのだ。……こんな事、一度もなかった。本気で何かを望む事なんて、これまでの長い付き合いの中においてもなかった事だ。
「ケジメ……つけなきゃならねーんだ」
何も応えない……否、応えられない白馬に、快斗はぽつりと呟いた。
「ケジメ……?」
頭を垂れる快斗が小さく頷く。
「オレは、自分の我が侭でアイツを好き勝手に弄んだんだ」
快斗がどんなに本気であったとしても、正体を偽って彼と関わったという事実がある以上、快斗の本気を新一に信じて貰おうなんて都合の良い考えは持てなかった。
「突然アイツの目の前に現れて、好きだと告げて、思いが叶えば切り捨てた。オレがした事はそうなんだ」
初めて想いが繋がったあの夜。明日の夜も来ると、そう約束したのに……結局守る事が出来なかった。
彼は、どんな想いであの夜を過ごしたのだろう。
きっと孤独と絶望に包まれたに違いない。それまで信じていたであろう者の裏切りに、憎しみを宿らせたかも知れない。
「だから、たった一言で良いから伝えたいんだ。オレが本気で新一を好きだった事を」
憎まれたって構わない。それで彼の怒りが収まるのであれば、この身を差し出したって構わない。
好きだから。本気で好きになった人だから、彼に真実を自分の口で伝えたい。
それが、快斗のケジメだった。
日々は何事もなく静かに過ぎていく。それはもう、あっけない程の穏やかさを含んで。
その日も新一は一日を終え、自室へと戻っていた。
新一の秘密を最初から知っていた上で黙認していた姉達は、二人の関係が崩れ去っても、その事に関して触れてくる事はなかった。
新一の心の傷は、新一自身しか癒せない。
彼女達なりの気遣いに、新一は敢えて普段通りに振る舞った。
気ままに外出し、本を読み、時に彼女達の午後のお茶に付き合ったりと……それまでと寸分違わぬ生活を続けていた。
只、夜になり、一人きりの時間になると、ふいに心の奥が軋むような悲鳴を上げた。必死になって抑えようとするも、新一の脳裏からはあの真っ白な衣装を身に纏った魔法使いの姿は消えてはくれなかった。
もう、二度と会うことなどありはしないのに。
テーブルの上に置かれた燭台の炎が小さく揺らめき、新一の顔に悲しげな陰影をつけた。
「………ッド」
元々、この世に存在しない魔法使いの名を、新一は知らず知らずの内に呟いた。
彼は魔法使いなどではないのだ。彼はこの妖精の国で最も高貴な血を受けた者の一人であり、この国に仇なす一族、しかもその中でも異端である新一とはそれこそ天と地ほどの身分が違う。
……いや、身分云々は問題ではない。
新一が本気で好きになった人は、存在すらしていない架空の妖精だったのだ。
それが、堪らなく辛く悲しかった。
幻を愛したとしてはあまりにも甘美で忘れられない。
初めて恋したあの人と会う事も叶わぬ自分の心の隙間に、易々と入り込んで……こうしてまた、一人になった。
初めて恋した人も二度目に本気になった人も、どちらも同じで……だから全てを失った。
新一は耐えられなくなって、目の前の蝋燭の炎を指で押し潰した。
途端に室内に闇が入り込む。その暗くなった場所で新一は佇んだまま、泣くに泣けない滑稽な自分自身に口唇を歪めた。
カーテンの隙間から、外の明かりが零れ落ちてくる。闇に目が慣れた室内は薄ぼんやりとした空間に変化し……そしてふいに一陣の風が新一の髪を優しく揺らした。
窓を閉め切った室内に吹き込む、生まれ得ぬ夜風。
奇妙に感じた新一が顔を上げ、窓辺に視線を泳がせて………その後、彼の蒼い瞳が大きく見開かれた。
今、自分が目にしているのは、幻だろうか。
瞬間、新一はそう思った。
未だ吹っ切れない弱い心が生み出した悲しい幻影。……本気で愛したその白い姿が、白く儚くそこに在った。
「……新一」
幻が言葉を発した。新一の名を……あの時と変わらぬ優しく穏やかな甘い声で。
「キ……」
新一は思わず彼の名を口に出しかけて、そして押し黙った。
新一が愛した魔法使いは、この世に存在などしていないのだ。彼は、この国の王子で、新一は彼を呪う魔女の一族に名を連ねる者。
「新一……」
白い影が揺らめき、新一を呼ぶ。ほんの少し不安を織り交ぜたような、そんな響きの声。
その声に、新一はようやく我に返った。
「こんな所に何しに来た、オウジサマ」
新一の口角がゆっくりと持ち上がる。
それまでの驚きや戸惑いと言った感情は影を潜め、敢えて新一は太々しい空気を身に纏った。
「新一」
「今更良くまた此処に……オレの前に顔を出せたものだな」
それとも何か?正体知られた上で、まだオレを弄ぶつもりなのか。
「新一、それは違う!」
影が大きく揺れた。戸惑った感情が伝わってくる。
「なら、何しに来た」
「……真実を伝えに」
僅かに視線を外し呟く影に、新一は嗤った。
「そんなモノは知っている。わざわざお前に教えてもらわなければ判らないとでも思っているのか?」
お前がこの国の王子様で、近々婚礼を挙げる事も知っている。
「安心しろ。オレもある程度は理解しているつもりだ。貴方様のような身分の高い王子様の愛を、たった一夜とは言えこの身に受けた事、名誉この上ない」
「新一!」
「しかし王子、あまりにも戯れが過ぎます。此処は魔女の館。そしてこの身は魔女の一族に名を連ねる者。……一夜の戯れで済ますのならまだしも、再び来られては一族の怒りを買う事となる」
人事のように淡々と語る新一に、目の前の影は頭を振った。
「違う……そうじゃない。新一、私は……私は」
「言うな。何も言うんじねぇ!」
突然新一は、激昂したかのように大きな声で叫んだ。
もう、どんな言い訳も聞きたくなかった。……聞いて、その言葉に縋って、また夢見るような事になってしまったら……今度こそ、新一の心は壊れてしまう。
「いいから、帰ってくれ。……オレは、恨まない。お前との事忘れて、ちゃんとこれからの幸せを祈ってやるから」
震えた声で、それだけ言うと口を閉ざした。俯いた顔、震える肩。
「新一……泣かないで」
泣かれても、今のキッドにはその涙を拭う事すら出来ない。
「今の私は貴方に触れる事すら出来ない。慰める事すら……」
「キッド……」
思わず顔を上げ、呼び慣れた名で彼を呼ぶと、キッドは嬉しそうに微笑んだ。
「もう私は、この地に来られるだけの力がないのです。こうして、あなたに幻を見せる事しか」
それでも彼と言葉を交わせるのならばと、キッドは再びこの地にやって来たのだ。
「元々、私には魔力はありません。此処に来る為に他の者の力を利用し続けてきました。……しかし、それももう出来ない」
魔女の力は強大だ。白魔法使い程度の魔力では太刀打ちできない。それでも何とかこの姿だけでも映す事が出来るのは奇跡のようなものだった。
しかし、そう長い間ここには居られないのも事実だ。
「新一……私は貴方に謝らなければならない」
身分を偽って、貴方と逢っていた事を。それが相手に対する裏切り行為に当たる事など考えもせずに、この身を晒し続けた事を。
「私は、貴方と出会う機会を得る為なら、偽りの姿で対する事にまるで躊躇わなかった。そんな事……取るに足らないものだと考えていた。貴方を騙していたのに、騙している自覚すら持ってはいなかった。……傲慢な私を許して欲しい」
「……ッド」
「いえ、許して戴けなくても構いません。只、知っておいて欲しいのです。私は、貴方を騙すつもりなどなかった事を。……初めて逢った時から、私は貴方の事が好きでした」
キッドの言葉に、新一は胸が切なく軋んだ音を立てた。
心が……信じる事は危険なのに、それでも信じてしまいそうになる。
相手は、この国の王子で、新一は魔女の一族の者なのだ。最も忌み嫌われる一族の……はみ出し者。
そんな2人の間には、愛だの恋だのと言った感情が、生まれる訳がない。……天使と悪魔が愛し合うようなものだ。
「新一……貴方と初めて逢った時の事、覚えていますか?」
「初めて……?」
キッドの問いに新一は顔を上げると、複雑な表情で彼を見た。
あの時の自分は貴族の格好で、目立たぬように宮殿の内部を探索していた。
姉たちの弄した策をことごとくかわす、その聡明な王子の顔を見てみたくて、遠くからどんな相手か観察してやろうと、好奇心に駆られて歩き回っていた王宮の中。
新一は己の無責任な行動の所為で、彼との対面を果たしてしまった。
しかし、それは新一だけが知り得る出逢い。あの時の貴族が新一であることなど、相手は気付いてはいないだろう。
「あの時の貴方は……美しかった」
その言葉に、あの夜の舞踏会の事が脳裏を過ぎった。
「あの時私は部屋に誘い込もうとしたのに、……貴方はするりとかわして逃げてしまった」
しかし、その後の言葉に、新一は一瞬何を言われたのか理解出来なかった。
「……え?」
戸惑う新一に、キッドは穏やかに微笑んだ。
「一目で貴方が欲しくなって、貴方を傍に置いておきたくて……身分のある者の傲慢さで、具合悪く蹲っている貴方を手に入れようとした」
ほんの少し悪びれた風に告げるキッドの言葉に、新一は混乱した。
彼が語っているその出逢いは、舞踏会の時のそれではない。しかし。
「だって……あの時は……目の色も髪の色も」
今の新一とは全く別の姿で出逢ったのだ。
だから、気付かれる訳がないのだ。なのに、何故?
「私が、貴方を見間違える訳ないでしょう?あの日王宮で出逢った時も、その後舞踏会で私の前に現れた時も、貴方は貴方でした。私が愛した新一だった……」
「キッド……」
声が震えた。視界がぼんやりとぼやけて、瞬きすると堰を切ったように涙が溢れてきた。泣きたくなかったのに、涙は止まらない……嬉しくて。
あの時の出逢いを、キッドも知っていてくれた事が、こんなにも嬉しかったなんて。
新一が一番最初に愛したのは王子だった。決して届かぬ相手に恋をして、叶わぬ夢に悲しく笑っていた。
二番目に好きになったのはキッドだった。自分がこれほどまでに惚れやすくて無節操だった事に驚くくらい、彼を愛していた。
一方は本物で、もう一方は偽物。でも、2人は同じ。
新一は、王子がキッドが、あの時から自分を思い続けていてくれた事を知った。……それだけで充分救われたような気がした。
「キッド……お前も覚えているか。あの夜、お前がオレに二度目の告白をくれた後にオレが言った言葉を」
好きなヤツがいる。あの夜、新一はそう言ってキッドを拒絶したのだ。
「……覚えています。でも、私はそれでも構わなかった、私は……!」
言い募ろうとするキッドの言葉を遮るように、新一は顔を上げた。瞳は涙に濡れていたが、その双眸の奧に宿る意志の力は、キッドを黙させるのに充分な光を放っていた。。
黙り込んだキッドを見つめ、新一は静かに口を開いた。
「キッド、オレが初めて好きになった相手は、最も高い身分を誇るこの国の王子。……お前だったんだよ」
恨んでいないと言われた。
憎んでいないと言われた。
──ここから、お前の幸せを願ってる。
濡れた瞳は澄んでいた。穏やかに微笑んで彼は言った。
そして、最後には「ありがとう」と言われた。
新一には新一の、快斗には快斗の世界がある。2人の世界は一つにはならない。それは、互いの身分の違い以上に厄介な隔たりが身を横たえていた所為でもあった。
しかし……。
快斗はそれでも構わなかった。
もし、あの時新一が縋ってくれたなら。「行くな」と言ってくれたなら、快斗は何もかも捨てて、新一の傍に居続けただろう。
例え、魔女達になぶり殺しにされたって、彼の傍を決して離れない。最後の一瞬まで、彼の事を想って生きる。
だけど、快斗の決心は、新一には不要のものだったのだ。
彼は強い心で、快斗に別れの言葉を口にした。
キッドは、最後まで彼に別れは告げられなかった。
「母さん!」
重厚な重い扉を自らの手で押し開き、ズカズカと入り込んできた息子に彼女は、「女王とお呼び」と、広い机の上に広げていた書類から目を離すことなく、そう窘めた。
「んな事。何、母子で改まった敬称で呼び合わなきゃなんねーんだよ。……そんな事より、オレ聞きたいことが」
豪奢な衣装に身を包んだ快斗は、それに似合わぬ粗雑な口調で、母親である女王の執務机にまでやって来た。
「仕事中よ。見て判らないの?」
素っ気なく片手を振って追い出す仕種をする母親などものともせずに快斗は言う。
「仕事より、オレの将来を心配しろってーの」
大事な事なんだよ。そう言って、机の上に両手を叩き付けるように置いた。
「あんたの将来なんて、とっくに決まっている事よ。何を今更心配しなきゃならないの」
呆れたように溜息をつくと、女王は何時になく真剣な眼差しで自分を見つめる息子を見やり、また溜息をついた。
こういう時の快斗は、あしらうよりは、適当に相手をした方が得策だと母親は知っていた。
女王は傍に使えていた者に休憩の旨を伝えると、お茶を用意するよう申しつけた。
「……さて。話を聞こうかしらね」
息子の為に庭に席を設けた女王は、白磁のティーカップを優雅な手つきで取り上げながら快斗を見た。
当の相手は、僅かながらの苛立ちを抑えるかのように、母親を見つめている。
「王家と魔女との確執、その経緯を知りたい」
「あら。性懲りもなく、まだ貴方に付きまとっているの?」
呆れたと言うように頭を振る女王に、快斗は声を上げた。
「魔女は代々王位を継ぐ王子に対して呪い続けてきた。だけど、いくら魔女でもそうなった原因がある筈だ。オレは、今までそんな事考えもせずに、魔女の張る罠をかわしてきたけど……母さんなら知っているだろう?」
快斗の言葉に、女王は無言でお茶を飲んだ。
「色々な文献を紐解いてみた。けど、魔女が王子を呪う原因はおろか、そんな事があるという記述すら見つけられなかった。……これは一体、どういう事なんだよ」
「そういう事よ」
女王はあっさりそう言うと、カップを戻した。穏やかな春の風が吹き、庭に咲き乱れている薔薇の香りが辺りに漂った。
「たかが魔女風情が、王家の……それも王位を継ぐべき存在に対して呪いをかけるなど、そのような事実は許されない事よ」
歴史には、魔女が王子を呪い続けているという事実は存在しない。そもそも、この国には『魔女』すら存在していないのだ。歴史の中では。
「だけど、オレは狙われ続けた」
当事者である自分が何も知らないままに呪われようとしている事に憤りを感じずにはいられない。そう言う快斗に、女王は益々呆れた風に溜息をついた。
「今の今まで何も考えもせずに生きてきたお前が何を今更……」
「ああ、今更ながらにそう思ったんだよ。そんな事はどうでも良いじゃないか。要は、呪われなきゃならない、その原因が知りたいだけだ」
「知って……どうするの」
「原因が分かれば、解決への糸口に繋がる」
「解決?」
「魔女と……和解する事だって出来るかも知れないじゃないか」
「呆れた!三千年も続いてきた確執がそんなに簡単に解決出来るものですか」
三千年。その言葉を聞いて、快斗は愕然とした。長い間、ずっと魔女に呪われてきたとは聞かされていたが、それほどまでに長い年月を重ねていたとは。
そして、同時に確信した。女王は、確実にこの件の経緯を知っていると。
「頼む、教えてくれよ。その三千年前に起きた事を」
切実に訴える快斗だったが、しかし女王の言葉は素っ気なかった。
「残念だけど、これはお前には教えられないわ」
「何故!?」
「そういう決まりなの。……文献に載らないこの歴史を知る者は、呪われし子を産む者だけが知る事が出来る。……そうして代々、口伝えられてきたものなのよ」
「一体どうして……何で、そこまで隠さなきゃならないんだ」
納得出来ないと言い張る快斗を余所に、女王は視線を緑豊かな庭へと向けた。常春の世界は何処までも鮮やかな緑と芳しい花々が広がっている。
「母さんっ!」
「……恥ずべきは、私たちの方。呪われてしかるべき事を私たちは犯してしまったのよ」
それは、独語に近い呟きだった。快斗に視線を合わせることなく呟いた女王の横顔は、僅かに暗い翳りが見え隠れしていた。
「快斗!」
弾むような軽やかな声が、快斗の背後から投げかけられた。
億劫そうな動作で振り返ると、案の定快斗を呼び止めたのは青子だった。
「陛下とのお話は終わったの?快斗」
跳ねるように駆け寄ってくると、青子はそう言って快斗を見上げてきた。
「……まあな」
さしたる収穫はなかったが、あれ以上母親を問いつめた所で、口を開くとは思えない。彼女はこの国を統べる女王なのだ。公私混同など決してしないだろうし、快斗に絆されて教えるような気質の持ち主でもなかった。
「大事なお話だったの?……青子も久しぶりに陛下とお話したかったけど、人払いされていたでしょう?」
青子は王族の中でも、かなり身分が高かった。しかも、快斗の母のお気に入りだ。快斗も幼い頃からこの妖精と一緒に過ごしてきた。
王族にしては気取った所のない青子は、周囲からは少し浮いて見えがちだが、その瑞々しい美しさと持って生まれた気品はそれを補ってあまりある。そして快斗は、そう言った身分の高い者が持ち得ていた特有の自尊心のない所が気に入っていた。
「青子が気にするもんじゃねーよ」
「そうなの?……本当はね、もしかしたら青子たちの婚礼について、何か話されていたんじゃないかって、ドキドキしてたの」
ほんのり頬を染めて小さく囁く青子に、快斗は言い様のない戸惑いを押し隠して応えた。
「いや、そんな話じゃねーから……。式も予定通り、何のトラブルもありはしないさ」
そう言うと、目に見えて青子の表情は輝いた。
「良かった!青子、あまり王家の人間として相応しくないから、誰かに反対されているんじゃないかって、ずっと思ってたの」
「誰だよ、そんな事言う奴は。……青子は今のままが一番良いんだから、変に畏まったりするんじゃねーぞ」
「うん」
にっこり微笑む少女は、だれが見ても美しかった。
「それより、オレに何か用でもあったのか」
婚礼が刻々と近付いてる今、本来ならば快斗も青子もこんな風に過ごしていられる時間などないはずなのだ。
「そうそう!あのね、今ようやく婚礼衣装が届いたの。……まだ仮縫いなんだけどね。で、一度合わせるんだけど、快斗にも見て貰おうと思って」
頬を染めて、上目づかいに見つめてくる青子の様子に、快斗は躊躇いがちに眼を伏せた。
「……青子は何着てもよく似合うよ」
「そんな事言って。……どうせ、面倒だとでも思っているんでしょ?」
元々、煩わしい事が嫌いな快斗の性格は良く知っていた。その所為もあってか、青子は「ま、いっか」とあっさり呟くと身を翻した。
「じゃ、行くね。何時までも待たせちゃ悪いし」
青子は王族らしからぬ言葉を残して、そのまま駆け去って行った。
快斗はその後ろ姿を暫くの間追っていたが、振り切るように頭を振ると彼女とは逆の方向へと歩き去った。
ぱたぱたと軽やかに駆ける青子の足が、ふと止まる。振り返り、自分の許婚者の姿を見つめ、それからふいに表情を曇らせた。
「ねぇ、白馬君」
呟く様な問いかけに、まるで突然姿を現したかのような唐突さで、彼女の背後に魔法使いが姿を見せた。
「何でしょう、姫」
しっとりと落ち着いた声がそれに応える。
「快斗は青子の気持ちをちっとも判ってくれないわ。……もう何十年も一緒に居たのに、青子の気持ち……これっぽっちも理解しようとは思っていないみたい」
青子にはそれが寂しかった。
青子は、快斗が幸せでさえいられればと、それだけを思っているだけなのに。そう彼にも伝えたはずなのに。
「彼に女心を理解しろと言う方が無理なのですよ」
「あら。女心を理解しているからこそ、青子を理解出来ないのよ」
拗ねたように頬を膨らます青子に、白馬は微苦笑で応えた。
「ねぇ。でも、このままでは、快斗も青子も不幸になってしまうわ。何とかならない?」
自分よりも近い場所で仕えている白馬に、青子は縋るような眼差しを向ける。白馬はそんな彼女を眼を細めて微笑んだ。
「王子は兎も角、姫が不幸になってしまうのは問題ですね」
「そうよ、大問題だわ」
青子はそう言うと、軽やかな声で微笑った。
王宮内は人々が慌ただしく行き来している。
王家の婚礼……しかも世継ぎの結婚式が刻一刻と近付いている今日、忙しくない方がおかしい。
しかし、中にはそのような喧噪などまるで構わない者も居る。
相変わらず静かな図書館で、堆く積まれた書物を前にして没頭している世継ぎが一人。
「婚礼衣装の合わせに、召使い達が今朝から貴方をずっと探していますよ」
目前に迫った婚礼。しかし、当の本人はそんな事など露ほども見せずに書物を読み漁っていた。
「王子……!」
黙々と読み続ける快斗に焦れた白馬は少し声を荒立てると、ようやく視線が僅かに上がる。
「んなもの、オレのサイズに合わせてありゃ、入らない筈はねーだろ。……そもそも、その為にオレは最初に嫌になるほど細かな寸法取られたんだ」
「そんなこと言って」
「元々行事で着る衣装は、どれも動き辛くて窮屈なもんだ。多少、サイズが合わなくたって、どうせ立ったり座ったり、緩慢な動作で歩くだけだろ。……構やしねーよ」
取るに足らないと言った投げやりな口調でそれだけ吐き捨てると、快斗の視線はまた紙面に戻る。
「そのような態度ばかり取られていると、その内姫に愛想を尽かされますよ」
呆れると言うには、些か真剣すぎるその声の響きに、快斗の頭が小さく揺れた。
「何、……青子?」
まだあどけなさが残る彼女の顔がふと脳裏を掠め、僅かに顔色が陰った。
彼女は幸せならなければならない。大切な幼なじみ。
「どうせ、またあの男の事を考えていたのでしょう。……いい加減に」
「新一を侮辱するのは許さない」
ガタリ、と椅子を引く音共に、いきなり鞘を抜いた剣の切っ先を白馬に向けた快斗が、険を含んだ表情で睨み付ける。
「……もう、全てを吹っ切ったのではないのですか」
刃などものともせずに、白馬が静かに口を開くと、快斗は睨み付けたまま、彼から剣を外した。
「そんなに簡単に吹っ切れるモンじゃねーよ」
鞘に納め、小さな溜息をついて、また椅子に腰を落とす。そんな彼の表情は、どこか愁いを帯びているようだった。
諦められたとしても、忘れる事など出来る筈もなく、愚かにも想い続けるだけ。
そんな快斗の心を癒してくれる者など周囲には居るはずもなく。そして、改めて知る。彼だけが……彼だけが全てだった事を。
快斗の表情を見るまでもなく、白馬は全てを察していた。彼は快斗の共犯者であり、理解者でもある。
この目の前の男が……今まで、何一つとして強い執着心など持ち得た事のなかった彼が、唯一心から欲したモノ。それが、彼だったのだ。
「だけど、今のままでは貴方が不幸になります。……婚礼の日は、もう目前なのですよ。このまま、彼女と一緒になるつもりなのですか」
「……今更、止められる訳がないだろう」
今取り止めるなんて事になれば、只では済まない。国の威信に関わる重大事になってしまうのは、目に見えて明らかだ。
そもそも、取り止められる筈がない。快斗はこの国の王子で、最も強い権力を持ち得てはいたが、だからこそ……普通の妖精ならば自由になるはずの婚姻が、本人の勝手では変えられないのだ。
別に大して欲しくもなかった地位と名誉、そして権力。他の者達がこぞって欲しがるモノを快斗は厭い、そしてその所為で、愛する者と一緒になる事も出来ない。
「……オレって、不幸だ」
「快斗が不幸ですって?冗談も休み休みに言いなさいよ」
静寂をモットーとする場所で、一際甲高い声が館内に響き渡った。その第三者の声に快斗は思わず顔を上げた。
「青子!?」
快斗の驚愕を余所に、彼女は衣装の裾さばきも荒々しくこちらに近付いてくる。
「ああ、もう、焦れったい。快斗、貴方何時からそんな軟弱な男に成り下がったというの!?」
テーブルを挟んだ前までやって来ると、ひたりと指をさして言い放つ。
「青子はね!そんな男を幼なじみに持った覚えも、許婚者とした覚えもないわよ!何、一人で不幸を背負い込んで悲壮ぶってんのよ。快斗には快斗を想ってくれる白馬君や青子がいるじゃない。不幸だと思うのなら、その前に縋ればいいでしょ!」
ホント、頭の回らない男ね。と喚き立てる青子に、突然そう言い放たれた快斗の思考はと言うと、混乱し過ぎて停止しそうになっていた。
「青子、お、お前、何言って……」
「何言って、って。青子が何言っているのかすら理解出来ないの!?……快斗にとって、青子は何なの!?」
「お、幼なじみ……?」
その答えに、青子は満足げに頷くと、続けざまに質問する。
「じゃ、白馬君は?」
「……幼なじみ」
これまた先と同じ答えを返した快斗に、今度はにっこり笑って見せた。
「快斗と白馬君と青子は、うんと昔から一緒に過ごしてきたよね。3人は仲の良い幼なじみだって、青子ずっと思ってたよ。もちろん、今も変わらないわ。ね?」
青子が微笑みながら向けた相手は白馬だった。彼は彼女と同じように笑顔で頷いた。
「ええ、もちろん。昔から、ボク達の間に隠し事なんてなかったからね」
その言葉に、それまで止まり掛けていたいた快斗の思考能力が、みるみる内に回復を果たす。
「てめ……白馬、しゃべったのか!?」
「別に口止めなんてされてませんでしたし」
別段、悪びれる事もなく、いけしゃあしゃあとその言葉を吐き出す白馬に、青子は「されてたまるものですか」と、つっけんどんに短く応える。
「白馬君には散々手伝わせておいて、青子は蚊帳の外?……冗談じゃないわよ」
頬を膨らます青子に、反論の余地など見出せず、只黙することしか出来ない快斗に、青子は情けなさそうに頭を振った。
「青子、以前言ったよね。……快斗が幸せでさえいられればいい。それだけを思ってる、って」
あれは舞踏会での出来事だった。快斗の目の前に現れた美しい姫が、実は魔女の一族の者で、それが新一だった事。その彼を追い出したのが青子が連れてきた一人の人間で……。その後、彼女が言った言葉。
「青子、今でもそう思っているんだよ?快斗が幸せであってくれれば良い。快斗の幸せが青子の安らぎになる。青子は快斗が好きだから、大好きだから」
「……青子?」
「ああもう、どうして青子は男じゃなかったのかしら。女なんかじゃなかったら、青子の気持ち、もっとちゃんと理解してくれた筈なのに」
その証拠に、快斗は白馬には手を借りているのだ。
「同じ幼なじみなのに、どうしてこうも態度が違うのかしら。そりゃあ、青子には白馬君みたいな魔力はないけど、でも」
「青子、ごめん」
「……快斗?」
「青子には、後ろめたかったんだ。仮にも許婚者だし……それに、これはお前に対する裏切りでしかない」
声を詰まらせる快斗に、青子の表情はふと曇った。
「そんな風に思わなくても良いの。……王族の婚姻がどういうものか、青子はちゃんと理解しているわ。もちろん、青子が快斗を幸せにしてあげられるのなら、それでも全然構わなかったけど。……でも、青子の力では快斗を幸せにしてあげられないって知った時から、ずっと言ってくれるの待ってた」
好き嫌いで結婚出来ないのが、身分ある者の宿命でもある。快斗と青子の場合は、気心の知れた相手というだけあって、婚姻としてはまだましな方だった。
しかし、青子の望みは快斗との結婚ではなく、快斗の幸せである。広げて言えば、それは白馬の幸せを願うものであり、青子自身も幸せになる事である。
3人がみんな、幸せになれますように。と、幼い頃に願った事を青子は忘れていない。
この婚姻が快斗の意に染まぬものである事を、大切な『誰か』を得たのを知った青子は判っていた。
だから、待った。快斗が言ってくれるのを。
まるで時が流れている事を忘れてしまったように淡々とした日常を送る快斗には、婚礼の日が目前にまで迫っている事など気付いていないようで。だから、わざわざ彼の前ではしゃいで見せて、一言でも良いから、この婚儀に躊躇いを感じていてくれればと思っていたのに、そういう所は何というか……一国の王子らしくて、正直居たたまれなくなった。
快斗が望んでくれれば、青子の方からこの話を潰す事だって出来るのに。
……だけとそれだって快斗は躊躇うのだろう。
世継ぎの王子との結婚を拒んだりすれば、青子の家はその爵位を失うだろう。名門と謳われた家は断絶される。その事が判らない快斗でも青子でもなかった。
それでも……それでも!
「青子は構わないんだよ。快斗が望むのなら、全てを白紙に戻しても。……それで一族が路頭に迷う事になったとしても、青子は我が儘な女だから」
「……青子?」
「青子が一番望んでいる事は、3人の幸せだけだから。快斗が、白馬君が……そして青子が満足出来れば、他はどうなったって構わない」
ね?我が儘な女でしょう?
青子はそう言って、屈託なく笑った。
「お忙しい中、お目通り頂きまして感謝致します、陛下」
長い髪を結い上げ、美しい衣装を身に纏い玉座の前で恭しく頭を垂れる青子に、女王は穏やかに微笑んだ。
「そんな堅苦しい挨拶はおやめなさい、青子ちゃん。私にとって貴女は娘のように思っているのに」
昔から女王は彼女を可愛がっていた。王族としては、些か型破りな所があったが、彼女はそこが気に入っていた。
しかも近い将来、彼女は本当に自分の『娘』となるのだ。
「それに忙しいのは貴女の方でしょう?婚礼の準備は滞りなく進んでいるようだけど」
すこぶる機嫌良くそう言った女王だったが、反して青子の表情が暗く陰った。
「……どうかしたの?何か至らぬ点でも」
日頃はとても明るく快活な少女が、滅多に見せぬ程の憔悴した表情で女王を見つめてくる事に、彼女は不審を感じた。
「青子ちゃん……?」
「陛下……私は」
躊躇うように視線を揺らめかせて、そしてまた俯く。普段の彼女からは想像出来ない態度だった。
「何か思うことがあるの?あるのなら言ってご覧なさい。私にとって、貴女はもはや娘同然。そんな顔させたくはないわ」
心を砕いてそう声を掛けるが、相変わらず青子の表情は優れない。
ふいに女王の脳裏に愚息の顔が過ぎった。
「まさか、あの子が何か言ったの!?青子ちゃんを傷付けるような事を」
我が息子ながら、どうもデリカシーに欠ける所がある自分の息子に苛立ちを覚えた。
元々、女王は息子ではなく娘が欲しかった。玉座に座るのは男の方が良かったので息子をもうけられた事は国としては喜ばしい事だったが、本当は女の子を産みたかったのだ。
だから余計に女王は青子を可愛がっていた。息子の婚礼を何よりも望んでいたのは、当人達より彼女の方が強かったのだ。
「ああ、我が息子ながら情けない。青子ちゃんにそんな不安を募らせるなんて!」
「いいえ、いいえ、陛下!そうではありませんわ。快斗……殿下は何時もお優しく、私を気遣ってくれてますもの」
「あら、そうなの?」
……なら、彼女の憂いの原因は何なのだろう。
「陛下……私が不安に思っている事は只一つ。私が将来お産みするであろう、お世継ぎの事ですわ」
ほんのりと頬を染めつつも顔色の優れぬままで、躊躇いつつも青子はそう告げた。
「世継ぎの……それはまた気の早い」
そう言いながらも満更でもない顔で扇を口元を隠す女王に、青子は言い募る。
「不安なのです、陛下。……私が恐れ多くも世継ぎを産む使命を背負う事は、女としてこれ以上幸せな事はございません。……でも、我が子を災厄から守れるかどうか……私には自信がないのです」
婚礼とは、世継ぎをもうける為の儀式の一つに過ぎない。妃となった青子は何が何でも世継ぎを産まなければならないのだ。
……しかし、もしそれが男子だったら。
「王子が生まれたら、その子は魔女の呪いが掛かってしまう。……幸いにも殿下は健やかにお過ごされ、私も幸福な日々を過ごさせて頂いておりますが、それもこれも陛下のお力あっての事。……でも、私は我が子を呪いから守れるだけの力などありはしません」
もし、万が一、幼い王子が身罷る事があったなら……その事が想像するだけでも恐ろしく、身の凍る思いがすると、青子は切々と女王に訴えたのだ。
「私には妃としての務めを果たすことなど……出来ようはずがありません。その証拠に、私は己の不安を殿下に伝えてしまいました。……愚かにも私はあの方に縋ってしまったのですわ」
その言葉を聞いて、女王は先日の快斗の言葉を思い出した。
執拗に呪いについて尋ねてきたその裏には、こういう事情があったのかと納得する。
女王は、彼女を安心させるように微笑んだ。
「大丈夫、心配しなくても。……確かに王家の呪いは存在する。だけど、これまで一度だって世継ぎが身罷られた事などありはしない。王家の血は絶やされてはいないのよ」
その事実を知れば、貴女も理解できるでしょう?
「魔女に、王子を呪う事は出来ても、殺す事は出来はしないのよ」
「……殺める事が出来ない……?それは一体、どういう事なのでしょうか」
不安の中に一筋の光明を見出したかのように顔を上げる青子に、女王は暫く逡巡した。
彼女は近い将来、息子の妃となる娘である。そして、いずれは子を身ごもる。これはもう決められた事なのだ。
女王は小さく頷くと、凛とした声で青子に告げた。
「良いでしょう。本来ならばもう少し後になってから告げる事ではあるけれど、貴女に話します。……呪われた王子の歴史を」
王家と魔女との確執、その経緯の全てを。
玉座から立ち上がった女王はそう言うと、人払いを命じたのだった。
今から遙か昔。
それは長寿を誇る妖精ですら忘れ去られてしまうほどの、遠い遠い昔。
妖精達の営みは、今と何ら変わることなく、彼らは美しい姿のまま何十年、何百年と生き続けていた。
国の成り立ちも変わらなかった。妖精の国では王が玉座に着き、民は彼を敬う。王宮には身分の高い『貴族』と呼ばれる妖精達だけが出入りを許され、彼らは王と共に国政を動かしていた。
妖精の国では、その尊き血が敬われ、身分に反映する。
そのような国で、他国との違いの最も顕著なのは『魔法使い』の存在だろう。魔術を使える者は、妖精の中でもほんの一握り。
そしてその力は、時に国をも動かす事もまれではなかった。
王宮のお抱え魔術師。その身分にある者を彼らは『白魔法使い』と呼ぶ。
その力は、他の魔術師とは比較にならない程の強い力を備えていた。そして、そう呼ばれる魔法使いは、ある一族からしか輩出されなかった。
尊き血を絶やさない王族同様、魔法使い達もその血を薄める事なく保ち続けて来たからだった。
だが、魔法使いは貴族ではない。魔法使いの血は尊き物ではない。……それどころか相反するものだった。
魔法使いの血は他の妖精の血を汚す。それは、他の者にない力を与えられた代償でもあった。しかし、だからと言ってその血が汚れている訳では決してない。魔族の血は、そうでない者との交わりを嫌うのだ。魔法使い本人が嫌うのではなく、その身に流れる『血』だけが。
時の白魔法使いは女性だった。
それ以前も女性だった。代々女性だけが白魔法使いとして王宮に上がる事が許された。
その白魔法使いには何十人もの娘が居た。生まれたばかりの嬰児から、美しく成長した年頃も娘まで。妖精の寿命は長く、それ故に子供をもうけられる期間も長い。
特に次代の白魔法使いを選ばなければならない者としては、より力の強い魔法使い必要だった。
幸いにも白魔法使いはたくさんの子に恵まれ、そして、早い時期に強い魔力を秘めた娘を手に入れる事が出来た。
彼女の5番目の娘は、絹糸のような黒髪に晴れ渡った蒼穹の空を思い起こさせるような美しい瞳を持った魔法使いだった。
血と美しい物を尊ぶ妖精にとって、美しさは即ち善である。
彼女は、強い魔力とその誰もが魅了される美しさを兼ね備えた希有な存在だった。
白魔法使いが、そして誰もが彼女を賞賛し、次の白魔法使いとして望んでいた。
当の娘もそうなる事に躊躇いはなかった。白魔法使いは魔術師の頂点に立つ魔法使いである。そして、貴族でない者が王宮に入る事が許される、唯一の存在であった。
彼女は白魔法使いを継ぐ者として、王宮で学ぶ事になった。
そこで程なくして、彼女は世継ぎの王子と恋に落ちるのである。
陛下を抱き込んで件の話を聞いてくるわね。
と、あっけらかんと言い放って、意気揚々と出掛けた青子が帰ってきたのは、それから数刻が過ぎての事だった。
「結果としては、彼女は王子と引き離され、最後には自ら死を選んでしまうのよ」
事のあらましを語る彼女の表情は晴れない。
魔法使いと王族の者は結ばれない。もしそうなってしまったら、王家の血が汚れてしまう。汚れてしまった血は元に戻らないし、汚れた血を持つ妖精が王族のままで居られる訳もない。
しかも、相手は次代の国王となる男である。そもそも、自由な恋愛が出来る立場の者でもなかった。
「彼女が魔法使いじゃなかったら。もし普通の妖精だったなら、まだ慰めを掛けられる事も出来たと思うの……でも」
一度でも交われば身体は汚れ、血は濁る。濁った血では世継ぎを生み出す事も出来はしない。……もしそうなってしまえば、国は滅びる。
「時の王子も魔法使いの娘も、お互いの想いがどうにもならないものだと判っていた。判っていても、なかなか諦める事って出来ないと思うわ。……それでも2人は国の繁栄を願って、引き離される事に従ったのよ」
このような事態を起こしてしまった娘は、例え最も強い魔力を備えた魔法使いであったとしても、もう白魔法使いにはなれなかった。王子の心を惑わす者の存在は何よりも許されないのだ。
彼女は王宮を離れ、そして対面を慮って一人、一族の元を離れた。
……そして、命を絶った。
そこまで話して、青子は俯いた。隣で聞いていた快斗と白馬も顔を伏せたまま、一言も発しない。
重い沈黙が流れた。
「彼女が自ら命を絶った事を知った魔法使いの一族は激怒したそうよ」
いくら王族であったとしも、このやり方はあんまりだ、って。
「……ちょっと待って下さい」
そう声を上げたのは白馬だった。
「その、お互い不憫ではあると思うのですが……でも、自ら命を絶ったのは、その娘の決断でしょう?切欠はどうであれ、王族を憎むのは筋違いでは……」
「白魔法使いは知っていたの。……娘が自ら命を絶ったのではない。──王宮の者に殺されたと言うことを」
青い顔で、それでも青子ははっきりと言い放った。白馬は愕然とした顔で彼女を見つめた。
「そんな……だって、彼女は身を引いた訳でしょう?しかも、一族からも離れて……なのに何故」
「邪魔だったんだ、彼女が」
それまで黙って聞いていた快斗がぽつりと呟いた。
「例え身を引いたからって、それで未練を吹っ切れる訳じゃない。いや、この際娘の事などどうでも良かったのかも知れない。……だけど、王子が彼女に未練を残すのは許されなかった。だって、何時我慢できなくなって彼女の元へと走ってしまうか分からないだろ?──なら、その前に後顧の憂いを除けば良い」
だから、彼女は殺された。魔法使い風情が一国の王子を愛した罪で。……それ以上に、王子に愛されてしまった罪で。
「陛下は青子にあくまでも『娘は自ら命を絶った』とおっしゃったわ。口伝えでさえそうやって対面を保って受け継がれて来た歴史。……だけど青子は、そんな事信じない。そして、陛下も同じ思いでいらっしゃるはずだわ。……だって」
「『……恥ずべきは、私たちの方。呪われてしかるべき事を私たちは犯してしまったのよ』」
「……快斗?」
目を見開く青子に、そう言った快斗は寂しげな表情で笑った。
「この前、お袋に問いつめた時にそう言ってたんだ。魔女が呪うのには根拠がある。……呪われても文句言えないような事をオレの先祖はしてしまったと、……そういう事なんだな」
「その後王子は王族の姫と結婚し、世継ぎをもうけたそうよ。それは王子としての務めでもあったのだけど、白魔法使いはそうは思わなかったみたい。自分の娘の事など忘れた顔して他の姫を娶り、子をもうけた。……だって、それは彼女が死んでしまってから一年も経っていなかったのよ。例えその婚儀が本人の意志ではなく執り行われたものであったとしても、こんな事、逆恨みなんてするなと言われたって恨まずにはいられないと思うわ」
大事な娘は殺され、その命を奪った張本人は、幸せな結婚をした。
だから白魔法使いは、王子に呪いを掛けた。自分の娘を死に追いやった王子に災いと不幸を。
王族を呪う魔法使いが王宮に居られる筈はない。彼女は白魔法使いの身分を剥奪され、一族は追放された。魔法使いは魔女となり、国に広がる森の中へと隠れ住みながら、日々王子を呪い続けている。
「でも、少し変じゃありませんか?」
話を聞いた白馬が、ふいに疑問の声を上げた。
「白魔法使いは、国で最も強い魔力を持った魔法使いです。そんな者の呪いを受けて、三千年もの間、王家がその血を絶やすことなく続く事なんて出来るのでしょうか」
白馬の疑問に快斗は頷いた。
「それもそうだ。何より王族は他より純粋な血を保ってきた。そんなオレ達にとって、魔法使いの呪いは毒そのもの。呪いなんて掛けられたら、為すすべもなく朽ちていく筈なのに」
だけど、そうはならなかった。三千年もの間呪われ続けていたのに、大なり小なりの災いはもたらされてはいたが、誰一人として王子が命を落とした事はなかったのだ。
これは一体、どういう事なのだろう。
「……守られているって、言ってたわ」
それまで口を閉ざしていた青子がぽつりと呟いた。
「守られてる、って……どういう事だ?」
分からないと首を傾げて訊いてくる快斗に、青子は小さく頭をふった。
「良くは分からないの。……陛下も、本当の所はどうなのか分からないとおっしゃっていたわ。……だけど、これまで呪われてきた王子達の誰一人として落命されていないのは、彼女が守護しているからではないかと、陛下はお考えのようだったわ」
「彼女って……誰なのです?」
突然出てきた第三者の存在に疑問の声を上げる白馬に、青子は真摯な顔で告げた。
「三千年前、王子を愛し、そして殺されてしまった魔法使いの少女よ」
「陛下が快斗を産んだその日の夜、夢を見たそうよ。陛下は夢の中で、長い黒髪の美しい少女に出逢ったの。その少女が微笑みながら『この国の大切な世継ぎは、私が護ります』って、そう告げられたそうよ」
それは単なる夢でしかなく、そのような事まで伝えられてはいなかった。だから、女王が見せた気休めの夢でしか無かったのかも知れない。
しかし、その夢が彼女を安堵させたのも事実。そして、現実に快斗は呪いにかかる事なく健やかに成長した。
「けど、王家に殺されてしまった魔法使いが、その王家の人間を護るなんて事あり得るのでしょうか」
「殺されてしまったとはいえ、好きな人の子孫よ。黙って見過ごす事なんて出来なかったかも知れないわ」
それに、一族が罪に手を染めることを憂いでいたのかも知れない。
彼女は、まるで復讐のような呪いなど、望んでいなかったのかも知れない。
「それに、殺されてしまったとはいえ、次の白魔法使いとして定められていた人なら、相当の力の持ち主だった筈でしょう?……そのような人なら、死しても尚強い力を保っているかも知れないわ」
力強く告げる青子。しかし、快斗の表情は優れなかった。
「じゃあ、……そんなに強い力を持っているのなら、何故殺されてしまったんだ」
「快斗……?」
「魔法使いは、物理的攻撃から避ける事くらい簡単だろう?」
白馬に問いかけると、彼は大きく頷いた。
「ええ。弓であれ槍であれ、向けられれば、それを交わす事くらい簡単です。姿を消してしまえば良いのですから」
少なくとも、白魔法使いとして立つような妖精なら、そのような事は容易に出来る。昔に比べ、格段の能力の落ちた現白魔法使いの白馬でさえ、可能な事なのだから。
「只、魔法使いとて不死ではありませんから……余程の使い手が殺気を殺して近付いたのかも知れませんし、もしかしたら、別の魔法使いの手によって殺されたのかも知れません」
「……あるいは、自ら命を絶った、とか」
ぽつりと呟く快斗に、青子も白馬も目を見開いた。
「命を絶った、って……自殺したというの!?」
「でも、殺されたからこそ、魔女達は、代々王子を呪い続けて来たのではないですか?」
「自らの手で命を絶たなくたって、相手の攻撃を交わすことなくその手に掛かれば、自害のようなものだろ?」
彼女は、生きる事を放棄してしまっていたのかも知れない。
愛する人と引き離され、もう二度と会う事も出来なくなってしまった事に絶望したのかも知れない。
そんな彼女の前に刺客が現れたら……その手に容易に掛かって逝ってしまうのではないだろうか。
「そうね……。もし、青子だったら、生きる気力なんて無くしてしまっていたかも知れないわ」
辛い別れは、時に時間が癒してくれる事もある。しかし、彼女にはその時間を与えられる事なく、王宮の者の手によって殺されてしまった。
「どちらにしても、王家が悪いんだ。だから、魔女達の怒りを静められるのも王家……つまり、オレだけ」
「いやよ。素直に呪い殺されてしまうつもり!?」
思わず声を上げる青子に、快斗は微笑いながら制した。
「いや。……確かに、新一への愛を貫いて、唯々諾々と彼女達の手に落ちるのも悪くないかも知れないけど、それは最後に取っておいて、オレは出来る限り足掻いてみようと思う」
「……三千年以上も続いている憎しみを快斗一人で背負えやしないわ」
青子の言葉は、正論だった。白馬もきっとそう思っている。そして、快斗自身さえ。
「それでもさ……オレに出来る事で、彼女達の気持ちが少しでも和らぐのなら、やれるだけやってみたい」
何もせずにこのまま生きるよりは、ずっとマシな事だ。……それが、例え目の前の二人を悲しませる事になってしまったとしても。
「所詮、王家の者は自分勝手な生き物なんだよ。自分の好きなようにするんだから、後悔なんてしない」
きっぱりと言い放つ快斗に、青子は暫くの間、不安そうな表情を崩す事が出来なかった。しかし、何時になく真剣な……迷いのない瞳で真っ直ぐに前を見据える幼なじみの姿を見て、青子は小さく頷くと勢い良く顔を上げた。
「快斗が一番だと思う道を進めば良いわ。青子、応援する」
迷いを吹っ切った笑顔でそう告げると、
「そうですね。ボクも、何とかして骨だけでも拾ってあげられる様、努力します」
真剣なのか冗談なのか判らない顔で白馬もそう告げる。
快斗は、そんな二人に苦笑しつつも、真剣に快斗を想ってくれる心に感謝した。
その日も何時もと変わらない1日の幕が開けた。
太陽の光が大地に射し込み、世界にとっては常と変わらぬ1日が。しかし妖精の国では一大祝典が始まる。
付き添いの女官達が、一人の娘を囲んで支度に取り掛かる。美しく化粧を施し、その長い黒髪を優雅に結い上げる。
素顔のままでも充分美しい娘が、更に輝かんばかりの美しさになり、その上これまた見事な衣装を身につけると、正に稀代の花嫁となった。
そんな彼女に侍女達は口々に褒め湛え、祝いの言葉を述べる。
花嫁は、侍女達の祝福を受けて、穏やかに微笑むだけであったが、誰もが幸福に見えた。
王子と姫の結婚式は、女王の前で執り行われる。
王宮の奧にある、婚礼の義の時にしか開かれない『悠久の間』にて、王族の結婚式は全て此処で、王が立会人となって執り行われるのが仕来りだった。
王宮の外では、妖精達が2人を祝福すべく押し掛けていた。彼等達は身分が低い為に宮殿に立ち入ることは許されていなかったが、式が執り行われた後に民の前に姿を現す2人を一目見ようと大勢集まっていたのた。
古今東西、得てして婚礼というのは、花嫁が主役である。
充分な時間を要する花嫁に比べ、花婿の方は楽なものである。主役の一人である王子は、既に祭壇の前に立ち、花嫁を待っていた。
祭壇の前には女王。式典の時にのみ使われる国王の証でもある豪奢な王冠を頂き、花嫁の到着を今や遅しと待ちかねていた。
「無事にこの日を迎える事が出来て、本当に良かった事。ねぇ、快斗」
待ちくたびれた女王が、畏まった表情を崩す事なく、快斗に話しかけてくる。既に『悠久の間』には、参列者が勢揃いしている。ずっしりとした重いだけの衣装を身に纏った快斗は、うんざりした顔を隠さずに溜息をついた。
参列者に背を向けているのだから、母親に取り繕った顔をする必要もない。女王よりも少し離れた所で待機している白馬が、あからさまに顔をしかめた。
暫くすると、花嫁の到着と共に、『悠久の間』の扉が押し開かれた。
姿を現した花嫁を見て、参列者は一様に息をのんだ。その美しさに目を奪われぬ者はいない。
細かな宝石をふんだんに縫いつけられた胸元に、幾重にも重ねられたドレスは優雅に広がりそれは裾まで続いている。
その純白の衣装に身を包んだ初々しい花嫁が、まるで恥じらうようにしずしずと入ってくる。
あくまでゆっくりと、しかし乱れることのない歩調で、敷かれた絨毯の上を歩き続け、そして花婿の隣で立ち止まった。
ベールの隙間から、花嫁が小さく微笑み掛けてくる。
しかし、それは恥じらいを含んだあどけない笑顔ではなく、何処かいたずらじみた微笑だった。
2人を迎えた広間は、水を打ったように静まり返る。式の始まりだった。
厳粛な顔をして、女王が高らかに式を執り行う宣言をし、若い2人の前で仕来り通りに事は進んでいく。
女性らしい良く通る声が、荘厳な雰囲気の中、朗々と響き渡る。
女王に比べ、当事者である2人の仕事は簡単なものだ。
彼女の問いに、只「誓います」と言えば良いのだ。2人がそれぞれ宣言して、そうして2人の婚姻は成立する。それまでは式の次第が進むのを黙って見ているだけだ。
延々と長い言葉の後、ようやく女王が新郎に問う。
「王国の定めに従いて、汝に問う。今よりのち、幸いにも、災いにも、富にも、貧しきにも、健やかなる時も、病める時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、死が二人を分かつまで、その命の限り堅く節操を守ることを誓うか」
快斗が顔を上げた。
それまで引き結ばれていた口唇を開き、快斗は予定通りに誓いの言葉を口にしようとした。
しかし、「誓います」とその言葉を吐こうとしたその時、まるでそれを遮るかのように突然快斗の身体が硬直した。
「……な、ん」
声が掠れて出せない。何時まで経っても誓いの言葉を口にしない快斗を不審に感じた青子が、隣を振り向いた。
「……快斗?」
青子の呼ぶ声に、快斗は応える事は出来なかった。身体が、まるで石に変えられていくような感覚が快斗を包む。それは徐々に足下から広がっていたのだが、立ち尽くしていたままの快斗はその変化に気付くのが遅れたのだ。
「快斗っ!!」
悲痛な青子の叫び声を最後にして、快斗は昏倒した
その時、広間に声なき声が脳裏に響く。
── 我が一族積年の恨み、今こそ成就せり。
Open secret/written by emi
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